なぜ「当仁」小学校

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 福岡市中央区唐人町3に当仁(とうにん)小学校という学校がある。小学校名には普通、地名を使いそうなものだが、この当仁とは『論語』にある「當仁不譲於師」(仁に当たりては師といえども譲らず)という言葉に由来するという。しかし、なぜ、わざわざ論語の一節を学校名にする必要があったのだろうか。1982年に発行された当仁小の『創立90周年記念誌』をめくっても、それらしき理由は書かれていなかったが、他資料を当たると、明治初期、漢籍などから選んだ言葉を校名にするケースが少なくなかったとわかった。雅名と呼ばれる。当仁とは恐らく、地名を雅名に置き換えたものだろう。

 当仁小の歴史は結構複雑だ。1873年(明治6)に浪人町に校舎が仮設され、翌年に当仁小と名付けられた。浪人町とは現在の唐人町1、2丁目の境付近にあった小さな町で、現校舎の西側に当たる。だが、現在の当仁小はこの年をもって創立としているわけではなく、当仁、荒戸、西街の3小学校が合併し、新生・当仁小としてスタートを切った1892年(明治25)を創立年としている。今年で創立126年の歴史ある学校だが、浪人町に校舎が仮設された年まで遡れば、その歴史は145年を数えることになる。

 ところで、なぜ地名をストレートに付けなかったのか。浪人小学校では確かに語感が悪いが、唐人小学校ならば、別に問題はない気がする。中国人子弟の学校と勘違いする人もいないだろう。だが、命名について書かれた記録を探し当てることができなかったため、経緯はつかめなかった。校舎仮設と命名との間にタイムラグがあったことを考えると、議論はあったのだろう。なお、福岡市の小学校で、地名を別の字に換えて校名とした例は他にもある。2014年に140年の歴史を閉じた大名小は1873年、「大明」小として開校している。また、博多小の系譜に連なる上呉服小は開校当初、「五福」小を名乗っていた。これらも雅名の類いなのだろう。

 『福岡県教育百年史』第五巻(1980)には「明治七、八年ごろから、校名に漢籍などから選んだことばを引用して名付ける学校が増えてきた」とあった。この当時、現在の福岡県は福岡、小倉、三潴の3県に分かれていたが、特に三潴県では大多数の学校が雅名を名乗り、勧善、積善、修道、修身、啓蒙などの学校があったという。一方、福岡、小倉県の場合は「雅名を名付けた小学校はそう多くはなかった」そうで、当仁はその数少ない例外だったことになる。

 三潴県の雅名学校は、3県合併後に地名を使った学校名に切り替わっていったが、当仁は生き残った。恐らく、修身のようなとってつけた雅名ではなく、本来の地名を生かした名前だったからだろう。現在では、小学校名だけではなく、中学校や公民館、消防分団、あるいは飲食店の名称にも当仁が使われており、当仁は事実上、唐人町の異名ともなっている。中学校の場合は当仁(とうじん)中であるなど、地区外の人間には少々紛らわしいが。
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大野城の「御笠の森」

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 以前から気になっていた大野城市山田2の「御笠の森」に行ってきた。神功皇后の笠が突風で飛び、この森に引っ掛かったことから名付けられたという伝説を持ち、明治時代まであった御笠郡(旧・筑紫郡の一部で、現在の大野城、筑紫野市などに当たる)の名の由来ともなった由緒ある森だ。博多を流れる石堂川も、この辺りでは御笠川と呼ばれている。この森の何が気になっていたのかと言えば、小学校高学年時代にこの付近に住み、森は生活圏のど真ん中にあったはずなのに、全く記憶にないのだ。

 つい先日のことも覚えていない人間ではあるが、ボロ自転車で近隣はおろか、別の小学校区まで走り回っていた小学生時代の記憶は結構鮮明だ。なのに御笠の森については写真を見ても全く見覚えがなく、現地に行ってみても何一つ記憶はよみがえらなかった。繰り返すが、かつての生活圏のど真ん中に森はあり、住んでいた家や通っていた小学校も近くにあった。高学年になっても虫取りに明け暮れていた当時の行動パターンを考えれば、必ず行ったことがあるはずなのだが、私が住んでいた1970年代当時と比べ、街並みがあまりにも様変わりし、実のところ、かつて暮らしていた街は森以外も完全に未知の場所になっていた。

