きゃべつ畑のひまわり

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 今年も一面のヒマワリだった。この盆休み、昨年に続いて宮崎県高鍋町の染ヶ岡地区に行き、80㌶もの畑を埋め尽くすヒマワリを見てきた。その数、約1100万本。タイトルの「きゃべつ畑のひまわり」とは、ここは本来はキャベツ畑で、お盆を過ぎれば、ヒマワリはトラクターで畑にすき込まれ、キャベツの肥料となるためだ。ここで生産されるキャベツは、その名も「ひまわりキャベツ」として春から初夏にかけて出荷される。

 このヒマワリは「復興のヒマワリ」とも呼ばれている。地元では有名な話なので、今さら紹介するのも気が引けるが、染ヶ岡地区は古くからキャベツ栽培が盛んで、肥料には堆肥を使ってきた。しかし、高鍋町や隣接する川南町を2010年、家畜の伝染病・口蹄疫が襲い、高鍋町だけでも3万頭を超える家畜が殺処分され、ウイルス拡散を防ぐため堆肥の利用も禁止された。地元農家は代わってヒマワリを栽培し、緑肥とするようになったが、大地を黄色に染める景観は「復興の象徴」として大きな評判を呼び、ヒマワリの栽培面積は年々広がっていったという。

 白状すると、「昨年に続いて」と冒頭に書いたが、昨年は親族の車の後部座席で熟睡中で、家族が撮影した写真で絶景を見逃したことを知り、しばらくは後悔の毎日だった。幸いにも今年、再訪することができたが、何事にも「次の機会がある」と言い切れる年齢でもなくなってきた。
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無事だった朝倉の水車群

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 九州北部豪雨により大変な被害を受けた朝倉市に25日行き、農産物を買い込んできた。「何をのん気な」とお叱りを受けるかもしれないが、以前から足しげく通っていた農産物直売所がどこも営業再開していると聞き、「だったら地元のスーパーで買うよりは」と足を延ばして来た。豪雨から20日がたったが、依然として多くの場所が土砂や流木に埋まり、災害前、子供たちでにぎわっていた公園の芝生広場は土砂の仮置き場となり、風景が一変していた。

 不幸中の幸いというべきか、地域のシンボル的な存在である菱野の三連水車をはじめとする3基の水車群はほぼ無傷だったと聞いた。しかし、水車が水を汲み上げていた肝心の堀川用水が土砂で埋まり、全ての水車が動きを止めていた。20日から復旧作業が進められているが、まだ再稼働のめどは立たないらしい。被害を免れた水田は青々としていたが、田の表面は乾ききり、ひび割れが広がっている状態だった。

 朝倉の水車群は菱野の三連水車のほか、三島の二連水車、久重の二連水車からなり、堀川用水と合わせ1990年に国史跡に指定されている。筑後川の水を農業用水とするため堀川用水が掘られたのは1663年(寛文3)で、その約100年後、高い土地にあった山側の田に水を供給するため水車群が造られたとされる。1日の揚水能力は実に約2万㌧で、35㌶もの水田を潤していた。

 写真は上から菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車、土砂で埋まった堀川用水、豪雨の爪痕が残る三連水車近くの公園。下は三連水車が稼働していた時の映像で、2014年6月に撮影した。

 【8月2日追記】朝倉の水車群は8月2日、稼働を再開しました。


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シーサイドももちで花火大会

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 福岡市のシーサイドももち海浜公園で26日夜、17年ぶりに花火大会が開かれる。以前は観覧無料だったが、今回は海浜公園全体が有料エリアとなり、大人2,000~7,000円の料金が必要。打ち上げ花火などは河川敷や海岸に座り込み、ただで見るものだと思っていたが、最近では企業からの協賛金が集まりにくくなり、観覧を有料にして費用を賄うのが一般的らしい。

 海浜公園では観覧席の設置など準備が進む一方、周辺道路には花火大会当日は交通規制が行われることを知らせる看板が設置されている。写真2枚目は会場にも程近い「よかトピア通り」に架かる歩道橋にあった看板で、花火大会開催中の午後7時半から9時までは通行不可であることを告知している。花火大会と歩道橋と言えば、兵庫県明石市で2001年7月21日、花火大会に向かう見物客が歩道橋に殺到し、11人が死亡、183人が重軽傷を負う大変な事故があった。恐らくこの事故を踏まえての安全対策なのだろう。
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面影を失った赤れんが塀

