プラリバ跡地再開発計画

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 2015年7月末で閉館した福岡市早良区西新の商業ビル、プラリバ跡地の再開発計画が21日、所有者の東京建物からようやく正式発表された。高さ140㍍の40階建てのマンション(330戸)と商業施設からなる複合ビルを建設するというものだが、目を引いたのは8階建ての旧建物の西半分を4階建てに減築し、そのまま商業スペースとして活用するという点だ。跡地は完全に更地にした後、新たなビルを建設すると思い込んでいたので、これは意外だった。

 東京建物の公表資料によると、本体工事は来年1月着工、商業施設の一部開業は2019年度、全体の完成は21年度を予定している。旧建物を減築して一部活用するのは商業施設の早期開業を図るためだという。プラリバ閉館以降、周辺の人通りが目に見えて減ったことに対し、東京建物側も少しは責任を感じていたのだろうか。ただし、商業施設の広さは旧建物の29,000平方㍍から10,000平方㍍に大幅縮小される。大規模マンションを建てるぐらいだから、東京建物が西新を住宅地として有望だと考えているのは間違いないが、商業地としてはそれほど魅力を感じていないのかもしれない。

 プラリバ跡地がある西新商店街にはもう一つの大型店、イオン西新店があったが、老朽化によりここも昨年5月で閉店。二つの大型店が消えたことによる影響を危惧した地元からは昨年、活性化支援を求める請願が市議会に出されている。この請願は昨秋、市議会の委員会で審査され、お決まりの継続審査となったが、この時の議論によると、客足減によりすでに5、6店舗が商店街から撤退したという。また、つい先頃にはプラリバ前の交差点の一角に長く店を構えていたファーストフード店が突然閉店し、地元民にショックを与えた。

 以前、県外から遊びに来た親族の子が西新商店街について「三つも集中していて便利だね~」と感想を漏らしていたが、この三つとはファーストフード店のマクドナルド、ミスタードーナツ、ケンタッキーフライドチキンのこと。「友達とおしゃべりする場に事欠かない」という意味だったようだ。しかし、このうちの二つは西新から去り、残るのはマクドナルドだけになった。プラリバ跡地再開発計画がまとまったことは朗報だが、商業施設開業はまだ2年も先。商店街も、買い物で利用する市民も、我慢の時が続くことになる。

 残るイオン西新店の跡地利用については、イオン九州側からは今のところ、何の発表もないが、地元商店街などでつくる「西新発展協議会」という組織に昨年8月、東京建物とイオン九州が新たに加わっている。イオン九州としても西新から完全撤退する考えはないのだろう。前述の市議会委員会では、イオン西新店跡地について、市側は「今後の計画は不明であるが、商業施設が建設されるものと聞いている」と述べている。この言葉を信用すれば、イオン九州からいずれ、跡地利用について何らかの発表があるだろうと思う。
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福岡市立霊園に合葬墓?


 福岡市が新年度から、市立霊園への合葬墓導入について検討を始める。先頃発表した予算案の中で明らかにした。少子高齢化で墓の維持が重荷となっている家庭が増える一方、都市部では近隣に墓地を確保するのが非常に困難になっている、と聞く。自分の墓をどうするか、私自身がちょうど思い悩み始めた時だったので、関心を覚えた。予算資料には「市立霊園内における合葬墓等の導入検討」とあるだけで、実現するかどうかもわからない段階だが、合葬墓に対するニーズは福岡でも恐らく大きいのではないかと思う。

 福岡市には平尾(南区平和。写真)、三日月山(東区香椎)、西部(西区羽根戸)と市立霊園が3か所あり、区画数は1万を超えている。しかし、相当な幸運に恵まれなければ、これらの霊園に墓を造ることは不可能だ。毎年、空きが出た区画の募集が行われてはいるが、市の公表資料によると、2011~15年の5年間で募集は計171区画だったのに対し、応募者は6,972人で、倍率は実に40倍。中でも市街地にある平尾霊園は60倍を超えている。市立だから使用料(初回のみ1平方㍍当たり172,000円~260,000円)、管理費(1平方㍍当たり年1,000円)が格安なうえ、自然に恵まれた場所にあることも魅力なのだろう。

