続・五郎山古墳の壁画

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 装飾古墳として有名な筑紫野市原田の五郎山古墳で21日、石室の一般公開が予定されている。せっかくの機会と思ったのだが、当日は残念ながら仕事だった。普段ならば一般公開の日以外でも5日前に予約すれば、見学可能で、別に落胆する程でもないのだが、今年は一般公開直後の11月1日から石室の保存改修工事が始まり、来年3月31日までは見学不可となる。改修工事完成後の一般公開を待つしかない。

 5年前に書いた「五郎山古墳の壁画」の中で紹介しているが、古墳の麓には2001年開館の五郎山古墳館があり、館内には石室の実物大模型が展示されている。この古墳が名高いのは、玄室奥壁に赤、黒、緑の3色を使い、人物や動物などが伸びやかなタッチで描かれていることで、石室模型には躍動感あふれる壁画も再現されている。残念ながら実物は劣化が激しい。石室の保存改修工事を知らせる筑紫野市公式サイトのページに、撮影年不明ながら、その写真が掲載されている(写真1枚目)が、古墳館のレプリカ(写真2枚目)と比べると、やはり全体的に色あせ、輪郭もぼやけてしまっており、辛うじて命脈を保っているという状態だ。

 この古墳は1947年に発見され、早くもその2年後には国史跡に指定されたのだが、保存管理は発見者であり、土地所有者でもあった男性に委ねられ、国からは捨て置かれたも同然だったことが『装飾古墳紀行』(玉利勲、新潮社、1984)に書かれている。石室入り口には鍵がかけられ、土地所有者の許可なしに立ち入りはできなかったのだが、現実には鍵を壊して不法侵入する者が相次ぎ、彼らが明かり代わりに使ったロウソクの煤で一部の壁画は真っ黒に汚れ、白カビの増殖も激しかったという。このため1978年、石室はいったんは完全に閉じられ、非公開となった。ガラス窓越しに壁画を見ることができる観察室が完成し、23年ぶりに公開されたのは、古墳館の開館と同じ2001年のことだ。

 この壁画は何を意味しているのか。「五郎山古墳の壁画」の中で、壁画発見直後に調査した研究者が「知っている文様を適当に描いたのだろう」と述べたことを、「それではまるで落書きである」と批判的に取り上げたことがある。この研究者とは著名な考古学者で、五郎山古墳を世に広めた人物でもある京都大の小林行雄氏(1911~1989)だ。この機会に、『筑紫野市史』資料編(2001)に収録されている「五郎山古墳の装飾壁画」(筆者は小田富士雄・福大名誉教授)を読んだところ、意外にも小林氏の見方は主流だったらしく、「全体としては一連の物語りを表現するものではない、自由な生活描写的な画題と見る考え方が以後大勢的となっている」と記されていた。

 もちろん、他にも多様な説があり、「被葬者の生涯の中でも印象的な場面をいろいろ描き込んでいる」「被葬者の一代記というべき性格」という見方に、個人的には最も魅力を感じた。被葬者が生前、朝鮮半島に出兵し、勇敢に戦った一こまを描いたものではないか考える説もあるという。小田名誉教授は、こういった考え方に対し「古墳壁画の本質は死者の鎮魂儀礼にあることに思いいたすとき、このような史実のみで壁画を律してしまうのは、政治史的立場を重視するあまりの短絡的評価ではないかという指摘も不当ではない」と批判的だが、壁画に史実が込められているのならば、やがては被葬者を特定することも可能ではないかと夢が広がる。
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多聞櫓は学生寮だった

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 福岡城南丸多聞櫓の保存修復工事が行われている。多聞櫓は、築城当時の位置に現存する唯一の櫓で、1971年には国重要文化財にも指定されている貴重な建物なのだが、今回の工事の理由を知って驚いた。福岡県西方沖地震や経年劣化により、建物のあちこちに傷みが目立ってきたからだというのだ。経年劣化の方はわからないでもないが、福岡県西方沖地震とは2005年3月、つまり12年も前に起きた地震だ。この時の被害はさほど大きなものではなかったのかも知れないが、12年もほったらかしだったのだろうか。工事は来年3月までの予定だ。

