霧の韓国岳

IMG_7326.jpg

IMG_7331.jpg

IMG_7336.jpg

IMG_7342.jpg

 この夏、霧島連山の主峰・韓国岳(1,700㍍)に登り、強風の吹き荒れる山頂で寒さに震えてきた。しかも強風の中でも濃い霧に覆われ、視界はほぼゼロ。山頂の標識前で記念写真を撮ったが、顔も判別できない程だった。霧島という地名はだてではなかった。

 登山路は、所要時間が1時間半程で初心者向きと言われる、えびの高原(宮崎県えびの市)からのルートを選ぶつもりだったが、例によって下調べが不十分だった。現地に着いてみると、このルートは噴石が飛来する恐れがあるとして利用禁止となっていた。硫黄山、新燃岳の火山活動が続いていることに伴う規制らしい。やむなく鹿児島県側の大浪池登山口から山頂を目指すことにした。大浪池は標高約1,400㍍の場所にある周囲2㌔の巨大な火口湖。ルート変更によって珍しい景色を間近で見ることができ、満足したが、道のりは予想以上にハードだった。

 登山口から大浪池までが約1時間。大浪池から山頂までが2時間強で、トータルの所要時間はえびの高原ルートのほぼ倍。登山道は大浪池までが石畳や石段、韓国岳本体には木製の階段が整備され、歩きやすくはあったのだが、場所によっては階段がかなり高く、疲れ切った後半は一段一段上がっていくのが非常にしんどかった。

 20歳代の大半を宮崎で過ごしたこともあり、えびの高原や隣県・鹿児島の霧島温泉郷などには何度も行ったことがあるが、山登りには全く関心がなかったため、すぐ近くにあった韓国岳や高千穂峰の登山道に向かうことはなかった。初めて韓国岳に登ってみて、霧で視界が悪かったためもあるが、あまりにきつくて景観を楽しむどころではなかったというのが正直な感想だ。ただ、大浪池の周囲にはコバノミツバツツジの群落があるのに気付いた。春には登山道を紅紫色に染めることだろう。コバノミツバツツジの咲く季節に、大浪池にはもう一度行ってみたいと思う。
スポンサーサイト
[Edit]

きゃべつ畑のひまわり

IMG_7324.jpg

IMG_7321.jpg

IMG_7311.jpg

 今年も一面のヒマワリだった。この盆休み、昨年に続いて宮崎県高鍋町の染ヶ岡地区に行き、80㌶もの畑を埋め尽くすヒマワリを見てきた。その数、約1100万本。タイトルの「きゃべつ畑のひまわり」とは、ここは本来はキャベツ畑で、お盆を過ぎれば、ヒマワリはトラクターで畑にすき込まれ、キャベツの肥料となるためだ。ここで生産されるキャベツは、その名も「ひまわりキャベツ」として春から初夏にかけて出荷される。

 このヒマワリは「復興のヒマワリ」とも呼ばれている。地元では有名な話なので、今さら紹介するのも気が引けるが、染ヶ岡地区は古くからキャベツ栽培が盛んで、肥料には堆肥を使ってきた。しかし、高鍋町や隣接する川南町を2010年、家畜の伝染病・口蹄疫が襲い、高鍋町だけでも3万頭を超える家畜が殺処分され、ウイルス拡散を防ぐため堆肥の利用も禁止された。地元農家は代わってヒマワリを栽培し、緑肥とするようになったが、大地を黄色に染める景観は「復興の象徴」として大きな評判を呼び、ヒマワリの栽培面積は年々広がっていったという。

 白状すると、「昨年に続いて」と冒頭に書いたが、昨年は親族の車の後部座席で熟睡中で、家族が撮影した写真で絶景を見逃したことを知り、しばらくは後悔の毎日だった。幸いにも今年、再訪することができたが、何事にも「次の機会がある」と言い切れる年齢でもなくなってきた。
[Edit]

多聞櫓は学生寮だった

DSCF1919.jpg

IMG_7270.jpg

 福岡城南丸多聞櫓の保存修復工事が行われている。多聞櫓は、築城当時の位置に現存する唯一の櫓で、1971年には国重要文化財にも指定されている貴重な建物なのだが、今回の工事の理由を知って驚いた。福岡県西方沖地震や経年劣化により、建物のあちこちに傷みが目立ってきたからだというのだ。経年劣化の方はわからないでもないが、福岡県西方沖地震とは2005年3月、つまり12年も前に起きた地震だ。この時の被害はさほど大きなものではなかったのかも知れないが、12年もほったらかしだったのだろうか。工事は来年3月までの予定だ。

 多聞櫓は2階建ての隅櫓と長さ約54㍍(30間)の平櫓からなる。平櫓の内部は普通、突き抜けの構造になっているらしいが、福岡城の多聞櫓は16の小部屋に分かれており、この変わった構造のためか戦前は城内に駐屯していた陸軍歩兵24連隊の兵舎として、戦後の1947年からは西日本短大の学生寮として利用されていた。