 しかし、冒頭で書いたように、墓地不足の一方で、少子高齢化で代々の墓を維持することが困難となった家庭が増え、この二つの問題の解決策として、首都圏や京阪神では合葬墓(永代供養墓)を設ける動きが1990年代から広がってきたという。自治体で最初に合葬墓を設置したのは1993年の横浜市で、自治体、霊園利用者の双方にとってコストが抑えられるというメリットもあり、その後、大阪、神戸、千葉市など多くの都市が続いている。

yokohama.jpg ところで、合葬墓とはどんな構造なのか? 墓園によって様々なようではあるが、地下に大型の納骨室を設けたうえで、地上には墓参のためのモニュメントなどを配置するのが一般的らしい。先駆者の横浜市・日野公園墓地(写真、横浜市資料からお借りした)にはこの形式とともに、庭園風に整備した一角の地下に直接骨壺を埋葬する樹木葬型合葬墓も設置されている。同市の資料によると、管理料は1区画1体当たりで年3~6万円と意外に高額だったが、樹木葬型は比較的高倍率となっている。

 福岡市は新年度から設置の検討を始めるというのだから、横浜市からは実に20年以上も遅れてやっとスタートラインに立つことになる。市立霊園は狭き門とは言え、墓地不足は首都圏ほど深刻ではないため、大きな危機感はなかったのだろう。
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途切れたエスカレーター改善へ

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 福岡市のJR博多駅には非常に残念な箇所がある。市営地下鉄のコンコースから博多駅筑紫口(新幹線駅側)に上がっていくと、エスカレーターが途切れ、階段を使うしかなくなるのだ。福岡人は“こんなもの”だと諦めているが、荷物を抱えて新幹線乗り場に急いでいる時など、やはり「エスカレーターぐらい最後まで造れ」と愚痴を言いたくもなる。県外の人には理解不能な構造だろう。政令市の玄関口にあるまじき、この残念な状態を解消する計画がようやく2019年度からスタートする。福岡市が14日公表した新年度予算案の中に、コンコースから筑紫口までをきちんと直結するエスカレーターの基本設計費2174万円が盛り込まれているのだ。着工は恐らく20年度以降になるだろうが、それでも朗報と言えるだろう。

 ご存じない方のために簡単に説明すると、地下1階の地下鉄コンコースから地上1階の筑紫口までには計49段の階段がある。階段31段分はエスカレーターが設置されているのだが、途中にある踊り場でエスカレーターは途切れ、残る18階分は階段だけとなる。1985年の地下鉄博多駅の本開業当時からこの状態で、2011年に博多駅が新ビルに建て替わった際も改善されなかった。

 なぜ、こんな残念な構造になっているのか? 理由は意外に単純明快で、階段31段分までが福岡市営地下鉄の領分、上の18階分はJR西日本(新幹線駅側はJR九州ではなく、西日本が管轄)の領分だからで、要するにエスカレーターは地下鉄管轄部分にしか整備されていないのだ。福岡市は以前からJR西日本に改善を働きかけてきたというが、バリアフリーに程遠い状態が結果として30年以上も続いてきた。あくまでも想像だが、JR西日本としては、他社(地下鉄)の利用客のために大金を掛ける気はなかったのだろう。利用客の一部は新幹線の利用客でもあったと思うのだが。

 新たなエレベーター整備について、新年度予算案の資料には「筑紫口において、お客様の利便性向上を図るため、地下鉄コンコースから地上へのエスカレーター設置に係る基本設計を実施するとともに、更なるバリアフリー経路の充実について検討する」と記されている。市が関連予算を計上したということは、一向に動かないJR西日本に業を煮やし、整備を肩代わりすることを決意したということだろうか。資料に書かれている情報だけではわからないことが多過ぎるので、迷惑だろうとは思いつつ、市交通局にエスカレーターの完成時期や、市とJR西日本の費用負担などについて尋ねてみた。交通局の応対は非常に丁寧だったが、質問に対してはゼロ回答だった。まだ、一般市民に明かせる段階ではないのだろう。
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青島の橘ホテル跡地

