宮崎市が掩体壕を取得・保存へ

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 宮崎市がようやく重い腰を上げたようだ。宮崎空港(旧・海軍赤江飛行場)近くに位置する同市南部の赤江・本郷地区には、戦時中の1944年に造られた掩体壕7基が残っている。地元住民らからは長年、戦跡公園として保存・整備するよう求める声が上がっていたが、宮崎市は無視してきた。こういった戦争遺構の保存を図るには絶好の機会だと思われた戦後70年の節目(2015年)にも同市は重い腰を上げることなく、もはや機会を逸したと思っていた。ところが、2019年度の新規事業で掩体壕取得事業を進めることを同市は突如として打ち出し、その予算として4900万円を計上した。何があったのかは知らないが、保存を訴えてきた住民らにとって朗報であるのは間違いない。

 掩体壕とは、軍用機を米軍の空襲から守るための分厚いコンクリート製のシェルターで、本郷地区の住宅街に「一式陸攻」を収容したとされる大型の4基、赤江の農業地帯に「零戦」用の小型3基が残り、便宜的に1~7号壕と呼ばれている。サイズは、本郷地区の1~4号壕が幅27~29.5㍍、奥行きが21~25㍍、赤江地区の5~7号壕が幅14~19㍍、奥行き9.5~10.5㍍。赤江の3基のうち2基は宮崎空港敷地内にあり、国交省が所有しているが、残る5基は民間の所有だ。

 4900万円の予算では、この全てを取得するのは到底不可能で、宮崎市の予算案説明資料には「赤江・本郷地区に残る掩体壕の中から地元団体等の意向も踏まえ、保存状態・接道条件等を勘案し、保存活用に最も適した掩体壕を取得」とある。取得後は、壕の周囲にフェンスを設置し、駐車場も整備するという。4900万円の内訳は、用地取得費が4070万円、周辺設備工事費が600万円、移転補償費が230万円。具体的にどの掩体壕を取得・保存するかは、いかにも「今後検討する」ような書き方だが、予算の細かい内訳が明示されていることを考えると、すでに候補は決まっており、地権者とも話がついているのではないかと思う。

 先日、宮崎市に行く用事があったので、これまで見学する機会のなかった本郷地区の1~3号壕を見てきた(写真は上から順に1、2、3号壕)。農業地帯のど真ん中にある赤江の掩体壕も奇観だったが、閑静な住宅街の中にコンクリート製の巨大な掩体壕が鎮座する景観も十分異様だった。中には倉庫や車庫として活用されている掩体壕もあると聞いていたが、事業所の敷地内にあり、緑の雑草で覆われた1号壕は現在も車庫として利用されている様子だった。2、3号壕も過去には倉庫として利用されていたらしく、2号壕の広い内部には廃物らしきものがポツポツ置かれていたが、3号壕は現在では完全に“空き家”のようだった。この二つの掩体壕は道沿いにあり、比較的見学しやすかった上、そばには駐車場に整備できそうな空き地もあった。宮崎市が取得するとしたら、この二つが有力ではないだろうか。

 なお、予算説明資料には、掩体壕取得事業の担当課は総務法制課と記されている。宮崎市の公式サイトを見ると、文書の審査や情報公開、条例、規則及び訓令の審査などを担当する課で、なぜこの課が掩体壕の保存を担うのか謎だが、何か事情があるのだろう。

 参考資料は『宮崎の戦争遺跡-旧陸・海軍の飛行場跡を歩く』(福田鉄文、2010)など。赤江の掩体壕については過去に以下の2本を書いている。
放置される掩体壕(2013/08/20)
赤江の掩体壕再訪(2016/05/06)
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金栗四三の出生地で桜と史跡を見てきた

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 熊本県和水町の国史跡・江田船山古墳、謎のトンネル遺構トンカラリンに花見がてら行ってきた。2年前の秋に両者を見学した際、史跡公園化された江田船山古墳の周囲に多数の桜が植えられているのを知り、春にもう一度来ようと決めていた。残念ながらソメイヨシノは開花したばかりだったが、早咲き品種らしき2、3本は満開で、平日ながら数グループの花見客でにぎわっていた。

