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# 遅れる旧高宮貝島邸整備

旧貝島邸

 福岡市南区高宮に残る炭鉱王一族の邸宅跡「旧高宮貝島邸」の整備計画がようやく固まったらしく、各紙地域版で相次ぎ紹介されていた。それによると、福岡市は民間企業の力を借り、旧貝島邸をレストラン等を備えた迎賓館的施設に改装し、4年後の2021年度オープンを予定しているという。

 これには驚いた。福岡市がこれまでに明らかにしてきた想定スケジュールでは、2016年度中には整備・運営を担当する企業を選んだうえで設計まで完了、17年度から工事に取り掛かり、18~19年度には開園予定となっていたからだ。つまり全体スケジュールは2~3年遅れるということになる。今年2月、事業が予定通り進んでいないのではないかと疑い、
「旧高宮貝島邸の現状」の中で、「炭鉱王一族の豪邸を目に出来る機会が、また遠のかなければ良いのだが」と書いたのだが、悪い予感は当たっていたようだ。

 旧高宮貝島邸について改めて紹介すると、貝島炭砿の創業者・貝島太助を支えた弟・嘉蔵の屋敷跡で、1915年(大正4)に直方市に建てられ、27年(昭和2)に現在地に移築されてきた。1.9㌶の広大な敷地の中には母屋、茶室、衣装蔵の3棟約670平方㍍が現存し、このうち母屋と茶室は今月、「市内有数の大規模な近代和風建築であり、石炭業全盛時の歴史を伝える貴重な建造物」として市の登録文化財にもなっている。

 670平方㍍の屋敷とは驚くべき広大さだが、これでも2001~02年に一部建物が解体され、移築時の半分以下になっているという。「炭鉱王の大邸宅」の代名詞ともなっている飯塚の伊藤伝右衛門邸が1,020平方㍍というから、これをも上回る規模だったことになる。敷地は約23億円で市が購入、建物は貝島家から寄贈を受け、市は一般開放するため、2015年度から整備案の検討を始めていた。この時には「2017年度開園」という報道もあった。

 なぜ、これほど遅れたのか。どの新聞にも「21年度オープン」とさらっと書かれているだけで、遅延の理由についての説明はないが、要するに想定スケジュールが甘かったということなのだろう。旧貝島邸クラスの整備・運営を任せられる民間企業となると、地場では数が限られる。例えば、有力候補として思い浮かぶのは、高島市長と“蜜月”の関係とも噂される某私鉄あたりだ。何の根拠もないが、スケジュール等について企業サイドから否定的な声でも上がったのだろうか。根拠のない話を書くなと言われそうだが、私のような部外者はともかくとして、旧貝島邸のオープンを心待ちにしている地元関係者も少なくないのだから、市はもう少しきめ細かに情報発信して欲しいところだ。

 旧貝島邸の整備・運営を民間に委ねることについては、市議会内には「歴史的建築物を後世に伝えていけるのか」と否定的な声もある。確かに、伊藤伝右衛門邸は建物や庭園を含めた屋敷全体が資料館となっているだけで、レストランなどは併設されていなかった。伝右衛門邸と同じく、来館者には近隣で食事をしてもらった方が地域経済にとってはベターではないかと思うが、福岡市はとしてはもっと観光色の強い施設整備を望んでいるのだろう。写真は旧貝島邸の現況で、市の発表資料から拝借した。
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# 面影を失った赤れんが塀

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 福岡市中央区の簀子小学校跡地にある赤れんが塀が改修工事で大幅に低くなり、もはや塀とは呼べない状態になっている。以前の赤れんが塀は長さ約90㍍、高さ1.3㍍で、学校跡地と隣接する簀子公園との間を区切っていた。福岡大空襲で焼け残った、市内では数少ない戦争の生き証人だったが、この一件を報じた西日本新聞記事よると、一部がたわみ、緩んでいたため、市が「地震で崩れたら危険」と一部を取り壊し、大半の部分は40㌢の高さにまで低くしたという。以前通り高さ1.3㍍のまま残されたのは東側のごく一部に過ぎない。

 福岡大空襲とは1945年6月19日深夜から翌日未明にかけ、マリアナ基地から飛来した221機のB29による無差別爆撃を指し、これにより福岡市域の3割が焼失した。死者・行方不明者数は資料によって数字がまちまちだが、『福岡市史』第3巻昭和編前編上(1965)には、死者691人、行方不明者235人と記録されている。

