どうなる日田彦山線

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 最近、福岡県田川地区にある道の駅をよく巡っている。1億円の豪華トイレで有名になった「おおとう桜街道」(大任町)や「歓遊舎ひこさん」(添田町)などだが、先日、歓遊舎ひこさんの敷地内をブラブラしていたら、敷地のすぐ横に本当の駅、つまり鉄道駅があるのに気付き驚いた。JR日田彦山線の無人駅で、駅名も歓遊舎ひこさん。家族は昨年初めて来た時から気付いていたらしく、呆れ気味だったが、何はともあれ、せっかくだから列車の写真でも撮ろうとしたところ、定刻を過ぎても一向にやって来ない。ここで再び自分 うかつさを思い知らされた。日田彦山線は7月の九州北部豪雨で大きな被害を受け、この駅がある添田~夜明(大分県日田市)間の約29㌔は不通状態で、復旧の見通しすら立っていないのだ。

 帰宅後に調べたところ、歓遊舎ひこさん駅は、道の駅への集客を図るため、添田町がJRに要望して2008年3月に開業した新しい駅だとわかった。鉄道駅が併設されている道の駅は全国的にも珍しいのではないかと思ったが、のと鉄道穴水駅と一体となった「あなみず」(石川県穴水町)など他にも類例はあった。なお、JR九州は1日の利用客が100人以上の駅を公表しているが、歓遊舎ひこさん駅の名前はなく、道の駅への集客効果は微妙なところだ。

 日田彦山線は北九州市小倉南区の城野と夜明とを結ぶ68.7㌔のローカル線(非電化、単線)で、実際には日豊線、久大線を経由して小倉~日田間で列車は運行されていた。歴史を遡れば、田川地区で産出する石炭や石灰石を、小倉から船で運び出すため敷設された路線だ。日田彦山線の前身の一つ、小倉鉄道(東小倉~上添田)の沿革を調べてみると、1893年(明治26)頃に創立された金辺鉄道によって敷設が計画されたが、日清戦争後の不況により資金が集まらず頓挫。この事業を小倉鉄道が引き継いだが、同社も資金調達に苦しみ、ようやく開通にこぎ着けたのは1915年(大正4)4月。金辺鉄道から数えれば、20年以上を要したことになる。

 筑豊炭田の最盛期には年間100万㌧以上の貨物を運び、経営は順調だったようだが、貨物輸送がなくなった今、日田彦山線はJR九州22路線の中で、ドル箱とは到底言えない路線の一つだ。同社が公表している同線の2016年の平均通過人員(輸送密度、1㌔当たりの1日平均利用者)は1,302で、これは肥薩線(八代~隼人)458、吉都線(吉松~都城)466、日南線(南宮崎~志布志)779に次いで低い数字だ。しかも不通区間が含まれる田川後藤寺~夜明間に限れば、その数字は299まで下がる。ちなみに主力路線の鹿児島線(門司港~鹿児島)は34,432、小倉~博多間に限れば、82,866。

 九州北部豪雨による被災個所(橋梁損傷やトンネルへの土砂流入など)は53か所にも上るといい、JR九州社長は「わが社単独での復旧は困難だ」と述べたと毎日新聞などが報じている。県や沿線自治体の支援がなければ、不通区間の廃線もあり得ることを示唆したと受け止めてよいだろう。

 2005年9月の台風で複数の橋梁が落ちた宮崎県の高千穂鉄道は、復旧費用を同社も自治体も負担できず、そのまま3年後には全線が廃止になった。1988年、地元の熱意により第三セクター化によって生き延びた鉄路のはずだったが、こんなにもあっさり廃線になるのかと少し驚いた記憶がある。福岡都市圏を走る鉄道でも、西鉄宮地岳線の新宮~津屋崎間が2007年、これまた大きな反対運動もなく廃線になった。もちろん、両線とも関係者にとっては苦悩の末の決断だったのだろうが、いくら苦心惨憺して出来上がった鉄道でも、沿線が見放せば、いとも簡単に消え去ってしまうことを痛感する。

