不法係留船が河口を埋める名柄川

IMG_8861.jpg

IMG_8855.jpg

 福岡市西区を流れる名柄(ながら)川で、福岡県が昨年から、不法係留されているプレジャーボートの強制撤去を進めている。河口両岸には数年前まで、300隻近いボートが並び、ある意味壮観だった。あまりに堂々と係留されているものだから、まさか不法状態とは思わなかったぐらいだ。先日、たまたま近隣を通ったので、現状を見てきたが、依然として多数のボートが河口を埋めていた。カウントはしなかったが、100隻ぐらいはあっただろうか。以前より減っているのは確かだが、一掃には程遠く、沈みかかった廃船さえ放置されていた。撤去が行われているとは、到底思えない状況だ。

 これらのプレジャーボートは、護岸上にあるガードレールに係留され、護岸にはさらに、ボートに乗り降りするため金属製のはしごも吊されている。近隣住民は、車でやって来るボート所有者の不法駐車や、エンジン音に長年悩まされてきた。不法係留が増えてきたのはバブル景気の時代からというから、30年越しの懸案ということになる。

 不法係留のボートは、近隣の生活環境を悪化させるだけでなく、洪水が起きれば、水の流れを阻害し、被害を大きくする恐れさえ指摘されていた。それでも県は事実上、野放しにしてきた。「強硬手段に訴えても、いたちごっこになるだけ」という悲観論があったためだと聞く。正規の係留施設の利用料は結構高額で、近隣にある民間マリーナの使用料は、比較的安い陸置きの場合でも年間234,000~875,000円にもなる。不法係留は、この出費を嫌ったためだから、強制撤去しても他の川に移るだけ、という理屈で30年間手をこまぬいてきたのだ。

 なお、県が2011年に行った調査では、同年1月現在の名柄川河口の不法係留船が284隻だったのに対し、市内にある6収容施設の余力は600隻近かったというから、施設不足が不法係留の主たる要因ではないようだ。

 県はなぜ、ここに至って強制撤去に乗り出したのか。これは県の主体的な判断では全くなく、ただ単に国が全国の不法係留船を2022年度までに一掃する計画を打ち出したためだ。2011年の東日本大震災で、津波で流された不法係留船が二次被害をもたらしたことが国の決断の理由で、これを受け、県も重い腰を上げざるを得なかったわけだ。最初に不法係留の撤去に取り組んだのは東区の多々良川河口で、続いて名柄川では2017~19年度の3年間で一掃する方針だという。すでに10隻程度を強制撤去したらしいが、それでも多数のボートが居座る現状を見ると、難航必至と思える。所有者側には「何を今さら」という反発もあるだろう。

 多々良川では、県が恐れていた「いたちごっこ」は起きなかったようだが、名柄川の場合、具体名は伏せるが、数は少ないながらも不法係留が現存する川が比較的近隣にあり、注意が必要だろうと思う。ただ、県内のプレジャーボートの数自体は右肩下がりで減り続けており、日本小型船舶検査機構が公表している船舶統計によると、2011年度末には6,723隻が登録されていたが、17年度末には5,091隻にまで激減している。前述のように、正規の係留施設を利用する場合は相当な出費が必要になる。撤去を機会に、ボートを手放した人も少なくないのだろうか。
スポンサーサイト
[Edit]

学園都市化するシーサイドももち

IMG_8797.jpg

 今春、福岡市のシーサイドももち(早良区百道浜、中央区地行浜)に新たな大学が誕生し、さらに来年4月にも別の大学の開学が予定されている。いずれも医療福祉系の大学。同地区にはすでに2013年春、国際医療福祉大の福岡看護学部が開設されており(「百道浜に大学」)、130㌶ほどの埋め立て地に来春、三つの医療福祉系大学が並ぶことになる。

 今年4月に設置されたのは、南区筑紫丘に本拠を置く純真学園大の百道浜キャンパスで、同大は看護学、放射線技術科学、検査科学、医療工学の計4学科を持っている。キャンパスがあるのは、九州医療センター付属看護助産学校跡(住所は中央区地行浜なのだが…)。看護助産学校は、志願者数減少などを理由に今年3月限りで閉校となったが、3階建ての校舎は純真学園大が借り受け、学部生の実習拠点、及び大学院として活用することになった。

