百道海岸に昔、陸軍射撃場があった

1939福岡市全図

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 1939年(昭和14)発行の福岡市全図を眺めていて、百道海岸に「射撃場」があるのに気付いた。地図の左端、現在は市立百道中学校がある辺りだ(2枚目の写真の画面左側)。福岡城址に本拠を置いていた陸軍歩兵第24連隊の施設で、正式名称は「西新町射撃場」だったことはすぐにわかったが、大正時代初めには鴻巣山(現在の福岡市中央区・南区)に移転していたとみられ、1939年当時は使われてはいなかったと思われる。当時も今も修猷館、西南学院など学校が並ぶ一帯。移転は当然過ぎる話だが、西新町は陸軍側から巨額の費用負担を求められ、苦慮していた。これを救ったのは、少し毛色の変わった陸軍の主計将校だった。

 射撃場移転を巡る軍と地元とのやり取りは、「西新町射撃場交換の件」と題した1911年(明治44)の陸軍省資料に記録されている(国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブで公開されている)。この中の西新町長・神崎潜一郎の陳情書には「旧藩時代ヨリノ射的場ニテ甚シク迷惑ヲ感セサリモ」とあり、射撃場を設置したのは、24連隊ではなく福岡藩だったことがわかる。資料中にある地図によると、明治末期の射撃場の規模は、1939年の地図に描かれていた時よりもはるかに大きく、東側は現在の西新小学校付近までを占めていた。(面積は9㌶余りで、移転後の跡地の一部に西新小が新築移転している)

 藩政時代に開かれた西新の町だが、明治に入ると、道路整備や路面電車の開通などで人口が急増。射撃場の存在は住民の安全を脅かし、現実に流れ弾が児童の下駄を直撃するという事故も起きていた。この状況下で陸軍側も移転やむなしと決断、西新町に射撃場を明け渡す代わりに、町側は陸軍指定の鴻巣山の用地を購入した上で、新射撃場の建設費も負担するという条件でいったんは合意した。

 西新町の負担額は計4万8000円。当時の貨幣価値について「明治の1円=現在の2万円」という情報がインターネット上にあり、これに従えば、9億6000万円もの巨費を要求されたことになる。西新町が福岡市に編入されるのは1922年(大正11)のことで、射撃場移転問題が持ち上がっていた明治末はまだ、単独の自治体。町側は当初、基本財産の7,000円に加え、原野の売却、起債、さらには町民に負担金を課してまで賄う方針だったが、小さな町が何とかできる金額ではないとわかり、陸軍側に再検討を求めた。上記の陳情書がそれで、日付は1912年(明治45)2月29日となっている。

 陸軍側で移転交渉を担当していたのは、24連隊が所属していた第12師団(小倉)の経理部長、浜名寛祐。「西新町射撃場交換の件」を読む限りでは、彼は西新町の事情をよく理解し、極力、町側の要望通りになるように陸軍省上層部に掛け合っていたようにみえる。例えば、神崎町長の陳情書を受け、同年3月12日に陸軍大臣・石本新六に提出した上申書では「適当ノ場所ニ射撃場ヲ新設スルニ其費用ヲ国庫ヨリ別途支弁セラレ而シテ現在射撃場ハ他日ヲ待チテ売却シ国庫ノ収入トナス方収支ノ点ニ於イテ得策ナルベシト信ズ」という提言さえしている。西新町側にとっては“満額回答”で、この場合、町側の負担はゼロになる。

 射撃場移転問題は、福岡市への編入前の話であるためか、『福岡市史』の明治編、大正編などには記録されておらず、正直なところ、詳しい経過はよくわからなかった。だが、アジア歴史資料センターが公開している西新町射撃場に関する、もう一つの資料「不用地処分の件」を見ると、浜名の提言通りに進んだのではないかと想像される。1921年(大正10)のこの文書には、旧・西新町射撃場敷地を売却して国庫の足しとするため陸軍省から内務省に還付すると記されている。少なくとも、この頃には移転が完了していたことがわかる。また、西新町が移転費を負担したのならば、射撃場跡地は陸軍ではなく町の管理になっているはずなので、移転自体が国費で行われたのだろう。

