円形劇場と嫩葉会

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 福岡県うきは市の「道の駅うきは」敷地内に昨年12月、完成した円形劇場を見学してきた。1925年(大正14)11月、地元(当時は山春村)の農民劇団「嫩葉(わかば)会」のため、村人たちが総出で造り上げた野外劇場。それから約90年がたち、劇場は跡形もなく風化したものと思われていたが、2015年の発掘調査で遺構が確認され、市が復元を進めていた。この劇場について初めて知ったのは2014年8月、遺構が確認される前のことで、この時は行政ではなく地元有志が復元を模索していた段階だった。関係者から立ち話で復元プランを聞き、興味深い試みだと思って、「うきはの円形劇場、復元を検討」で取り上げた。遺構が確認された際にも「遺構が残っていた円形劇場」を書いたが、これほどとんとん拍子で復元が進むとは、予想外だった。

 嫩葉会は、山春村の医師だった安元知之(1890~1927)が、地元の若者たちから「農作業に明け暮れるだけでなく、文化的な楽しみも持ちたい」と懇願され、1923年(大正12)に結成した劇団。日本初の農民劇団とも言われている。安元宅の二階大広間を改造した舞台で、旗揚げ公演の菊池寛作『屋上の狂人』を上演して以降、農作業の合間を縫って2か月に1度の公演を行っていたという。

 最初、周囲の村人の目は冷たかったと言われるが、徐々に人気が沸騰、安元宅では手狭になったことから、「野天(のてん)公会堂」と呼ばれた円形劇場が整備されることになった。直径10㍍程度の小さな半円形の舞台を取り巻く形で、階段状の観客席が丘の斜面に配された構造。復元された観客席からは筑後平野や背後の山々が見渡せ、ここでの観劇は、さぞかし趣があったことだろう。

 ただし、嫩葉会は実際にはこの円形劇場で公演を行わなかったと伝えられている。もともと病弱だった安元は病に倒れ、1927年1月に37歳の若さで死去。指導者であり、精神的支柱だった安元が倒れた後、会の活動は下火となり、同年8月には解散を選んだ。円形劇場について紹介する、うきは市教委発行のパンフレットには「この劇場が嫩葉会によって使われることはありませんでした」と記されている。

 しかし、劇場完成の翌年に当たる1926年2月、作家の湯浅真生が『農民劇場の問題―嫩葉会の功績と意義』と題した評論を読売新聞文化面で4回にわたって連載しているが、この中に“野天劇場”での公演についての記載があるのだ。以下に引用する。

 その年の十二月には村人達の希望(室内では少数の者より観ることが出来ない処から)によって、安元氏宅の附近の畑に野天劇場を作って、菊池氏の『父帰る』『袈裟の夫』『恩讐の彼方に』、武者氏の『わしも知らない』『或る日の一休』、額田氏の『真如』、ダンセニーの『光の門』を二日に亘って上演した。この時には既に舞台だの、小屋がけだのは、一切村人達の手によって作られたのである。

 最初は冷たかった村人たちが嫩葉会の熱烈な理解者になってくれたことを紹介した一文で、文中の「その年」とは円形劇場が完成した1925年を指している。文章をそのまま読めば、嫩葉会がその年の12月に円形劇場で公演を行い、2日間で『父帰る』など7作品を上演したことになる。ただ、2日間で7作品では、あまりに多すぎる気がする。湯浅自身は公演終了後に山春村を訪ね、取材したことを明らかにしている。実際に公演を観たわけではないため、あるいは聞き間違いがあるのかもしれないが、こういった証言があることを無視はできないだろうと思う。

 また、円形劇場の完成から安元の死去まで、1年以上の期間があるが、嫩葉会の活動はこの間、完全に停止していたのだろうか。会解散後の1927年12月、湯浅がやはり読売新聞に寄稿した別の評論には「嫩葉会では安元氏の病臥後も青年達自身の手で試演を行ったこともあったのだが、従来の成績と較べて全然失敗に終わったばかりでなく、その後会員達自身が指導者がいない為に演劇に対する興味さえ失っていくような結果となったのであった」と、嫩葉会が安元抜きで公演にチャレンジし、そして失敗に終わったことが書かれている。公演場所がどこかは明記されていないが、嫩葉会のために整備された円形劇場だった可能性は十分あるのではないだろうか。

