天神コアと天神ビブレとの間の段差

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 福岡では有名な話だが、福岡市・天神に隣接して並ぶ二つの商業ビル、天神コアと天神ビブレとを結ぶ連絡通路に階段3段分の段差がある。両ビルの前身の商店街時代からこの段差はあり、どういう理由か、段差を残したまま二つのビルは建てられたことになる。では、この段差はなぜ、生じたのだろうか。調べたところ、この辺りには明治時代後半まで「因幡町山」とも呼ばれた小さな丘があり、1910年(明治43)に開通した福博電気軌道(路面電車)敷設工事の際、大部分が削り取られたことがわかった。地形の詳細な変化まではつかめなかったが、「因幡町山」のわずかな名残が問題の段差らしい。

 天神コアは1976年6月、天神ビブレは同年11月の開業で、いずれも老朽化し、火災が懸念されていた商店街の再開発で建てられたビルだ。コアの敷地にあったのが西鉄商店街(西鉄街)、ビブレ側にあったのが因幡町商店街。「お客はどこまでが西鉄街で、どこからが因幡町商店街か、よく分からないまま買い物をする」(『福岡天神都心界五十年の歩み』1999)ほど一体の関係だったらしいが、その境目には緩やかな坂があったという。

 一方、福博電気軌道が1910年に開業したのは大学前~黒門間。後の西鉄市内線の貫線の一部で、現在の明治通りを走っていた。この敷設工事で生まれた段差のある土地を、所有する福岡市は後々公園として整備する考えだったとされる。しかし、戦後、焼け野原となった天神の復興が進む中で、問題の土地は段差を境に東側は「戦災復興会」、西側は西鉄不動産の前身の昌栄土地に払い下げられ、それぞれ独自に商店街が形成された。段差はそのままだったため、両商店街間の通路はスロープ状にならざるを得なかったのだ。

 現在のコア、ビブレも連絡通路で結ばれているとは言え、コアは西鉄、ビブレは再開発組合が独自に建てたもので、運営もコアは西鉄、ビブレはイオンのグループ企業と別々だ。段差が残ったのは別に歴史を重んじたわけではなく、ただ単に解消することに考えが及ばなかっただけかもしれない。連絡通路にしても、設置の際には両者の間に意見の相違があったようで(『因幡町商店街35年史』1984)、段差は、密接な間柄でありながらも、一心同体にはなり得ないコアとビブレの関係を象徴するものとも思える。

 コアについては先頃、2020年3月に閉店予定ということが報道され、福岡では大きな反響を呼んだ。福岡市は現在、容積率を緩和することで民間にビル建て替えを促す「天神ビッグバン」を進めており、西鉄はこれに応え、コアと隣接する自社ビルの福岡ビルとを一体で再開発する方針だと報じられている。ビブレ側の再開発参加も望んでいるという。テナントの意向もあり再開発の先行きはまだ、不透明なところがあるが、仮に西鉄の構想通りに進んだ場合、段差は、三度目の正直で今度こそ解消されることになるのだろうか。
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郡役所の礎石が出土していた

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 福岡市中央区の赤坂門バス停横の駐車場跡地で2014年暮れから翌年4月にかけて、発掘調査が行われていた。調査地を囲っていたフェンスに「福岡城下町の発掘調査」を行っているとの貼り紙が出されていたが、いったい何の遺構が出たのかはさっぱりわからなかった。そこで古地図などを調べたところ、藩政時代後期、郡役所が設置された場所らしいと判明し、このブログで取り上げたことがある(「福岡城下町の発掘調査」「やっぱり郡役所跡の発掘?」)。私にしては珍しく正解だったようで、先頃刊行された発掘調査の報告書には「福岡藩郡役所が移設された場所であったことから」記録保存のための調査を行ったと記され、郡役所の礎石等が出土したと明らかにされていた。

 郡役所は、福岡藩が農村統制のために設置した行政機関で、火災で焼失した藩中老・斎藤家の屋敷跡に1818年(文政元年)に建てられた。これ以前まで、福岡藩では5人の郡奉行が農村を直接支配していたが、厳しい年貢収奪により農村は荒廃が進んでおり、立て直しのための農政改革の一環として、新設した郡役所に農政を一元的に担わせたのだ(『福岡県史』)。しかし、この郡役所は狙い通りに機能したのだろうか。藩政時代も後期になって機構改革を行った程度で、疲弊しきった農村を復興できたとは正直なところ、思えないのだが。