 北九州市に住んでいた頃、田川方面に行くため何度も日田彦山線を利用したが、志井公園(北九州市小倉南区)を過ぎると、途端に100万都市(当時)らしからぬ田園風景が広がり、心和んだものだ。ローカル線はどこもそうだが、乗客は高校生が多数を占めていた。下の写真は日田彦山線の名物の一つ、福岡県東峰村のめがね橋を渡る列車で、2007年秋にたまたま撮影した。私は鉄道ファンではないが、周囲にはそれらしき人物が結構おり、彼らに言わせると、日田彦山線は絶対に失ってはならない貴重な鉄路の一つらしい。もっとも、失ってよい路線自体が一つもないらしいが。

 JR九州社長の言い分は、沿線自治体に対する恫喝のようにも思えるが、ローカル線存続の責任を鉄道会社だけに背負わせてよいわけでは恐らくないだろう。JR九州と沿線自治体の話し合いがどうなるのか、部外者ながら注視してゆきたいと思う。


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福岡市動物園からゾウがいなくなった

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 福岡市動物園で飼育されていたアジアゾウの「はな子」が、9月27日の夕方に死んだと園が公式ページで発表した。推定46歳。相棒だった「おふく」も5年前に62歳で大往生しており、これで園からはゾウがいなくなった。園が現在地の中央区南公園に開園したのは1953年8月のことだが、この時に熊本の水前寺動物園から迎え入れた「プー子」以来、絶えずゾウは飼育され、来園者の人気を集めてきた。ゾウが見られないのは、開園以来初の事態だ。

 園の公式ページによると、「はな子」が園にやって来たのは1973年、2歳の時。2年後の1975年には21歳年上の「おふく」が入園。名前でわかるように2頭ともメスで、この2頭は「おふく」が2012年11月に永眠するまでの37年間、仲良く暮らして来た。2頭が並んだ2枚目の写真は1993年7月に撮影したものだ。あまり自信はないが、耳の形から判断して、左側が「はな子」、右側が「おふく」ではないかと思う。

 今年4月、この時以来24年ぶりに動物園内を散策した。「仲間がいなくて寂しいだろう」という先入観のせいかもしれないが、「はな子」は何となく元気がない様子だった。1枚目の写真はこの時に撮影した。

 2枚の写真を見比べると、ゾウの飼育環境がずいぶん変わったことがわかる。旭山動物園(旭川市)などに倣い、福岡市動物園も自然に近い状態で動物を見せる「行動展示」を取り入れ、園内の大規模改修を進めている。ゾウ舎も2008年から3年がかりで新築され、運動場の広さは約5倍に広がり、生息地の熱帯雨林を思わせるような植林も行われた。工事費は約6億8000万円。しかし、完成からわずか6年で次々に主を失い、空き家となってしまった。

 野生生物を守るワシントン条約の規定により、アジアゾウの輸入は困難になっており、また、中国の動物園ブームの影響で、価格も高騰しているという。福岡市動物園では開園5年後に「ラン子」を迎え入れて以降、ほぼ一貫して2頭のメスを飼育してきた。しかし、「おふく」の死後、新たなゾウを迎え入れることができなかったのは、こういった理由からだろう。福岡市の子供たちが、再び間近でゾウを見られる日は来るのだろうか。
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帰って来た「青陵の泉」像

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 福岡市中央区の九州大六本松キャンパス跡地に、JR九州が建設していた複合ビルが完成し、26日に商業エリアが開業する。跡地再開発は着々と完成に近付いているが、気掛かりだったのは、九大教養部の前身、旧制福岡高校を記念して建立された「青陵の泉」像だ。キャンパス解体に際して一時的に撤去されていたが、現地で確認したところ、歴史あるブロンズ像は再び六本松に戻され、像の脇には由来を紹介する説明板も設置されていた。

 像が戻された場所は、敷地の北東隅に当たる六本松大通りの交差点に面した場所。キャンパス時代とほぼ同じ場所だ。ただ、以前は池の中に配された大きな自然石の上に据えられていたが、新たな台座は高さ1㍍程の御影石で、ずいぶん低くなった印象を受けた。また、池がなくなり、「青陵の泉」というタイトルではそぐわなくなったためか、説明板では「青陵乱舞の像」として紹介されていた。

 この像は、旧制福岡高校の同窓会「青陵会」により、1968年に除幕されたもので、手ぬぐいを手に応援歌を歌いながら乱舞する3人の旧制福高生がモデルだ。説明板には「旧制福岡高等学校の卒業せる人材、五千余名、生徒は弊衣破帽を専らとし、堂々博多の大道を闊歩、或いは校庭に高唱乱舞し」と記されているが、まさにその「弊衣破帽」「高唱乱舞」の姿を表現している。作者は、福岡美術界の重鎮だった安永良徳(1902~70)で、恐らく遺作に当たる。