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 福岡市中央区の簀子小学校跡地にある赤れんが塀が改修工事で大幅に低くなり、もはや塀とは呼べない状態になっている。以前の赤れんが塀は長さ約90㍍、高さ1.3㍍で、学校跡地と隣接する簀子公園との間を区切っていた。福岡大空襲で焼け残った、市内では数少ない戦争の生き証人だったが、この一件を報じた西日本新聞記事よると、一部がたわみ、緩んでいたため、市が「地震で崩れたら危険」と一部を取り壊し、大半の部分は40㌢の高さにまで低くしたという。以前通り高さ1.3㍍のまま残されたのは東側のごく一部に過ぎない。

 福岡大空襲とは1945年6月19日深夜から翌日未明にかけ、マリアナ基地から飛来した221機のB29による無差別爆撃を指し、これにより福岡市域の3割が焼失した。死者・行方不明者数は資料によって数字がまちまちだが、『福岡市史』第3巻昭和編前編上(1965)には、死者691人、行方不明者235人と記録されている。

 中でも被害が大きかったのが博多部では奈良屋校区、福岡部では大名、簀子校区で、『火の雨が降った―6・19福岡大空襲』(福岡空襲を記録する会、1985)によると、簀子では民家1,885戸のうち、90%に当たる1,700戸が焼失、犠牲者は死者143人、行方不明13人、負傷者242人に上った。この時、簀子小学校校舎も全焼したが、赤れんが塀だけは焼け残り、戦後1947年に簀子公園に建立された犠牲者の供養塔とともに、大空襲の記憶を伝えていた。

 同書の口絵には、終戦直後、簡易保険局の屋上から撮影した簀子地区の写真が掲載されているが、焼け野原の中に赤れんが塀がはっきり写っており、以前は簀子小の敷地全体を取り巻いていたことがわかる。つい先頃まで現存していた長さ90㍍はわずかに残った一部だったわけだが、それさえも「危険」という理由で保存を許されなかった。確かに安全は一番大事なことだが、ひと手間を掛けるのならば、取り壊しではなく補強工事で現状保存を図るという選択肢はなかったのだろうかと思う。福岡市は近代遺産に緩やかな保護の網をかけるため2012年度、登録文化財制度を創設しているが、こういった遺構を守らずして、いったい何を守るつもりなのだろうか。

 文中に紹介した供養塔は住民有志によって建立されたもので、これには簀子地区の犠牲者は176人と刻まれ、その傍らに近年、中央区役所が設置した説明板にも同じ数字が記されている。説明板には、簀子地区の被害が大きかった理由について、近くの福岡城址に歩兵第24連隊が置かれていたため「集中的に攻撃され」と書かれているが、この説明板以外では見たことがない記述だ。

 『火の雨が降った』には、米側の公文書『作戦任務報告書』の翻訳が収録されているが、これには米側が「福岡市の半月形の市街地の中心のもっとも燃えやすく産業が集中している三・六平方㍄(九・二平方㌔)で多くの重要目標が単独または重複して四,〇〇〇㌳の誤差確率園内に含まれるよう二つの攻撃中心点を設定した」とある。この攻撃中心点とは天神と中洲だったようだ。簀子への攻撃が激しかったのは歩兵24連帯が原因ではなく、天神に近接していた、あるいは天神と誤認されたためではないだろうか。


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突然起きた神社の砲弾騒動

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 各地の神社に古くからあった砲弾が今月、突如として不発弾扱いされるようになり、「爆発の恐れあり」と撤去騒ぎが起きている。私も以前どこかの神社で見た記憶があり、探してみたら上の写真が見つかった。福岡市西区の今山遺跡(石斧の産地跡として山全体が国史跡になっている)を散策した際、山上の熊野神社で撮影したものだ。本殿脇に遺棄されたも同然の状態で置かれていた。ただ、石の台座らしきものに設置されているところを見ると、元々はそれなりの由緒があったのだろう。

 今回の騒ぎの震源地は大分県で、新聞報道などによると、杵築市の神社を訪れた男性が野ざらし状態の砲弾を見つけ、警察に通報したのが発端だという。自衛隊の調査で“信管がついた旧日本軍の不発弾”と確認され、これを受けて大分県神社庁が県下の神社に対し、砲弾の有無を確かめるよう通達。「ある」との報告が続々と寄せられ、騒ぎが広がった。一部新聞は過去に起きた不発弾爆発事故を持ち出し、不安をあおっていたが、そのすべては地中に埋まっていた不発弾によるものだ。神社等に置かれていた砲弾が爆発したケースが本当にあるのか、知りたいのはそこなのだが。

