# 旧聞since2009

# 面影を失った赤れんが塀

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 福岡市中央区の簀子小学校跡地にある赤れんが塀が改修工事で大幅に低くなり、もはや塀とは呼べない状態になっている。以前の赤れんが塀は長さ約90㍍、高さ1.3㍍で、学校跡地と隣接する簀子公園との間を区切っていた。福岡大空襲で焼け残った、市内では数少ない戦争の生き証人だったが、この一件を報じた西日本新聞記事よると、一部がたわみ、緩んでいたため、市が「地震で崩れたら危険」と一部を取り壊し、大半の部分は40㌢の高さにまで低くしたという。以前通り高さ1.3㍍のまま残されたのは東側のごく一部に過ぎない。

 福岡大空襲とは1945年6月19日深夜から翌日未明にかけ、マリアナ基地から飛来した221機のB29による無差別爆撃を指し、これにより福岡市域の3割が焼失した。死者・行方不明者数は資料によって数字がまちまちだが、『福岡市史』第3巻昭和編前編上(1965)には、死者691人、行方不明者235人と記録されている。

 中でも被害が大きかったのが博多部では奈良屋校区、福岡部では大名、簀子校区で、『火の雨が降った―6・19福岡大空襲』(福岡空襲を記録する会、1985)によると、簀子では民家1,885戸のうち、90%に当たる1,700戸が焼失、犠牲者は死者143人、行方不明13人、負傷者242人に上った。この時、簀子小学校校舎も全焼したが、赤れんが塀だけは焼け残り、戦後1947年に簀子公園に建立された犠牲者の供養塔とともに、大空襲の記憶を伝えていた。

 『火の雨が降った』の口絵には、終戦直後、簡易保険局の屋上から撮影した簀子地区の写真が掲載されているが、焼け野原の中に赤れんが塀がはっきり写っており、以前は簀子小の敷地全体を取り巻いていたことがわかる。つい先頃まで現存していた長さ90㍍はわずかに残った一部だったわけだが、それさえも「危険」という理由で保存を許されなかった。確かに安全は一番大事なことだが、ひと手間を掛けるのならば、取り壊しではなく補強工事で現状保存を図るという選択肢はなかったのだろうかと思う。福岡市は近代遺産に緩やかな保護の網をかけるため2012年度、登録文化財制度を創設しているが、こういった遺構を守らずして、いったい何を守るつもりなのだろうか。

 文中に紹介した供養塔は住民有志によって建立されたもので、これには簀子地区の犠牲者は176人と刻まれ、その傍らに近年、中央区役所が設置した説明板にも同じ数字が記されている。説明板には、簀子地区の被害が大きかった理由について、近くの福岡城址に歩兵第24連隊が置かれていたため「集中的に攻撃され」と書かれているが、この説明板以外では見たことがない記述だ。

 『火の雨が降った』には、米側の公文書『作戦任務報告書』の翻訳が収録されているが、これには米側が「福岡市の半月形の市街地の中心のもっとも燃えやすく産業が集中している三・六平方㍄(九・二平方㌔)で多くの重要目標が単独または重複して四,〇〇〇㌳の誤差確率園内に含まれるよう二つの攻撃中心点を設定した」とある。この攻撃中心点とは天神と中洲だったようだ。簀子への攻撃が激しかったのは歩兵24連帯が原因ではなく、天神に近接していた、あるいは天神と誤認されたためではないだろうか。


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# 突然起きた神社の砲弾騒動

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 各地の神社に古くからあった砲弾が今月、突如として不発弾扱いされるようになり、「爆発の恐れあり」と撤去騒ぎが起きている。私も以前どこかの神社で見た記憶があり、探してみたら上の写真が見つかった。福岡市西区の今山遺跡(石斧の産地跡として山全体が国史跡になっている)を散策した際、山上の熊野神社で撮影したものだ。本殿脇に遺棄されたも同然の状態で置かれていた。ただ、石の台座らしきものに設置されているところを見ると、元々はそれなりの由緒があったのだろう。