 藩政時代は主に倉庫として使われていた建物だったのだから、そのままでは居住に適しているはずがなく、内外装とも大きく改変されていた。1970年には西日本短大が移転していき、翌71年には多聞櫓の本来の持ち主だった国から福岡市が買い取ったのだが、この時には屋根瓦が落ち、雨漏りも激しく、崩壊寸前の状態だったという。辛うじて骨組みは良好な状態だったため、重文指定を受けることは出来た。福岡市は72年から約3年の月日と約1億円の予算を費やして、建物をいったん解体した後、旧来の姿に復元する工事を行っている。

 多聞櫓の解体復元は、この時代に市が進めていた福岡城址の史跡公園化の第一弾で、西日本短大に続き、74年にはその北側にあった予備校・九州英数学舘、75年からは2年がかりで御鷹屋敷一帯にあった福岡大平和台キャンパスの移転も実現させ、跡地は現在、緑地や牡丹芍薬園などとなっている。

 福岡大の一部キャンパスが御鷹屋敷跡にあったのは以前から知っていたが、西日本短大や九州英数学舘まであったことは全くの初耳だった。先頃まで市立舞鶴中学校だった場所には1960年まで、市立博多工業高校があった。明治通りから護国神社へ抜ける狭い道の両側には戦後の一時期、高校、予備校、短大、大学がひしめき合っていたことになる。ひょっとしたら博多工業高校卒業後に英数学舘で浪人生活を送り、福岡大学へ進学、青春時代を過ごしたのはずっと城内だった、などという人もいたのだろうか。

IMG_7251.jpg

 御鷹屋敷の下にある藤棚。以前は福岡大の体育館があったらしい。

IMG_7275.jpg

 九州英数学舘があったのはこの辺りだと思われる。

IMG_7243.jpg

 舞鶴中学校の跡地。旧校舎は福岡城、鴻臚館のガイダンス施設として、校庭は駐車場として活用されている。
[Edit]

無事だった朝倉の水車群

IMG_7204.jpg

IMG_7210.jpg

DSCF1877.jpg

IMG_7194.jpg

IMG_7223.jpg

 九州北部豪雨により大変な被害を受けた朝倉市に25日行き、農産物を買い込んできた。「何をのん気な」とお叱りを受けるかもしれないが、以前から足しげく通っていた農産物直売所がどこも営業再開していると聞き、「だったら地元のスーパーで買うよりは」と足を延ばして来た。豪雨から20日がたったが、依然として多くの場所が土砂や流木に埋まり、災害前、子供たちでにぎわっていた公園の芝生広場は土砂の仮置き場となり、風景が一変していた。

 不幸中の幸いというべきか、地域のシンボル的な存在である菱野の三連水車をはじめとする3基の水車群はほぼ無傷だったと聞いた。しかし、水車が水を汲み上げていた肝心の堀川用水が土砂で埋まり、全ての水車が動きを止めていた。20日から復旧作業が進められているが、まだ再稼働のめどは立たないらしい。被害を免れた水田は青々としていたが、田の表面は乾ききり、ひび割れが広がっている状態だった。

 朝倉の水車群は菱野の三連水車のほか、三島の二連水車、久重の二連水車からなり、堀川用水と合わせ1990年に国史跡に指定されている。筑後川の水を農業用水とするため堀川用水が掘られたのは1663年(寛文3)で、その約100年後、高い土地にあった山側の田に水を供給するため水車群が造られたとされる。1日の揚水能力は実に約2万㌧で、35㌶もの水田を潤していた。

 写真は上から菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車、土砂で埋まった堀川用水、豪雨の爪痕が残る三連水車近くの公園。下は三連水車が稼働していた時の映像で、2014年6月に撮影した。

 【8月2日追記】朝倉の水車群は8月2日、稼働を再開しました。


[Edit]

シーサイドももちで花火大会

IMG_7158.jpg

IMG_7140.jpg

 福岡市のシーサイドももち海浜公園で26日夜、17年ぶりに花火大会が開かれる。以前は観覧無料だったが、今回は海浜公園全体が有料エリアとなり、大人2,000~7,000円の料金が必要。打ち上げ花火などは河川敷や海岸に座り込み、ただで見るものだと思っていたが、最近では企業からの協賛金が集まりにくくなり、観覧を有料にして費用を賄うのが一般的らしい。

 海浜公園では観覧席の設置など準備が進む一方、周辺道路には花火大会当日は交通規制が行われることを知らせる看板が設置されている。写真2枚目は会場にも程近い「よかトピア通り」に架かる歩道橋にあった看板で、花火大会開催中の午後7時半から9時までは通行不可であることを告知している。花火大会と歩道橋と言えば、兵庫県明石市で2001年7月21日、花火大会に向かう見物客が歩道橋に殺到し、11人が死亡、183人が重軽傷を負う大変な事故があった。恐らくこの事故を踏まえての安全対策なのだろう。
[Edit]