今さら宮崎の「貞蔵道路」について


 宮崎市に「貞蔵道路」と呼ばれていた道がある。正式名称は市道大島通線。JR宮崎駅東側の宮脇町から市北部の島之内までの8㌔あまりを結んでいる。貞蔵とは、1982年から94年まで宮崎市長を務めた長友貞蔵氏のことで、大島通線は長友氏在任中の1988年12月に開通した。終点近くにあったのが長友氏の自宅。「自分の通勤専用道路を造った」と一部市民に反感を持たれたのが貞蔵道路の名の由来で、愛称と言うよりは、長友氏への非難、批判が混ざった俗称だった。開通当時、この街の納税者だった私も苦々しく思っていた一人だが、先日、ほぼ30年ぶりにこの道を通り、少し考えを改めてきた。

 30年前の開通当初、宮崎駅東側の市街地を過ぎると、沿線は田畑ばかり。私も何度か原付バイクで通ったが、利用する車は少なく、その分、たまに通る車は結構なスピードで爆走しており、怖い思いもした。渋滞の激しい国道10号線のバイパス的存在として計画された路線ではあったが、当時はJR日豊線が高架化されていなかったため接続が悪く、狙い通りの効果を上げているとは言い難かった。開通からしばらくたっても、沿線に進出してきた施設はスイミングスクールぐらいだった記憶がある。

 ところが、30年後の現在、沿線には飲食店をはじめとする郊外型店舗が立ち並び、昔ながらの田園風景を残している箇所はわずかになった。また、国道10号線のバイパス機能も十二分に果たしているらしく、かえって通行車両が増えすぎ、この道が渋滞することも日常茶飯事だという。30年もたてば、ずいぶん事情は変わるものだと思い、道の成り立ちについて改めて調べてみたところ、少し勘違いをしていたことがわかった。長友氏の市長時代に計画され、整備された市道とばかり思っていたが、建設計画が立てられたのは1970年度、長友氏が市長に就任する10年以上も前のことだったのだ。

 貞蔵道路こと、大島通線は19年がかりで完成したことになる。ただし、工事が延々と19年も続いていたわけではなく、駅東側の一部区間が完成した後、残る区間の整備は遅々として進まず、再び動かしたのが長友氏だったようだ。従って、彼の強い意志によって完成した道路であることは間違いない。総事業費は31億円だったという。

 長友氏は94年、3期目の任期満了を前にして病に倒れ辞職、間もなく死去した。宮崎を離れていた私は知るよしもなかったが、大島通線はこの頃にはすでに国道10号線のバイパス機能を果たしており、この道の完成は長友氏の大きな功績の一つに数えられていたという。ただし、長友氏の死後になってもなお、市議会の会議録には「亡くなられた長友貞蔵さんには申しわけありませんが、貞蔵道路いうてどこやろうかいと、私すぐわかります。ところが、大島通線いうと、どこじゃろうな」といった発言が記録されている。長友氏と反目していた旧社会党市議の発言ではあるが、「市長が巨費をかけて自分のために造った道路」という疑いもまた、根強く残っていたのだろう。

 貞蔵道路という名に対し、現在の宮崎市民はどのような認識を持っているのだろうか。試しに親族の若者たちに尋ねてみたところ、残念ながら、誰一人として貞蔵道路の名も長友氏も知らなかった。大島通線開通から30年、長友氏の死去からもすでに24年。若者たちにとっては大昔の話で、そんな時代に出来た道路の異名に今なおこだわる自分が滑稽に思えた。
スポンサーサイト
[Edit]

壮観だった「糸島のひなまつり」

IMG_8182.jpg

IMG_8177.jpg

IMG_8184.jpg

 糸島市の農産物直売所で買い物をした帰り、直売所近くにある志摩歴史資料館に数年ぶりに立ち寄ってきた。開催中だった企画展は「糸島のひなまつり2018」。多数のひな人形を展示するだけの催しだ。生まれ育った家庭も、現在の家庭も、ひな祭りとは全く無縁の家族構成だったため、世の中に数ある「祭り」の中で最も関心がない。正直、家族と合わせ2人分の入館料420円を支払ってしまったことを後悔したが、それこそ後の祭りなので、2階の常設展示室に行く前に、1階の企画展示室も一応のぞいてみた。意外に壮観だった。

