戦時下のミッションスクール撲滅運動

 戦時下の福岡県で、不愉快極まりない運動が行われていたことが、県教委発行の『福岡県教育百年史』(1981)に記されている。戦前、戦中の「キリスト教系学校への弾圧」について紹介した一文で、「キリスト教国である米英等と深い関係があり、平和と人類愛を目標とするキリスト教系の学校に対しては特に非難、圧迫が次第に強く加えられるようになった。(中略)ある種の学校については、事実上学校経営が不可能になるような条件の実行を強要し、あるいは廃校に追いこもうとさえした」などと書かれている。この一文はごく簡潔にまとめられ、どの学校にどのような弾圧が加えられたのか、具体的事実は全く記されていないのだが、当時の新聞の切り抜きがカット写真として掲載され、その写真説明が本文よりはるかに生々しく弾圧の実態を物語っている。「戦時中、西南女学院撲滅運動に関する新聞記事」。

 撲滅とは手元にある国語辞典によると「うち滅ぼすこと、絶やすこと」で、普通は社会の害悪に対して使われる。そんな激しい言葉が、一女子校に向けられていたのだ。

 西南女学院は北九州市小倉北区にあるミッションスクールで、1922年(大正11)、伝道のため来日していたアメリカ南部バプテスト派の宣教師によって創設された。同僚宣教師によって設立されたのが福岡市の西南学院で、両学院は経営的には無関係だが、西南女学院の第7代院長だったW.M.ギャロット(1910~74)が、後に西南学院の理事長を務めるなど人的なつながりは深い。新聞切り抜きの写真は、見出しは読み取れるものの、記事本文は全く判読できず、撲滅運動の正体まではわからない。そこで『西南女学院七十年史』(1994)をめくったところ、まるまる一章を割いて戦時下の苦難がつづられていた。

 『七十年史』にはさすがに「撲滅運動」ではなく、排撃運動、排斥運動と記されていたが、いずれにしろ西南女学院がターゲットとされたのは、キリスト教系の学校だったからというだけではない。同学院の立地も問題にされていた。「下関・北九州は人々の交流、物資輸送の要地であり、大陸進出の拠点であり、製鉄業を中心とした四大工業地帯の一つであったから、国家防衛上の要塞地になっていた。それを眼下に見るシオンの山にアメリカの教会と関係の深い西南女学院が建っていることから、特に攻撃や排斥を受けやすい状態であった」(『七十年史』)のだ。

 運動を主導したのは「愛国同志会」なる右翼団体。同団体は太平洋戦争開戦直前の1940年8月、同学院に押し掛けると、<1>学校を平坦地に移せ<2>人的にも物的にも米国との関係を絶て<3>キリスト教を捨てよ――などと要求し、これを拒否されると、立て看板やポスターを小倉市(当時)の各所に掲示するとともに、複数回の演説会開催、さらには宣伝ビラを新聞折込で市内各戸に配布するなどして市民に対して西南女学院排斥を訴えたという。この愛国同志会の実態はつかめなかったが、これほど大々的な運動を展開できたのだから、資金面でのバックがあったのは間違いない。運動には一部市議も賛同、警察は黙認の状態で、さらには新聞一紙が同志会の動きを大々的に報じたが、論調は「むしろ攻撃する側を正当化する」(『七十年史』)ものだったという。

 度重なる交渉の末、女学院側が校舎移転は毅然として拒否しながらも、外国人理事の除名や米国からの資金援助拒否などを約束したことで、同志会は矛を収めるが、女学院の本当の苦難の始まりはこれからだった。1944年3月、当時の原松太院長、杉本勝次理事長(後の福岡県知事、衆院議員)は軍部、及び県から呼び出され、陸軍の防空基地とするため校舎を明け渡すよう要請を受けた。さらに「貴校に対しては地方的にも排撃があるようだから施設の譲渡と同時に一時閉鎖か、廃校にしては何か」と迫られたのだ。院長、理事長の二人はこの時、「学校を閉鎖するより他に道はないように考えた」という。

 長くなったので結論を急ぐが、この危機的な状況の中で西南女学院が存続できたのは、女学院の教育を守ろうとした学校関係者や父母の熱意はもちろんだが、軍部や県に疎まれた学院に対し、救いの手を差し伸べた他校や寺の存在があったからだ。旧制小倉中、小倉高等女学校が学校施設、そして明恩寺(小倉北区、浄土真宗本願寺派の寺院)が本堂を提供してくれたことで、校舎を失った女学院は分散授業を強いられながらも、廃校を免れることができた。女学院が帰還を果たせたのは、終戦後の1945年9月。このブログを始めて以来、参考資料として学校史を読むことが増えたが、ここまでドラマチックな記述は初めてだった。