 砲弾の多くは年代不明だったというが、新聞等には「日清・日露戦争に従軍していた兵士が帰郷後、戦勝記念などとして奉納したのではないか」という研究者のコメントが載っていた。台座に「征露記念」などと刻まれていた例もあったというから、その通りなのだろう。ただ、国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブを漁ったところ、別のケースもあり得ることがわかった。地方自治体や学校などが帝国陸海軍に対し砲弾などの廃兵器の下付を求めた文書が大量にあったのだ。

 文書の多くは達筆な崩し字で書かれていたため、私には判読できなかったが、楷書で書かれていた数少ない資料によると、旧陸海軍は「軍事思想啓発」のため廃兵器を希望者に下げ渡していたことがわかった。例えば、石川県津幡町長、津幡尋常小学校長らが大正13年(1924)に財部彪・海軍大臣に提出した文書には、尋常小学校に展示し、「海軍思想ノ鼓吹普及」するため魚雷1本、機雷1個、大砲砲身1本、砲弾2個、飛行機プロペラ1個の下付を要望したことが記されている。また、昭和10年(1935)に下関市長は日和山公園に据え付けるため「加式二十四糎加農被帽弾々丸」1個などを、同12年(1937)には北海道津別村の津別神社造営会は神社に献納するため、日清・日露戦争、または満州・上海事変などに関係ある火砲少なくとも2門と弾丸少なくとも14個の下付を求めていた。

 騒ぎになった砲弾の中にも、あるいはこういった経緯で地方にもたらされ、結果として展示を兼ねて地元の氏神などに奉納されていた物があったかもしれない。兵士一個人ではなく旧陸海軍が直接関与していたのだから、安全には万全の措置が講じられていたはずで、これらは危険な不発弾ではなく、単なる「戦時資料」だったことになる。神社等にあった砲弾の多くは、関係者も「昔からあった」と証言するだけで由来不明だったらしく、だとしたら今さらながらも爆発を恐れることは当然なのかもしれないが、何となく釈然としない騒ぎではあった。
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福岡市動植物園

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 福岡市動植物園(中央区南公園)に20数年ぶりに行ってきた。緑の桜「御衣黄」、黄緑の桜「鬱金」が並んで咲いているという記事を読み、撮影に出かけたのだ。しかし、2本とも思っていた以上に高木で、まともな写真は1枚も撮れなかった。仕方がないので、代わりに(?)オランウータンの写真を撮ってきた。福岡市の動物園は近年、旭山動物園をお手本にリニューアルが続いており、動物たちの姿がよく観察できるようになっていた。ただ、個人的な感想を言えば、動物たちの展示スペースが広がった分(これは良いことだが)、人間側の観察路はさらに狭苦しくなったように思えた。

 この動植物園があるのは標高60㍍の丘陵地帯で、かつては大休山と呼ばれていた。江戸時代の地誌『筑前国続風土記』には、木こりたちがここで荷を下ろし、一休みしていたと地名の由来が書かれている。また、夜には鬼火が飛び回っていたともある。そんな鬼火の名所は、今では園の周囲をぐるっと閑静な住宅街が取り巻き、県外に住む私の親族は「おしゃれな店が並ぶ坂道(※浄水通りこと)の先に動物園があった」と立地に驚いていた。

 動植物園を合わせた敷地面積は約27㌶だが、1953年開園の動物園は10㌶と手狭。老朽化が進んでいたこともあり、バブルの時代、西区金武に移転する計画が浮上したことがある。450億円の巨費を投じ、50㌶の広大な自然動物公園を造るというものだったが、私はその成り行きを見届けないまま、転勤でこの街を離れた。10年近く後に戻ってくると、動物園は依然として南公園にあり、「?」と思っていたら、そのうちに財政難を理由に計画の白紙撤回が発表された。数年前、金武地区に農業公園がオープンしたが、これは移転計画に長らく振り回され、農地改良を見送ってきた地元に対する“おわび”みたいなものだという。(※植物園開園は1980年)

 一方、動物園は移転が立ち消えになって以降、徐々に改修が進められ、動物の飼育・展示方法に工夫が凝らされるとともに、エレベーターやスロープが整備され、バリアフリー化が進んだ。冒頭、「狭苦しくなった」といちゃもんをつけたが、一時は年間60万人程度まで落ち込んでいた入場者は、この改修が功を奏し、現在は約100万人にまでV字回復したという。

