円形劇場と嫩葉会

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 福岡県うきは市の「道の駅うきは」敷地内に昨年12月、完成した円形劇場を見学してきた。1925年(大正14)11月、地元(当時は山春村)の農民劇団「嫩葉(わかば)会」のため、村人たちが総出で造り上げた野外劇場。それから約90年がたち、劇場は跡形もなく風化したものと思われていたが、2015年の発掘調査で遺構が確認され、市が復元を進めていた。この劇場について初めて知ったのは2014年8月、遺構が確認される前のことで、この時は行政ではなく地元有志が復元を模索していた段階だった。関係者から立ち話で復元プランを聞き、興味深い試みだと思って、「うきはの円形劇場、復元を検討」で取り上げた。遺構が確認された際にも「遺構が残っていた円形劇場」を書いたが、これほどとんとん拍子で復元が進むとは、予想外だった。

 嫩葉会は、山春村の医師だった安元知之(1890~1927)が、地元の若者たちから「農作業に明け暮れるだけでなく、文化的な楽しみも持ちたい」と懇願され、1923年(大正12)に結成した劇団。日本初の農民劇団とも言われている。安元宅の二階大広間を改造した舞台で、旗揚げ公演の菊池寛作『屋上の狂人』を上演して以降、農作業の合間を縫って2か月に1度の公演を行っていたという。

 最初、周囲の村人の目は冷たかったと言われるが、徐々に人気が沸騰、安元宅では手狭になったことから、「野天(のてん)公会堂」と呼ばれた円形劇場が整備されることになった。直径10㍍程度の小さな半円形の舞台を取り巻く形で、階段状の観客席が丘の斜面に配された構造。復元された観客席からは筑後平野や背後の山々が見渡せ、ここでの観劇は、さぞかし趣があったことだろう。

 ただし、嫩葉会は実際にはこの円形劇場で公演を行わなかったと伝えられている。もともと病弱だった安元は病に倒れ、1927年1月に37歳の若さで死去。指導者であり、精神的支柱だった安元が倒れた後、会の活動は下火となり、同年8月には解散を選んだ。円形劇場について紹介する、うきは市教委発行のパンフレットには「この劇場が嫩葉会によって使われることはありませんでした」と記されている。

 しかし、劇場完成の翌年に当たる1926年2月、作家の湯浅真生が『農民劇場の問題―嫩葉会の功績と意義』と題した評論を読売新聞文化面で4回にわたって連載しているが、この中に“野天劇場”での公演についての記載があるのだ。以下に引用する。

 その年の十二月には村人達の希望(室内では少数の者より観ることが出来ない処から)によって、安元氏宅の附近の畑に野天劇場を作って、菊池氏の『父帰る』『袈裟の夫』『恩讐の彼方に』、武者氏の『わしも知らない』『或る日の一休』、額田氏の『真如』、ダンセニーの『光の門』を二日に亘って上演した。この時には既に舞台だの、小屋がけだのは、一切村人達の手によって作られたのである。

 最初は冷たかった村人たちが嫩葉会の熱烈な理解者になってくれたことを紹介した一文で、文中の「その年」とは円形劇場が完成した1925年を指している。文章をそのまま読めば、嫩葉会がその年の12月に円形劇場で公演を行い、2日間で『父帰る』など7作品を上演したことになる。ただ、2日間で7作品では、あまりに多すぎる気がする。湯浅自身は公演終了後に山春村を訪ね、取材したことを明らかにしている。実際に公演を観たわけではないため、あるいは聞き間違いがあるのかもしれないが、こういった証言があることを無視はできないだろうと思う。

 また、円形劇場の完成から安元の死去まで、1年以上の期間があるが、嫩葉会の活動はこの間、完全に停止していたのだろうか。会解散後の1927年12月、湯浅がやはり読売新聞に寄稿した別の評論には「嫩葉会では安元氏の病臥後も青年達自身の手で試演を行ったこともあったのだが、従来の成績と較べて全然失敗に終わったばかりでなく、その後会員達自身が指導者がいない為に演劇に対する興味さえ失っていくような結果となったのであった」と、嫩葉会が安元抜きで公演にチャレンジし、そして失敗に終わったことが書かれている。公演場所がどこかは明記されていないが、嫩葉会のために整備された円形劇場だった可能性は十分あるのではないだろうか。

