記憶に全くない先代の福岡市庁舎

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 福岡市博物館の常設展示室に、福岡市の先代庁舎の写真があった。1923年(大正12)の完成で、1945年6月の福岡大空襲を生き延び、昭和後期まで現役の庁舎として使用されていた建物だ。福岡市に長年住み、市役所がある天神界隈にも頻繁に行っていたのだが、この庁舎に関する記憶が全くない。福岡市が1972年に政令市となって以降、区役所には行っても本庁舎に行く必要がなくなったためもあるが、それにしても記憶が完全に抜け落ちている。一目見て印象に残りそうな重厚な建物なだけに、自分でも不思議で仕方がない。

 『福岡市史』(大正編)によると、先代庁舎は鉄筋コンクリート造り地下1階・地上3階建てで、さらに建物の中央に2階建ての塔屋がある構造だったという。塔屋を含めた高さは約27㍍。完成当時、市内では飛びぬけて巨大な建造物だったようで、市史に収録されている1923年12月6日の福岡日日新聞記事には、「新庁舎は高さ約九十尺、建坪延千五百坪で、全市を眼下にへい睨する巨人の観がある」と書かれていた。

 役所がバカでかいのはこの国、とりわけ地方ではよくあることだが、この記事にはもっと面白い話も書かれていた。新庁舎完成を機会に、市職員の服装を洋装に統一する動きがあったというのだ。「錦を瓦に包むの誹を招かないよう、今から心掛け、市吏員の服装の如きも、現在では和服、洋服、制服等雑然として統一されていないのを制服又は洋服に一定すべく、目下各課長間で考究中で…」とあり、重厚な洋風庁舎に和装は似合わない、と当時の市幹部は考えたのだろう。この試みが本当に行われたかどうかはわからなかったが、これまた役所らしい話だと思った。

 庁舎建て替えに伴い、先代庁舎が取り壊されたのは1985年のことで、5月20日の解体作業初日、建設当時に埋め込まれた定礎箱が取り出されている。定礎箱とは一種のタイムカプセルで、中には先代庁舎の定礎式が行われた1923年3月15日付の福岡日日新聞、九州日報の2紙などが収められていた。黄ばんではいたが、保存状態は良好だったそうで、両紙には、定礎式の予告をはじめ、レーニン危篤、曲淵ダム完成で福岡市に上水道がひかれることになったため、松原水(博多で飲料水として人気を集めていた井戸水)の販売が3月限りで終了する――などの記事が掲載されていたという。なお、レーニンはこの時は持ち直し、翌年の1月に死去している。

 現庁舎の定礎式が行われたのは1988年4月2日。この時にも行政資料の他、当日発行の日刊紙、スポーツ紙を収めた定礎箱が埋め込まれた。この日の記事はどんなものがあったのか調べたところ、国の暫定予算案が提出されるというニュースが日刊各紙のトップ記事だったようだ。減税を巡って与野党が対立したため予算案成立が遅れ、竹下内閣が暫定予算案を出さざるを得なかったという中身だ。先代庁舎の定礎式当日の新聞に比べれば、あまり面白味のない記事だ。
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「カープ油津駅」を見てきた

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 お盆休み、宮崎県日南市に遊びに行き、今年2月に誕生したJR日南線の「カープ油津駅」を見てきた。駅自体は昔からあるが、広島カープのキャンプ地がこの駅のすぐ近くにあることにちなみ、駅舎が真っ赤に塗り替えられ、カープ油津駅の愛称が付けられた。カープが強いと駅まで真っ赤に染まるのかと感慨深かった。この駅舎を眺めている際に聞いたのだが、親族の青年が来春、日南に転勤予定だという。仕事場はこの駅近くで、宮崎市内にある自宅もJR駅そば。当然、日南線で通勤するのだろうと思ったが、マイカーで通う予定だという。山越えの県道(※)を通って片道1時間あまり。非常に体力を使う仕事のため、彼の家族は「日南に引っ越しさせた方がよいかも」と心配そうだった。