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 12日、宮崎にホークス春季キャンプ見物に行ったついでに青島方面を散策してきた。“幽霊ホテル”と呼ばれた旧橘ホテルの廃虚は7年前に姿を消し、広大な跡地と青島海水浴場との間は無粋な金属製のフェンスで仕切られていた。20年間も居座っていた幽霊ホテルがなくなり、すっきりはしたが、物寂しさを感じる景観でもあった。宮崎市と、跡地を所有する地元の財産区は4月から、事業者を公募して跡地開発を進める方針で、昨年、市が行った事前ヒアリングでは意欲を示した事業者が10社を超えたという。かつては宮崎を代表する観光地だっただけに、ポテンシャルを感じる企業も多いのだろう。

 橘ホテルは1967年開業。7階建て、客室数は330室に上る巨大ホテルで、最盛期は宮崎が新婚旅行ブームに沸いていた1970年代。この頃の宿泊客数は調べきれなかったが、ブームが去った後の80年代にも年間20万人以上の宿泊客を集めていたという。私も70年代、新婚旅行ではなく修学旅行でこのホテルに泊まったが、複数の学校が同宿していた記憶がある。大雑把に言えば、一晩に数百人の中高校生が橘ホテルに泊まっていたわけだ。ところが、昨年11月に発行された最新版の『宮崎市観光統計』によると、2015年1年間に宮崎市に宿泊した就学旅行客はわずか2,900人。あまりに少なくすぎ、間違いではないかと思ったが、事実ならば、観光宮崎の衰退は修学旅行客から敬遠されていることが大きな要因なのではないだろうか。

 話を橘ホテルの来歴に戻すと、不動産会社が1990年に買収し、同社は同年12月、建て替えのため一時休業した。しかし、バブル崩壊に伴う経営悪化により、建て替えも営業再開もできないという状態に陥り、結果として20年間も野ざらしの状態で放置されることになった。別のリゾート会社が2008年、跡地をコテージ群として再開発する計画に乗り出したが、この会社も翌年、建物の解体を終えたところで銀行から融資を断られ、撤退したという経緯がある。4月からの業者公募は三度目の正直ということになる。

 昨年のヒアリングでは、跡地活用策について業者からは「リゾートホテルとレストラン」「高級シニアハウスと介護付き老人ホーム」「産学官連携でのメディカルセンターとスポーツリハビリ施設」などのアイデアが出されたという。宮崎市はヒアリング結果の公表資料の中で「宿泊施設やレストラン等を有する観光拠点、パブリックなスペースとなる広場や周遊性を持たせる遊歩道などの提案があり、これは本市が示した整備の考え方と一致するものでした」と明言しているぐらいだから、やはり観光開発が本意なのだろう。

 青島海水浴場の写真を撮影した後、遊園地「こどものくに」付近まで足を延ばした。「南国」と呼ばれる宮崎だが、ちょうどプロ野球キャンプが行われる2月はかなり寒く、地元では「●●がキャンプに来る頃が一番寒い」(●●には地元でキャンプを張る球団名が入る)などと、プロ野球チームが寒波の使者みたいに言われている。まして12日はこの冬一番の寒波が去った直後だったので、海風はかなりの冷たさだった。「南国」も演出による部分も大きいのではないかと思う。例えば、南国ムードを漂わせている街路樹のワシントニアパームは北米原産で、実は結構寒さに強い樹種だということを比較的最近知った。そう言えば、冬には強烈な寒風が吹き荒れる、わが福岡の百道浜海岸にも植えられ、元気に育っている。

 ところで、「こどものくに」を遊園地と書いたが、そう表現できるのは12日が最後で、翌日の13日から遊具を全面撤去する改修工事に入った。大型連休には全面芝生張りの広場として生まれ変わるという。太平洋戦争開戦直前の1939年(昭和14)3月から歴史を刻んできた「こどものくに」が遊園地としての歴史に幕を閉じたわけで、これは地元では大きなニュースになっているのではないかと思ったが、宮崎で生まれ育った私の親族たちは意外に無関心で拍子抜けした。