 多聞櫓は2階建ての隅櫓と長さ約54㍍(30間)の平櫓からなる。平櫓の内部は普通、突き抜けの構造になっているらしいが、福岡城の多聞櫓は16の小部屋に分かれており、この変わった構造のためか戦前は城内に駐屯していた陸軍歩兵24連隊の兵舎として、戦後の1947年からは西日本短大の学生寮として利用されていた。

 藩政時代は主に倉庫として使われていた建物だったのだから、そのままでは居住に適しているはずがなく、内外装とも大きく改変されていた。1970年には西日本短大が移転していき、翌71年には多聞櫓の本来の持ち主だった国から福岡市が買い取ったのだが、この時には屋根瓦が落ち、雨漏りも激しく、崩壊寸前の状態だったという。辛うじて骨組みは良好な状態だったため、重文指定を受けることは出来た。福岡市は72年から約3年の月日と約1億円の予算を費やして、建物をいったん解体した後、旧来の姿に復元する工事を行っている。

 多聞櫓の解体復元は、この時代に市が進めていた福岡城址の史跡公園化の第一弾で、西日本短大に続き、74年にはその北側にあった予備校・九州英数学舘、75年からは2年がかりで御鷹屋敷一帯にあった福岡大平和台キャンパスの移転も実現させ、跡地は現在、緑地や牡丹芍薬園などとなっている。

 福岡大の一部キャンパスが御鷹屋敷跡にあったのは以前から知っていたが、西日本短大や九州英数学舘まであったことは全くの初耳だった。また、先頃まで市立舞鶴中学校だった場所には1960年まで、市立博多工業高校があった。明治通りから護国神社へ抜ける狭い道の両側には戦後の一時期、高校、予備校、短大、大学がひしめき合っていたことになる。ひょっとしたら博多工業高校卒業後に英数学舘で浪人生活を送り、福岡大学へ進学、青春時代を過ごしたのはずっと城内だった、などという人もいたのだろうか。

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 御鷹屋敷の下にある藤棚。以前は福岡大の体育館があったらしい。

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 九州英数学舘があったのはこの辺りだと思われる。

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 舞鶴中学校の跡地。旧校舎は福岡城、鴻臚館のガイダンス施設として、校庭は駐車場として活用されている。
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「油山天福寺跡」探索行

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 福岡市の油山(597㍍)中腹にあったという天福寺跡を探して山中をさまよってきた。江戸時代の文献に初めて名前が出てきた時には、すでに滅び去った後だった幻の寺だが、西油山に寺院の遺構があるのは間違いない事実で、地元の人々からは「坊城」などと呼ばれている。地図で場所を確認し、野芥の塚穴の手前から西油山林道を通って山中に入り、石垣の写真を撮ってきたが、これが本当に天福寺の遺構なのかは正直なところ、自信がない。研究者の調査では伽藍や僧房跡とみられる平坦面や礎石が多数確認されているが、素人の節穴の眼には山は山でしかなく、結局林道を最後まで歩き通しただけに終わった。

 天福寺の名前が初めて出てくる文献とは、貝原益軒(1630~1714)が著した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』で、これには西油山天福寺と脊振山東門寺とが侍童を巡って激しく争い、焼き討ち合戦を繰り広げた末に両寺とも「悉く焦土」となったという情けないエピソードが記録されている。この争いの時期について、益軒は「昔」と記しているだけで、つまり天福寺滅亡は江戸時代にはすでに昔話だったことになる。続風土記にはこのほか、天福寺は禅寺であり、360の僧坊があったと記されているが、九州帝国大の教授だった竹岡勝也氏は、浄土宗鎮西派開祖の聖光上人が天台宗の僧侶だった時代、「油山学頭」だったという記録が残ることから、天台宗の寺だったのではないかと指摘。これが現在では定説となっているようだ。

 竹岡氏は遺構の現地調査も行い、その成果は福岡県発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告書』第9輯(1934)に収録されているが、それには「西油山の村落を離れて南坊住の山道にかかれば、左右に屋敷跡らしい平地が段階をなして續いて居る」などと記されている。この時、石垣数か所と礎石が現存していたという。

