博多にいた「ガリヤの種族」とは

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 国会図書館デジタルコレクションに収録されている明治時代の出版物『福岡県郷土史誌』(藤野磯雄編、1901)に、「ガリヤの種族と由来」という奇妙なタイトルの一文があった。「福岡にガリア人でも住んでいたのか」と例によってバカな想像をしながら読み進めると、見慣れた話が記されていた。博多が小早川秀秋に治められていた慶長4年正月7日、松囃子の一行と秀秋の使者が大げんかになり、松囃子の参加者が使者を殺害してしまった。秀秋からは下手人を差し出せと強く迫られ、関係者が困り果てていたところ、博多の住人たちの助けで暮らしていた中国浪人が恩返しで身代わりになると名乗り出て、処刑されたというものだ。これは明らかに「もう一つあった浪人身代わり物語」で紹介した『石城志』所収の物語だ。

 ただ、『石城志』にはない後日譚が『福岡県郷土史誌』には記されていた。『石城志』には、浪人は死を前に、老母の世話を博多の住人たちに託したとだけ記されていたが、『福岡県郷土史誌』によると、他にも遺族がいたらしく、博多の住人たちは浪人の恩に報いるため、竪町浜原に仮の家をこしらえて遺族たちを住まわせ、面倒をみるようになった。この「仮の家」というのが「ガリヤ」なる妙な言葉の由来で、『福岡県郷土史誌』には以下のように説明している。

 「毎日往ったり来たりするのに名字やなんかは云うも面倒なもんだから仮屋ゝと代名詞をつけて云いふれて居ったのが何時の頃よりかガリヤゝと濁って云う様になったのである」

 何のことはない、現代の用語に直せば、「ガリヤの種族」ではなく「ガリヤの一族」の由来を記した一文だった。明治時代にはこんな用語が用いられていたのだろうか。なお、『福岡県郷土史誌』にはガリヤ一族の執筆当時の現状についても触れられているが、「博多中の施しを受け来たったのが慣例イヤ習いが遂に性となったので爾来近年に至る迄祝儀不祝儀には必ず出掛けて来て貰い物をせねば帰らんという風で今日に至り今では夫が漸次繁殖して分家に分家が出来ると云う様な訳で現今は五十戸内外に上って居る」とあまり好意的ではない書きぶりだ。

 この『福岡県郷土史誌』は自治体などが出版したオフィシャルな郷土史資料ではなく、福岡市にあった当時あった新聞社「九州日報」(1887年、「福陵新報」として創刊)が、地域に埋もれた記録や言い伝えを募り、紙面で連載、それを書籍にまとめたものだ。そのためもあって「ガリヤの種族…」などという他の郷土史には見当たらない項目が取り上げられ、文章も非常にくだけたものだった。異色の郷土史だとは思うが、編者の藤野磯雄がまえがきで「載容の史料悉く正鵠を得たり(ママ)となす可からずと雖も」と断っているぐらいだから、100%信頼できる代物ではないだろう。なお、「ガリヤの種族…」の最後には(物好小僧)という投稿者らしき筆名が記されている。この名前も胡散臭い。

 それにしても「もう一つあった浪人身代わり物語」でも書いたが、この小早川秀秋時代の中国浪人物語と、中央区唐人町に伝わる江戸時代の浪人・森八兵衛の物語とはどのような関係にあるのだろうか。森八兵衛も火消し同士のけんか殺人で下手人の身代わりとなり、処刑されたと伝えられる。人々の記憶から消え去った中国浪人の物語とは異なり、唐人町の成道寺には森八兵衛を供養する八兵衛地蔵尊(写真)が祭られ、消防の守り神として今なお信仰を集めている。

 慶長4年(1599年)正月7日と事件の起きた年が明確な上、松囃子の歴史とも密接に関わり、しかも『石城志』という信頼性の高い文献に記された中国浪人の物語の方が何らかの史実を伝え、森八兵衛物語は派生物ではないかと思ってきたが、三流のゴシップ記事みたいな「ガリヤの種族…」を読み、かえって考えが揺らいだ。万が一、二つの物語とも史実だとしたら、無実の人間を平気で刑場に送った上で、それを美談に仕立て上げることを、福岡・博多の人間は二度にわたって行っていたことになる。あまり名誉なことではない。
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福岡市美術館で東光院の仏像を見た

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 福岡市美術館に行き、常設展示されている東光院の仏像を見てきた。今春、改装オープンした美術館1階に東光院の仏像展示室はある。「堅粕薬師」の名で中世から信仰を集めてきた高さ198㌢の薬師如来立像が中央に立ち、両脇に日光、月光菩薩、周囲を十二神将像が取り巻く。さらに展示室入り口の左右を2体の金剛力士像が守る。寺の山門と本堂をイメージした配置なのだろう。見ごたえがあり、ストロボさえ焚かなければ、撮影可能なのもうれしかった。ただ、十二神将像は、本来とは異なる十二体が展示されているのではないだろうか。

 東光院とは福岡市博多区吉塚3にあった806年創建と伝えられる古寺で、最後の住職・清藤泰順(きよとう・たいじゅん)尼は1974年に亡くなる直前、寺の敷地・建物と守り伝えてきた仏像30体以上を福岡市に無償で寄贈した。後継者がいなかったため、仏像などの先行きを心配したためと伝えられる。薬師如来立像をはじめとする25体までが国重文。福岡市美術館の自慢は、美術館2階に展示されているサルバドール・ダリやアンディ・ウォーホルらの現代美術コレクションだが、現代美術に何の関心もない私にとっては、東光院の仏像群をはじめとする古美術品の方が余程見ごたえがある。(東光院について詳しくは
「東光院の仏像を見てきた」

