米一丸伝説のモデルは…

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 学生時代、下宿近くの福岡市東区箱崎に米一丸というバス停があり、妙な名前だなと思っていた。当時は全く関心がなかったが、バス停近くには一帯の旧地名の元となった「米一丸の供養塔」があり、地蔵堂も建っている。供養塔の傍らには12基の梵字板碑や鳥居さえある。神仏習合を通り越してしまったような場所だが、不思議なことに雑多な雰囲気は感じられない。地蔵堂内も敷地も非常にきれいな状態で、地元の人に大事にされていることが一目見てわかる。

 供養塔は九重の石塔で、高さは4.2㍍。鎌倉時代末期の作とされ、県文化財にも指定されている。米一丸の供養塔と呼ばれるのは、
濡衣塚と同じく、石塔が悲劇的な伝説で彩られているためで、伝説の主人公が福岡に来たばかりに悲惨な最期を迎えた、というところも濡衣塚と共通している。地元にとってはあまり喜ばしくない話を語り伝え、それにまつわる石塔や石碑も守り続けている。福岡人のよくわからないところだ。

 この伝説を詳しく紹介している『伝説の九州』(竹田秋楼、1913)によると、米一丸は、駿河の木島長者こと、三河朝臣元直の長男。跡取り息子を待ち望んでいた元直が米山薬師に祈って一子を得たため、米一丸と名付けたという。米一丸は美しい若者に成長し、八千代姫という絶世の美女を妻に迎えるが、主君に当たる京都の一条殿にあいさつに出向いたところ、この男が八千代姫に横恋慕。姫を奪うために口実を作って米一丸を博多に送り、ここで地元の武士たちに襲撃させ自刃に追い込んだ。米一丸の後を追ってきた八千代姫も彼の死を知り自害した、というのがあらすじだ。

 現地説明板には、米一丸の悲劇は文治年間(1185~89)の出来事だと記されており、鎌倉幕府成立直後頃の物語だということになる。『伝説の九州』には後日談も記されているが、米一丸の死後、博多には疫病が流行し、米一丸のたたりと恐れた地元民は、博多中を探して彼の遺品を集め、盛大に供養したという。

 藩政時代の儒学者、貝原益軒も著書『筑前国続風土記』の中で米一丸伝説を取り上げているが、「乱雑にしてまことしからぬ事多ければ、信じがたしといへども、今の市井の人の口碑に残り、瞽女数段のうたひ物とし…」と評している。どこが「乱雑にしてまことしからぬ」のか、益軒は具体的には記していないが、郷土史家の中にも「新しい時代の名前や古い時代の名前が交錯して出てくる」などと指摘する人がおり、時代考証を無視したような部分が多々あるのかもしれない。現在残る石塔は、前述のように鎌倉時代末期の作。南北朝時代に建立されたのに、600年も時代を遡って奈良時代の話に結びつけられた濡衣塚とは違い、伝説と石塔との関係はまだしも時代的には整合してはいるが。

 この伝説は完全な作り話だろうとは思うが、仮に史実がベースになっていた場合、モデルは誰だろうかと考えてみた。以下は私の完全なる想像だが、着目したのは米一丸ではなく、悪役の一条殿だ。モデルにふさわしい人物を捜してみたところ、意外にぴったりな武将が見つかった。毛利輝元。関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった長州藩の藩祖だ。彼は30歳代の頃、家臣の妻を略奪したうえ、家臣を殺害したとの話が伝わる。ただ、この場合、物語の成立は恐らくは江戸時代初め頃、供養塔と結び付いたのはさらにそれ以降ということになる。1709年完成の『続風土記』に「今の市井の人の口碑に残り」と書かれていることを考えると、少し無理があるかもしれない。
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郡役所の礎石が出土していた