 天福寺遺構の学術調査はこの後、約80年間も行われなかったようだが、近年になって山岳霊場の研究者が複数回の現地調査を行い、この結果、750㍍×200㍍、比高差で150㍍の範囲に遺構が広がっており、僧房跡などと考えられる平坦面が少なくとも65か所あるのを確認できたという。また、収集された遺物の中に中国からの輸入陶磁器の破片が多数含まれることから、日宋貿易(10~13世紀)を担っていた博多在住の中国商人(博多綱首)が天福寺造営に深く関わっていたのではないかと推測している。さらに、陶磁器片の年代分析から、寺の荒廃を招いた東門寺との争いは、14世紀半ばごろに起きたと考えられるという。

 続風土記には、寺同士が争い、互いに滅亡したという話がもう一つ記録されている。久原村の白山にあった白山頭光寺泉盛院という天台宗寺院の内紛で、この寺は本谷、西谷、別所、山王の4地区に分かれ、山王に50、残る3地区に各100の僧坊があったという。このうち本谷の侍童が別所の僧侶から嘲笑されたのを苦に自殺し、これをきっかけに本谷・西谷vs別所という構図で激しい戦いが起き、これまた互いに火を放った結果「悉く炎上して絶滅」したという地元民の言い伝えを益軒は書き残している。

 この白山とは福岡県久山町の首羅山(289㍍)のことで、この山からは12~15世紀の中世山岳寺院跡が見つかり、2005年から町教委などによる発掘調査が続いている。2013年には「首羅山遺跡」として国史跡にも指定されている。興味深いのは、この遺跡からも中国製の遺物が多数見つかり、博多綱首との関係が指摘されていることだ。単なる偶然かもしれないが、続風土記に記録された寺同士の血なまぐさい争いは、いずれも日宋貿易に支えられた天台密教の山岳寺院で起きたことになる。何か隠された背景でもあるのだろうか。なお、天福寺の研究者が続風土記の記述に重きを置いているのに対し、対照的に首羅山遺跡の担当者は続風土記など全く眼中にないように思え、これまたなぜなのだろうかと興味深い。

 天福寺跡探索行では明確な遺構は確認できなかったが、山中では色々なものに遭遇した。西油山林道ではアナグマらしき小動物が走り去るのを目撃した。林道終点からは梅林緑道から山頂に通じる縦走ルートに入り、帰路についたのだが、ここでは野生のツツジが赤い花を咲かせているのを目にした。林道沿いには展望が開けている場所があり、想像以上に雄大な景観が広がっているのに驚いたが、廃車や廃モーターボートまで山林に投棄されていたことにはもっと驚いた。

 文中で明示した以外の参考文献は『北部九州の山岳霊場遺跡―近年の調査事例と研究視点―』(九州山岳霊場遺跡研究会、2011)など。


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新原・奴山古墳群を見てきた

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 先日、福岡県福津市の新原・奴山古墳群を見学してきた。福岡県が世界遺産登録を目指してきた「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成資産の一つ。宗像市沖の玄界灘に浮かぶ孤島で、古代祭祀の遺構が残り、国宝8万点が出土した沖ノ島(宗像大社沖津宮)については今月、ユネスコの諮問機関イコモスが世界遺産登録を勧告したが、新原・奴山古墳群や宗像大社の辺津宮、中津宮は「世界的価値なし」として除外が要求された。地元には落胆が広がっているというが、この古墳群の歴史的価値は別にして、史跡としての見た目はインパクトに乏しかった。現在、福津市が散策路を整備するなど史跡公園化を進めているが、このまま世界遺産から漏れた場合、整備の先行きはどうなるのだろうか。

 新原・奴山古墳群は、海を見下ろす東西800㍍の台地上に、5~6世紀に築かれたと推定される41基の古墳(前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基)が密集している。一帯に広がるのは農地やため池。冒頭書いたように史跡公園化が進められている最中で、説明パネルにはまだ何も設置されていない状態だった。この古墳群は、国史跡・津屋崎古墳群の中の一つで、津屋崎古墳群全体が沖ノ島の古代祭祀を担った胸形(宗像)氏の奥津城だとみられている。津屋崎古墳群の中で、新原・奴山だけが世界遺産候補に加えられたのは、立地場所が“海人族”などと呼ばれる胸形氏を象徴しているためだという。

