御鷹屋敷は如水の隠居所?

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 福岡城三の丸の御鷹屋敷跡にある「牡丹芍薬園」が散策路の補修工事などのため今月末まで閉鎖中だ。この場所には藩政初期、黒田如水(官兵衛)の隠居所があったと伝えられ、「黒田如水公 御鷹屋敷跡」と刻まれた石碑も建っている(石碑の写真は昨年5月撮影)。だから勘違いしていた。隠居所の名前が御鷹屋敷だった、と。しかし、1979年に行われた発掘調査の報告書『筑前国福岡城三ノ丸御鷹屋敷』(1980)を最近たまたま読む機会があり、両者は別物らしいことに気付いた。隠居所と御鷹屋敷では存在した時代が異なるのだ。誰が建てたか知らないが、紛らわしい石碑だ。

  屋敷跡の来歴については、昨年5月
「御鷹屋敷跡のシャクヤク」の中で簡単に紹介したが、訂正も兼ねて再度取り上げさせていただきたい。

 この場所に隠居所が完成したのは1603年(慶長8)と伝えられている。だが、如水は翌1604年3月に京都伏見の藩邸で死去しているため、仮にこの隠居所で暮らしたにしても数か月間だっただろうと報告書は指摘している。一方、「御鷹屋鋪」(※この字が使われている)の文字が初めて出てくるのは1812年(文化9)の城絵図だ。如水の死から200年以上も後の話で、隠居所が御鷹屋敷という名前だったと考えるには無理がある。

 では、御鷹屋敷とは何だったのか。絵図に名前が見えるのみで、文献資料には記録がなく、謎の存在らしい。1979年に行われた発掘調査は、牡丹芍薬園の整備に先立ち約1か月間行われたものだが、隠居所等の遺構確認とともに、御鷹屋敷の謎解明も目的の一つだったという。調査担当者は、鷹狩り用の鷹の飼育小屋などの施設があったのではないかと推測していたようだが、範囲も時間も限られた調査だったため、建物の遺構等は確認できないまま終わっている。ただ、陶器片や瓦などが大量に出土し、この分析から、隠居所、御鷹屋敷とは別の第3の施設の存在が浮かび上がってきた。

 発掘調査の報告書本編は冒頭書いたように1980年に発行されているが、普通は巻末に掲載されている図録は、なぜか10年後の1990年に別冊子として発行されている。この図録編に、高取焼(福岡藩の御用窯)研究者の興味深い論考がある。

 大雑把に要約すると、出土した陶器片の多くは17世紀後半から18世紀中期にかけての茶の湯関係のもので、中でも壊れた茶入れが14点もあったことが特筆される。茶入れは普通、水洗いするものではなく、また大事に扱われる器だから、短期間にこれだけの数が破損するのは異常。ここに茶器の製作所があり、藩主のめがねにかなったものだけを高取焼の本拠・小石原で焼成させ、さらに焼き上がった品も選別したのではないかというのが研究者の考えだ。現代風に言えば、商品開発のための研究施設みたいなものだろうか。

 こうなると、現在の牡丹芍薬園の場所に存在した施設は時代順に、如水隠居所、高取焼関連の施設、御鷹屋敷と移り変わったことになる。仮に建物は再利用されたにしても、全く別の施設と考えるのが妥当だろう。冒頭、石碑を紛らわしいと書いたが、実は市が設置した説明板にも「隠居所=御鷹屋敷」とはっきり書かれている(下写真)。あまり目くじらを立てる程の話ではないかもしれないが、市自らが市民を勘違いさせるのはいかがなものだろうかと思う。


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的臣は浮羽にいたのか

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 「山苞の道は古墳ロード」の中で、的臣(いくはのおみ)という名前をチラッと出した。古墳時代後期としては九州最大の前方後円墳「田主丸大塚古墳」(国史跡、久留米市田主丸町)の被葬者が的臣の首長ではないかという説を取り上げ、のんきに「“的臣の墓”であるよりも“謎に包まれた古墳”である方が個人的には魅力を感じる」と書いたのだ。しかし、考えてみれば、的臣が何者だったのか恥ずかしながら知らない。どんな氏族だったのだろうか。