 嫩葉会関連の出来事を時系列で記すと以下のようになる。
  • 1923年04月 嫩葉会結成
  • 1925年11月 円形劇場完成
  • 1926年02月 湯浅真生『農民劇場の問題―嫩葉会の功績と意義』連載
  • 1927年01月 安元知之死去
  • 1927年08月 嫩葉会解散
 道の駅うきはの敷地内に、復元前から設置されている円形劇場についての説明板には、劇場が「数千人が一堂に会される」規模だったことが記されているが、実際に確認された遺構は、せいぜい200人が座れる程度の小規模なものだった。嫩葉会解散から約90年、会についての記憶も円形劇場も風化していく中で、誤った情報が色々と伝えられてきた可能性があるのではないかと思う。再び円形劇場が姿を現した今、地元では安元知之と嫩葉会について再評価が進んでいる。
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映画『陸軍』に見る大空襲前の福岡

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 戦時中、福岡で撮影された映画『陸軍』を最近見た。1944年12月に公開された作品で、45年6月の福岡大空襲で焼け野原となる以前の街並みが記録されているため、福岡では歴史資料としても評価されてきた。初めて実写フィルムで見た44年当時の福岡市中心部は想像していた以上に近代的だった。

 映画は木下恵介監督、出演者は田中絹代、上原謙、笠智衆ら。タイトルからは戦闘シーンを連想してしまうが、小倉から博多に移り住んできた一家を描いた作品で、物語の最後では、一家の長男が所属する部隊が中国大陸に派遣されることになり、市内を行進しながら出征していく。多数の市民が日の丸を振って歓呼の声を上げる中で、一人母親(田中絹代)だけは時折涙をぬぐいながら長男を追い掛け、最後は両手を合わせて無事を祈る場面が印象的だ。

 このラストシーンが撮影されたのが、福岡市中心部。部隊が行進していく現在の明治通りにはモダンで、意外なほど大きな建物が建ち並び、呉服町交差点を右折した後は路面電車も映っている。私が確認できたのは、母親が見送りに急ぐ場面に映る、現在も残る赤煉瓦の旧日本生命九州支社(現・福岡市文学館、写真)とその隣の水鏡天満宮の社叢、遠目に映る県公会堂貴賓館の尖塔らしきものぐらいだが、千代田生命、三菱銀行などの建物が次々に登場するらしい。まだビデオソフトが普及していなかった時代、福岡市はこの映画のフィルムを購入し、古い街並みの調査に活用していたとも聞く。

 『陸軍』の原作は、朝日新聞に連載されていた火野葦平の小説。同新聞の縮刷版をめくり、連載を探し始めたのだが、途中で気が変わり、福岡大空襲についての当時の報道を調べてみた。45年6月21日の紙面に「福岡へ六十機」の見出しで以下の記事があった。

 西部軍発表(昭和二十年六月二十日六時)
 一、マリアナ基地の敵B29約六十機は六月十九日二十二時三十分頃より六月二十日午前零時三十分頃までの間、宮崎県東方海面より単機または少数機編隊をもって逐次九州本土に侵入、約二時間に亘り、福岡市に対し主として焼夷弾による攻撃を実施せり
 一、別に同時頃豊後水道より侵入せる敵B29約十機は関門付近に機雷を投下せり
 一、福岡市内各所に火災発生せるも軍官民の敢闘により二時三十分頃までにその大部は概ね鎮火せり

 被害が本当にこの程度で済んでいたら、『陸軍』に登場した街並みはもう少し後の時代まで生き残り、少なくとも映像や写真程度は多数残されていたことだろう。現実には229機ものB29が福岡に襲来し、『福岡市史』によると、926人の死者・行方不明者(資料によって数字が異なる)を出し、当時の市の総面積の3割、被害が大きかった中心市街地では地区によっては9割が焼失している。
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九州電灯鉄道の痕跡

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 先日、福岡市中央区内を散策していた際、鳥飼神社に「九州電燈鐵道株式會社」と刻まれた石柱があることに、うかつにも初めて気付いた。十数年前から頻繁に通っている場所なのだが、例によって自分の観察力のなさに呆れるばかり。それはともかく、九州電灯鉄道とは、西鉄の路面電車(貫線)の前身に当たる福博電車を一時経営していた会社で、もう一本の石柱には大正2年(西暦では1913年)12月吉日に建立したと刻まれている。貫線は1975年に廃止され、九州電灯鉄道の痕跡は市内にはほとんど残っていないと思われるだけに、この石柱は案外貴重なものかもしれない。