 津屋崎古墳群の中で最も有名な古墳は、全長23㍍もの長大な石室を持つ宮地嶽古墳(7世紀築造の円墳)ではないかと個人的には思うが、この古墳は宮地嶽神社の奥宮となっている。宮地嶽神社とは嵐出演のCMに登場した「光の道」で一躍有名になったところだが、それはともかく、宗像大社を世界遺産に登録しようとしているのに、別の神社が交じっていたのでは紛らわしいと候補から外されたのだろう。(下の写真が宮地嶽古墳の石室、一直線に海に延びる宮地嶽神社参道)

 話は少し変わるが、沖ノ島の世界遺産登録を巡り、『週刊新潮』が配信した記事に少々悪意を感じた(
https://www.dailyshincho.jp/article/2017/05190559/?all=1)。“地元紙記者”なる人物の証言を中心に書かれた記事なのだが、大意を要約すると、次のようになる。
▽宗像大社や周辺の古墳群などが除外され、地元には落胆が広がっている。
▽沖ノ島は基本的に上陸は許されず、女人禁制。単体で登録されても観光的価値はない。
▽本当の狙いは宗像大社や古墳群を世界遺産に登録し、海外の観光客を増やすことだったが、これらだけでは登録が厳しいので、沖ノ島をセットにして推薦した。
▽しかし、審査側に下心を見透かされ、目論見は外れた。

 地元に喜びだけでなく、落胆も広がっているのは確かであり、世界遺産登録を観光客誘致の弾みにしようと目論んでいたことも確かだ。『週刊新潮』の記事ではその点では間違いはないとは思うが、沖ノ島が権威付けのためだけの付け足しであるはずがなく、本当に記事にあるような証言をした地元紙記者が存在したとしたら、少し驚きだ。


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基山の「いものがんぎ」

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 古代山城、基肄城があった佐賀県基山町の基山(標高405㍍)に登り、山頂の凹凸地形「いものがんぎ」付近で昼食を取ってきた。「いものがんぎ」とは妙な名前だが、イモ畑の畝に似ているからだと言われている。この辺りでは畝のことを「がんぎ」と呼ぶのだろうか。帰宅後に調べてみたところ、そもそも「いものがんぎ」について大きな勘違いをしていたことに気付いた。基山にあるから、基肄城時代の巨大土塁だと勝手に思い込んでいたが、「いものがんぎ」は中世に造られた山城の防衛施設だったのだ。

 上の写真のデコボコが「いものがんぎ」。1938年(昭和13)佐賀県発行の『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告』第六輯には「空濠の北は俗に芋の雁木と唱へるところで第一峰と第二峰の連絡上、其間の低地を埋立て其上に、蒲鉾形の三つの大突堤と四條の塹壕とが築かれてゐる」と説明されている。現在はひらがな、カタカナで表記されるのが普通だが、漢字では「芋の雁木」と書くことがわかる。この調査報告では「いものがんぎ」は基肄城の遺構の一つとして紹介されており、少なくとも戦前まではそう理解されていたと思われる。私は戦後生まれなので、勘違いしていた言い訳には全くならないが。

 地元・基山町教委発行の“現在”の資料によると、中世山城は木山城(または基山城)と呼ばれ、築城者や築城時期は不明だが、初めて記録に現れるのは南北朝時代で、九州の南朝勢力を抑えるため、室町幕府が派遣した九州探題・今川了俊がこの城に布陣したと伝えられている。その後、九州探題を継いだ渋川氏と少弐氏との争いに絡み、木山城の名がしばしば登場するという。

 城の主郭は「いものがんぎ」南側の台地(写真2枚目。ここが本当の意味での山頂で大石が祭られている)にあり、「いものがんぎ」はこの防衛のために築かれた堀切だったのだ。

 基山の山頂一帯は広大な草原となっており、狭義の意味での山頂と「いものがんぎ」は特徴的な景観を形作ってはいるが、草原の極々一部を占めるに過ぎない。山頂どころか、ほぼ全山を要塞化していた壮大な基肄城跡と比べれば、ずいぶんちっぽけな規模だ。基肄城は言うまでもなく白村江の戦いに敗れたヤマト王権が、唐・新羅の侵攻に備え、大宰府防衛のため665年、水城、大野城とともに築いた朝鮮式山城。両城の規模の差は、東アジア的なスケールで構想された基肄城と、北部九州というコップの中の争いの舞台でしかなかった木山城との違いなのだろう。

