博多のど真ん中にあった前方後円墳

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 6年前、「遊び場だった那珂八幡古墳」という駄文を書いた。小学生時代に遊んでいた神社が、実は前方後円墳だったことを中高年になって知ったという話なのだが、古墳とわかった経緯などをきちんと確認していなかったため、読み返してみると、相当いい加減な内容だった。そこで先日、記事の後半部分をほぼ全面的に書き直したのだが、その作業の中で、博多1号墳という別の前方後円墳の存在に興味を覚えた。この古墳があったのは福岡市博多区御供所町1-1。博多のど真ん中なのだ。

 古墳があった場所をもっと詳しく書くと、地下鉄祇園駅4番出口から地上に出た辺りで、現在は大博通りに面して12階建ての西鉄祇園ビルが建っている。当然ながら、古墳自体は跡形もない。西鉄祇園ビルの建設に先立ち、1985年5~8月に行われた発掘調査で古墳は見つかったのだが、当時から墳丘は現存していなかった。では、なぜ古墳とわかったかと言えば、基底部の葺石が断続的に見つかり、これをつなぎ合わせると、前方後円墳の姿が浮かび上がったという。博多1号墳と言いながら、別に2号墳や3号墳が近隣にあったわけではないようだ。

 古墳の規模や築造時期について、この調査の発掘報告書『博多Ⅶ―博多遺跡群第28次発掘調査報告』では全長56㍍以上、後円部の直径38~41㍍、出土した埴輪から4世紀末から5世紀初頭にかけての築造と推定している。しかし、1989年に出された老司古墳の報告書には「博多1号墳は全長約65~70㍍に推定され、出土埴輪から5世紀前半に位置付けられる」、1997年の博多遺跡群の報告書には「5世紀後半に築かれたとされる博多1号墳(前方後円墳、推定墳丘長60㍍)」と数字はバラバラで、築造時期に関しては100年も開きがある。出土した埴輪は全て破片だったというから、時期特定が難しいのだろうか。

 この古墳周辺からは1~2世紀後のものと思われる石室墓7基の遺構が同時に確認されたが、面白いのは古墳の石材を再利用して石室墓が築かれたと推定されていることだ。だとしたら、博多1号墳は築造から100~200年後には早くも破壊されていたことになる。御先祖様の墓を暴いて自分たちの墓を造ったとも思われないので、石室墓に埋葬されたのは別の集団なのだろうかと想像が広がる。

 博多1号墳は古代、福岡平野を治めた集団の首長墓とみられる七つの前方後円墳のうちの一つ。七つの古墳はすべて那珂川流域の直線距離にして約10㌔の範囲に集中しており、博多1号墳はその最も北に位置している。今ではアスファルトで固められたビル街だが、本来は砂丘だった場所だという。埋め立て地などを除き、どんな土地にも等しく古墳時代はあったのだから、博多のど真ん中に古墳の遺構があっても不思議はないのだろうが、砂丘上に築造された前方後円墳は珍しいらしい。


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王塚古墳特別公開

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 福岡県桂川町の国特別史跡、王塚古墳で15日から始まった装飾壁画の特別公開に行ってきた。二つの石室(前室と玄室)の壁全体に様々な文様や騎馬の姿が5色で描かれ、「日本を代表する超一級の装飾古墳」と評価されている。上の写真はパンフレットに掲載されていた往時の姿だが、現実には壁画の劣化は激しいとも聞いていた。期待半分、不安半分で観察室のガラス窓から石室をのぞいたが、やはり情報通り全体的に色あせ、文様はほとんど判別できない状態だった。唯一、見分けることができたのは前室後壁の左側に描かれた黒い騎馬だけ。それでも名高い王塚古墳の壁画を初めて目にすることができ、満足はした。

 王塚古墳は6世紀中ごろに造られたとみられる前方後円墳で、復元された墳丘は全長86㍍、後円部の直径が56㍍。1934年(昭和9)、石炭採掘で陥没した田畑を復旧するために土を取っていたところ、偶然石室が見つかったと伝えられている。福岡県が1939年に発行した『福岡県史蹟名勝天然紀念物調査報告書・筑前王塚古墳』にその時の模様が記されているが、土砂採取業者は思わぬ石室の発見に工事をいったん中止し、再度石室をふさいで引き上げた。ところが、その夜のうちに地主が石扉を引き倒して石室内に侵入、副葬品を持ち出したという。調査報告書にはわざわざ地主の実名が敬称抜きで記されており、執筆者の怒りが読み取れる。