 まず、田主丸大塚古墳が的臣の墓だという説があるのは、的臣が田主丸を含めた古代の浮羽(生葉、以久波とも表記)を治めていたと思われるためだが、これを記録した文献が残っているわけではないという。氏族名と地名の読みが近い、または一致することからの推測のようだ。

 もともとは畿内豪族だったらしく、『国史大辞典』(吉川弘文館、1979)には「いくはうじ 的氏 古代の有力氏族。臣(おみ)を姓(かばね)とする。『古事記』は、建内宿禰の子葛城長江曾都毘古(そつひこ)の子孫とする。『新撰姓氏録』河内・和泉・山城条にもみえる」とあった。さらに、氏族名は地名に由来すると思われること、宮城十二門の中に「的門」があり、軍事を職掌とした氏族と考えられること、欽明天皇の時代に任那に駐留したとされるなど朝鮮半島との関係が深いことが列挙されていた。一方で、浮羽と関連づける記載は一切ない。

 この項目の執筆者は、古代史を専門とする歴史学者、直木孝次郎氏(大阪市立大名誉教授)だったので、同氏の『的氏に関する一考察』(1961)を論文検索システムの「CiNii」で探しだして読んでみた。内容的には『国史大辞典』の記述をさらに詳しくしたもので、大辞典の説明ではわかりにくかった宮城十二門のくだりについては、平城京の十二門は氏族の名前を冠しており、これらの氏族は宮城警護に当たっていた、すなわち軍事的氏族だったと考えられると説明されていた。

 氏族名の由来となった本拠地については、直木氏は筑紫八女県的邑、筑後国生葉郡をはじめ、山城、尾張、淡路の各地にある“イクハ”を挙げながらも、「これらの地名は、的臣と関係があるとはいえない」と一刀両断。代わって<1>文献資料に見られる的氏の分布地域は河内、山城、近江、播磨に限られ、中でも分布の中心は河内、山城<2>同族とされる氏族の大半が畿内か近国の地名を負っている――等の理由から畿内豪族だったとしたうえで、本拠地は軍事上の要地であり、水運の便に恵まれていた河内地方の大和川流域だったと提唱されている。ただし、肝心の“イクハ”地名はこの地では見つけることができず、附記には「イクハの地名が大和川流域の地に発見される望みは、将来に期さなければならぬ」と書かれていた。

 一方、地元・田主丸で旧町時代に編まれた『田主丸町誌―ムラとムラびと』(1996)は「豪族名と地名が一致すること、朝鮮半島にもたびたび出兵していること、初期の月の岡古墳がほかの古墳と違って、畿内的要素が強いことなどから、的臣がこの地方に定着したものと考えられる」と、的臣が畿内から浮羽に移り、在地豪族化したとの見方を提示している。豪族名と地名の一致以外は根拠が薄い気がするが、直木氏論文では、的臣は6世紀半ばから末にかけて朝鮮支配に関して栄えたと考えられるという。6世紀後半とされる田主丸大塚古墳の築造時期と一致する。町誌は大塚古墳の被葬者として言及しているわけではないが、巨大古墳の造営者として最盛期の的臣は不足のない存在だろう。

 ただ、的臣が少なくとも古墳時代後期には浮羽に定着していたとしたら、1世紀以上も後の平城京時代に宮城警護の任に当たることができたのか疑問が生まれる。また、氏族名と地名との関係にしても、領地にちなんでイクハを名乗ったのか、的氏の領地になったことで地名がイクハ(ウキハ)になったのか判然としない。町誌が唱える“的臣西遷説”は色々とモヤモヤした部分が残り、直木説のように的臣と浮羽とは最初から無関係と考えた方がスッキリする気はする。

 なお、田主丸町は2005年、合併によって現在は久留米市の一部となり、田主丸大塚古墳一帯は久留米市によって史跡公園として整備された。現地説明板には的臣はおろか、被葬者に関する記載は一切なかった。発掘調査報告書は複数出版されているようなので、機会があれば読んでみようと思う。
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山苞の道は古墳ロード

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 福岡県久留米市田主丸町の耳納連山北麓に「山苞(やまづと)の道」 と名付けられた農道がある。景観的には何の変哲もない田舎道なのだが、沿道には観光農園や焼酎工場、ワイナリー、ギャラリー、カフェなどが集まり、ちょっとした観光道路となっている。11月30日、この道をドライブしていて、なぜか耳納連山東端の鷹取山に入り込んでしまい、Uターンしようとした公園で古墳の横穴式石室が多数密集しているのに出くわした。