 「糸島のひなまつり」は今年で17回目を迎える同館の恒例企画で、毎年多数の来館者を集める人気の催しとか。今年展示されている人形は、市民から借り受けた計516体。豪華な段飾り、御殿飾りが多数並び、企画展示室だけではスペースが足りず、一部はロビーにも飾られていた。これほど多数のひな人形を見るのは初めてだったが、間近で見るのも多分初めてだった。もちろん、日本人の中高年なのだから、店先や展示会場などで見たことぐらいはあるが、おおむねガラスケース越しだった。考えてみれば、ひな飾りがある家さえも身近には存在しなかった。

 展示されている人形の多くは昭和の作品で、恐らくは娘さんがある程度の年齢になり、現在では家庭では飾られる機会がなくなったものなのだろう。どの人形も顔も衣装も非常にきれいな状態で、大事にされてきたことが想像できた。

 初めて知ったことも色々とあった。お内裏様、おひな様の並びが揃いによっては右左バラバラだったので、「どちらでも良いのかな」と家族と話し合っていたのだが、ちゃんと説明書きがあった。京都をはじめとする関西地方では向かって左がおひな様、右がお内裏様という並びだが、西洋の影響を受けた東京では逆(西洋では右側が上位という考えで、女性を右に置いた)。高度成長期、ひな飾りの地方色が薄れていく中で、東京風が全国に広まり、現在ではこれが主流らしい。また、三人官女のうち、眉がないのは既婚者で、おおむね真ん中がそうだが、展示作の中には左側というケースもあった。意味が分からないが、作者の好みなのだろうか。

 「糸島のひなまつり」は3月21日まで。入館料は大人210円。蛇足だが、資料館1階隅の昭和の暮らし紹介コーナーに、以前はなかったホーロー看板が多数展示されており、目を引いた。蚊取り線香の「アース渦巻」、大塚の「ボンカレー」等々。市内にホーロー看板を収集してきた人がおり、寄託、または寄贈を受けて常設展示することになったようだ。こんなコレクションも世の中にはあるのだと感心した。
[Edit]

消える久保猪之吉の旧邸跡

IMG_8164.jpg

 福岡市中央区の赤坂門にあった久保猪之吉の旧邸跡が取り壊されている。久保猪之吉とは、1907年(明治40)から35年(昭和10)にかけて九州帝国大学医学部耳鼻咽喉科の教授を務め、文化人としても著名だった人物。当時の久保邸には柳原白蓮らの文化人が集い、福岡の文化サロン的な存在だったという。この当時の住宅が残っていたわけではないが、オフィス街のど真ん中にありながら、敷地内には木々が鬱蒼と茂り、私にとっては長く“謎の存在”だった。口コミ情報だが、企業が敷地を買い取ったらしい。

 旧邸跡については、2015年1月に書いた
「福岡城下町の発掘調査」の中で取り上げたことがある。この時は個人宅だったので、住所や写真の掲載は控えたが、赤坂門にある赤レンガ塀の屋敷とは書いていたので、ピンと来る人は多かっただろうと思う。

 久保猪之吉についてはインターネット上にも数多くの情報があふれているので、詳しくは記さないが、ドイツ留学で世界最先端の医学を学んできた人物で、その名は内外にとどろき、彼の診療を受けたいと海外からも患者が訪れる程だったという。『土』の長塚節、『出家とその弟子』の倉田百三、闘病中だった作家が相次ぎ福岡に来たのも、久保を頼ってのこと。長塚は九大病院で死去している。九州大医学部には、久保の功績をたたえた久保記念館や久保通りなどがある程だ。

 ただ、久保邸サロンの主宰者は彼ではなく、より江夫人の方だったようだ。松山の生まれで、その生家に夏目漱石が下宿していた縁で、漱石はもちろん、漱石の下宿に転がり込んでいた正岡子規とも親交があり、長塚節は漱石の紹介状を持って久保を訪ねてきたという。福岡時代の夫人は高浜虚子に師事して歌人として活躍する一方、柳原白蓮とともに“福岡社交界の華”とうたわれた。1924年(大正13)7月1日の読売新聞には「久保博士夫人が久しぶりの上京」という見出しで写真付きの記事が掲載されており、上京が東京の新聞でニュースになる程の存在だったことがわかる。