 嫩葉会関連の出来事を時系列で記すと以下のようになる。
  • 1923年04月 嫩葉会結成
  • 1925年11月 円形劇場完成
  • 1926年02月 湯浅真生『農民劇場の問題―嫩葉会の功績と意義』連載
  • 1927年01月 安元知之死去
  • 1927年08月 嫩葉会解散
 道の駅うきはの敷地内に、復元前から設置されている円形劇場についての説明板には、劇場が「数千人が一堂に会される」規模だったことが記されているが、実際に確認された遺構は、せいぜい200人が座れる程度の小規模なものだった。嫩葉会解散から約90年、会についての記憶も円形劇場も風化していく中で、誤った情報が色々と伝えられてきた可能性があるのではないかと思う。再び円形劇場が姿を現した今、地元では安元知之と嫩葉会について再評価が進んでいる。
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映画『陸軍』に見る大空襲前の福岡

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 戦時中、福岡で撮影された映画『陸軍』を最近見た。1944年12月に公開された作品で、45年6月の福岡大空襲で焼け野原となる以前の街並みが記録されているため、福岡では歴史資料としても評価されてきた。初めて実写フィルムで見た44年当時の福岡市中心部は想像していた以上に近代的だった。

 映画は木下恵介監督、出演者は田中絹代、上原謙、笠智衆ら。タイトルからは戦闘シーンを連想してしまうが、小倉から博多に移り住んできた一家を描いた作品で、物語の最後では、一家の長男が所属する部隊が中国大陸に派遣されることになり、市内を行進しながら出征していく。多数の市民が日の丸を振って歓呼の声を上げる中で、一人母親(田中絹代)だけは時折涙をぬぐいながら長男を追い掛け、最後は両手を合わせて無事を祈る場面が印象的だ。

 このラストシーンが撮影されたのが、福岡市中心部。部隊が行進していく現在の明治通りにはモダンで、意外なほど大きな建物が建ち並び、呉服町交差点を右折した後は路面電車も映っている。私が確認できたのは、母親が見送りに急ぐ場面に映る、現在も残る赤煉瓦の旧日本生命九州支社(現・福岡市文学館、写真)とその隣の水鏡天満宮の社叢、遠目に映る県公会堂貴賓館の尖塔らしきものぐらいだが、千代田生命、三菱銀行などの建物が次々に登場するらしい。まだビデオソフトが普及していなかった時代、福岡市はこの映画のフィルムを購入し、古い街並みの調査に活用していたとも聞く。

 『陸軍』の原作は、朝日新聞に連載されていた火野葦平の小説。同新聞の縮刷版をめくり、連載を探し始めたのだが、途中で気が変わり、福岡大空襲についての当時の報道を調べてみた。45年6月21日の紙面に「福岡へ六十機」の見出しで以下の記事があった。

 西部軍発表(昭和二十年六月二十日六時)
 一、マリアナ基地の敵B29約六十機は六月十九日二十二時三十分頃より六月二十日午前零時三十分頃までの間、宮崎県東方海面より単機または少数機編隊をもって逐次九州本土に侵入、約二時間に亘り、福岡市に対し主として焼夷弾による攻撃を実施せり
 一、別に同時頃豊後水道より侵入せる敵B29約十機は関門付近に機雷を投下せり
 一、福岡市内各所に火災発生せるも軍官民の敢闘により二時三十分頃までにその大部は概ね鎮火せり

 被害が本当にこの程度で済んでいたら、『陸軍』に登場した街並みはもう少し後の時代まで生き残り、少なくとも映像や写真程度は多数残されていたことだろう。現実には229機ものB29が福岡に襲来し、『福岡市史』によると、926人の死者・行方不明者(資料によって数字が異なる)を出し、当時の市の総面積の3割、被害が大きかった中心市街地では地区によっては9割が焼失している。
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九州電灯鉄道の痕跡

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 先日、福岡市中央区内を散策していた際、鳥飼神社に「九州電燈鐵道株式會社」と刻まれた石柱があることに、うかつにも初めて気付いた。十数年前から頻繁に通っている場所なのだが、例によって自分の観察力のなさに呆れるばかり。それはともかく、九州電灯鉄道とは、西鉄の路面電車(貫線)の前身に当たる福博電車を一時経営していた会社で、もう一本の石柱には大正2年(西暦では1913年)12月吉日に建立したと刻まれている。貫線は1975年に廃止され、九州電灯鉄道の痕跡は市内にはほとんど残っていないと思われるだけに、この石柱は案外貴重なものかもしれない。