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 福岡市中央区の赤坂門バス停横の駐車場跡地で2014年暮れから翌年4月にかけて、発掘調査が行われていた。調査地を囲っていたフェンスに「福岡城下町の発掘調査」を行っているとの貼り紙が出されていたが、いったい何の遺構が出たのかはさっぱりわからなかった。そこで古地図などを調べたところ、藩政時代後期、郡役所が設置された場所らしいと判明し、このブログで取り上げたことがある(「福岡城下町の発掘調査」「やっぱり郡役所跡の発掘?」)。私にしては珍しく正解だったようで、先頃刊行された発掘調査の報告書には「福岡藩郡役所が移設された場所であったことから」記録保存のための調査を行ったと記され、郡役所の礎石等が出土したと明らかにされていた。

 郡役所は、福岡藩が農村統制のために設置した行政機関で、火災で焼失した藩中老・斎藤家の屋敷跡に1818年(文政元年)に建てられた。これ以前まで、福岡藩では5人の郡奉行が農村を直接支配していたが、厳しい年貢収奪により農村は荒廃が進んでいた。立て直しのための農政改革の一環として、新設した郡役所に農政を一元的に担わせたのだ(『福岡県史』)。しかし、この郡役所は狙い通りに機能したのだろうか。藩政時代も後期になって機構改革を行った程度で、疲弊しきった農村を復興できたとは正直なところ、思えないのだが。

 発掘調査報告書によると、礎石は調査地の一角から約2㍍間隔で見つかり、古文書の中にある『福岡藩奉行所配置図」と比較したところ、「建物の位置図のラインにほぼ一致したので、郡役所(奉行所)の建物礎石と判断した」とあった。福岡藩の公的建物は、柱の間が京間の6尺5寸(1.97㍍)を基準にしており、郡役所も京間基準で作られたものと思われるという。

 建物の構造は、中庭を囲んで「遠賀・鞍手」「両糟屋・宗像」「早良・志摩・怡土」「那珂・席田・夜須・御笠」「上座・下座・嘉麻・穂波」の各御役所が配置され、廊下で結ばれていた。現在の役所に例えれば、担当課ごとに部屋が分かれているような形だ。出土した礎石は、「那珂・席田・夜須・御笠」「上座・下座・嘉麻・穂波」御役所辺りの建物、廊下と調査報告書では推定している。古記録と発掘調査結果を照らし合わせれば、こんなことまでわかるのかと感心する。遺物は、陶磁器片など中型コンテナ400箱分以上にも上り、この中には「郡屋敷跡らしく硯片が多く出土」したという。

 郡役所跡の発掘調査はJR九州によるマンション建設に先立って行われたもので、調査地には先頃、高級感あふれるタワーマンションが完成した。写真は、1枚目が2015年1月、2枚目が同3月に撮影した。
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康永三年銘梵字板碑、または濡衣塚

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 福岡市博多区の石堂川河畔に、「康永三年銘梵字板碑」という県指定文化財がある。一般的には「濡衣塚」の名で呼ばれており、濡れ衣という言葉の発祥地などと紹介されることもある。しかし、濡れ衣の由来とされる説話が聖武天皇の時代(在位は724~749年)のものとして伝わっているのに対し、板碑が建てられたのは、銘に従えば、南北朝時代の1344年(康永は北朝の元号)。板碑は建立後、時代を約600年も遡って奈良時代の話と結び付いたことになる。

 濡衣塚の説話は、貝原益軒が1709年(宝永6)に完成させた福岡藩の地誌『筑前国続風土記』にも紹介されている。聖武天皇の時代、佐野近世なる者が筑前守として赴任してきたが、妻が病死し、後妻を迎えた。この後妻が、前妻が残した美しい娘をねたみ、漁師を買収して「娘さんが釣り衣を盗んでいって困る」と佐野に告げ口させた。佐野が娘の部屋に行くと、娘が濡れた釣り衣をかぶって寝ていた。後妻が掛けたものだが、まんまとだまされた佐野は激怒し、即座に娘を殺した。翌年、死んだ娘が佐野の夢枕に立ち、「濡衣の袖よりつたふ涙こそ無き名を流すためしなりけれ」などの歌を詠んだ。佐野はここで初めて、後妻の陰謀だったことに気付き、後妻を離縁した後、自分は出家遁世したーーというのがあらすじだ。