 今までと同様、医療センターの敷地内にある校舎で学生が学んでいるわけだから、一帯の風景に特に変化はなく、学校が看護助産学校から純真学園大に切り替わっていることにしばらく気付かなかった。九州医療センターは、看護助産学校の時と同じく、学生の実習に協力していくという。

 一方、来年の開学を予定しているのは、福岡国際医療福祉大(仮称)で、設置者は学校法人高木学園。こちらは早良区百道浜の山王病院隣で、同じく高木学園が運営している専門学校(来年閉校、写真)を衣替えする形で開設される。理学療法、作業療法、視能訓練の3学科で、各40人の募集を予定しているという。

 高木学園は、山王病院や国際医療福祉大と同じ高邦会グループの一員。2006年、高邦会のシーサイドももち進出が決まった際には、市議会の一部野党会派が強硬に反対した経緯があるが、シーサイドももちでの高邦会の存在感は次第に増している。「百道浜に大学」を書いた当時、医学部開設が高邦会・国際医療福祉大グループの悲願だったことから、「医学部の百道浜誘致に名乗りを上げたらどうか」と無責任に提言したが、国際医療福祉大の医学部はその後、千葉県成田市に設置された。

 新設の2大学はいずれも専門学校跡への進出のため、同地区で学ぶ学生数が急増するわけではなく、3大学を合わせた学生数も大学院を含めても最大1,000人程度にしかならない見込みだ。従ってタイトルの「学園都市化」は少し大げさだったと思うが、シーサイドももちにはこのほか、福岡市医師会が運営する看護専門学校と急患診療センターもあり、医療機関と医療福祉系の教育機関が集中する特殊な地域であるのは間違いない。

 蛇足だが、シーサイドももちの埋め立て完成前、地元の某有名高校をここに移転させる構想があった。同窓会等の猛反発もあり、すぐに立ち消えになったが、この構想が実現していれば、シーサイドももちは間違いなく学園都市として発展していただろうと思う。
[Edit]

変化を続ける箱崎の風景

IMG_8594.jpg

IMG_8623.jpg

 先日、福岡市東区箱崎の県立図書館で調べ物をしたついでに、界隈を散策してきた。過去に解体を取り上げたことがある九大の旧法文学部本館や筥崎宮の大鳥居はきれいさっぱり取り壊されていた。どちらも老朽化が進み、特に旧法文学部本館に関しては「寿命に達している」とまで診断されていた建物だから、解体は仕方がない。仕方はないが、そこにあるべきものがない風景には、やはり違和感を覚えた。(写真1枚目が旧法文学部跡地、2枚目が大鳥居が消えた筥崎宮参道)

 九大の箱崎キャンパスから伊都キャンパス(西区)への移転は、当初のスケジュールを1年前倒しして今年度中に完了予定。箱崎キャンパスでは現在、校舎解体が急ピッチで進み、立ち入り禁止区域が広がっていた。学生の姿が消えたキャンパス内で、代わって見かけたのは解体前の校舎を写真に収める人たちだ。中高年世代が多かったが、残された校舎を様々な角度から熱心に撮影する若い男性もいた。ノスタルジーと言うよりは、無為に消え去って行く近代建築を惜しんでの行動のように思えた。

 箱崎地区では1992年度から2015年度にかけて、JR鹿児島線の立体交差化に併せて大掛かりな区画整理事業が行われた。もともとJR、福岡市営地下鉄の駅を複数抱え、通勤・通学等には非常に便利な地。九大の移転で揺らいでいた学生の街は、区画整理事業によって一気にファミリー世帯向けの街へと転換し、鹿児島線沿線などには現在、大規模なマンションが林立している。今でさえ、学生街が健在だった頃の面影をたどることは困難だが、42.6㌶に及ぶ箱崎キャンパスの跡地利用が本格化していけば、箱崎の風景はさらに大きく変貌していくことだろう。