 ところで、浜名を毛色の変わった主計将校と書いたのは、陸軍の人間にしては物わかりが良かったということではなく、歴史研究者としての顔を持っていたからだ。国立国会図書館のデジタルライブラリーには彼の著作3点が収録されており、言語学の分野からのアプローチを得意としていたようである。そのうちの『日韓正宗溯源』(1926)には「卑弥呼は筑紫に在らず馬韓に在り」などということが書かれていた。
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1928年、西新町駅の写真

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 日の丸を付けた蒸気機関車の出発を大勢の人々が見守っている。1928年(昭和3)10月16日、現在の福岡市早良区昭代3にあった北九州鉄道西新町駅(後の国鉄西新駅、1983年廃止)で撮影された写真だ。機関車に積まれていたのは脇山村(現・福岡市早良区脇山)で収穫された新米。昭和天皇即位の礼の大嘗祭で献上するため、特別に作られた米で、翌17日に京都駅に到着し、御所に運ばれた。

 大嘗祭で供える新米を作る田を「悠紀斎田」「主基斎田」といい、この年の2月5日、悠紀斎田を滋賀県、主基斎田を福岡県から選ぶことが発表された。続いて3月15日、福岡県内94か所の候補地の中から、脇山村が主基斎田に決まった。国会図書館のデジタルライブラリーに保存されている資料に、この日の脇山村の熱狂ぶりが記録されている。

 「三月十五日太田主は県庁から呼出しをうけて耕作の命をうけたのであるが、太田主が拝命すると新聞記者が学校に沢山やって来て大騒ぎとなった。大朝、大毎の号外が第一番に舞ひこみ、小使がそれを持って教室に駆けこみ、これを聞いた児童は思はず脇山村万歳を唱へる有様だった」(福岡県小倉師範学校『郷土教育講演集』第1輯、1933)

 ところで、なぜ西新町駅出発だったのか。写真を見てわかるように、当時は駅周辺には民家らしき木造平屋がポツンと1軒見えるだけの寒村。今でこそ周辺はマンションが建ち並ぶ住宅街(写真2枚目)だが、国鉄筑肥線の西新駅時代でさえ、西新とは名ばかりのへんぴな場所だった。こういった大きな行事の場合、普通はターミナルの博多駅から出発しそうなものだが、脇山から徒歩で新米を運んできたため、最も近い西新町駅を使ったという単純な理由だったようだ。

 西新町駅の写真は、主基斎田に選ばれたことを記念し、福岡県が発行した『大嘗祭主基斎田写真帖』(1928)から拝借したのだが、この写真の前に掲載されていたのが、供納米を運ぶために脇山村を出発する古式装束に身を包んだ青年団の写真。一行はこのまま徒歩で西新町駅に向かっていたのだ。最も近いと言っても、その距離は約14㌔。しかも青年団だけでなく、見物人たちも付き従ったらしく、行列の長さは300㍍以上にもなった。脇山村を出発したのは午前7時半だったが、西新町駅到着は約4時間後の午前11時20分だったという。

 300㍍もの大行列がやって来たのだから、駅が黒山の人だかりで埋まっているのも当然だ。駅は1937年、北九州鉄道が国有化されたのに伴い、国鉄筑肥線の西新駅となったが、これほどの群衆が押し寄せたのは、後にも先にも供納米出発の時だけだったに違いない。『福岡市勧業要覧』によると、国有化前年1936年の西新町駅の乗降客は、1日平均で69人に過ぎなかった。