 1952年には国特別史跡に指定されたが、壁画や石室の劣化は徐々に進み、67年には石室崩壊防止のため鉄の支柱で補強する工事が行われる一方、いったんは見学厳禁となった。この時すでに壁画は“瀕死の状態”だったという。1993年に保存工事が完成し、これ以降、石室は外気とは遮断され、春秋の年2回、計4日間の特別公開時に観察室からの見学が許されるだけになった。観察室に入るにも分厚い金属製のドア二つを通り抜ける必要がある。

 特別公開とは文字通りの特別な機会で、私が現地に着いた時はすでに300人以上の考古学ファンが集まり、見学は1時間以上待ちの状況だった。時間をつぶすため、隣接地にある展示館「王塚装飾古墳館」(入館料は大人320円)に行き、原寸大の石室レプリカを見学してきた。発見当時の色鮮やかな壁画がここには再現されており、見学の機会が限られる王塚古墳に代わって、普段から人気を集めているという。(石室レプリカは下の写真参照。ここも写真撮影は禁止のため、パンフレットから複写した)

 冒頭で書いたように、本物の王塚古墳の壁画はもはや色鮮やかとは到底言えない状況だが、この古墳を紹介する記事では未だに「彩色豊かな壁画」などのフレーズを目にすることが多い。中には石室に入り、壁画を直に見たかのような記事さえ読んだことがある。これらの記事を書いた人たちがいったい何を見たのかは不明だが、現実には壁画は集中治療室の中で辛うじて命脈を保っているような状態だ。「装飾古墳の発見は劣化の始まり」とは観察室内で解説してくれた男性の弁だ。




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縄文の二重環濠跡は今…

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 福岡市博多区那珂のJR鹿児島線沿いの土地で1993年、縄文時代晩期(紀元前4世紀頃)の二重環濠跡の一部が確認され、「縄文の環濠集落発見」と新聞等で大騒ぎになったことがある。それまで環濠集落の出現は弥生時代はじめ(紀元前3世紀)と思われていたため、この遺跡の発見は「教科書の記述を書き換える」ものだった。以前、那珂八幡古墳の写真撮影に行った際、近隣にあるこの遺跡もついでに見に行ったが、それらしきものが見つからなかった。改めて調べたところ、遺跡がある場所には現在、青果会社の大きな倉庫が建っていることがわかった。再度、現地に行ってみたが、遺跡の存在を示すのは、道路沿いの壁に取り付けてあったタイル製の説明パネルだけだった。

 この遺跡が見つかったきっかけは、青果会社の倉庫建設で、だから遺跡の上に倉庫があるのは当然のことではある。「教科書を書き換える」程の遺跡が確認され、青果会社と市教委との間で保存についての話し合いは持たれたのだが、すでに倉庫の建設契約が結ばれており、建設計画破棄は困難だったという。このため二重環濠の遺構を極力壊さないよう、盛り土を高くし、建設場所を少しずらすなどの次善の策が取られ、市の史跡にも指定されている。発見時の大騒ぎを思えば、遺跡の現状は物足りないが、大半の遺跡は発掘調査後には取り壊されているとも聞くだけに、どんな形であれ残ったことが重要なのだろう。

 最近、北九州市でも城野遺跡(小倉南区)で2009年に見つかった方形周溝墓の保存が決まり、ニュースとなっていた。方形周溝墓とは文字通り、方形に溝を巡らした弥生時代の墓で、城野遺跡の周溝墓は弥生時代末期(3世紀)のものとみられている。23㍍×16㍍の規模は九州最大級とも言われるが、「九州最大級」などというアバウトな評価以上にこの遺構が貴重とされたのは、内部を水銀朱で真っ赤に塗られた幼児用の箱型石棺2基が見つかったためだ。城野遺跡からはほかに、勾玉の工房跡なども見つかり、保存を訴える地元市民団体も結成されていた。