 ところで、九大の移転構想は、伊都キャンパス以前にも持ち上がったことがある。博多湾東部を埋め立てて建設された人工島・アイランドシティへの移転も検討されたらしいが、記録に残るものとしては1982年に当時の九大学長が発表した春日原移転構想が有名だ。具体的に移転候補地と目されていたのは、1972年に米軍から返還された春日原米軍宿舎跡地(計約156㌶、大半は春日市)。4月に書いた「県庁は春日原になる可能性があった」で、この土地が県庁移転の有力候補地だったことを紹介したが、実は九大移転の候補地でもあったのだ。JR鹿児島線、西鉄大牟田線沿いの広大な土地は、それほど魅力的だったのだろう。

 全面移転が実現しなかったのは、『春日市史』によると、地元側が九大を嫌ったためだとされている。理由の一つは、九大側が米軍宿舎跡地のほぼ全域を移転用地として望み、公園整備等を検討していた春日市側が難色を示したこと。さらに、激しい学生運動の記憶がまだ強烈だった時代でもあり、「学生運動の拠点ともなりかねない」というのも大きな反対理由だったという。確かに、墜落したファントムが建設途中の校舎にいつまでもぶら下がっていたり、過激派学生と警官隊との激しい衝突の舞台となった教養部は廃虚と化していたりで、学生運動最盛期の九大のイメージは決して健全なものではなかった。春日市の忌避は、理解できない話ではない。
[Edit]

天神コアと天神ビブレとの間の段差

IMG_8498.jpg

IMG_8483.jpg

IMG_8493.jpg

 福岡では有名な話だが、福岡市・天神に隣接して並ぶ二つの商業ビル、天神コアと天神ビブレとを結ぶ連絡通路に階段3段分の段差がある。両ビルの前身の商店街時代からこの段差はあり、どういう理由か、段差を残したまま二つのビルは建てられたことになる。では、この段差はなぜ、生じたのだろうか。調べたところ、この辺りには明治時代後半まで「因幡町山」とも呼ばれた小さな丘があり、1910年(明治43)に開通した福博電気軌道(路面電車)敷設工事の際、大部分が削り取られたことがわかった。地形の詳細な変化まではつかめなかったが、「因幡町山」のわずかな名残が問題の段差らしい。

 天神コアは1976年6月、天神ビブレは同年11月の開業で、いずれも老朽化し、火災が懸念されていた商店街の再開発で建てられたビルだ。コアの敷地にあったのが西鉄商店街(西鉄街)、ビブレ側にあったのが因幡町商店街。「お客はどこまでが西鉄街で、どこからが因幡町商店街か、よく分からないまま買い物をする」(『福岡天神都心界五十年の歩み』1999)ほど一体の関係だったらしいが、その境目には緩やかな坂があったという。

 一方、福博電気軌道が1910年に開業したのは大学前~黒門間。後の西鉄市内線の貫線の一部で、現在の明治通りを走っていた。この敷設工事で生まれた段差のある土地を、所有する福岡市は後々公園として整備する考えだったとされる。しかし、戦後、焼け野原となった天神の復興が進む中で、問題の土地は段差を境に東側は「戦災復興会」、西側は西鉄不動産の前身の昌栄土地に払い下げられ、それぞれ独自に商店街が形成された。段差はそのままだったため、両商店街間の通路はスロープ状にならざるを得なかったのだ。

 現在のコア、ビブレも連絡通路で結ばれているとは言え、コアは西鉄、ビブレは再開発組合が独自に建てたもので、運営も別々だ。段差が残ったのは別に歴史を重んじたわけではなく、ただ単に解消することに考えが及ばなかっただけかもしれない。連絡通路にしても、設置の際には両者の間に意見の相違があったようで(『因幡町商店街35年史』1984)、段差は、密接な間柄でありながらも、一心同体にはなり得ないコアとビブレの関係を象徴するものとも思える。

 コアについては先頃、2020年3月に閉店予定ということが報道され、福岡では大きな反響を呼んだ。福岡市は現在、容積率を緩和することで民間にビル建て替えを促す「天神ビッグバン」を進めており、西鉄はこれに応え、コアと隣接する自社ビルの福岡ビルとを一体で再開発する方針だと報じられている。ビブレ側の再開発参加も望んでいるという。テナントの意向もあり再開発の先行きはまだ、不透明なところがあるが、仮に西鉄の構想通りに進んだ場合、段差は、三度目の正直で今度こそ解消されることになるのだろうか。
[Edit]

