廃棄された完全形の鏡

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 福岡市博多区井相田の仲島遺跡から、銅鏡が完全な形で出土し、現在、同市早良区の市博物館で展示されている。中国・後漢で1世紀末から2世紀前半頃に作られたとみられる内行花文鏡(ないこうかもんきょう)で、直径はやや小ぶりの11㌢。子孫繁栄を意味する「長宜子孫」の文字が刻まれている。福岡市内で割れていない鏡が出土するのは極めて珍しいらしいが、有力者の墓に副葬されていたわけではなく、不思議なことに弥生時代後期後半(2~3世紀)の土器片と一緒に廃棄されたも同然の状態で埋まっていたという。

 博物館で、ガラスケースの中に展示された現物を見てきた(写真上)。単に割れていないというだけではなかった。錆一つないうえ、鏡面はツルツルに近く、同博物館に展示されている他の数々の銅鏡(写真下)と比べれば、状態の良さは歴然だった。仲島遺跡は、博多区井相田と大野城市の旧・仲島地区(現在の地名は仲畑)にまたがる弥生時代から奈良時代にかけての集落遺跡だが、館内の説明パネルによると、鏡が見つかったのは集落の外れの窪地、または川に面した場所。鏡のすぐ上の地中には焼けて炭化した板の痕跡があり、更にその上に土器片が埋まっていたという。「何らかの祭祀行為の累積」というのが発掘担当者の見立てだ。

 しかし、いくら祭祀だとは言え、破片でさえ所有者の権威の象徴だったとされる貴重な鏡を、完全無欠の状態のまま惜しげもなく埋めてしまうものだろうか。青銅器等の埋納について、専門家の見解は往々にして「祭祀」や「呪い」だが、素人考えながら、今回の事例ではもっと俗っぽい事情を想像した。鏡は盗まれ、地中深くに隠されたのではないか、と。欲に駆られての犯行というより、狙いは所有者、恐らくは集落の有力者の権威を貶めるため。もちろん、何一つ根拠はないが、クニ同士の戦乱が続いたとされる北部九州の弥生時代、内部の権力闘争も激しかったのではないかと思ったのだ。

 仲島遺跡の大野城市側からは1981年、中国・新時代(1世紀)の貨幣「貨布」が出土している。同時に出土した土器(須恵器)片から、古墳時代の6世紀後半に埋まったものと推定されるが、大野城市教委は製造から間もない弥生時代にこの地にもたらされたとみている。同遺跡の弥生時代の遺構からはこのほか、中国鏡の破片なども出土しており、同市教委によると「弥生時代の仲島遺跡の集団は青銅器を保有することのできた有力集団」「奴国連合を支えた有力地域」と考えられるという。

 なお、仲島遺跡に隣接して博多区側には井相田C遺跡という集落遺跡があるが、お役所の都合で名前は別々だが、実際は一つながりの遺跡だという。同一の遺跡ならば、一つの名前でくくった方が全体像が理解しやすいのではないだろうか。


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「郷土の英雄」磐井

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 筑紫君磐井の墓と推定される八女市の岩戸山古墳横に2年前、岩戸山歴史文化交流館が開館した。岩戸山歴史資料館の老朽化に伴い、八女市が8億7000万円を投じて建設した新資料館。旧資料館は入館料130円と格安ながら、同市の鶴見山古墳出土の武装石人など数々の国重要文化財が展示され、以前このブログの中で、「“羊頭狗肉”ならぬ“羊頭松阪肉”のような驚きのある資料館だった」と紹介したことがある(「岩戸山古墳の新資料館」)。新資料館建設には巨費を費やしたのだから、当然、入館料は値上げされるだろうと予想していたのだが、12月3日、初めて交流館に行き、驚いた。無料だったのだ。例えが悪いかもかもしれないが、大きなエビ天で人気になった蕎麦屋が店を建て替えると、概ねエビは小さくなるものだが、逆にエビが2匹に増えたような感じだった。