 この城野遺跡とは城野医療刑務所の跡地(約1万6000平方㍍)で、即ち国有地。国の土地から貴重な遺構が確認されたのだから、即座に保存が決まっても不思議はないと思うのだが、ところが、話はその方向に進まなかった。国と北九州市との間で保存に関する協議は持たれたようだが、結果的に決裂。刑務所跡地は一般競争入札で売りに出され、大手住宅メーカーが落札した。落札価格は公表されていないが、最低価格は7億7200万円だったので、結構な金額が国庫に入ったのは間違いない。北九州市は石棺2基だけは埋蔵文化財センターに移築したものの、遺跡自体は取り壊しやむなしの考えだった。

 しかし、今年3月になって住宅メーカーが方形周溝墓の遺構一帯556平方㍍を市に無償譲渡することを決め、破壊を免れた。住宅メーカーの英断を評価する声が上がる一方、積極的に国有地購入に動かなかった北九州市は共産党市議らから悪者扱いされているようだが、本当に悪いのは市なのだろうか。

 国と北九州市との協議内容が詳しく公表されていないので、確かなことは言えないが、遺跡が見つかった国有地をあっさり民間企業に売却しているぐらいだから、国側はただ単に土地を高く売ることしか頭になかったのだろう。しかし、ゴミが埋まっているという理由で国有地を8億円も値引きした例があるのだ。この理屈で言えば、遺跡の保存経費分を大幅値引きして譲渡しても良かったぐらいで、恐らく8億円近い土地価格に二の足を踏んだ北九州市も価格次第では違った結論になったことだろう。後に大幅値引きが騒ぎになっても、このケースだったら国側は大威張りで「問題なし」と言えたに違いない。
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金隈遺跡展示館、2年間休館へ

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 福岡市博多区にある国史跡、金隈遺跡に久しぶりに行ってきた。紀元前2世紀から約400年にわたって営まれた弥生時代の共同墓地跡で、一帯は史跡公園として整備されている。メイン施設の甕棺展示館は発掘現場の一部が保存され、出土した甕棺や人骨までもがむき出しの状態で展示されているユニークな施設だ。狭いながらも見応え十分なのだが、交通の便が悪いこともあり6年間ご無沙汰だった。改修のため5月から、まるまる2年間も休館になると聞き、今のうちに再度「墓参り」しておこうと足を延ばしてきた。

 この遺跡は1968年春に発見された。緊急調査の結果、多数の甕棺墓や良好な保存状態の人骨などが見つかり、1972年には国史跡に指定されている。その後数次にわたる発掘調査で、土坑墓119基、甕棺墓348基、石棺墓2基が確認され、136体分の人骨が出土した。この人骨から推定される金隈人たちの平均身長は男性が162.7㌢、女性151.3㌢だったことを以前、
「長身だった金隈の弥生人」のタイトルで取り上げたことがある。現代人から見ると、かなり小柄に思えるが、日本人の平均身長がこの数字を上回るのは実は戦後のことなのだ。

 北部九州の弥生時代遺跡から見つかる人骨は、武器の破片が骨に突き刺さっていたり、首がなかったりなど戦乱の激しさを物語るような例が多いが、金隈遺跡についてはそういった報告はない。この集団墓地に葬られた人々のムラは例外的に平和だったのだろうか。

 ところで、遺跡発見の経緯についてはなぜか、市の発掘調査報告書の中でも混乱がある。1985年発行の『史跡金隈遺跡―発掘調査及び遺跡整備報告書』には「金隈遺跡の発見は昭和43年の春、桃畑を開墾している時であった」と書かれている。恐らくこれをもとに金隈遺跡のパンフレットにも「桃畑の開墾作業中に発見されました」と紹介されており、これが一般的に流布している。私も 「長身だった金隈の弥生人」では「果樹園整備の際に発見された遺跡」と書いた。