 発掘調査報告書によると、礎石は調査地の一角から約2㍍間隔で見つかり、古文書の中にある『福岡藩奉行所配置図」と比較したところ、「建物の位置図のラインにほぼ一致したので、郡役所(奉行所)の建物礎石と判断した」とあった。福岡藩の公的建物は、柱の間が京間の6尺5寸(1.97㍍)を基準にしており、郡役所も京間基準で作られたものと思われるという。

 建物の構造は、中庭を囲んで「遠賀・鞍手」「両糟屋・宗像」「早良・志摩・怡土」「那珂・席田・夜須・御笠」「上座・下座・嘉麻・穂波」の各御役所が配置され、廊下で結ばれていた。現在の役所に例えれば、担当課ごとに部屋が分かれているような形だ。出土した礎石は、「那珂・席田・夜須・御笠」「上座・下座・嘉麻・穂波」御役所辺りの建物、廊下と調査報告書では推定している。古記録と発掘調査結果を照らし合わせれば、こんなことまでわかるのかと感心する。遺物は、陶磁器片など中型コンテナ400箱分以上にも上り、この中には「郡屋敷跡らしく硯片が多く出土」したという。

 郡役所跡の発掘調査はJR九州によるマンション建設に先立って行われたもので、調査地には先頃、高級感あふれるタワーマンションが完成した。写真は、1枚目が2015年1月、2枚目が同3月に撮影した。
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県庁は春日原になる可能性があった

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 もう7年も前になるが、福岡県庁舎は上空から見ると「亀井光」と読めるという噂話を紹介したことがある(「『亀井光』伝説」)。亀井光知事の下、福岡県庁舎が博多区東公園に新築移転したのは1981年のことで、それ以前は天神のど真ん中にあった。跡地は現在、アクロス福岡と天神中央公園になっている。東公園移転は唐突に決まった記憶があったので、ざっと経緯を調べてみた。全く覚えていなかったが、移転構想が動き出した当初、本命と目されていた候補地は、現在の春日・大野城市にまたがる春日原米軍宿舎跡地(計156万平方㍍)だった。

 県庁舎移転、または新築構想が本格的に動き出したのは、亀井知事が3選を果たした直後の1975年5月頃だったとされる(『福岡市史』昭和編続編一)。1915年(大正4)完成の庁舎は老朽化が進み、手狭にもなっており、庁舎問題は県政の長年の懸案ともなっていた。県側は現在地を含めた7箇所の候補地を議会に提示したが、この時すでに亀井知事の腹は春日原移転で固まっていたと思われる。6月8日には西日本新聞が「新県庁舎 春日原跡地に」とスクープ。直後の県議会で、この記事について野党議員から問われた知事は「全くの観測記事だ」と否定しながらも、春日原が「一番有力な候補地であることは事実である」と明言していたほどだ(『福岡県議会史』第九巻)。

 福岡市の官民が求めていたのは、現在地・天神での改築だったが、亀井知事は<1>旧庁舎の解体から新庁舎完成までの間、仮庁舎が必要になる<2>一等地にある跡地を売却して庁舎新築費用の一部に充てたい――などの理由から否定的だった。さらに春日市には陸自第4師団に貸している約16万平方㍍の県有地があり、これと等価交換すれば、春日原の用地取得は容易というのが知事の考えだったようだ。

 県庁所在地でなくなることを嫌った福岡市の巻き返しは激しく、切羽詰まった進藤一馬市長が史跡の福岡城址でもある舞鶴公園を候補地として提案、これに文化庁が猛反発するという騒動も起きている。この年の10月、県庁新築場所について知事から諮問を受けていた議会の小委員会は、候補地を<1>現在地<2>途中から候補地に加わった東公園<3>春日市の春日原米軍宿舎跡地<4>大野城市の同跡地――の4箇所に絞り、この中から選ぶよう知事に答申した。

 春日原跡地、中でもその大半を占める春日市側で腹を固めていたはずの知事だが、結論を出すまでには予想外の時間がかかった。福岡市の巻き返し工作が依然激しかったことに加え、1976年8月に福岡市長選が行われたこと、さらに県庁舎移転のためには、地方自治法の規定により出席議員の3分の2以上の賛成で条例制定が必要なため、議員の反応を見極めていたことなどが理由と思われる。知事が決断したのは、答申から2年後の1977年。結論は春日原ではなく、東公園だった。