 23日の日曜日もベビーカーを押した親子や3世代ファミリーらでにぎわっていた。財政問題は別にして、動物園が現在地に残ったことは、市民や動物たちにとって良かったのか悪かったのか判断が付かないが、空港、動植物園、浄水場、海水浴場、霊園等々、普通は郊外にありそうな施設が福岡では市街地のど真ん中にある。コンパクトシティを売りにしているだけに、これはこれで福岡の特色なのかなと思う。

 本命の御衣黄と鬱金、2本の桜は盛りが過ぎ、花は少ししおれた感じだった。2種類の花の違いを確かめるのも目的だったが、私の節穴の眼では、鬱金の方が少し色が薄い気はしたものの、ほとんど区別がつかなかった。せっかくだから園内を散策し、温室では熱帯植物なども見てきた。大人600円の入園料で、動物も植物も楽しめるのだから、リーズナブルだ。これでも大人料金は昨年6月、200円値上げされたのだが、中学生以下の料金は依然として無料を貫いている。


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プラリバ跡地再開発計画

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 2015年7月末で閉館した福岡市早良区西新の商業ビル、プラリバ跡地の再開発計画が21日、所有者の東京建物からようやく正式発表された。高さ140㍍の40階建てのマンション(330戸)と商業施設からなる複合ビルを建設するというものだが、目を引いたのは8階建ての旧建物の西半分を4階建てに減築し、そのまま商業スペースとして活用するという点だ。跡地は完全に更地にした後、新たなビルを建設すると思い込んでいたので、これは意外だった。

 東京建物の公表資料によると、本体工事は来年1月着工、商業施設の一部開業は2019年度、全体の完成は21年度を予定している。旧建物を減築して一部活用するのは商業施設の早期開業を図るためだという。プラリバ閉館以降、周辺の人通りが目に見えて減ったことに対し、東京建物側も少しは責任を感じていたのだろうか。ただし、商業施設の広さは旧建物の29,000平方㍍から10,000平方㍍に大幅縮小される。大規模マンションを建てるぐらいだから、東京建物が西新を住宅地として有望だと考えているのは間違いないが、商業地としてはそれほど魅力を感じていないのかもしれない。

 プラリバ跡地がある西新商店街にはもう一つの大型店、イオン西新店があったが、老朽化によりここも昨年5月で閉店。二つの大型店が消えたことによる影響を危惧した地元からは昨年、活性化支援を求める請願が市議会に出されている。この請願は昨秋、市議会の委員会で審査され、お決まりの継続審査となったが、この時の議論によると、客足減によりすでに5、6店舗が商店街から撤退したという。また、つい先頃にはプラリバ前の交差点の一角に長く店を構えていたファーストフード店が突然閉店し、地元民にショックを与えた。

 以前、県外から遊びに来た親族の子が西新商店街について「三つも集中していて便利だね~」と感想を漏らしていたが、この三つとはファーストフード店のマクドナルド、ミスタードーナツ、ケンタッキーフライドチキンのこと。「友達とおしゃべりする場に事欠かない」という意味だったようだ。しかし、このうちの二つは西新から去り、残るのはマクドナルドだけになった。プラリバ跡地再開発計画がまとまったことは朗報だが、商業施設開業はまだ2年も先。商店街も、買い物で利用する市民も、我慢の時が続くことになる。

 残るイオン西新店の跡地利用については、イオン九州側からは今のところ、何の発表もないが、地元商店街などでつくる「西新発展協議会」という組織に昨年8月、東京建物とイオン九州が新たに加わっている。イオン九州としても西新から完全撤退する考えはないのだろう。前述の市議会委員会では、イオン西新店跡地について、市側は「今後の計画は不明であるが、商業施設が建設されるものと聞いている」と述べている。この言葉を信用すれば、イオン九州からいずれ、跡地利用について何らかの発表があるだろうと思う。
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福岡市立霊園に合葬墓?