 御笠の森があるのは、大野城と飯塚とを結ぶ県道バイパス沿い。昔はなかった片側2車線の広い道で、御笠の森の周囲には戸建て住宅やマンションが立ち並んでいる。森にはスダジイ、タブノキ、ヤブツバキ、ヤブニッケイなどが自生(?)し、「西南日本の代表的照葉樹林の姿を残す」として1995年5月、大野城市の天然記念物に指定されている。ただ、森の広さは、せいぜい住宅2~3軒分といったところで、木の数も十数本程度。生態系的には貴重な存在なのかもしれないが、規模的には非常にちっぽけものだ。私が住んでいた頃もこの一帯はすでに住宅地ではあったが、所々農地も広がり、また、この程度の樹林は神社はもちろん、大きな農家の庭先などにもあった。森など当たり前の存在だったから、印象が薄いのだろうか。

 御笠の森は、貝原益軒が編纂した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』に、「むかしは大木多くありて、茂れる林なりしが、今はむかしの森のしるしとて、楠二株残れり」などと記録されている。『続風土記』は1703年(元禄16)の完成で、この時代にはクスが2株残っていただけなのだから、現在の森はそれ以降に形作られたものだろう。神功皇后伝説に彩られているとは言え、古代の姿を残しているものではないわけで、実際に見た印象もそれほど歳月を経た森には思えなかった。

 『続風土記』にはまた、御笠の森に絡み、「思はぬをおもふといはば大野なる美笠の森の神ししるらん」(末尾を「神し知らしむ」とする資料もある)という万葉歌が記されている。別の資料には、不義の疑いをかけられた女性が夫に潔白を訴えた歌だという解説があったが、歌の作者は大宰府の役人だった大伴百代という男性で、この解釈は恐らく間違いだろう。森には1969年、当時の大野町によって建立された万葉歌碑があり、この歌が刻まれている。
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博多雑煮は戦後生まれ?

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 博多で戦前に行われていた祭りや行事、風習などをまとめた『博多年中行事』(佐々木慈寛編、1935)を読んでいたところ、博多雑煮について、気になる記述があった。

 博多では元日から三日間雑煮を祝ふが、餅は丸餅を用ひ、具には鯣(するめ)、椎茸、山芋、里芋、昆布、牛蒡、人参、鰹菜、鯛等を用ひ汁はすましである。或は角に切った鰤や鰹等を使ふ家もある。

 何が気になるのかと言えば、具にタイが入っているのだ。博多雑煮は、焼きあご(トビウオ)で取った出汁に、具はブリやカツオ菜を入れるのが定番とされている。ところが、『博多年中行事』では雑煮に入れる魚としてタイを真っ先に挙げ、ブリについては「鰤や鰹等を使ふ家もある」と、どう見ても少数派の扱いなのだ。(写真は福岡市のダウンロードサイト「まるごと福岡・博多」から借用)

 『博多年中行事』編者の佐々木慈寛とは、博多区千代3に現在もある松源寺の住職だった人物で、彼が実際に体験したり、見聞きしたりした出来事をまとめたのが『博多年中行事』。『新修福岡市史 民俗編一』(2012)にそっくり再録されているほか、福岡市博物館はこの資料を題材に企画展を開いたことさえあり、信頼性は極めて高いと思われる。

 『博多年中行事』には、博多雑煮のほかに、福岡市内の旧・武家で食べられていた蛤雑煮や姪浜の雑煮についても記述がある。蛤雑煮は「椀の底に大根を輪切りにしたものを敷いて丸餅と蛤二箇とを入れたものである」とあるが、少なくとも私は見たことがない。「がっしゃい言葉」と同様、福岡では滅びてしまった文化なのだろうか。一方の姪浜は「焼アゴ(飛魚)と昆布で汁を作り、中に餅、里芋、人参、椎茸、蒲鉾、塩鰤を入れて作り」と紹介されており、カツオ菜が入っていないのを除けば、こちらの方が現在の博多雑煮に極めて近い。

 戦前の博多雑煮について、他に資料はないかと当たってみたところ、1900年(明治33)元日の読売新聞に「諸国雑煮」という記事があり、この中で京都や備中、讃岐、大和とともに、筑前博多の雑煮も紹介されていた。それによると、出汁は「昆布と鰹節とを充分に煮出し適度の醤油を加えて」作る。具は「鯛の身、椎茸、牛蒡、里芋、蒲鉾及び青菜の類」。タイを入れることは『博多年中行事』の記述と一致しているが、それだけでなく、出汁は焼きあごではなく、昆布とカツオ節で取っていたという結構衝撃的な内容だ。