 今回の騒ぎの震源地は大分県で、新聞報道などによると、杵築市の神社を訪れた男性が野ざらし状態の砲弾を見つけ、警察に通報したのが発端だという。自衛隊の調査で“信管がついた旧日本軍の不発弾”と確認され、これを受けて大分県神社庁が県下の神社に対し、砲弾の有無を確かめるよう通達。「ある」との報告が続々と寄せられ、騒ぎが広がった。一部新聞は過去に起きた不発弾爆発事故を持ち出し、不安をあおっていたが、そのすべては地中に埋まっていた不発弾によるものだ。神社等に置かれていた砲弾が爆発したケースが本当にあるのか、知りたいのはそこなのだが。

 砲弾の多くは年代不明だったというが、新聞等には「日清・日露戦争に従軍していた兵士が帰郷後、戦勝記念などとして奉納したのではないか」という研究者のコメントが載っていた。台座に「征露記念」などと刻まれていた例もあったというから、その通りなのだろう。ただ、国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブを漁ったところ、別のケースもあり得ることがわかった。地方自治体や学校などが帝国陸海軍に対し砲弾などの廃兵器の下付を求めた文書が大量にあったのだ。

 文書の多くは達筆な崩し字で書かれていたため、私には判読できなかったが、楷書で書かれていた数少ない資料によると、旧陸海軍は「軍事思想啓発」のため廃兵器を希望者に下げ渡していたことがわかった。例えば、石川県津幡町長、津幡尋常小学校長らが大正13年(1924)に財部彪・海軍大臣に提出した文書には、尋常小学校に展示し、「海軍思想ノ鼓吹普及」するため魚雷1本、機雷1個、大砲砲身1本、砲弾2個、飛行機プロペラ1個の下付を要望したことが記されている。また、昭和10年(1935)に下関市長は日和山公園に据え付けるため「加式二十四糎加農被帽弾々丸」1個などを、同12年(1937)には北海道津別村の津別神社造営会は神社に献納するため、日清・日露戦争、または満州・上海事変などに関係ある火砲少なくとも2門と弾丸少なくとも14個の下付を求めていた。

 騒ぎになった砲弾の中にも、あるいはこういった経緯で地方にもたらされ、結果として展示を兼ねて地元の氏神などに奉納されていた物があったかもしれない。兵士一個人ではなく旧陸海軍が直接関与していたのだから、安全には万全の措置が講じられていたはずで、これらは危険な不発弾ではなく、単なる「戦時資料」だったことになる。神社等にあった砲弾の多くは、関係者も「昔からあった」と証言するだけで由来不明だったらしく、だとしたら今さらながらも爆発を恐れることは当然なのかもしれないが、何となく釈然としない騒ぎではあった。

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# 福岡市動植物園

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 福岡市動植物園(中央区南公園)に20数年ぶりに行ってきた。緑の桜「御衣黄」、黄緑の桜「鬱金」が並んで咲いているという記事を読み、撮影に出かけたのだ。しかし、2本とも思っていた以上に高木で、まともな写真は1枚も撮れなかった。仕方がないので、代わりに(?)オランウータンの写真を撮ってきた。福岡市の動物園は近年、旭山動物園をお手本にリニューアルが続いており、動物たちの姿がよく観察できるようになっていた。ただ、個人的な感想を言えば、動物たちの展示スペースが広がった分(これは良いことだが)、人間側の観察路はさらに狭苦しくなったように思えた。

 この動植物園があるのは標高60㍍の丘陵地帯で、かつては大休山と呼ばれていた。江戸時代の地誌『筑前国続風土記』には、木こりたちがここで荷を下ろし、一休みしていたと地名の由来が書かれている。また、夜には鬼火が飛び回っていたともある。そんな鬼火の名所は、今では園の周囲をぐるっと閑静な住宅街が取り巻き、県外に住む私の親族は「おしゃれな店が並ぶ坂道(※浄水通りこと)の先に動物園があった」と立地に驚いていた。