 博多区千代3にある松源寺の住職だった佐々木慈寛が著した『濡衣塚の伝説と古跡』(1973)によると、この説話が初めて文献に登場するのは1641年(寛永18)の『雑和集』で、益軒はそれを引用したらしい。江戸時代に文献初出ではあまりに新しすぎ、この説話が濡れ衣の語源になったというより、濡れ衣の言葉が出来た後に創作された話ではないかと疑わしくなる。もちろん、成立自体はもっと古かった可能性はあり、佐々木慈寛の見立ては、平安時代に『落窪物語』など継子いじめの物語が生まれた中で、この一つが筑前に伝わったというものだ。ただ、後述するが、その慈寛にしてもこの説話が濡れ衣の語源という説には懐疑的だ。

 一方、梵字板碑は主に南北朝期に盛んに建てられた供養塔の一種。表面にはサンスクリット語の文字(梵字)が刻まれており、この一字一字が仏を表している。問題の板碑は高さ165㌢、幅145㌢の玄武岩製で、刻まれているのは大日如来、宝幢(ほうとう)如来、天鼓雷音(てんくらいおん)如来を意味する3文字。福岡市教委発行の『福岡市の板碑』(2002)によると、これを含め市内では375基の板碑が確認されているという。この板碑がなぜ、濡れ衣説話と結び付いたのかについては、残念ながら、疑問を解消してくれる資料が見つからなかった。

  『濡衣塚の伝説と古跡』によると、明治30年(1897)には濡衣塚堂、大師堂、通夜堂が建てられ、戦前までは毎年8月16日には夏祭りが盛大に営まれていた。戦時中の昭和20年(1945)6月4日、強制疎開によって建造物は撤去されたが、毎年の祭典は松源寺によって続けられていたという。佐々木慈寛が住職を務めていた松源寺は山号を「濡衣山」といい、寺の発祥について「もとは濡衣塚の堂守をしていたものらしく」と慈寛は記している。

 佐々木慈寛については、彼の著書『博多年中行事』(1935)をこのブログで何度か取り上げたが、まさか濡衣塚を守ってきた当の本人とは知らなかった。その慈寛が濡れ衣の語源として「妥当」と評価したのは、大正時代に刊行された辞典『海録』に書かれていた解釈で、「人ノ科ヲ負フハ、蓑ナクシテ雨ニ衣ノ濡ルルヲ、実ノナキニカケテ、無実ナル意ノ謎語ナリト云」というもの。「実の無し―蓑なし―濡れる―濡衣」という言葉遊びから濡れ衣という言葉は生まれたというわけだ。その根拠について、慈寛は「由来日本人は言語の遊戯が好きな国民で」としか記していないが、ひょっとしたら、福岡に伝わる濡れ衣説話の成立は意外に新しいという感触でも持っていたのだろうか。何にせよ、濡衣塚の当事者が、その語源説に否定的なのは面白い。

 それにしても、継子いじめの物語に出てくる父親はおおむね無能な人間だが、佐野近世の愚かさは特筆ものだ。こんな輩が本当に筑前守だったら、領民はたまったものではなかっただろう。
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廃棄された完全形の鏡

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 福岡市博多区井相田の仲島遺跡から、銅鏡が完全な形で出土し、現在、同市早良区の市博物館で展示されている。中国・後漢で1世紀末から2世紀前半頃に作られたとみられる内行花文鏡(ないこうかもんきょう)で、直径はやや小ぶりの11㌢。子孫繁栄を意味する「長宜子孫」の文字が刻まれている。福岡市内で割れていない鏡が出土するのは極めて珍しいらしいが、有力者の墓に副葬されていたわけではなく、不思議なことに弥生時代後期後半(2~3世紀)の土器片と一緒に廃棄されたも同然の状態で埋まっていたという。

 博物館で、ガラスケースの中に展示された現物を見てきた(写真上)。単に割れていないというだけではなかった。錆一つないうえ、鏡面はツルツルに近く、同博物館に展示されている他の数々の銅鏡(写真下)と比べれば、状態の良さは歴然だった。仲島遺跡は、博多区井相田と大野城市の旧・仲島地区(現在の地名は仲畑)にまたがる弥生時代から奈良時代にかけての集落遺跡だが、館内の説明パネルによると、鏡が見つかったのは集落の外れの窪地、または川に面した場所。鏡のすぐ上の地中には焼けて炭化した板の痕跡があり、更にその上に土器片が埋まっていたという。「何らかの祭祀行為の累積」というのが発掘担当者の見立てだ。

