大休と飢人地蔵
前回に続いて江戸時代の儒学者、貝原益軒が著した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』について取り上げたい。益軒はこの書の中で、福岡藩領の中でも特に眺望抜群の場所として那珂郡大休(おおやすみ)という場所を紹介している。木こりたちが荷物を下ろして一休みすることにちなんだ地名だそうで、現在の福岡市中央区南公園に当たる。動植物園などがある一帯だ。
益軒は「天下に名高き」須磨や明石、天橋立、厳島などの絶景も大休には及ばないとまで絶賛している。長く福岡に住んでいるが、ここから景色を眺めた記憶がない。早速、南公園の展望台に上ってきた。あいにくの曇り空だったが、それでも確かに抜群の眺めだった。中央区六本松の九州大教養部があった場所は広大な緑地となっており、ビル街の中で異彩を放っていた。無責任を承知で言わせてもらえば、無理に跡地利用などしなくても、このまま公園にした方が市民には喜ばれるのでないだろうか。
大休に関連し、六本松で夜な夜な見られる鬼火に関しても益軒は書き記している。鬼火と言っても、おどろおどろしい話ではない。「夏冬にかぎらず、夜々飛火あり、或は高く、或はひくく定る所なし。人近づく時は飛去て見えず。殊に雨夜に出る事多し、かならずしも毎夜見ゆるにはあらず」。福岡の人間は昔から見慣れているので、別に不思議と思っていないとも書いてあり、かなりユーモラスだ。『筑前国続風土記』の中には、六本松以外でも鬼火の話が複数出てくる。江戸時代は珍しいものではなかったのだろう。
眺めが素晴らしい大休は益軒の死から約20年後の1732年(享保17年)、悲惨な場所となる。この年、稲の病害虫(ウンカ、あるいはイナゴ)の大発生により西日本一帯は大飢饉に襲われ、福岡藩では領民の3分の1に当たる約10万人が餓死したと伝えられている。福岡藩は海辺にお救い小屋を設け、粥を施したが、飢えて体力を失った農民たちにとって大休越えは想像を超える難業だったに違いない。多くの者がここで力尽き、倒れていったという。
1965年ごろ、一帯のヤブを刈り取ったところ、埋もれていた飢人地蔵と供養塔が発見され、この場所での悲劇が明らかになった。地蔵は餓死者を悼むために建立され、江戸時代は手厚く供養されていたが、明治維新後、祭る人もいなくなり次第に忘れられていたらしい。発見後は地元町内会が世話をすることになり、今も毎年4月4日には供養祭が営まれている。写真の真新しい地蔵は、平成になって新しく建立されたものだという。
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筑前国続風土記が面白い
前回取り上げた丸隈山古墳について調べる中で、福岡藩の儒学者・貝原益軒(1630~1714)が著した『筑前国続風土記』を一部参考にした。益軒が晩年、福岡藩領内をくまなく歩いて書き上げた地誌で、活字本を図書館でパラパラめくっただけなのだが、これが意外に面白かった。福岡、博多の町や郡ごとに地勢、産業、地名の由来、歴史、言い伝えなどがコンパクトにまとめられている。福岡の古い物事を調べるにはまたとない本のようだ。
興味深かったのは、各郡に対する益軒の評価にずいぶん差があることだ。評価が高いのは、現在の朝倉市の一部に当たる上座郡。「國中第一の膏腴(こうゆ=土壌が肥えていること)の地にして、種植の利他所に倍せり。(中略)最上郡なり」と地勢を誉めたうえで、住民についても「民俗質實にして菲薄ならず」と激賞している。
これと対照的なのが怡土郡(現在の糸島市の一部)。ここも地勢については「田地廣く山川美にして」と好意的なのだが、住民については以下のように相当辛辣だ。「村民に原田家士の子孫多し。田夫といへ共、言語いやしからず。頗世事に馴たり。唯恨らくは、風俗質朴ならず。誠實少なし」(あくまでも『筑前国続風土記』の記述なので、現在お住まいの方はご容赦を)。
原田氏とは鎌倉時代から戦国時代にかけて糸島地方を治めた一族で、高祖山に城を構えていた。秀吉の九州征伐の際、秀吉か島津か迷った末に島津側に付き、秀吉に所領を没収されている。戦国を生き抜こうとした小大名の有り様としては珍しくないように思えるが、あるいは益軒のジャッジは厳しかったのだろうか。原田氏に対する評価が怡土郡住民に対する評価につながっているようにも思える。
このほかでは、興味深いというより不思議に思ったのが元寇防塁についての記述だ。総説で益軒は「博多の濱に石垣を築し事は、上代よりありし石垣を修補したるなり。此時始て築たるには非ず」と記している。博多の海浜には古代から石垣が築かれていたと言っているのだ。初耳の内容だが、益軒がまったく根拠のない記述を、まして総説でするとも思えない。謎である。
写真は益軒の墓所がある福岡市中央区今川の金龍寺。最近、立派な山門が出来た。この寺は前述の原田氏が創設した寺で、もともとは怡土郡にあった。原田氏が所領を没収された後、寺の存続が危ぶまれるようになり江戸時代に現在地へ移って来たという。
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丸隈山古墳の石室
福岡市西区周船寺にある丸隈山古墳の石室を見てきた。古墳時代中期、5世紀前半に築造された前方後円墳で、墳丘全長は85m。福岡市内では最大規模の古墳だ。石段を登った先に広場があり、後円部の中央に当たる場所に横穴式石室が残されている。鉄製の扉越しに石棺が置かれた内部を見学できるが、こんな古墳は全国でも数少ないらしい。