 九州電灯鉄道は1896年(明治29)から1922年(大正11)まで、福岡市にあった電力会社兼電鉄会社。運行していた福博電車は現在の東区箱崎から中央区今川橋までを結び、今川橋で北筑軌道(今川橋~加布里)と連絡していた。今川橋の一つ手前の電停が地行西町で、ちょうど鳥飼神社の裏手にあった。石柱は、騒音などで迷惑をかける沿線に対して謝意を表したものだったのだろうか。

 地行西町は現在の中央区地行2、3丁目に当たり、この一帯を九州電灯鉄道は貸し邸宅地として開発していた。大正時代に出版された『現在の福岡市』(1916)には「巍然たる高楼櫛比し、壮麗なる庭園は細波静かなる湾内の雲烟に和して宛然たる一城廓をなす」と漢文調で当時の様子が記録されている。広壮な庭を持った豪邸が建ち並んでいたというわけで、この豪邸の中には、当時の同社役員の一人で、後に「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門(1875~1971)の屋敷もあった。この屋敷跡は後に日本興業銀行の寮となったが、現在は分譲マンションが建っている。

 西の終点の今川橋電停は樋井川に面し、この樋井川河口を同社が埋め立て、海水浴場や納涼場として整備していたことを
「樋井川河口にあったものは」で取り上げたが、同社はこのほかにも伊崎浜(最寄りの電停は黒門)で海水浴場を運営していた。また、西公園電停近くにあった菊人形の展示館・黄花園も同社の施設だったと思われる。

 貸し邸宅に娯楽施設と、沿線開発には相当積極的な会社だったようで、また、他社との合併も精力的に繰り返し、九州電灯鉄道は大正時代には「今や九州第一の大会社となれり」(『株式大鑑』1916)と評されていた。しかし、その大会社も1922年には関西電気との合併で解散し、それから1世紀近くがたった現在、沿線にあった施設は全て跡形もない。伊崎や地行の海水浴場に至っては、大規模な埋め立てにより海岸自体が消滅した。
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博多湾のノリ養殖と猪野銅山

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 国土地理院が1975年(昭和50)に撮影した博多湾の航空写真に、有明海みたいな風景が写っていた。シーサイドももち埋め立てで消滅した百道海水浴場のすぐ沖に、ノリ網が多数設置されているのだ。こんな市街地に近い海域で、昭和後期まではノリ養殖が行われていたのかと少し驚いた。博多湾のノリ養殖は現在、姪浜で続いているだけだが、かつては湾内で広く行われ、「博多湾ノリ」のブランドで各地に出荷されていたという。(写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから)

 福岡市漁協発行の『福岡市漁村史』(1998)によると、博多湾のノリ養殖は1894年(明治27)、箱崎の山崎親次郎という人物が多々良川河口の湾奥部で取り組んだのが始まり。湾内の漁業は冬季にほとんど水揚げがなかったため、漁業者の冬季の副業にしたいとの考えだった。その後、県水産試験場の指導もあって技術が向上すると、1902年頃には多い時で1日1万枚の生産量があったという。しかし、養殖開始翌年の1895年、多々良川上流の猪野(久山町)に銅山が開発され、その鉱毒が湾内に影響を及ぼし始めると、生産量は著しく減少。さらに1911年には、現在の東区名島にあったノリの加工場が火災で焼失し、博多湾のノリ養殖の歴史はいったんは途絶えた。

 再開のきっかけは、第一次大戦後の不況で猪野銅山が1919年(大正8)に閉山し、湾の水質浄化が進んだことで、戦後になると、博多湾のノリ養殖は東は多々良川河口から西は室見川まで拡大した。だが、1981年(昭和56)に始まった博多港の港湾整備により養殖場が次々に消滅していき、ノリ生産量は急速に減少していったという。上の写真が撮影されてから数年後には、博多湾の幾何学模様はほぼ姿を消したことになる。百道海水浴場沖も1982年から埋め立てが始まり、新たな街に姿を変えた。

 博多湾のノリ養殖の歴史を駆け足で記したが、意外に気になったのは、ノリ養殖を一度は中断に追い込んだ猪野銅山についてだ。久山町の歴史には疎いため、存在自体を知らなかった。そこで『久山町誌』(1996)をめくってみたが、それによると、1877年(明治10)頃から町内数か所で銅採掘が始まり、中でも猪野鉱山の中河内鉱は規模が大きく、鉱脈の露出も多い鉱山だった。銅鉱は博多港や現在の東区土井まで馬車で運搬され、その後は船や鉄道で下関・彦島や大分・佐賀関にあった精錬所に運ばれていた。閉山は、猪野鉱山が前記のように1919年、その他の銅山も戦前までには操業を停止したが、これらの廃鉱が水質汚染の原因となり、ようやく1975年になって鉱害防止工事が進められたという。