 ところで、冒頭に書いた本来と異なる十二神将像が展示されているのではないかという疑問についてだが、東光院の仏像群には薬師如来とこれを守る十二神将像が二組あるためだ。もともと寺にあったのが薬師如来立像と、やや小ぶり(69.5~73.8㌢)の十二神将像で、これらは作風などから平安時代後期の作とみられている(十二神将像のうち3体は江戸期の作品)。これに加え、明治初期の神仏分離の時代に住吉神社(福岡市博多区)の神宮寺だった円福寺が廃された際、同寺の本尊だった薬師如来坐像と、もう一組のやや大ぶり(99.7~105.5㌢)の十二神将像が東光院に移された。薬師如来坐像は平安後期の作とされ、十二神将像の制作年代は資料によって鎌倉、または南北朝時代と異なるが、後世に付け足されたものであるのは確かなようだ。

 二組の十二神将像は、サイズの違いだけでなく、素人目にも分かるほど作風にも大きな違いがある。もともと東光院にあった十二神将がオーソドックスな作りに見えるのに対し、円福寺から移管された十二体は「ソフトクリーム」などと評される大げさな怒髪や、像によっては悲しげにもユーモラスにも見える表情など、非常に個性的だ。現在展示されているのは、明らかに円福寺から移管された十二神将像の方だ。個性の強さを買われて、東光院伝来の十二神将像を差し置き、薬師如来立像を守る大役を仰せつかったのだろうか。

 もっとも、二組の薬師如来像と十二神将像については、紹介した組み合わせとは逆が正しいとする見方もある。例えば、「東光院の仏像を見てきた」の中で紹介した戦前の出版物『国宝巡礼記』(1932、小野賢一郎)には「十二神将のうち十二体ある方は三尺三四寸ある大形の方で、薬師立像に付属したものだそうであるが、これよりも十二神将の高さ二尺二寸位のものの方が余程作がよく、殊に鑿が深く力強くはいっていて、相当破損もしているが、藤原期の特色がよく窺われる」とあり、明らかに大ぶりの十二神将像が薬師如来立像に付随するものととらえている。

 『国宝巡礼記』著者の小野がこう考えたのには理由があり、当時はこの組み合わせが正しいと理解されていたのだ。薬師如来立像と坐像は1904年(明治37)、国宝(現行法では重文に当たる)に指定されているが、この時に同時指定されたのは、大ぶりで個性的な十二神将像の方だ。しかも名称は「木造十二神将立像(本尊ニ属スル分)」となっている。一方で、もう一組の十二神将像が江戸期の3体を除いて国宝指定されたのは、この8年後の大正元年(1912)のことだ。ところが、今回参考にした近年の資料はすべて、小ぶりの十二神将像が立像に付属するという考えに立っていた。後の研究の進展によって、組み合わせが逆転したらしい。美術館で現在展示されている組み合わせは、古くからの見方に従ったものだと考えることもできる。

 東光院から寄贈された仏像は、これまでに名前を挙げたもの以外にも阿弥陀如来立像や、もう一組の日光、月光菩薩立像などがある。東光院の仏像展示室は定期的に展示替えが行われる予定なので、薬師如来坐像やもう一組の十二神将像はじめ、今回目にできなかった仏像たちにもいずれは会えることだろう。

 『国宝巡礼記』以外の参考資料は、『堅粕薬師と東光院の古仏たち』(九州歴史資料館、2018)、『福岡県の仏像』(アクロス福岡文化誌8、2014)、「薬王密寺東光院と重要文化財の仏像群」(筑紫豊、『西日本文化』101号所収、1979)、福岡県文化財データベース、清藤泰順尼死去当時の新聞記事など。後半部分を加筆しました。
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路面電車を福岡市によこせ

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 福岡市内を走っていた西鉄の路面電車(福岡市内線)が1979年2月に全廃されてから、今年でちょうど40年になる。この機会に西鉄路面電車の歴史を調べていたところ、興味深い出来事があったのを知った。廃止の10年ほど前、福岡市が西鉄に対して「路面電車の経営権をよこせ」と要求したことがあったのだ。当然ながら西鉄は強く拒否。蜜月と言われる現在とは違い、両者は厳しく対立していた。

 民間企業に資産をよこせとはずいぶん横暴な話だが、これには一応の理由があった。西鉄路面電車の前身企業の一つ、福博電気軌道が1907年(明治40)、福岡市との間で報償契約なるものを結び、この中に「開通から50年後、経営権の一切を市に譲る」という項目があったのだ。

 福博電気軌道の営業開始は1910年3月なので、50年後とは1960年に当たる。福岡市はこれを盾に取り、1969年頃から経営権譲渡を強く西鉄に迫り始めた。西鉄側は、報償契約はその後何度も結び直しているが、新たな契約には譲渡の項目はなく、もはや無効だと反論していた。今、両者の主張を見比べてみると、西鉄側の主張の方に理があるように思えるが、福岡市側には「裁判に訴えてでも」という強硬論があったほどだから、それなりに勝算があったのかもしれない。

 それにしても、福岡市はなぜ、路面電車の経営権などを欲しがったのだろうか。1979年には全廃されることでもわかるように、すでに路面電車は西鉄にとってもお荷物となっており、1968年7月の記者会見で当時の社長は「西鉄の市内電車は、急場しのぎの運賃値上げをいくらやっても、立ち直れなくなっている」(『西日本鉄道百年史』2008、以下『百年史』)と事実上の降参宣言をしていたほどだ。