 なぜ、逆転したのか。『福岡市史』は、春日原では北九州、京築、筑豊地区からのアクセスが不便になることや、福岡市に集中する国の出先機関との連絡等に時間と経費を要し、極めて非効率になることなどがマイナスとなり、東公園有利に働いたと指摘している。一方、敗れた側の『春日市史』の分析はもっと端的だ。県議会小委員会が知事に4箇所の候補地を答申した際、「県民、特に福岡市当局、議会を含む福岡市民の意向を尊重することの付帯意見をつけ、知事を拘束した」。恐らく双方の記述とも正しいのだろうが、『春日市史』の方が、より的を射ている気がする。

 独裁者並みのワンマンとばかり思っていた亀井知事だが、県庁移転問題に限ってみると、意外にも福岡市の官民や県議会を慮り、自身の意向を貫けなかったことになる。冒頭に挙げた「県庁舎は上から見ると亀井光」が万が一、真実だったとしたら、本人にとっては「せめてもの代償」だったのだろうか。

 写真は上から、天神中央公園のモニュメントに掲示されている旧県庁舎の写真、現在の県庁、アクロス福岡。蛇足だが、下の写真は、天神中央公園の「福岡藩刑場跡」石碑の横に、いつの間にか設置されていた説明パネル。江戸時代、高僧・空誉上人が福岡藩によって処刑されたと伝えられる場所だが、以前は雑然とした中に碑があるだけで、意味不明の代物だったため、過去にこのブログでも取り上げたことがある(
「大塚惟精と福岡藩刑場跡碑」)。

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脇山口交差点に横断歩道増設

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 福岡市早良区の脇山口交差点に3月下旬、ようやく横断歩道が増設された。周辺には西新商店街や修猷館高校、西南学院大などがあり、人通りが非常に多い交差点なのだが、上の地図で示したA~B地点間には横断歩道がなく、歩行者は何十年もの間、AからBに行くには地図の青線で示したルートを通る必要があったのだ。

 なぜ、こんなバカげたことがまかり通ってきたのか。この交差点は車の交通量も多く、市内でも有数の渋滞ポイントになっている。中でも朝の通勤時間帯は、天神・博多駅方面(地図では右側)に向かう車が多く、A~B間に横断歩道があったのでは右左折車を妨げ、渋滞はさらに悪化しかねない。要するに車の流れを少しでもスムーズにするため、歩行者に不便を強いてきたのだろう。

 これは私の憶測だけではなく、過去の市議会でも横断歩道増設を求める市議に対し、担当局長らは「当該交差点は主要渋滞箇所であるとともに、歩行者なども多いことから、自動車交通の円滑化及び歩行者の利便性の向上、安全性の確保などを総合的に勘案しながら、交通管理者と協議してまいります」などと気のない答弁を繰り返してきた。

 ただ、これまでまったくの無策だったわけではなく、今となっては大昔になるが、1970年代に持ち上がった西新商店街再開発には、当時から交通の難所だった脇山口交差点と現在の旧・プラリバ前交差点の改良という目的もあった。ところが、城南線を挟んだ東側ではもめにもめながらも再開発が進み、西新エルモール(後のプラリバ)が誕生したが、西側は再開発を拒み、結果として交差点改良も進まなかった経緯がある。

 商店街側はその後、商店街への導線を確保するため、問題の横断歩道新設を求め続けてきたが、上記答弁にみられるように、これまではまったく省みられなかった。これは完全に私の臆測だが、市内部には長年、再開発を拒否し、都市計画を台無しにした商店街に対する憤まんがくすぶっていたのではないだろうか。

 それでも、ここに至って、ようやく市民の声が届き、交差点は真っ当な姿となったわけだから、やはり、おかしなことには「おかしい」と言い続けるべきだと痛感する。おかしなことが多い福岡市に長年住んでいると、つい「福岡はこんなものだから」とあきらめてしまいがちだが。新たな横断歩道は、車側に注意を促すためか、白と赤のラインが派手に描かれ、歩行者が渡った後に右折車を通している。いずれは歩車分離式の交差点に変更することも検討されているという。
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幻に終わった博多湾淡水湖構想