 せっかくだから車から降り、付近を散策してきた。現地にあった説明板によると、森部平原古墳群という群集墳で、6世紀後半ごろの築造と推定されるという。短い時間歩き回っただけで10基程の石室を確認できたが、実際には約70基があり、県の史跡にも指定されている。石室の中には天井が抜けているものもあったが、全体的に保存状態は良好で、内部の構造などが良くわかった。

 帰宅後に見た田主丸町の観光サイトによると、古墳群がある平原公園は桜の名所で、桜の花びらが古墳を覆う風景は春の風物詩だという。雰囲気は一見、ほぼ同時期に造られた福岡市早良区の西油山古墳群(
「野芥の塚穴」)によく似ている気がしたが、ほぼ捨て置かれたも同然の西油山に比べ、さすがに県史跡の平原ははるかに大事にされている様子だった。

 再び「山苞の道」に戻ると、今度は「田主丸大塚古墳」という大規模な古墳に行き当たった。周囲は史跡公園としてきれいに整備されている。これまた車を停め見学してきたが、園内のあちこちに説明板が設置され、この古墳について様々な角度から学べる構成になっていた。

 記されていた情報を総合すると、森部平原古墳群と同じく古墳時代後期の6世紀後半に造られた前方後円墳で、その規模は全長103㍍、後円部の直径60㍍。同時期の古墳としては九州最大だという。従来は円墳だとみられていたが、1993年度に行われた調査で前方後円墳だったことが判明。2012~14年度に史跡公園として整備されたという。また、後円部には「造り出し」という付帯施設があったとみられ、説明版に取り付けられていた復元模型は、急須を上から見たような形をしていた。付近にある古墳ととともに「田主丸古墳群」として国史跡にもなっている。

 被葬者についての情報はなかったが、上記の観光サイトには「その規模にも関わらず、文献も地名にまつわる氏族の伝承もない謎につつまれた古墳です」と紹介されていた。研究者の間では浮羽地方を治めていたと思われる豪族、「的臣(いくはのおみ)」一族の首長墓ではないかという見方があるようだが、“的臣の墓”であるよりも“謎に包まれた古墳”である方が個人的には魅力を感じる。「山苞の道」は古墳ロードでもあった。

 ところで、この日、耳納山麓に行ったのは道の駅くるめでの買い物と、近くにある「柳坂曽根のハゼ並木」を散策するのが主目的で、ついでに周辺をぶらぶらしようと「山苞の道」を初めて通ってみた。柳坂曽根のハゼ並木は延長1.1㌔の道沿いに約200本が植えられ、この時期は紅葉の名所となっている。幕末、久留米藩がろうそくを特産にするため、ハゼの植林を奨励したのが始まりだという。ボランティアガイドをされていた地元の方によると、見頃は1週間前だったそうで、残念ながら真っ赤に染まった光景を見ることはできなかった。暖冬が続いているためか、近年は総じて色づきがあまり良くないという。

 「山苞の道」の道については、詳しくは田主丸町観光サイトにある
『山苞の道物語』へ。

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比恵遺跡144回目の調査

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 福岡市博多区博多駅南4の駐車場建設予定地で、奴国の集落跡と思われ約1,800年前の竪穴式住居跡40基が見つかり、12日「歩いてみよう古代のムラを」と題した現地説明会があった。この一帯からは奴国時代の遺構のほか、ヤマト王権の外交・軍事拠点だった那津官家跡とみられる倉庫群など数々の遺跡が見つかり、総称して比恵遺跡群と呼ばれている。今回の集落跡の調査名が「比恵遺跡144次調査」であることが遺構の集中ぶりを物語っている。

 住居跡は中心部に炉、その両サイドに寝床を配した構造で、発掘調査担当者によると「弥生後期としてはオーソドックスなもの」。集落の性格は、農村ではなく交易拠点を担った人々のムラだったと思われるという。比較的近い時代の交易拠点のムラとしては、福岡市内では県立修猷館高校(福岡市早良区西新)の下に眠る西新町遺跡があるが、住居にカマド(オンドル)が備え付けられ、数々の半島系土器が出土した西新町とは違い、今回調査した集落跡には半島系の色彩は見られないと担当者は話していた。