 ここで挙げた二つの資料に従えば、古くからの伝統と考えられてきた出汁を焼きあごで取り、ブリを入れた博多雑煮は、恐らくは戦後の産物だったことになる。しかも、明らかに姪浜雑煮の影響が色濃い。それぞれに個性を持っていた福岡市内各地の食文化が戦中・終戦直後の物不足の時代を経て、戦後に融合・均質化していく中で、新たな博多雑煮が形作られていったのだろうか。
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失われた「がっしゃい言葉」

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 福岡市には昔、博多弁とは全く別の「がっしゃい言葉」という方言があった。藩政時代、武士階級の間で話されていた言葉で、例えば「こっちに来てください」は「こっちに来てがっしゃい」、「行かれる」は「行きがっしゃる」と使われていた。中央区の旧武家町では、戦後も高齢者の間で話されていたと言われるが、現在は消滅状態らしく、福岡市に長年住んでいる私も、この言葉が話されるのを一度も聞いたことはない。文化庁はアイヌ語や沖縄県の八重山方言、与那国方言などが消滅の危機にあるとして、保存、継承のための取り組みを行っているが、がっしゃい言葉は誰に守られることもなく静かに消え去ったようだ。

 がっしゃい言葉の存在を初めて知ったのは、福岡シティ銀行(現・西日本シティ銀行)が発行していた小冊子『博多に強くなろう』でだった。このシリーズの中に1981年、秀村選三・九州大教授、イラストレーターで博多町人文化連盟理事長でもあった西島伊三雄さんらが城下町・福岡の町並みについて対談した回があり、この中で西島さんが「先生、ついでに昔の福岡のがっしゃい言葉を覚えてあるなら、ちょっとお話ししていただけませんか」と持ち掛け、これに秀村教授が「私が少年の頃は、『どうしてがっしゃあな』とか、『貸してがっしゃい』『おいでない』なんて言ったり、聞いたりしてましたね」と答える箇所があったのだ。

 秀村教授は1922年(大正11)の生まれ。戦前、がっしゃい言葉が当たり前に使われていたことが先の発言からわかる。一方で、教授は「このごろは『どうしてがっしゃあな』なんていうと妙な目で見られるので、『どげんしてござあですな』と言ったりしますね(笑)」とも話しており、この対談が行われた昭和後期には、がっしゃい言葉は消滅寸前の状態だったのだろう。西島さんは、がっしゃい言葉について「私たち博多のものからすれば、やっぱり城下町の言葉だなあ、と思って聞いていましたね」と語っており、博多弁に比べ上品、あるいは堅い言葉だと認識されていたようだ。

 がっしゃい言葉についての資料は、他には市総合図書館にもほとんどなく、唯一、春日市在住の方言研究家が2005年にまとめた『がっしゃいことば 福岡城言葉』という3ページの小冊子があるだけだった。この冊子には研究家が聞き取りなどで集めた30あまりのがっしゃい言葉が、その現代語訳とともに紹介されている。収録されている言葉のうち、いずれも下級武士を皮肉った「たにわくろう」「ちんちくどん」などは比較的有名だと思うが、「しかちゅーこいとる」(不手際なこと)、「しゃんしゃん」(武家娘)、「とんとん」(武家息子)などは未知の言葉だった。がっしゃい言葉は、黒田家の故郷の備前岡山弁と博多弁が交じって生まれた、というのが著者の方言研究家の見立てだ。

 『九州方言考―ことばの系譜』(読売新聞社、1982)という本の中で、作家の原田種夫さんは「昔は、那珂川を境として、川の東が町人の町として博多方言、西が士の町として福岡方言を使っていた。おそらく、画然と言語生活に違いがあったと思う」と書いている。なのに、なぜ博多弁は生き残り、がっしゃい言葉は消えたのか。約30万人とされる福岡藩の人口の中で、武士階級が占める割合は数%。もともと使い手の少ない言葉だったため、近代化の波にあっさりのみこまれたのだろうか。(写真は西公園・光雲神社の母里太兵衛像)
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幻の福岡市歌

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 福岡市に「市歌」があったことを最近知った。歌詞は次の通りだ。

 元寇十万屠りしところ 歴史は千代の深みどり
 松原駆けたいさおしの ほまれぞかおる おお漲ろう
 西日本の力なる 福岡 福岡 とどろくわが市

 さくら咲き咲く荒津の丘ゆ ながめ豊けき筑紫野を
 埋ずめ尽くして文明の 姿ぞ映ゆる おおあまねしや
 西日本の光なる 福岡 福岡 輝くわが市

 気はほがらかにのぞみはあふれ 睦みたすけてしらぬ火の
 もゆるが如き向上の 心ぞつどふ おお称へよや
 西日本の誇なる 福岡 福岡 理想のわが市

 この歌の存在は、『ふてえがってえ―福岡意外史』(江頭光、西日本新聞社、1980)を読んで知ったのだが、同書によると、福岡市教育委員会によって市歌が制定されたのは1931年(昭和6)。歌詞は公募され、80数編の応募作の中から、選考委員の旧制五高教授・八波則吉が選んだのが上記の作品。応募者は福岡在住の文学青年だった。これに数々の童謡、流行歌を手掛けていた作曲家の中山晋平が曲を付けた。締めのフレーズは応募作では「わが市」ではなく「都(みやこ)」だったが、国から「都は東京だ」とクレームを受け、急きょ変更されたという。