 写真は上から、青島海水浴場と青島、旧橘ホテル跡地、かつては土産品店が軒を連ねていた青島神社の参道。下がこどものくに、ホークスキャンプが行われている生目の杜運動公園。


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和布刈神事の思い出

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 関門海峡に臨む北九州市門司区の和布刈(めかり)神社で先月28日未明、航海の安全などを祈る和布刈神事が行われ、その模様がローカルニュースで報じられていた。烏帽子、狩衣姿の神職が真冬の海に入り、ワカメを刈り取るという厳かな儀式だが、北九州市に住んでいた20数年前、この神事を見物に行き、あまり厳かならぬ光景に出くわしたことがある。内情を暴露するのはよろしくないかも知れないが、あくまでも二昔前に私が体験した特殊事例だということで紹介したい。(上の写真は北九州市情報発信強化委員会の「北九写真ダウンロード集」からお借りした)

 冒頭に書いたように和布刈神社は関門海峡に面した場所にあり、神事は神社下の海岸の岩場で行われている。一般の見物客が海岸に下りるのは不可だったが、報道関係者だけは認められており、私が現地に着いた時、海岸にはすでに多数のテレビクルーやカメラマンらが陣取り、護岸の上からは岩場はよく見えない状況だった。

 「せっかく真冬の夜中に駆けつけてきたのに」と落胆していたところ、神職が意外なことを宣告した。これから神事を始めるが、同じ儀式を3回やるというのだ。1回目がテレビカメラ向け、2回目が新聞・雑誌社のカメラマン向け、そして3回目が岩場に下りることを認められていない見物客の撮影向けで、混乱なく誰もが神事を見ることができるようにという神社の配慮だったのだろう。

 厳かならぬ事態が起きたのは、1、2回目の儀式が滞りなく終わり、3回目が始まった時だ。「さあ、ようやく我々の番」とインスタントカメラを構えたところ、何と複数のテレビ局が平然と2度目の撮影を始め、視界を完全に遮ってしまったのだ。当然ながら、このルール破りに対して見物客から非難の声が上がったが、怒号渦巻くという事態にまではならなかった。恐らく伝統の行事を台無しにしてはならないという意識が見物客の側に働き、テレビ局側もこれにつけ込んだのだろう。このような傲慢な振る舞いは、インターネットが発達し、個人の情報発信力が強化された現在ではいくら何でも無理だろうと思う。

 この和布刈神事は、海峡対岸の住吉神社(山口県下関市)でも同日同時刻に行われ、こちらは非公開だが、和布刈神社でも大正時代初めまでは神職以外は誰も見たことがない神秘の儀式だったという。国会図書館のデジタルコレクションに収録されている『九州路の祭儀と民俗』(宮武省三、三元社、1943)という戦時中の出版物によると、地元では見ると目が潰れるという言い伝えがあり、神罰を被ってまで見物に行こうとする者は皆無だったとある。

 一般公開が始まったのは大正2、3年頃で、最初のうちは物珍しさで多数が詰めかけたというが、「何分冬空の寒い、しかも午前二時半頃から執行する極りとなっているので、物好きな者でない限り大抵の者は見たくても、行くを億劫がり、折角解禁となりながら其後毎年の神事は矢張浦淋しく、ひっそり行われているので在る」と筆者は書き記している。「見たくても、行くを億劫がり」とはまさに私の心情を言い当てた言葉で、北九州市には結構長く住んでいたのだが、意を決してこの神事に出掛けたのはたった一度だけだった。現在は毎年、多数の見物客を集めているようなので、念の為。
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油山市民の森の吊り橋

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 福岡市の油山市民の森に赤く塗られた吊り橋が架かっている。長さ52㍍、地上からの高さは30㍍。2015年4月に書いた「遠足はいつも油山だった」の中で、「1969年、『市民の森』開設に当たり南区のご夫妻が寄贈し、78年に市が改修したと現地説明板にあった。吊り橋を寄贈するとは豪気だ」と紹介したことがあるが、実は市側が長く受け取りを拒否し、吊り橋はまさに宙ぶらりんの状態になっていたことを先頃、たまたま知った。詳しい経緯についてはまだ、調べ切れていない部分があるが、現在ではほとんど記憶(記録)されていない話ではないかと思うので、取りあえず書き留めておきたい。