 町誌にはこのほか、1898年(明治31)頃には銅山の景気が特に良く、給料が高いのを羨んだ小作農たちが次々に銅山で働き始めたため、作付けができなくなり、地主たちが苦慮していたことなどが記されていた。しかし、銅山の経営者、最盛期の生産量や従業員数、鉱害の具体的な内容などついての情報はなく、今一つ銅山の実態をつかめなかった。『福岡県史』など他資料も当たってみたが、福岡県内の鉱業については炭鉱に全てのページが割かれ、銅山についての言及はゼロだった。機会があれば、猪野銅山の廃鉱探索でもしてみたいと思うが、現状はどうなっているのだろうか。
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続・樋井川河口にあったものは

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 先日書いた「樋井川河口にあったものは」には複数のコメントをいただき、貴重な情報も寄せていただいた。こんな個人ブログの記事に興味を持ってもらえたのかと思うと、非常な励みになった。仕切り直しで、再度古い住宅地図や資料などを当たっていたところ、福岡市総合図書館でたまたま手に取った古い新聞記事の切り抜きに、樋井川河口にあった謎の一角の正体が書かれていた。ツイッターやブログのコメントで複数の方から指摘があった通り、漁船の船溜まりだった。博多湾がまだ好漁場であった頃の名残りだったのだ。

 新聞の切り抜きとは、今はなき地元紙フクニチ新聞(1992年廃刊)の連載記事『町名物語ルーツわが町』地行1~4丁目編。1984年(昭和59)8月20日掲載記事に「樋井川河口に近い場所に以前船溜りがあった。この地区には古くから漁業を営む住民がいたので漁船の停泊のために建設されたものである」とあり、カット写真として掲載されていた往時の船溜まりには数隻の漁船が写っていた。ただ、漁船とは言ってもボートにしか見えない小さな船で、漁の場所は恐らく博多湾内に限られていたことだろう。

 記事にはまた、「船溜りは潮が引くと子供たちの遊び場にもなったし、川口から迷い込んできた魚が逃げ場を失っているのを付近の主婦たちがバケツを持って取りに集まる」というエピソードも紹介されていた。「樋井川河口にあったものは」で書いたが、河口東岸の地行側は明治末から昭和初期にかけて福博電車によって埋め立てられ、海水浴場や納涼場が設けられた。これは私の想像だが、海岸が海水浴場となったために漁船の置き場所がなくなり、代わりに船溜まりが整備されたのではないだろうか。

 記事の筆者はフクニチ新聞の元編集局長で、退職後は郷土史家として活躍されていた柳猛直氏(1917~97)。『町名物語ルーツわが町』は1,000回を超える大連載だった。

 蛇足だが、1938年(昭和13)版の『福岡市縦横詳細地図』という住宅地図で、樋井川河口付近のページをめくったところ、この地図には、船溜まりとは明記されてはいなかったものの、長方形の一角はきちんと描かれていた。興味深かったのは、西岸の西新側の住宅3棟に、ラルトステュルプナー、エーウリル、ポークランの名が記されていたことだ。言うまでもなく、この3棟こそが
旧制福高の外国人教師宿舎で、跡地には九州大の研究・交流施設「九州大西新プラザ」が整備され、その一角に宿舎3号棟(下の写真)が保存されている。『九州大学西新外国人教師宿舎第3号棟修理工事報告書』(2003)によると、先のカタカナ名はクルト・ステュルプナー、ロイド・エリック・キンヴァストン・エーヴリル、アルベール・ヴォークランの3教師で、ステュルプナー氏が昭和13年当時、今なお残る3号棟の主だったようだ。

 古い空撮写真や地図で樋井川河口に妙な長方形の一角を見つけ、複数の方から「船溜まりではないか」と指摘を受けた。自分自身も最初はそう思いながらも、船溜まりにしては小さすぎるなどの理由から、正体探りを始め、結果としてやはり船溜まりだったということで落着した。大山鳴動して何とかをやらかした気もするが、34年前の連載記事のお陰でスッキリすることができた。一番上の写真は、旧樋井川河口付近の現在の姿。