 交流館は、岩戸山古墳をはさんで旧資料館の反対側にあり、館内から岩戸山古墳に通じる順路も整備されている。施設は鉄骨平屋2,000平方㍍、このうち常設展示室は840平方㍍の広さで、旧資料館の2倍。旧資料館と同じく、武装石人をはじめとする石人石馬(この多くが国重文)が展示の中心だが、説明パネル等は以前よりも充実し、磐井について、ヤマト王権に背いた逆賊ではなく、「郷土の英雄」という視点からスポットを当てている。2年前の博多祇園山笠では、新天町の飾り山の主役に磐井が選ばれたことさえあり、磐井を英雄視する考え方は、少なくとも地元・福岡では、もはや異端ではない。

 岩戸山古墳からの帰路、寄り道して久留米市の紅葉の名所、柳坂曽根のハゼ並木を歩いてきた。幕末、久留米藩がロウソクを特産にするため、ハゼの植林を奨励したのが始まりで、約1・1㌔の道沿いに200本が植えられ、ロウソク作りが廃れた今も住民たちによって大切にされている。残念ながら見頃は過ぎ、大半の木は落葉して黒い実ばかりが目立っていたが、一部の木はまだ真っ赤な葉が陽光に輝いていた。

 このハゼ並木から徒歩数分の場所には、実はここに勝るとも劣らぬ紅葉の名所がある。並木の東側に福岡県農林業総合試験場の出先があるのだが、この敷地内の東端にスギに似た木の並木があり、この木々の葉が秋には見事なオレンジ色に変わるのだ。試験場のウェブサイトを見ても樹種についての説明はないが、葉の形から判断して恐らくメタセコイアだろうと思う。ハゼ並木とは試験場を挟んだ別の道沿いにあるため、2種の木の紅葉を同時に見られないのが惜しい。
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江田船山古墳の石棺保存施設

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 先日、熊本県和水町のトンカラリンに行ったついでに、すぐ近くにある国史跡、江田船山古墳を見学してきた。75文字の漢字が刻まれた「銀象嵌銘太刀」など92点もの国宝が出土した5世紀後半頃の前方後円墳で、歴史的価値はトンカラリンの比ではない。本来ならば、「ついでに」見学するような史跡ではない。付近には塚坊主、虚空蔵塚という二つの古墳もあり、一帯は史跡公園としてきれいに整備され、桜並木もあった。見学した日は雨の平日だったこともあって、散策しているのは私たち以外にいなかったが、好天の週末、中でも桜の季節には多くの人でにぎわっていることだろう。

 古墳の墳丘上には鉄製の扉があり、「史跡江田船山古墳 石棺保存施設入口」と記されていた。恐らく事前予約しなければ、入れないのだろうと思ったが、ドアに記された注意書きを読んでみると、自由に見学できるようでもある。試しにドアレバーを引いてみると、難なく扉が開き、照明のスイッチを入れると、ガラス窓の向こうに大きな石棺が見えた。あいにく窓ガラスは石棺側が水滴で曇っていたが、驚いたことにワイパーまで付いており、お陰でガラス越しながら結構鮮明な写真を撮ることができた。組合式家型石棺というタイプのものらしい。それにしても石棺保存施設といい、史跡公園整備といい、江田船山古墳は本当に大事にされている。教科書に出てくる程の貴重な存在なのだから、当然かもしれないが。

 自由に石棺が見学できる古墳と言えば、地元・福岡市にも西区周船寺の
丸隈山古墳があり、こちらは鉄柵越しに横穴石室や内部に置かれた石棺を見ることができる。そう言えば、江田船山古墳と丸隈山古墳は石棺(石室)発見の経緯も共通している。一人の男が夢のお告げで掘り当てたのだ。発掘の時期は、丸隈山古墳が江戸時代の1629年、江田船山古墳が1873年(明治6)。前述のように江田船山古墳から多くの副葬品が出土し、国宝の数々は国立博物館が所蔵している。

 江田船山古墳からほかに、石人(石製表飾)も出土し、史跡公園にはその巨大なレプリカが据えられ、笑顔で見学者を出迎えていた。
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トンカラリン再訪