 最初に、油山市民の森とは、油山(標高597㍍)の中腹に1969年開園した自然体験&レクリエーションの場で、キャンプ場やアスレチック施設、草スキー場、展望台などが備えられている。整備に当たったのは福岡市と、このために設立された民間団体「市民の森運動本部」。吊り橋は市内の社長夫妻が寄付した300万円で運動本部が建設した。完成した吊り橋は69年8月18日に渡り初めが行われて以降、市の新たな名所として大変な人気を呼んだが、皮肉にもこの人気が仇となった。

 吊り橋はもともと1日平均50人程度が利用するという想定で設計されていたというが、利用開始が夏休みと重なったこともあり、連日、小中学生を中心に2,000~3,000人が詰め掛け、この結果、橋は横揺れが激しくなるなど危険な状態となった。このため運動本部は渡り初めから、わずか1か月で通行禁止にし、社長夫妻から再度、多額の寄付を受けて補修工事を行った。しかし、吊り橋の安全検査を行える機関が福岡市にはなかったため、通行禁止措置はそのまま継続されることになった。

 その状況の中で、建設主体の運動本部はこの年の12月、市民の森開園で役割を終えたとして解散。一方、福岡市側は安全性に疑問ありとの理由で吊り橋受け取りを拒否し、吊り橋は入り口を閉鎖された状態のまま、長く放置されることになった。橋のたもとには「この橋は歩道橋ではなく観賞用です」と書かれた立て看板が市により設置されていたという。

 調べがつかなかったのは、吊り橋の通行禁止がいつ解除されたかだが、現地説明板にある記述を素直に受け取れば、78年に市が改修した後ということになる。だとしたら、実に9年間も“観賞用”の状態が続いたことになるが、いくら何でも長すぎる気はする。ただ、「遠足はいつも油山だった」で書いたが、油山には小学生時代、嫌になるほど登った割には吊り橋を渡った記憶はない。通行禁止が本当に9年も続いたかどうかは別にして、小学生の団体が安心して渡れる状態ではなかったのかもしれない。

 現在の吊り橋は、高所恐怖症の私でもまったくスリルを感じない安定した橋。年間を通じて多くの市民でにぎわっているが、中でも紅葉の時期には絶好の観賞スポットとして人気を集めている。再来年で50周年を迎える油山有数の名所が、こんな歴史を秘めていたとは意外だった。

 【追記と訂正】福岡市農林水産局発行の小冊子『油山市民の森40年の歩み』(2010)に吊り橋の沿革が詳しく書かれていた。現地説明板の記述に基づき、1978年に改修されたと紹介していたが、実質的には完全な架け替えで、現在の吊り橋は2代目であることがわかった。初代吊り橋は補修後、1970年6月に再オープンしたが、市側は通行を午前9時半から午後4時半までに限ったうえで、市側はこの時間帯には常時、係員を置き、多数の人が同時に渡らないように目配りしていたという。

 ただし、1971年5月13日の読売新聞地方版には、この時点で吊り橋入り口には常時カギがかけられ、市側は「地方自治法で補修しなければならないものは受け取れないことになっている」と受け取りを拒否していたと報じており、『40年の歩み』の記述とはかなり食い違いがある。リアルタイムの新聞報道と40年後にまとめられた記念誌、どちらが正しいのだろうか。
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旧法文学部本館取り壊し

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 九州大箱崎キャンパスで旧法文学部本館の取り壊しが始まっている。旧帝国大学時代の校舎の一つで、1925年(大正14)完成。重厚な外観の建物だったが、大学側が設置した作業部会が2012年にまとめた調査報告では「老朽化が著しいため、寿命に達している」とまで断定され、解体は既定方針だった。だから何ら驚くことではないのだろうが、5日、たまたま近くを通り掛かって解体に気付き、90年以上の歴史を刻んできた建物の最期としては「余りにあっけない」と感じた。来年3月までにはこの場所も更地になる。(3枚目の写真が取り壊し前の旧法文学部本館。今年7月撮影)