 2015年記事と重複するが、久保邸のその後の来歴について記しておくと、久保が九州帝国大を定年退官し、東京に移住する際、久保の医局の後輩で、やはり文化人でもあった曽田共助(公孫樹)が屋敷を買い取り、戦後は一時、旅館となっていた。現在、自動車ディーラーがある辺りに、当時の福岡では有名だったキャバレーがあり、ここでのアトラクションに出演していたタレントの定宿として繁盛していたという。上にも書いたが、最近までは個人宅だった。“オフィス街の森”は今後どうなるのだろうか。
[Edit]

曳家で近代建築を移設

IMG_8113.jpg

IMG_8126.jpg

IMG_0502.jpg

 宮崎市の中心部で今月10日まで、推定で総重量3,000㌧もの近代建築を曳家で移設する工事が行われていた。予定より約1か月半遅れたものの、無事70㍍の移動が終わり、今後、基礎工事が進められるという。たまたま宮崎に行く用事があったため、10日、現場を見てきた。あいにく移動は終わった後だったが、ジャッキで浮いた状態の近代建築という滅多に見られないものを目にすることができた。

 この建物は宮崎県庁舎5号館(宮崎市橘通東1)。鉄筋コンクリート造り2階建て、830平方㍍で、外観は赤レンガで装飾されている。1926年(昭和元年)、宮崎農工銀行の社屋として建設され、農工銀が勧銀に吸収された後は(第一)勧銀宮崎支店として使用されていた。宮崎県庁本館(下写真)も1932年(昭和7)完成の堂々たる近代建築だが、これよりもさらに歴史ある建物だ。地元紙の記事には、1986年に県が取得し、2015年までは県文書センターとして利用されていたと書かれていたが、当初は県史編さん室が入居していたような記憶がぼんやりとある。例によって記憶違いかもしれないが…。

 曳家によって移動されることになったのは、道路沿いにある5号館の敷地に、大規模災害等に備えた防災拠点庁舎が建設されることになったためで、5号館は最初、いったん解体された後、奥まった場所に外観復元する計画だった。しかし、宮崎市内では数少ない近代建築とあり、3億7000万円余りを投じて建物丸ごと移動させることに方針転換したという。このあたりはネオ・ゴシック様式の県庁本館を大事に使い続ける宮崎県らしい判断だと思うが、県庁が古いから防災拠点庁舎が新たに必要になるわけでもある。レトロ建築の役所など非常に格好いいと思うが、危機管理の面からは別の評価もあるだろう。

 曳家は、建物を基礎から切り離した後、ジャッキで持ち上げ、鉄製の丸太の上に乗せて動かす、いわゆるコロの仕組みで行われた。昨年11月に作業がスタートし、昨年中には終わる予定だったが、途中で建物の向きを変える作業に慎重を期し、2月までずれ込んだ。先の地元紙記事によると、最初に北西に40㍍、建物の向きを反時計回りに100度回転させた後、さらに北に30㍍動かし、正面玄関は北向きから東向きに変わったという。5号館の使用が再び始まるのは2019年度末からの予定で、今度は展示スペースや会議室として使用される。展示スペースならば、一般人も入れるわけで、機会があれば、内部も見学してみたいと思う。

 蛇足だが、この5号館の並びに持ち帰り弁当店があり、宮崎に住んでいた頃によく利用していた。非常にボリュームのある弁当で、20歳代だったあの頃はそれがうれしかったが、さすがに今はしんどいかもしれない。弁当店は現在も健在。親族と5号館の話題で酒を飲んでいたところ、最後は弁当店の思い出話で盛り上がった。


IMG_8131.jpg
[Edit]

昔、大濠公園の水がぜんぶ抜かれた

IMG_8099.jpg

IMG_8096.jpg

IMG_8101.jpg

 テレビ東京系で不定期に放送されている『池の水をぜんぶ抜く』という番組を先日見ていて、福岡市中央区の大濠公園でも以前、池の水が全て抜かれたことがあったと思い出した。ただし、非常に漠然とした記憶で、いつ頃の話だったかも覚えていなかったので、経緯などを調べてみた。30年前の1988年、大掛かりな水質浄化工事が福岡県によって行われ、その一環として水抜きされたとわかった。広さ21㌶、水量35万㌧もの巨大池が一時、完全に干上がった状態になっていたのだ。ちょうど県外で勤務していた私は、その姿を直には見ておらず、『池の水をぜんぶ抜く』の意外な面白さを思うと、少し惜しいことをしたと思う。