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 熊本県和水町(旧・菊水町)に残る謎の遺構「トンカラリン」の資料を探していたところ、『熊本県大百科事典』(熊本日日新聞社、1982)のトンカラリンの項目に興味深い記述があった。排水路と考えられた時代の出版物であり、最初から「玉名郡菊水町瀬川字北原、長力にある水路遺構」と紹介されているのだが、これだけでなく以下の突っ込んだ記述があるのだ。

 「明治一六年(一八八三)生まれの古老の証言などで、施工者は地主だった斉木次三郎、石工は民田久八・牛馬親子、造成時期は明治二八年ごろで、宅地や耕地を水害から守るために造られた水路とわかった」

 3日更新の
「トンカラリンを再訪したい」でも書いたが、トンカラリンとは1974年に存在が公になった全長440㍍あまりのトンネル状遺構で、石組みのトンネルをはじめ、地割れでできた溝(地隙)、その溝に石蓋をかぶせた箇所などからなる。調査を行った熊本県教委は78年、いったんは「排水路」とする報告書をまとめたものの、その後、農業土木の専門家による再調査で排水路説は覆された。しかし、排水路説が定着していた時代、施工者の個人名や築造時期まで具体的に明示されていたとは意外だった。

 『熊本県大百科事典』で、トンカラリンの項目を執筆したのは地元・和水町の郷土史家。これだけ個別具体的な証言でありながら、排水路説が否定された今となっては誰一人気にかける様子はない。もちろん、長大なトンカラリンの全てを石工親子が築造したとは到底思えず、証言が全て真実だとは思えないが…。あれこれ考えても仕方がないので、取りあえず現地を見ておこうと思い、8日午後、急きょ思い立って20数年ぶりにトンカラリンに行ってきた。あいにくの悪天候で、地面はぬかるみ、しかも大半の場所が「危険」との理由で立ち入り禁止になっていたのは想定外だったが。昨年4月の熊本地震でトンカラリンは被災しなかったと聞いたが、和水町でも震度6弱の揺れが観測されており、トンネルの強度については不安が生じたのだろう。

 現地には、以前はなかった大きなパネルが設置され、排水路説が否定された経緯が詳しく説明されていた。図らずも悪天候の日に見学したため、排水路説が怪しいことは実際に遺構を見て納得がいった。地隙そのままの場所には所々水たまりができていたが、水が流れていく様子はまったくなかったのだ。ただ、耕作地の真下に当たる最上部の箇所には、斜面の下に石組みトンネルの小さな開口部があり、排水路の集水口にしか見えなかった(一番下の写真)。ここに限っては、水が流れていないことが逆に不思議だった。古老の証言が記憶違い、勘違いでないのならば、トンカラリンの遺構に手を加え、本当に排水路にしようという試みでもあったのではないかと想像を巡らした。

 排水路説が否定された現在、信仰遺跡だったのではないかという説が有力視され、トンネルをくぐる行為が「再生儀礼」を意味していると唱える研究者もいる。寺院などで行われている「胎内くぐり」の大掛かりなものという見立てだろう。胎内くぐりは経験したことがないため何とも言えないが、石組みトンネルや地隙に蓋をかせぶた箇所の見た目は、レジャー施設にある冒険コーナーによく似ていると思った。ここを自由にくぐることができれば、子供たちはきっと大喜びするだろう。帰路、住宅街の坂道を下りながら、トンカラリンの本質は、案外そんなところにあるのではないかとバカげたことを思った。
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トンカラリンを再訪したい

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 ずいぶん昔のことだが、熊本県和水町(当時は菊水町)にある謎の遺構トンカラリンを何かのついでに見学したことがある。当時は遺跡や遺構などにそれほど関心がなく、また、トンカラリンはこの頃、近世に造られた排水路跡だと考えられていたこともあり、ごく短時間、遺構の一部を眺めただけで、さっさと次の目的地に向かった。自宅からトンカラリンまでは九州自動車道を使えば、2時間あまり。さほど遠いわけではないが、その後は意外に再訪の機会がなく、あの時もう少し真面目に見学し、写真も撮影しておくべきだったと後悔している。(上の写真はウェブ素材集収録の資料写真)