 ピーク時の1959年度には1億人を超えていた年間利用客も70年代にはほぼ半減し、当時の報道によると、年間の赤字は十数億円にも上っていた。西鉄社内には「そんなに市が欲しがるのならば、従業員ごと路面電車をくれてやればいい」という声さえあったという(実際に路面電車廃止後、西鉄の余剰人員300人を市が引き受けている)。

 餅は餅屋の西鉄でもうまくいかなかった路面電車の経営について、市に成算があったとは到底思えない。『百年史』や当時の新聞記事などでも、今ひとつ市の真意がつかめないのだが、『福岡市史(昭和編続編二)』(1990)を読んで漠然とながら見えてきたものがある。この路面電車の経営権問題は、『福岡市史』では「西鉄市内電車の無償譲渡問題」とのタイトルで福岡市営地下鉄の章に収められている。これだけで地下鉄と密接にかかわる案件だったことがわかるが、さらに以下のような記述があった。

 当初譲渡契約無効を主張していた西鉄側も、路面電車利用客の減少と全国的な廃止の傾向から「債権、債務、従業員を含めた譲渡であれば市の申し入れに応じてもよい」との考えを示すに至り、昭和四十五年八月二十三日ようやく和解に達し、和解協定書を締結する運びとなった。その後、和解についての臨時市議会が開かれ、市と西鉄は協力して都市交通の諸問題に取り組むことで、同年十月、福岡市・市議会・西鉄の三者による「福岡都市交通問題協議会」が発足した。

 この福岡都市交通問題協議会こそ、市が構想していた地下鉄建設と、これと密接に絡む路面電車の廃止を巡り、西鉄余剰人員の受け入れを含めた補償問題などを話し合った場だ。4年にわたる話し合いの末、1974年1月30日、当時の進藤一馬市長と西鉄社長によるトップ会談で地下鉄建設と路面電車の段階的な廃止で合意し、これを受けて市は2月1日、鉄道事業免許を運輸大臣に申請した。こうしてみると、路面電車の経営権譲渡要求とは、西鉄を協議の場に引っ張り出し、さらに補償等を巡る議論を優位に進めていくための一種の方便だったのではないかと思える。なお、西鉄側が「市の申し入れに応じてもよい」との姿勢を見せていたというのは『百年史』にはなかった部分だ。

 地下鉄建設が動き出したのを受け、西鉄路面電車のうち、建設工事が開削工法で行われるため運行が不可能になる貫線、城南線、呉服町線の3路線はいち早く1975年11月2日に廃止になり、残る貝塚線、循環線も79年2月11日廃止となった。当時、車社会の到来で路面電車は確かに道路交通の邪魔者にはなっていたが、一方で「将来、絶対に後悔する」と廃止に反対する声も、特に文化人や知識人と呼ばれる人の間では少なくなかった。

 私自身はあまり路面電車を使っていなかったこともあって、廃止の際も特に感慨はなかったが、現在も路面電車が健在の熊本や長崎で利用してみると「意外に便利な乗り物だな」と思う。福岡市が現在、路面電車の廃止を後悔しているのか否かは知らないが、新たな交通インフラは求められているらしく、JR博多駅と港湾地区とを結ぶ大博通りでは、現職市長が旗振り役となってロープウェイ建設構想が浮上している。素人考えながら、他都市を見ていると、ロープウェイの新設などより路面電車を復活させた方がコスト面でも輸送力の面でも有利だと思うのだが、それとも路面電車はやはり今でも道路交通の邪魔者でしかないのだろうか。
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もう一つあった浪人身代わり物語

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 以前、福岡市中央区唐人町の成道寺境内にある八兵衛地蔵の由来について紹介したことがある。元禄時代、唐人町と須崎町の火消しが乱闘になり、須崎町側に死者が出た。役所から下手人を差し出せと厳しく迫られ、唐人町の関係者が苦悩していたところ、この町に住んでいた肥後浪人の森八兵衛が「町の皆さんに世話になったお礼に、独り身の私が罪を背負いましょう」と自ら身代わりになり、死罪となった。深く感謝した町の人々は八兵衛地蔵を建てて供養した、というのがあらすじだ。これにそっくりな話が江戸時代中期に書かれた博多の地誌『石城志』にあるのを見つけた。時代や登場人物の出自などは異なるが、筋立ては酷似している。この二つの物語は、どのような関係にあるのだろうか。

 『石城志』には「慶長四年正月、名嶋中納言秀秋卿より、肥後の国主加藤氏へ年賀の使者さし越れしに…」という書き出しで、以下のような物語が紹介されている。博多が小早川秀秋の治世下にあった慶長4年(1599)の正月7日、博多松囃子(博多どんたくの源流に当たる本来は正月行事)の一行が筥崎宮に参ったところ、「いかなる故にか」秀秋の使者と衝突して口論になり、ついには使者を殺害してしまった。秀秋からの再三の要求に応じ、下手人を差し出すことが決まった時、対馬小路に住んでいた中国浪人(一説には日向浪人)が身代わりになることを申し出た。

 この浪人は、博多の住民たちの助けで暮らしてきたことから、「今此恩を報ぜずんば、いつれの時をか期すべきとて」という思いで決心し、住民たちには一人残される老母の世話を頼み、筥崎松原で処刑された。この事件以降、松囃子は取りやめとなった。40年余り後の寛永19年(1642)、福岡藩二代藩主の黒田忠之の命で再興されたが、途絶していた間に松囃子の伝統はすっかり失われていたことから、町中の古老を集めて記憶を呼び覚ましてもらったという。