 『ふてえがってえ』では、イラストレーターの西島伊三雄さんが兄弟3人で合唱したエピソードが紹介されており、戦前派の市民には愛唱されていたのだろう。しかし、戦後はほとんど歌われなくなり、その理由については「たぶん、冒頭の歌詞『元寇十万…』へのアレルギーからと思われるが」と書かれていた。

 市立図書館の郷土資料室で関係資料を漁ったところ、2冊あった戦前、戦中の市勢要覧(1938、1942年版)にはいずれも市歌の歌詞が記されていた。だが、戦後になった途端に消え、現在では公式サイトなどにも全く記載がない。恐らく『ふてえがってえ』の推測通り、「元寇十万屠りしところ」という勇ましすぎる歌詞が、戦後は平和国家に似つかわしくないと敬遠され、さらに時代を経るに従い市歌の必要性自体が薄れていったのだろう。福岡市に長年住んでいる中高年ながら、戦後生まれの私が知らなくても不思議ではなかったのかもしれない。

 しかし、いくら歌詞が時代にそぐわないとは言え、存在を抹消したも同然の現在の扱いはいかがなものだろうか。『福岡市史』には、年表にさえ制定の事実は記録されてはいなかった。現在では市歌の座から下ろされているのかもしれないが、その経緯を含めた沿革ぐらいは、歌詞とともに公式サイトや市勢要覧などで紹介しても良いのではないだろうか。市歌については現在、市の公式資料ではほとんど何もわからず、個人の著書でしか知ることができない。
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白昼暴れる幽霊

 福岡市西区北崎に伝わるという幽霊話を最近、『伝説の糸島』(鷹野斜風、糸島新聞社、1933)で読み、笑ってしまった。恨みをのんで死んだ老婆が凶悪な幽霊となり、住民らに復讐するという話。一見、笑える要素はないようだが、老婆の幽霊が出てくるのは、なぜか白昼で、しかも復讐と言っても誰かを取り殺すわけではなく、ひたすら大暴れするだけなのだ。博多の怪談に出てくる幽霊もドスドス歩いたり、博多弁を喋ったりして、いまいち怖さに欠けるらしいが、北崎の幽霊にも通じるところがある。

 老婆は生前、邪険な性格で家人にも嫌われ、病に倒れた時も親身には看病してもらえないまま息を引き取った(餓死させられたという説もあるらしく、この話ではここが一番怖い)。家人や近隣住民は悲しむどころか、かえって喜んだというが、成仏できなかった老婆は化けて出て、家人や住民を苦しめ始めた。『伝説の糸島』には、幽霊の暴れっぷりが以下のように記されている。

 此の婆は奇抜にも臨終其の儘少しも幽霊化せぬ物凄い形相で、少し日下りの白昼から「恨めしや」ともいはず、両手を下げずに現はれて、阿修羅王の荒るゝが如しと形容されるやうに乱暴を働き手当たり次第に投打をする、人を追捲くる、夫れは夫れは非常の狂態を演ずるので、家人が泣叫んで逃げ匿くれると、幽霊は家から飛出して近隣の家に乱入して狼藉を極むると云ふ一寸一風変わった幽霊であった。

 一寸一風どころか、相当変わった幽霊で、生きた人間の振るまいとしか思えない。困り果てた住民たちは大がかりな施餓鬼を行い、老婆に成仏してもらおうとしたが、幽霊は、多数の僧侶が読経している最中に「憤怒の形相」で乱入し、例によって大暴れ。僧侶たちは腰を抜かしてしまったという。話が面白いのはここまでで、消化不良の結末を迎える。住民たちは最後の策として某高僧に怨霊退散を依頼、この高僧が「或る法力」を持って老婆を八万地獄のどん底に落とし、さすがの老婆もその後は姿を現さなかったというのだ。高僧が何をしたかは具体的には何も書かれておらず、また、「一ツ愚衲(わし)が懲して遣ろう」と請け合ったり、悲惨な死に方をした老婆を成仏させるでもなく地獄に叩き落としたりと、あまり高僧らしからぬ振る舞いが印象的だ。