 なお、JR九州建設の複合ビルは地上6階、地下1階建てで、商業エリアには蔦屋書店やスーパーのボンラパスなどが入居している。3~6階には福岡市科学館が入り、こちらは10月1日オープンの予定。名誉館長には、九大出身の宇宙飛行士、若田光一さんが就任する。

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 六本松キャンパス時代の「青陵の泉」像。キャンパス閉鎖後の2010年4月に撮影した。
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眺めが残念過ぎる西公園

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 福岡市中央区の西公園をよく散策している。ジョギングや散策の場としては、近くにある大濠公園の方がはるかに人気があるが、西公園の適度な起伏を私は気に入っている。ただ、海沿いの高台にある割には、この公園からの眺めは期待外れだと思う。「展望台広場」と銘打ちながら、実際には木々に視界を遮られ、展望ゼロの場所さえある。県営公園でありながら、詐欺まがいなことをやっている。今さら木を伐るわけにはいかないだろうから、展望台広場の名前の方を下ろすべきだろう。

 西公園は「日本さくら名所100選」に選ばれ、花見のシーズンには大にぎわいするが、普段は日曜祝日でも静かな場所だ。大濠公園には大挙押し寄せてくる隣国からの観光客も、ここでは滅多に見掛けることはない。しかし、戦前には福岡市第一の観光名所だったようで、戦前のガイド本などには真っ先にこの公園の記載がある程だ。 今も昔も福岡に観光地が少ないことを証明するエピソードではあるが、例えば、1936年(昭和11)の博多築港大博覧会開催の際に出版された『躍進の大福岡』には、以下のように西公園が紹介されている。

 ◇西公園 福岡に足を留むるものは必ず此処に遊ぶ。「神さふる荒津の先によする波まなくや妹に恋わたるらむ」と詠まれた荒津山、県営にして日本的名公園である。四時の眺めは佳絶。(中略)玉垣の広場から福博全市を眺望し得る。広莫たる築港博の会場、及旧時代の福岡港を眼下に見る。(中略)奥の広場に達して眺望を恣にすれば、天空快闊、漂渺たる玄界灘の彼方沖合には外国通いの汽船が薄墨の煙を曳き、近くの博多湾口には残、志賀の二つの島を望む。(中略)春は満山の桜花真に妍を競ひて老若男女群を作し、絃歌昼夜の別なく酒宴大いに盛んにして、雑踏極まりなし、福博名物の一として既に他県に知られて居る。

 花見シーズンの酒盛りが盛んなのは現在でも同様だが、かつて西公園が誇った眺望の方は、前述の「展望台広場」以外も悲惨な状況だ。現在の西公園で最も眺めが良いのは「中央展望広場」だと思うが、残念ながらここも生い茂った松の枝が視界を遮り、しかも眼下に見えるのは石油貯蔵基地のタンク群。観光客がやって来るとしたら、眺望などではなく、この公園名物のホットドッグが目当てだろう。せめて松の枝を伐採し、博多湾内がもう少し見渡せるようにしてはどうだろうか。

 園内には近年まで5店の茶店があったというが、現在、常時営業しているのは2店舗しかない。こんなところにも西公園の観光不振が表れている。
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連続立体交差、取り残される井尻

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 先日、福岡市博多区南部、大野城、春日市界隈を歩き、西鉄天神大牟田線の雑餉隈(博多区)~下大利(大野城市)間の約5.2㌔で進められている連続立体交差事業の工事現場を見てきた。3年後の2020年度中には線路は高架に移り、この区間から19か所の踏切がなくなるという。工事はずいぶん進んでいるように見えたが、福岡市が担当している雑餉隈周辺1.9㌔の事業が始まったのが2008年度、県担当の春日原~下大利間3.3㌔は2003年度。構想段階まで遡れば、“はるか昔”に始まった事業だ。踏切撤去による交通渋滞や地域の分断解消を待ち望んできた地元住民からすれば、事業はむしろ、遅々として進んでいないのかもしれない。(写真は上が春日原、下が雑餉隈で撮影)