 和水町は、放映中の大河ドラマの主役、金栗四三の出生地として最近名を売っているところで、江田船山古墳とトンカラリンは県道を挟んで向かい合わせの位置にある。江田船山古墳は5世紀後半に築造されたとみられる全長62㍍の前方後円墳で、墳丘上には石棺をガラス窓越しに自由に見学できる施設が整備されている。今年1月、町を震度6弱の地震が襲い、石棺が被害を受けたと聞いていたので、ひょっとしたら閉鎖中かもしれないと心配していたが、杞憂だった。ただし、見学者にとっては重要な設備のワイパーが壊れていた。

 前述のように、石棺が置かれたスペースと見学者との間はガラス窓で隔てられているが、石棺側の湿度や温度が高いためか、ガラス窓の石棺側は結露で曇っていることが多い。その対策として石棺側にはワイパーが取り付けられ、見学者は外から操作して水滴を拭き取る仕組みだった。このワイパーが壊れ、結露越しの見学になったが、石棺開口部の石材が亀裂を境にずれた状態になっているのは確認できた。また、屋根型の蓋の部分の石材も何か所か剥離しているようだった。石棺の被害は間違いなく地震によるものだろうが、ワイパーについては何が原因かわからない。

 石棺は幅1.1㍍、高さ1.4㍍、奥行き2.2㍍で、75文字が刻まれた「銀象嵌銘大刀」などが出土し、この大刀など92点の出土品は一括して国宝に指定されている。

 石棺を見た後、近くにあるトンカラリンにも足を延ばしてきた。トンネルや地隙からなる全長445㍍の遺構で、造られた目的も時期も不明。あまり時間がなかったため、7段の石段があることで有名な石組みのトンネルを見学しただけで引き揚げたが、見た限りではこちらは地震による被害はない様子だった。帰り道、聞き慣れぬ鳥の声がしたので見上げると、電信柱にカササギが巣を作っていた。2年前に来た時にもトンカラリン近くで2羽のカササギを目撃したが、同じカップルなのだろうか。

 写真は上から順に、江田船山古墳全景、石棺保存施設の入り口、ガラス窓越しに撮影した石棺、7段の石段があるトンカラリンの石組みトンネル、電柱に営巣するカササギ。
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発掘調査が続く潮見櫓跡、復元はいつになる?

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 福岡城址の潮見櫓跡で発掘調査が行われている。私が気付いたのはつい最近だが、現地の立て看板によると、調査は昨年8月に始まったとのことで、終了期日については「未定」と結構衝撃的なことが書かれていた。何が衝撃なのかと言えば、福岡市が2014年6月に策定した『福岡城跡整備基本計画』の中で、潮見櫓は2014年度から18年度までの5年間で復元されることになっていたからだ。つまり今年3月までに復元工事が完成していなければならない。ところが、潮見櫓跡地ではまだ、いつ終わるかもわからない発掘調査が続いている。2015年9月に書いた「動き出した潮見櫓復元」で、「そう遠くない将来、福岡簡保事務センター横の土塁上に姿を現すことだろう」と予想したが、現実にはまだまだ時間がかかりそうな気配なので、見込み違いをお詫びする。

 『福岡城跡整備基本計画』は2014年度から28年度までの15年間で、福岡城にあった数々の建物などを復元、または現存する建物を修理しようというもので、文化施策というよりは、熊本城整備に倣った観光施策の面が色濃いと思う。整備事業は2018年度までの短期計画、19年度から28年度までの中期計画の2期に分けられ、短期計画では長屋門や多聞櫓の修復、潮見櫓復元、中期計画では武具櫓、裏御門、太鼓櫓、扇坂等の復元が予定されていた。長屋門、多聞櫓の修復は予定通り行われ、すでに完了している。

 事業費は短期が約22億円、中期が約48億円の計約70億円。このうち3億5000万円を市民らからの寄付で賄う予定だったが、NHK大河ドラマ放映で一時燃え上がった黒田官兵衛ブームも沈静化し、思うように寄付が集まっていないと報道されていた。

 ところで、なぜ短期計画の段階で早くもスケジュールは遅れ気味なのか。市は遅れを公式に認めているわけではないので、理由は全く不明だが、少し思い当たるところはある。上記「動き出した潮見櫓復元」は、基本設計を担当する業者の公募が始まったのを受けて書いたもので、この時は2015年度中に基本設計を終え、16年度から実施設計に移ると公表されていた。ところが、市側が昨年3月の議会特別委で公表した今年度のスケジュールでは「復元に向けた基本設計に着手する」となっているのである。