 しかし、いくら祭祀だとは言え、破片でさえ所有者の権威の象徴だったとされる貴重な鏡を、完全無欠の状態のまま惜しげもなく埋めてしまうものだろうか。青銅器等の埋納について、専門家の見解は往々にして「祭祀」や「呪い」だが、素人考えながら、今回の事例ではもっと俗っぽい事情を想像した。鏡は盗まれ、地中深くに隠されたのではないか、と。欲に駆られての犯行というより、狙いは所有者、恐らくは集落の有力者の権威を貶めるため。もちろん、何一つ根拠はないが、クニ同士の戦乱が続いたとされる北部九州の弥生時代、内部の権力闘争も激しかったのではないかと思ったのだ。

 仲島遺跡の大野城市側からは1981年、中国・新時代(1世紀)の貨幣「貨布」が出土している。同時に出土した土器(須恵器)片から、古墳時代の6世紀後半に埋まったものと推定されるが、大野城市教委は製造から間もない弥生時代にこの地にもたらされたとみている。同遺跡の弥生時代の遺構からはこのほか、中国鏡の破片なども出土しており、同市教委によると「弥生時代の仲島遺跡の集団は青銅器を保有することのできた有力集団」「奴国連合を支えた有力地域」と考えられるという。

 なお、仲島遺跡に隣接して博多区側には井相田C遺跡という集落遺跡があるが、お役所の都合で名前は別々だが、実際は一つながりの遺跡だという。同一の遺跡ならば、一つの名前でくくった方が全体像が理解しやすいのではないだろうか。


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「郷土の英雄」磐井

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 筑紫君磐井の墓と推定される八女市の岩戸山古墳横に2年前、岩戸山歴史文化交流館が開館した。岩戸山歴史資料館の老朽化に伴い、八女市が8億7000万円を投じて建設した新資料館。旧資料館は入館料130円と格安ながら、同市の鶴見山古墳出土の武装石人など数々の国重要文化財が展示され、以前このブログの中で、「“羊頭狗肉”ならぬ“羊頭松阪肉”のような驚きのある資料館だった」と紹介したことがある(「岩戸山古墳の新資料館」)。新資料館建設には巨費を費やしたのだから、当然、入館料は値上げされるだろうと予想していたのだが、12月3日、初めて交流館に行き、驚いた。無料だったのだ。例えが悪いかもかもしれないが、大きなエビ天で人気になった蕎麦屋が店を建て替えると、概ねエビは小さくなるものだが、逆にエビが2匹に増えたような感じだった。

 交流館は、岩戸山古墳をはさんで旧資料館の反対側にあり、館内から岩戸山古墳に通じる順路も整備されている。施設は鉄骨平屋2,000平方㍍、このうち常設展示室は840平方㍍の広さで、旧資料館の2倍。旧資料館と同じく、武装石人をはじめとする石人石馬(この多くが国重文)が展示の中心だが、説明パネル等は以前よりも充実し、磐井について、ヤマト王権に背いた逆賊ではなく、「郷土の英雄」という視点からスポットを当てている。2年前の博多祇園山笠では、新天町の飾り山の主役に磐井が選ばれたことさえあり、磐井を英雄視する考え方は、少なくとも地元・福岡では、もはや異端ではない。

 岩戸山古墳からの帰路、寄り道して久留米市の紅葉の名所、柳坂曽根のハゼ並木を歩いてきた。幕末、久留米藩がロウソクを特産にするため、ハゼの植林を奨励したのが始まりで、約1・1㌔の道沿いに200本が植えられ、ロウソク作りが廃れた今も住民たちによって大切にされている。残念ながら見頃は過ぎ、大半の木は落葉して黒い実ばかりが目立っていたが、一部の木はまだ真っ赤な葉が陽光に輝いていた。