 動植物園を合わせた敷地面積は約27㌶だが、1953年開園の動物園は10㌶と手狭。老朽化が進んでいたこともあり、バブルの時代、西区金武に移転する計画が浮上したことがある。450億円の巨費を投じ、50㌶の広大な自然動物公園を造るというものだったが、私はその成り行きを見届けないまま、転勤でこの街を離れた。10年近く後に戻ってくると、動物園は依然として南公園にあり、「?」と思っていたら、そのうちに財政難を理由に計画の白紙撤回が発表された。数年前、金武地区に農業公園がオープンしたが、これは移転計画に長らく振り回され、農地改良を見送ってきた地元に対する“おわび”みたいなものだという。(※植物園開園は1980年)

 一方、動物園は移転が立ち消えになって以降、徐々に改修が進められ、動物の飼育・展示方法に工夫が凝らされるとともに、エレベーターやスロープが整備され、バリアフリー化が進んだ。冒頭、「狭苦しくなった」といちゃもんをつけたが、一時は年間60万人程度まで落ち込んでいた入場者は、この改修が功を奏し、現在は約100万人にまでV字回復したという。

 23日の日曜日もベビーカーを押した親子や3世代ファミリーらでにぎわっていた。財政問題は別にして、動物園が現在地に残ったことは、市民や動物たちにとって良かったのか悪かったのか判断が付かないが、空港、動植物園、浄水場、海水浴場、霊園等々、普通は郊外にありそうな施設が福岡では市街地のど真ん中にある。コンパクトシティを売りにしているだけに、これはこれで福岡の特色なのかなと思う。

 本命の御衣黄と鬱金、2本の桜は盛りが過ぎ、花は少ししおれた感じだった。2種類の花の違いを確かめるのも目的だったが、私の節穴の眼では、鬱金の方が少し色が薄い気はしたものの、ほとんど区別がつかなかった。せっかくだから園内を散策し、温室では熱帯植物なども見てきた。大人600円の入園料で、動物も植物も楽しめるのだから、リーズナブルだ。これでも大人料金は昨年6月、200円値上げされたのだが、中学生以下の料金は依然として無料を貫いている。


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# プラリバ跡地再開発計画

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 2015年7月末で閉館した福岡市早良区西新の商業ビル、プラリバ跡地の再開発計画が21日、所有者の東京建物からようやく正式発表された。高さ140㍍の40階建てのマンション(330戸)と商業施設からなる複合ビルを建設するというものだが、目を引いたのは8階建ての旧建物の西半分を4階建てに減築し、そのまま商業スペースとして活用するという点だ。跡地は完全に更地にした後、新たなビルを建設すると思い込んでいたので、これは意外だった。

 東京建物の公表資料によると、本体工事は来年1月着工、商業施設の一部開業は2019年度、全体の完成は21年度を予定している。旧建物を減築して一部活用するのは商業施設の早期開業を図るためだという。プラリバ閉館以降、周辺の人通りが目に見えて減ったことに対し、東京建物側も少しは責任を感じていたのだろうか。ただし、商業施設の広さは旧建物の29,000平方㍍から10,000平方㍍に大幅縮小される。大規模マンションを建てるぐらいだから、東京建物が西新を住宅地として有望だと考えているのは間違いないが、商業地としてはそれほど魅力を感じていないのかもしれない。

 プラリバ跡地がある西新商店街にはもう一つの大型店、イオン西新店があったが、老朽化によりここも昨年5月で閉店。二つの大型店が消えたことによる影響を危惧した地元からは昨年、活性化支援を求める請願が市議会に出されている。この請願は昨秋、市議会の委員会で審査され、お決まりの継続審査となったが、この時の議論によると、客足減によりすでに5、6店舗が商店街から撤退したという。また、つい先頃にはプラリバ前の交差点の一角に長く店を構えていたファーストフード店が突然閉店し、地元民にショックを与えた。

 以前、県外から遊びに来た親族の子が西新商店街について「三つも集中していて便利だね~」と感想を漏らしていたが、この三つとはファーストフード店のマクドナルド、ミスタードーナツ、ケンタッキーフライドチキンのこと。「友達とおしゃべりする場に事欠かない」という意味だったようだ。しかし、このうちの二つは西新から去り、残るのはマクドナルドだけになった。プラリバ跡地再開発計画がまとまったことは朗報だが、商業施設開業はまだ2年も先。商店街も、買い物で利用する市民も、我慢の時が続くことになる。