脇山口交差点に横断歩道増設

IMG_8434.jpg

IMG_8438.jpg


 福岡市早良区の脇山口交差点に3月下旬、ようやく横断歩道が増設された。周辺には西新商店街や修猷館高校、西南学院大などがあり、人通りが非常に多い交差点なのだが、上の地図で示したA~B地点間には横断歩道がなく、歩行者は何十年もの間、AからBに行くには地図の青線で示したルートを通る必要があったのだ。

 なぜ、こんなバカげたことがまかり通ってきたのか。この交差点は車の交通量も多く、市内でも有数の渋滞ポイントになっている。中でも朝の通勤時間帯は、天神・博多駅方面(地図では右側)に向かう車が多く、A~B間に横断歩道があったのでは右左折車を妨げ、渋滞はさらに悪化しかねない。要するに車の流れを少しでもスムーズにするため、歩行者に不便を強いてきたのだろう。

 これは私の憶測だけではなく、過去の市議会でも横断歩道増設を求める市議に対し、担当局長らは「当該交差点は主要渋滞箇所であるとともに、歩行者なども多いことから、自動車交通の円滑化及び歩行者の利便性の向上、安全性の確保などを総合的に勘案しながら、交通管理者と協議してまいります」などと気のない答弁を繰り返してきた。

 ただ、これまでまったくの無策だったわけではなく、今となっては大昔になるが、1970年代に持ち上がった西新商店街再開発には、当時から交通の難所だった脇山口交差点と現在の旧・プラリバ前交差点の改良という目的もあった。ところが、城南線を挟んだ東側ではもめにもめながらも再開発が進み、西新エルモール(後のプラリバ)が誕生したが、西側は再開発を拒み、結果として早良街道側は交差点改良が進まなかった経緯がある。

 商店街側はその後、商店街への導線を確保するため、問題の横断歩道新設を求め続けてきたが、上記答弁にみられるように、これまではまったく省みられなかった。これは完全に私の臆測だが、市内部には長年、再開発を拒否し、都市計画を台無しにした商店街に対する憤まんがくすぶっていたのではないだろうか。

 それでも、ここに至って、ようやく市民の声が届き、交差点は真っ当な姿となったわけだから、やはり、おかしなことには「おかしい」と言い続けるべきだと痛感する。おかしなことが多い福岡市に長年住んでいると、つい「福岡はこんなものだから」とあきらめてしまいがちだが。新たな横断歩道は、車側に注意を促すためか、白と赤のラインが派手に描かれ、歩行者が渡った後に右折車を通している。いずれは歩車分離式の交差点に変更することも検討されているという。
[Edit]

福岡城跡で夜桜見物

IMG_8411.jpg

IMG_8389.jpg

IMG_8397.jpg

 福岡城跡の舞鶴公園で30日夜、夜桜を見物してきた。同公園では4月8日まで「福岡城さくらまつり」が開催中で、ソメイヨシノやシダレザクラなど約1,000本の桜がライトアップされ、平和台球場跡地の広場には数多くの屋台が並んでいる。30日は花の金曜日ともあり、大変なにぎわいだった。この「福岡城さくらまつり」は意外に歴史が浅く、第1回が開かれたのは2010年。初の試みに17万人が集まり、大盛況だったことから恒例行事となった。福岡市の夜桜の名所と言えば、以前は西公園の方が有名だったが、まつりが始まって以降は舞鶴公園にお株を奪われた感がある。

 ただし、まつり開催にはそれなりの費用がかかるためか、天守台一帯、多聞櫓、御鷹屋敷跡の3箇所は午後6時以降、有料スペースとなっている。入場料は1箇所300円、共通券が600円。高い場所から夜桜を眺めたかったので、天守台にだけ入場したが、天守台に通じる階段を登る際に驚いたのは、前後にいたのが中国人観光客らしき家族連れだったことだ。この数年、花見の季節には近隣諸国からの観光客が非常に目立つようになった。また、夜桜の下で大盛り上がりしている外国人グループを近年は良く見かける。日本独特の花見文化が海外にも広まっているのだろうか。
[Edit]