 九州電灯鉄道は1896年(明治29)から1922年(大正11)まで、福岡市にあった電力会社兼電鉄会社。運行していた福博電車は現在の東区箱崎から中央区今川橋までを結び、今川橋で北筑軌道(今川橋~加布里)と連絡していた。今川橋の一つ手前の電停が地行西町で、ちょうど鳥飼神社の裏手にあった。石柱は、騒音などで迷惑をかける沿線に対して謝意を表したものだったのだろうか。

 地行西町は現在の中央区地行2、3丁目に当たり、この一帯を九州電灯鉄道は貸し邸宅地として開発していた。大正時代に出版された『現在の福岡市』(1916)には「巍然たる高楼櫛比し、壮麗なる庭園は細波静かなる湾内の雲烟に和して宛然たる一城廓をなす」と漢文調で当時の様子が記録されている。広壮な庭を持った豪邸が建ち並んでいたというわけで、この豪邸の中には、当時の同社役員の一人で、後に「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門(1875~1971)の屋敷もあった。この屋敷跡は後に日本興業銀行の寮となったが、現在は分譲マンションが建っている。

 西の終点の今川橋電停は樋井川に面し、この樋井川河口を同社が埋め立て、海水浴場や納涼場として整備していたことを
「樋井川河口にあったものは」で取り上げたが、同社はこのほかにも伊崎浜(最寄りの電停は黒門)で海水浴場を運営していた。また、西公園電停近くにあった菊人形の展示館・黄花園も同社の施設だったと思われる。

 貸し邸宅に娯楽施設と、沿線開発には相当積極的な会社だったようで、また、他社との合併も精力的に繰り返し、九州電灯鉄道は大正時代には「今や九州第一の大会社となれり」(『株式大鑑』1916)と評されていた。しかし、その大会社も1922年には関西電気との合併で解散し、それから1世紀近くがたった現在、沿線にあった施設は全て跡形もない。伊崎や地行の海水浴場に至っては、大規模な埋め立てにより海岸自体が消滅した。
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博多湾のノリ養殖と猪野銅山

19750304国土地理院

 国土地理院が1975年(昭和50)に撮影した博多湾の航空写真に、有明海みたいな風景が写っていた。シーサイドももち埋め立てで消滅した百道海水浴場のすぐ沖に、ノリ網が多数設置されているのだ。こんな市街地に近い海域で、昭和後期まではノリ養殖が行われていたのかと少し驚いた。博多湾のノリ養殖は現在、姪浜で続いているだけだが、かつては湾内で広く行われ、「博多湾ノリ」のブランドで各地に出荷されていたという。(写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから)

 福岡市漁協発行の『福岡市漁村史』(1998)によると、博多湾のノリ養殖は1894年(明治27)、箱崎の山崎親次郎という人物が多々良川河口の湾奥部で取り組んだのが始まり。湾内の漁業は冬季にほとんど水揚げがなかったため、漁業者の冬季の副業にしたいとの考えだった。その後、県水産試験場の指導もあって技術が向上すると、1902年頃には多い時で1日1万枚の生産量があったという。しかし、養殖開始翌年の1895年、多々良川上流の猪野(久山町)に銅山が開発され、その鉱毒が湾内に影響を及ぼし始めると、生産量は著しく減少。さらに1911年には、現在の東区名島にあったノリの加工場が火災で焼失し、博多湾のノリ養殖の歴史はいったんは途絶えた。

 再開のきっかけは、第一次大戦後の不況で猪野銅山が1919年(大正8)に閉山し、湾の水質浄化が進んだことで、戦後になると、博多湾のノリ養殖は東は多々良川河口から西は室見川まで拡大した。だが、1981年(昭和56)に始まった博多港の港湾整備により養殖場が次々に消滅していき、ノリ生産量は急速に減少していったという。上の写真が撮影されてから数年後には、博多湾の幾何学模様はほぼ姿を消したことになる。百道海水浴場沖も1982年から埋め立てが始まり、新たな街に姿を変えた。

 博多湾のノリ養殖の歴史を駆け足で記したが、意外に気になったのは、ノリ養殖を一度は中断に追い込んだ猪野銅山についてだ。久山町の歴史には疎いため、存在自体を知らなかった。そこで『久山町誌』(1996)をめくってみたが、それによると、1877年(明治10)頃から町内数か所で銅採掘が始まり、中でも猪野鉱山の中河内鉱は規模が大きく、鉱脈の露出も多い鉱山だった。銅鉱は博多港や現在の東区土井まで馬車で運搬され、その後は船や鉄道で下関・彦島や大分・佐賀関にあった精錬所に運ばれていた。閉山は、猪野鉱山が前記のように1919年、その他の銅山も戦前までには操業を停止したが、これらの廃鉱が水質汚染の原因となり、ようやく1975年になって鉱害防止工事が進められたという。