 福岡市が新年度から、市立霊園への合葬墓導入について検討を始める。先頃発表した予算案の中で明らかにした。少子高齢化で墓の維持が重荷となっている家庭が増える一方、都市部では近隣に墓地を確保するのが非常に困難になっている、と聞く。自分の墓をどうするか、私自身がちょうど思い悩み始めた時だったので、関心を覚えた。予算資料には「市立霊園内における合葬墓等の導入検討」とあるだけで、実現するかどうかもわからない段階だが、合葬墓に対するニーズは福岡でも恐らく大きいのではないかと思う。

 福岡市には平尾(南区平和。写真)、三日月山(東区香椎)、西部(西区羽根戸)と市立霊園が3か所あり、区画数は1万を超えている。しかし、相当な幸運に恵まれなければ、これらの霊園に墓を造ることは不可能だ。毎年、空きが出た区画の募集が行われてはいるが、市の公表資料によると、2011~15年の5年間で募集は計171区画だったのに対し、応募者は6,972人で、倍率は実に40倍。中でも市街地にある平尾霊園は60倍を超えている。市立だから使用料(初回のみ1平方㍍当たり172,000円~260,000円)、管理費(1平方㍍当たり年1,000円)が格安なうえ、自然に恵まれた場所にあることも魅力なのだろう。

 しかし、冒頭で書いたように、墓地不足の一方で、少子高齢化で代々の墓を維持することが困難となった家庭が増え、この二つの問題の解決策として、首都圏や京阪神では合葬墓(永代供養墓)を設ける動きが1990年代から広がってきたという。自治体で最初に合葬墓を設置したのは1993年の横浜市で、自治体、霊園利用者の双方にとってコストが抑えられるというメリットもあり、その後、大阪、神戸、千葉市など多くの都市が続いている。

yokohama.jpg ところで、合葬墓とはどんな構造なのか? 墓園によって様々なようではあるが、地下に大型の納骨室を設けたうえで、地上には墓参のためのモニュメントなどを配置するのが一般的らしい。先駆者の横浜市・日野公園墓地(写真、横浜市資料からお借りした)にはこの形式とともに、庭園風に整備した一角の地下に直接骨壺を埋葬する樹木葬型合葬墓も設置されている。同市の資料によると、管理料は1区画1体当たりで年3~6万円と意外に高額だったが、樹木葬型は比較的高倍率となっている。

 福岡市は新年度から設置の検討を始めるというのだから、横浜市からは実に20年以上も遅れてやっとスタートラインに立つことになる。市立霊園は狭き門とは言え、墓地不足は首都圏ほど深刻ではないため、大きな危機感はなかったのだろう。
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途切れたエスカレーター改善へ

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 福岡市のJR博多駅には非常に残念な箇所がある。市営地下鉄のコンコースから博多駅筑紫口(新幹線駅側)に上がっていくと、エスカレーターが途切れ、階段を使うしかなくなるのだ。福岡人は“こんなもの”だと諦めているが、荷物を抱えて新幹線乗り場に急いでいる時など、やはり「エスカレーターぐらい最後まで造れ」と愚痴を言いたくもなる。県外の人には理解不能な構造だろう。政令市の玄関口にあるまじき、この残念な状態を解消する計画がようやく2019年度からスタートする。福岡市が14日公表した新年度予算案の中に、コンコースから筑紫口までをきちんと直結するエスカレーターの基本設計費2174万円が盛り込まれているのだ。着工は恐らく20年度以降になるだろうが、それでも朗報と言えるだろう。

 ご存じない方のために簡単に説明すると、地下1階の地下鉄コンコースから地上1階の筑紫口までには計49段の階段がある。階段31段分はエスカレーターが設置されているのだが、途中にある踊り場でエスカレーターは途切れ、残る18階分は階段だけとなる。1985年の地下鉄博多駅の本開業当時からこの状態で、2011年に博多駅が新ビルに建て替わった際も改善されなかった。

 なぜ、こんな残念な構造になっているのか? 理由は意外に単純明快で、階段31段分までが福岡市営地下鉄の領分、上の18階分はJR西日本(新幹線駅側はJR九州ではなく、西日本が管轄)の領分だからで、要するにエスカレーターは地下鉄管轄部分にしか整備されていないのだ。福岡市は以前からJR西日本に改善を働きかけてきたというが、バリアフリーに程遠い状態が結果として30年以上も続いてきた。あくまでも想像だが、JR西日本としては、他社(地下鉄)の利用客のために大金を掛ける気はなかったのだろう。利用客の一部は新幹線の利用客でもあったと思うのだが。

 新たなエレベーター整備について、新年度予算案の資料には「筑紫口において、お客様の利便性向上を図るため、地下鉄コンコースから地上へのエスカレーター設置に係る基本設計を実施するとともに、更なるバリアフリー経路の充実について検討する」と記されている。市が関連予算を計上したということは、一向に動かないJR西日本に業を煮やし、整備を肩代わりすることを決意したということだろうか。資料に書かれている情報だけではわからないことが多過ぎるので、迷惑だろうとは思いつつ、市交通局にエスカレーターの完成時期や、市とJR西日本の費用負担などについて尋ねてみた。交通局の応対は非常に丁寧だったが、質問に対しては全くのゼロ回答だった。
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青島の橘ホテル跡地