 福岡市の西南学院に対する攻撃は、女学院に比べれば穏やかだったらしい。その理由として、女学院への攻撃の裏には男女差別があった可能性があること、西南学院の校地は軍事施設から離れていたこと、そして何よりも「自分たちは健児を送り出して戦時体制に直接的に協力していると主張できたことが大きい」と学院関係者は分析している。
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悲惨というより壮絶だった戦後開拓

 古い新聞の切り抜きに、目を引く記事があった。福岡県内の山間部にある某戦後開拓地の一つを取り上げた1965年1月11日の読売新聞朝刊地方版の記事で、「また一人さびしく下山」「15年、ついに報われず」「春のない辺地」などの見出しの下、過酷な環境で経済的にも厳しい生活を送る入植者を救うため、地元の市役所が下山を勧めていることが書かれていた。記事によると、この開拓地は1951年に開かれ、入植者たちは山を切り開いて畑作農業を営んできた。しかし、車が通行できる道までは6㌔の山道を登り下りする必要があるため、作物の出荷は思うようにいかず、記事の書かれた当時は5戸が開拓地にとどまっていたものの、現金収入はほとんど得られず、自給自足に近い生活を送っていたという。

 興味を覚えて、この開拓地について調べてみた。1965年1月の時点で、行政が住民に離村を勧めていたのだから、恐らく集落は消滅しているだろうと予想したが、住宅地図の該当ページには、他の集落から遠く離れた山間部に、寄り添うように建つ2軒の住宅が記されていた。念のため、市役所に電話で確認すると、やはり2世帯が今も暮らしているとのことだった。自治体名や集落名を伏せたのは、これが理由だが、わずか2世帯とは言え、開拓地が今なお存続していたことは驚きだった。

 この開拓地の苦闘ぶりは、1981年に発行された市史にも紹介されている。開拓地は標高560㍍の「山間僻地」にあり、1951年から翌年にかけて市内外から13戸が入植し、焼き畑農業から出発して開拓が進められた。入植者たちはサトイモ、ソバ、サツマイモ、ダイコン作りに懸命に取り組み、中でもダイコン生産は一時、有望視されていたという。しかし、読売新聞に書かれていたように、交通不便な僻地だったことが仇となって量産体制、出荷体制が整わず、さらに子供の教育の問題や医療施設がないことなどもネックとなり、市史執筆の時点で入植者は3戸に減っていたという。市史のこの項目は「長年の努力で開拓された畑地は、しだいに元のような植林地に変わりつつあるのが現状である」と結ばれていた。

 時系列でまとめると、1951~52年に13戸が入植したが、読売新聞が取り上げた65年には5戸にまで激減し、市も残る住民に離村を勧めていた。しかし、市史発行の81年時点でも3戸がとどまり、入植開始から70年近くがたった今も2戸が暮らしている。市の勧めに応じなかった理由はわからないが、辛苦を刻んだ土地から離れ難かったのだろうか。

 戦後開拓について簡単に振り返っておくと、終戦直後の食糧難の時代、開拓等によって農地を広げて食糧増産を図るとともに、復員軍人や引き揚げ者らに働く場を与えるのが目的だったとされる。終戦の年の1945年11月に閣議決定された緊急開拓事業実施要領には、その方針が次のように記されている。
 「終戦後ノ食糧事情及復員ニ伴フ新農村建設ノ要請ニ即応シ大規模ナル開墾、干拓及土地改良事業ヲ実施シ以テ食糧自給化ヲ図ルト共ニ離農セル工員、軍人其ノ他ノ者ノ帰農ヲ促進セントス」

 戦後開拓によって切り開かれた農業地帯としては、九州では宮崎県川南町の広大な川南原開拓地が代表的な存在で、川南町は有数の酪農・畑作地帯として知られている。しかし、あまりに過酷な環境に入植者が離散し、閉鎖され消滅した開拓地も少なくないとされ、戦後開拓を「一種の棄民政策だ」と批判する意見もある。福岡県の戦後開拓については、概観した資料を見つけることができなかったが、『戦後開拓史(完結編)』(全国開拓農業協同組合連合会、1977)に、お隣の佐賀県の研究者が『戦後開拓行政の一考察』と題した一文を寄せていた。同県では127の開拓地があったが、この当時、9地区がすでに閉鎖され、残った地区の中にも20数戸の入植者が2、3戸にまで減っていたところもあったという。閉鎖地区について、研究者は次のように記している。

 「この閉鎖地区の存在こそが、戦後開拓のすさまじい様相を物語っていると私は思う。入植者は裸一貫で現地にはいり、鍬1本で開墾にいどむことになる。入植者は貧しい食生活に耐え、渾身の力をふりしぼって努力するが、過酷な自然条件は開発を頑として拒絶する。人々は精魂を使い果し、力つきて脱落していく、それが閉鎖地区である。戦後開拓には、こうした閉鎖地区の多いことが一つの特色である」