 大濠公園は1929年(昭和4)完成の県営公園で、広さは40㌶。池が半分強を占めていることになる。池の水質は今でこそ、都市部の公園にしては比較的きれいな状態だが、流入河川がないため1970~80年代頃は富栄養化が進み、悪臭が漂い、魚の死骸が浮いているような池だった。「だった」と断定調で書いたものの、実はこれについてもあまり記憶がない。長年福岡に住んでいながら、つくづく何も見ていない、何も覚えていないものだと我ながら情けなくなるが、たとえ池の水が汚かろうとも大濠公園は今も昔も立派なデートスポットで、そしてジョギングのメッカだ。どちらにしても私には無縁の場所だった。

 それはともかく、当時の大濠公園の池の底にはヘドロがたまり、水質が悪化の一途だったのは紛れもない事実で、池の浄化は、奥田八二・革新県政(1983~95)の課題の一つともなっていた。一番の難問だったのが膨大な量のヘドロ除去で、「いっそのこと池ごと消してしまえ」と池の全面埋め立てさえ検討されていたという。

 さすがに池埋め立ては奥田知事が却下し、最終的にまとまったのが、池の水を黒門川経由で博多湾に排出した後、ヘドロを乾燥させた上で薬品で固め、池の底に埋めるというプラン。1988年6月から、本格的な排水がスタートし、ヘドロ処理の後、翌年2月に再び水を戻す作業が始まった。公園の池は半年以上も干上がった状態だったことになる。91年には浄化施設も完成した。公園の北西部、黒門川の横にあるのがその浄化施設で、近くの水路にゴーゴーと流れ落ちているのが処理済みの水だ。1日1万5000㌧の浄化能力があるというが、現在は施設の更新工事中で、フル稼働はしていない模様だ。

 ところで、公園に生息していた魚はどうしたのか。また、流入河川はないはずなのに、再びどうやって水を貯めたのか。浄化工事の概要については、細かい日程以外はインターネット上にも情報があったが、これらの疑問に対する答えは見つからなかった。当時の新聞記事等を当たってみたところ、魚はフナやライギョなど6万匹あまりを捕獲し、大半は県内河川に放したが、フナなど一部は養魚場に避難させ、工事完了後に戻したという。水については、雨水、地下水に加え、黒門川を通じて一部海水を引き込んだ。大濠公園の前身は、入り江を埋め立てて造られた福岡城の外堀で、もともと池の水は汽水だったことから、工事前と同じ環境に復元したという。

 なお、『池の水をぜんぶ抜く』とは異なり、池の底からお宝などは発見されなかったようだ。代わりにというわけではないが、水抜き前、自衛隊の協力を得て行った金属探査で焼夷弾11発が見つかり、処理されたという。1945年6月19日の福岡大空襲の遺物だろう。
[Edit]

ワシントニアパーム

IMG_0430.jpg

IMG_4853.jpg

IMG_0450.jpg

 この冬一番の寒さとなった12日午前、福岡市早良区のシーサイドももち海浜公園を散策していて、冷たい海風に葉をなびかせるワシントニアパーム(ワシントンヤシ)が目に付き、写真に収めてきた。宮崎市などでは南国ムードを演出している木だが、名前で想像がつくように実際は北米原産。意外に寒さに強く、氷点下数度までは耐えられると聞く。数十年前の中学時代、宮崎に修学旅行に行き、初めてこの木を目にした時は、少々大げさに言えば「ここは日本か!」と驚いたものだが、素性を知ってしまった今、福岡の人工海浜で寒風に耐えるワシントニアパームを見ても、南国情緒などかけらも感じられない。

 このワシントニアパーム、幕末、外国人によって長崎に持ち込まれたのが最初らしいが、宮崎では1960~70年代、街路樹として800本あまりが植えられた。発案者は、宮崎交通の創業者で「宮崎観光の父」とも呼ばれる岩切章太郎氏(1893~1985)で、岩切氏はワシントニアパームだけでなく、フェニックスやブーゲンビリアなどの植栽を進め、宮崎を彩った。岩切氏の観光開発の手法は、自ら「大地に絵を描く」と評した程、大胆なもので、岩切以前と以後とでは宮崎の都市景観は全く別物に変わったのではないかと思う。古い写真で確かめると、ワシントニアパームが植えられるまで、宮崎のメインストリート橘通りには街路樹はなく、市内の緑で目立っていたのは松の木だ。