 トンカラリンとは、全長440㍍あまりの巨大なトンネル状遺構。ただ、構造は一様ではなく、石組みのトンネルもあれば、地割れで出来た溝に石蓋をかぶせた箇所、溝のままの箇所もある。これだけの遺構の存在が公になったのは1974年のことで、この遺構がいったい何なのか、地元には文書記録はおろか、言い伝えさえ残されていなかった。唯一、伝わってきたのはトンカラリンという奇妙な名前だけだ。

 熊本県教委は1975年から77年にかけて緊急調査を行い、その結果は『菊池川流域文化財調査報告書』(1978)にまとめられているが、この中で、県文化財保護審議会委員の一人が近世の「谷の集・排水路」説を提唱し、これがいったんは県教委の公式見解ともなった。しかし、90年代に入って熊本県庁職員の一人が専門の農業土木の観点から個人的に調査を行ったところ、排水路と言いながら遺構の一部には水が流れた痕跡のないことなどが判明。排水路説は否定され、トンカラリンは再び謎の遺構に戻った、という経緯がある。

 ただ、前述の『菊池川流域文化財調査報告書』を読む限り、熊本県教委の調査担当者は排水路説に賛成していたわけでは全くない。当時有力だった信仰遺跡、排水路の2説について、調査結果をもとに今後、活発な議論が行われることを期待すると記しており、性急に結論を出す考えはなかったようだ。にもかかわらず、県文化財保護審議会委員の排水路説ばかりがクローズアップされたことは、「トンカラリンは、多くの歴史ファンに限りない夢と、歴史パズルの醍醐味を与えてくれた。そこにトンカラリン問題の本質があり」と評価していた調査担当者にとっては、むしろ残念な事態だったかもしれない。

 トンカラリンが公式確認された直後、謎の巨大遺構として考古学ファンの関心をかき立て、大ブームを呼んだが、排水路説が定着すると、このブームも一気に沈静化したと聞く。江戸時代の水路では大方の人にとっては面白みのない代物だったのだろう。排水路説が否定され、信仰遺跡説が有力となって以降、トンカラリンの人気は再燃しているという。私もようやく、この遺構について人並みに興味を持ち始め、築造者は何者なのだろうか、文献資料や言い伝えが全く残されていないことを考えれば、古代に築造されたものだろうか、などとあれこれ考えている。取りあえず現地を再訪し、今度はきちんと遺構を見たうえで、もう一度トンカラリンについて取り上げたいと思う。
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続・五郎山古墳の壁画

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 装飾古墳として有名な筑紫野市原田の五郎山古墳で21日、石室の一般公開が予定されている。せっかくの機会と思ったのだが、当日は残念ながら仕事だった。普段ならば一般公開の日以外でも5日前に予約すれば、見学可能で、別に落胆する程でもないのだが、今年は一般公開直後の11月1日から石室の保存改修工事が始まり、来年3月31日までは見学不可となる。改修工事完成後の一般公開を待つしかない。

 5年前に書いた「五郎山古墳の壁画」の中で紹介しているが、古墳の麓には2001年開館の五郎山古墳館があり、館内には石室の実物大模型が展示されている。この古墳が名高いのは、玄室奥壁に赤、黒、緑の3色を使い、人物や動物などが伸びやかなタッチで描かれていることで、石室模型には躍動感あふれる壁画も再現されている。残念ながら実物は劣化が激しい。石室の保存改修工事を知らせる筑紫野市公式サイトのページに、撮影年不明ながら、その写真が掲載されている(写真1枚目)が、古墳館のレプリカ(写真2枚目)と比べると、やはり全体的に色あせ、輪郭もぼやけてしまっており、辛うじて命脈を保っているという状態だ。