 このハゼ並木から徒歩数分の場所には、実はここに勝るとも劣らぬ紅葉の名所がある。並木の東側に福岡県農林業総合試験場の出先があるのだが、この敷地内の東端にスギに似た木の並木があり、この木々の葉が秋には見事なオレンジ色に変わるのだ。試験場のウェブサイトを見ても樹種についての説明はないが、葉の形から判断して恐らくメタセコイアだろうと思う。ハゼ並木とは試験場を挟んだ別の道沿いにあるため、2種の木の紅葉を同時に見られないのが惜しい。
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江田船山古墳の石棺保存施設

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 先日、熊本県和水町のトンカラリンに行ったついでに、すぐ近くにある国史跡、江田船山古墳を見学してきた。75文字の漢字が刻まれた「銀象嵌銘太刀」など92点もの国宝が出土した5世紀後半頃の前方後円墳で、歴史的価値はトンカラリンの比ではない。本来ならば、「ついでに」見学するような史跡ではない。付近には塚坊主、虚空蔵塚という二つの古墳もあり、一帯は史跡公園としてきれいに整備され、桜並木もあった。見学した日は雨の平日だったこともあって、散策しているのは私たち以外にいなかったが、好天の週末、中でも桜の季節には多くの人でにぎわっていることだろう。

 古墳の墳丘上には鉄製の扉があり、「史跡江田船山古墳 石棺保存施設入口」と記されていた。恐らく事前予約しなければ、入れないのだろうと思ったが、ドアに記された注意書きを読んでみると、自由に見学できるようでもある。試しにドアレバーを引いてみると、難なく扉が開き、照明のスイッチを入れると、ガラス窓の向こうに大きな石棺が見えた。あいにく窓ガラスは石棺側が水滴で曇っていたが、驚いたことにワイパーまで付いており、お陰でガラス越しながら結構鮮明な写真を撮ることができた。組合式家型石棺というタイプのものらしい。それにしても石棺保存施設といい、史跡公園整備といい、江田船山古墳は本当に大事にされている。教科書に出てくる程の貴重な存在なのだから、当然かもしれないが。

 自由に石棺が見学できる古墳と言えば、地元・福岡市にも西区周船寺の
丸隈山古墳があり、こちらは鉄柵越しに横穴石室や内部に置かれた石棺を見ることができる。そう言えば、江田船山古墳と丸隈山古墳は石棺(石室)発見の経緯も共通している。一人の男が夢のお告げで掘り当てたのだ。発掘の時期は、丸隈山古墳が江戸時代の1629年、江田船山古墳が1873年(明治6)。前述のように江田船山古墳から多くの副葬品が出土し、国宝の数々は国立博物館が所蔵している。

 江田船山古墳からほかに、石人(石製表飾)も出土し、史跡公園にはその巨大なレプリカが据えられ、笑顔で見学者を出迎えていた。
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トンカラリン再訪

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 熊本県和水町(旧・菊水町)に残る謎の遺構「トンカラリン」の資料を探していたところ、『熊本県大百科事典』(熊本日日新聞社、1982)のトンカラリンの項目に興味深い記述があった。排水路と考えられた時代の出版物であり、最初から「玉名郡菊水町瀬川字北原、長力にある水路遺構」と紹介されているのだが、これだけでなく以下の突っ込んだ記述があるのだ。

 「明治一六年(一八八三)生まれの古老の証言などで、施工者は地主だった斉木次三郎、石工は民田久八・牛馬親子、造成時期は明治二八年ごろで、宅地や耕地を水害から守るために造られた水路とわかった」

 3日更新の
「トンカラリンを再訪したい」でも書いたが、トンカラリンとは1974年に存在が公になった全長440㍍あまりのトンネル状遺構で、石組みのトンネルをはじめ、地割れでできた溝(地隙)、その溝に石蓋をかぶせた箇所などからなる。調査を行った熊本県教委は78年、いったんは「排水路」とする報告書をまとめたものの、その後、農業土木の専門家による再調査で排水路説は覆された。しかし、排水路説が定着していた時代、施工者の個人名や築造時期まで具体的に明示されていたとは意外だった。