 町誌にはこのほか、1898年(明治31)頃には銅山の景気が特に良く、給料が高いのを羨んだ小作農たちが次々に銅山で働き始めたため、作付けができなくなり、地主たちが苦慮していたことなどが記されていた。しかし、銅山の経営者、最盛期の生産量や従業員数、鉱害の具体的な内容などついての情報はなく、今一つ銅山の実態をつかめなかった。『福岡県史』など他資料も当たってみたが、福岡県内の鉱業については炭鉱に全てのページが割かれ、銅山についての言及はゼロだった。機会があれば、猪野銅山の廃鉱探索でもしてみたいと思うが、現状はどうなっているのだろうか。
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わがままになって福岡から帰ったパンダ

 上野動物園で誕生したパンダの赤ちゃん、シャンシャン(香香)が大人気だが、福岡市動物園にも以前、中国から貸し出されたパンダの中にシャンシャンがいた。もっとも、こちらはオスで、漢字では珊珊と書いた。福岡に来た時はすでに25歳で、相方だったメスのパオリン(宝玲)も17歳と、結構な高齢カップルだった。パンダ来日はちょうど私が学生時代のことで、せっかくパンダが福岡に来たのだからと、同級生と男ばかり十数人で見に行ったが、可愛いと言うよりも「妙に堂々としているな」というのが正直な感想だった。

 シャンシャン、パオリンは福岡市と中国・広州市との友好都市締結1周年を記念して貸し出され、1980年4月1日から5月31日までの2か月間、特別公開された。期間中、福岡市動物園には現在の年間入園者に匹敵する約87万人が詰めかけるなど大変な人気を呼んだのだが、先日、古い新聞記事で、この2頭についての面白い後日談を読んだ。福岡から広州に帰ってきた2頭はわがままになっていたというのだ。

 新聞記事とは、
「続・樋井川河口にあったものは」で紹介したフクニチ新聞の連載記事『町名物語ルーツわが町』の「南公園、小笹、平尾」編で、これによると、広州市動物園に戻ったシャンシャン、パオリンの2頭は行儀が悪くなり、言うことを聞かなくなっていたという。原因は、福岡で厚遇され、甘やかされていたため。帰国前日の6月1日、広州市の飼育班が檻を用意するなど帰国準備を始めると、これに気付いたパオリンは食べていた竹を放り出して運動場を狂ったように走り始め、その姿は「帰りたくない」と駄々をこねているようだったとも記されていた。

 非常に面白いエピソードと思ったが、念のために公開当時の新聞記事等も当たってみたところ、シャンシャン、パオリンは福岡滞在中、決して甘やかされていなかったという記事も見つかった。前述のように、広州市動物園の飼育班が2頭と一緒に来日しており、彼らは午前9時を過ぎると、2頭のお尻を青竹でたたいて運動場に追い出し、汚れるとせっけん水をかけてブラシでごしごし洗っていた。貴重な動物だから、ガラス細工を扱うように飼育していると思っていた福岡市動物園の関係者は、あまりの手荒さに度肝を抜かれた程だったという。

 もっとも、この2頭のためにパンダ舎(寝室各20平方㍍と運動場が150平方㍍)を新設したり、広州産によく似た笹を毎日沖縄から空輸したりと、至れり尽くせりの待遇だったのも事実で、広州流のスパルタ飼育は同じながらも、どこかで居心地の良さを感じていたのかもしれない。また、2頭とともに福岡市動物園に派遣されていた飼育員が昨年6月、広州紙の取材を受け福岡での思い出を語っているが、インターネット上にある日本語版の記事には「広州は暑い。パンダは暑がりで、福岡のほうが涼しいから、パンダはそこがとても気に入っていた」とあった。わがままになって帰ったかは別にして、2頭が福岡を気に入ったのは、やはり事実のようだ。

 なお、パンダ貸し出しはもちろん無償というわけではなく、福岡市はお返しとして広州市にジェットコースターを贈ったという。この費用を賄うため、パンダ公開期間中の入園料は100円増しだった。
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