 残るイオン西新店の跡地利用については、イオン九州側からは今のところ、何の発表もないが、地元商店街などでつくる「西新発展協議会」という組織に昨年8月、東京建物とイオン九州が新たに加わっている。イオン九州としても西新から完全撤退する考えはないのだろう。前述の市議会委員会では、イオン西新店跡地について、市側は「今後の計画は不明であるが、商業施設が建設されるものと聞いている」と述べている。この言葉を信用すれば、イオン九州からいずれ、跡地利用について何らかの発表があるだろうと思う。

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# 福岡市立霊園に合葬墓?


 福岡市が新年度から、市立霊園への合葬墓導入について検討を始める。先頃発表した予算案の中で明らかにした。少子高齢化で墓の維持が重荷となっている家庭が増える一方、都市部では近隣に墓地を確保するのが非常に困難になっている、と聞く。自分の墓をどうするか、私自身がちょうど思い悩み始めた時だったので、関心を覚えた。予算資料には「市立霊園内における合葬墓等の導入検討」とあるだけで、実現するかどうかもわからない段階だが、合葬墓に対するニーズは福岡でも恐らく大きいのではないかと思う。

 福岡市には平尾(南区平和。写真)、三日月山(東区香椎)、西部(西区羽根戸)と市立霊園が3か所あり、区画数は1万を超えている。しかし、相当な幸運に恵まれなければ、これらの霊園に墓を造ることは不可能だ。毎年、空きが出た区画の募集が行われてはいるが、市の公表資料によると、2011~15年の5年間で募集は計171区画だったのに対し、応募者は6,972人で、倍率は実に40倍。中でも市街地にある平尾霊園は60倍を超えている。市立だから使用料(初回のみ1平方㍍当たり172,000円~260,000円)、管理費(1平方㍍当たり年1,000円)が格安なうえ、自然に恵まれた場所にあることも魅力なのだろう。

 しかし、冒頭で書いたように、墓地不足の一方で、少子高齢化で代々の墓を維持することが困難となった家庭が増え、この二つの問題の解決策として、首都圏や京阪神では合葬墓(永代供養墓)を設ける動きが1990年代から広がってきたという。自治体で最初に合葬墓を設置したのは1993年の横浜市で、自治体、霊園利用者の双方にとってコストが抑えられるというメリットもあり、その後、大阪、神戸、千葉市など多くの都市が続いている。

yokohama.jpg ところで、合葬墓とはどんな構造なのか? 墓園によって様々なようではあるが、地下に大型の納骨室を設けたうえで、地上には墓参のためのモニュメントなどを配置するのが一般的らしい。先駆者の横浜市・日野公園墓地(写真、横浜市資料からお借りした)にはこの形式とともに、庭園風に整備した一角の地下に直接骨壺を埋葬する樹木葬型合葬墓も設置されている。同市の資料によると、管理料は1区画1体当たりで年3~6万円と意外に高額だったが、樹木葬型は比較的高倍率となっている。

 福岡市は新年度から設置の検討を始めるというのだから、横浜市からは実に20年以上も遅れてやっとスタートラインに立つことになる。市立霊園は狭き門とは言え、墓地不足は首都圏ほど深刻ではないため、大きな危機感はなかったのだろう。

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# 途切れたエスカレーター改善へ

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 福岡市のJR博多駅には非常に残念な箇所がある。市営地下鉄のコンコースから博多駅筑紫口(新幹線駅側)に上がっていくと、エスカレーターが途切れ、階段を使うしかなくなるのだ。福岡人は“こんなもの”だと諦めているが、荷物を抱えて新幹線乗り場に急いでいる時など、やはり「エスカレーターぐらい最後まで造れ」と愚痴を言いたくもなる。県外の人には理解不能な構造だろう。政令市の玄関口にあるまじき、この残念な状態を解消する計画がようやく2019年度からスタートする。福岡市が14日公表した新年度予算案の中に、コンコースから筑紫口までをきちんと直結するエスカレーターの基本設計費2174万円が盛り込まれているのだ。着工は恐らく20年度以降になるだろうが、それでも朗報と言えるだろう。