 自宅、仕事場とも駅近くにあるのに、列車通勤が選択肢にさえ入っていないのは、都会の人には実に不思議な話だろうが、日南線のダイヤを確認してもらえば、納得していただけると思う。朝の通勤時間帯、宮崎から日南方面に向かう列車は、早朝の5、6時台に各1本。私はまだ、布団の中にいる時間帯だが、これを逃すと、次は始業後の9時台になる。帰宅時間帯のダイヤは少しはましだが、それでも午後5~9時台、日南から宮崎に向けて1時間に1本走っているだけだ。残業で退社が遅くなれば、乗れない危険性さえある。あまりに融通の利かないダイヤを嫌い、「日南線での通勤は、ちょっと無理…」と、彼は話しているという。

 JR九州は今年3月、全線で117本も大減便するダイヤ改正を行い、利用客や沿線自治体から猛烈な反発を浴びたが、日南線も減便路線の一つだ。どんな路線かと言えば、宮崎市の南宮崎駅から鹿児島県志布志市の志布志駅までの約89㌔を結ぶ非電化単線のローカル線。運行列車の中には宮崎が始発・終点のものもある。鬼の洗濯岩で有名な日南海岸沿いを走っているのだが、過去に何度か乗った経験から言えば、車窓からその日南海岸が見えることは意外に少なく、むしろ山の中をトコトコ走っているイメージだ。

 沿線にはカープだけでなく巨人のキャンプ地もあり、プロ野球のキャンプシーズンには結構混雑することがある。また、青島、飫肥城などの観光地も沿線にはあるが、全体として利用客は非常に少ない。JR九州が公表している2017年度の輸送密度(平均通過人員)は774。これはJR九州22路線の中では、吉都線474、肥薩線507に次ぐワースト3だ。ちなみにJR九州の輸送密度トップの路線は、鹿児島線(門司港~鹿児島)の34,649、区間別では同線・小倉~博多の83,716(これとて首都圏の路線に比べれば、非常に少ない)。油津駅の利用者にしても一日平均で100人を超える程度。利用客が少ない→減便→不便になり、さらに利用客が減る――という負のスパイラルに陥っていることは容易に想像できる。

 JR九州は2016年10月、株式上場を果たした。利用客低迷が続けば、将来、株主から廃線を求められる恐れもあると危機感を抱いた日南市は、職員の宮崎出張は原則日南線を利用するなど、利用促進運動を進めている。しかし、沿線にある日南、串間市の人口推移を調べてみると、1955年には合併前の旧日南市、旧北郷町、旧南郷町と、串間市を合わせて13万人弱を数えていたが、2015年には7万2000人あまりまで激減していた。13万人でも多かったわけではないのに、沿線人口がこれだけじり貧の状態では、運動の効果も恐らく限定的だろう。日南線、吉都線の存続を危ぶむ宮崎県は6月、沿線自治体代表や有識者らからなる「みやざき地域鉄道応援団」なる組織を発足させ、路線維持のための方策を幅広く探り始めている。

 蛇足だが、冒頭の「山越えの県道」について。私のような中途半端に宮崎を知っている人間は、宮崎から日南に向かう際、日南海岸沿いを走る国道220号線を使いがちだが、大雨などで崩れ、度々通行止めになるこの道を地元民は敬遠し、旧田野町から山越えで日南に通じる県道28号線を利用することが多いらしい。
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阿蘇くじゅうでヒゴタイ開花

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 ヒゴタイがそろそろ開花を始める頃だと思い、熊本県産山村のヒゴタイ公園、大分県九重町のタデ原湿原を散策してきた。予想通り、るり色の球形の花が、阿蘇やくじゅうの山並みをバックに風に揺れていた。一見、涼しげな風景だが、下界よりはましとは言え、阿蘇くじゅうの高原地帯も酷暑だった。(写真は1枚目がヒゴタイ公園、2枚目がタデ原湿原)