 『熊本県大百科事典』で、トンカラリンの項目を執筆したのは地元・和水町の郷土史家。これだけ個別具体的な証言でありながら、排水路説が否定された今となっては誰一人気にかける様子はない。もちろん、長大なトンカラリンの全てを石工親子が築造したとは到底思えず、証言が全て真実だとは思えないが…。あれこれ考えても仕方がないので、取りあえず現地を見ておこうと思い、8日午後、急きょ思い立って20数年ぶりにトンカラリンに行ってきた。あいにくの悪天候で、地面はぬかるみ、しかも大半の場所が「危険」との理由で立ち入り禁止になっていたのは想定外だったが。昨年4月の熊本地震でトンカラリンは被災しなかったと聞いたが、和水町でも震度6弱の揺れが観測されており、トンネルの強度については不安が生じたのだろう。

 現地には、以前はなかった大きなパネルが設置され、排水路説が否定された経緯が詳しく説明されていた。図らずも悪天候の日に見学したため、排水路説が怪しいことは実際に遺構を見て納得がいった。地隙そのままの場所には所々水たまりができていたが、水が流れていく様子はまったくなかったのだ。ただ、耕作地の真下に当たる最上部の箇所には、斜面の下に石組みトンネルの小さな開口部があり、排水路の集水口にしか見えなかった(一番下の写真)。ここに限っては、水が流れていないことが逆に不思議だった。古老の証言が記憶違い、勘違いでないのならば、トンカラリンの遺構に手を加え、本当に排水路にしようという試みでもあったのではないかと想像を巡らした。

 排水路説が否定された現在、信仰遺跡だったのではないかという説が有力視され、トンネルをくぐる行為が「再生儀礼」を意味していると唱える研究者もいる。寺院などで行われている「胎内くぐり」の大掛かりなものという見立てだろう。胎内くぐりは経験したことがないため何とも言えないが、石組みトンネルや地隙に蓋をかせぶた箇所の見た目は、レジャー施設にある冒険コーナーによく似ていると思った。ここを自由にくぐることができれば、子供たちはきっと大喜びするだろう。帰路、住宅街の坂道を下りながら、トンカラリンの本質は、案外そんなところにあるのではないかとバカげたことを思った。
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トンカラリンを再訪したい

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 ずいぶん昔のことだが、熊本県和水町(当時は菊水町)にある謎の遺構トンカラリンを何かのついでに見学したことがある。当時は遺跡や遺構などにそれほど関心がなく、また、トンカラリンはこの頃、近世に造られた排水路跡だと考えられていたこともあり、ごく短時間、遺構の一部を眺めただけで、さっさと次の目的地に向かった。自宅からトンカラリンまでは九州自動車道を使えば、2時間あまり。さほど遠いわけではないが、その後は意外に再訪の機会がなく、あの時もう少し真面目に見学し、写真も撮影しておくべきだったと後悔している。(上の写真はウェブ素材集収録の資料写真)

 トンカラリンとは、全長440㍍あまりの巨大なトンネル状遺構。ただ、構造は一様ではなく、石組みのトンネルもあれば、地割れで出来た溝に石蓋をかぶせた箇所、溝のままの箇所もある。これだけの遺構の存在が公になったのは1974年のことで、この遺構がいったい何なのか、地元には文書記録はおろか、言い伝えさえ残されていなかった。唯一、伝わってきたのはトンカラリンという奇妙な名前だけだ。

 熊本県教委は1975年から77年にかけて緊急調査を行い、その結果は『菊池川流域文化財調査報告書』(1978)にまとめられているが、この中で、県文化財保護審議会委員の一人が近世の「谷の集・排水路」説を提唱し、これがいったんは県教委の公式見解ともなった。しかし、90年代に入って熊本県庁職員の一人が専門の農業土木の観点から個人的に調査を行ったところ、排水路と言いながら遺構の一部には水が流れた痕跡のないことなどが判明。排水路説は否定され、トンカラリンは再び謎の遺構に戻った、という経緯がある。