 ご存じない方のために簡単に説明すると、地下1階の地下鉄コンコースから地上1階の筑紫口までには計49段の階段がある。階段31段分はエスカレーターが設置されているのだが、途中にある踊り場でエスカレーターは途切れ、残る18階分は階段だけとなる。1985年の地下鉄博多駅の本開業当時からこの状態で、2011年に博多駅が新ビルに建て替わった際も改善されなかった。

 なぜ、こんな残念な構造になっているのか? 理由は意外に単純明快で、階段31段分までが福岡市営地下鉄の領分、上の18階分はJR西日本(新幹線駅側はJR九州ではなく、西日本が管轄)の領分だからで、要するにエスカレーターは地下鉄管轄部分にしか整備されていないのだ。福岡市は以前からJR西日本に改善を働きかけてきたというが、バリアフリーに程遠い状態が結果として30年以上も続いてきた。あくまでも想像だが、JR西日本としては、他社(地下鉄)の利用客のために大金を掛ける気はなかったのだろう。利用客の一部は新幹線の利用客でもあったと思うのだが。

 新たなエレベーター整備について、新年度予算案の資料には「筑紫口において、お客様の利便性向上を図るため、地下鉄コンコースから地上へのエスカレーター設置に係る基本設計を実施するとともに、更なるバリアフリー経路の充実について検討する」と記されている。市が関連予算を計上したということは、一向に動かないJR西日本に業を煮やし、整備を肩代わりすることを決意したということだろうか。資料に書かれている情報だけではわからないことが多過ぎるので、迷惑だろうとは思いつつ、市交通局にエスカレーターの完成時期や、市とJR西日本の費用負担などについて尋ねてみた。交通局の応対は非常に丁寧だったが、質問に対しては全くのゼロ回答だった。

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# 青島の橘ホテル跡地

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 12日、宮崎にホークス春季キャンプ見物に行ったついでに青島方面を散策してきた。“幽霊ホテル”と呼ばれた旧橘ホテルの廃虚は7年前に姿を消し、広大な跡地と青島海水浴場との間は無粋な金属製のフェンスで仕切られていた。20年間も居座っていた幽霊ホテルがなくなり、すっきりはしたが、物寂しさを感じる景観でもあった。宮崎市と、跡地を所有する地元の財産区は4月から、事業者を公募して跡地開発を進める方針で、昨年、市が行った事前ヒアリングでは意欲を示した事業者が10社を超えたという。かつては宮崎を代表する観光地だっただけに、ポテンシャルを感じる企業も多いのだろう。

 橘ホテルは1967年開業。7階建て、客室数は330室に上る巨大ホテルで、最盛期は宮崎が新婚旅行ブームに沸いていた1970年代。この頃の宿泊客数は調べきれなかったが、ブームが去った後の80年代にも年間20万人以上の宿泊客を集めていたという。私も70年代、新婚旅行ではなく修学旅行でこのホテルに泊まったが、複数の学校が同宿していた記憶がある。大雑把に言えば、一晩に数百人の中高校生が橘ホテルに泊まっていたわけだ。ところが、昨年11月に発行された最新版の『宮崎市観光統計』によると、2015年1年間に宮崎市に宿泊した就学旅行客はわずか2,900人。あまりに少なくすぎ、間違いではないかと思ったが、事実ならば、観光宮崎の衰退は修学旅行客から敬遠されていることが大きな要因なのではないだろうか。

 話を橘ホテルの来歴に戻すと、不動産会社が1990年に買収し、同社は同年12月、建て替えのため一時休業した。しかし、バブル崩壊に伴う経営悪化により、建て替えも営業再開もできないという状態に陥り、結果として20年間も野ざらしの状態で放置されることになった。別のリゾート会社が2008年、跡地をコテージ群として再開発する計画に乗り出したが、この会社も翌年、建物の解体を終えたところで銀行から融資を断られ、撤退したという経緯がある。4月からの業者公募は三度目の正直ということになる。