 この古墳は1947年に発見され、早くもその2年後には国史跡に指定されたのだが、保存管理は発見者であり、土地所有者でもあった男性に委ねられ、国からは捨て置かれたも同然だったことが『装飾古墳紀行』(玉利勲、新潮社、1984)に書かれている。石室入り口には鍵がかけられ、土地所有者の許可なしに立ち入りはできなかったのだが、現実には鍵を壊して不法侵入する者が相次ぎ、彼らが明かり代わりに使ったロウソクの煤で一部の壁画は真っ黒に汚れ、白カビの増殖も激しかったという。このため1978年、石室はいったんは完全に閉じられ、非公開となった。ガラス窓越しに壁画を見ることができる観察室が完成し、23年ぶりに公開されたのは、古墳館の開館と同じ2001年のことだ。

 この壁画は何を意味しているのか。「五郎山古墳の壁画」の中で、壁画発見直後に調査した研究者が「知っている文様を適当に描いたのだろう」と述べたことを、「それではまるで落書きである」と批判的に取り上げたことがある。この研究者とは著名な考古学者で、五郎山古墳を世に広めた人物でもある京都大の小林行雄氏(1911~1989)だ。この機会に、『筑紫野市史』資料編(2001)に収録されている「五郎山古墳の装飾壁画」(筆者は小田富士雄・福大名誉教授)を読んだところ、意外にも小林氏の見方は主流だったらしく、「全体としては一連の物語りを表現するものではない、自由な生活描写的な画題と見る考え方が以後大勢的となっている」と記されていた。

 もちろん、他にも多様な説があり、「被葬者の生涯の中でも印象的な場面をいろいろ描き込んでいる」「被葬者の一代記というべき性格」という見方に、個人的には最も魅力を感じた。被葬者が生前、朝鮮半島に出兵し、勇敢に戦った一こまを描いたものではないか考える説もあるという。小田名誉教授は、こういった考え方に対し「古墳壁画の本質は死者の鎮魂儀礼にあることに思いいたすとき、このような史実のみで壁画を律してしまうのは、政治史的立場を重視するあまりの短絡的評価ではないかという指摘も不当ではない」と批判的だが、壁画に史実が込められているのならば、やがては被葬者を特定することも可能ではないかと夢が広がる。
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多聞櫓は学生寮だった

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 福岡城南丸多聞櫓の保存修復工事が行われている。多聞櫓は、築城当時の位置に現存する唯一の櫓で、1971年には国重要文化財にも指定されている貴重な建物なのだが、今回の工事の理由を知って驚いた。福岡県西方沖地震や経年劣化により、建物のあちこちに傷みが目立ってきたからだというのだ。経年劣化の方はわからないでもないが、福岡県西方沖地震とは2005年3月、つまり12年も前に起きた地震だ。12年もほったらかしだったのだろうか。それはともかく、この機会に多聞櫓の歴史を調べ、もっと驚くことがあった。戦後の一時期、この櫓は学生寮になっていたのだ。

 多聞櫓は2階建ての隅櫓と長さ約54㍍(30間)の平櫓からなる。平櫓の内部は普通、突き抜けの構造になっているらしいが、福岡城の多聞櫓は長屋のように16の小部屋に分かれており、この特徴的な構造のためか、戦前は城内に駐屯していた陸軍歩兵24連隊が兵舎として利用していた。それだけでなく、戦後、西日本短大の前身が城内に開設されると、多聞櫓は学生寮に衣替えされたのだ。学生寮となった城など稀有な存在ではないだろうか。

 藩政時代は主に倉庫として使われていた建物だったのだから、そのままでは居住に適しているはずがなく、学生寮時代は内外装とも大きく改変されていた。室内には押入れが新設されたほか、窓や出入口は模様替えされ、天井にはベニヤ板が張り付けられていたという。1970年に西日本短大が移転していき、翌71年には多聞櫓の本来の持ち主だった国から福岡市が買い取ったのだが、この時には屋根瓦が落ち、雨漏りも激しく、崩壊寸前の状態だったという。辛うじて骨組みは良好な状態だったため、重文指定を受けることは出来た。福岡市は72年から約3年の月日と約1億円の予算を費やして、建物をいったん解体した後、旧来の姿に復元する工事を行っている。

 多聞櫓の解体復元は、この時代に市が進めていた福岡城址の史跡公園化の第一弾で、西日本短大に続き、74年にはその北側にあった予備校・九州英数学舘、75年からは2年がかりで御鷹屋敷一帯にあった福岡大平和台キャンパスの移転も実現させ、跡地は現在、緑地や牡丹芍薬園などとなっている。