 出土遺物は、煮炊き用の甕、肥後系ジョッキ形土器、鹿角製柄付き鉄製ナイフなどが紹介されていた。このうち肥後系ジョッキ形土器とは、取っ手が付いたジョッキそっくりの土器で、熊本で多く出土しているため肥後系という名前が付いているという。ただし、今回出土したものは取っ手が欠損していたため、ジョッキというよりはタンブラーという見た目だったが、どちらにしても酒を飲むにはピッタリという感じだった。『魏志倭人伝』には「歌舞飲酒」という記述があり、弥生人も酒を飲んでいたようだ。
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九大から元寇防塁出土

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 福岡市東区の九州大箱崎キャンパスから元寇防塁と思われる石積み遺構が出土したというので、22日現地に行ってきた。だが、中央図書館裏の発掘現場はシートで覆われ、残念ながら問題の石積みを見学することは出来なかった。市民向けの説明会は前日21日に開かれていたのだが、平日のためこちらは仕事。祝日を待って出掛けたのだが、今度は発掘調査が休みだった。嫌な予感はしていたのだが…。

 仕方がないので、発掘現場のすぐ東側にある国指定史跡、地蔵松原の元寇防塁跡を見てきた。防塁跡とは言っても、地蔵松原公園の一角に「史蹟 元寇防塁」と刻まれた石碑と説明板が立っているだけで、遺構が残っているわけではない。平成に入って行われた発掘調査では石材が確認されただけで、このため今回九大で発掘された遺構について「博多湾東部で、元寇防塁が原型に近い状態で発見されるのは初めて」と報道されている。

 しかし、地藏松原公園の説明板によると、大正時代に行われた調査ではここでも石積み遺構が確認されたらしく、「防塁の構造は、前面に石積みし、後面は粘土で固めていた」という。これは報道されている九大の遺構の構造と全く同じで、全体が石で築かれた今津の防塁などとは異なる。間違いなく連続した遺構だろう。それにしても地蔵松原の遺構はいつ失われたのだろうか。

 元寇防塁とは、1274年の「文永の役」後、元軍の再度の侵攻に備え、鎌倉幕府の命で九州各国が分担して築いた防壁で、東は香椎から西の今津まで延長20㌔にわたって博多湾の守りを固めていたと言われる。箱崎地区の防塁を築いたのは薩摩の国だと伝えられている。1281年の「弘安の役」では、この防塁が実際に元軍の上陸を阻み、元軍がいったん態勢を立て直すため退いたところを暴風雨が襲い、壊滅したという。

 しかし、イデオロギーに凝り固まった福教組の教員たちは昭和時代、「元寇防塁など無用の長物で、後の時代に石が漬物石として役立ったぐらいだ」と平気で教えていたことを以前紹介した(
「福教組が歪めた元寇」)。防塁の石が漬物石として使われたのは嘘ではないかもしれないが、それ以上に福岡城の石垣に転用された方が多いことだろう。

 今回、九大で見つかった防塁遺構は、西日本新聞記事によると、 高さ0.9㍍、幅2㍍、長さ17㍍の規模。予想外の場所から突如として出土したというわけではなく、文化財保護法に基づき「元寇防塁包蔵地」に指定されていた区域の一角、つまり遺構が見つかる可能性があると思われていた場所だ。発掘調査は九大の伊都キャンパス(西区)への移転に伴うものだが、九大箱崎キャンパスには元寇防塁だけでなく、中世の集落遺跡・箱崎遺跡も眠っていると考えられている。伊都キャンパス内にある桑原・元岡遺跡群からは飛鳥時代の製鉄遺跡などが見つかり、福岡市が発掘調査に追われたが、箱崎キャンパスからも今後、校舎等の解体に伴い続々と遺跡が見つかるかもしれない。