 ヒゴタイは、阿蘇くじゅう地域では「盆花」と呼ばれるキク科の多年草。現在では絶滅危惧種にも指定される稀少な植物だ。ほぼ毎年、この花を見に阿蘇くじゅうに出かけているが、ヒゴタイ公園には今回初めて足を延ばしてみた。標高900㍍の高原地帯にあり、村の第三セクター、株式会社「うぶやま」が運営している。「村の花」であるヒゴタイのほか、四季折々の花が栽培されている自然公園で、キャンプ場なども併設されている。ただ、真夏のこの時期に開花している花は少なく、ヒゴタイが見頃を迎えるのももう少し先の様子だ。散策するのは、阿蘇に一足早く秋風が吹き始めるお盆過ぎの方が良いかもしれない。

 ところで、ヒゴタイの花は阿蘇くじゅう以外では見たことがないが、福岡県のレッドデータブックでも「ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高い」絶滅危惧IA類に指定されている。福岡県内のいったいどこにヒゴタイが生育していたのかと言えば、阿蘇くじゅうのような山岳地帯ではなく、宗像市の沖ノ島だという。昨年、世界遺産に登録された、あの玄界灘の孤島だ。阿蘇くじゅうと沖ノ島とではあまりに環境が違いすぎ、不思議に思えるが、かつては九州内の様々な場所にヒゴタイが広く自生していた証しなのだろう。

 1978年以降は採集記録がなく、沖ノ島ではすでに絶滅したと思われているが、北九州地区で1996年、数株が発見されたため、福岡県内での「絶滅宣言」は免れている。ただし、北九州地区ではこれ以前に採集・生育の記録がなく、レッドデータブックには「現存個体は植栽あるいは播種された個体に由来する可能性も否定できない」と記されている。
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日拝塚古墳出土の金製耳飾り

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 福岡県春日市の日拝塚古墳で1929年(昭和4)に起きた盗掘事件を以前取り上げたことがある(「日拝塚古墳盗掘事件」)。この事件で2,000点を超える副葬品が同古墳に眠っていたことが明らかになり、これらは全て帝室博物館(現在の国立博物館)に召し上げられたが、なぜか金製の耳飾り1点だけが地元の「奴国の丘歴史資料館」に展示されている。「(伝)日拝塚古墳」の但し書き付きで。なぜ「伝」なのかと言えば、この耳飾りは国立博物館から入手したものではなく、1984年、春日市が個人から買い取ったものだからだ。

 春日市が耳飾りを手に入れた経緯は次の通りだ。古物収集を趣味にしていた福岡市の男性が亡くなり、高齢の未亡人のもとに、男性が生前「これは日拝塚古墳の出土品だ」と話していた耳飾りが残された。貴重な文化財だと考えたのか、未亡人は春日市に譲渡を申し入れ、これを受けて市側は九州歴史資料館などに鑑定を依頼した。この結果、「国立博物館所蔵の日拝塚古墳出土品の中に、金製垂飾付耳飾(きんせいすいしょくつきみみかざり)があるが、形や細工が同一であることから、これと対をなしていた飾りにほぼ間違いない」ことがわかり、市は59万円で買い取ったのだ。(参考文献は1984年7月23日の読売新聞地方版記事など)

 耳飾りが福岡市の男性の手に渡った経緯の方は不明らしいが、盗掘事件のどさくさの中で何者かが秘匿し、巡り巡って男性のもとに渡ったものと思われる。日拝塚古墳の盗掘事件について改めて振り返っておくと、お宝を探し当ててひと儲けしようと企んだ3人組の男たちが1929年6月7日夜から翌未明にかけて、古墳の石室に侵入し、この時まで残されていた副葬品をごっそり盗み出した。しかし、古墳が荒らされたことに気付いた村人たちによって男たちはすぐに捕えられた。副葬品も無事だったが、当時の遺失物法に基づき、帝室博物館に送られることになったという。