 天神大牟田線の連続立体交差事業は、ターミナルの福岡天神から大橋までの4.8㌔はすでに完了しており、雑餉隈以南の完成により、福岡都市圏の大半の区間で西鉄電車は高架を走ることになる。ただし、大橋と雑餉隈の中間にある井尻(いじり)周辺だけは、この事業からポツンと取り残される。福岡天神から下大利までの各駅と、連続立体交差の状況を図示すると、次のようになる。(⇨が完成、または建設中、→が未着工)

 福岡天神⇨薬院⇨平尾⇨高宮⇨大橋→井尻→雑餉隈⇨春日原⇨白木原⇨下大利…

 なぜ、井尻だけが除外されたのか? 理由は明確で、大橋~井尻間では新幹線博多南線の高架、井尻~雑餉隈間では福岡都市高速道路の高架がそれぞれ天神大牟田線の上を横切り、これらを避けての高架建設は大変な難工事が予想されるからだろう。

 しかし、自分たちだけ見捨てられるという状況は我慢ならない話で、井尻地区のまちづくり団体が昨年、同地区でも連続立体交差事業を早期に実現するよう市議会に請願。議会側も「もっともなこと」と請願を採択したが、事業主体となる福岡市側は「事業効果及び事業費の試算を行い、費用対効果などを検討する」と慎重な姿勢だ。現在進めている雑餉隈周辺の事業費は約340億円、後始末まで含めた事業期間は2008~23年度の15年がかりで、事前調査の期間まで含めれば20年を超える。事業に必要なコストと歳月を考えれば、「やります」とは簡単には言えないということだろう。

 井尻周辺に残ることになる踏切は、大橋側5か所、雑餉隈側4か所の計9か所。ピーク時には、1時間のうち28.9~37.5分間も遮断機が下りた状態となっている。国の基準では40分を超えないと「開かずの踏み切り」とは呼ばないらしいが、行政側の分類はともかく、半分以上も遮断されているのならば、実感としては十分に「開かずの踏み切り」だろう。天神大牟田線沿線では、井尻地区の住民だけ今後も不便を強いられることになる。
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きゃべつ畑のひまわり

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 今年も一面のヒマワリだった。この盆休み、昨年に続いて宮崎県高鍋町の染ヶ岡地区に行き、80㌶もの畑を埋め尽くすヒマワリを見てきた。その数、約1100万本。タイトルの「きゃべつ畑のひまわり」とは、ここは本来はキャベツ畑で、お盆を過ぎれば、ヒマワリはトラクターで畑にすき込まれ、キャベツの肥料となるためだ。ここで生産されるキャベツは、その名も「ひまわりキャベツ」として春から初夏にかけて出荷される。

 このヒマワリは「復興のヒマワリ」とも呼ばれている。地元では有名な話なので、今さら紹介するのも気が引けるが、染ヶ岡地区は古くからキャベツ栽培が盛んで、肥料には堆肥を使ってきた。しかし、高鍋町や隣接する川南町を2010年、家畜の伝染病・口蹄疫が襲い、高鍋町だけでも3万頭を超える家畜が殺処分され、ウイルス拡散を防ぐため堆肥の利用も禁止された。地元農家は代わってヒマワリを栽培し、緑肥とするようになったが、大地を黄色に染める景観は「復興の象徴」として大きな評判を呼び、ヒマワリの栽培面積は年々広がっていったという。

 白状すると、「昨年に続いて」と冒頭に書いたが、昨年は親族の車の後部座席で熟睡中で、家族が撮影した写真で絶景を見逃したことを知り、しばらくは後悔の毎日だった。幸いにも今年、再訪することができたが、何事にも「次の機会がある」と言い切れる年齢でもなくなってきた。
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無事だった朝倉の水車群

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 九州北部豪雨により大変な被害を受けた朝倉市に25日行き、農産物を買い込んできた。「何をのん気な」とお叱りを受けるかもしれないが、以前から足しげく通っていた農産物直売所がどこも営業再開していると聞き、「だったら地元のスーパーで買うよりは」と足を延ばして来た。豪雨から20日がたったが、依然として多くの場所が土砂や流木に埋まり、災害前、子供たちでにぎわっていた公園の芝生広場は土砂の仮置き場となり、風景が一変していた。