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 福岡市は一級河川を持たない全国唯一の百万都市で、2度の大渇水に見舞われるなど、長年水不足に苦しめられてきた。市は、数々のダムや筑後川導水、海水淡水化施設の建設など水源確保に力を入れてきたが、半世紀前の1960年代、水不足を半永久的に解消するための超巨大プロジェクトが浮上したことがあった。博多湾の一部を堤防で閉め切って多々良川の水を貯め、巨大な淡水湖を造るというもので、先頃、新聞データベースを漁っていて、この構想を知って興味を覚え、少し調べてみた。海底を掘り起こした土砂で沿岸部を埋め立て、臨海工業用地を整備する目論見もあったらしい。目的こそ異なるが、1950年代に構想され、そして平成になって実現した長崎県の諫早湾干拓事業に非常によく似ていると思った。

 このプロジェクトについて報じた1965年8月26日の読売新聞地方版、同年の市議会第3回定例会の会議録などによると、多々良川河口の福岡市東区松崎から海の中道の同区奈多まで、総延長5㌔の堤防(諫早湾干拓の潮受け堤防は7㌔)を築いたうえで、堤防内の湾内を30~50㍍掘り下げ、水を貯めるという構想だった。上の航空写真で、赤線で示したのが堤防建設予定地(写真は1969年5月撮影、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから借用した)。現在ではアイランドシティ(人工島)や香椎パークポート建設で埋め立てられた海域に淡水湖が生まれていたことになる。

 肝心の貯水容量については記事にはなかったが、掘り出す土砂の総量は6億立方㍍に上るとあり、単純に考えれば、数億㌧の貯水が可能だったと思われる。現存する福岡市の水がめの貯水容量は、これまで図抜けて大きかった江川ダム(朝倉市)が2400万㌧、先ごろ完成した渇水対策用の巨大な五ヶ山ダム(那珂川町・佐賀県吉野ヶ里町)でさえ3170万㌧。確かに、この構想が実現していれば、福岡市の水不足は半永久的に解消されたことだろう。建設期間は10年、事業費は約2000億円と市は見込んでいた。

 もちろん、構想は幻のままで終わったわけだが、先の記事によると、福岡市は1964年から予備調査を進めるとともに、同様の構想を温めていた千葉市に水道局の技術者一人を派遣し、共同研究を行っていたとも書かれており、まったくの夢物語というわけでもなかったようだ。京浜工業地帯の発展に伴い、工業用水の不足に悩んでいた首都圏では、こういった河口ダムの建設について福岡市以上に真剣に検討していた節があり、65年に八幡製鉄(現在の新日鉄住金)が操業を開始した千葉県君津市でも一時、小糸川河口ダム建設が浮上している。

 博多湾淡水湖構想が実現に至らなかった経緯は、『福岡市史』にも構想自体の記載がまったくなく、よくわからなかったが、同年に南畑ダムが完成、続いて江川ダムや筑後川導水の建設計画が具体化していく中で、2000億円の巨費を投じる現実離れした構想に疑問符がついたのではないかと思う。福岡市の2018年度一般会計当初予算は8300億円を超えるが、構想が持ち上がっていた65年度は150億円にすぎなかった。予算規模をもとに考えると、当時の2000億円は、現在の実感では数兆円から10兆円規模に上るのではないだろうか。これでは当時も今も実現は到底無理だったに違いない。

 また、多々良川から流れ込む水を遮断すれば、博多湾の環境にも大きな影響を及ぼしていたはずで、当時はノリの養殖をはじめ、博多湾内でも漁業が盛んに行われていたことを思えば、諫早湾のように漁業者との深刻な対立が起きていた懸念もある。博多湾淡水湖構想とは、そもそも実現不可能なプロジェクトだったのだろうが、一方で、これが実現していれば、その後に起きた2度の大渇水(1978~79年、94~95年)は避けられたかもしれないとも思う。また、諫早湾と同様、堤防上に道路を通せば、海の中道や志賀島へのアクセスは劇的に向上し、一帯の発展度合いは現状とは大きく異なっていた可能性はある。

 多々良川は、宇美町と飯塚市の境にある砥石山を水源とする総延長17.8㌔の二級河川で、流域面積は福岡市を流れる川としては最大の168平方㌔。淡水湖構想は潰えたものの、その水は徹底的に利用され、水系の流域には長谷ダムなど四つものダムが完成している。
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