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樋井川河口にあったものは

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 福岡市の古い空撮写真や地図を眺めていて、妙なものがあるのに気付いた。写真は1956年(昭和31)に米軍が撮影したものだが、樋井川河口の地行側に長方形の一角が写っている。妙なものとはこれのことで、樋井川との間に開口部が設けられているところを見ると、最初は船溜まりではないかと思った。ツイッターで写真を取り上げたところ、同様のご意見をいただいたが、写真に見える修猷館高校や西南学院中高、西新小学校のグラウンドと比べると、船溜まりにしては小さすぎる気もする。何よりこの写真を含め、一角に船が確認できる写真が1枚もないのだ。古い住宅地図などいくつかの資料を当たってみたのだが、今のところ、正体をつかめていない。(写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから借用)

 福岡県立図書館がサイトで公開している『近代福岡市街地図』(明治13年~昭和17年の地図が掲載されている)によると、問題の一角は1926年(昭和元年)の地図に初めて現れる。いつまで存続したかを上記の地図・空中写真閲覧サービスで確かめると、1956年の写真にははっきり写っているが、61年(昭和36)の写真では完全に埋め立てられ、住宅らしきものが建ち始めていた。

 住宅地図を見れば、簡単に正体が判明するだろうと思い、同図書館が所蔵している住宅地図の中でも古い2冊、1932年の『福岡商工案内地図』と55年の『福岡地典』を閲覧してきたのだが、2冊ともに期待を裏切り、肝心の部分の記載がなかった。これは全くの予想外だった。商工案内地図にはそもそも地行地区の海岸部分が掲載されておらず、福岡地典ではどういうわけか、県営アパート3棟(上の写真で一角の南側に写っている建物だと思われる)が海岸に面して描かれ、一角の存在は無視されていた。55年の段階ですでに埋め立てられていたのかと一瞬勘違いしたが、56年の写真にはちゃんと写っているのだから、地図の間違いということになるだろう。

 樋井川河口は明治末から昭和初期にかけて埋め立てられ、西岸の西新側には「西新汐入地」という新たな住宅地が整備され、旧制福岡高の外国人教師宿舎が建てられている。一方、地行側については、『現在の福岡市』(1916)という大正時代の地誌的資料には「樋井川北沿岸は福博電車の埋立地にして夏季の納涼場として、将た海水浴場として其名遠近に高し」とある。福博電車とは、福博電気軌道の名で1910年(明治43)に開業した路面電車で、沿線開発の一環として納涼場、海水浴場を設置したようだ。問題の一角も納涼場、海水浴場の関連施設として整備された可能性はあり、例えば、昔は海水浴場に付き物だった貸しボートの係留施設を想像した。しかし、考えてみれば、貸しボートなどは海岸に引き上げておけば済む話だ。他には思い浮かぶものがない。地道に資料を当たっていくしかないのだろう。

 ※下線部分を訂正しました。
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県庁は春日原になる可能性があった

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 もう7年も前になるが、福岡県庁舎は上空から見ると「亀井光」と読めるという噂話を紹介したことがある(「『亀井光』伝説」)。亀井光知事の下、福岡県庁舎が博多区東公園に新築移転したのは1981年のことで、それ以前は天神のど真ん中にあった。跡地は現在、アクロス福岡と天神中央公園になっている。東公園移転は唐突に決まった記憶があったので、ざっと経緯を調べてみた。全く覚えていなかったが、移転構想が動き出した当初、本命と目されていた候補地は、現在の春日・大野城市にまたがる春日原米軍宿舎跡地(計156㌶)だった。

 県庁舎移転、または新築構想が本格的に動き出したのは、亀井知事が3選を果たした直後の1975年5月頃だったとされる(『福岡市史』昭和編続編一)。1915年(大正4)完成の庁舎は老朽化が進み、手狭にもなっており、庁舎問題は県政の長年の懸案ともなっていた。県側は現在地を含めた7箇所の候補地を議会に提示したが、この時すでに亀井知事の腹は春日原移転で固まっていたと思われる。6月8日には西日本新聞が「新県庁舎 春日原跡地に」とスクープ。直後の県議会で、この記事について野党議員から問われた知事は「全くの観測記事だ」と否定しながらも、春日原が「一番有力な候補地であることは事実である」と明言していたほどだ(『福岡県議会史』第九巻)。

 福岡市の官民が求めていたのは、現在地・天神での改築だったが、亀井知事は<1>旧庁舎の解体から新庁舎完成までの間、仮庁舎が必要になる<2>一等地にある跡地を売却して庁舎新築費用の一部に充てたい――などの理由から否定的だった。さらに春日市には陸自第4師団に貸している約16㌶の県有地があり、これと等価交換すれば、春日原の用地取得は容易というのが知事の考えだったようだ。