 この話がいつの時代のものかは不明だが、冒頭には「古老の話に依ると、餘り古い事ではないらしいが」とある。『伝説の糸島』の出版年(1933年)を考えれば、例えば、幕末や明治初期など、意外に新しい時代に生まれた可能性もあるのだろうか。
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続・雑餉隈は鉄道を拒否したのか

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 1889年(明治22)に九州鉄道の博多~千歳川間が開業した際、宿場町だった現・大野城市雑餉隈が「宿場が寂れる」として駅設置を拒否したため、離れた別の場所に雑餉隈駅(現在のJR鹿児島線南福岡駅)が建設されたという話を先日取り上げた(「雑餉隈は鉄道を拒否したのか」)。似たような話が全国各地に伝わるが、裏付ける資料がなく、研究者の間では「鉄道忌避伝説」と呼ばれている。雑餉隈にもその疑いがあるのではないかと考えたのだ。引き続き関連資料を漁っていたところ、国立公文書館のデジタルアーカイブに、九州鉄道会社創立願(1887年提出)添付の路線図があるのを見つけた。少なくともこの地図を見る限り、雑餉隈を鉄道が通る計画は、そもそもなかったのではないかと思われる。

 上の地図は関係分だけをトリミングしたうえで、上が北になるように回転させたもので、赤い実線が九州鉄道の計画ルート、薄いオレンジ色の線が当時の幹線道路を示している。駅位置については赤の二重丸で記されているが、判読しづらいため赤い矢印で書き加え、さらに宿場町・雑餉隈の位置を黄色い矢印で示した。計画ルートは、雑餉隈から西に離れた場所に描かれており、開業後の鉄路も実際にその通りになった。

 地図を見てわかるのは、当たり前のことではあるが、山や丘陵地などを避けて路線が計画されていることだ。また、博多~久留米間の駅は博多、二日市、田代、久留米の4駅しか記されていないが、実際に1889年12月に開業した際は博多、二日市、原田、田代、鳥栖、千歳川(久留米の仮駅)の6駅で、さらに翌年1月に雑餉隈が加わり、7駅となった。鹿児島線と長崎線との分岐駅は現実には鳥栖だが、計画段階では田代だったことがわかる。

 「雑餉隈は鉄道を拒否したのか」の中で、『大野城市史』に雑餉隈が駅設置を拒否した傍証として1889年4月13日の福岡日日新聞記事が掲載されていることを紹介したが、この記事は「九州鉄道会社の博多久留米間の線路に就き先頃紛議起こりし処ろ」などとあるだけで、具体的内容が一切記されていない代物だった。これは全くの想像だが、開業時の駅が計画段階から三つも増えたことを考えると、紛議の中身は、鉄道反対、駅反対ではなく、ひょっとしたら「わが町にも駅を造れ」や「鉄道が通らないのに、なぜ駅名を雑餉隈にする」だったのではないだろうか。

 むしろ、この地図を見て気になったのは、博多以南ではなく、博多以北の方だ。現行とは大きく異なり、山や丘の間を縫うようにして古賀の青柳から博多へ通じる路線が描かれている。地図には入れなかったが、これより北は黒崎から木屋瀬近くを通っており、旧唐津街道をなぞっているようだ。九州鉄道の赤間~博多間は1890年(明治23)に開業したが、この時の駅は赤間、福間、古賀、香椎、箱崎、博多で、オレンジ色の線で描かれた道路の方が実際に近い。なぜ、これほど大きく変更されたのだろうか。

 赤間~博多間でも、現在の福津市上西郷地区が鉄道敷設に反対したとの話が伝わり、『福間町史』明治編(1972)はこのためにルートが変更され、駅も福間になったと記している。しかし、町史が挙げた、その反対理由とは「汽車に乗った、紅お白粧をつけた嬢もンさんを、村の若い者ンが見ると、仕事に実が入らん」(ママ)などというもので、町史自ら「今から考える全く吹き出したくなる様な」と評している程だ。平成に入って刊行された新しい『福間町史』通史編(2000)は、九州鉄道の開業について事実を淡々と記しているだけで、上西郷の鉄道反対には一切触れてはいない。話としては笑えて面白いが、信憑性には欠けるのだろう。

 鉄道を巡っては、陸軍が、艦砲射撃で狙われるのを恐れて沿岸部を通るルートを嫌ったと言われる。陸軍に配慮し、内陸部を通るように計画したものの、地形条件や、旧街道沿いに当たるため用地買収の難航が予想される、などの問題があり、結局は現行路線に変更されたと想像するのだが、どんなものだろう。
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百道海岸に昔、陸軍射撃場があった