 ちょっと信じ難い話だが、今頃になって発掘調査が続いているところを見ると、恐らく2015年度の段階では、基本設計をやろうにも、そのためのデータが足りなかったのだろう。潮見櫓跡地では1990年代、この土地を駐車場などとして使用していた国立福岡病院の移転に伴い、複数回にわたって発掘調査が行われているが、これらの調査結果だけでは不足だったのだ。

 今年度は「基本設計に着手する」だけなので、完了は2019年度以降。さらに続いて実施設計、その後に復元工事が始まるという段取りを踏まえると、短期計画で終わるはずだった潮見櫓復元は、中期計画に相当ずれ込むことになる。これにより中期計画のスケジュールにも影響が出るはずで、財政事情など城跡整備を巡る状況に変化があれば、計画自体に黄信号が灯ることもあり得るだろう。行政というものは年度ごとの予算で動いているので、きちっとしたものだと思ってきたが、こういった「基本計画」「基本構想」などというものは相当アバウトなものだとようやくわかってきた。

 最後に潮見櫓について記しておくと、この櫓は福岡城の北西の隅にあり、博多湾の監視を担っていたと言われている。明治時代に花見櫓とともに福岡藩主・黒田家の菩提寺、崇福寺に払い下げられ、仏殿として利用されていたが、1991年、将来の復元に備えて市が買い戻し、解体保管している。実は買い戻した当時は月見櫓だと信じられていたのだが、その後の月見櫓跡地の調査で、基壇から考えると建物は5㍍×7㍍のサイズに収まるはずなのに、実際は8㍍×7㍍と大きすぎるなど疑問点が持ち上がった。さらに部材の中から実際は潮見櫓であることを示す札も見つかり、伝わっている櫓名に混乱があったことが確認された。

 紛らわしいのは潮見櫓だと伝えられてきた別の櫓があったことで、こちらは黒田家別邸に移されていたが、1956年、現在地の下之橋御門横に復元された。現在は「伝」潮見櫓と呼ばれているが、正体は太鼓櫓らしい。潮見櫓だと思われていたのに、なぜ本来の跡地に復元されなかったのかと言えば、当時、米軍が跡地を駐車場として使用していたためだという。事情があったにせよ、史実を無視した復元には当時、批判があったとも聞くが、潮見櫓があるべき場所に別の櫓が建っているというおかしな事態は、結果的に避けられた。
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日拝塚古墳出土の金製耳飾り

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 福岡県春日市の日拝塚古墳で1929年(昭和4)に起きた盗掘事件を以前取り上げたことがある(「日拝塚古墳盗掘事件」)。この事件で2,000点を超える副葬品が同古墳に眠っていたことが明らかになり、これらは全て帝室博物館(現在の国立博物館)に召し上げられたが、なぜか金製の耳飾り1点だけが地元の「奴国の丘歴史資料館」に展示されている。「(伝)日拝塚古墳」の但し書き付きで。なぜ「伝」なのかと言えば、この耳飾りは国立博物館から入手したものではなく、1984年、春日市が個人から買い取ったものだからだ。

 春日市が耳飾りを手に入れた経緯は次の通りだ。古物収集を趣味にしていた福岡市の男性が亡くなり、高齢の未亡人のもとに、男性が生前「これは日拝塚古墳の出土品だ」と話していた耳飾りが残された。貴重な文化財だと考えたのか、未亡人は春日市に譲渡を申し入れ、これを受けて市側は九州歴史資料館などに鑑定を依頼した。この結果、「国立博物館所蔵の日拝塚古墳出土品の中に、金製垂飾付耳飾(きんせいすいしょくつきみみかざり)があるが、形や細工が同一であることから、これと対をなしていた飾りにほぼ間違いない」ことがわかり、市は59万円で買い取ったのだ。(参考文献は1984年7月23日の読売新聞地方版記事など)