 最後に、畝を「がんぎ」と呼ぶのかという最初の疑問について。手元にある『新明解国語辞典』(三省堂)には雁木とは「空を飛ぶガンの列の片側のように斜めに、ぎざぎざがあるもの、の意」として桟橋の階段、坑内で使うはしご、雪国で積雪時でも通れるように軒から庇を長く差し出して作った回廊風の覆い、大きなのこぎり、と説明されている。ただ、色々調べてみると、農業関係で、畝に種をまく手法の一つに「雁木まき」というものがあり、この言葉が畝そのものに転用された可能性はあるとは思った。
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吉武高木遺跡、史跡公園に

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 福岡市西区吉武の国史跡、吉武高木遺跡の史跡公園化整備が完了し、今月、「やよいの風公園」としてグランドオープンした。2012年4月にもこの遺跡の撮影に行ったことがあるが、まだ整備が始まる前で、休耕田同然の状態だった(「レンゲ畑の吉武高木遺跡」)。ここに「最古の王墓」や「早良王墓」と呼ばれる遺構が眠っているとは知っていても、想像力乏しい身には何の変哲もない田舎の景観にしか見えなかった。それから5年。4億2000万円の費用を掛け、休耕田は2.7㌶のきれいな公園に生まれ変わった。

 この遺跡は弥生時代中期(約2,200~2,000年前)のクニの跡で、「王墓」と騒がれた遺構は1985年の発掘調査で見つかった。木棺墓の一つから、三種の神器を思わせる豪華な副葬品(多紐細文鏡、銅剣、多数の勾玉・管玉など)が出土したのだ。一方で、近接する区画からは大量の甕棺墓が発掘されたが、この中には甕棺内に石剣の切っ先があり、体に刺さった状態で埋葬されていたのではないかと思われる例があった。恐らくは戦死者の墓だ。また、甕棺墓群からは鏡は1枚も見つからず、玉類の出土も極端に少なく、「王墓」とは明確な差があった。この遺跡は階級社会の出現を鮮明に示した、結構生々しい代物だったのだ。

 「クニの成立と展開を示した貴重な遺跡」として1993年には国史跡に指定され、福岡市は早くも99年には史跡公園整備計画を大々的に公表していたが、財政難のためか、あるいは度重なる市長交代のためか、計画は遅れに遅れて2012年に着工。ようやく今年、全面開園にこぎつけた。

 入口で出迎えてくれるのは、わらで出来たシカのオブジェだ。これは甕棺に刻まれていた2頭のシカの絵がモデルで、このシカは公園のシンボルマークともなっている。園内には「王墓」や甕棺墓群(甕棺ロードと名付けられている)、祭祀の場とも推定されている大型建物跡など重要な発掘地点ごとに説明パネルや復元した甕棺などが設置され、パネルを丹念に見て回れば、吉武高木遺跡の概要を学べる構成になっている。

 ただ、板付、金隈、野方遺跡、鴻臚館跡に併設されている資料館や発掘現場をそのまま保存した展示館などの施設はない。99年計画では大型建物跡の復元なども予定されていたが、今回の整備では見送られた。現在の財政事情ではこれが精いっぱいの整備ということなのだろう。4億2000万円という整備費は巨額だが、かと言って立派な資料館、展示館が建設できる程の金額でもない。福岡市にまた一つ、史跡公園が誕生したことは喜ぶべき話なので、箱物がないからと言って文句はないが、これからの季節を考えれば、園内にもう少し日陰は欲しいところだ。


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博多のど真ん中にあった前方後円墳

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 6年前、「遊び場だった那珂八幡古墳」という駄文を書いた。小学生時代に遊んでいた神社が、実は前方後円墳だったことを中高年になって知ったという話なのだが、古墳とわかった経緯などをきちんと確認していなかったため、読み返してみると、相当いい加減な内容だった。そこで先日、記事の後半部分をほぼ全面的に書き直したのだが、その作業の中で、博多1号墳という別の前方後円墳の存在に興味を覚えた。この古墳があったのは福岡市博多区御供所町1-1。博多のど真ん中なのだ。