 この駅について、私が記憶するのは廃止直前の頃だが、福岡市西区今宿や糸島方面から駅周辺の高校(修猷館、福岡工業、城南、西南学院、中村学園)に通ってくる高校生らが結構利用していた。福岡の県立高校では昔も今も「ゼロ限」と呼ばれる朝補習が午前7時台から行われており、彼ら筑肥線組は普段から毎日とんでもなく早起きして学校にやって来ていた。また、この頃の筑肥線は、大雨が降ると西区の長垂山付近で頻繁に土砂崩れが起き、度々止まっていた。大雨の予報が出ている場合、彼らはあらかじめ運休に備えて着替えを持って登校し、そのままクラスメイトの家に泊めてもらっていた。学校近くに住んでいた連中よりも苦労して登校していた分、彼らの方がメリハリのある高校生活を送っていた印象がある。

 話を主基斎田に戻すと、今上天皇の時も主基斎田は同じ九州の大分県玖珠町が選ばれた。その今上天皇も退位が決まり、新天皇即位の礼の大嘗祭開催は2019年11月、悠紀斎田、主基斎田は同年2~3月に選定されると報道されている。
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眺めが残念過ぎる西公園

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 福岡市中央区の西公園をよく散策している。ジョギングや散策の場としては、近くにある大濠公園の方がはるかに人気があるが、西公園の適度な起伏を私は気に入っている。ただ、海沿いの高台にある割には、この公園からの眺めは期待外れだと思う。「展望台広場」と銘打ちながら、実際には木々に視界を遮られ、展望ゼロの場所さえある。県営公園でありながら、詐欺まがいなことをやっている。今さら木を伐るわけにはいかないだろうから、展望台広場の名前の方を下ろすべきだろう。

 西公園は「日本さくら名所100選」に選ばれ、花見のシーズンには大にぎわいするが、普段は日曜祝日でも静かな場所だ。大濠公園には大挙押し寄せてくる隣国からの観光客も、ここでは滅多に見掛けることはない。しかし、戦前には福岡市第一の観光名所だったようで、戦前のガイド本などには真っ先にこの公園の記載がある程だ。 今も昔も福岡に観光地が少ないことを証明するエピソードではあるが、例えば、1936年(昭和11)の博多築港大博覧会開催の際に出版された『躍進の大福岡』には、以下のように西公園が紹介されている。

 ◇西公園 福岡に足を留むるものは必ず此処に遊ぶ。「神さふる荒津の先によする波まなくや妹に恋わたるらむ」と詠まれた荒津山、県営にして日本的名公園である。四時の眺めは佳絶。(中略)玉垣の広場から福博全市を眺望し得る。広莫たる築港博の会場、及旧時代の福岡港を眼下に見る。(中略)奥の広場に達して眺望を恣にすれば、天空快闊、漂渺たる玄界灘の彼方沖合には外国通いの汽船が薄墨の煙を曳き、近くの博多湾口には残、志賀の二つの島を望む。(中略)春は満山の桜花真に妍を競ひて老若男女群を作し、絃歌昼夜の別なく酒宴大いに盛んにして、雑踏極まりなし、福博名物の一として既に他県に知られて居る。

 花見シーズンの酒盛りが盛んなのは現在でも同様だが、かつて西公園が誇った眺望の方は、前述の「展望台広場」以外も悲惨な状況だ。現在の西公園で最も眺めが良いのは「中央展望広場」だと思うが、残念ながらここも生い茂った松の枝が視界を遮り、しかも眼下に見えるのは石油貯蔵基地のタンク群。観光客がやって来るとしたら、眺望などではなく、この公園名物のホットドッグが目当てだろう。せめて松の枝を伐採し、博多湾内がもう少し見渡せるようにしてはどうだろうか。

 園内には近年まで5店の茶店があったというが、現在、常時営業しているのは2店舗しかない。こんなところにも西公園の観光不振が表れている。
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1953年大水害、福岡市の好プレー