 耳飾りが福岡市の男性の手に渡った経緯の方は不明らしいが、盗掘事件のどさくさの中で何者かが秘匿し、巡り巡って男性のもとに渡ったものと思われる。日拝塚古墳の盗掘事件について改めて振り返っておくと、お宝を探し当ててひと儲けしようと企んだ3人組の男たちが1929年6月7日夜から翌未明にかけて、古墳の石室に侵入し、この時まで残されていた副葬品をごっそり盗み出した。しかし、古墳が荒らされたことに気付いた村人たちによって男たちはすぐに捕えられた。副葬品も無事だったが、当時の遺失物法に基づき、帝室博物館に送られることになったという。

 耳飾りは現在、奴国の丘歴史資料館の考古資料展示室のガラスケースに、他の展示品とともに並べられている。長さ8㌢、重さは22㌘程の小さなもので、金の輝きは保ってはいるが、展示品の中でそれほど目立った存在ではない。ただ、資料館近くの道路にあった案内板には、この耳飾りのイラストが描かれていたことを考えると、やはり春日市を代表する考古資料であり、資料館にとっても目玉展示品なのだろう。2,000点以上の副葬品が出土しながら、地元に残されているのは、いわくつきの耳飾り1点だけというのは寂しい限りで、せめて対となっている耳飾りぐらいは地元に戻してくれても良いと思う。

 奴国の丘歴史資料館は、『魏志倭人伝』などに出てくる奴国の王墓とされる須玖岡本遺跡の一角にある。小規模な資料館だが、一帯は歴史公園として整備され、弥生時代の甕棺墓を、発掘された当時の状態のまま保存・公開しているドーム型の覆屋2棟も併設されている。入館無料。


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米一丸伝説のモデルは…

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 学生時代、下宿近くの福岡市東区箱崎に米一丸というバス停があり、妙な名前だなと思っていた。当時は全く関心がなかったが、バス停近くには一帯の旧地名の元となった「米一丸の供養塔」があり、地蔵堂も建っている。供養塔の傍らには12基の梵字板碑や鳥居さえある。神仏習合を通り越してしまったような場所だが、不思議なことに雑多な雰囲気は感じられない。地蔵堂内も敷地も非常にきれいな状態で、地元の人に大事にされていることが一目見てわかる。

 供養塔は九重の石塔で、高さは4.2㍍。鎌倉時代末期の作とされ、県文化財にも指定されている。米一丸の供養塔と呼ばれるのは、
濡衣塚と同じく、石塔が悲劇的な伝説で彩られているためで、伝説の主人公が福岡に来たばかりに悲惨な最期を迎えた、というところも濡衣塚と共通している。地元にとってはあまり喜ばしくない話を語り伝え、それにまつわる石塔や石碑も守り続けている。福岡人のよくわからないところだ。

 この伝説を詳しく紹介している『伝説の九州』(竹田秋楼、1913)によると、米一丸は、駿河の木島長者こと、三河朝臣元直の長男。跡取り息子を待ち望んでいた元直が米山薬師に祈って一子を得たため、米一丸と名付けたという。米一丸は美しい若者に成長し、八千代姫という絶世の美女を妻に迎えるが、主君に当たる京都の一条殿にあいさつに出向いたところ、この男が八千代姫に横恋慕。姫を奪うために口実を作って米一丸を博多に送り、ここで地元の武士たちに襲撃させ自刃に追い込んだ。米一丸の後を追ってきた八千代姫も彼の死を知り自害した、というのがあらすじだ。

 現地説明板には、米一丸の悲劇は文治年間(1185~89)の出来事だと記されており、鎌倉幕府成立直後頃の物語だということになる。『伝説の九州』には後日談も記されているが、米一丸の死後、博多には疫病が流行し、米一丸のたたりと恐れた地元民は、博多中を探して彼の遺品を集め、盛大に供養したという。

 藩政時代の儒学者、貝原益軒も著書『筑前国続風土記』の中で米一丸伝説を取り上げているが、「乱雑にしてまことしからぬ事多ければ、信じがたしといへども、今の市井の人の口碑に残り、瞽女数段のうたひ物とし…」と評している。どこが「乱雑にしてまことしからぬ」のか、益軒は具体的には記していないが、郷土史家の中にも「新しい時代の名前や古い時代の名前が交錯して出てくる」などと指摘する人がおり、時代考証を無視したような部分が多々あるのかもしれない。現在残る石塔は、前述のように鎌倉時代末期の作。南北朝時代に建立されたのに、600年も時代を遡って奈良時代の話に結びつけられた濡衣塚とは違い、伝説と石塔との関係はまだしも時代的には整合してはいるが。