 ただ、前述の『菊池川流域文化財調査報告書』を読む限り、熊本県教委の調査担当者は排水路説に賛成していたわけでは全くない。当時有力だった信仰遺跡、排水路の2説について、調査結果をもとに今後、活発な議論が行われることを期待すると記しており、性急に結論を出す考えはなかったようだ。にもかかわらず、県文化財保護審議会委員の排水路説ばかりがクローズアップされたことは、「トンカラリンは、多くの歴史ファンに限りない夢と、歴史パズルの醍醐味を与えてくれた。そこにトンカラリン問題の本質があり」と評価していた調査担当者にとっては、むしろ残念な事態だったかもしれない。

 トンカラリンが公式確認された直後、謎の巨大遺構として考古学ファンの関心をかき立て、大ブームを呼んだが、排水路説が定着すると、このブームも一気に沈静化したと聞く。江戸時代の水路では大方の人にとっては面白みのない代物だったのだろう。排水路説が否定され、信仰遺跡説が有力となって以降、トンカラリンの人気は再燃しているという。私もようやく、この遺構について人並みに興味を持ち始め、築造者は何者なのだろうか、文献資料や言い伝えが全く残されていないことを考えれば、古代に築造されたものだろうか、などとあれこれ考えている。取りあえず現地を再訪し、今度はきちんと遺構を見たうえで、もう一度トンカラリンについて取り上げたいと思う。
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続・五郎山古墳の壁画

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 装飾古墳として有名な筑紫野市原田の五郎山古墳で21日、石室の一般公開が予定されている。せっかくの機会と思ったのだが、当日は残念ながら仕事だった。普段ならば一般公開の日以外でも5日前に予約すれば、見学可能で、別に落胆する程でもないのだが、今年は一般公開直後の11月1日から石室の保存改修工事が始まり、来年3月31日までは見学不可となる。改修工事完成後の一般公開を待つしかない。

 5年前に書いた「五郎山古墳の壁画」の中で紹介しているが、古墳の麓には2001年開館の五郎山古墳館があり、館内には石室の実物大模型が展示されている。この古墳が名高いのは、玄室奥壁に赤、黒、緑の3色を使い、人物や動物などが伸びやかなタッチで描かれていることで、石室模型には躍動感あふれる壁画も再現されている。残念ながら実物は劣化が激しい。石室の保存改修工事を知らせる筑紫野市公式サイトのページに、撮影年不明ながら、その写真が掲載されている(写真1枚目)が、古墳館のレプリカ(写真2枚目)と比べると、やはり全体的に色あせ、輪郭もぼやけてしまっており、辛うじて命脈を保っているという状態だ。

 この古墳は1947年に発見され、早くもその2年後には国史跡に指定されたのだが、保存管理は発見者であり、土地所有者でもあった男性に委ねられ、国からは捨て置かれたも同然だったことが『装飾古墳紀行』(玉利勲、新潮社、1984)に書かれている。石室入り口には鍵がかけられ、土地所有者の許可なしに立ち入りはできなかったのだが、現実には鍵を壊して不法侵入する者が相次ぎ、彼らが明かり代わりに使ったロウソクの煤で一部の壁画は真っ黒に汚れ、白カビの増殖も激しかったという。このため1978年、石室はいったんは完全に閉じられ、非公開となった。ガラス窓越しに壁画を見ることができる観察室が完成し、23年ぶりに公開されたのは、古墳館の開館と同じ2001年のことだ。

 この壁画は何を意味しているのか。「五郎山古墳の壁画」の中で、壁画発見直後に調査した研究者が「知っている文様を適当に描いたのだろう」と述べたことを、「それではまるで落書きである」と批判的に取り上げたことがある。この研究者とは著名な考古学者で、五郎山古墳を世に広めた人物でもある京都大の小林行雄氏(1911~1989)だ。この機会に、『筑紫野市史』資料編(2001)に収録されている「五郎山古墳の装飾壁画」(筆者は小田富士雄・福大名誉教授)を読んだところ、意外にも小林氏の見方は主流だったらしく、「全体としては一連の物語りを表現するものではない、自由な生活描写的な画題と見る考え方が以後大勢的となっている」と記されていた。