 以上が「もう一つの浪人身代わり物語」の大雑把な内容で、繰り返しになるが、八兵衛地蔵の由来とは元々は同一の物語だったとしか思えない程、似通っている。なお、松囃子の途絶と再興については、『石城志』のほか、貝原益軒の『筑前国続風土記』にも「慶長五年より寛永十八年迄中絶せしを、忠之公の命に依て、寛永十九年正月十五日より、博多の町人再興して」(寛永十九年は1642年)とあるが、こちらには途絶の理由については書かれていない

 『石城志』は明和2年(1765)に書かれたもので、著者は医師だった津田元顧・元貫父子。浪人身代わり物語は、この巻之六の「歳時」の中で紹介されている。『石城志』は博多の歴史を知る上で非常に信頼されている文献で、だからというわけではないが、事件の発生が慶長4年と具体的で、松囃子の歴史とも密接に結びついた『石城志』の方が、八兵衛地蔵の由来よりも真実味を感じる。ただし、現在も地域住民の間で大切に語り伝えられているのは八兵衛地蔵の由来の方だが。


 写真は現在の松囃子の模様。福岡市の写真ダウンロードサイト「まるごと福岡博多」からお借りした。
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明治23年の集合写真、神吉某の正体は

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 上の集合写真は、1939年(昭和14)発行の『福岡市市制施行五十年史』に掲載されていたもので、写真説明には「明治23年夏、処は東中洲の一角、福岡くらぶ(市内最初の赤煉瓦洋館)を背景とした名士』と記されている。前列右から6人目は初代福岡市長の山中立木、後列右から4人目が第2代市長の磯野七平。私が辛うじて名前を知っていた人物は、この二人だけだったが、残るメンバーも、福岡最初の銀行・第十七銀行、電力会社の九州電燈、そして博多商議所などの創設メンバーらが多くを占め、この写真に写っていたのは、確かに当時の福博政財界の大立者たちだったようだ。

 しかし、妙な写真だと思う。19人の人物が写っているが、全員の視線がてんでバラバラなのだ。撮影したカメラに目を向けていると思われるのは磯野ら5、6人ほどで、山中ら主に前列のメンバーは向かって斜め右方向に顔を向けている。彼らとは逆の方向を向いている者も複数おり、名士というより聞き分けのない悪童たちの集合写真のようでもある。複数のカメラが向けられていたため、視線が定まらなかったのだろうか。

 この写真がもう一つ妙なのは、名士たちの写真であるはずなのに、一人だけ匿名同然の人物が交じっていることだ。後列左から3人目のパンチパーマのような髪型をした長身の人物で、彼だけはフルネームではなく神吉某(なにがし)と記されている。『五十年史』発行は、この写真が撮られてから約半世紀後のことで、50年の間に神吉の素性は不明となったのだろうか。

 少し調べてみたところ、集合写真に写るメンバーの周辺に、神吉秀成という人物がいたことがわかった。この人物こそが神吉某の正体ではないかと思うが、残念ながら詳しい素性までは突き止められなかった。このブログらしく、いかにも中途半端な話になるが、神吉秀成についてわかったことを以下に簡単にまとめたい。

 最初に、冒頭の写真説明にある「福岡くらぶ」についてだが、これは建物の名称であるとともに、ここを本拠にした団体名でもあった。この福岡くらぶとは、福岡市の様々な職業の者が交流を深めるために結成した一種の社交的団体だったようで、1886年(明治19)2月に結成総会を行っているが、170人あまりの参加者の中に、神吉秀成の名前がある。結成当初の役員には、常議員長の山中立木をはじめ、下沢善四郎、服部文助、江藤正澄、瀬戸惣太郎ら、集合写真に写るメンバーが多数名を連ねている。福岡くらぶは写真が撮影された1890年(明治23)の9月に解散しているが、この集合写真自体が恐らく、解散を目前にした役員たちの記念写真だったのではないだろうか。

 神吉秀成の名前は、福岡自由倶楽部という団体の結成メンバーの中にもある。この福岡自由倶楽部とは1890年6月に結成されたものの、3か月後の9月には立憲自由党に加盟するため解散した非常に短命だったローカルパーティーで、この一員だったということは、神吉はいわゆる自由民権運動家の一人だったのだろう。

 このほかに神吉に関する文献資料を見つけることはできなかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの中に神吉秀成著『日本将来之政治及教育』(磊落堂、1888)という資料が収録されており、この奥付には「著作者 同県平民福岡区福岡舩町三十番地 神吉秀成」とあった。磊落堂は福岡市にあった地方出版社で、出版年を見ても、著作者の神吉秀成は間違いなく同一人物だろう。

 この奥付から神吉は、山中立木や小河久四郎のように旧福岡藩士ではなかったことがわかる。また、福岡市のインフラ整備や市政関係の資料には全く名前が出てこないことを考えると、野村久一郎や瀬戸惣太郎、磯野七平のような実業家、下沢善四郎、中尾卯兵衛(写真には卯平とあるが、他の資料にはすべて卯兵衛と表記されている)、山本与志介のような市議経験者でもなかったと思われる。そもそも実業家や市議経験者だったならば、神吉某と素性不明になるはずがない。福岡くらぶに集った者たちで、ほかに考えられるとしたら、市井の研究者、教育者あたりだろうか。