 この伝説は完全な作り話だろうとは思うが、仮に史実がベースになっていた場合、モデルは誰だろうかと考えてみた。以下は私の完全なる想像だが、着目したのは米一丸ではなく、悪役の一条殿だ。モデルにふさわしい人物を探してみたところ、意外にぴったりな戦国大名が見つかった。毛利輝元(1553~1625)。関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった長州藩の藩祖だ。彼は1589年(天正17)、家臣の妻を略奪したうえ、家臣を殺害したとの話が伝わる。近隣藩の出来事であることを慮り、鎌倉時代の話に変えられ、物語が広まったというのはあり得る話ではないかと思う。

 ただ、米一丸伝説が本当に毛利輝元をモデルにしていた場合、物語の成立は恐らくは江戸時代初め頃、供養塔と結び付けられたのは、さらにそれ以降の時代ということになる。1709年完成の『続風土記』に「今の市井の人の口碑に残り」と書かれていることを考えると、実話をモデルにした物語がわずか100年程度で伝説化していったことになり、少し無理があるかもしれない。
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郡役所の礎石が出土していた

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 福岡市中央区の赤坂門バス停横の駐車場跡地で2014年暮れから翌年4月にかけて、発掘調査が行われていた。調査地を囲っていたフェンスに「福岡城下町の発掘調査」を行っているとの貼り紙が出されていたが、いったい何の遺構が出たのかはさっぱりわからなかった。そこで古地図などを調べたところ、藩政時代後期、郡役所が設置された場所らしいと判明し、このブログで取り上げたことがある(「福岡城下町の発掘調査」「やっぱり郡役所跡の発掘?」)。私にしては珍しく正解だったようで、先頃刊行された発掘調査の報告書には「福岡藩郡役所が移設された場所であったことから」記録保存のための調査を行ったと記され、郡役所の礎石等が出土したと明らかにされていた。

 郡役所は、福岡藩が農村統制のために設置した行政機関で、火災で焼失した藩中老・斎藤家の屋敷跡に1818年(文政元年)に建てられた。これ以前まで、福岡藩では5人の郡奉行が農村を直接支配していたが、厳しい年貢収奪により農村は荒廃が進んでいた。立て直しのための農政改革の一環として、新設した郡役所に農政を一元的に担わせたのだ(『福岡県史』)。しかし、この郡役所は狙い通りに機能したのだろうか。藩政時代も後期になって機構改革を行った程度で、疲弊しきった農村を復興できたとは正直なところ、思えないのだが。

 発掘調査報告書によると、礎石は調査地の一角から約2㍍間隔で見つかり、古文書の中にある『福岡藩奉行所配置図」と比較したところ、「建物の位置図のラインにほぼ一致したので、郡役所(奉行所)の建物礎石と判断した」とあった。福岡藩の公的建物は、柱の間が京間の6尺5寸(1.97㍍)を基準にしており、郡役所も京間基準で作られたものと思われるという。

 建物の構造は、中庭を囲んで「遠賀・鞍手」「両糟屋・宗像」「早良・志摩・怡土」「那珂・席田・夜須・御笠」「上座・下座・嘉麻・穂波」の各御役所が配置され、廊下で結ばれていた。現在の役所に例えれば、担当課ごとに部屋が分かれているような形だ。出土した礎石は、「那珂・席田・夜須・御笠」「上座・下座・嘉麻・穂波」御役所辺りの建物、廊下と調査報告書では推定している。古記録と発掘調査結果を照らし合わせれば、こんなことまでわかるのかと感心する。遺物は、陶磁器片など中型コンテナ400箱分以上にも上り、この中には「郡屋敷跡らしく硯片が多く出土」したという。

 郡役所跡の発掘調査はJR九州によるマンション建設に先立って行われたもので、調査地には先頃、高級感あふれるタワーマンションが完成した。写真は、1枚目が2015年1月、2枚目が同3月に撮影した。
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康永三年銘梵字板碑、または濡衣塚