 福岡大の一部キャンパスが御鷹屋敷跡にあったのは以前から知っていたが、西日本短大や九州英数学舘まであったことは全くの初耳だった。また、先頃まで市立舞鶴中学校だった場所には1960年まで、市立博多工業高校があった。明治通りから護国神社へ抜ける狭い道の両側には戦後の一時期、高校、予備校、短大、大学がひしめき合っていたことになる。ひょっとしたら博多工業高校卒業後に英数学舘で浪人生活を送り、福岡大学へ進学、青春時代を過ごしたのはずっと城内だった、などという人もいたのだろうか。

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 御鷹屋敷の下にある藤棚。以前は福岡大の体育館があったらしい。

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 九州英数学舘があったのはこの辺りだと思われる。

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 舞鶴中学校の跡地。旧校舎は福岡城、鴻臚館のガイダンス施設として、校庭は駐車場として活用されている。
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「油山天福寺跡」探索行

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 福岡市の油山(597㍍)中腹にあったという天福寺跡を探して山中をさまよってきた。江戸時代の文献に初めて名前が出てきた時には、すでに滅び去った後だった幻の寺だが、西油山に寺院の遺構があるのは間違いない事実で、地元の人々からは「坊城」などと呼ばれている。地図で場所を確認し、野芥の塚穴の手前から西油山林道を通って山中に入り、石垣の写真を撮ってきたが、これが本当に天福寺の遺構なのかは正直なところ、自信がない。研究者の調査では伽藍や僧房跡とみられる平坦面や礎石が多数確認されているが、素人の節穴の眼には山は山でしかなく、結局林道を最後まで歩き通しただけに終わった。

 天福寺の名前が初めて出てくる文献とは、貝原益軒(1630~1714)が著した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』で、これには西油山天福寺と脊振山東門寺とが侍童を巡って激しく争い、焼き討ち合戦を繰り広げた末に両寺とも「悉く焦土」となったという情けないエピソードが記録されている。この争いの時期について、益軒は「昔」と記しているだけで、つまり天福寺滅亡は江戸時代にはすでに昔話だったことになる。続風土記にはこのほか、天福寺は禅寺であり、360の僧坊があったと記されているが、九州帝国大の教授だった竹岡勝也氏は、浄土宗鎮西派開祖の聖光上人が天台宗の僧侶だった時代、「油山学頭」だったという記録が残ることから、天台宗の寺だったのではないかと指摘。これが現在では定説となっているようだ。

 竹岡氏は遺構の現地調査も行い、その成果は福岡県発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告書』第9輯(1934)に収録されているが、それには「西油山の村落を離れて南坊住の山道にかかれば、左右に屋敷跡らしい平地が段階をなして續いて居る」などと記されている。この時、石垣数か所と礎石が現存していたという。

 天福寺遺構の学術調査はこの後、約80年間も行われなかったようだが、近年になって山岳霊場の研究者が複数回の現地調査を行い、この結果、750㍍×200㍍、比高差で150㍍の範囲に遺構が広がっており、僧房跡などと考えられる平坦面が少なくとも65か所あるのを確認できたという。また、収集された遺物の中に中国からの輸入陶磁器の破片が多数含まれることから、日宋貿易(10~13世紀)を担っていた博多在住の中国商人(博多綱首)が天福寺造営に深く関わっていたのではないかと推測している。さらに、陶磁器片の年代分析から、寺の荒廃を招いた東門寺との争いは、14世紀半ばごろに起きたと考えられるという。

 続風土記には、寺同士が争い、互いに滅亡したという話がもう一つ記録されている。久原村の白山にあった白山頭光寺泉盛院という天台宗寺院の内紛で、この寺は本谷、西谷、別所、山王の4地区に分かれ、山王に50、残る3地区に各100の僧坊があったという。このうち本谷の侍童が別所の僧侶から嘲笑されたのを苦に自殺し、これをきっかけに本谷・西谷vs別所という構図で激しい戦いが起き、これまた互いに火を放った結果「悉く炎上して絶滅」したという地元民の言い伝えを益軒は書き残している。