 「九大近代建築物群の行方」でも取り上げたが、箱崎キャンパスには20棟以上の近代建築がある。九大や福岡市などからなる跡地利用協議会が保存を打ち出したのは、このうち旧工学部本館、本部第一・第三庁舎、門衛所の4棟と正門だけで、10棟は土地を購入する事業者の判断に委ね、旧法文学部本館など8棟は取り壊しの方針だった。近代建築の範疇に入らない校舎群はすでに次々と取り壊されており、箱崎キャンパスには更地が広がっている。

 実はこの現状に対しては学内外から疑問の声が出ており、昨年、産経新聞が「解体ありきではなく保存検討を」と記事で取り上げている。この記事によると、跡地再開発参入を検討している西鉄は近代的建築物の活用を視野に入れ、九大側に建物の解体延期を求める要望書を提出したという。また、学内の研究者からも「40㌶もの更地化を許せば『九大には歴史建築の重みを理解できる人間がいない』と笑いものになってしまう」と嘆く声が出ていたというが、九州ではほとんど部数の出ていない新聞のため、せっかくの問題提起もまったく顧みられなかったようだ。

 帝国大学時代の校舎群を設計したのは、建築課長だった倉田謙で、塔屋を中心に左右対称のデザインであることが共通している。一人の建築家が手掛けた建築物がこれだけ集中して残っている例は貴重らしい。倉田建築のうち、前述したように少なくとも旧工学部本館、本部第一・第三庁舎は保存される(門衛所は設計者不明)。古い建物を容赦なく取り壊してきた福岡の体質を思えば、全滅は免れたと喜ぶべきなのかもしれない。
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川南造船所廃虚の行旅死亡人

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 11月18日の官報に、記憶のある行旅死亡人の公告が掲載されていた。

 本籍・住所・氏名不詳、推定年齢40~60歳代の男性で推定身長150cm前後、歯牙に歯科的治療痕、着衣等は、薄緑色作業服上下、白色靴下、黒色運動靴(25.5cm)、腕時計、鍵、爪切り、白色ロープ、硬貨4,560円
 上記の者は、平成21年3月13日午後3時頃伊万里市山代町立岩無番地の元川南造船所跡地で白骨化した人骨として発見されました。死亡は死後2年~10年経過していると推定。死因は縊死。遺体は火葬に付し、遺骨は市内に納骨してあります。お心当たりの方は、本市福祉課まで申し出てください。

 あの川南造船所跡の廃虚で2009年3月に見つかっていた白骨遺体が、7年以上もたった今頃になって行旅死亡人として掲載されたというわけで、ずいぶんとのんびりした話だ。『行旅病人及行旅死亡人取扱法』では第9条で、行旅死亡人が身元不明の場合、発見時の状況や相貌、遺留品などを官報等で告示するよう市町村に義務づけているが、期限は区切っていないので、7年後の掲載と言っても別に問題はないのかもしれないが。

 記憶があったというのは、このブログで初めて川南造船所について取り上げた際(2010年2月投稿の「川南造船所跡」)、白骨遺体発見についても少し触れていたためだ。この時に調べたところでは、名古屋から訪れていた廃虚マニアの男性が遺体を見つけ、通報したと報道されていた。川南造船所跡については私などが興味を抱くはるか前から、多くの人々が注目し写真や動画をインターネット上に公開していた。そんな状況の中で、少なくとも2年以上も遺体が見つからなかったのは不思議だが、遺体が生い茂った木々で覆われていたためのようだ。私も2011年11月、地元の人の案内で内部に入ったことがあるが、確かに廃虚を覆う木々やツタ、草はすさまじい状態だった。上の写真はこの時に撮影した。

 造船所跡の廃虚を初めて目にしたのは2005年5月、長崎県平戸市に行った際だった。この時は通り過ぎただけだったが、異様な姿は印象に残り、転勤先から福岡に戻った後に何度か通うきっかけになった。建物の全体像は最後まで良くわからないままだったが。下の写真は1977年に撮影された造船所跡一帯の航空写真で、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」からお借りした。中央付近に写るのが造船所跡。55年の工場閉鎖から、この時すでに20年以上がたっているが、まだ緑には覆われておらず、この写真では形状をはっきり確認できる(横4094ピクセルまで拡大可能)。