 古墳があった場所をもっと詳しく書くと、地下鉄祇園駅4番出口から地上に出た辺りで、現在は大博通りに面して12階建ての西鉄祇園ビルが建っている。当然ながら、古墳自体は跡形もない。西鉄祇園ビルの建設に先立ち、1985年5~8月に行われた発掘調査で古墳は見つかったのだが、当時から墳丘は現存していなかった。では、なぜ古墳とわかったかと言えば、基底部の葺石が断続的に見つかり、これをつなぎ合わせると、前方後円墳の姿が浮かび上がったという。博多1号墳と言いながら、別に2号墳や3号墳が近隣にあったわけではないようだ。

 古墳の規模や築造時期について、この調査の発掘報告書『博多Ⅶ―博多遺跡群第28次発掘調査報告』では全長56㍍以上、後円部の直径38~41㍍、出土した埴輪から4世紀末から5世紀初頭にかけての築造と推定している。しかし、1989年に出された老司古墳の報告書には「博多1号墳は全長約65~70㍍に推定され、出土埴輪から5世紀前半に位置付けられる」、1997年の博多遺跡群の報告書には「5世紀後半に築かれたとされる博多1号墳(前方後円墳、推定墳丘長60㍍)」と数字はバラバラで、築造時期に関しては100年も開きがある。出土した埴輪は全て破片だったというから、時期特定が難しいのだろうか。

 この古墳周辺からは1~2世紀後のものと思われる石室墓7基の遺構が同時に確認されたが、面白いのは古墳の石材を再利用して石室墓が築かれたと推定されていることだ。だとしたら、博多1号墳は築造から100~200年後には早くも破壊されていたことになる。御先祖様の墓を暴いて自分たちの墓を造ったとも思われないので、石室墓に埋葬されたのは別の集団なのだろうかと想像が広がる。

 博多1号墳は古代、福岡平野を治めた集団の首長墓とみられる七つの前方後円墳のうちの一つ。七つの古墳はすべて那珂川流域の直線距離にして約10㌔の範囲に集中しており、博多1号墳はその最も北に位置している。今ではアスファルトで固められたビル街だが、本来は砂丘だった場所だという。埋め立て地などを除き、どんな土地にも等しく古墳時代はあったのだから、博多のど真ん中に古墳の遺構があっても不思議はないのだろうが、砂丘上に築造された前方後円墳は珍しいらしい。


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王塚古墳特別公開

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 福岡県桂川町の国特別史跡、王塚古墳で15日から始まった装飾壁画の特別公開に行ってきた。二つの石室(前室と玄室)の壁全体に様々な文様や騎馬の姿が5色で描かれ、「日本を代表する超一級の装飾古墳」と評価されている。上の写真はパンフレットに掲載されていた往時の姿だが、現実には壁画の劣化は激しいとも聞いていた。期待半分、不安半分で観察室のガラス窓から石室をのぞいたが、やはり情報通り全体的に色あせ、文様はほとんど判別できない状態だった。唯一、見分けることができたのは前室後壁の左側に描かれた黒い騎馬だけ。それでも名高い王塚古墳の壁画を初めて目にすることができ、満足はした。

 王塚古墳は6世紀中ごろに造られたとみられる前方後円墳で、復元された墳丘は全長86㍍、後円部の直径が56㍍。1934年(昭和9)、石炭採掘で陥没した田畑を復旧するために土を取っていたところ、偶然石室が見つかったと伝えられている。福岡県が1939年に発行した『福岡県史蹟名勝天然紀念物調査報告書・筑前王塚古墳』にその時の模様が記されているが、土砂採取業者は思わぬ石室の発見に工事をいったん中止し、再度石室をふさいで引き上げた。ところが、その夜のうちに地主が石扉を引き倒して石室内に侵入、副葬品を持ち出したという。調査報告書にはわざわざ地主の実名が敬称抜きで記されており、執筆者の怒りが読み取れる。

 1952年には国特別史跡に指定されたが、壁画や石室の劣化は徐々に進み、67年には石室崩壊防止のため鉄の支柱で補強する工事が行われる一方、いったんは見学厳禁となった。この時すでに壁画は“瀕死の状態”だったという。1993年に保存工事が完成し、これ以降、石室は外気とは遮断され、春秋の年2回、計4日間の特別公開時に観察室からの見学が許されるだけになった。観察室に入るにも分厚い金属製のドア二つを通り抜ける必要がある。