 中でも被害が大きかったのが博多部では奈良屋校区、福岡部では大名、簀子校区で、『火の雨が降った―6・19福岡大空襲』(福岡空襲を記録する会、1985)によると、簀子では民家1,885戸のうち、90%に当たる1,700戸が焼失、犠牲者は死者143人、行方不明13人、負傷者242人に上った。この時、簀子小学校校舎も全焼したが、赤れんが塀だけは焼け残り、戦後1947年に簀子公園に建立された犠牲者の供養塔とともに、大空襲の記憶を伝えていた。

 『火の雨が降った』の口絵には、終戦直後、簡易保険局の屋上から撮影した簀子地区の写真が掲載されているが、焼け野原の中に赤れんが塀がはっきり写っており、以前は簀子小の敷地全体を取り巻いていたことがわかる。つい先頃まで現存していた長さ90㍍はわずかに残った一部だったわけだが、それさえも「危険」という理由で保存を許されなかった。確かに安全は一番大事なことだが、ひと手間を掛けるのならば、取り壊しではなく補強工事で現状保存を図るという選択肢はなかったのだろうかと思う。福岡市は近代遺産に緩やかな保護の網をかけるため2012年度、登録文化財制度を創設しているが、こういった遺構を守らずして、いったい何を守るつもりなのだろうか。

 文中に紹介した供養塔は住民有志によって建立されたもので、これには簀子地区の犠牲者は176人と刻まれ、その傍らに近年、中央区役所が設置した説明板にも同じ数字が記されている。説明板には、簀子地区の被害が大きかった理由について、近くの福岡城址に歩兵第24連隊が置かれていたため「集中的に攻撃され」と書かれているが、この説明板以外では見たことがない記述だ。

 『火の雨が降った』には、米側の公文書『作戦任務報告書』の翻訳が収録されているが、これには米側が「福岡市の半月形の市街地の中心のもっとも燃えやすく産業が集中している三・六平方㍄(九・二平方㌔)で多くの重要目標が単独または重複して四,〇〇〇㌳の誤差確率園内に含まれるよう二つの攻撃中心点を設定した」とある。この攻撃中心点とは天神と中洲だったようだ。簀子への攻撃が激しかったのは歩兵24連帯が原因ではなく、天神に近接していた、あるいは天神と誤認されたためではないだろうか。


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# 突然起きた神社の砲弾騒動

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 各地の神社に古くからあった砲弾が今月、突如として不発弾扱いされるようになり、「爆発の恐れあり」と撤去騒ぎが起きている。私も以前どこかの神社で見た記憶があり、探してみたら上の写真が見つかった。福岡市西区の今山遺跡(石斧の産地跡として山全体が国史跡になっている)を散策した際、山上の熊野神社で撮影したものだ。本殿脇に遺棄されたも同然の状態で置かれていた。ただ、石の台座らしきものに設置されているところを見ると、元々はそれなりの由緒があったのだろう。

 今回の騒ぎの震源地は大分県で、新聞報道などによると、杵築市の神社を訪れた男性が野ざらし状態の砲弾を見つけ、警察に通報したのが発端だという。自衛隊の調査で“信管がついた旧日本軍の不発弾”と確認され、これを受けて大分県神社庁が県下の神社に対し、砲弾の有無を確かめるよう通達。「ある」との報告が続々と寄せられ、騒ぎが広がった。一部新聞は過去に起きた不発弾爆発事故を持ち出し、不安をあおっていたが、そのすべては地中に埋まっていた不発弾によるものだ。神社等に置かれていた砲弾が爆発したケースが本当にあるのか、知りたいのはそこなのだが。

 砲弾の多くは年代不明だったというが、新聞等には「日清・日露戦争に従軍していた兵士が帰郷後、戦勝記念などとして奉納したのではないか」という研究者のコメントが載っていた。台座に「征露記念」などと刻まれていた例もあったというから、その通りなのだろう。ただ、国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブを漁ったところ、別のケースもあり得ることがわかった。地方自治体や学校などが帝国陸海軍に対し砲弾などの廃兵器の下付を求めた文書が大量にあったのだ。