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福岡城扇坂の発掘調査

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 福岡城二ノ丸で「扇坂」跡の発掘調査が続いている。梅園への登り口に当たる場所で、藩政時代、文字通り扇形をした階段があったらしく、城内に掲示されている古地図にもその姿が描かれている。それにしても、なぜ、今さら階段跡などの発掘調査を行っているのだろうか? 想像はついたが、調査地点近くに設置されていた看板に明記されていた。福岡城跡整備のためだ。この整備の中身を具体的に言えば、幕末期の福岡城復元を目指している。調査は8月末までの予定だという。

 福岡城復元については何度が取り上げたことがあるが、福岡市が2014年6月に公表した「国史跡福岡城跡整備基本計画」をもとに改めて簡単に紹介すると、当面の整備期間は2014~28年度の15年間。この期間を2014~18年度の短期、2019~28年度の中期に分け、建物や石垣、土塁などの復元・修復を、絵図や古写真、発掘調査の結果に基づき段階的に進めていくことになっている。

 つまり、今年は福岡城整備がスタートしてすでに3年目になるわけだが、一見、福岡城址に大きな変化はない。計画は本当に進んでいるのかと疑問を覚えてしまうが、基本計画によると、短期計画で復元工事、つまり新たな施設建設が予定されているのは潮見櫓(
「動き出した潮見櫓復元」参照)程度だ。ほかに計画案の中に盛り込まれているのは旧母里太兵衛邸長屋門の修復、現存する建造物・遺構への解説・案内板の設置、舞鶴中学校跡地の駐車場・ガイダンス施設としての暫定活用等で、これらはすでに実施済み。計画は徐々に前進してはいるわけだ。

 続く中期計画で復元が予定されているのは、福岡城最大の建造物だったと言われる武具櫓(
「福岡城の武具櫓」「福岡城武具櫓、2度目の説明会」)、福岡城の正門に当たる上之橋御門、本丸裏御門、太鼓櫓等で、扇坂の復元もここで予定されている。福岡城址が大きく装いを変えるのは2019年度以降ということになる。建造物等復元の基礎資料とするため、福岡城址では今後、間断なく発掘調査が続くことになるのだろう。

 短期・中期を合わせた整備費は約70億円と見積もられている。やや話が変わるが、今回の熊本地震で巨大な被害を受けた熊本城の復旧費は、石垣だけでも約350億円(熊本市が公表した文化庁試算)、建造物を含めればさらに膨大な金額に膨れ上がると言われる。復元から間もない熊本城の飯田丸五階櫓や戌亥櫓等は石垣が崩壊し、倒壊寸前の状態だ。この惨状を思えば、歴史的建造物の復元は単に史実に忠実というだけでなく、耐震面も重要になるだろう。福岡城整備の70億円という金額にこの点が考慮されているのか、ふと疑問に思った。下の写真は2015年4月撮影の戌亥櫓。


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御鷹屋敷跡のシャクヤク

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 福岡城址・舞鶴公園の「牡丹芍薬園」でシャクヤク(芍薬)が見頃と“先週初め”ぐらいに聞いたのを思い出し、きょう21日になって出掛けてきた。先週初めまでは18種、1,400株が咲き誇っていたらしいが、それから1週間以上も経ったのだから大半の花は落ち、一部の品種が辛うじて咲いているだけだった。

 「牡丹芍薬園」があるのは福岡城の三の丸。藩政時代の初期には黒田如水の隠居所があったところで、園内にはそれを記念した石碑も建っている。だが、如水が慶長9年(1604)に死去した場所は京都伏見の藩邸で、この隠居所に住んでいたのは1~2年程度だったと言われている。後にこの場所には実態は不明ながら「御鷹屋敷」という建物があったらしく、一般的に御鷹屋敷跡と呼ばれている。

 屋敷跡はその後、戦前戦中には城内に駐屯していた陸軍の将校クラブなどとして使用され、戦後は福岡外事専門学校(福岡大の前身の一つ)の校舎が置かれていた。大学移転後、「牡丹芍薬園」として整備されたらしい。ボタンの方は22種400株が栽培されている。入園無料なのはうれしいが、開園時間が午前9時から午後5時までのため夕方に散策できないのが残念だ。日が長い季節には開園時間を延長してもらえないだろうか。

 シャクヤクは花が美しいだけでなく、根が漢方薬の材料になることでも知られている。これに目を付けた福岡市が2年前、耕作放棄地でシャクヤクなどの薬草栽培に乗り出すと報道されたことがあった。その後の進展ぶりを知りたいと思い、市議会の会議録で調べてみたところ、この事業は実行に移されることなく、検討段階で打ち切られていたことがわかった。