 不幸中の幸いというべきか、地域のシンボル的な存在である菱野の三連水車をはじめとする3基の水車群はほぼ無傷だったと聞いた。しかし、水車が水を汲み上げていた肝心の堀川用水が土砂で埋まり、全ての水車が動きを止めていた。20日から復旧作業が進められているが、まだ再稼働のめどは立たないらしい。被害を免れた水田は青々としていたが、田の表面は乾ききり、ひび割れが広がっている状態だった。

 朝倉の水車群は菱野の三連水車のほか、三島の二連水車、久重の二連水車からなり、堀川用水と合わせ1990年に国史跡に指定されている。筑後川の水を農業用水とするため堀川用水が掘られたのは1663年(寛文3)で、その約100年後、高い土地にあった山側の田に水を供給するため水車群が造られたとされる。1日の揚水能力は実に約2万㌧で、35㌶もの水田を潤していた。

 写真は上から菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車、土砂で埋まった堀川用水、豪雨の爪痕が残る三連水車近くの公園。下は三連水車が稼働していた時の映像で、2014年6月に撮影した。

 【8月2日追記】朝倉の水車群は8月2日、稼働を再開しました。


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シーサイドももちで花火大会

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 福岡市のシーサイドももち海浜公園で26日夜、17年ぶりに花火大会が開かれる。以前は観覧無料だったが、今回は海浜公園全体が有料エリアとなり、大人2,000~7,000円の料金が必要。打ち上げ花火などは河川敷や海岸に座り込み、ただで見るものだと思っていたが、最近では企業からの協賛金が集まりにくくなり、観覧を有料にして費用を賄うのが一般的らしい。

 海浜公園では観覧席の設置など準備が進む一方、周辺道路には花火大会当日は交通規制が行われることを知らせる看板が設置されている。写真2枚目は会場にも程近い「よかトピア通り」に架かる歩道橋にあった看板で、花火大会開催中の午後7時半から9時までは通行不可であることを告知している。花火大会と歩道橋と言えば、兵庫県明石市で2001年7月21日、花火大会に向かう見物客が歩道橋に殺到し、11人が死亡、183人が重軽傷を負う大変な事故があった。恐らくこの事故を踏まえての安全対策なのだろう。
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面影を失った赤れんが塀

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 福岡市中央区の簀子小学校跡地にある赤れんが塀が改修工事で大幅に低くなり、もはや塀とは呼べない状態になっている。以前の赤れんが塀は長さ約90㍍、高さ1.3㍍で、学校跡地と隣接する簀子公園との間を区切っていた。福岡大空襲で焼け残った、市内では数少ない戦争の生き証人だったが、この一件を報じた西日本新聞記事よると、一部がたわみ、緩んでいたため、市が「地震で崩れたら危険」と一部を取り壊し、大半の部分は40㌢の高さにまで低くしたという。以前通り高さ1.3㍍のまま残されたのは東側のごく一部に過ぎない。

 福岡大空襲とは1945年6月19日深夜から翌日未明にかけ、マリアナ基地から飛来した221機のB29による無差別爆撃を指し、これにより福岡市域の3割が焼失した。死者・行方不明者数は資料によって数字がまちまちだが、『福岡市史』第3巻昭和編前編上(1965)には、死者691人、行方不明者235人と記録されている。

 中でも被害が大きかったのが博多部では奈良屋校区、福岡部では大名、簀子校区で、『火の雨が降った―6・19福岡大空襲』(福岡空襲を記録する会、1985)によると、簀子では民家1,885戸のうち、90%に当たる1,700戸が焼失、犠牲者は死者143人、行方不明13人、負傷者242人に上った。この時、簀子小学校校舎も全焼したが、赤れんが塀だけは焼け残り、戦後1947年に簀子公園に建立された犠牲者の供養塔とともに、大空襲の記憶を伝えていた。

 同書の口絵には、終戦直後、簡易保険局の屋上から撮影した簀子地区の写真が掲載されているが、焼け野原の中に赤れんが塀がはっきり写っており、以前は簀子小の敷地全体を取り巻いていたことがわかる。つい先頃まで現存していた長さ90㍍はわずかに残った一部だったわけだが、それさえも「危険」という理由で保存を許されなかった。確かに安全は一番大事なことだが、ひと手間を掛けるのならば、取り壊しではなく補強工事で現状保存を図るという選択肢はなかったのだろうかと思う。福岡市は近代遺産に緩やかな保護の網をかけるため2012年度、登録文化財制度を創設しているが、こういった遺構を守らずして、いったい何を守るつもりなのだろうか。