石室や石棺については説明板(一番下の写真、クリックで拡大)を参照していただきたいが、石棺の構造も珍しいものだと紹介されている。むき出しの状態で良く石室が残っていたものだと感心したが、現在の姿は1927~8年(昭和2~3年)に復元されたものだという。
この古墳が発掘されたのは江戸時代初期の1629年(寛永6年)のことで、貝原益軒が著した『筑前国続風土記』には「村民新蔵といひし者、村の南道路の上なる丸隈山と云所に、石棺あるよし夢にみて、八月廿一日より掘りかかり…」と発掘の経緯が紹介されている。言い伝えでは、この時に小仏像が出土したため、これを祭るお堂を石室内に設け、信仰の対象になっていたという。昭和初年の復元は、お堂が朽ちたことがきっかけだったようだ。
古墳が築造されたのは仏教伝来(538年、または552年)よりも1世紀以上も前のことだが、半島とのつながりが強い地域だから、伝来以前に仏像がもたらされることもあり得るかもしれない。ただし、説明板にもあるように、副葬品の中に仏像があったとの記録はない。
同古墳は石室復元が終わった1928年に国史跡に指定されているが、これは福岡市では最も早い。現在の文化財保護法施行は1950年だから、旧法(1919年施行の史蹟名勝天然紀念物保存法)下での指定だ。福岡市域では最大規模とはいえ、同じ古墳時代中期に造営された畿内や岡山の巨大古墳と比べれば、小さな古墳だが、良し悪しは別にして巨大古墳の多くは「陵墓」という形で保護の網がかけられている。この古墳のすぐ西側にJR周船寺駅があるが、駅開業は1925年(大正14年)だ。あるいは開発の波が押し寄せ、住民の尊崇を集める古墳の先行きが懸念されたため、史跡指定が急がれたのかもしれない。
丸隈山古墳は2004年、他の6基の前方後円墳とともに今宿古墳群として改めて国史跡に指定されている。同古墳の南にある高祖山(地図参照)の麓には計350基もの古墳が残され、研究者はこの山を「墳墓の山」とも呼んでいるようだ。これほどの規模の古墳群を残しながら、被葬者が何者かは謎らしい。
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サザエさん通り
日本で2番目の「サザエさん通り」が福岡市早良区に誕生するらしい。別に新しい道路が開通するわけではない。明治通りの脇山口交差点から西新通り、よかトピア通りを経由して福岡タワーに至る道筋に区が愛称を付けるのだという。
原作者の長谷川町子さんが戦時中の一時期、疎開でこの付近に住んでいたことがあり、『サザエさん』のアイデアを思い付いたのは百道の海岸を散歩中だったことは良く知られている。西新通りとよかトピア通りとの交差点の一角(長谷川さんが住んでいた当時は海岸だった場所)には「サザエさん発案の地」の碑が建てられ、「磯野広場」と名付けられてもいる。
こういった歴史や現状もあり、著作権を管理している長谷川町子美術館も名称使用にOKを出したようだ。ちなみに日本最初の「サザエさん通り」は作品の舞台と言われる世田谷区の桜新町商店街だ。
福岡の「サザエさん通り」命名は区が主導したわけではなく、地元のまちづくり団体が希望したのがきっかけだという。新聞報道によると、この団体の代表は「街の活性化につながれば」と述べたというが、この言葉に少々違和感を持った。下の地図を見てもわかるように、通り沿いにあるのは県立修猷館高校や西南学院大学、西新小学校、あるいは博物館や図書館などだ。しかも周囲は閑静な住宅街。
活性化なる言葉が何を意味するかは正確には分からないが、「活性化=にぎやかさ」であるならば、住民の中には迷惑に思う人さえいるだろう。活性化が狙いならば、むしろ西新商店街あたりに「サザエさん通り」の愛称を付ける方が良い気がする。本家の桜新町と商店街同士交流を進めることも出来るだろう。命名を提案したまちづくり団体代表は西新商店街の関係者のようだが、それでは何か差し障りでもあったのだろうか。
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下之橋御門公開
福岡城の下之橋御門が3、4日の2日間、午前10時から午後3時まで一般公開されている。普段から自由に通り抜け可能だが、この2日間に限っては2階部分に上がることができる。2階には板の間が2部屋と廊下があり、想像以上に広かった。配布資料によると、2階部分の幅は12m弱(資料の記述は6尺5寸×6)、奥行きが6m弱(同6尺5寸×3)なので、広さ約70平方mといったところ。風呂やトイレ、キッチンがあれば、十分生活できそうだ。
福岡城には往時、上之橋、下之橋、追廻橋の3橋にそれぞれ門があり、下之橋御門は主に奥方やお女中の出入りに使われていたという。勝手口みたいなものだろうか。ご記憶の方も多いと思うが、この門は2000年8月15日に一度、不審火で焼けている。この当時には2階部分はなかった。
復元のため、市教委が門をいったん解体して調べたところ、本来は2層構造の櫓門で、明治時代の改築により2階部分が取り払われたらしいことがわかった。そこで上之橋御門(現存していない)の古写真なども参考に復元工事が進められ、2008年11月に現在の門が完成した。
建造物がほとんど残っていない福岡城跡なので、立派な門が再建されたのは喜ばしいが、だからといって不審火が許せるものではない。再建費用は3億円にも上っている。火事の真相は結局不明だったが、火の気のない建物が焼けたのだから、放火、あるいは失火の疑いが極めて濃いだろう。門の2階には火事の生き証人、真っ黒に焼け焦げた建材や瓦が展示されていた。
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