壮観だった「糸島のひなまつり」

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 糸島市の農産物直売所で買い物をした帰り、直売所近くにある志摩歴史資料館に数年ぶりに立ち寄ってきた。開催中だった企画展は「糸島のひなまつり2018」。多数のひな人形を展示するだけの催しだ。生まれ育った家庭も、現在の家庭も、ひな祭りとは全く無縁の家族構成だったため、世の中に数ある「祭り」の中で最も関心がない。正直、家族と合わせ2人分の入館料420円を支払ってしまったことを後悔したが、それこそ後の祭りなので、2階の常設展示室に行く前に、1階の企画展示室も一応のぞいてみた。意外に壮観だった。

 「糸島のひなまつり」は今年で17回目を迎える同館の恒例企画で、毎年多数の来館者を集める人気の催しとか。今年展示されている人形は、市民から借り受けた計516体で、企画展示室だけではスペースが足りず、一部はロビーにも飾られていた。これほど多数のひな人形を見るのはもちろん初めてだったが、間近で見るのも多分初めてだった。もちろん、日本人の中高年なのだから、店先や展示会場などでひな飾りぐらを見たことはあるが、おおむねガラス越しか柵越しだった。考えてみれば、ひな飾りがある家さえも身近には存在しなかったのだ。

 展示されている人形の多くは昭和の作品で、恐らくは娘さんがある程度の年齢になり、現在では家庭では飾られる機会がなくなったものなのだろう。どの人形も顔も衣装も非常にきれいな状態で、大事にされてきたことが想像できた。

 初めて知ったことも色々とあった。お内裏様、おひな様の並びが揃いによっては右左バラバラだったので、「どちらでも良いのかな」と家族と話し合っていたのだが、ちゃんと説明書きがあった。京都をはじめとする関西地方では向かって左がおひな様、右がお内裏様という並びだが、西洋の影響を受けた東京では逆(西洋では右側が上位という考えで、女性を右に置いた)。高度成長期、ひな飾りの地方色が薄れていく中で、東京風が全国に広まり、現在ではこれが主流らしい。また、三人官女のうち、眉がないのは既婚者で、おおむね真ん中がそうだが、展示作の中には左側というケースもあった。良く意味が分からないが、作者の好みなのだろうか。

 「糸島のひなまつり」は3月21日まで。入館料は大人210円。蛇足だが、資料館1階隅の昭和の暮らし紹介コーナーに、以前はなかったホーロー看板が多数展示されており、目を引いた。蚊取り線香の「アース渦巻」、大塚の「ボンカレー」等々。市内にホーロー看板を収集してきた人がおり、寄託、または寄贈を受けて常設展示することになったようだ。こんなコレクションも世の中にはあるのだと感心した。
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消える久保猪之吉の旧邸跡

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 福岡市中央区の赤坂門にあった久保猪之吉の旧邸跡が取り壊されている。久保猪之吉とは、1907年(明治40)から35年(昭和10)にかけて九州帝国大学医学部耳鼻咽喉科の教授を務め、文化人としても著名だった人物。当時の久保邸には柳原白蓮らの文化人が集い、福岡の文化サロン的な存在だったという。この当時の住宅が残っていたわけではないが、オフィス街のど真ん中にありながら、敷地内には木々が鬱蒼と茂り、私にとっては長く“謎の存在”だった。口コミ情報だが、企業が敷地を買い取ったらしい。

 旧邸跡については、2015年1月に書いた
「福岡城下町の発掘調査」の中で取り上げたことがある。この時は個人宅だったので、住所や写真の掲載は控えたが、赤坂門にある赤レンガ塀の屋敷とは書いていたので、ピンと来る人は多かっただろうと思う。

 久保猪之吉についてはインターネット上にも数多くの情報があふれているので、詳しくは記さないが、ドイツ留学で世界最先端の医学を学んできた人物で、その高名は内外にとどろき、彼の診療を受けたいと海外からも患者が訪れる程だったという。『土』の長塚節、『出家とその弟子』の倉田百三、闘病中だった作家が相次ぎ福岡に来たのも、久保を頼ってのこと。長塚は九大病院で死去している。九州大医学部には、久保の功績をたたえた久保記念館や久保通りなどがある程だ。

 ただ、久保邸サロンの主宰者は彼ではなく、より江夫人の方だったようだ。松山の生まれで、その生家に夏目漱石が下宿していた縁で、漱石はもちろん、漱石の下宿に転がり込んでいた正岡子規とも親交があり、長塚節は漱石の紹介状を持って久保を訪ねてきたという。福岡時代の夫人は高浜虚子に師事して歌人として活躍する一方、柳原白蓮とともに“福岡社交界の華”とうたわれた。1924年(大正13)7月1日の読売新聞には「久保博士夫人が久しぶりの上京」という見出しで写真付きの記事が掲載されており、上京が東京の新聞でニュースになる程の存在だったわけだ。