 県庁所在地でなくなることを嫌った福岡市の巻き返しは激しく、切羽詰まった進藤一馬市長が史跡の福岡城址でもある舞鶴公園を候補地として提案、これに文化庁が猛反発するという騒動も起きている。この年の10月、県庁新築場所について知事から諮問を受けていた議会の小委員会は、候補地を<1>現在地<2>途中から候補地に加わった東公園<3>春日市の春日原米軍宿舎跡地<4>大野城市の同跡地――の4箇所に絞り、この中から選ぶよう知事に答申した。

 春日原跡地、中でもその大半を占める春日市側で腹を固めていたはずの知事だが、結論を出すまでには予想外の時間がかかった。福岡市の巻き返し工作が依然激しかったことに加え、1976年8月に福岡市長選が行われたこと、さらに県庁舎移転のためには、地方自治法の規定により出席議員の3分の2以上の賛成で条例制定が必要なため、議員の反応を見極めていたことなどが理由と思われる。知事が決断したのは、答申から2年後の1977年。結論は春日原ではなく、東公園だった。

 なぜ、逆転したのか。『福岡市史』は、春日原では北九州、京築、筑豊地区からのアクセスが不便になることや、福岡市に集中する国の出先機関との連絡等に時間と経費を要し、極めて非効率になることなどがマイナスとなり、東公園有利に働いたと指摘している。一方、敗れた側の『春日市史』の分析はもっと端的だ。県議会小委員会が知事に4箇所の候補地を答申した際、「県民、特に福岡市当局、議会を含む福岡市民の意向を尊重することの付帯意見をつけ、知事を拘束した」。恐らく双方の記述とも正しいのだろうが、『春日市史』の方が、より的を射ている気がする。

 独裁者並みのワンマンとばかり思っていた亀井知事だが、県庁移転問題に限ってみると、意外にも福岡市の官民や県議会を慮り、自身の意向を貫けなかったことになる。冒頭に挙げた「県庁舎は上から見ると亀井光」が万が一、真実だったとしたら、本人にとっては「せめてもの代償」だったのだろうか。

 写真は上から、天神中央公園のモニュメントに掲示されている旧県庁舎の写真、現在の県庁、アクロス福岡。蛇足だが、下の写真は、天神中央公園の「福岡藩刑場跡」石碑の横に、いつの間にか設置されていた説明パネル。江戸時代、高僧・空誉上人が福岡藩によって処刑されたと伝えられる場所だが、以前は雑然とした中に碑があるだけで、意味不明の代物だったため、過去にこのブログでも取り上げたことがある(
「大塚惟精と福岡藩刑場跡碑」)。

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幻に終わった博多湾淡水湖構想

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 福岡市は一級河川を持たない全国唯一の百万都市で、2度の大渇水に見舞われるなど、長年水不足に苦しめられてきた。市は、数々のダムや筑後川導水、海水淡水化施設の建設など水源確保に力を入れてきたが、半世紀前の1960年代、水不足を半永久的に解消するための超巨大プロジェクトが浮上したことがあった。博多湾の一部を堤防で閉め切って多々良川の水を貯め、巨大な淡水湖を造るというもので、先頃、新聞データベースを漁っていて、この構想を知って興味を覚え、少し調べてみた。海底を掘り起こした土砂で沿岸部を埋め立て、臨海工業用地を整備する目論見もあったらしい。目的こそ異なるが、1950年代に構想され、そして平成になって実現した長崎県の諫早湾干拓事業に非常によく似ていると思った。

 このプロジェクトについて報じた1965年8月26日の読売新聞地方版、同年の市議会第3回定例会の会議録などによると、多々良川河口の福岡市東区松崎から海の中道の同区奈多まで、総延長5㌔の堤防(諫早湾干拓の潮受け堤防は7㌔)を築いたうえで、堤防内の湾内を30~50㍍掘り下げ、水を貯めるという構想だった。上の航空写真で、赤線で示したのが堤防建設予定地(写真は1969年5月撮影、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから借用した)。現在ではアイランドシティ(人工島)や香椎パークポート建設で埋め立てられた海域に淡水湖が生まれていたことになる。

 肝心の貯水容量については記事にはなかったが、掘り出す土砂の総量は6億立方㍍に上るとあり、単純に考えれば、数億㌧の貯水が可能だったと思われる。現存する福岡市の水がめの貯水容量は、これまで図抜けて大きかった江川ダム(朝倉市)が2400万㌧、先ごろ完成した渇水対策用の巨大な五ヶ山ダム(那珂川町・佐賀県吉野ヶ里町)でさえ3170万㌧。確かに、この構想が実現していれば、福岡市の水不足は半永久的に解消されたことだろう。建設期間は10年、事業費は約2000億円と市は見込んでいた。