筥崎宮の大鳥居、解体へ

IMG_0639.jpg

IMG_0637.jpg

IMG_8286.jpg

 福岡市東区箱崎の国道3号線沿いにそびえる筥崎宮の大鳥居が、老朽化により解体されることになった。報道で知り、10日に現地に行ったところ、鳥居はすでに工事用フェンスで囲われ、くぐれない状態になっていた。再建には5億円もの巨費が掛かると見込まれ、神社側に再建の考えはないらしい。学生時代、近辺に住んでいたこともあり、くぐったことは数限りなくあるが、だからと言って格別思い出があるわけでもない。ただ、この鳥居がなくなれば、筥崎宮参道の風景はずいぶん変わることだろう。

 地元紙の記事によると、大鳥居は鉄筋コンクリート製で、高さ16.25㍍、柱の周囲が10.30㍍。県会議長で、後に初代田川市長にもなった林田春次郎の寄進により、1930年(昭和5)に完成した。林田はほかにも数々の神社に鳥居を寄進したという。鳥居の建造には当時も巨費が必要だったことだろう。それをあちこちの神社に建てたのだから、相当の資産家だったのは間違いない。調べてみると、田川市の前身の伊田村(町)の村長・町長を長く務め、その傍ら、実業家としても一代で巨万の富を築いた立志伝中の人物。戦前は町村長と県議の兼任が可能だったようで、県会議長時代は伊田町長も現職だった。

 県会議長と町長、閑職とは思えない仕事を二つも掛け持ちできるのだろうとか不思議に思ったが、『福岡県議会史』昭和篇第一巻(1957)収録の『福岡県会物語』にもっと驚くべきことが書かれていた。県会議長就任当時、林田は伊田町長のほか、県町村会長、県信連会長など約30もの公職に就いており、その数がもう少しで36に達することから「一里議長」のあだ名があったという。メートル法で育った現代人には意味がわからないが、1里が36町だったことから36長と掛けた。戦前にこんな人物が当たり前にいたわけではなく、『県会物語』には「斯く多数の公職を持った人も珍しい」とあった。

 実業家としては、1943年(昭和18)の人名辞典には林田朝鮮農事改良株式会社社長、殖産株式会社代表、小倉鉄道取締役といった肩書が書かれていた。また、県信連会長の職にあったことを考えれば、金融業にもかかわっていたと思われる。さらに1933年、福岡市(当時は糟屋郡)の香椎沖5万坪を埋め立て、畑地にするという工事計画書にも代表者として林田の名があった。

 公職だけでなく、実業家としても数々の肩書を持っていたわけで、これで町長(村長)としての務めを果たしていたのだろうかと疑わしくなるが、「夙に村治に参与して自治の発展に尽し、私財を公共のために投じて地方の振興のために寄与せり」と政治家として激賞する資料(『有栖川宮記念厚生資金選奨録』1940)があった。何より伊田村長となったのは、弱冠34歳の時で、それ以降、約40年もの間、伊田村(町)、さらに合併により誕生した田川市政のかじ取り役であり続け、当時の自治体首長の在任記録を持っていたという。戦後、公職追放となり、地方自治の表舞台から去ったが、間違いなく県政史に残る政治家だったのだろう。

 改めて見た筥崎宮の大鳥居は、結構な大きさだった。高さ16㍍超ということは、5階建てのマンションぐらいはあるだろうか。解体工事は4月末までに終わるという。
[Edit]

今さら宮崎の「貞蔵道路」について

 宮崎市に「貞蔵道路」と呼ばれていた道がある。正式名称は市道大島通線。JR宮崎駅東側の宮脇町から市北部の島之内までの8㌔あまりを結んでいる。貞蔵とは、1982年から94年まで宮崎市長を務めた長友貞蔵氏のことで、大島通線は長友氏在任中の1988年12月に開通した。終点近くにあったのが長友氏の自宅。「自分の通勤専用道路を造った」と一部市民に反感を持たれたのが貞蔵道路の名の由来で、愛称と言うよりは、長友氏への非難、批判が混ざった俗称だった。開通当時、この街の納税者だった私も苦々しく思っていた一人だが、先日、ほぼ30年ぶりにこの道を通り、少し考えを改めてきた。