 しかし、1970年発行の『金隈遺跡第一次調査概報』には「福岡市比恵で鉄工所を営むN氏は、福岡市大字金隈字日焼に器材倉庫、宅地用の土地を買入れ、昭和43年4月、用地への道路取り付け工事を行なった。工事中甕棺墓と人骨が発見され」と全く異なる経緯が記されている(N氏は原本では実名)。遺跡発見直後に行われた緊急調査の記録であり、記述自体も非常に具体的な『第一次調査概報』の方が真実を伝えているのではないかと思うのだが。

 甕棺展示館は1985年3月の開館。開館から四半世紀以上が過ぎ、遺構や遺物の劣化が進んだことが今回の改修の理由で、金隈遺跡とともに、西区にある弥生~古墳時代の集落遺跡、
野方遺跡(ここも国史跡)の展示館も休館となる。遺構・遺物のクリーニングと保存処理が行われるほか、展示物や説明パネル等も刷新されるという。

 福岡市にはこの金隈、野方遺跡のほかにも、板付遺跡や鴻臚館など史跡公園化されたり、小規模ながらも展示館が併設されたりしている遺跡が少なくなく、しかもすべてが無料開放されている。さらに1週間後の4月15日には、発見時には「早良王墓」として大変な注目を浴びた吉武高木遺跡(西区)が「やよいの風公園」として、いよいよグランドオープンする。近いうちに見学に行き、面白い話でもあれば報告したい。
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御鷹屋敷は如水の隠居所?

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 福岡城三の丸の御鷹屋敷跡にある「牡丹芍薬園」が散策路の補修工事などのため今月末まで閉鎖中だ。この場所には藩政初期、黒田如水(官兵衛)の隠居所があったと伝えられ、「黒田如水公 御鷹屋敷跡」と刻まれた石碑も建っている(石碑の写真は昨年5月撮影)。だから勘違いしていた。隠居所の名前が御鷹屋敷だった、と。しかし、1979年に行われた発掘調査の報告書『筑前国福岡城三ノ丸御鷹屋敷』(1980)を最近たまたま読む機会があり、両者は別物らしいことに気付いた。隠居所と御鷹屋敷では存在した時代が異なるのだ。誰が建てたか知らないが、紛らわしい石碑だ。

  屋敷跡の来歴については、昨年5月
「御鷹屋敷跡のシャクヤク」の中で簡単に紹介したが、訂正も兼ねて再度取り上げさせていただきたい。

 この場所に隠居所が完成したのは1603年(慶長8)と伝えられている。だが、如水は翌1604年3月に京都伏見の藩邸で死去しているため、仮にこの隠居所で暮らしたにしても数か月間だっただろうと報告書は指摘している。一方、「御鷹屋鋪」(※この字が使われている)の文字が初めて出てくるのは1812年(文化9)の城絵図だ。如水の死から200年以上も後の話で、隠居所が御鷹屋敷という名前だったと考えるには無理がある。

 では、御鷹屋敷とは何だったのか。絵図に名前が見えるのみで、文献資料には記録がなく、謎の存在らしい。1979年に行われた発掘調査は、牡丹芍薬園の整備に先立ち約1か月間行われたものだが、隠居所等の遺構確認とともに、御鷹屋敷の謎解明も目的の一つだったという。調査担当者は、鷹狩り用の鷹の飼育小屋などの施設があったのではないかと推測していたようだが、範囲も時間も限られた調査だったため、建物の遺構等は確認できないまま終わっている。ただ、陶器片や瓦などが大量に出土し、この分析から、隠居所、御鷹屋敷とは別の第3の施設の存在が浮かび上がってきた。

 発掘調査の報告書本編は冒頭書いたように1980年に発行されているが、普通は巻末に掲載されている図録は、なぜか10年後の1990年に別冊子として発行されている。この図録編に、高取焼(福岡藩の御用窯)研究者の興味深い論考がある。

 大雑把に要約すると、出土した陶器片の多くは17世紀後半から18世紀中期にかけての茶の湯関係のもので、中でも壊れた茶入れが14点もあったことが特筆される。茶入れは普通、水洗いするものではなく、また大事に扱われる器だから、短期間にこれだけの数が破損するのは異常。ここに茶器の製作所があり、藩主のめがねにかなったものだけを高取焼の本拠・小石原で焼成させ、さらに焼き上がった品も選別したのではないかというのが研究者の考えだ。現代風に言えば、商品開発のための研究施設みたいなものだろうか。