 文書の多くは達筆な崩し字で書かれていたため、私には判読できなかったが、楷書で書かれていた数少ない資料によると、旧陸海軍は「軍事思想啓発」のため廃兵器を希望者に下げ渡していたことがわかった。例えば、石川県津幡町長、津幡尋常小学校長らが大正13年(1924)に財部彪・海軍大臣に提出した文書には、尋常小学校に展示し、「海軍思想ノ鼓吹普及」するため魚雷1本、機雷1個、大砲砲身1本、砲弾2個、飛行機プロペラ1個の下付を要望したことが記されている。また、昭和10年(1935)に下関市長は日和山公園に据え付けるため「加式二十四糎加農被帽弾々丸」1個などを、同12年(1937)には北海道津別村の津別神社造営会は神社に献納するため、日清・日露戦争、または満州・上海事変などに関係ある火砲少なくとも2門と弾丸少なくとも14個の下付を求めていた。

 騒ぎになった砲弾の中にも、あるいはこういった経緯で地方にもたらされ、結果として展示を兼ねて地元の氏神などに奉納されていた物があったかもしれない。兵士一個人ではなく旧陸海軍が直接関与していたのだから、安全には万全の措置が講じられていたはずで、これらは危険な不発弾ではなく、単なる「戦時資料」だったことになる。神社等にあった砲弾の多くは、関係者も「昔からあった」と証言するだけで由来不明だったらしく、だとしたら今さらながらも爆発を恐れることは当然なのかもしれないが、何となく釈然としない騒ぎではあった。

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# 山麓にある海神社

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 福岡市早良区西油山に海(わたつみ)神社という社がある(写真)。海から離れた油山(597㍍)の山麓に海を名乗る神社があるのは不思議だが、調べてみると、城南区東油山にも全く同名の神社があった。古代の遣唐使たちが脊振山に登り航海安全を祈ったという故事もあるぐらいなので、ひょっとしたら山で海神を祭るのは珍しいことではないかもしれない。だが、福岡都市圏にある「ワタツミ神社」(漢字表記は海のほか、綿津見、綿積、少童)と、これらの神社の総本社と言われる東区志賀島の志賀海神社の位置を地図に落としたところ、やはり大半は海、または河口に面した場所にあり、東・西油山の海神社の立地は異色だった。

 大正時代、早良郡役場によって編まれた『早良郡志』(復刻版は名著出版、1973)によると、西油山の海神社の祭神は底津少童命、中津少童命、上津少童命の三神。航海安全や漁業などの神々だ。例祭は9月19日、氏子は25戸。一方、東油山の海神社は同じ海神ながら豊玉彦命を祭り、別名は龍樹権現。例祭は9月9日で、東油山35戸の産神だと記されている。両神社とも明治5年(1872)に「村社」に定められたとあるが、それ以外の沿革については記載がなく、山里でなぜ、海神が信仰されてきたのか理由は不明だ。

 龍樹権現とは油山山中にあった社で、江戸時代の地誌『筑前国続風土記』には「龍樹権現の社の跡、山の七分高き所に在り。(中略)今は龍樹権現をば、山下に移せり。村に近し」との記述がある。「山下に移せり」というのが、現在の東油山・海神社のことなのだろうか。

 続風土記には、西油山の集落の成り立ちについての記述もある。「今の西油山の地、昔は中河原と云ふ。村里なく、田畠もなかりしに、近世田畠を開き、家を作りて村と成れり。村民樒の皮と葉とを多く取て抹香とし、福岡などに持出て売り、家産を助く」。西油山の集落は移住者によって開かれた村だったことがわかる。海辺の民が移り住んできたのならば、話は簡単なのだが…。

 『福岡県の神社』(アクロス福岡文化誌編纂委員会、2012)によると、2012年1月現在、福岡県内には3,318の神社があり、このうち最も多いのは600社を超える天満宮で、県内での「天神さま=菅原道真」信仰の広がりを物語っている。続いて八幡宮、貴船社、熊野社、大山祇神社、祇園社、日吉社の順で、ワタツミ神社は8番目となっている。何社あるのか数は示されていないが、「筑後の有明海沿岸地方に多くのワタツミ神社がある」といい、やはり海辺にあるのが主流のようだ。