 特別公開とは文字通りの特別な機会で、私が現地に着いた時はすでに300人以上の考古学ファンが集まり、見学は1時間以上待ちの状況だった。時間をつぶすため、隣接地にある展示館「王塚装飾古墳館」(入館料は大人320円)に行き、原寸大の石室レプリカを見学してきた。発見当時の色鮮やかな壁画がここには再現されており、見学の機会が限られる王塚古墳に代わって、普段から人気を集めているという。(石室レプリカは下の写真参照。ここも写真撮影は禁止のため、パンフレットから複写した)

 冒頭で書いたように、本物の王塚古墳の壁画はもはや色鮮やかとは到底言えない状況だが、この古墳を紹介する記事では未だに「彩色豊かな壁画」などのフレーズを目にすることが多い。中には石室に入り、壁画を直に見たかのような記事さえ読んだことがある。これらの記事を書いた人たちがいったい何を見たのかは不明だが、現実には壁画は集中治療室の中で辛うじて命脈を保っているような状態だ。「装飾古墳の発見は劣化の始まり」とは観察室内で解説してくれた男性の弁だ。




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縄文の二重環濠跡は今…

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 福岡市博多区那珂のJR鹿児島線沿いの土地で1993年、縄文時代晩期(紀元前4世紀頃)の二重環濠跡の一部が確認され、「縄文の環濠集落発見」と新聞等で大騒ぎになったことがある。それまで環濠集落の出現は弥生時代はじめ(紀元前3世紀)と思われていたため、この遺跡の発見は「教科書の記述を書き換える」ものだった。以前、那珂八幡古墳の写真撮影に行った際、近隣にあるこの遺跡もついでに見に行ったが、それらしきものが見つからなかった。改めて調べたところ、遺跡がある場所には現在、青果会社の大きな倉庫が建っていることがわかった。再度、現地に行ってみたが、遺跡の存在を示すのは、道路沿いの壁に取り付けてあったタイル製の説明パネルだけだった。

 この遺跡が見つかったきっかけは、青果会社の倉庫建設で、だから遺跡の上に倉庫があるのは当然のことではある。「教科書を書き換える」程の遺跡が確認され、青果会社と市教委との間で保存についての話し合いは持たれたのだが、すでに倉庫の建設契約が結ばれており、建設計画破棄は困難だったという。このため二重環濠の遺構を極力壊さないよう、盛り土を高くし、建設場所を少しずらすなどの次善の策が取られ、市の史跡にも指定されている。発見時の大騒ぎを思えば、遺跡の現状は物足りないが、大半の遺跡は発掘調査後には取り壊されているとも聞くだけに、どんな形であれ残ったことが重要なのだろう。

 最近、北九州市でも城野遺跡(小倉南区)で2009年に見つかった方形周溝墓の保存が決まり、ニュースとなっていた。方形周溝墓とは文字通り、方形に溝を巡らした弥生時代の墓で、城野遺跡の周溝墓は弥生時代末期(3世紀)のものとみられている。23㍍×16㍍の規模は九州最大級とも言われるが、「九州最大級」などというアバウトな評価以上にこの遺構が貴重とされたのは、内部を水銀朱で真っ赤に塗られた幼児用の箱型石棺2基が見つかったためだ。城野遺跡からはほかに、勾玉の工房跡なども見つかり、保存を訴える地元市民団体も結成されていた。

 この城野遺跡とは城野医療刑務所の跡地(約1万6000平方㍍)で、即ち国有地。国の土地から貴重な遺構が確認されたのだから、即座に保存が決まっても不思議はないと思うのだが、ところが、話はその方向に進まなかった。国と北九州市との間で保存に関する協議は持たれたようだが、結果的に決裂。刑務所跡地は一般競争入札で売りに出され、大手住宅メーカーが落札した。落札価格は公表されていないが、最低価格は7億7200万円だったので、結構な金額が国庫に入ったのは間違いない。北九州市は石棺2基だけは埋蔵文化財センターに移築したものの、遺跡自体は取り壊しやむなしの考えだった。

 しかし、今年3月になって住宅メーカーが方形周溝墓の遺構一帯556平方㍍を市に無償譲渡することを決め、破壊を免れた。住宅メーカーの英断を評価する声が上がる一方、積極的に国有地購入に動かなかった北九州市は共産党市議らから悪者扱いされているようだが、本当に悪いのは市なのだろうか。