 こうなると、現在の牡丹芍薬園の場所に存在した施設は時代順に、如水隠居所、高取焼関連の施設、御鷹屋敷と移り変わったことになる。仮に建物は再利用されたにしても、全く別の施設と考えるのが妥当だろう。冒頭、石碑を紛らわしいと書いたが、実は市が設置した説明板にも「隠居所=御鷹屋敷」とはっきり書かれている(下写真)。あまり目くじらを立てる程の話ではないかもしれないが、市自らが市民を勘違いさせるのはいかがなものだろうかと思う。


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的臣は浮羽にいたのか

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 「山苞の道は古墳ロード」の中で、的臣(いくはのおみ)という名前をチラッと出した。古墳時代後期としては九州最大の前方後円墳「田主丸大塚古墳」(国史跡、久留米市田主丸町)の被葬者が的臣の首長ではないかという説を取り上げ、のんきに「“的臣の墓”であるよりも“謎に包まれた古墳”である方が個人的には魅力を感じる」と書いたのだ。しかし、考えてみれば、的臣が何者だったのか恥ずかしながら知らない。どんな氏族だったのだろうか。

 まず、田主丸大塚古墳が的臣の墓だという説があるのは、的臣が田主丸を含めた古代の浮羽(生葉、以久波とも表記)を治めていたと思われるためだが、これを記録した文献が残っているわけではないという。氏族名と地名の読みが近い、または一致することからの推測のようだ。

 もともとは畿内豪族だったらしく、『国史大辞典』(吉川弘文館、1979)には「いくはうじ 的氏 古代の有力氏族。臣(おみ)を姓(かばね)とする。『古事記』は、建内宿禰の子葛城長江曾都毘古(そつひこ)の子孫とする。『新撰姓氏録』河内・和泉・山城条にもみえる」とあった。さらに、氏族名は地名に由来すると思われること、宮城十二門の中に「的門」があり、軍事を職掌とした氏族と考えられること、欽明天皇の時代に任那に駐留したとされるなど朝鮮半島との関係が深いことが列挙されていた。一方で、浮羽と関連づける記載は一切ない。

 この項目の執筆者は、古代史を専門とする歴史学者、直木孝次郎氏(大阪市立大名誉教授)だったので、同氏の『的氏に関する一考察』(1961)を論文検索システムの「CiNii」で探しだして読んでみた。内容的には『国史大辞典』の記述をさらに詳しくしたもので、大辞典の説明ではわかりにくかった宮城十二門のくだりについては、平城京の十二門は氏族の名前を冠しており、これらの氏族は宮城警護に当たっていた、すなわち軍事的氏族だったと考えられると説明されていた。

 氏族名の由来となった本拠地については、直木氏は筑紫八女県的邑、筑後国生葉郡をはじめ、山城、尾張、淡路の各地にある“イクハ”を挙げながらも、「これらの地名は、的臣と関係があるとはいえない」と一刀両断。代わって<1>文献資料に見られる的氏の分布地域は河内、山城、近江、播磨に限られ、中でも分布の中心は河内、山城<2>同族とされる氏族の大半が畿内か近国の地名を負っている――等の理由から畿内豪族だったとしたうえで、本拠地は軍事上の要地であり、水運の便に恵まれていた河内地方の大和川流域だったと提唱されている。ただし、肝心の“イクハ”地名はこの地では見つけることができず、附記には「イクハの地名が大和川流域の地に発見される望みは、将来に期さなければならぬ」と書かれていた。

 一方、地元・田主丸で旧町時代に編まれた『田主丸町誌―ムラとムラびと』(1996)は「豪族名と地名が一致すること、朝鮮半島にもたびたび出兵していること、初期の月の岡古墳がほかの古墳と違って、畿内的要素が強いことなどから、的臣がこの地方に定着したものと考えられる」と、的臣が畿内から浮羽に移り、在地豪族化したとの見方を提示している。豪族名と地名の一致以外は根拠が薄い気がするが、直木氏論文では、的臣は6世紀半ばから末にかけて朝鮮支配に関して栄えたと考えられるという。6世紀後半とされる田主丸大塚古墳の築造時期と一致する。町誌は大塚古墳の被葬者として言及しているわけではないが、巨大古墳の造営者として最盛期の的臣は不足のない存在だろう。