1939福岡市全図

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 1939年(昭和14)発行の福岡市全図を眺めていて、百道海岸に「射撃場」があるのに気付いた。地図の左端、現在は市立百道中学校がある辺りだ(2枚目の写真の画面左側)。福岡城址に本拠を置いていた陸軍歩兵第24連隊の施設で、正式名称は「西新町射撃場」だったことはすぐに判明したが、大正時代初めには鴻巣山(現在の福岡市中央区・南区)に移設されていたとみられ、1939年当時は使われてはいなかったと思われる。当時も今も修猷館、西南学院など学校が並ぶ一帯。移設は当然過ぎる話だが、移設を巡る事情を調べたところ、西新町は陸軍側から巨額の費用負担を求められ、苦慮していたことがわかった。これを救ったのは、少し毛色の変わった陸軍の主計将校だ。

 射撃場移設を巡る軍と地元とのやり取りは、「西新町射撃場交換の件」と題した1911年(明治44)の陸軍省資料に記録されている(国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブで公開されている)。この中の西新町長・神崎潜一郎の陳情書には「旧藩時代ヨリノ射的場ニテ甚シク迷惑ヲ感セサリモ」とあり、射撃場を設置したのは、24連隊ではなく福岡藩だったことがわかる。資料中にある地図によると、明治末期の射撃場の規模は、1939年の地図に描かれていた時よりもはるかに大きく、東側は現在の西新小学校付近までを占めていた。(面積は9㌶余りで、移設後の跡地の一部に西新小が新築移転している)

 藩政時代に開かれた西新の町だが、明治に入ると、道路整備や路面電車の開通などで人口が急増。射撃場の存在は住民の安全を脅かし、現実に流れ弾が児童の下駄を直撃するという事故も起きていた。この状況下で陸軍側も移設やむなしと決断、西新町に射撃場を明け渡す代わりに、町側は陸軍指定の鴻巣山の用地を購入した上で、新射撃場の建設費も負担するという条件でいったんは合意した。

 西新町の負担額は計4万8000円。当時の貨幣価値について「明治の1円=現在の2万円」という情報がインターネット上にあり、これに従えば、9億6000万円もの巨費を要求されたことになる。西新町が福岡市に編入されるのは1922年(大正11)のことで、射撃場移設問題が持ち上がっていた明治末はまだ、単独の自治体。町側は当初、基本財産の7,000円に加え、原野の売却、起債、さらには町民に負担金を課してまで賄う方針だったが、小さな町が何とかできる金額ではないとわかり、陸軍側に再検討を求めた。上記の陳情書がそれで、日付は1912年(明治45)2月29日となっている。

 陸軍側で移設交渉を担当していたのは、24連隊が所属していた第12師団(小倉)の経理部長、浜名寛祐。「西新町射撃場交換の件」を読む限りでは、彼は西新町の事情をよく理解し、極力、町側の要望通りになるように陸軍省上層部に掛け合っていたようにみえる。例えば、神崎町長の陳情書を受け、同年3月12日に陸軍大臣・石本新六に提出した上申書では「適当ノ場所ニ射撃場ヲ新設スルニ其費用ヲ国庫ヨリ別途支弁セラレ而シテ現在射撃場ハ他日ヲ待チテ売却シ国庫ノ収入トナス方収支ノ点ニ於イテ得策ナルベシト信ズ」という提言さえしている。西新町側にとっては“満額回答”で、この場合、町側の負担はゼロになる。

 射撃場移設問題は、福岡市への編入前の話であるためか、『福岡市史』の明治編、大正編などには記録されておらず、正直なところ、詳しい経過はよくわからなかった。だが、アジア歴史資料センターが公開している西新町射撃場に関する、もう一つの資料「不用地処分の件」を見ると、浜名の提言通りに進んだのではないかと想像される。1921年(大正10)のこの文書には、旧・西新町射撃場敷地を売却して国庫の足しとするため陸軍省から内務省に還付すると記されている。少なくとも、この頃には移設が完了していたことがわかる。また、西新町が費用を負担したのならば、射撃場跡地は陸軍ではなく町の管理になっているはずなので、移設自体が国費で行われたのだろう。

 ところで、浜名を毛色の変わった主計将校と書いたのは、陸軍の人間にしては物わかりが良かったということではなく、歴史研究者としての顔を持っていたからだ。国立国会図書館のデジタルライブラリーには彼の著作3点が収録されており、言語学の分野からのアプローチを得意としていたようである。そのうちの『日韓正宗溯源』(1926)には「卑弥呼は筑紫に在らず馬韓に在り」などということが書かれていた。
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1928年、西新町駅の写真