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# 「油山天福寺跡」探索行

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 福岡市の油山(597㍍)中腹にあったという天福寺跡を探して山中をさまよってきた。江戸時代の文献に初めて名前が出てきた時には、すでに滅び去った後だった幻の寺だが、西油山に寺院の遺構があるのは間違いない事実で、地元の人々からは「坊城」などと呼ばれている。地図で場所を確認し、野芥の塚穴の手前から西油山林道を通って山中に入り、石垣の写真を撮ってきたが、これが本当に天福寺の遺構なのかは正直なところ、自信がない。研究者の調査では伽藍や僧房跡とみられる平坦面や礎石が多数確認されているが、素人の節穴の眼には山は山でしかなく、結局林道を最後まで歩き通しただけに終わった。

 天福寺の名前が初めて出てくる文献とは、貝原益軒(1630~1714)が著した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』で、これには西油山天福寺と脊振山東門寺とが侍童を巡って激しく争い、焼き討ち合戦を繰り広げた末に両寺とも「悉く焦土」となったという情けないエピソードが記録されている。この争いの時期について、益軒は「昔」と記しているだけで、つまり天福寺滅亡は江戸時代にはすでに昔話だったことになる。続風土記にはこのほか、天福寺は禅寺であり、360の僧坊があったと記されているが、九州帝国大の教授だった竹岡勝也氏は、浄土宗鎮西派開祖の聖光上人が天台宗の僧侶だった時代、「油山学頭」だったという記録が残ることから、天台宗の寺だったのではないかと指摘。これが現在では定説となっているようだ。

 竹岡氏は遺構の現地調査も行い、その成果は福岡県発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告書』第9輯(1934)に収録されているが、それには「西油山の村落を離れて南坊住の山道にかかれば、左右に屋敷跡らしい平地が段階をなして續いて居る」などと記されている。この時、石垣数か所と礎石が現存していたという。

 天福寺遺構の学術調査はこの後、約80年間も行われなかったようだが、近年になって山岳霊場の研究者が複数回の現地調査を行い、この結果、750㍍×200㍍、比高差で150㍍の範囲に遺構が広がっており、僧房跡などと考えられる平坦面が少なくとも65か所あるのを確認できたという。また、収集された遺物の中に中国からの輸入陶磁器の破片が多数含まれることから、日宋貿易(10~13世紀)を担っていた博多在住の中国商人(博多綱首)が天福寺造営に深く関わっていたのではないかと推測している。さらに、陶磁器片の年代分析から、寺の荒廃を招いた東門寺との争いは、14世紀半ばごろに起きたと考えられるという。

 続風土記には、寺同士が争い、互いに滅亡したという話がもう一つ記録されている。久原村の白山にあった白山頭光寺泉盛院という天台宗寺院の内紛で、この寺は本谷、西谷、別所、山王の4地区に分かれ、山王に50、残る3地区に各100の僧坊があったという。このうち本谷の侍童が別所の僧侶から嘲笑されたのを苦に自殺し、これをきっかけに本谷・西谷vs別所という構図で激しい戦いが起き、これまた互いに火を放った結果「悉く炎上して絶滅」したという地元民の言い伝えを益軒は書き残している。

 この白山とは福岡県久山町の首羅山(289㍍)のことで、この山からは12~15世紀の中世山岳寺院跡が見つかり、2005年から町教委などによる発掘調査が続いている。2013年には「首羅山遺跡」として国史跡にも指定されている。興味深いのは、この遺跡からも中国製の遺物が多数見つかり、博多綱首との関係が指摘されていることだ。単なる偶然かもしれないが、続風土記に記録された寺同士の血なまぐさい争いは、いずれも日宋貿易に支えられた天台密教の山岳寺院で起きたことになる。何か隠された背景でもあるのだろうか。なお、天福寺の研究者が続風土記の記述に重きを置いているのに対し、対照的に首羅山遺跡の担当者は続風土記など全く眼中にないように思え、これまたなぜなのだろうかと興味深い。

 天福寺跡探索行では明確な遺構は確認できなかったが、山中では色々なものに遭遇した。西油山林道ではアナグマらしき小動物が走り去るのを目撃した。林道終点からは梅林緑道から山頂に通じる縦走ルートに入り、帰路についたのだが、ここでは野生のツツジが赤い花を咲かせているのを目にした。林道沿いには展望が開けている場所があり、想像以上に雄大な景観が広がっているのに驚いたが、廃車や廃モーターボートまで山林に投棄されていたことにはもっと驚いた。

 文中で明示した以外の参考文献は『北部九州の山岳霊場遺跡―近年の調査事例と研究視点―』(九州山岳霊場遺跡研究会、2011)など。


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駄田泉

管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。