 2015年記事と重複するが、久保邸のその後の来歴について記しておくと、久保が九州帝国大を定年退官し、東京に移住する際、久保の医局の後輩で、やはり文化人でもあった曽田共助(公孫樹)が屋敷を買い取り、戦後は一時、旅館となっていた。現在、自動車ディーラーがある辺りに、当時の福岡では有名だったキャバレーがあり、ここでのアトラクションに出演していたタレントの定宿として繁盛していたという。上にも書いたが、最近までは個人宅だった。“オフィス街の森”は今後どうなるのだろうか。
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曳家で近代建築を移設

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 宮崎市の中心部で今月10日まで、推定で総重量3,000㌧もの近代建築を曳家で移設する工事が行われていた。予定より約1か月半遅れたものの、無事70㍍の移動が終わり、今後、基礎工事が進められるという。たまたま宮崎に行く用事があったため、10日、現場を見てきた。あいにく移動は終わった後だったが、ジャッキで浮いた状態の近代建築という滅多に見られないものを目にすることができた。

 この建物は宮崎県庁舎5号館(宮崎市橘通東1)。鉄筋コンクリート造り2階建て、830平方㍍で、外観は赤レンガで装飾されている。1926年(昭和元年)、宮崎農工銀行の社屋として建設され、農工銀が勧銀に吸収された後は(第一)勧銀宮崎支店として使用されていた。宮崎県庁本館(下写真)も1932年(昭和7)完成の堂々たる近代建築だが、これよりもさらに歴史ある建物だ。地元紙の記事には、1986年に県が取得し、2015年までは県文書センターとして利用されていたと書かれていたが、当初は県史編さん室が入居していたような記憶がぼんやりとある。例によって記憶違いかもしれないが…。

 曳家によって移動されることになったのは、道路沿いにある5号館の敷地に、大規模災害等に備えた防災拠点庁舎が建設されることになったためで、5号館は最初、いったん解体された後、奥まった場所に外観復元する計画だった。しかし、宮崎市内では数少ない近代建築とあり、3億7000万円余りを投じて建物丸ごと移動させることに方針転換したという。このあたりはネオ・ゴシック様式の県庁本館を大事に使い続ける宮崎県らしい判断だと思うが、県庁が古いから防災拠点庁舎が新たに必要になるわけでもある。レトロ建築の役所など非常に格好いいと思うが、危機管理の面からは別の評価もあるだろう。

 曳家は、建物を基礎から切り離した後、ジャッキで持ち上げ、鉄製の丸太の上に乗せて動かす、いわゆるコロの仕組みで行われた。昨年11月に作業がスタートし、昨年中には終わる予定だったが、途中で建物の向きを変える作業に慎重を期し、2月までずれ込んだ。先の地元紙記事によると、最初に北西に40㍍、建物の向きを反時計回りに100度回転させた後、さらに北に30㍍動かし、正面玄関は北向きから東向きに変わったという。5号館の使用が再び始まるのは2019年度末からの予定で、今度は展示スペースや会議室として使用される。展示スペースならば、一般人も入れるわけで、機会があれば、内部も見学してみたいと思う。

 蛇足だが、この5号館の並びに持ち帰り弁当店があり、宮崎に住んでいた頃によく利用していた。非常にボリュームのある弁当で、20歳代だったあの頃はそれがうれしかったが、さすがに今はしんどいかもしれない。弁当店は現在も健在。親族と5号館の話題で酒を飲んでいたところ、最後は弁当店の思い出話で盛り上がった。


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昔、大濠公園の水がぜんぶ抜かれた

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 テレビ東京系で不定期に放送されている『池の水をぜんぶ抜く』という番組を先日見ていて、福岡市中央区の大濠公園でも以前、池の水が全て抜かれたことがあったと思い出した。ただし、非常に漠然とした記憶で、いつ頃の話だったかも覚えていなかったので、経緯などを調べてみた。30年前の1988年、大掛かりな水質浄化工事が福岡県によって行われ、その一環として水抜きされたとわかった。広さ21㌶、水量35万㌧もの巨大池が一時、完全に干上がった状態になっていたのだ。ちょうど県外で勤務していた私は、その姿を直には見ておらず、『池の水をぜんぶ抜く』の意外な面白さを思うと、少し惜しいことをしたと思う。

 大濠公園は1929年(昭和4)完成の県営公園で、広さは40㌶。池が半分強を占めていることになる。池の水質は今でこそ、都市部の公園にしては比較的きれいな状態だが、流入河川がないため1970~80年代頃は富栄養化が進み、悪臭が漂い、魚の死骸が浮いているような池だった。「だった」と断定調で書いたものの、実はこれについてもあまり記憶がない。長年福岡に住んでいながら、つくづく何も見ていない、何も覚えていないものだと我ながら情けなくなるが、たとえ池の水が汚かろうとも大濠公園は今も昔も立派なデートスポットで、そしてジョギングのメッカだ。どちらにしても私には無縁の場所だった。