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  7月の九州北部豪雨で被災した福岡県朝倉市に先日、また行ってきた。復旧作業は急ピッチで進んでいるというが、市内のあちこちに今も大きな爪痕が残り、見慣れた風景の変貌ぶりに度々言葉を失った。この朝倉という地は、「暴れ川」と呼ばれた筑後川の流域にあるだけに、過去にも度々大きな水害に見舞われてきた。この地に伝わる、ある奇習について、川を鎮めるための人身御供が形を変えて残ったのではないかとバカげた推論を立て、成り立ちを調べたこともあるが、バカな思い付きはバカな思い付きでしかなかったという結果だったので、これについては詳しくは記さない。ただ、この際に1953年(昭和28)の大水害について調べ、印象的な出来事があったのを知ったので、この機会に書き留めておきたい。

 1953年の大水害は「西日本大水害」と呼ばれている。6月25日から29日にかけて、場所によって総雨量1,000ミリを超える記録的豪雨が九州を襲い、1,000人以上の死者・行方不明者を出した。『甘木市史』(甘木市は合併により現在は朝倉市)には「福岡、熊本両県で有史以来の大水害であった」とまで記されている。福岡県内で最も人的被害が大きかったのは現在の北九州市だったが、朝倉地区をはじめとする筑後川流域でも41人の死者・行方不明者を出し、6,000戸以上の家屋が流失、または全半壊した。流域の被災住民は実に54万人にも上ったという。

 被災者支援のため近郊市町村の婦人会を動員して炊き出しなどが行われたが、朝倉地区では飲料水の欠乏に苦しめられた。洪水によって井戸が汚染されたためだろう。現在ならば、自治体や自衛隊の給水車がすぐに被災地を回り、支援物資のペットボトルなども届くことだろうが、64年前のこの時、被災住民の苦境を救ったのは福岡市の消防車だった。上水道の水をタンクに満載して被災地に運び込み、住民たちは四斗樽や一升瓶でこれをもらい受け、急場をしのいだのだ。(『あさくら物語』古賀益城編、1963)

 何台の消防車がどれだけの水を運んだのか、詳しいデータまでは記されていなかったが、『甘木市史』にも「罹災地の飲料水確保には福岡市の消防車が活躍するなど各地からの救援活動が行われた」と救援活動の代表例として紹介されており、被災地の福岡市に対する感謝の大きさがうかがえる。

 では、この時の福岡市が水害の被害を受けなかったのかというと、人的被害こそ死者2人、負傷者5人と比較的少なかったものの、家屋やインフラの被害はやはり甚大なものだった。『福岡市史』第8巻(1978)には、6月5~7日にも起きていた水害と合わせ、床上浸水5,792戸、床下浸水26,300戸、堤防の決壊124か所、橋梁流出51か所もの被害が記録されている。博多駅裏、簀子、今泉、渡辺通、六本松、西新などの浸水被害が特に激しかったといい、この復旧作業に追われる最中に、朝倉地区へ消防車を派遣していたことになる。ただ、少なくとも福岡市史には、この事実は記されていない。お役所が手柄を自慢しないはずはないので、敢えて書かなかったということは“当たり前の行為”という認識だったのだろう。

 当時の福岡市長は小西春雄という人で、2人目の公選市長に当たる。どんな人物だったのか。簡単な略歴程度しかわからなかったが、東京専門学校(現・早稲田大)卒、朝鮮銀行大連支店長、明治鉱業取締役、九州石炭鉱業会長などを経て1951年4月初当選。西日本大水害は市長1期目の時だった。55年、前・福岡県知事の杉本勝次を破り再選を果たしたが、翌年7月、在職中のまま病死している。77歳。

 1953年というのは大きな風水害が相次いだ年で、西日本大水害の約1か月後には今度は和歌山県を記録的豪雨が襲い、死者・行方不明者は1,000人以上に上った(紀州大水害)。さらに9月には台風13号が近畿地方に大きな被害をもたらし、478人もの死者・行方不明者を出した。同年10月29日の読売新聞は、この年の風水害の被害総額は同社推計で7000億円を大きく超え、国民総所得(5兆8200億円)の1.4か月分が風水害で吹き飛んだ計算になると記している。それ以上に、三つの災害で2,500人もの命が失われたことに絶句する。
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高千穂製紙