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 日の丸を付けた蒸気機関車の出発を大勢の人々が見守っている。1928年(昭和3)10月16日、現在の福岡市早良区昭代3にあった北九州鉄道西新町駅(後の国鉄西新駅、1983年廃止)で撮影された写真だ。機関車に積まれていたのは脇山村(現・福岡市早良区脇山)で収穫された新米。昭和天皇即位の礼の大嘗祭で献上するため、特別に作られた米で、翌17日に京都駅に到着し、御所に運ばれた。

 大嘗祭で供える新米を作る田を「悠紀斎田」「主基斎田」といい、この年の2月5日、悠紀斎田を滋賀県、主基斎田を福岡県から選ぶことが発表された。続いて3月15日、福岡県内94か所の候補地の中から、脇山村が主基斎田に決まった。国会図書館のデジタルライブラリーに保存されている資料に、この日の脇山村の熱狂ぶりが記録されている。

 「三月十五日太田主は県庁から呼出しをうけて耕作の命をうけたのであるが、太田主が拝命すると新聞記者が学校に沢山やって来て大騒ぎとなった。大朝、大毎の号外が第一番に舞ひこみ、小使がそれを持って教室に駆けこみ、これを聞いた児童は思はず脇山村万歳を唱へる有様だった」(福岡県小倉師範学校『郷土教育講演集』第1輯、1933)

 ところで、なぜ西新町駅出発だったのか。写真を見てわかるように、当時は駅周辺には民家らしき木造平屋がポツンと1軒見えるだけの寒村。今でこそ周辺はマンションが建ち並ぶ住宅街(写真2枚目)だが、国鉄筑肥線の西新駅時代でさえ、西新とは名ばかりのへんぴな場所だった。こういった大きな行事の場合、普通はターミナルの博多駅から出発しそうなものだが、脇山から徒歩で新米を運んできたため、最も近い西新町駅を使ったという単純な理由だったようだ。

 西新町駅の写真は、主基斎田に選ばれたことを記念し、福岡県が発行した『大嘗祭主基斎田写真帖』(1928)から拝借したのだが、この写真の前に掲載されていたのが、供納米を運ぶために脇山村を出発する古式装束に身を包んだ青年団の写真。一行はこのまま徒歩で西新町駅に向かっていたのだ。最も近いと言っても、その距離は約14㌔。しかも青年団だけでなく、見物人たちも付き従ったらしく、行列の長さは300㍍以上にもなった。脇山村を出発したのは午前7時半だったが、西新町駅到着は約4時間後の午前11時20分だったという。

 300㍍もの大行列がやって来たのだから、駅が黒山の人だかりで埋まっているのも当然だ。駅は1937年、北九州鉄道が国有化されたのに伴い、国鉄筑肥線の西新駅となったが、これほどの群衆が押し寄せたのは、後にも先にも供納米出発の時だけだったに違いない。『福岡市勧業要覧』によると、国有化前年1936年の西新町駅の乗降客は、1日平均で69人に過ぎなかった。

 この駅について、私が記憶するのは廃止直前の頃だが、福岡市西区今宿や糸島方面から駅周辺の高校(修猷館、福岡工業、城南、西南学院、中村学園)に通ってくる高校生らが結構利用していた。福岡の県立高校では昔も今も「ゼロ限」と呼ばれる朝補習が午前7時台から行われており、彼ら筑肥線組は普段から毎日とんでもなく早起きして学校にやって来ていた。また、この頃の筑肥線は、大雨が降ると西区の長垂山付近で頻繁に土砂崩れが起き、度々止まっていた。大雨の予報が出ている場合、彼らはあらかじめ運休に備えて着替えを持って登校し、そのままクラスメイトの家に泊めてもらっていた。学校近くに住んでいた連中よりも苦労して登校していた分、彼らの方がメリハリのある高校生活を送っていた印象がある。

 話を主基斎田に戻すと、今上天皇の時も主基斎田は同じ九州の大分県玖珠町が選ばれた。その今上天皇も退位が決まり、新天皇即位の礼の大嘗祭開催は2019年11月、悠紀斎田、主基斎田は同年2~3月に選定されると報道されている。
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雑餉隈は鉄道を拒否したのか

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 「鉄道忌避伝説」なる言葉を恥ずかしながら最近知った。鉄道駅が市街地から離れている街が全国には少なくなく、これらの多くは宿場町だった例が多いという。「鉄道が通れば、人々が素通りするようになり宿場が寂れる」などと地元が駅設置に反対したためだと言われている。