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 12日、宮崎にホークス春季キャンプ見物に行ったついでに青島方面を散策してきた。“幽霊ホテル”と呼ばれた旧橘ホテルの廃虚は7年前に姿を消し、広大な跡地と青島海水浴場との間は無粋な金属製のフェンスで仕切られていた。20年間も居座っていた幽霊ホテルがなくなり、すっきりはしたが、物寂しさを感じる景観でもあった。宮崎市と、跡地を所有する地元の財産区は4月から、事業者を公募して跡地開発を進める方針で、昨年、市が行った事前ヒアリングでは意欲を示した事業者が10社を超えたという。かつては宮崎を代表する観光地だっただけに、ポテンシャルを感じる企業も多いのだろう。

 橘ホテルは1967年開業。7階建て、客室数は330室に上る巨大ホテルで、最盛期は宮崎が新婚旅行ブームに沸いていた1970年代。この頃の宿泊客数は調べきれなかったが、ブームが去った後の80年代にも年間20万人以上の宿泊客を集めていたという。私も70年代、新婚旅行ではなく修学旅行でこのホテルに泊まったが、複数の学校が同宿していた記憶がある。大雑把に言えば、一晩に数百人の中高校生が橘ホテルに泊まっていたわけだ。ところが、昨年11月に発行された最新版の『宮崎市観光統計』によると、2015年1年間に宮崎市に宿泊した就学旅行客はわずか2,900人。あまりに少なくすぎ、間違いではないかと思ったが、事実ならば、観光宮崎の衰退は修学旅行客から敬遠されていることが大きな要因なのではないだろうか。

 話を橘ホテルの来歴に戻すと、不動産会社が1990年に買収し、同社は同年12月、建て替えのため一時休業した。しかし、バブル崩壊に伴う経営悪化により、建て替えも営業再開もできないという状態に陥り、結果として20年間も野ざらしの状態で放置されることになった。別のリゾート会社が2008年、跡地をコテージ群として再開発する計画に乗り出したが、この会社も翌年、建物の解体を終えたところで銀行から融資を断られ、撤退したという経緯がある。4月からの業者公募は三度目の正直ということになる。

 昨年のヒアリングでは、跡地活用策について業者からは「リゾートホテルとレストラン」「高級シニアハウスと介護付き老人ホーム」「産学官連携でのメディカルセンターとスポーツリハビリ施設」などのアイデアが出されたという。宮崎市はヒアリング結果の公表資料の中で「宿泊施設やレストラン等を有する観光拠点、パブリックなスペースとなる広場や周遊性を持たせる遊歩道などの提案があり、これは本市が示した整備の考え方と一致するものでした」と明言しているぐらいだから、やはり観光開発が本意なのだろう。

 青島海水浴場の写真を撮影した後、遊園地「こどものくに」付近まで足を延ばした。「南国」と呼ばれる宮崎だが、ちょうどプロ野球キャンプが行われる2月はかなり寒く、地元では「●●がキャンプに来る頃が一番寒い」(●●には地元でキャンプを張る球団名が入る)などと、プロ野球チームが寒波の使者みたいに言われている。まして12日はこの冬一番の寒波が去った直後だったので、海風はかなりの冷たさだった。「南国」も演出による部分も大きいのではないかと思う。例えば、南国ムードを漂わせている街路樹のワシントニアパームは北米原産で、実は結構寒さに強い樹種だということを比較的最近知った。そう言えば、冬には強烈な寒風が吹き荒れる、わが福岡の百道浜海岸にも植えられ、元気に育っている。

 ところで、「こどものくに」を遊園地と書いたが、そう表現できるのは12日が最後で、翌日の13日から遊具を全面撤去する改修工事に入った。大型連休には全面芝生張りの広場として生まれ変わるという。太平洋戦争開戦直前の1939年(昭和14)3月から歴史を刻んできた「こどものくに」が遊園地としての歴史に幕を閉じたわけで、これは地元では大きなニュースになっているのではないかと思ったが、宮崎で生まれ育った私の親族たちは意外に無関心で拍子抜けした。

 写真は上から、青島海水浴場と青島、旧橘ホテル跡地、かつては土産品店が軒を連ねていた青島神社の参道。下がこどものくに、ホークスキャンプが行われている生目の杜運動公園。


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