 昨年3月の市議会決算特別委員会の分科会で市側が経緯を説明しているが、それによると、大学教授や薬剤師、JA、民間企業のメンバーによる研究会で検討した結果、「薬草の値段は薬価基準があり、それ以上の原料取り引きはできないこと、また、日本薬局方という基準があり、薬品として扱うには一定の成分が必要といった意見を受け」、年度途中であっさり取り止めたという。

 傷が深くならないうちに中止して正解だったという考えはあるだろうが、そもそも薬価基準うんぬんというレベルの話は事業に乗り出す前に把握しておくべきだったのではないかと思う。この事業には500万円の予算が計上されていたが、いくら無駄金になったのだろうか。失敗は成功のもととは言うが、血税を使う役所が簡単に失敗するのは勘弁してほしい。
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赤江の掩体壕再訪

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 宮崎市の赤江地区に残る掩体壕を3年ぶりに見てきた。掩体壕とは米軍空襲から飛行機を守るために造られたコンクリート製の構造物で、この地には戦時中、特攻基地ともなった旧海軍赤江飛行場があった。2013年8月に撮影した際は周囲の水田ではすでに稲の刈り入れが終わっていたが、今回は田植えの直後で、壕は青々とした苗に囲まれていた。

 前回撮影の際は「放置される掩体壕」という記事を書き、宮崎市に保存の考えがないことを紹介した。3年たった現在も状況に変化はない。戦後70年の節目だった昨年、地元住民らが赤江飛行場の記録を収集・展示する資料館建設や掩体壕の保存・戦跡公園化などを強く要望したが、市側を動かすことはできなかったという。

 掩体壕が残る一帯を公園として整備するとなると、農地の買収とともに、道路新設など周辺整備も必要になってくる。巨額の費用が掛かるのは確実。宮崎市の財政事情は詳しく知らないが、今年4月から第7次の行財政改革に取り組んでいるぐらいだから、少なくとも予算が有り余っているわけではない。赤江飛行場跡では毎年、戦死者の慰霊祭が行われ、宮崎市も参加しているが、飛行場の歴史を後世に語り継いでいく上で、市としてはこれが精いっぱいの行動なのだろう。

 掩体壕は築造から70年以上がたった今も堂々たる姿をとどめているが、所々ひびも見える。昨年は、保存を図る最後の機会だったのではないだろうか。戦争を知る世代が少なくなっていく中で、恐らく次の節目の戦後80年には保存を求める声など上がらないと思えるからだ。かといって壕を取り壊すのも大仕事になるはずで、保存も解体もしないという中途半端な状況が今後も続くのは間違いない。コンクリートの耐用年数が続く限り、農地のど真ん中に異様な建造物が鎮座するという奇観は残ることだろう。


 掩体壕近くの畑には、同時期に造られたと思われる小型の壕2基も残っている。これまた妙な景観だ。

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 以前「ヒッピーとコンクリート船」という記事で紹介した通称タンポリこと津屋原沼一帯では土木工事が続いている。南海トラフ地震で想定される大津波から住宅街を守るための堤防工事らしく、2018年度完成の予定。この津屋原沼は、赤江飛行場建設のため土砂を採取された窪地に海水が流れ込んで出来た。これも戦時遺構の一つだ。
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芝生広場になった鴻臚館遺跡

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 福岡城址にある鴻臚館遺跡が芝生広場として整備され、この春から市民に開放された。南側の1万平方㍍は一足早く2011年に芝生が張られていたが、1999年以来続いていた本格的発掘調査がようやく一段落し、北側1万3,000平方㍍にも広げられた。桜の開花時期に合わせて広場はオープンしたこともあり、格好の花見会場としてにぎわったようだ。

 少し気になるのは、早くも雑草があちこちに顔を出し、芝生を覆い尽くす勢いで育ちつつあることだ。南側は昨夏、セイタカアワダチソウが生い茂り、散策など到底不可能な状態になっていた。管理が行き届かないと、二の舞いになりかねない。(
「雑草で埋め尽くされた鴻臚館跡」