 もちろん、他にも多様な説があり、「被葬者の生涯の中でも印象的な場面をいろいろ描き込んでいる」「被葬者の一代記というべき性格」という見方に、個人的には最も魅力を感じた。被葬者が生前、朝鮮半島に出兵し、勇敢に戦った一こまを描いたものではないか考える説もあるという。小田名誉教授は、こういった考え方に対し「古墳壁画の本質は死者の鎮魂儀礼にあることに思いいたすとき、このような史実のみで壁画を律してしまうのは、政治史的立場を重視するあまりの短絡的評価ではないかという指摘も不当ではない」と批判的だが、壁画に史実が込められているのならば、やがては被葬者を特定することも可能ではないかと夢が広がる。
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多聞櫓は学生寮だった

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 福岡城南丸多聞櫓の保存修復工事が行われている。多聞櫓は、築城当時の位置に現存する唯一の櫓で、1971年には国重要文化財にも指定されている貴重な建物なのだが、今回の工事の理由を知って驚いた。福岡県西方沖地震や経年劣化により、建物のあちこちに傷みが目立ってきたからだというのだ。経年劣化の方はわからないでもないが、福岡県西方沖地震とは2005年3月、つまり12年も前に起きた地震だ。12年もほったらかしだったのだろうか。それはともかく、この機会に多聞櫓の歴史を調べ、もっと驚くことがあった。戦後の一時期、この櫓は学生寮になっていたのだ。

 多聞櫓は2階建ての隅櫓と長さ約54㍍(30間)の平櫓からなる。平櫓の内部は普通、突き抜けの構造になっているらしいが、福岡城の多聞櫓は長屋のように16の小部屋に分かれており、この特徴的な構造のためか、戦前は城内に駐屯していた陸軍歩兵24連隊が兵舎として利用していた。それだけでなく、戦後、西日本短大の前身が城内に開設されると、多聞櫓は学生寮に衣替えされたのだ。学生寮となった城など稀有な存在ではないだろうか。

 藩政時代は主に倉庫として使われていた建物だったのだから、そのままでは居住に適しているはずがなく、学生寮時代は内外装とも大きく改変されていた。室内には押入れが新設されたほか、窓や出入口は模様替えされ、天井にはベニヤ板が張り付けられていたという。1970年に西日本短大が移転していき、翌71年には多聞櫓の本来の持ち主だった国から福岡市が買い取ったのだが、この時には屋根瓦が落ち、雨漏りも激しく、崩壊寸前の状態だったという。辛うじて骨組みは良好な状態だったため、重文指定を受けることは出来た。福岡市は72年から約3年の月日と約1億円の予算を費やして、建物をいったん解体した後、旧来の姿に復元する工事を行っている。

 多聞櫓の解体復元は、この時代に市が進めていた福岡城址の史跡公園化の第一弾で、西日本短大に続き、74年にはその北側にあった予備校・九州英数学舘、75年からは2年がかりで御鷹屋敷一帯にあった福岡大平和台キャンパスの移転も実現させ、跡地は現在、緑地や牡丹芍薬園などとなっている。

 福岡大の一部キャンパスが御鷹屋敷跡にあったのは以前から知っていたが、西日本短大や九州英数学舘まであったことは全くの初耳だった。また、先頃まで市立舞鶴中学校だった場所には1960年まで、市立博多工業高校があった。明治通りから護国神社へ抜ける狭い道の両側には戦後の一時期、高校、予備校、短大、大学がひしめき合っていたことになる。ひょっとしたら博多工業高校卒業後に英数学舘で浪人生活を送り、福岡大学へ進学、青春時代を過ごしたのはずっと城内だった、などという人もいたのだろうか。

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 御鷹屋敷の下にある藤棚。以前は福岡大の体育館があったらしい。

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 九州英数学舘があったのはこの辺りだと思われる。

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 舞鶴中学校の跡地。旧校舎は福岡城、鴻臚館のガイダンス施設として、校庭は駐車場として活用されている。
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