 『一考察』にはこのほか、入植当時の住宅が「古代人の住み家」同然だったことや、開拓地への電気導入事業が佐賀県で終わったのは1967年で、戦後20年を経てもランプで暮らしていたことなどが書かれている。劣悪な生活環境のため、2人の幼子を相次いで失い、「亡き子らに詫びる」と題した手記を寄せた男性もいたという。これらの体験談に触れた執筆者は、「凄惨な思い出」と表現し、「当時の思い出話は悲惨というより、何か壮絶な感じさえしたものである」と記している。
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鶴城高女、福岡城多聞櫓についての追記

 福岡市内に戦中まで存在したものの、戦後になって忽然と消え去った鶴城高等女学校について、2年前の11月に取り上げたことがある(「鶴城高女を探して」「続・鶴城高女を探して」)。福岡市と周辺にあった高等女学校は戦後、鶴城高女以外は全て新制高校として再出発し、今なお健在だ。鶴城高女がいつ、なぜ閉校したかを探ることが2本のブログのテーマだったが、あやふやなままで終わった。その後も折を見て古い新聞記事等を当たっていたところ、同校について簡単に触れたフクニチ新聞(1992年廃刊)記事を探し当てることができた。同紙は戦後の一時期、鶴城高女の跡地に社屋を置いていたというつながりがある。その記事によると、鶴城高女は「終戦の頃に廃校になった」という。

 廃校の理由については書かれていなかったが、これは何となく想像がつく。「鶴城高女を探して」の中でも紹介したが、同校は1945年6月19日の福岡大空襲で、校舎を失っている。福岡県教委発行の『福岡県教育百年史』(1981)によると、福岡大空襲では、鶴城高女のほか、福岡女子専門学校(現・福岡女子大)、福岡第一師範女子部(現・福岡教育大)、福岡高女(現・福岡中央高)などの校舎が焼失したが、私学の鶴城高女には戦後、校舎を再建し、再出発するだけの体力が残されていなかったのだろう。

 鶴城高女の創立年については、2016年のブログで、『教育百年史』には1902年(明治35)、大正時代に出版された『福岡市』(1916)には1912年(明治45)と異なる記述があることを取り上げたが、フクニチ記事はまたも異なり、1911年(明治44)創立と書かれていた。廃校によって記録が散逸し、さらには同校について記憶する人も減っていく中で、創立年という基礎的なデータさえあいまいになってしまったのだろう。『教育百年史』というオフィシャルな出版物が正しいのではないかと最初は考えたが、創立から近い時代に出版された『福岡市』の1912年が、やはり一番信頼に足りるのではないかと思う。
 
 最後に、鶴城の読みについて。「ツルシロ」か「カクジョウ」かわからなかったため、2016年ブログでは触れなかったが、カクジョウが正解だった。

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 福岡城内に築城当時から残る多聞櫓(写真)が戦後の一時期、西日本短大の前身に当たる学校に学生寮として使用されていたことを昨年8月、「多聞櫓は学生寮だった」で紹介した。城の建物が学生寮となるなど珍しいと思ったが、いかにも戦後の混乱期らしい話でもあったようだ。

 西日本短大の前身に当たる学校とは、困窮していた戦災者、引き揚げ者らの子弟の教育のため1948年12月に創設された大憲塾。創立者は江口繁。中央大卒業後に福岡市で弁護士を開業、後に政界に転じ、福岡市議、県議、衆院議員を歴任した人物だ。戦後は一時、公職追放を受けていた。多聞櫓の使用については、教育立て直しのため国も快く許可したのだろうと思っていたが、当時、一部から疑問の声が上がっていたという。正当な手続きを踏んでの借用だったのか、疑いがあったのだろう。

 疑義に対して江口は「大憲塾があったから、多聞櫓は浮浪者の住まいになることなく、損壊も免れたのだ」などと抗弁していたという。櫓使用についての正当性を主張したわけではなく、やや的外れの反論を行ったところをみると、疑いは根も葉もないものではなかったのだろう。ただ、大憲塾は1955年3月には県から各種学校の認可を受け、大憲塾法学院に改称しており、遅くともこの時までには問題は完全に解決していたと思われる。

 なお、『福岡城南丸多聞櫓修理工事報告書』(福岡市教委、1975)に基づき、多聞櫓は学生寮として使用されたと書いてきたが、同じ市教委発行の資料の中には、ただ単に校舎と記したものもある。ただ、同報告書には「西日本短大が事務所および学生寮として使用した際、(中略)室内に押入れの新設、窓や出入口の模様替並に天井、間仕切壁面にベニヤ板を張る等内装を改め」とあり、居室として使用されていたのは間違いないようだ。寄宿舎を兼ねた校舎だったのだろうか。
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終戦直後まであった「田島の女中市」