 ここまでは良く聞く話で、私自身も実例を知っているが、ところが、これらの話には事実であることを証明する一次史料が見当たらない場合が大半だというのだ。しかも、現実の鉄道ルートは概ね地形条件に適合している。また、用地買収の問題を考えれば、建物の密集していない街はずれに駅が設置されたのは当然のこと。だから鉄道忌避は史実ではなく「伝説」。

 地理学者の青木栄一さんが2006年、『鉄道忌避伝説の謎』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)を出版して以降、一般にも知られるようになったが、青木さん自身は1980年代から、地域に伝わる鉄道忌避が伝説に過ぎないことを論文等で指摘し、この見解は研究者の間では広く支持されていたという。

 福岡都市圏でも、地元が鉄道敷設や駅設置に反対したという話がいくつか伝わる。代表例の一つが大野城市の雑餉隈(ざっしょのくま)だろうか。現在、福岡市博多区銀天町に雑餉隈という西鉄天神大牟田線の駅があるが、現在のJR鹿児島線・南福岡駅(博多区寿町)も開業時は雑餉隈という駅名だった。どちらも大野城市の雑餉隈からは、やや離れた場所にある。

 鉄道忌避の話に関係するのは、南福岡駅の方で、1889年(明治22)12月、九州鉄道の博多~千歳川(久留米の仮駅)間が開業した際、博多の次の雑餉隈は駅舎建設が間に合わず、同駅の営業開始は翌年1月にずれ込んだ。この理由について、『大野城市史』下巻・近現代編(2004)は、駅は本来、大野村雑餉隈に設置されるはずだったが、宿場町として栄えていた地元は冒頭のような理由で強硬に反対、やむなく九州鉄道側は急きょルートを変え、駅の場所も那珂村麦野に変更したためと説明している。ただ、駅名はすでに「雑餉隈」で決まっていたため反対派にも承諾してもらい、結果として雑餉隈ではない場所に雑餉隈駅が誕生することになったという。

 オフィシャルな市史に書かれている話だから、事実として信じても良さそうだが、厄介なことに伝説を事実として広めたのは概ね地方史誌だと『鉄道忌避伝説の謎』は指摘している。古老らから聞き取った話を、文献などで裏付けないまま記述し、これが事実として定着していったという。確かに『大野城市史』にも雑餉隈の鉄道反対運動についての出典は全く記されておらず、以下の1889年4月13日の福岡日日新聞記事が傍証として出されているだけだ。

 九州鉄道会社の博多久留米間の線路に就き先頃紛議起こりし処ろ、同会社技師小野琢磨氏と那珂御笠席田郡役所書記岡部圓蔵氏と立合の上、犬飼村(ママ現福岡市東区堅粕)より原田村(現筑紫野市原田)に至る迄の更生すべきは厚生を加え、二、三を除くの外は全て円滑に折合い落着したりと

 鉄道敷設を巡って何らかの問題があったことだけはわかるが、雑餉隈という地名は一切出てこないため反対運動を裏付ける資料にはなり得ないだろうと思う。また、そもそも鉄道敷設という大規模プロジェクトのルート問題が、一技師と郡役所の書記との話し合い程度で決着するはずがないと思うのだが。

 『九州鉄道会社史料集』『日本国有鉄道百年史』などもめくってみたのだが、雑餉隈駅の開業遅れについて『百年史』に「用地買収の遅れにより」と書かれていた程度で、反対運動に関する記述はなかった。だからといって、この程度の調べで雑餉隈の鉄道忌避も伝説だったと断言するつもりはないが、『大野城市史』の記述はもう少し検証されて良いのではないだろうか。

 とは言え、雑餉隈ではない場所に、なぜ雑餉隈駅が設置されたのかという謎は残る。九州鉄道・博多~久留米間の途中駅は、雑餉隈のほか、二日市、原田、田代、鳥栖。どこも宿場町だったことが共通しており、古くから知られた地名だったと想像される。なまじ栄えていたために用地買収が難しく雑餉隈から離れた場所にしか駅は設置できなかったが、駅名については無理を承知で雑餉隈にしたと思えなくもないが。


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 現在の大野城市雑餉隈。かつては7軒の旅館がこの道沿いに立ち並んでいたという。雑餉隈恵比須神社の縁起に、地域の歴史が紹介されている。なお、雑餉隈という難読地名の由来について、福岡藩の地誌『筑前国続風土記』は、酒食を商う店があったため、または大宰府の役人で雑務を取り扱った「雑掌(ざっしょう)」が住んでいたためではないかと推測している。
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