 宮崎のほか、四国の高知や宇和島など、南国を売りにしたい多くの街でワシントニアパームは植えられたようだが、冒頭書いたように九州や四国程度の冬の寒さには十分耐える上、潮風や大気汚染にも強い。どの街でも高さ20㍍前後にまで生長し、剪定が大仕事になった。かと言って放っておけば、枯れ枝が強風で落下して危険というジレンマに陥り、伐採に踏み切った街も少なくないという。宮崎でも数年前、大木に育ったワシントニアパームの取り扱いを巡り、議論になったが、段階的に若木に植え替えることで現在の都市景観を守るという結論に落ち着いた。

 福岡市内にも実は街路樹として植えられたワシントニアパームが大木にまで成長している場所がある。博多駅と博多港とを結ぶ大博通のうち、呉服町交差点より北側では中央分離帯にワシントニアパームが植えられているのだ。普通に歩いていたら視界に入らない上、南国ならぬ福岡には似つかわしくない木のためか、今まで意識して見たことはなかったが、ビルの5階ぐらいの高さにまで育っている。恐らく20㍍前後はあるだろう。博多港の再開発計画に伴い、大博通りには新たな交通機関としてロープウェーを建設しようという奇怪な構想が浮上している。それでなくとも、これほどの高さまで育っているのだから、福岡でもいずれワシントニアパームをどうするかの議論が起きることだろう。

 ところで、大博通りのワシントニアパームはいつ植えられたのか。育ち具合を考えれば、宮崎とさほど変わらない時期に植えられたとも思われ、だとしたら、宮崎以前に地元・福岡でこの木を目にしていた可能性はある。全く記憶にないが。写真は上から、シーサイドももち海浜公園、宮崎市の橘通り(2016年5月撮影)、大博通り。
[Edit]

「親不孝通り」表示板も変更

IMG_7965.jpg

IMG_7968b.jpg

 福岡市・天神の親不孝通りで、街路灯の表示板を「親不孝通り」に付け替える作業が進んでいる。この通りは2000年以来、「親富孝通り」を名乗っていたが、今年2月、地元商店主らによる話し合いで、以前の愛称「親不孝通り」が復活した。年の瀬になって表示板の変更作業がようやく始まり、通りには現在、新しい親不孝通りの表示板のほか、付け替え前の親富孝通り、さらには旧名を塗りつぶした状態のものまで混在している。

 この通りの由来等については、ちょうど2年前
「親不孝通り復活?」で取り上げたことがあるが、もう一度簡単におさらいしておきたい。正式名称は天神万町通りで、昭和通りと那の津通りを結んでいる。那の津通り沿いに1970年代、九州英数学舘、水城学園の地元予備校2校が相次いで開校したことが、親不孝通り誕生の要因だったことは間違いない。

 この2校の生徒たち、つまり現役で大学に合格できなかった親不孝者たちが通学のため、ここをゾロゾロと通っていたことで70年代後半(一説によると、78年頃)、親不孝通りの愛称が生まれたと私は記憶している。恐らく、当時を記憶する福岡市民の多くが同様の意見ではないかと思う。

 ところが、通りの名称問題を報じた地元紙・西日本新聞が異論を唱えだした。2015年10月30日朝刊で「1970年代、近くの予備校に通う浪人生たちが勉強をよそに居酒屋に出入りする姿から『親不孝通り』と呼ばれた」と報じたのだ。「親不孝通り復活?」を書いたのは、通りに飲食店などが進出しだしたのは愛称誕生後だった記憶があり、記事に違和感を覚えたのがきっかけだった。

 この時に調べた結果、愛称誕生以前、夜の通りは「完全に真っ暗」だったが、ポツポツと飲み屋は存在したとわかった。中にはこれらの店に出入する予備校生がいたかも知れないが、通りの愛称の由来になる程、そんな不心得者が多数いたとは到底考えられない。いくらおおらかな時代だったとはいえ、浪人生活はそんな甘いものではないだろう。しかし、西日本新聞はどうしても「飲み歩く予備校生」のせいにしたいらしく、表示板の付け替えを報じる今月の記事でも同様のことを書いていた。

 親不孝通りの復活を巡る記事では、ほかにも疑問を感じるものがあった。例えば、NHKをはじめ複数のマスコミが「非行の温床」になっていたから、2000年に親富孝に変えたと報じていたが、そうではない。