 ただ、的臣が少なくとも古墳時代後期には浮羽に定着していたとしたら、1世紀以上も後の平城京時代に宮城警護の任に当たることができたのか疑問が生まれる。また、氏族名と地名との関係にしても、領地にちなんでイクハを名乗ったのか、的氏の領地になったことで地名がイクハ(ウキハ)になったのか判然としない。町誌が唱える“的臣西遷説”は色々とモヤモヤした部分が残り、直木説のように的臣と浮羽とは最初から無関係と考えた方がスッキリする気はする。

 なお、田主丸町は2005年、合併によって現在は久留米市の一部となり、田主丸大塚古墳一帯は久留米市によって史跡公園として整備された。現地説明板には的臣はおろか、被葬者に関する記載は一切なかった。発掘調査報告書は複数出版されているようなので、機会があれば読んでみようと思う。
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山苞の道は古墳ロード

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 福岡県久留米市田主丸町の耳納連山北麓に「山苞(やまづと)の道」 と名付けられた農道がある。景観的には何の変哲もない田舎道なのだが、沿道には観光農園や焼酎工場、ワイナリー、ギャラリー、カフェなどが集まり、ちょっとした観光道路となっている。11月30日、この道をドライブしていて、なぜか耳納連山東端の鷹取山に入り込んでしまい、Uターンしようとした公園で古墳の横穴式石室が多数密集しているのに出くわした。

 せっかくだから車から降り、付近を散策してきた。現地にあった説明板によると、森部平原古墳群という群集墳で、6世紀後半ごろの築造と推定されるという。短い時間歩き回っただけで10基程の石室を確認できたが、実際には約70基があり、県の史跡にも指定されている。石室の中には天井が抜けているものもあったが、全体的に保存状態は良好で、内部の構造などが良くわかった。

 帰宅後に見た田主丸町の観光サイトによると、古墳群がある平原公園は桜の名所で、桜の花びらが古墳を覆う風景は春の風物詩だという。雰囲気は一見、ほぼ同時期に造られた福岡市早良区の西油山古墳群(
「野芥の塚穴」)によく似ている気がしたが、ほぼ捨て置かれたも同然の西油山に比べ、さすがに県史跡の平原ははるかに大事にされている様子だった。

 再び「山苞の道」に戻ると、今度は「田主丸大塚古墳」という大規模な古墳に行き当たった。周囲は史跡公園としてきれいに整備されている。これまた車を停め見学してきたが、園内のあちこちに説明板が設置され、この古墳について様々な角度から学べる構成になっていた。

 記されていた情報を総合すると、森部平原古墳群と同じく古墳時代後期の6世紀後半に造られた前方後円墳で、その規模は全長103㍍、後円部の直径60㍍。同時期の古墳としては九州最大だという。従来は円墳だとみられていたが、1993年度に行われた調査で前方後円墳だったことが判明。2012~14年度に史跡公園として整備されたという。また、後円部には「造り出し」という付帯施設があったとみられ、説明版に取り付けられていた復元模型は、急須を上から見たような形をしていた。付近にある古墳ととともに「田主丸古墳群」として国史跡にもなっている。

 被葬者についての情報はなかったが、上記の観光サイトには「その規模にも関わらず、文献も地名にまつわる氏族の伝承もない謎につつまれた古墳です」と紹介されていた。研究者の間では浮羽地方を治めていたと思われる豪族、「的臣(いくはのおみ)」一族の首長墓ではないかという見方があるようだが、“的臣の墓”であるよりも“謎に包まれた古墳”である方が個人的には魅力を感じる。「山苞の道」は古墳ロードでもあった。