 造船所跡前を走る道路は佐賀県唐津市と長崎県佐世保市とを結ぶ国道204号線で、ちょうどこの航空写真が撮影された1970年代後半頃には予備校の遠足で通ったことがあるはずだが、造船所跡については何の記憶にも残っていない。浮かれていたためだろうか。県外に遠足に行くなど、つくづく変な予備校に通っていたものだと今さらながら思う。最後になったが、亡くなられた男性のご冥福をお祈りする。


19771020国土地理院
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呪われた七隈線

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 福岡市のJR博多駅前で起きた大陥没事故は、市の醜態をまたも全国にさらしてしまったが、幸いなことに昼夜兼行の埋め戻し作業により14日にも復旧の予定だ。陥没原因は市営地下鉄七隈線の延伸工事だが、この路線はただでさえ毎年巨額の赤字を垂れ流している。延伸工事は利便性アップにより採算を上げようという目論見なのだが、その工事でこんな情けない事態を引き起こすのだから、呪われたような路線だ。復旧費用や損害賠償の総額も恐らく巨額に上ることだろう。

 七隈線は「福岡市西南部の渋滞解消」を目的に2005年2月に開業した。福岡市営地下鉄3番目の路線で、車両基地のある西区橋本と天神南12㌔を結んでいる。開業前、市は一日の利用客を11万人と見込んでいたが、ふたを開けてみれば、わずか4万人あまり。開業初年度の赤字は67億円にも上り、一日の利用客が7万人あまりに増えた今でも毎年30億円以上の赤字を出し続けている。累積赤字は500億円を超えるらしい。

 この路線の大不振の理由は一般的に、地下鉄の主力路線・空港線との乗り継ぎが不便なためだと言われている。両路線とも市の中心・天神に乗り入れてはいるが、空港線天神と七隈線天神南との間は地下街を通って700㍍もあり、確かにその通りなのだろう。

 ただ、私はもう一つ大きな理由があると思う。延長12㌔の路線なのに、駅数は実に16で、駅間距離はたった800㍍。発車したと思ったら、すぐ次の駅に止まるという繰り返しで、鉄道としてあるべきスピード感がまったくなく、非常にストレスを感じる乗り心地なのだ。まして七隈線の建設工事のため沿線道路の多くは拡幅整備され、「福岡市西南部の渋滞解消」という目的は、皮肉にもこの道路整備によってある程度達成されている。路面電車や路線バス並みに止まってばかりの地下鉄を嫌い、マイカー利用を続ける市民も恐らく多いことだろう。

 問題の延伸工事は、キャナルシティ博多という大型商業施設を経由してJR博多駅に直結させるのが目的で、距離にして1.4㌔。2020年度の開業が予定されていた。事業費は450億円にも上るが、福岡市はこの延伸によって利用客が2万人程度増え、延伸開業から6年後には黒字転換、12年後には累積赤字も一掃できると見込んでいた。しかし、これだけの事故を引き起こしたのだから、開業スケジュールに影響が出るのは必至。収支計画の見直しも避けられないことだろう。

 蛇足だが、東京のキー局などは陥没事故が起きた市道・はかた駅前通りを「福岡のメインストリート」などとセンセーショナルに報道していたが、そう思っている市民はほとんどいないと思う。市内を我が物顔で走り回る西鉄バスの路線が、あの通りにはほとんどない。メインストリートではない何よりの証拠だ。


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わらゴジラ

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 福岡県筑前町の安の里公園にわらで作られたゴジラがお目見えし、人気を集めている。高さ7㍍、全長は10㍍。今月5、6日に開かれた収穫祭「ど~んとかがし祭」の呼び物として地元の若者グループが制作したもので、12月上旬まで展示される。見上げると結構な迫力で、あえて逆光で撮った後姿が良い感じだった。

 12日までは夜間ライトアップ中で、本来はLED電球が埋め込まれた目が光る仕組みなのだが、6日夕に神宮外苑のアートイベントで起きた火災を受け、LED点灯は自粛したという。


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