 1980~90年代、この通りには多数の飲食店などが立ち並び、九州一円から多くの若者が集まるようになったが、同時に治安も悪化、名前が悪いと考えた地元の中央警察署が1997年、「親不孝通りの名前を使うな」と要求したのだ。署側はすぐに要求を引っ込めたが、市は従い、観光案内書などから親不孝通りの名前は完全に消えた。しかし、不景気もあって通りが次第に寂れていく中、地元は2000年、全盛期の愛称復活に動いた。だが、警察が嫌った名前に戻すことにはためらいがあったのか、妙な当て字を選んだのだ。

 親富孝通りの表記は、あまり評判が良いとは思えなかった。これが名実ともに消え去ることになり、歓迎している人は恐らく多いことだろう。
[Edit]

西公園の十月桜

IMG_0335.jpg

IMG_0361.jpg

 福岡市中央区西公園の光雲(てるも)神社前で、桜が咲いている。季節はずれの開花だと思い込み、ツイッターでも紹介してしまったのだが、「十月桜」という品種で、そもそも秋から冬にかけて開花する「冬桜」の一種だとわかった。中高年になっても知らないことばかりで、恥ずかしい限り。ただ、言い訳をさせてもらえれば、この桜は春にもしっかり開花するため、私みたいに秋に咲いているのを見て、狂い咲きと早とちりする人が少なくないらしい。なぜ、年に2度も咲くのかと言えば、「狂い咲きが常態化した」という説もあるというから、これが正しいのならば、妙な桜だ。

 その西公園、さくら谷からもみじ谷を経由して鵜来見亭方面に通じる遊歩道が真っ黄色に舗装された。舗装前は砂利道。自然を売りにした風致公園なのだから、舗装は必要ないのではと思ったが、ベビーカーや車いす利用者にとっては散策しやすくなることだろう。

 西公園は1881年(明治14)に開設された荒津山公園が前身で、1900年(明治33)に県営の西公園となった。17㌶の敷地内には、先の十月桜を含めて1,300本の桜があり、「日本さくら名所100選」に福岡県内からは唯一選ばれている。だが、桜の数は3,000本と言われた往時に比べて激減。また、松などが生い茂って視界を遮り、かつて貝原益軒が福岡藩の地誌『筑前国続風土記』の中で「此山にのぼりて四方をかえり見たる景色、いつも見るたびに目を驚かし、時々につけて人の心をうごかせり」と絶賛した眺望は見る影もない。(
「1,300本に減った西公園の桜」「眺めが残念過ぎる西公園」

 近隣には同じ県営の大濠公園があり、大きな池を取り巻く延長2㌔の散策路は連日夜遅くまで、ジョギングや散歩を楽しむ市民でにぎわっている。標高50㍍の荒津山に整備された西公園は適度な起伏があり、こちらを好むジョガーも少なくないのだが、木々のために場所によっては昼でも薄暗く、今年9月の県議会では、議員から「大濠公園のように、夜でも安心してジョギングやウォーキングができるように環境整備を」という声が上がっていた。黄色の舗装は、恐らくそういった要望に応えてのものだろう。

 園内には閉店した茶店の建物が残り、廃虚化を心配していたが、いつの間にか取り壊され、更地になっていた。散策路沿いでは、木々の剪定も続いている。県も西公園の現状に目を向け始めたようだ。
[Edit]

10万匹の野良猫

IMG_7576.jpg

IMG_0310.jpg

IMG_0245.jpg

 福岡市の推計によると、市内には10万匹の野良猫がいるらしい。もっとも、この数字は独自の調査に基づくものではなく、他都市の生息密度から計算しただけの代物で、どの程度の信頼性があるかはわからない。ただ、市が屋外で回収している猫の死体が毎年6,000~8,000体に上っていることを考えると、相当数の野良猫が生息しているのは間違いなく、市議会でも度々、野良猫対策が取り上げられている。

 ひとくちに野良猫対策と言っても、動物愛護の観点から質問する議員もいれば、野良猫を害獣と考え質問する議員もいるが、両者とも「地域猫」活動を広げるべきだという点では一致している。地域猫とは、野良猫を去勢したうえで、地域住民やボランティアが協力して一代限り世話をしようという試みだ。福岡市では2009年度からこの活動に取り組み、現在までに73地域が指定を受けている。指定地域では原則1年間、最長で2年間、野良猫の去勢費用を市が負担することになっており、昨年度までに2,000匹弱が去勢手術を受けたという。