 昨年のヒアリングでは、跡地活用策について業者からは「リゾートホテルとレストラン」「高級シニアハウスと介護付き老人ホーム」「産学官連携でのメディカルセンターとスポーツリハビリ施設」などのアイデアが出されたという。宮崎市はヒアリング結果の公表資料の中で「宿泊施設やレストラン等を有する観光拠点、パブリックなスペースとなる広場や周遊性を持たせる遊歩道などの提案があり、これは本市が示した整備の考え方と一致するものでした」と明言しているぐらいだから、やはり観光開発が本意なのだろう。

 青島海水浴場の写真を撮影した後、遊園地「こどものくに」付近まで足を延ばした。「南国」と呼ばれる宮崎だが、ちょうどプロ野球キャンプが行われる2月はかなり寒く、地元では「●●がキャンプに来る頃が一番寒い」(●●には地元でキャンプを張る球団名が入る)などと、プロ野球チームが寒波の使者みたいに言われている。まして12日はこの冬一番の寒波が去った直後だったので、海風はかなりの冷たさだった。「南国」も演出による部分も大きいのではないかと思う。例えば、南国ムードを漂わせている街路樹のワシントニアパームは北米原産で、実は結構寒さに強い樹種だということを比較的最近知った。そう言えば、冬には強烈な寒風が吹き荒れる、わが福岡の百道浜海岸にも植えられ、元気に育っている。

 ところで、「こどものくに」を遊園地と書いたが、そう表現できるのは12日が最後で、翌日の13日から遊具を全面撤去する改修工事に入った。大型連休には全面芝生張りの広場として生まれ変わるという。太平洋戦争開戦直前の1939年(昭和14)3月から歴史を刻んできた「こどものくに」が遊園地としての歴史に幕を閉じたわけで、これは地元では大きなニュースになっているのではないかと思ったが、宮崎で生まれ育った私の親族たちは意外に無関心で拍子抜けした。

 写真は上から、青島海水浴場と青島、旧橘ホテル跡地、かつては土産品店が軒を連ねていた青島神社の参道。下がこどものくに、ホークスキャンプが行われている生目の杜運動公園。


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# 和布刈神事の思い出

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 関門海峡に臨む北九州市門司区の和布刈(めかり)神社で先月28日未明、航海の安全などを祈る和布刈神事が行われ、その模様がローカルニュースで報じられていた。烏帽子、狩衣姿の神職が真冬の海に入り、ワカメを刈り取るという厳かな儀式だが、北九州市に住んでいた20数年前、この神事を見物に行き、あまり厳かならぬ光景に出くわしたことがある。内情を暴露するのはよろしくないかも知れないが、あくまでも二昔前に私が体験した特殊事例だということで紹介したい。(上の写真は北九州市情報発信強化委員会の「北九写真ダウンロード集」からお借りした)

 冒頭に書いたように和布刈神社は関門海峡に面した場所にあり、神事は神社下の海岸の岩場で行われている。一般の見物客が海岸に下りるのは不可だったが、報道関係者だけは認められており、私が現地に着いた時、海岸にはすでに多数のテレビクルーやカメラマンらが陣取り、護岸の上からは岩場はよく見えない状況だった。

 「せっかく真冬の夜中に駆けつけてきたのに」と落胆していたところ、神職が意外なことを宣告した。これから神事を始めるが、同じ儀式を3回やるというのだ。1回目がテレビカメラ向け、2回目が新聞・雑誌社のカメラマン向け、そして3回目が岩場に下りることを認められていない見物客の撮影向けで、混乱なく誰もが神事を見ることができるようにという神社の配慮だったのだろう。