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 写真は、現在の山口県下関市で昭和時代まで続いていた「滝部の奉公市」を記録したものだ。滝部地区周辺の漁村では、女性たちが農繁期、近隣の農家に働きに出る慣行があり、こういった青空労働市場で雇用関係を結んでいた。賃金は、現金ではなく米などで支払われていたらしい。漁業者側はこれで米を確保できる一方、農家側も忙しい農繁期にだけ人を雇えるメリットがあったという。同様の風習は、玄海灘に浮かぶ福岡県の大島(現・宗像市)にもあり、こちらは「田島の女中市」とも呼ばれていた。ただし、地元では人身売買を連想させるとして女中市の呼び名を嫌っていたようだ。

 田島の女中市については、戦前の1935年(昭和10)に出版された『博多年中行事』(佐々木慈寛)に、以下のように紹介されている。

 女中市 宗像宮の秋祭の時、同社の一の鳥居一帯に妙齢の娘たちが居並んでいるが、これは宗像郡神湊から三里の沖にある大島(宗像宮の中宮を祀る)の娘たちで、島の習慣として一度島外へ奉公した者でないと嫁に貰う者がないので、この日宗像宮に詣でて召し抱え主を物色しているのである。祭典の二日目に参籠殿の一隅で雇傭関係が結ばれるが、毎年四、五十組位はあるという。

 宗像宮の秋祭とは、現在も続く宗像大社(宗像市田島)の秋季大祭(10月1~3日)のことで、別名は「田島の放生会」。『博多年中行事』の出版当時、当たり前に市が開かれていたことがわかる記述だが、それどころか戦後の1951年(昭和26)まで、この風習は続いていたらしい。理解できないのは、女性たちが奉公に出る理由について「島の習慣として一度島外へ奉公した者でないと嫁に貰う者がないので」と書かれていることで、本当にこんな理由で女中市は長年続いていたのだろうかと不思議に思った。

 他資料を当たったところ、『大島村史』(1985)に「普通は盛漁期を過ぎた十月から、あり余った漁村の労働力を、農繁期の刈り入れ時に提供し、漁村に不足している米という現品を持ち帰る。経済的に相互利益に立った両者納得のうえの契約である」とあった。やはり滝部の奉公市と同様の図式だったようだ。ただ、一方で村史には「この出稼ぎは島の貧富を問はず、習慣として、どんな豊かな家の娘も、一度は他人の飯を食って修業したのである」ともあり、一種の通過儀礼として機能していたのも事実のようだ。なお、奉公の期間は12月1日までというのが一般的で、雇用期間が1年を超える年季奉公に対し、「半期奉公」と呼ばれていたという。

 女中市は、上述のように1951年を最後に幕を閉じるが、これはニーズがなくなったから廃れたわけではなく、福岡県側があらかじめ求人情報を調べ、これを大島村の若者たちに提示する方式に改めたからだという。半期奉公について、地元・大島村では島の若者たちに他所の生活を体験させ、人間形成につなげる「美風」として続いていたが、女中市とも呼ばれた、その雇用契約のあり方については、県側には改めるべき前近代的な風習と思えたのだろう。

(写真は国会図書館デジタルコレクション所蔵の『職業紹介公報』第54号から借用。女中は現在、差別用語として扱われているが、歴史的用語として使用した) 
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記憶に全くない先代の福岡市庁舎

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 福岡市博物館の常設展示室に、福岡市の先代庁舎の写真があった。1923年(大正12)の完成で、1945年6月の福岡大空襲を生き延び、昭和後期まで現役の庁舎として使用されていた建物だ。福岡市に長年住み、市役所がある天神界隈にも頻繁に行っていたのだが、この庁舎に関する記憶が全くない。福岡市が1972年に政令市となって以降、区役所には行っても本庁舎に行く必要がなくなったためもあるが、それにしても記憶が完全に抜け落ちている。一目見て印象に残りそうな重厚な建物なだけに、自分でも不思議で仕方がない。

 『福岡市史』(大正編)によると、先代庁舎は鉄筋コンクリート造り地下1階・地上3階建てで、さらに建物の中央に2階建ての塔屋がある構造だったという。塔屋を含めた高さは約27㍍。完成当時、市内では飛びぬけて巨大な建造物だったようで、市史に収録されている1923年12月6日の福岡日日新聞記事には、「新庁舎は高さ約九十尺、建坪延千五百坪で、全市を眼下にへい睨する巨人の観がある」と書かれていた。