 『日本将来之政治及教育』はタイトル通り、将来の政治、教育のあり方について提言したもので、活字本ではないため読むのに骨が折れ、ざっと目を通しただけだが、政治については地方の自立を促すため現在の道州制みたいなものを提唱し、教育については政治からの独立を訴えていた。中でも帝国大学(当時は現在の東大だけが唯一の帝大だった)を政治的影響から守るための具体策として、佐渡、生野鉱山を帝国大に付与して経費を賄うとともに、学生の実地教育の場にも活用すべしという主張は面白かった。今の国立大学法人のあり方をさらに一歩進めたような考えだ。神吉秀成が何者かはわからなかったが、あまりに時代の先を行き過ぎて、かえって名を残せなかった人物だったのだろうかと思った。


(参考文献は『福岡市史』明治編、『新修福岡市史』資料編近現代2など)
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明治に廃れた子供の正月行事「千ざいろう」

 博多の行事や風習をまとめた戦前の出版物『博多年中行事』(佐々木慈寛編)に書かれていたのだが、博多の子供たちは昔、「千ざいろう」なる正月行事を楽しんでいたという。破天荒というか、結構乱暴な催しだが、だからこそ子供たちは楽しみにしていたことだろう。子供時代、一度でいいからこんな催しに参加してみたかったと痛切に思った。

 どんな催しかと言えば、『博多年中行事』には次のように紹介されている(囃し言葉は長いので、省略した)。

 町の子供が五人十人と一団となって、ヒョーヒョー(木綿の筒袖の上着)の片方の袖を別の袖におし込んで頭に被り、「千艘(せんざい)入ろう、万艘(まんざい)入ろう、先づ一番のお船には、お船頭をおきやれや、錦魚丸という船は、表飾って槍立てて、榊を立てて七五三(しめ)を張り…」と囃し立て乍ら町内を巡って銭をもらう。家人が望み通りに銭を与えた時には「こちの竈の前ア、金銀積んだア、見さいな見さいな」と褒め、之に反した時には「こちの旦那どんなア、内にか外か、竈の前見て見りや、どんぎり積んだむさいな、むさいな」と罵る。尚この銭は子供の懇親会の費用となる。

 かいつまんで書けば、扮装した子供たちが徒党を組んで家々を回り金銭を要求、従わなければ、家主を罵倒し、集まった金は飲み食いに使っていたというわけだ。佐々木慈寛氏の文章が非常に端的なこともあり、催しの表面だけをなぞると、まるで少年恐喝団が博多の街を跋扈していたようだが、「銭をもらう」を「ご祝儀をもらう」に言い換えるだけで、ずいぶん趣は変わる気もする。

 似たような催しは他にもあるのではないかと調べたところでは、鹿児島県の種子島などに現在も伝わる「福祭文(くさいもん)」という正月行事がよく似ているように思えた。毎年1月7日の夕方から、子供たちが大人を交えて家々を回り、玄関で各家の幸福と繁栄を祈って「福祭文」を合唱、終わるとご祝儀をもらって後にするというものだ。ご祝儀をもらえない時の罵倒がないこと以外は、「千ざいろう」と共通点が多い。

 また、「千ざいろう」では、子供たちが服を被っているが、これが稲わらだったら、今話題の来訪神行事のようでもある。農村ではなく、交易(港)で栄えた商人の街・博多だから、このような形に変容したのではないかと想像も広がる。

 「千ざいろう」の成り立ちなどを調べようと思い、図書館で『博多年中行事』以外の文献を探してみたのだが、これが不思議なことに、数十冊をめくっても「千ざいろう」について触れたものを見つけることはできなかった。ようやく探し当てることができたのは雑誌『博多のうわさ』に、郷土史家の井上精三氏(1901~88)が「明治のわらべ唄」について書いた一文だ。先に紹介した囃し言葉がわらべ唄の一つとして歌詞全文が紹介され、「明治の中期にすたれてしまった博多の子供による正月行事。夜になると数人の子供が一団となって、家の門前でこの唄をうたい、銭または餅をもらって歩きまわった。歌詞はその家を寿ぐめでたづくしで、言い立てに類する」という短い解説文があった。

 明治時代には廃れてしまった催しだから、古くても戦前の風習・風俗ぐらいしか取り上げていなかった他の文献には一切の記述がなかったわけだ。

 佐々木、井上両氏の説明文は、“ご祝儀をもらえない時の罵倒”以外はほぼ同じで、繰り返しになるが、これがあるかないかで、「千ざいろう」の雰囲気はまるで異なってくる。よほど偏屈な人でもない限り、繁栄を祈って家々を回る子供たちを邪険には扱わないはずで、まったくの臆測だが、一部の家がいったんご祝儀要求を断り、悪口雑言を浴びるのも一種のお約束だったのではないかという気もする。現代の正月、子供たちはお年玉を楽しみにしているが、中身が現金になったのは比較的近年、主に都市部から広がっていった風習で、もともとは餅だったらしい。「千ざいろう」の消滅で、お金をもらえる貴重な機会も失った明治の博多の子供たちは、さぞかし残念がったことだろう。
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「漢委奴国王」の金印、帰郷40周年

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 入館料が200円と格安なこともあり、暇な時は福岡市博物館の常設&企画展示室に入り浸っている(特別展は入館料が高いので、よほど興味がある時以外は行かない)。企画展示室では年明けから、新春の恒例となった感がある国宝の名刀「圧切(へしきり)長谷部」の展示が始まり、今年も刀剣女子たちが詰めかけている。同じく国宝「漢委奴国王」の金印=写真=が出迎える常設展示室も普段に比べれば、にぎわっている感じだ。