 30年前の開通当初、宮崎駅東側の市街地を過ぎると、沿線は田畑ばかり。私も何度か原付バイクで通ったが、利用する車は少なく、その分、たまに通る車は結構なスピードで爆走しており、怖い思いもした。渋滞の激しい国道10号線のバイパス的存在として計画された路線ではあったが、当時はJR日豊線が高架化されていなかったため接続が悪く、狙い通りの効果を上げているとは言い難かった。開通からしばらくたっても、沿線に進出してきた施設はスイミングスクールぐらいだった記憶がある。

 ところが、30年後の現在、沿線には飲食店をはじめとする郊外型店舗が立ち並び、昔ながらの田園風景を残している箇所はわずかになった。また、国道10号線のバイパス機能も十二分に果たしているらしく、かえって通行車両が増えすぎ、この道が渋滞することも日常茶飯事だという。30年もたてば、ずいぶん事情は変わるものだと思い、道の成り立ちについて改めて調べてみたところ、少し勘違いをしていたことに気付いた。長友氏の市長時代に計画され、整備された市道とばかり思っていたが、建設計画が立てられたのは1970年度、長友氏が市長に就任する10年以上も前のことだったのだ。

 貞蔵道路こと、大島通線は19年がかりで完成したことになる。ただし、工事が延々と19年も続いていたわけではなく、駅東側の一部区間が完成した後、残る区間の整備は遅々として進まず、再び動かしたのが長友氏だったようだ。従って、彼の強い意志によって完成した道路であることは間違いない。総事業費は31億円だったという。

 長友氏は94年、3期目の任期満了を前にして病に倒れ辞職、間もなく死去した。宮崎を離れていた私は知るよしもなかったが、大島通線はこの頃にはすでに国道10号線のバイパス機能を果たしており、この道の完成は長友氏の大きな功績の一つに数えられていたという。ただし、長友氏の死後になってもなお、市議会の会議録には「亡くなられた長友貞蔵さんには申しわけありませんが、貞蔵道路いうてどこやろうかいと、私すぐわかります。ところが、大島通線いうと、どこじゃろうな」といった発言が記録されている。長友氏と反目していた旧社会党市議の発言ではあるが、「市長が巨費をかけて自分のために造った道路」という疑いもまた、根強く残っていたのだろう。

 貞蔵道路という名に対し、現在の宮崎市民はどのような認識を持っているのだろうか。試しに親族の若者たちに尋ねてみたところ、残念ながら、誰一人として貞蔵道路の名も長友氏も知らなかった。大島通線開通から30年、長友氏の死去からもすでに24年。若者たちにとっては大昔の話で、そんな時代に出来た道路の異名に今なおこだわる自分が滑稽に思えた。
[Edit]

壮観だった「糸島のひなまつり」

IMG_8182.jpg

IMG_8177.jpg

IMG_8184.jpg

 糸島市の農産物直売所で買い物をした帰り、直売所近くにある志摩歴史資料館に数年ぶりに立ち寄ってきた。開催中だった企画展は「糸島のひなまつり2018」。多数のひな人形を展示するだけの催しだ。生まれ育った家庭も、現在の家庭も、ひな祭りとは全く無縁の家族構成だったため、世の中に数ある「祭り」の中で最も関心がない。正直、家族と合わせ2人分の入館料420円を支払ってしまったことを後悔したが、それこそ後の祭りなので、2階の常設展示室に行く前に、1階の企画展示室も一応のぞいてみた。意外に壮観だった。

 「糸島のひなまつり」は今年で17回目を迎える同館の恒例企画で、毎年多数の来館者を集める人気の催しとか。今年展示されている人形は、市民から借り受けた計516体。豪華な段飾り、御殿飾りが多数並び、企画展示室だけではスペースが足りず、一部はロビーにも飾られていた。これほど多数のひな人形を見るのは初めてだったが、間近で見るのも多分初めてだった。もちろん、日本人の中高年なのだから、店先や展示会場などで見たことぐらいはあるが、おおむねガラスケース越しだった。考えてみれば、ひな飾りがある家さえも身近には存在しなかった。