 それはともかく、当時の大濠公園の池の底にはヘドロがたまり、水質が悪化の一途だったのは紛れもない事実で、池の浄化は、奥田八二・革新県政(1983~95)の課題の一つともなっていた。一番の難問だったのが膨大な量のヘドロ除去で、「いっそのこと池ごと消してしまえ」と池の全面埋め立てさえ検討されていたという。

 さすがに池埋め立ては奥田知事が却下し、最終的にまとまったのが、池の水を黒門川経由で博多湾に排出した後、ヘドロを乾燥させた上で薬品で固め、池の底に埋めるというプラン。1988年6月から、本格的な排水がスタートし、ヘドロ処理の後、翌年2月に再び水を戻す作業が始まった。公園の池は半年以上も干上がった状態だったことになる。91年には浄化施設も完成した。公園の北西部、黒門川の横にあるのがその浄化施設で、近くの水路にゴーゴーと流れ落ちているのが処理済みの水だ。1日1万5000㌧の浄化能力があるというが、現在は施設の更新工事中で、フル稼働はしていない模様だ。

 ところで、公園に生息していた魚はどうしたのか。また、流入河川はないはずなのに、再びどうやって水を貯めたのか。浄化工事の概要については、細かい日程以外はインターネット上にも情報があったが、これらの疑問に対する答えは見つからなかった。当時の新聞記事等を当たってみたところ、魚はフナやライギョなど6万匹あまりを捕獲し、大半は県内河川に放したが、フナなど一部は養魚場に避難させ、工事完了後に戻したという。水については、雨水、地下水に加え、黒門川を通じて一部海水を引き込んだ。大濠公園の前身は、入り江を埋め立てて造られた福岡城の外堀で、もともと池の水は汽水だったことから、工事前と同じ環境に復元したという。

 なお、『池の水をぜんぶ抜く』とは異なり、池の底からお宝などは発見されなかったようだ。代わりにというわけではないが、水抜き前、自衛隊の協力を得て行った金属探査で焼夷弾11発が見つかり、処理されたという。1945年6月19日の福岡大空襲の遺物だろう。
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なぜ「当仁」小学校

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 福岡市中央区唐人町3に当仁(とうにん)小学校という学校がある。小学校名には普通、地名を使いそうなものだが、この当仁とは『論語』にある「當仁不譲於師」(仁に当たりては師といえども譲らず)という言葉に由来するという。しかし、なぜ、わざわざ論語の一節を学校名にする必要があったのだろうか。1982年に発行された当仁小の『創立90周年記念誌』をめくっても、それらしき理由は書かれていなかったが、他資料を当たると、明治初期、漢籍などから選んだ言葉を校名にするケースが少なくなかったとわかった。雅名と呼ばれる。当仁とは恐らく、地名を雅名に置き換えたものだろう。

 当仁小の歴史は結構複雑だ。1873年(明治6)に浪人町に校舎が仮設され、翌年に当仁小と名付けられた。浪人町とは現在の唐人町1、2丁目の境付近にあった小さな町で、現校舎の西側に当たる。だが、現在の当仁小はこの年をもって創立としているわけではなく、当仁、荒戸、西街の3小学校が合併し、新生・当仁小としてスタートを切った1892年(明治25)を創立年としている。今年で創立126年の歴史ある学校だが、浪人町に校舎が仮設された年まで遡れば、その歴史は145年を数えることになる。

 ところで、なぜ地名をストレートに付けなかったのか。浪人小学校では確かに語感が悪いが、唐人小学校ならば、別に問題はない気がする。中国人子弟の学校と勘違いする人もいないだろう。だが、命名について書かれた記録を探し当てることができなかったため、経緯はつかめなかった。校舎仮設と命名との間にタイムラグがあったことを考えると、議論はあったのだろう。なお、福岡市の小学校で、地名を別の字に換えて校名とした例は他にもある。2014年に140年の歴史を閉じた大名小は1873年、「大明」小として開校している。また、博多小の系譜に連なる上呉服小は開校当初、「五福」小を名乗っていた。これらも雅名の類いなのだろう。

 『福岡県教育百年史』第五巻(1980)には「明治七、八年ごろから、校名に漢籍などから選んだことばを引用して名付ける学校が増えてきた」とあった。この当時、現在の福岡県は福岡、小倉、三潴の3県に分かれていたが、特に三潴県では大多数の学校が雅名を名乗り、勧善、積善、修道、修身、啓蒙などの学校があったという。一方、福岡、小倉県の場合は「雅名を名付けた小学校はそう多くはなかった」そうで、当仁はその数少ない例外だったことになる。

 三潴県の雅名学校は、3県合併後に地名を使った学校名に切り替わっていったが、当仁は生き残った。恐らく、修身のようなとってつけた雅名ではなく、本来の地名を生かした名前だったからだろう。現在では、小学校名だけではなく、中学校や公民館、消防分団、あるいは飲食店の名称にも当仁が使われており、当仁は事実上、唐人町の異名ともなっている。中学校の場合は当仁(とうじん)中であるなど、地区外の人間には少々紛らわしいが。
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