 この金印、福岡に戻ってきてから今年で40周年になる。以前はどこにあったかと言えば、もちろん東京で、上野の国立博物館に収蔵されていた。2011年4月に書いた
「福岡市博物館、大改修へ」で、「国立博物館に召し上げられ」といい加減なことを書いてしまったが、東京時代に所有していたのは旧・福岡藩主の黒田家で、国立博物館は黒田家から寄託を受けていたというのが正確だ。この当時、福岡市には国宝を預かるに足る施設はなかった。

 しかし、福岡市が立派な美術館建設を始めると、黒田家は1978年、金印や「圧切長谷部」をはじめとする歴史資料や古美術品などの数々を惜しげもなく福岡市に寄贈した。この年に亡くなった第14代当主・長礼(ながみち)氏の「黒田家の宝は福岡へ帰すのが筋」という遺志を守ってのことで、金印を手放すことになった国立博物館は非常に悔しがったとも言われている。
 
 福岡市美術館は79年11月3日に開館し、金印はこの日から一般公開が始まった。前年に寄贈を受けたものの、美術館完成までは国立博物館が保管を続けていたため、今年が帰郷40周年に当たる。1990年10月に福岡市博物館が開館すると、金印は博物館で収蔵・展示するのがふさわしいとトレードされ、現在に至っている。なお、金印がいつ東京に持ち込まれたかについては、色々と文献資料を当たったのだが、よくわからなかった。最後の藩主・黒田長知が福岡を離れ、東京に移住した1871年(明治4)だろうとは思うが、藩政時代から福岡藩の江戸藩邸に保管されていたという話もあるらしい。

 国立博物館収蔵時代、金印は事実上、門外不出の状態で、まれに考古学関連の企画展などで展示された時は大変な人気だったという。それが現在では、わずか200円の料金で誰でも目にすることができる。以前、福岡を離れた後の黒田家の功績として、修猷館の再興と黒田奨学会運営を挙げたことがあるが、金印などの文化財寄贈もこれに加えるべきだろう。

 私はどちらかと言えば、アンチ黒田(昔は福岡、とりわけ博多部では少なくなかった)で、このブログでも「名君不在の福岡藩らしく不名誉な歴史ばかり」などと悪口ばかり書いてきたが、福岡の教育・文化に対する黒田家の貢献は極めて大きいと思う。
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戦時下のミッションスクール撲滅運動

 戦時下の福岡県で、不愉快極まりない運動が行われていたことが、県教委発行の『福岡県教育百年史』(1981)に記されている。戦前、戦中の「キリスト教系学校への弾圧」について紹介した一文で、「キリスト教国である米英等と深い関係があり、平和と人類愛を目標とするキリスト教系の学校に対しては特に非難、圧迫が次第に強く加えられるようになった。(中略)ある種の学校については、事実上学校経営が不可能になるような条件の実行を強要し、あるいは廃校に追いこもうとさえした」などと書かれている。この一文はごく簡潔にまとめられ、どの学校にどのような弾圧が加えられたのか、具体的事実は全く記されていないのだが、当時の新聞の切り抜きがカット写真として掲載され、その写真説明が本文よりはるかに生々しく弾圧の実態を物語っている。「戦時中、西南女学院撲滅運動に関する新聞記事」。

 撲滅とは手元にある国語辞典によると「うち滅ぼすこと、絶やすこと」で、普通は社会の害悪に対して使われる。そんな激しい言葉が、一女子校に向けられていたのだ。

 西南女学院は北九州市小倉北区にあるミッションスクールで、1922年(大正11)、伝道のため来日していたアメリカ南部バプテスト派の宣教師によって創設された。同僚宣教師によって設立されたのが福岡市の西南学院で、両学院は経営的には無関係だが、西南女学院の第7代院長だったW.M.ギャロット(1910~74)が、後に西南学院の理事長を務めるなど人的なつながりは深い。新聞切り抜きの写真は、見出しは読み取れるものの、記事本文は全く判読できず、撲滅運動の正体まではわからない。そこで『西南女学院七十年史』(1994)をめくったところ、まるまる一章を割いて戦時下の苦難がつづられていた。

 『七十年史』にはさすがに「撲滅運動」ではなく、排撃運動、排斥運動と記されていたが、いずれにしろ西南女学院がターゲットとされたのは、キリスト教系の学校だったからというだけではない。同学院の立地も問題にされていた。「下関・北九州は人々の交流、物資輸送の要地であり、大陸進出の拠点であり、製鉄業を中心とした四大工業地帯の一つであったから、国家防衛上の要塞地になっていた。それを眼下に見るシオンの山にアメリカの教会と関係の深い西南女学院が建っていることから、特に攻撃や排斥を受けやすい状態であった」(『七十年史』)のだ。

 「シオンの山」とは、学院がある小倉・到津の丘陵を生徒・教職員はこう呼んでいた。軍事上の要地、下関要塞地帯を見下ろす場所に、キリスト教系の学校があるのはけしからんというのが攻撃の大きな理由だったのだ。

 運動を主導したのは「愛国同志会」なる右翼団体。同団体は太平洋戦争開戦直前の1940年8月、同学院に押し掛けると、<1>学校を平坦地に移せ<2>人的にも物的にも米国との関係を絶て<3>キリスト教を捨てよ――などと要求し、これを拒否されると、立て看板やポスターを小倉市(当時)の各所に掲示するとともに、複数回の演説会開催、さらには宣伝ビラを新聞折込で市内各戸に配布するなどして市民に対して西南女学院排斥を訴えたという。この愛国同志会の実態はつかめなかったが、これほど大々的な運動を展開できたのだから、資金面でのバックがあったのは間違いない。運動には一部市議も賛同、警察は黙認の状態で、さらには新聞一紙が同志会の動きを大々的に報じたが、論調は「むしろ攻撃する側を正当化する」(『七十年史』)ものだったという。