 もちろん、構想は幻のままで終わったわけだが、先の記事によると、福岡市は1964年から予備調査を進めるとともに、同様の構想を温めていた千葉市に水道局の技術者一人を派遣し、共同研究を行っていたとも書かれており、まったくの夢物語というわけでもなかったようだ。京浜工業地帯の発展に伴い、工業用水の不足に悩んでいた首都圏では、こういった河口ダムの建設について福岡市以上に真剣に検討していた節があり、65年に八幡製鉄(現在の新日鉄住金)が操業を開始した千葉県君津市でも一時、小糸川河口ダム建設が浮上している。

 博多湾淡水湖構想が実現に至らなかった経緯は、『福岡市史』にも構想自体の記載がまったくなく、よくわからなかったが、同年に南畑ダムが完成、続いて江川ダムや筑後川導水の建設計画が具体化していく中で、2000億円の巨費を投じる現実離れした構想に疑問符がついたのではないかと思う。福岡市の2018年度一般会計当初予算は8300億円を超えるが、構想が持ち上がっていた65年度は150億円にすぎなかった。予算規模をもとに考えると、当時の2000億円は、現在の実感では数兆円から10兆円規模に上るのではないだろうか。これでは当時も今も実現は到底無理だったに違いない。

 また、多々良川から流れ込む水を遮断すれば、博多湾の環境にも大きな影響を及ぼしていたはずで、当時はノリの養殖をはじめ、博多湾内でも漁業が盛んに行われていたことを思えば、諫早湾のように漁業者との深刻な対立が起きていた懸念もある。博多湾淡水湖構想とは、そもそも実現不可能なプロジェクトだったのだろうが、一方で、これが実現していれば、その後に起きた2度の大渇水(1978~79年、94~95年)は避けられたかもしれないとも思う。また、諫早湾と同様、堤防上に道路を通せば、海の中道や志賀島へのアクセスは劇的に向上し、一帯の発展度合いは現状とは大きく異なっていた可能性はある。

 多々良川は、宇美町と飯塚市の境にある砥石山を水源とする総延長17.8㌔の二級河川で、流域面積は福岡市を流れる川としては最大の168平方㌔。淡水湖構想は潰えたものの、その水は徹底的に利用され、水系の流域には長谷ダムなど四つものダムが完成している。
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川南造船所跡2018

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 長崎県松浦市に行き、帰路に佐賀県伊万里市の川南造船所跡に立ち寄ってきた。戦時中に特殊潜航艇「海龍」などを製造していた軍需工場の廃墟が60年近くも放置され、マニアの間では超有名物件だったが、2012年3月に取り壊しが終わった。伊万里市は跡地に公園を整備する計画を打ち出していたが、解体完了から6年の歳月がたっても一歩たりとも進まず、今度は更地のまま放置されている。ただ、土地は全くの未利用というわけではなく、西九州道建設で生じる土砂の仮置き場として使用されているという。

 なぜ、公園整備計画は事実上、反故にされたのか? 以前にも取り上げたことがあるが、造船所跡地の背後に広がる伊万里湾の浦ノ崎地区で現在、佐賀県が浚渫土砂の埋め立てを行っていることが大きく関係している。護岸工事が始まったのは1982年度、埋め立ての完成予定は2031年度という、ほぼ半世紀がかりの遠大な事業だが、これにより約83㌶の土地が生まれることになっている。

 このうち、造船所跡地に隣接する第1工区(約30㌶)はすでに埋め立てが終わり、殺風景な土地が広がっている。佐賀県側は現段階では、この土地の活用策を明確にはしてはいないが、過去の県議会での古川康・前知事の答弁や地元紙報道から判断すれば、産業用地(工業団地)として分譲するのが既定路線。伊万里市側は約3・3㌶の造船所跡地も一体活用することを望み、公園整備をいったん、保留にした。

 だが、計画を全くの白紙にしたわけではなく、佐賀県が今後、港湾計画を改定し、埋め立て地を産業用地に転換する際、造船所跡地は緑地として位置付けてもらうというのが市側の目論見だ。しかし、陳情を繰り返しても、これが一向に進まないらしく、インターネットで公開されている伊万里市議会の会議録には、「知事はじめ、要望のときにはいい返事をされるんですけど、その後全く先に進まない、このような状態がずっと続いておるということで、私も何でこの話が県の港湾課は先に進まないのかなと、非常に最近不思議でなりません」と嘆く塚部芳和市長の答弁が記録されている。