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 福岡市博多区の石堂川河畔に、「康永三年銘梵字板碑」という県指定文化財がある。一般的には「濡衣塚」の名で呼ばれており、濡れ衣という言葉の発祥地などと紹介されることもある。しかし、濡れ衣の由来とされる説話が聖武天皇の時代(在位は724~749年)のものとして伝わっているのに対し、板碑が建てられたのは、銘に従えば、南北朝時代の1344年(康永は北朝の元号)。板碑は建立後、時代を約600年も遡って奈良時代の話と結び付いたことになる。

 濡衣塚の説話は、貝原益軒が1709年(宝永6)に完成させた福岡藩の地誌『筑前国続風土記』にも紹介されている。聖武天皇の時代、佐野近世なる者が筑前守として赴任してきたが、妻が病死し、後妻を迎えた。この後妻が、前妻が残した美しい娘をねたみ、漁師を買収して「娘さんが釣り衣を盗んでいって困る」と佐野に告げ口させた。佐野が娘の部屋に行くと、娘が濡れた釣り衣をかぶって寝ていた。後妻が掛けたものだが、まんまとだまされた佐野は激怒し、即座に娘を殺した。翌年、死んだ娘が佐野の夢枕に立ち、「濡衣の袖よりつたふ涙こそ無き名を流すためしなりけれ」などの歌を詠んだ。佐野はここで初めて、後妻の陰謀だったことに気付き、後妻を離縁した後、自分は出家遁世したーーというのがあらすじだ。

 博多区千代3にある松源寺の住職だった佐々木慈寛が著した『濡衣塚の伝説と古跡』(1973)によると、この説話が初めて文献に登場するのは1641年(寛永18)の『雑和集』で、益軒はそれを引用したらしい。江戸時代に文献初出ではあまりに新しすぎ、この説話が濡れ衣の語源になったというより、濡れ衣の言葉が出来た後に創作された話ではないかと疑わしくなる。もちろん、成立自体はもっと古かった可能性はあり、佐々木慈寛の見立ては、平安時代に『落窪物語』など継子いじめの物語が生まれた中で、この一つが筑前に伝わったというものだ。ただ、後述するが、その慈寛にしてもこの説話が濡れ衣の語源という説には懐疑的だ。

 一方、梵字板碑は主に南北朝期に盛んに建てられた供養塔の一種。表面にはサンスクリット語の文字(梵字)が刻まれており、この一字一字が仏を表している。問題の板碑は高さ165㌢、幅145㌢の玄武岩製で、刻まれているのは大日如来、宝幢(ほうとう)如来、天鼓雷音(てんくらいおん)如来を意味する3文字。福岡市教委発行の『福岡市の板碑』(2002)によると、これを含め市内では375基の板碑が確認されているという。この板碑がなぜ、濡れ衣説話と結び付いたのかについては、残念ながら、疑問を解消してくれる資料が見つからなかった。

  『濡衣塚の伝説と古跡』によると、明治30年(1897)には濡衣塚堂、大師堂、通夜堂が建てられ、戦前までは毎年8月16日には夏祭りが盛大に営まれていた。戦時中の昭和20年(1945)6月4日、強制疎開によって建造物は撤去されたが、毎年の祭典は松源寺によって続けられていたという。佐々木慈寛が住職を務めていた松源寺は山号を「濡衣山」といい、寺の発祥について「もとは濡衣塚の堂守をしていたものらしく」と慈寛は記している。

 佐々木慈寛については、彼の著書『博多年中行事』(1935)をこのブログで何度か取り上げたが、まさか濡衣塚を守ってきた当の本人とは知らなかった。その慈寛が濡れ衣の語源として「妥当」と評価したのは、大正時代に刊行された辞典『海録』に書かれていた解釈で、「人ノ科ヲ負フハ、蓑ナクシテ雨ニ衣ノ濡ルルヲ、実ノナキニカケテ、無実ナル意ノ謎語ナリト云」というもの。「実の無し―蓑なし―濡れる―濡衣」という言葉遊びから濡れ衣という言葉は生まれたというわけだ。その根拠について、慈寛は「由来日本人は言語の遊戯が好きな国民で」としか記していないが、ひょっとしたら、福岡に伝わる濡れ衣説話の成立は意外に新しいという感触でも持っていたのだろうか。何にせよ、濡衣塚の当事者が、その語源説に否定的なのは面白い。