 役所がバカでかいのはこの国、とりわけ地方ではよくあることだが、この記事にはもっと面白い話も書かれていた。新庁舎完成を機会に、市職員の服装を洋装に統一する動きがあったというのだ。「錦を瓦に包むの誹を招かないよう、今から心掛け、市吏員の服装の如きも、現在では和服、洋服、制服等雑然として統一されていないのを制服又は洋服に一定すべく、目下各課長間で考究中で…」とあり、重厚な洋風庁舎に和装は似合わない、と当時の市幹部は考えたのだろう。この試みが本当に行われたかどうかはわからなかったが、これまた役所らしい話だと思った。

 庁舎建て替えに伴い、先代庁舎が取り壊されたのは1985年のことで、5月20日の解体作業初日、建設当時に埋め込まれた定礎箱が取り出されている。定礎箱とは一種のタイムカプセルで、中には先代庁舎の定礎式が行われた1923年3月15日付の福岡日日新聞、九州日報の2紙などが収められていた。黄ばんではいたが、保存状態は良好だったそうで、両紙には、定礎式の予告をはじめ、レーニン危篤、曲淵ダム完成で福岡市に上水道がひかれることになったため、松原水(博多で飲料水として人気を集めていた井戸水)の販売が3月限りで終了する――などの記事が掲載されていたという。なお、レーニンはこの時は持ち直し、翌年の1月に死去している。

 現庁舎の定礎式が行われたのは1988年4月2日。この時にも行政資料の他、当日発行の日刊紙、スポーツ紙を収めた定礎箱が埋め込まれた。この日の記事はどんなものがあったのか調べたところ、国の暫定予算案が提出されるというニュースが日刊各紙のトップ記事だったようだ。減税を巡って与野党が対立したため予算案成立が遅れ、竹下内閣が暫定予算案を出さざるを得なかったという中身だ。先代庁舎の定礎式当日の新聞に比べれば、あまり面白味はない。
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軍用機献納運動と「福岡市号」

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 福岡市博物館で夏恒例の企画展「戦争とわたしたちのくらし」の27回目が開かれている。今年のテーマは戦時期の宣伝戦略で、戦意高揚、戦争遂行のために制作されたポスターなどが展示されているが、目を引いたのは、朝日新聞提唱の「軍用機献納運動」のポスターだ。国民から金を集めて軍用機の製造費用に充てようというもので、ポスターには「千機二千機われらの手で」「更に銃後の赤誠に想ふ」などの言葉が並んでいる。ただ、朝日新聞だけがこの運動を進めていたわけではなく、他の新聞社も運動を礼賛し、協力していた様子で、例えば、1932年(昭和7)2月2日の読売新聞には「全国各地に巻き起る軍用機献納の美挙!」の見出しが踊っていた。

 献納運動には福岡市も1933年、市一丸となって取り組み、7万5000円を集めて九一式戦闘機1機を陸軍に贈っている。この戦闘機は「愛国第九三福岡市号」と命名され、この年の12月2日、箱崎の埋立地で献納命名式が行われている。その模様を『福岡市市制施行五十年史』(福岡市、1939)は一節を割いて次のように記している。

 「佐藤中尉操縦の下に晴の処女飛行を行い、銀翼燦々と碧空に耀き、横転逆転、あらゆる高等飛行の粋を尽し、僚機二台に迎えられて、雄姿颯爽、南大刀洗の彼方に飛び、怒涛の如き市民の歓呼に送られて、雲間遠く晴の機影を没し去ったが、時に正午を過ぐるまさに五分、この歴史的なる盛式こそ、福岡市民愛国表徴の第一塔として、感激と興奮、唯明日の健闘と雄飛、勝利と成功、幸と栄光とを祈るの外になにものもなかったことはいう迄もない」。

 戦時期の資料であることを割り引いても、ずいぶん美辞麗句がゴテゴテ並んだ文章だが、これが戦後に刊行された『福岡市史』昭和前編(1965)になると、一転して軍用機献納運動についての記載は一切なく、1933年の年表に「四月 福岡号命名式挙行」とあるだけだ。しかも『市制施行五十年史』とは開催日も異なる。献納運動の評価は敗戦と同時に「美挙」から「愚挙」に180度変わり、市史に記録すべき話ではなくなったのだろう。博物館を出た後、隣の市総合図書館に行って、関連資料を探したのだが、献納運動について書かれたもの自体がほとんど見当たらなかった。

 九一式戦闘機は、機体の上に主翼が配されたセスナ機みたいなフォルムの戦闘機で、愛国機にはこの機種が多かったという。名機との評価もあったというが、国立公文書館アジア歴史資料センターにデジタル保存されている文書によると、福岡市の献納からわずか2年後の1935年頃には、九一式戦闘機は主力戦闘機の座から降り、次々に「廃兵器」として処分されていったようだ。実戦での出番はほとんどなかったらしい。「福岡市号」の消息はたどれなかったが、恐らくこの機も戦闘に参加することなくお役御免になったのではないだろうか。
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円形劇場と嫩葉会