 女学院側が校舎移転は毅然として拒否しながらも、度重なる交渉の末、外国人理事の除名や米国からの資金援助拒否などを約束したことで、同志会は矛を収めるが、女学院の本当の苦難の始まりはこれからだった。1944年3月、当時の原松太院長、杉本勝次理事長(後の福岡県知事、衆院議員)は軍部、及び県から呼び出され、陸軍の防空基地とするため校舎を明け渡すよう要請を受けた。さらに「貴校に対しては地方的にも排撃があるようだから施設の譲渡と同時に一時閉鎖か、廃校にしては何か」と迫られたのだ。院長、理事長の二人はこの時、「学校を閉鎖するより他に道はないように考えた」という。

 長くなったので結論を急ぐが、この危機的な状況の中で西南女学院が存続できたのは、女学院の教育を守ろうとした学校関係者や父母の熱意はもちろんだが、軍部や県に疎まれた学院に対し、救いの手が差し伸べられたからだ。旧制小倉中、小倉高等女学校が学校施設、そして明恩寺(小倉北区、浄土真宗本願寺派の寺院)が本堂を提供してくれたことで、校舎を失った女学院は分散授業を強いられながらも、廃校を免れることができた。女学院が帰還を果たせたのは、終戦後の1945年9月。このブログを始めて以来、参考資料として学校史を読むことが増えたが、ここまでドラマチックな記述は初めてだった。

 福岡市の西南学院に対する攻撃は、女学院に比べれば穏やかだったらしい。その理由として、女学院への攻撃の裏には男女差別があった可能性があること、西南学院の校地は軍事施設から離れていたこと、そして何よりも「自分たちは健児を送り出して戦時体制に直接的に協力していると主張できたことが大きい」と学院関係者は分析している。
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悲惨というより壮絶だった戦後開拓

 古い新聞の切り抜きに、目を引く記事があった。福岡県内の山間部にある某戦後開拓地の一つを取り上げた1965年1月11日の読売新聞朝刊地方版の記事で、「また一人さびしく下山」「15年、ついに報われず」「春のない辺地」などの見出しの下、過酷な環境で経済的にも厳しい生活を送る入植者を救うため、地元の市役所が下山を勧めていることが書かれていた。記事によると、この開拓地は1951年に開かれ、入植者たちは山を切り開いて畑作農業を営んできた。しかし、車が通行できる道までは6㌔の山道を登り下りする必要があるため、作物の出荷は思うようにいかず、記事の書かれた当時は5戸が開拓地にとどまっていたものの、現金収入はほとんど得られず、自給自足に近い生活を送っていたという。

 興味を覚えて、この開拓地について調べてみた。1965年1月の時点で、行政が住民に離村を勧めていたのだから、恐らく集落は消滅しているだろうと予想したが、住宅地図の該当ページには、他の集落から遠く離れた山間部に、寄り添うように建つ2軒の住宅が記されていた。念のため、市役所に電話で確認すると、やはり2世帯が今も暮らしているとのことだった。自治体名や集落名を伏せたのは、これが理由だが、わずか2世帯とは言え、開拓地が今なお存続していたことは驚きだった。

 この開拓地の苦闘ぶりは、1981年に発行された市史にも紹介されている。開拓地は標高560㍍の「山間僻地」にあり、1951年から翌年にかけて市内外から13戸が入植し、焼き畑農業から出発して開拓が進められた。入植者たちはサトイモ、ソバ、サツマイモ、ダイコン作りに懸命に取り組み、中でもダイコン生産は一時、有望視されていたという。しかし、読売新聞に書かれていたように、交通不便な僻地だったことが仇となって量産体制、出荷体制が整わず、さらに子供の教育の問題や医療施設がないことなどもネックとなり、市史執筆の時点で入植者は3戸に減っていたという。市史のこの項目は「長年の努力で開拓された畑地は、しだいに元のような植林地に変わりつつあるのが現状である」と結ばれていた。

 時系列でまとめると、1951~52年に13戸が入植したが、読売新聞が取り上げた65年には5戸にまで激減し、市も残る住民に離村を勧めていた。しかし、市史発行の81年時点でも3戸がとどまり、入植開始から70年近くがたった今も2戸が暮らしている。市の勧めに応じなかった理由はわからないが、辛苦を刻んだ土地から離れ難かったのだろうか。

 戦後開拓について簡単に振り返っておくと、終戦直後の食糧難の時代、開拓等によって農地を広げて食糧増産を図るとともに、復員軍人や引き揚げ者らに働く場を与えるのが目的だったとされる。終戦の年の1945年11月に閣議決定された緊急開拓事業実施要領には、その方針が次のように記されている。
 「終戦後ノ食糧事情及復員ニ伴フ新農村建設ノ要請ニ即応シ大規模ナル開墾、干拓及土地改良事業ヲ実施シ以テ食糧自給化ヲ図ルト共ニ離農セル工員、軍人其ノ他ノ者ノ帰農ヲ促進セントス」

 戦後開拓によって切り開かれた農業地帯としては、九州では宮崎県川南町の広大な川南原開拓地が代表的な存在で、川南町は有数の酪農・畑作地帯として知られている。しかし、あまりに過酷な環境に入植者が離散し、閉鎖され消滅した開拓地も少なくないとされ、戦後開拓を「一種の棄民政策だ」と批判する意見もある。福岡県の戦後開拓については、概観した資料を見つけることができなかったが、『戦後開拓史(完結編)』(全国開拓農業協同組合連合会、1977)に、お隣の佐賀県の研究者が『戦後開拓行政の一考察』と題した一文を寄せていた。同県では127の開拓地があったが、この当時、9地区がすでに閉鎖され、残った地区の中にも20数戸の入植者が2、3戸にまで減っていたところもあったという。閉鎖地区について、研究者は次のように記している。