 それにしても、継子いじめの物語に出てくる父親はおおむね無能な人間だが、佐野近世の愚かさは特筆ものだ。こんな輩が本当に筑前守だったら、領民はたまったものではなかっただろう。
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廃棄された完全形の鏡

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 福岡市博多区井相田の仲島遺跡から、銅鏡が完全な形で出土し、現在、同市早良区の市博物館で展示されている。中国・後漢で1世紀末から2世紀前半頃に作られたとみられる内行花文鏡(ないこうかもんきょう)で、直径はやや小ぶりの11㌢。子孫繁栄を意味する「長宜子孫」の文字が刻まれている。福岡市内で割れていない鏡が出土するのは極めて珍しいらしいが、有力者の墓に副葬されていたわけではなく、不思議なことに弥生時代後期後半(2~3世紀)の土器片と一緒に廃棄されたも同然の状態で埋まっていたという。

 博物館で、ガラスケースの中に展示された現物を見てきた(写真上)。単に割れていないというだけではなかった。錆一つないうえ、鏡面はツルツルに近く、同博物館に展示されている他の数々の銅鏡(写真下)と比べれば、状態の良さは歴然だった。仲島遺跡は、博多区井相田と大野城市の旧・仲島地区(現在の地名は仲畑)にまたがる弥生時代から奈良時代にかけての集落遺跡だが、館内の説明パネルによると、鏡が見つかったのは集落の外れの窪地、または川に面した場所。鏡のすぐ上の地中には焼けて炭化した板の痕跡があり、更にその上に土器片が埋まっていたという。「何らかの祭祀行為の累積」というのが発掘担当者の見立てだ。

 しかし、いくら祭祀だとは言え、破片でさえ所有者の権威の象徴だったとされる貴重な鏡を、完全無欠の状態のまま惜しげもなく埋めてしまうものだろうか。青銅器等の埋納について、専門家の見解は往々にして「祭祀」や「呪い」だが、素人考えながら、今回の事例ではもっと俗っぽい事情を想像した。鏡は盗まれ、地中深くに隠されたのではないか、と。欲に駆られての犯行というより、狙いは所有者、恐らくは集落の有力者の権威を貶めるため。もちろん、何一つ根拠はないが、クニ同士の戦乱が続いたとされる北部九州の弥生時代、内部の権力闘争も激しかったのではないかと思ったのだ。

 仲島遺跡の大野城市側からは1981年、中国・新時代(1世紀)の貨幣「貨布」が出土している。同時に出土した土器(須恵器)片から、古墳時代の6世紀後半に埋まったものと推定されるが、大野城市教委は製造から間もない弥生時代にこの地にもたらされたとみている。同遺跡の弥生時代の遺構からはこのほか、中国鏡の破片なども出土しており、同市教委によると「弥生時代の仲島遺跡の集団は青銅器を保有することのできた有力集団」「奴国連合を支えた有力地域」と考えられるという。

 なお、仲島遺跡に隣接して博多区側には井相田C遺跡という集落遺跡があるが、お役所の都合で名前は別々だが、実際は一つながりの遺跡だという。同一の遺跡ならば、一つの名前でくくった方が全体像が理解しやすいのではないだろうか。


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「郷土の英雄」磐井

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 筑紫君磐井の墓と推定される八女市の岩戸山古墳横に2年前、岩戸山歴史文化交流館が開館した。岩戸山歴史資料館の老朽化に伴い、八女市が8億7000万円を投じて建設した新資料館。旧資料館は入館料130円と格安ながら、同市の鶴見山古墳出土の武装石人など数々の国重要文化財が展示され、以前このブログの中で、「“羊頭狗肉”ならぬ“羊頭松阪肉”のような驚きのある資料館だった」と紹介したことがある(「岩戸山古墳の新資料館」)。新資料館建設には巨費を費やしたのだから、当然、入館料は値上げされるだろうと予想していたのだが、12月3日、初めて交流館に行き、驚いた。無料だったのだ。例えが悪いかもかもしれないが、大きなエビ天で人気になった蕎麦屋が店を建て替えると、概ねエビは小さくなるものだが、逆にエビが2匹に増えたような感じだった。