 ところで、この日、耳納山麓に行ったのは道の駅くるめでの買い物と、近くにある「柳坂曽根のハゼ並木」を散策するのが主目的で、ついでに周辺をぶらぶらしようと「山苞の道」を初めて通ってみた。柳坂曽根のハゼ並木は延長1.1㌔の道沿いに約200本が植えられ、この時期は紅葉の名所となっている。幕末、久留米藩がろうそくを特産にするため、ハゼの植林を奨励したのが始まりだという。ボランティアガイドをされていた地元の方によると、見頃は1週間前だったそうで、残念ながら真っ赤に染まった光景を見ることはできなかった。暖冬が続いているためか、近年は総じて色づきがあまり良くないという。

 「山苞の道」の道については、詳しくは田主丸町観光サイトにある
『山苞の道物語』へ。

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比恵遺跡144回目の調査

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 福岡市博多区博多駅南4の駐車場建設予定地で、奴国の集落跡と思われ約1,800年前の竪穴式住居跡40基が見つかり、12日「歩いてみよう古代のムラを」と題した現地説明会があった。この一帯からは奴国時代の遺構のほか、ヤマト王権の外交・軍事拠点だった那津官家跡とみられる倉庫群など数々の遺跡が見つかり、総称して比恵遺跡群と呼ばれている。今回の集落跡の調査名が「比恵遺跡144次調査」であることが遺構の集中ぶりを物語っている。

 住居跡は中心部に炉、その両サイドに寝床を配した構造で、発掘調査担当者によると「弥生後期としてはオーソドックスなもの」。集落の性格は、農村ではなく交易拠点を担った人々のムラだったと思われるという。比較的近い時代の交易拠点のムラとしては、福岡市内では県立修猷館高校(福岡市早良区西新)の下に眠る西新町遺跡があるが、住居にカマド(オンドル)が備え付けられ、数々の半島系土器が出土した西新町とは違い、今回調査した集落跡には半島系の色彩は見られないと担当者は話していた。

 出土遺物は、煮炊き用の甕、肥後系ジョッキ形土器、鹿角製柄付き鉄製ナイフなどが紹介されていた。このうち肥後系ジョッキ形土器とは、取っ手が付いたジョッキそっくりの土器で、熊本で多く出土しているため肥後系という名前が付いているという。ただし、今回出土したものは取っ手が欠損していたため、ジョッキというよりはタンブラーという見た目だったが、どちらにしても酒を飲むにはピッタリという感じだった。『魏志倭人伝』には「歌舞飲酒」という記述があり、弥生人も酒を飲んでいたようだ。
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九大から元寇防塁出土

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 福岡市東区の九州大箱崎キャンパスから元寇防塁と思われる石積み遺構が出土したというので、22日現地に行ってきた。だが、中央図書館裏の発掘現場はシートで覆われ、残念ながら問題の石積みを見学することは出来なかった。市民向けの説明会は前日21日に開かれていたのだが、平日のためこちらは仕事。祝日を待って出掛けたのだが、今度は発掘調査が休みだった。嫌な予感はしていたのだが…。

 仕方がないので、発掘現場のすぐ東側にある国指定史跡、地蔵松原の元寇防塁跡を見てきた。防塁跡とは言っても、地蔵松原公園の一角に「史蹟 元寇防塁」と刻まれた石碑と説明板が立っているだけで、遺構が残っているわけではない。平成に入って行われた発掘調査では石材が確認されただけで、このため今回九大で発掘された遺構について「博多湾東部で、元寇防塁が原型に近い状態で発見されるのは初めて」と報道されている。

 しかし、地藏松原公園の説明板によると、大正時代に行われた調査ではここでも石積み遺構が確認されたらしく、「防塁の構造は、前面に石積みし、後面は粘土で固めていた」という。これは報道されている九大の遺構の構造と全く同じで、全体が石で築かれた今津の防塁などとは異なる。間違いなく連続した遺構だろう。それにしても地蔵松原の遺構はいつ失われたのだろうか。

 元寇防塁とは、1274年の「文永の役」後、元軍の再度の侵攻に備え、鎌倉幕府の命で九州各国が分担して築いた防壁で、東は香椎から西の今津まで延長20㌔にわたって博多湾の守りを固めていたと言われる。箱崎地区の防塁を築いたのは薩摩の国だと伝えられている。1281年の「弘安の役」では、この防塁が実際に元軍の上陸を阻み、元軍がいったん態勢を立て直すため退いたところを暴風雨が襲い、壊滅したという。