 手術を受けた目印として、福岡市ではオスは右耳、メスは左耳の先端をカットすることになっている。よく散策している中央区西公園には多数の野良猫が住んでいるが、早良区百道浜辺りにいる警戒心の強い猫たちに比べ、西公園の猫たちは非常に人慣れしており、以前から不思議に思っていた。これらの猫たちは、どれも丸々としていて毛並みが良いが、時折、彼らの写真を撮っているうちに、どの猫も耳がカットされていることに気付いた。単なる野良猫ではなく、地域猫だったのだ。

 上の写真は、西公園でよく見掛ける猫たちで、一番上のキジ猫はいつも陽だまりで思い切り体を伸ばして昼寝をしている。すぐ横を通ってもチラッと顔を上げる程度で、人間が自分に悪さをするとは全く思っていないようだ。この写真ではわからないが、この猫をはじめ3匹とも右耳がカットされており、全てオスだとわかる。人間に捨てられ、野外生活を強いられている猫たちが幸せなはずがないとは思う。それでも一般的な野良猫たちに比べれば、これらの地域猫たちはまだしも恵まれているのだろう。市内に10万匹の野良猫がいるという推計がある程度的を射ているのならば、地域猫は、そのうちのわずか2%だ。
[Edit]

博多千年煌夜

IMG_0020.jpg

IMG_0029.jpg

IMG_0021.jpg

IMG_7680.jpg

IMG_7718.jpg

 歴史ある博多の寺社をライトアップで彩る「博多千年煌夜」(博多ライトアップウォーク2017)に4日夜、行ってきた。日本シリーズ第6戦の行方をものすごく気にしながら。

 早くからライトアップウォークの前売り券を買い、楽しみにしていたのだが、11月1~5日の開催期間中、仕事等の都合で行ける日は4日しかなかった。日程が重なり気掛かりだった日本シリーズも、4日には決着がついているだろうと傲慢にも思っていたのだが、ベイスターズは想像以上に手強く、甘い目論見を簡単に打ち砕いてくれた。度胸も球威も制球力もある今永、濱口らの若手左腕たち、ロペス、筒香、宮崎らの長打力と勝負強さを兼ね備えた打撃陣…。正直なところ、9回裏、内川の起死回生の同点弾がなければ、ベイスターズの勢いに飲み込まれ、2年ぶりの日本一は危うかったのではないかと思う。

 ライトアップウォークについて書くはずが、つい日本シリーズの話になってしまったが、要するに見物を早々に切り上げ、自宅で一杯やりながらテレビにかじりついていたのだ。由緒ある寺社を巡っているのに、スマホで頻繁に試合経過をチェックしては、時折、悲鳴を上げる私に家族が呆れ、帰宅を早めてくれた。結局、13箇所の会場中、見学できたのは約半分の6箇所。一番のお目当てだった東長寺の赤い五重塔、承天寺の青く彩られた「洗濤庭(せんとうてい)」などはしっかり目に焼き付け、龍宮寺に伝わる「人魚の骨」も見学してきたが、見逃した所も多い。来年はもう少しきちんとスケジュール管理をしたうえで、夜の博多巡りを楽しもうと思う。

 せっかくだからライトアップウォークについても簡単に紹介しておくと、大陸への玄関口だった博多には、古い歴史を誇る大寺が意外に多く、これらが藩政時代、福岡・博多の防御ラインとして石堂川沿いに集められ、一帯は今なお歴史的景観を残している。これら博多の町並みの魅力を伝えようと、地元のまちづくり団体と行政とがタイアップして2006年に始めたのがこの催しだ。

 当初は東長寺や承天寺など御供所地区の一部の寺が参加していただけで、名称も「御供所ライトアップウォーク」だったと記憶しているが、回を重ねるに従って参加する寺社は冷泉、呉服町地区にも広がり、現在の名称となった。会期中の人出は10万人を超えるといい、特に人気が高い承天寺前には今年も長い行列が出来ていた。中央区のヤフオクドームではホークスが日本シリーズを戦い、夜の博多では古刹群が美しい照明で彩られる。秋の福岡はなかなか贅沢だ。
[Edit]