 交流館は、岩戸山古墳をはさんで旧資料館の反対側にあり、館内から岩戸山古墳に通じる順路も整備されている。施設は鉄骨平屋2,000平方㍍、このうち常設展示室は840平方㍍の広さで、旧資料館の2倍。旧資料館と同じく、武装石人をはじめとする石人石馬(この多くが国重文)が展示の中心だが、説明パネル等は以前よりも充実し、磐井について、ヤマト王権に背いた逆賊ではなく、「郷土の英雄」という視点からスポットを当てている。2年前の博多祇園山笠では、新天町の飾り山の主役に磐井が選ばれたことさえあり、磐井を英雄視する考え方は、少なくとも地元・福岡では、もはや異端ではない。

 岩戸山古墳からの帰路、寄り道して久留米市の紅葉の名所、柳坂曽根のハゼ並木を歩いてきた。幕末、久留米藩がロウソクを特産にするため、ハゼの植林を奨励したのが始まりで、約1・1㌔の道沿いに200本が植えられ、ロウソク作りが廃れた今も住民たちによって大切にされている。残念ながら見頃は過ぎ、大半の木は落葉して黒い実ばかりが目立っていたが、一部の木はまだ真っ赤な葉が陽光に輝いていた。

 このハゼ並木から徒歩数分の場所には、実はここに勝るとも劣らぬ紅葉の名所がある。並木の東側に福岡県農林業総合試験場の出先があるのだが、この敷地内の東端にスギに似た木の並木があり、この木々の葉が秋には見事なオレンジ色に変わるのだ。試験場のウェブサイトを見ても樹種についての説明はないが、葉の形から判断して恐らくメタセコイアだろうと思う。ハゼ並木とは試験場を挟んだ別の道沿いにあるため、2種の木の紅葉を同時に見られないのが惜しい。
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江田船山古墳の石棺保存施設

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 先日、熊本県和水町のトンカラリンに行ったついでに、すぐ近くにある国史跡、江田船山古墳を見学してきた。75文字の漢字が刻まれた「銀象嵌銘太刀」など92点もの国宝が出土した5世紀後半頃の前方後円墳で、歴史的価値はトンカラリンの比ではない。本来ならば、「ついでに」見学するような史跡ではない。付近には塚坊主、虚空蔵塚という二つの古墳もあり、一帯は史跡公園としてきれいに整備され、桜並木もあった。見学した日は雨の平日だったこともあって、散策しているのは私たち以外にいなかったが、好天の週末、中でも桜の季節には多くの人でにぎわっていることだろう。

 古墳の墳丘上には鉄製の扉があり、「史跡江田船山古墳 石棺保存施設入口」と記されていた。恐らく事前予約しなければ、入れないのだろうと思ったが、ドアに記された注意書きを読んでみると、自由に見学できるようでもある。試しにドアレバーを引いてみると、難なく扉が開き、照明のスイッチを入れると、ガラス窓の向こうに大きな石棺が見えた。あいにく窓ガラスは石棺側が水滴で曇っていたが、驚いたことにワイパーまで付いており、お陰でガラス越しながら結構鮮明な写真を撮ることができた。組合式家型石棺というタイプのものらしい。それにしても石棺保存施設といい、史跡公園整備といい、江田船山古墳は本当に大事にされている。教科書に出てくる程の貴重な存在なのだから、当然かもしれないが。

 自由に石棺が見学できる古墳と言えば、地元・福岡市にも西区周船寺の
丸隈山古墳があり、こちらは鉄柵越しに横穴石室や内部に置かれた石棺を見ることができる。そう言えば、江田船山古墳と丸隈山古墳は石棺(石室)発見の経緯も共通している。一人の男が夢のお告げで掘り当てたのだ。発掘の時期は、丸隈山古墳が江戸時代の1629年、江田船山古墳が1873年(明治6)。前述のように江田船山古墳から多くの副葬品が出土し、国宝の数々は国立博物館が所蔵している。

 江田船山古墳からほかに、石人(石製表飾)も出土し、史跡公園にはその巨大なレプリカが据えられ、笑顔で見学者を出迎えていた。
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