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 現在の福岡県古賀市に1970年(昭和45)まで、高千穂製紙の本社・工場があった。跡地は現在、日吉台という住宅団地になっており、こんな場所になぜ製紙工場があったのか、今では不思議なぐらいだ。『古賀町誌』(1985)には「大根川下流の豊富な工業用水により、年商十二―十三億円の地場中堅企業であった」などと書かれているが、その大根川(写真)にしても、現在ではそれほど水量豊かな川には全く見えない。九州自動車道が通る現在はともかく、昭和時代は特に交通至便な場所だったわけでもなく、考えれば、考える程不思議な立地だが、町誌には失敗した古賀国益マオラン工場を買い取り、1937年6月24日に開設されたとあった。

 このマオランとは何か。聞いたことのない代物だったが、正体はニュージーランド原産の繊維作物で、昭和初期、福岡県を中心に、農家の副業としてマオラン栽培が爆発的ブームとなっていたことがわかった。しかし、これはひと儲けを企んだ者たちの策謀だったらしく、1934年2月10日の時事新報記事(神戸大学附属図書館の新聞記事文庫で閲覧)によると、国が農家に対し、マオラン繊維の商品価値は現在のところゼロに等しい、と警告する事態ともなっていた。

 古賀でもマオラン栽培が広がり、繊維工場(国益マオラン工場)が造られたが、「三、四年で失敗」(町誌)。その跡地に建てられたのが高千穂製紙というわけだが、この高千穂製紙も当初はマオランを原料にパルプ製造を目論んでいたことが、同社創業翌年の1938年に出版された『本邦パルプ会社紹介』に記録されている。

 「大川系の特殊繊維株式会社は九州地方でマオラン栽培をやっている。高千穂製紙(やはり大川系)は此の特殊繊維のマオランから人絹用パルプを製造せんとして創立されたものであるが、現下のパルプ情勢に鑑み、マオランでは早急に大量的生産が難しいので、経験のある木材パルプに転向した」

 同社も結局はマオラン利用に失敗し、木材からのパルプ製造を強いられたということになる。別資料によると、高千穂製紙がパルプの原料としていたのは、九州産のアカマツだったという。

 改めて高千穂製紙の沿革に戻ると、初代社長は大川義雄で、資本金は200万円。サルファイトパルプ洋紙等を製造していたが、赤字経営から脱却できず、1970年10月、日本パルプ工業に吸収合併され、工場は閉鎖された。工場の生産設備は日本パルプの日南工場に移されたという。工場13万平方㍍、社宅1万平方㍍の跡地利用が大きな問題となったが、冒頭記したように、現在では工場時代の面影など全くない住宅地に変貌している。

 初代社長の大川義雄は、事業家としてのほかに、競走馬の生産者兼オーナーとしても有名な存在だったようで、次男には競馬評論家として活躍した大川慶次郎(1929~99)がいる。父親は、一代で財閥を築き上げ、「日本の製紙王」とも呼ばれた大川平三郎(1860~1936)。大川義雄は1956年9月12日、56歳で死去しているが、この時の訃報によると、自宅は東京の府中市。高千穂製紙社長とは言っても恐らく古賀に住んだことはなく、ずっと東京競馬場のある府中暮らしだったのだろう。

 なぜ、唐突に高千穂製紙などという、ずいぶん昔に消え去った企業を取り上げたのかと言えば、私の親族がこの会社に勤めていたことがあり、最近になって急に思い出したのだ。勤めていたと言っても、古賀の工場勤務だったのではなく、九州山地でパルプの原料の木を伐り出す仕事をしていた。だから正社員だったのではなく、本当は下請けの従業員だったのかもしれないが、私の子供時代に高千穂製紙横を車で通った際、彼が「昔、ここに勤めていたんだ」と言った時は何となく誇らしげだった。工場はすでに廃墟じみていたが、大きな煙突のある黒ずんだ建物は強く印象に残っている。(加筆修正しました)
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