 厳かならぬ事態が起きたのは、1、2回目の儀式が滞りなく終わり、3回目が始まった時だ。「さあ、ようやく我々の番」とインスタントカメラを構えたところ、何と複数のテレビ局が平然と2度目の撮影を始め、視界を完全に遮ってしまったのだ。当然ながら、このルール破りに対して見物客から非難の声が上がったが、怒号渦巻くという事態にまではならなかった。恐らく伝統の行事を台無しにしてはならないという意識が見物客の側に働き、テレビ局側もこれにつけ込んだのだろう。このような傲慢な振る舞いは、インターネットが発達し、個人の情報発信力が強化された現在ではいくら何でも無理だろうと思う。

 この和布刈神事は、海峡対岸の住吉神社(山口県下関市)でも同日同時刻に行われ、こちらは非公開だが、和布刈神社でも大正時代初めまでは神職以外は誰も見たことがない神秘の儀式だったという。国会図書館のデジタルコレクションに収録されている『九州路の祭儀と民俗』(宮武省三、三元社、1943)という戦時中の出版物によると、地元では見ると目が潰れるという言い伝えがあり、神罰を被ってまで見物に行こうとする者は皆無だったとある。

 一般公開が始まったのは大正2、3年頃で、最初のうちは物珍しさで多数が詰めかけたというが、「何分冬空の寒い、しかも午前二時半頃から執行する極りとなっているので、物好きな者でない限り大抵の者は見たくても、行くを億劫がり、折角解禁となりながら其後毎年の神事は矢張浦淋しく、ひっそり行われているので在る」と筆者は書き記している。「見たくても、行くを億劫がり」とはまさに私の心情を言い当てた言葉で、北九州市には結構長く住んでいたのだが、意を決してこの神事に出掛けたのはたった一度だけだった。現在は毎年、多数の見物客を集めているようなので、念の為。

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# 油山市民の森の吊り橋

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 福岡市の油山市民の森に赤く塗られた吊り橋が架かっている。長さ52㍍、地上からの高さは30㍍。2015年4月に書いた「遠足はいつも油山だった」の中で、「1969年、『市民の森』開設に当たり南区のご夫妻が寄贈し、78年に市が改修したと現地説明板にあった。吊り橋を寄贈するとは豪気だ」と紹介したことがあるが、実は市側が長く受け取りを拒否し、吊り橋はまさに宙ぶらりんの状態になっていたことを先頃、たまたま知った。詳しい経緯についてはまだ、調べ切れていない部分があるが、現在ではほとんど記憶(記録)されていない話ではないかと思うので、取りあえず書き留めておきたい。

 最初に、油山市民の森とは、油山(標高597㍍)の中腹に1969年開園した自然体験&レクリエーションの場で、キャンプ場やアスレチック施設、草スキー場、展望台などが備えられている。整備に当たったのは福岡市と、このために設立された民間団体「市民の森運動本部」。吊り橋は市内の社長夫妻が寄付した300万円で運動本部が建設した。完成した吊り橋は69年8月18日に渡り初めが行われて以降、市の新たな名所として大変な人気を呼んだが、皮肉にもこの人気が仇となった。

 吊り橋はもともと1日平均50人程度が利用するという想定で設計されていたというが、利用開始が夏休みと重なったこともあり、連日、小中学生を中心に2,000~3,000人が詰め掛け、この結果、橋は横揺れが激しくなるなど危険な状態となった。このため運動本部は渡り初めから、わずか1か月で通行禁止にし、社長夫妻から再度、多額の寄付を受けて補修工事を行った。しかし、吊り橋の安全検査を行える機関が福岡市にはなかったため、通行禁止措置はそのまま継続されることになった。

 その状況の中で、建設主体の運動本部はこの年の12月、市民の森開園で役割を終えたとして解散。一方、福岡市側は安全性に疑問ありとの理由で吊り橋受け取りを拒否し、吊り橋は入り口を閉鎖された状態のまま、長く放置されることになった。橋のたもとには「この橋は歩道橋ではなく観賞用です」と書かれた立て看板が市により設置されていたという。