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 福岡県うきは市の「道の駅うきは」敷地内に先頃復元された円形劇場を見学してきた。1925年(大正14)11月、地元(当時は山春村)の農民劇団「嫩葉(わかば)会」のため、村人たちが総出で造り上げた野外劇場。それから約90年がたち、劇場は跡形もなく風化したものと思われていたが、2015年の発掘調査で遺構が確認され、市が復元を進めていた。この劇場について初めて知ったのは2014年8月、遺構が確認される前のことで、この時は行政ではなく地元有志が復元を模索していた段階だった。関係者から立ち話で復元プランを聞き、興味深い取り組みだと思って、「うきはの円形劇場、復元を検討」で取り上げた。遺構が確認された際にも「遺構が残っていた円形劇場」を書いたが、これほどとんとん拍子で復元が進むとは、予想外だった。

 嫩葉会は、山春村の医師だった安元知之(1890~1927)が、地元の若者たちから「農作業に明け暮れるだけでなく、文化的な楽しみも持ちたい」と懇願され、1923年(大正12)に結成した劇団。日本初の農民劇団とも言われている。安元宅の二階大広間を改造した舞台で、旗揚げ公演の菊池寛作『屋上の狂人』を上演して以降、農作業の合間を縫って2か月に1度の公演を行っていたという。

 最初、周囲の村人の目は冷たかったと言われるが、徐々に人気が沸騰、安元宅では手狭になったことから、「野天(のてん)公会堂」と呼ばれた円形劇場が整備されることになった。直径10㍍程度の小さな半円形の舞台を取り巻く形で、階段状の観客席が丘の斜面に配された構造。復元された観客席からは筑後平野や背後の山々が見渡せ、ここでの観劇は、さぞかし趣があったことだろう。

 ただし、嫩葉会は実際にはこの円形劇場で公演を行わなかったと伝えられている。もともと病弱だった安元は病に倒れ、1927年1月に37歳の若さで死去。指導者であり、精神的支柱だった安元が倒れた後、会の活動は下火となり、同年8月には解散を選んだ。円形劇場について紹介する、うきは市教委発行のパンフレットには「この劇場が嫩葉会によって使われることはありませんでした」と記されている。

 しかし、劇場完成の翌年に当たる1926年2月、作家の湯浅真生が『農民劇場の問題―嫩葉会の功績と意義』と題した評論を読売新聞文化面で4回にわたって連載しているが、この中に“野天劇場”での公演についての記載があるのだ。以下に引用する。

 その年の十二月には村人達の希望(室内では少数の者より観ることが出来ない処から)によって、安元氏宅の附近の畑に野天劇場を作って、菊池氏の『父帰る』『袈裟の夫』『恩讐の彼方に』、武者氏の『わしも知らない』『或る日の一休』、額田氏の『真如』、ダンセニーの『光の門』を二日に亘って上演した。この時には既に舞台だの、小屋がけだのは、一切村人達の手によって作られたのである。

 最初は冷たかった村人たちが嫩葉会の熱烈な理解者になってくれたことを紹介した一文で、文中の「その年」とは円形劇場が完成した1925年を指している。文章をそのまま読めば、嫩葉会がその年の12月に円形劇場で公演を行い、2日間で『父帰る』など7作品を上演したことになる。ただ、2日間で7作品では、あまりに多すぎる気がする。湯浅自身は公演終了後に山春村を訪ね、取材したことを明らかにしている。実際に公演を観たわけではないため、あるいは聞き間違いがあるのかもしれないが、こういった証言があることを無視はできないだろうと思う。

 また、円形劇場の完成から安元の死去まで、1年以上の期間があるが、嫩葉会の活動はこの間、完全に停止していたのだろうか。会解散後の1927年12月、湯浅がやはり読売新聞に寄稿した別の評論には「嫩葉会では安元氏の病臥後も青年達自身の手で試演を行ったこともあったのだが、従来の成績と較べて全然失敗に終わったばかりでなく、その後会員達自身が指導者がいない為に演劇に対する興味さえ失っていくような結果となったのであった」と、嫩葉会が安元抜きで公演にチャレンジし、そして失敗に終わったことが書かれている。公演場所がどこかは明記されていないが、嫩葉会のために整備された円形劇場だった可能性は十分あるのではないだろうか。

 嫩葉会関連の出来事を時系列で記すと以下のようになる。
  • 1923年04月 嫩葉会結成
  • 1925年11月 円形劇場完成
  • 1926年02月 湯浅真生『農民劇場の問題―嫩葉会の功績と意義』連載
  • 1927年01月 安元知之死去
  • 1927年08月 嫩葉会解散
 道の駅うきはの敷地内に、復元前から設置されている円形劇場についての説明板には、劇場が「数千人が一堂に会される」規模だったことが記されているが、実際に確認された遺構は、せいぜい200人が座れる程度の小規模なものだった。嫩葉会解散から約90年、会についての記憶も円形劇場も風化していく中で、誤った情報が色々と伝えられてきた可能性があるのではないかと思う。再び円形劇場が姿を現した今、地元では安元知之と嫩葉会について再評価が進んでいる。
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映画『陸軍』に見る大空襲前の福岡