 文中に紹介した供養塔は住民有志によって建立されたもので、これには簀子地区の犠牲者は176人と刻まれ、その傍らに近年、中央区役所が設置した説明板にも同じ数字が記されている。説明板には、簀子地区の被害が大きかった理由について、近くの福岡城址に歩兵第24連隊が置かれていたため「集中的に攻撃され」と書かれているが、この説明板以外では見たことがない記述だ。

 『火の雨が降った』には、米側の公文書『作戦任務報告書』の翻訳が収録されているが、これには米側が「福岡市の半月形の市街地の中心のもっとも燃えやすく産業が集中している三・六平方㍄(九・二平方㌔)で多くの重要目標が単独または重複して四,〇〇〇㌳の誤差確率園内に含まれるよう二つの攻撃中心点を設定した」とある。この攻撃中心点とは天神と中洲だったようだ。簀子への攻撃が激しかったのは歩兵24連帯が原因ではなく、天神に近接していた、あるいは天神と誤認されたためではないだろうか。


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突然起きた神社の砲弾騒動

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 各地の神社に古くからあった砲弾が今月、突如として不発弾扱いされるようになり、「爆発の恐れあり」と撤去騒ぎが起きている。私も以前どこかの神社で見た記憶があり、探してみたら上の写真が見つかった。福岡市西区の今山遺跡(石斧の産地跡として山全体が国史跡になっている)を散策した際、山上の熊野神社で撮影したものだ。本殿脇に遺棄されたも同然の状態で置かれていた。ただ、石の台座らしきものに設置されているところを見ると、元々はそれなりの由緒があったのだろう。

 今回の騒ぎの震源地は大分県で、新聞報道などによると、杵築市の神社を訪れた男性が野ざらし状態の砲弾を見つけ、警察に通報したのが発端だという。自衛隊の調査で“信管がついた旧日本軍の不発弾”と確認され、これを受けて大分県神社庁が県下の神社に対し、砲弾の有無を確かめるよう通達。「ある」との報告が続々と寄せられ、騒ぎが広がった。一部新聞は過去に起きた不発弾爆発事故を持ち出し、不安をあおっていたが、そのすべては地中に埋まっていた不発弾によるものだ。神社等に置かれていた砲弾が爆発したケースが本当にあるのか、知りたいのはそこなのだが。

 砲弾の多くは年代不明だったというが、新聞等には「日清・日露戦争に従軍していた兵士が帰郷後、戦勝記念などとして奉納したのではないか」という研究者のコメントが載っていた。台座に「征露記念」などと刻まれていた例もあったというから、その通りなのだろう。ただ、国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブを漁ったところ、別のケースもあり得ることがわかった。地方自治体や学校などが帝国陸海軍に対し砲弾などの廃兵器の下付を求めた文書が大量にあったのだ。

 文書の多くは達筆な崩し字で書かれていたため、私には判読できなかったが、楷書で書かれていた数少ない資料によると、旧陸海軍は「軍事思想啓発」のため廃兵器を希望者に下げ渡していたことがわかった。例えば、石川県津幡町長、津幡尋常小学校長らが大正13年(1924)に財部彪・海軍大臣に提出した文書には、尋常小学校に展示し、「海軍思想ノ鼓吹普及」するため魚雷1本、機雷1個、大砲砲身1本、砲弾2個、飛行機プロペラ1個の下付を要望したことが記されている。また、昭和10年(1935)に下関市長は日和山公園に据え付けるため「加式二十四糎加農被帽弾々丸」1個などを、同12年(1937)には北海道津別村の津別神社造営会は神社に献納するため、日清・日露戦争、または満州・上海事変などに関係ある火砲少なくとも2門と弾丸少なくとも14個の下付を求めていた。

 騒ぎになった砲弾の中にも、あるいはこういった経緯で地方にもたらされ、結果として展示を兼ねて地元の氏神などに奉納されていた物があったかもしれない。兵士一個人ではなく旧陸海軍が直接関与していたのだから、安全には万全の措置が講じられていたはずで、これらは危険な不発弾ではなく、単なる「戦時資料」だったことになる。神社等にあった砲弾の多くは、関係者も「昔からあった」と証言するだけで由来不明だったらしく、だとしたら今さらながらも爆発を恐れることは当然なのかもしれないが、何となく釈然としない騒ぎではあった。
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