 調べがつかなかったのは、吊り橋の通行禁止がいつ解除されたかだが、現地説明板にある記述を素直に受け取れば、78年に市が改修した後ということになる。だとしたら、実に9年間も“観賞用”の状態が続いたことになるが、いくら何でも長すぎる気はする。ただ、「遠足はいつも油山だった」で書いたが、油山には小学生時代、嫌になるほど登った割には吊り橋を渡った記憶はない。通行禁止が本当に9年も続いたかどうかは別にして、小学生の団体が安心して渡れる状態ではなかったのかもしれない。

 現在の吊り橋は、高所恐怖症の私でもまったくスリルを感じない安定した橋。年間を通じて多くの市民でにぎわっているが、中でも紅葉の時期には絶好の観賞スポットとして人気を集めている。再来年で50周年を迎える油山有数の名所が、こんな歴史を秘めていたとは意外だった。

 【追記と訂正】福岡市農林水産局発行の小冊子『油山市民の森40年の歩み』(2010)に吊り橋の沿革が詳しく書かれていた。現地説明板の記述に基づき、1978年に改修されたと紹介していたが、実質的には完全な架け替えで、現在の吊り橋は2代目であることがわかった。初代吊り橋は補修後、1970年6月に再オープンしたが、市側は通行を午前9時半から午後4時半までに限ったうえで、市側はこの時間帯には常時、係員を置き、多数の人が同時に渡らないように目配りしていたという。

 ただし、1971年5月13日の読売新聞地方版には、この時点で吊り橋入り口には常時カギがかけられ、市側は「地方自治法で補修しなければならないものは受け取れないことになっている」と受け取りを拒否していたと報じており、『40年の歩み』の記述とはかなり食い違いがある。リアルタイムの新聞報道と40年後にまとめられた記念誌、どちらが正しいのだろうか。

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# 旧法文学部本館取り壊し

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 九州大箱崎キャンパスで旧法文学部本館の取り壊しが始まっている。旧帝国大学時代の校舎の一つで、1925年(大正14)完成。重厚な外観の建物だったが、大学側が設置した作業部会が2012年にまとめた調査報告では「老朽化が著しいため、寿命に達している」とまで断定され、解体は既定方針だった。だから何ら驚くことではないのだろうが、5日、たまたま近くを通り掛かって解体に気付き、90年以上の歴史を刻んできた建物の最期としては「余りにあっけない」と感じた。来年3月までにはこの場所も更地になる。(3枚目の写真が取り壊し前の旧法文学部本館。今年7月撮影)

 「九大近代建築物群の行方」でも取り上げたが、箱崎キャンパスには20棟以上の近代建築がある。九大や福岡市などからなる跡地利用協議会が保存を打ち出したのは、このうち旧工学部本館、本部第一・第三庁舎、門衛所の4棟と正門だけで、10棟は土地を購入する事業者の判断に委ね、旧法文学部本館など8棟は取り壊しの方針だった。近代建築の範疇に入らない校舎群はすでに次々と取り壊されており、箱崎キャンパスには更地が広がっている。

 実はこの現状に対しては学内外から疑問の声が出ており、昨年、産経新聞が「解体ありきではなく保存検討を」と記事で取り上げている。この記事によると、跡地再開発参入を検討している西鉄は近代的建築物の活用を視野に入れ、九大側に建物の解体延期を求める要望書を提出したという。また、学内の研究者からも「40㌶もの更地化を許せば『九大には歴史建築の重みを理解できる人間がいない』と笑いものになってしまう」と嘆く声が出ていたというが、九州ではほとんど部数の出ていない新聞のため、せっかくの問題提起もまったく顧みられなかったようだ。

 帝国大学時代の校舎群を設計したのは、建築課長だった倉田謙で、塔屋を中心に左右対称のデザインであることが共通している。一人の建築家が手掛けた建築物がこれだけ集中して残っている例は貴重らしい。倉田建築のうち、前述したように少なくとも旧工学部本館、本部第一・第三庁舎は保存される(門衛所は設計者不明)。古い建物を容赦なく取り壊してきた福岡の体質を思えば、全滅は免れたと喜ぶべきなのかもしれない。

テーマ:福岡 - ジャンル:地域情報

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福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。