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 戦時中、福岡で撮影された映画『陸軍』を最近見た。1944年12月に公開された作品で、45年6月の福岡大空襲で焼け野原となる以前の街並みが記録されているため、福岡では歴史資料としても評価されてきた。初めて実写フィルムで見た44年当時の福岡市中心部は想像していた以上に近代的だった。

 映画は木下恵介監督作品で、出演者は田中絹代、上原謙、笠智衆ら。タイトルからは戦闘シーンを連想してしまうが、小倉から博多に移り住んできた一家を描いた作品で、物語の最後では、一家の長男が所属する部隊が中国大陸に派遣されることになり、市内を行進しながら出征していく。多数の市民が日の丸を振って歓呼の声を上げる中で、一人母親(田中絹代)だけは時折涙をぬぐいながら長男を追い掛け、最後は両手を合わせて無事を祈る場面が印象的だ。

 このラストシーンが撮影されたのが、福岡市中心部。部隊が行進していく現在の明治通りにはモダンで、意外なほど大きな建物が建ち並び、呉服町交差点を右折した後は路面電車も映っている。私が確認できたのは、母親が見送りに急ぐ場面に映る、現在も残る赤煉瓦の旧日本生命九州支社(現・福岡市文学館、写真)とその隣の水鏡天満宮の社叢、遠目に映る県公会堂貴賓館の尖塔らしきものぐらいだが、千代田生命、三菱銀行などの建物が次々に登場するらしい。まだビデオソフトが普及していなかった時代、福岡市はこの映画のフィルムを購入し、古い街並みの調査に活用していたとも聞く。

 『陸軍』の原作は、朝日新聞に連載されていた火野葦平の小説。彼は若松の出身だが、福岡連隊で兵役を送っており、恐らく実体験も小説に反映されているのだろう。同新聞の縮刷版をめくり、連載を探し始めたのだが、途中で気が変わり、福岡大空襲についての当時の報道を調べてみた。45年6月21日の紙面に「福岡へ六十機」の見出しで以下の記事があった。

 西部軍発表(昭和二十年六月二十日六時)
 一、マリアナ基地の敵B29約六十機は六月十九日二十二時三十分頃より六月二十日午前零時三十分頃までの間、宮崎県東方海面より単機または少数機編隊をもって逐次九州本土に侵入、約二時間に亘り、福岡市に対し主として焼夷弾による攻撃を実施せり
 一、別に同時頃豊後水道より侵入せる敵B29約十機は関門付近に機雷を投下せり
 一、福岡市内各所に火災発生せるも軍官民の敢闘により二時三十分頃までにその大部は概ね鎮火せり

 被害が本当にこの程度で済んでいたら、『陸軍』に登場した街並みはもう少し後の時代まで生き残り、少なくとも映像や写真程度は多数残されていたことだろう。現実には229機ものB29が福岡に襲来し、『福岡市史』によると、926人の死者・行方不明者(資料によって数字が異なる)を出し、当時の市の総面積の3割、被害が大きかった中心市街地では地区によっては9割が焼失している。
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九州電灯鉄道の痕跡

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 先日、福岡市中央区内を散策していた際、鳥飼神社に「九州電燈鐵道株式會社」と刻まれた石柱があることに、うかつにも初めて気付いた。十数年前から頻繁に通っている場所なのだが、例によって自分の観察力のなさに呆れるばかり。それはともかく、九州電灯鉄道とは、西鉄の路面電車(貫線)の前身に当たる福博電車を一時経営していた会社で、もう一本の石柱には大正2年(西暦では1913年)12月吉日に建立したと刻まれている。貫線は1975年に廃止され、九州電灯鉄道の痕跡は市内にはほとんど残っていないと思われるだけに、この石柱は案外貴重なものかもしれない。

 九州電灯鉄道は1896年(明治29)から1922年(大正11)まで、福岡市にあった電力会社兼電鉄会社。運行していた福博電車は現在の東区箱崎から中央区今川橋までを結び、今川橋で北筑軌道(今川橋~加布里)と連絡していた。今川橋の一つ手前の電停が地行西町で、ちょうど鳥飼神社の裏手にあった。石柱は、騒音などで迷惑をかける沿線に対して謝意を表したものだったのだろうか。