 この答弁を読んだ限りでは、公園整備が進まないのは県側に責任があるように受け取れるが、廃虚を取り壊し、跡地に公園を整備すると決めたのは伊万里市のはずだ。なぜ、責任の主体が市から県に変わってしまったのだろうか。私にはそちらの方がよほど不思議だが。

 造船所跡地が土砂の仮置き場として使用されるのは来年2月までの予定で、少なくともあと1年は、廃虚があった頃とさほど変わらない、いや、部外者の目にはあの頃以上に寒々とした景観が残ることになる。写真は上から、今なお残る赤レンガ造りの造船所正門跡、放置された状態が続く造船所跡地、跡地の背後に広がる浦ノ崎地区の埋め立て地、埋め立て予定地の一角に残る向山炭坑の廃虚(積み出し施設跡)。いずれも3月18日に撮影した。
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東光院の仏像を見てきた

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 福岡県小郡市の九州歴史資料館で4月11日まで、企画展「堅粕薬師と東光院の古仏たち」が開かれ、福岡市の東光院(廃寺)に伝えられてきた仏像30体が展示されている。うち25体までが国の重要文化財。仏像の良しあしを見極めるだけの目も知識もないが、フロアに置かれた高さ2㍍に迫る薬師如来立像、これを守るかのように配置された2体の2㍍超の金剛力士像は圧巻で、ガラスケースに収められた薬師如来坐像、二組の十二神将像も見ごたえがあった。写真撮影不可なのが非常に残念だった。

 東光院は、1981年まで博多区吉塚3にあった真言宗の寺で、806年(大同元年)、最澄によって開かれたとされる(最澄創建ならば、天台宗のはずだが、禅宗を経て、江戸時代に真言宗に改宗した)。福岡市内では、同年に空海によって創建されたと伝えられる東長寺(博多区御供所町)と並ぶ古刹だったことになる。廃寺になったとはいえ、福岡市によって史跡公園として管理されている境内には今なお伽藍が残り、往時の姿をとどめている(写真)。30体の仏像も、最後の住職から委ねられた同市が所蔵している。本来ならば、福岡市美術館に展示されているのだが、同美術館が改装工事で来春まで休館中のため、九州歴史資料館に預けられ、今回の企画展につながった。

 この東光院になぜ、30体もの見事な仏像が伝わってきたのか。写真でわかるように、東長寺、承天寺、聖福寺などの博多の古刹群に比べれば、必ずしも大きな寺ではなく、1932年に出版された『国宝巡礼記』(小野賢一郎)には「こんな場末の淋しいお寺としては国宝の数は随分多い方である」「よくも斯様な立派な像がこんな貧しさうなお寺に今迄遺存されたものだと感心させられる」と失礼極まる感想さえ記されている。(戦前の国宝は現在の重文に当たる)

 東光院で古くから信仰を集めていたのは、冒頭に書いた高さ2㍍弱の薬師如来立像で、これこそが企画展のタイトルにある堅粕薬師。平安時代の作とされる。これを守護する十二神将像など、もともと十数体の仏像が伝わっていたのだが、明治維新後の廃仏毀釈の時代、住吉神社(博多区住吉3)の神宮寺だった円福寺が廃されることになり、ここにあった薬師如来坐像と、もう一組の十二神将像が東光院に移された。これが30体の仏像の理由だ。

 しかし、維新後、黒田家の庇護を失った東光院にとって30体もの仏像を維持することは徐々に重荷となったらしく、先の『国宝巡礼記』にあった「こんな貧しさうなお寺に」という一文は、当時の東光院の経済状況を言い当てたものでもあったのだろう。1981年、最後の住職は寺と仏像を福岡市に寄贈し、宗教法人を解散したが、この決断なくしては仏像群は四散し、一堂に展示される機会などなかったかもしれない。

 『国宝巡礼記』と著者の小野賢一郎についても付記しておくと、香淳皇后の弟、東伏見邦英伯爵が1931年(昭和6)12月から翌年1月にかけて福岡県内の文化財を巡り、この時の模様を案内役の小野がまとめたのが『国宝巡礼記』。小野は東京日日新聞の社会部長を長く務め、また、俳人でもあった。俳号は小野蕪子(ぶし)。東光院についての一文はずいぶんと上から目線だが、実は福岡県は芦屋町の生まれ。これが案内役を仰せつかった理由だった。
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