 国と北九州市との協議内容が詳しく公表されていないので、確かなことは言えないが、遺跡が見つかった国有地をあっさり民間企業に売却しているぐらいだから、国側はただ単に土地を高く売ることしか頭になかったのだろう。しかし、ゴミが埋まっているという理由で国有地を8億円も値引きした例があるのだ。この理屈で言えば、遺跡の保存経費分を大幅値引きして譲渡しても良かったぐらいで、恐らく8億円近い土地価格に二の足を踏んだ北九州市も価格次第では違った結論になったことだろう。後に大幅値引きが騒ぎになっても、このケースだったら国側は大威張りで「問題なし」と言えたに違いない。
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金隈遺跡展示館、2年間休館へ

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 福岡市博多区にある国史跡、金隈遺跡に久しぶりに行ってきた。紀元前2世紀から約400年にわたって営まれた弥生時代の共同墓地跡で、一帯は史跡公園として整備されている。メイン施設の甕棺展示館は発掘現場の一部が保存され、出土した甕棺や人骨までもがむき出しの状態で展示されているユニークな施設だ。狭いながらも見応え十分なのだが、交通の便が悪いこともあり6年間ご無沙汰だった。改修のため5月から、まるまる2年間も休館になると聞き、今のうちに再度「墓参り」しておこうと足を延ばしてきた。

 この遺跡は1968年春に発見された。緊急調査の結果、多数の甕棺墓や良好な保存状態の人骨などが見つかり、1972年には国史跡に指定されている。その後数次にわたる発掘調査で、土坑墓119基、甕棺墓348基、石棺墓2基が確認され、136体分の人骨が出土した。この人骨から推定される金隈人たちの平均身長は男性が162.7㌢、女性151.3㌢だったことを以前、
「長身だった金隈の弥生人」のタイトルで取り上げたことがある。現代人から見ると、かなり小柄に思えるが、日本人の平均身長がこの数字を上回るのは実は戦後のことなのだ。

 北部九州の弥生時代遺跡から見つかる人骨は、武器の破片が骨に突き刺さっていたり、首がなかったりなど戦乱の激しさを物語るような例が多いが、金隈遺跡についてはそういった報告はない。この集団墓地に葬られた人々のムラは例外的に平和だったのだろうか。

 ところで、遺跡発見の経緯についてはなぜか、市の発掘調査報告書の中でも混乱がある。1985年発行の『史跡金隈遺跡―発掘調査及び遺跡整備報告書』には「金隈遺跡の発見は昭和43年の春、桃畑を開墾している時であった」と書かれている。恐らくこれをもとに金隈遺跡のパンフレットにも「桃畑の開墾作業中に発見されました」と紹介されており、これが一般的に流布している。私も 「長身だった金隈の弥生人」では「果樹園整備の際に発見された遺跡」と書いた。

 しかし、1970年発行の『金隈遺跡第一次調査概報』には「福岡市比恵で鉄工所を営むN氏は、福岡市大字金隈字日焼に器材倉庫、宅地用の土地を買入れ、昭和43年4月、用地への道路取り付け工事を行なった。工事中甕棺墓と人骨が発見され」と全く異なる経緯が記されている(N氏は原本では実名)。遺跡発見直後に行われた緊急調査の記録であり、記述自体も非常に具体的な『第一次調査概報』の方が真実を伝えているのではないかと思うのだが。

 甕棺展示館は1985年3月の開館。開館から四半世紀以上が過ぎ、遺構や遺物の劣化が進んだことが今回の改修の理由で、金隈遺跡とともに、西区にある弥生~古墳時代の集落遺跡、
野方遺跡(ここも国史跡)の展示館も休館となる。遺構・遺物のクリーニングと保存処理が行われるほか、展示物や説明パネル等も刷新されるという。

 福岡市にはこの金隈、野方遺跡のほかにも、板付遺跡や鴻臚館など史跡公園化されたり、小規模ながらも展示館が併設されたりしている遺跡が少なくなく、しかもすべてが無料開放されている。さらに1週間後の4月15日には、発見時には「早良王墓」として大変な注目を浴びた吉武高木遺跡(西区)が「やよいの風公園」として、いよいよグランドオープンする。近いうちに見学に行き、面白い話でもあれば報告したい。
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