 この白山とは福岡県久山町の首羅山(289㍍)のことで、この山からは12~15世紀の中世山岳寺院跡が見つかり、2005年から町教委などによる発掘調査が続いている。2013年には「首羅山遺跡」として国史跡にも指定されている。興味深いのは、この遺跡からも中国製の遺物が多数見つかり、博多綱首との関係が指摘されていることだ。単なる偶然かもしれないが、続風土記に記録された寺同士の血なまぐさい争いは、いずれも日宋貿易に支えられた天台密教の山岳寺院で起きたことになる。何か隠された背景でもあるのだろうか。なお、天福寺の研究者が続風土記の記述に重きを置いているのに対し、対照的に首羅山遺跡の担当者は続風土記など全く眼中にないように思え、これまたなぜなのだろうかと興味深い。

 天福寺跡探索行では明確な遺構は確認できなかったが、山中では色々なものに遭遇した。西油山林道ではアナグマらしき小動物が走り去るのを目撃した。林道終点からは梅林緑道から山頂に通じる縦走ルートに入り、帰路についたのだが、ここでは野生のツツジが赤い花を咲かせているのを目にした。林道沿いには展望が開けている場所があり、想像以上に雄大な景観が広がっているのに驚いたが、廃車や廃モーターボートまで山林に投棄されていたことにはもっと驚いた。

 文中で明示した以外の参考文献は『北部九州の山岳霊場遺跡―近年の調査事例と研究視点―』(九州山岳霊場遺跡研究会、2011)など。


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新原・奴山古墳群を見てきた

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 先日、福岡県福津市の新原・奴山古墳群を見学してきた。福岡県が世界遺産登録を目指してきた「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成資産の一つ。宗像市沖の玄界灘に浮かぶ孤島で、古代祭祀の遺構が残り、国宝8万点が出土した沖ノ島(宗像大社沖津宮)については今月、ユネスコの諮問機関イコモスが世界遺産登録を勧告したが、新原・奴山古墳群や宗像大社の辺津宮、中津宮は「世界的価値なし」として除外が要求された。地元には落胆が広がっているというが、この古墳群の歴史的価値は別にして、史跡としての見た目はインパクトに乏しかった。現在、福津市が散策路を整備するなど史跡公園化を進めているが、このまま世界遺産から漏れた場合、整備の先行きはどうなるのだろうか。

 新原・奴山古墳群は、海を見下ろす東西800㍍の台地上に、5~6世紀に築かれたと推定される41基の古墳(前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基)が密集している。一帯に広がるのは農地やため池。冒頭書いたように史跡公園化が進められている最中で、説明パネルにはまだ何も設置されていない状態だった。この古墳群は、国史跡・津屋崎古墳群の中の一つで、津屋崎古墳群全体が沖ノ島の古代祭祀を担った胸形(宗像)氏の奥津城だとみられている。津屋崎古墳群の中で、新原・奴山だけが世界遺産候補に加えられたのは、立地場所が“海人族”などと呼ばれる胸形氏を象徴しているためだという。

 津屋崎古墳群の中で最も有名な古墳は、全長23㍍もの長大な石室を持つ宮地嶽古墳(7世紀築造の円墳)ではないかと個人的には思うが、この古墳は宮地嶽神社の奥宮となっている。宮地嶽神社とは嵐出演のCMに登場した「光の道」で一躍有名になったところだが、それはともかく、宗像大社を世界遺産に登録しようとしているのに、別の神社が交じっていたのでは紛らわしいと候補から外されたのだろう。(下の写真が宮地嶽古墳の石室、一直線に海に延びる宮地嶽神社参道)