 「この閉鎖地区の存在こそが、戦後開拓のすさまじい様相を物語っていると私は思う。入植者は裸一貫で現地にはいり、鍬1本で開墾にいどむことになる。入植者は貧しい食生活に耐え、渾身の力をふりしぼって努力するが、過酷な自然条件は開発を頑として拒絶する。人々は精魂を使い果し、力つきて脱落していく、それが閉鎖地区である。戦後開拓には、こうした閉鎖地区の多いことが一つの特色である」

 『一考察』にはこのほか、入植当時の住宅が「古代人の住み家」同然だったことや、開拓地への電気導入事業が佐賀県で終わったのは1967年で、戦後20年を経てもランプで暮らしていたことなどが書かれている。劣悪な生活環境のため、2人の幼子を相次いで失い、「亡き子らに詫びる」と題した手記を寄せた男性もいたという。これらの体験談に触れた執筆者は、「凄惨な思い出」と表現し、「当時の思い出話は悲惨というより、何か壮絶な感じさえしたものである」と記している。
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福岡城多聞櫓、鶴城高女についての追記

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 福岡城内に築城当時から残る多聞櫓(写真)が戦後の一時期、西日本短大の前身に当たる学校に学生寮として使用されていたことを昨年8月、「多聞櫓は学生寮だった」で紹介した。城の建物が学生寮となるなど珍しいと思ったが、いかにも戦後の混乱期らしい話でもあったようだ。

 西日本短大の前身に当たる学校とは、困窮していた戦災者、引き揚げ者らの子弟の教育のため1948年12月に創設された大憲塾。創立者は江口繁。中央大卒業後に福岡市で弁護士を開業、後に政界に転じ、福岡市議、県議、衆院議員を歴任した人物だ。戦後は一時、公職追放を受けていた。多聞櫓の使用については、教育立て直しのため国も快く許可したのだろうと思っていたが、当時、一部から疑問の声が上がっていたという。正当な手続きを踏んでの借用だったのか、要するに無断使用の疑いがあったのだろう。

 疑義に対して江口は「大憲塾があったから、多聞櫓は浮浪者の住まいになることなく、損壊も免れたのだ」などと抗弁していたという。櫓使用についての正当性を主張したわけではなく、的外れの反論を行ったところをみると、疑いは根も葉もないものではなかったのだろう。ただ、大憲塾は1955年3月には県から各種学校の認可を受け、大憲塾法学院に改称しており、遅くともこの時までには問題は完全に解決していたとは思われる。

 なお、『福岡城南丸多聞櫓修理工事報告書』(福岡市教委、1975)に基づき、多聞櫓は学生寮として使用されたと書いてきたが、同じ市教委発行の資料の中には、ただ単に校舎と記したものもある。ただ、同報告書には「西日本短大が事務所および学生寮として使用した際、(中略)室内に押入れの新設、窓や出入口の模様替並に天井、間仕切壁面にベニヤ板を張る等内装を改め」とあり、居室として使用されていたのは間違いないようだ。校舎が寄宿舎も兼ねていたのだろうか。

     ◇

 続いて、2年前の11月に取り上げた鶴城高等女学校について(「鶴城高女を探して」「続・鶴城高女を探して」)。福岡市内に戦中まで存在したものの、戦後になって忽然と消え去った学校だ。福岡市と周辺にあった高等女学校は戦後、鶴城高女以外は全て新制高校として再出発し、今なお健在だ。鶴城高女がいつ、なぜ閉校したかを探ることが2本のブログのテーマだったが、あやふやなままで終わった。その後も折を見て古い新聞記事等を当たっていたところ、同校について簡単に触れたフクニチ新聞(1992年廃刊)記事を探し当てることができた。同紙は戦後の一時期、鶴城高女の跡地に社屋を置いていたというつながりがある。その記事によると、鶴城高女は「終戦の頃に廃校になった」という。

 廃校の理由については書かれていなかったが、これは何となく想像がつく。「鶴城高女を探して」の中でも紹介したが、同校は1945年6月19日の福岡大空襲で、校舎を失っている。福岡県教委発行の『福岡県教育百年史』(1981)によると、福岡大空襲では、鶴城高女のほか、福岡女子専門学校(現・福岡女子大)、福岡第一師範女子部(現・福岡教育大)、福岡高女(現・福岡中央高)などの校舎が焼失したが、私学の鶴城高女には戦後、校舎を再建し、再出発するだけの体力が残されていなかったのだろう。

 鶴城高女の創立年については、2016年のブログで、『教育百年史』には1902年(明治35)、大正時代に出版された『福岡市』(1916)には1912年(明治45)と異なる記述があることを取り上げたが、フクニチ記事はまたも異なり、1911年(明治44)創立と書かれていた。廃校によって記録が散逸し、さらには同校について記憶する人も減っていく中で、創立年という基礎的なデータさえあいまいになってしまったのだろう。『教育百年史』というオフィシャルな出版物が正しいのではないかと最初は考えたが、創立から近い時代に出版された『福岡市』の1912年が、やはり一番信頼に足りるのではないかと思う。
 
 最後に、鶴城の読みについて。「ツルシロ」か「カクジョウ」かわからなかったため、2016年ブログでは触れなかったが、カクジョウが正解だった。
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