 耳飾りは現在、奴国の丘歴史資料館の考古資料展示室のガラスケースに、他の展示品とともに並べられている。長さ8㌢、重さは22㌘程の小さなもので、金の輝きは保ってはいるが、展示品の中でそれほど目立った存在ではない。ただ、資料館近くの道路にあった案内板には、この耳飾りのイラストが描かれていたことを考えると、やはり春日市を代表する考古資料であり、資料館にとっても目玉展示品なのだろう。2,000点以上の副葬品が出土しながら、地元に残されているのは、いわくつきの耳飾り1点だけというのは寂しい限りで、せめて対となっている耳飾りぐらいは地元に戻してくれても良いと思う。

 奴国の丘歴史資料館は、『魏志倭人伝』などに出てくる奴国の王墓とされる須玖岡本遺跡の一角にある。小規模な資料館だが、一帯は歴史公園として整備され、弥生時代の甕棺墓を、発掘された当時の状態のまま保存・公開しているドーム型の覆屋2棟も併設されている。入館無料。


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ニイニイゼミを久しぶりに見た

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 福岡市中央区の西公園で、ニイニイゼミが「チィチィ」と鳴いていた。木を見上げて姿を探したが、見つけるまで、しばらく時間がかかった。このセミは羽も体も地味な茶色で、桜の木などにとまっていると見事な保護色になる。それでも虫捕りに熱中していた子供の頃は、簡単に見つけることができたものだが。私が子供だった昭和時代、福岡にごく当たり前にいたのはニイニイゼミとアブラゼミで、今では信じがたいが、クマゼミは稀少な存在だった。しかし、最近では鳴き声を聞くのも姿を見かけるのもクマゼミばかり。ニイニイゼミを見たのは本当に久しぶりだった。

 私が現在住んでいる地域では、朝起きた時にはすでに、クマゼミが「ワシワシ」と騒々しく鳴いている。クマゼミが静かになる午後には、アブラゼミが鳴き始めるが、数は圧倒的に少ない。ニイニイゼミの声を聞くことができるのは、西公園などそれなりの樹林がある場所だけで、市街地で聞くことはほぼない。私の子供時代とはセミの生息状況が大きく変わってしまったわけで、これは西日本の都市部では共通する現象のようだ。大阪府は大阪市内で2011年、セミの抜け殻調査を行ったが、見つかった抜け殻の98%がクマゼミだったという。

 クマゼミが圧倒的優勢になった理由については、<1>都市部の気温が上がるヒートアイランド現象により、南方系のクマゼミにとっては住みよい環境になった<2>孵化したばかりの幼虫でも土を掘り進む力が強いためアリの餌食になりにくい<3>飛翔スピードが速く鳥に捕食されにくいーーなどの説を聞く。様々な説があるということは、決定的な要因は解明されていないわけで、本当のところはまだ謎なのだろう。<2><3>についてはクマゼミがもともと持っていた能力なのだから、急に生息数が増えた理由にはならない気がするが。

 一方、ニイニイゼミが減った理由については、「ちょっと良い樹林が市街化で失われたため」との説を京都市職労などが唱えている。なぜ、セミの話に労働組合がかかわってくるかと言えば、京都では同職労が中心になって5年ごとにセミの抜け殻調査を行っていたためで、この結果に基づき、同職労は早くからニイニイゼミの減少を指摘していた。ただし、2010年の調査結果によると、ニイニイゼミの数はやや回復傾向にあるという。ネット上には、東京など他都市でも同様の傾向だとする報告があるが、少なくとも私の生活圏ではまだ、その気配は見られない気がする。

 小学生の頃、高学年になっても夏休みには虫捕りに明け暮れていたが、虫かごに入っていたのは、いつもニイニイゼミとアブラゼミだけ。冒頭にも書いたが、クマゼミがここに加わるのはまれだった。ツクツクボウシが鳴く頃は、さすがに虫捕りにかまける余裕はなくなり、仕方なく「夏休みの友」を開いていたものだ。手に入れる機会が少ない分、透明な羽を持ったセミの方が何となく貴重に思っていたが、不透明な羽を持つセミの方がむしろ少数派であることを大人になって知った。東日本でメジャーなミンミンゼミは、北九州の皿倉山など山中で鳴き声を聞いたことがあるぐらいで、憧れの存在だった。
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