 話は少し変わるが、沖ノ島の世界遺産登録を巡り、『週刊新潮』が配信した記事に少々悪意を感じた(
https://www.dailyshincho.jp/article/2017/05190559/?all=1)。“地元紙記者”なる人物の証言を中心に書かれた記事なのだが、大意を要約すると、次のようになる。
▽宗像大社や周辺の古墳群などが除外され、地元には落胆が広がっている。
▽沖ノ島は基本的に上陸は許されず、女人禁制。単体で登録されても観光的価値はない。
▽本当の狙いは宗像大社や古墳群を世界遺産に登録し、海外の観光客を増やすことだったが、これらだけでは登録が厳しいので、沖ノ島をセットにして推薦した。
▽しかし、審査側に下心を見透かされ、目論見は外れた。

 地元に喜びだけでなく、落胆も広がっているのは確かであり、世界遺産登録を観光客誘致の弾みにしようと目論んでいたことも確かだ。『週刊新潮』の記事ではその点では間違いはないとは思うが、沖ノ島が権威付けのためだけの付け足しであるはずがなく、本当に記事にあるような証言をした地元紙記者が存在したとしたら、少し驚きだ。


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基山の「いものがんぎ」

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 古代山城、基肄城があった佐賀県基山町の基山(標高405㍍)に登り、山頂の凹凸地形「いものがんぎ」付近で昼食を取ってきた。「いものがんぎ」とは妙な名前だが、イモ畑の畝に似ているからだと言われている。この辺りでは畝のことを「がんぎ」と呼ぶのだろうか。帰宅後に調べてみたところ、そもそも「いものがんぎ」について大きな勘違いをしていたことに気付いた。基山にあるから、基肄城時代の巨大土塁だと勝手に思い込んでいたが、「いものがんぎ」は中世に造られた山城の防衛施設だったのだ。

 上の写真のデコボコが「いものがんぎ」。1938年(昭和13)佐賀県発行の『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告』第六輯には「空濠の北は俗に芋の雁木と唱へるところで第一峰と第二峰の連絡上、其間の低地を埋立て其上に、蒲鉾形の三つの大突堤と四條の塹壕とが築かれてゐる」と説明されている。現在はひらがな、カタカナで表記されるのが普通だが、漢字では「芋の雁木」と書くことがわかる。この調査報告では「いものがんぎ」は基肄城の遺構の一つとして紹介されており、少なくとも戦前まではそう理解されていたと思われる。私は戦後生まれなので、勘違いしていた言い訳には全くならないが。

 地元・基山町教委発行の“現在”の資料によると、中世山城は木山城(または基山城)と呼ばれ、築城者や築城時期は不明だが、初めて記録に現れるのは南北朝時代で、九州の南朝勢力を抑えるため、室町幕府が派遣した九州探題・今川了俊がこの城に布陣したと伝えられている。その後、九州探題を継いだ渋川氏と少弐氏との争いに絡み、木山城の名がしばしば登場するという。

 城の主郭は「いものがんぎ」南側の台地(写真2枚目。ここが本当の意味での山頂で大石が祭られている)にあり、「いものがんぎ」はこの防衛のために築かれた堀切だったのだ。

 基山の山頂一帯は広大な草原となっており、狭義の意味での山頂と「いものがんぎ」は特徴的な景観を形作ってはいるが、草原の極々一部を占めるに過ぎない。山頂どころか、ほぼ全山を要塞化していた壮大な基肄城跡と比べれば、ずいぶんちっぽけな規模だ。基肄城は言うまでもなく白村江の戦いに敗れたヤマト王権が、唐・新羅の侵攻に備え、大宰府防衛のため665年、水城、大野城とともに築いた朝鮮式山城。両城の規模の差は、東アジア的なスケールで構想された基肄城と、北部九州というコップの中の争いの舞台でしかなかった木山城との違いなのだろう。

 最後に、畝を「がんぎ」と呼ぶのかという最初の疑問について。手元にある『新明解国語辞典』(三省堂)には雁木とは「空を飛ぶガンの列の片側のように斜めに、ぎざぎざがあるもの、の意」として桟橋の階段、坑内で使うはしご、雪国で積雪時でも通れるように軒から庇を長く差し出して作った回廊風の覆い、大きなのこぎり、と説明されている。ただ、色々調べてみると、農業関係で、畝に種をまく手法の一つに「雁木まき」というものがあり、この言葉が畝そのものに転用された可能性はあるとは思った。
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