 地行西町は現在の中央区地行2、3丁目に当たり、この一帯を九州電灯鉄道は貸し邸宅地として開発していた。大正時代に出版された『現在の福岡市』(1916)には「巍然たる高楼櫛比し、壮麗なる庭園は細波静かなる湾内の雲烟に和して宛然たる一城廓をなす」と漢文調で当時の様子が記録されている。広壮な庭を持った豪邸が建ち並んでいたというわけで、この豪邸の中には、当時の同社役員の一人で、後に「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門(1875~1971)の屋敷もあった。この屋敷跡は後に日本興業銀行の寮となったが、現在は分譲マンションが建っている。

 西の終点の今川橋電停は樋井川に面し、この樋井川河口を同社が埋め立て、海水浴場や納涼場として整備していたことを
「樋井川河口にあったものは」で取り上げたが、同社はこのほかにも伊崎浜(最寄りの電停は黒門)で海水浴場を運営していた。また、西公園電停近くにあった菊人形の展示館・黄花園も同社の施設だったと思われる。

 貸し邸宅に娯楽施設と、沿線開発には相当積極的な会社だったようで、また、他社との合併も精力的に繰り返し、九州電灯鉄道は大正時代には「今や九州第一の大会社となれり」(『株式大鑑』1916)と評されていた。しかし、その大会社も1922年には関西電気との合併で解散し、それから1世紀近くがたった現在、沿線にあった施設は全て跡形もない。伊崎や地行の海水浴場に至っては、大規模な埋め立てにより海岸自体が消滅した。
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博多湾のノリ養殖と猪野銅山

19750304国土地理院

 国土地理院が1975年(昭和50)に撮影した博多湾の航空写真に、有明海みたいな風景が写っていた。シーサイドももち埋め立てで消滅した百道海水浴場のすぐ沖に、ノリ網が多数設置されているのだ。こんな市街地に近い海域で、昭和後期まではノリ養殖が行われていたのかと少し驚いた。博多湾のノリ養殖は現在、姪浜で続いているだけだが、かつては湾内で広く行われ、「博多湾ノリ」のブランドで各地に出荷されていたという。(写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから)

 福岡市漁協発行の『福岡市漁村史』(1998)によると、博多湾のノリ養殖は1894年(明治27)、箱崎の山崎親次郎という人物が多々良川河口の湾奥部で取り組んだのが始まり。湾内の漁業は冬季にほとんど水揚げがなかったため、漁業者の冬季の副業にしたいとの考えだった。その後、県水産試験場の指導もあって技術が向上すると、1902年頃には多い時で1日1万枚の生産量があったという。しかし、養殖開始翌年の1895年、多々良川上流の猪野(久山町)に銅山が開発され、その鉱毒が湾内に影響を及ぼし始めると、生産量は著しく減少。さらに1911年には、現在の東区名島にあったノリの加工場が火災で焼失し、博多湾のノリ養殖の歴史はいったんは途絶えた。

 再開のきっかけは、第一次大戦後の不況で猪野銅山が1919年(大正8)に閉山し、湾の水質浄化が進んだことで、戦後になると、博多湾のノリ養殖は東は多々良川河口から西は室見川まで拡大した。だが、1981年(昭和56)に始まった博多港の港湾整備により養殖場が次々に消滅していき、ノリ生産量は急速に減少していったという。上の写真が撮影されてから数年後には、博多湾の幾何学模様はほぼ姿を消したことになる。百道海水浴場沖も1982年から埋め立てが始まり、新たな街に姿を変えた。

 博多湾のノリ養殖の歴史を駆け足で記したが、意外に気になったのは、ノリ養殖を一度は中断に追い込んだ猪野銅山についてだ。久山町の歴史には疎いため、存在自体を知らなかった。そこで『久山町誌』(1996)をめくってみたが、それによると、1877年(明治10)頃から町内数か所で銅採掘が始まり、中でも猪野鉱山の中河内鉱は規模が大きく、鉱脈の露出も多い鉱山だった。銅鉱は博多港や現在の東区土井まで馬車で運搬され、その後は船や鉄道で下関・彦島や大分・佐賀関にあった精錬所に運ばれていた。閉山は、猪野鉱山が前記のように1919年、その他の銅山も戦前までには操業を停止したが、これらの廃鉱が水質汚染の原因となり、ようやく1975年になって鉱害防止工事が進められたという。

 町誌にはこのほか、1898年(明治31)頃には銅山の景気が特に良く、給料が高いのを羨んだ小作農たちが次々に銅山で働き始めたため、作付けができなくなり、地主たちが苦慮していたことなどが記されていた。しかし、銅山の経営者、最盛期の生産量や従業員数、鉱害の具体的な内容などついての情報はなく、今一つ銅山の実態をつかめなかった。『福岡県史』など他資料も当たってみたが、福岡県内の鉱業については炭鉱に全てのページが割かれ、銅山についての言及はゼロだった。機会があれば、猪野銅山の廃鉱探索でもしてみたいと思うが、現状はどうなっているのだろうか。
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