 この広場は今後どうなるのだろうか。昨年春に福岡市がまとめた「国史跡鴻臚館跡整備基本構想」、及びこの構想をもとに続けられている整備基本計画策定のための議論によれば、計画策定から7年後をめどに古代の地形を復元、15年後をめどに鴻臚館の建物を復元する方針が示されている。

 計画がまとまるのは今年度末の予定なので、鴻臚館が姿を現すのは順調にいって2032年頃ということになる。元号で言えば、平成44年。鴻臚館跡が、平和台球場の外野スタンド改修工事に伴い発見されたのは昭和末期の1987年12月。この時から数えれば、45年もの月日が経つことになる。ずいぶん遠大な話になった。

 鴻臚館とは飛鳥時代から平安時代後期(7~11世紀)にかけ、外交・交易・博多湾防衛等の機能を担った施設で、外国の使節らを宿泊・接待施設でもあったことから、一般的に“古代の迎賓館”などと呼ばれている。この跡地を含めた一帯に福岡城が造られ、廃城後は陸軍が駐屯、戦後になって平和台球場が建てられた。

 基本計画について話し合っている有識者からは、展示施設ではこれらの歴史についても取り上げるよう求める声が出ており、「中西太の場外ホームランのプレートを置いてほしい」という意見さえあった。鴻臚館の雰囲気にはそぐわないかもしれないが、個人的には賛成したい。
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静かな大宰府政庁跡

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 太宰府市に行き、九州国立博物館で開催中の『美の国 日本』を見た後、大宰府政庁跡を散策してきた。平日だったが、大駐車場には次々に観光バスが到着し、太宰府天満宮の参道は修学旅行生と中国人の団体客で埋め尽くされていた。天満宮は「学問の神様」として全国的にも有名らしいので、修学旅行生が参拝するのは理解できないでもないが、なぜ中国人にまで人気があるのかは正直、謎だ。梅が枝餅でも爆買いしているのだろうか。

 大混雑していた太宰府天満宮、九州国立博物館をよそに、国の特別史跡、大宰府政庁跡ではボール遊びに興じる高校生の一団や、犬の散歩をする近隣住民らしき人を見掛けただけだった。礎石のレプリカがあるほかは、石碑が3基建っているだけ。古代の「遠の朝廷」の面影など全くなく、見た目は芝生の多目的広場でしかない。だから、「ももクロ男祭り」の会場になったりもする。

 男祭りに対しては地元の市民グループが「男女差別の催しに市が協力するのはけしからん」と非難の声を上げ、一部報道で話題になったが、私はむしろ、特別史跡でのアイドルの野外コンサート開催を文化庁や太宰府市などの行政サイドが許したことに驚いた。しかし、よくよく調べてみると、この場所では過去にも南こうせつさんのコンサートや薪能などが開かれ、地元の祭り会場としても利用されてきたことがわかった。見た目だけでなく実態も“多目的広場”だったのだ。

 史跡として開発から守られているのだから、礎石のレプリカと芝生だけでも十分という考え方もあるのだろうが、古代を代表する外交・防衛・行政拠点の大遺跡でもあり、個人的にはもう少し色気があっても良い気がする。太宰府市議会内にも一部建物の復元や、この政庁跡をはじめ市内各所にある名所・旧跡を観光客が回遊する仕掛けづくりを求める声があるが、財政難もあってか実現は遠いようだ。もっとも、巨費を投じる箱もの建設を巡って市は揺れ続けているようだが。

 ところで、『美の国 日本』は九州国立博物館の開館10周年を記念した特別展で、数々の国宝、重文級の美術品が展示されていた。私が見たかったのは青森県・亀ヶ岡遺跡出土の遮光器土偶(重文)、新潟県・笹山遺跡出土の火焔型土器(国宝)の二つで、まさにこの2点が会場入り口近くで来場者を出迎えていた。これですっかり満足した私は残る展示品は適当に見ただけで、全く関心のない書画に至っては完全にスルーした。私よりずいぶん後に会場から出てきた家族には「もったいない」と呆れられたが。博物館では中国人観光客の一群は見掛けなかったが、隋の煬帝の墓からの出土品(中国からの借り物)なども展示されており、意外に彼らの興味もひいたのではないだろうか。
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