 展示されている人形の多くは昭和の作品で、恐らくは娘さんがある程度の年齢になり、現在では家庭では飾られる機会がなくなったものなのだろう。どの人形も顔も衣装も非常にきれいな状態で、大事にされてきたことが想像できた。

 初めて知ったことも色々とあった。お内裏様、おひな様の並びが揃いによっては左右バラバラだったので、「どちらでも良いのかな」と家族と話し合っていたのだが、ちゃんと説明書きがあった。京都をはじめとする関西地方では向かって左がおひな様、右がお内裏様という並びだが、西洋の影響を受けた東京では逆(西洋では右側が上位という考えで、女性を右に置いた)。高度成長期、ひな飾りの地方色が薄れていく中で、東京風が全国に広まり、現在ではこれが主流らしい。また、三人官女のうち、眉がないのは既婚者で、おおむね真ん中がそうだが、展示作の中には左側というケースもあった。意味が分からないが、作者の好みなのだろうか。

 「糸島のひなまつり」は3月21日まで。入館料は大人210円。蛇足だが、資料館1階隅の昭和の暮らし紹介コーナーに、以前はなかったホーロー看板が多数展示されており、目を引いた。蚊取り線香の「アース渦巻」、大塚の「ボンカレー」等々。市内にホーロー看板を収集してきた人がおり、寄託、または寄贈を受けて常設展示することになったようだ。こんなコレクションも世の中にはあるのだと感心した。
[Edit]

消える久保猪之吉の旧邸跡

IMG_8164.jpg

 福岡市中央区の赤坂門にあった久保猪之吉の旧邸跡が取り壊されている。久保猪之吉とは、1907年(明治40)から35年(昭和10)にかけて九州帝国大学医学部耳鼻咽喉科の教授を務め、文化人としても著名だった人物。当時の久保邸には柳原白蓮らの文化人が集い、福岡の文化サロン的な存在だったという。この当時の住宅が残っていたわけではないが、オフィス街のど真ん中にありながら、敷地内には木々が鬱蒼と茂り、私にとっては長く“謎の存在”だった。口コミ情報だが、企業が敷地を買い取ったらしい。

 旧邸跡については、2015年1月に書いた
「福岡城下町の発掘調査」の中で取り上げたことがある。この時は個人宅だったので、住所や写真の掲載は控えたが、赤坂門にある赤レンガ塀の屋敷とは書いていたので、ピンと来る人は多かっただろうと思う。

 久保猪之吉についてはインターネット上にも数多くの情報があふれているので、詳しくは記さないが、ドイツ留学で世界最先端の医学を学んできた人物で、その名は内外にとどろき、彼の診療を受けたいと海外からも患者が訪れる程だったという。『土』の長塚節、『出家とその弟子』の倉田百三、闘病中だった作家が相次ぎ福岡に来たのも、久保を頼ってのこと。長塚は九大病院で死去している。九州大医学部には、久保の功績をたたえた久保記念館や久保通りなどがある程だ。

 ただ、久保邸サロンの主宰者は彼ではなく、より江夫人の方だったようだ。松山の生まれで、その生家に夏目漱石が下宿していた縁で、漱石はもちろん、漱石の下宿に転がり込んでいた正岡子規とも親交があり、長塚節は漱石の紹介状を持って久保を訪ねてきたという。福岡時代の夫人は高浜虚子に師事して歌人として活躍する一方、柳原白蓮とともに“福岡社交界の華”とうたわれた。1924年(大正13)7月1日の読売新聞には「久保博士夫人が久しぶりの上京」という見出しで写真付きの記事が掲載されており、上京が東京の新聞でニュースになる程の存在だったことがわかる。

 2015年記事と重複するが、久保邸のその後の来歴について記しておくと、久保が九州帝国大を定年退官し、東京に移住する際、久保の医局の後輩で、やはり文化人でもあった曽田共助(公孫樹)が屋敷を買い取り、戦後は一時、旅館となっていた。現在、自動車ディーラーがある辺りに、当時の福岡では有名だったキャバレーがあり、ここでのアトラクションに出演していたタレントの定宿として繁盛していたという。上にも書いたが、最近までは個人宅だった。“オフィス街の森”は今後どうなるのだろうか。

 【2月26日追記】木々は伐採され、ものの見事に更地になってしまいました。
[Edit]