 しかし、イデオロギーに凝り固まった福教組の教員たちは昭和時代、「元寇防塁など無用の長物で、後の時代に石が漬物石として役立ったぐらいだ」と平気で教えていたことを以前紹介した(
「福教組が歪めた元寇」)。防塁の石が漬物石として使われたのは嘘ではないかもしれないが、それ以上に福岡城の石垣に転用された方が多いことだろう。

 今回、九大で見つかった防塁遺構は、西日本新聞記事によると、 高さ0.9㍍、幅2㍍、長さ17㍍の規模。予想外の場所から突如として出土したというわけではなく、文化財保護法に基づき「元寇防塁包蔵地」に指定されていた区域の一角、つまり遺構が見つかる可能性があると思われていた場所だ。発掘調査は九大の伊都キャンパス(西区)への移転に伴うものだが、九大箱崎キャンパスには元寇防塁だけでなく、中世の集落遺跡・箱崎遺跡も眠っていると考えられている。伊都キャンパス内にある桑原・元岡遺跡群からは飛鳥時代の製鉄遺跡などが見つかり、福岡市が発掘調査に追われたが、箱崎キャンパスからも今後、校舎等の解体に伴い続々と遺跡が見つかるかもしれない。


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福岡城扇坂の発掘調査

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 福岡城二ノ丸で「扇坂」跡の発掘調査が続いている。梅園への登り口に当たる場所で、藩政時代、文字通り扇形をした階段があったらしく、城内に掲示されている古地図にもその姿が描かれている。それにしても、なぜ、今さら階段跡などの発掘調査を行っているのだろうか? 想像はついたが、調査地点近くに設置されていた看板に明記されていた。福岡城跡整備のためだ。この整備の中身を具体的に言えば、幕末期の福岡城復元を目指している。調査は8月末までの予定だという。

 福岡城復元については何度が取り上げたことがあるが、福岡市が2014年6月に公表した「国史跡福岡城跡整備基本計画」をもとに改めて簡単に紹介すると、当面の整備期間は2014~28年度の15年間。この期間を2014~18年度の短期、2019~28年度の中期に分け、建物や石垣、土塁などの復元・修復を、絵図や古写真、発掘調査の結果に基づき段階的に進めていくことになっている。

 つまり、今年は福岡城整備がスタートしてすでに3年目になるわけだが、一見、福岡城址に大きな変化はない。計画は本当に進んでいるのかと疑問を覚えてしまうが、基本計画によると、短期計画で復元工事、つまり新たな施設建設が予定されているのは潮見櫓(
「動き出した潮見櫓復元」参照)程度だ。ほかに計画案の中に盛り込まれているのは旧母里太兵衛邸長屋門の修復、現存する建造物・遺構への解説・案内板の設置、舞鶴中学校跡地の駐車場・ガイダンス施設としての暫定活用等で、これらはすでに実施済み。計画は徐々に前進してはいるわけだ。

 続く中期計画で復元が予定されているのは、福岡城最大の建造物だったと言われる武具櫓(
「福岡城の武具櫓」「福岡城武具櫓、2度目の説明会」)、福岡城の正門に当たる上之橋御門、本丸裏御門、太鼓櫓等で、扇坂の復元もここで予定されている。福岡城址が大きく装いを変えるのは2019年度以降ということになる。建造物等復元の基礎資料とするため、福岡城址では今後、間断なく発掘調査が続くことになるのだろう。

 短期・中期を合わせた整備費は約70億円と見積もられている。やや話が変わるが、今回の熊本地震で巨大な被害を受けた熊本城の復旧費は、石垣だけでも約350億円(熊本市が公表した文化庁試算)、建造物を含めればさらに膨大な金額に膨れ上がると言われる。復元から間もない熊本城の飯田丸五階櫓や戌亥櫓等は石垣が崩壊し、倒壊寸前の状態だ。この惨状を思えば、歴史的建造物の復元は単に史実に忠実というだけでなく、耐震面も重要になるだろう。福岡城整備の70億円という金額にこの点が考慮されているのか、ふと疑問に思った。下の写真は2015年4月撮影の戌亥櫓。


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