桜井神社と黒田忠之

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 墓参の帰り、以前から気になっていた桜井神社(福岡県糸島市)に参拝してきた。1632年(寛永9)の創建で、当時から残る重厚な楼門、本殿、拝殿などは県指定文化財ともなっている。木々に囲まれた境内は神秘的な雰囲気で、最近はパワースポットとしても人気を集めているらしい。この神社を建てたのは福岡藩2代藩主・黒田忠之(1602~1654)で、重臣と争って「黒田騒動」を引き起こし、名君不在の福岡藩歴代藩主の中でもとりわけ暗君扱いされている人物だ。一方で、寺社に対する崇敬は際立っていたとも評され、彼が創建・再興した寺社はこの桜井神社以外にも数多い。神仏頼みのバカ殿だったのだろうか。

 桜井神社創建の経緯は『筑前国続風土記』に詳しく記されているが、実は合理的な社会だったと言われる江戸時代にしては、かなり胡散くさい話だ。慶長15年(1610)、桜井地区を襲った豪雨により突然、岩戸の口が開いた。これを見物に行った地元・志摩郡の住人・浦新右衛門(新左衛門と記した資料もある)の妻(以下、浦姫)が神懸かり状態となり、人々の吉凶を占い始めた。さらに神託に従い5年間五穀を絶ったところ、浦姫の霊験はさらに高まり、遠方からも信奉者を集めるようになった。噂を聞き、自ら浦姫を訪ねた忠之は彼女の力を目の当たりにして深く信仰するようになり、ついには彼女を祭る社を建立し、社は人々から「與土姫大明神」とあがめられた。

  與土姫大明神=桜井神社という物的証拠が残っていなければ、できの悪い作り話としか思えないエピソードだが、この話の後半部分は少し様相が変わってくる。少し長くなるが、その部分を引用すると、
 「浦氏をば則社務職として、其子毎成(つねもり)をば京都に遣し、吉田流の神事を学しめ、唯一神道を守らせ、国中社職の惣司とし、諸社の神職の輩にも、志有者は浦氏に属し、仏氏の徒とならずして吉田流に帰せり。始は神社の側に、いかめしき仏閣多く、社僧も往して、仏事を取行ひけるに、此事京都の吉田より、心得ぬ執行也と沙汰有故、寛文十二年に祠官浦権太夫毎春、是を国君に申して、ことごとく仏閣をこぼちて、僧をしりぞけて、専に神道を執行せり」

 浦氏の一人を京都に派遣して吉田神道を学ばせたうえで、領内の神職のトップに据え、さらには仏教の影響下にあった神道(両部神道)を排除したという内容だ。桜井神社の草創期の歴史は一気に政治色の濃いものとなる。忠之による桜井神社創建は領内神社の一元的な統制につながる話だったわけで、『福岡県史』通史編・福岡藩文化(上)(1993)には「忠之時代の文化的な営みに特徴的なことは、忠之の寺社に対する崇敬・外護で、歴代福岡藩主中きわ立っている。それが同時にキリシタン禁教、寺社統制、及びそれをとおしての藩秩序の維持・強化を意味したことはいうまでもなく」と記されている。

 こうなると、忠之を「神仏頼みのバカ殿」と考えるのは不当な話で、ファンタジーじみた桜井神社創建の経緯にも、何らかの意図が隠されていたのではないかと思えてくる。浦姫の夫、新右衛門は、戦国大名・大友氏配下の武将の子孫。浦姫の霊験はともかくとして、その評判が藩主の耳にも届いた程だから、新右衛門、または浦氏のプロデュース能力の高さは相当なものだったと想像される。また、一族の毎成は藩命で京都に留学し、帰国後は「社職の惣司」となったのだから、忠之から実務者能力を高く買われていたのは間違いない。桜井神社創建による神社統制は、結果論ではなく、最初から練り上げられたものだったのだろうか。なお、浦姫は神社創建から4年後の寛永13年(1636)、68歳で死去している。

 暗君とばかり思っていた忠之だが、この機会にめくった『福岡県史』などには「藩主専制権力の伸長をドラスチックに強行した」人物として扱われていた。結果としてこれが初代藩主・長政以来の重臣との軋轢を生み、その一人・栗山大膳が幕府に対し「忠之に謀反の疑いがある」訴える事態となり、福岡藩は一時、存亡の危機に立たされた(黒田騒動)。無実を認められた忠之は騒動以降、大坂城再建の手伝いや長崎警備、島原の乱などで幕府への忠勤に励み、その結果、福岡藩の財政は忠之の晩年には早くも破綻状態だったという。福岡藩の2代藩主は暗君ではなかったかもしれないが、名君でもなかったのだろう。桜井神社には、忠之自身も島岡大明神として祭られている。
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山麓にある海神社

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 福岡市早良区西油山に海(わたつみ)神社という社がある(写真)。海から離れた油山(597㍍)の山麓に海を名乗る神社があるのは不思議だが、調べてみると、城南区東油山にも全く同名の神社があった。古代の遣唐使たちが脊振山に登り航海安全を祈ったという故事もあるぐらいなので、ひょっとしたら山で海神を祭るのは珍しいことではないかもしれない。だが、福岡都市圏にある「ワタツミ神社」(漢字表記は海のほか、綿津見、綿積、少童)と、これらの神社の総本社と言われる東区志賀島の志賀海神社の位置を地図に落としたところ、やはり大半は海、または河口に面した場所にあり、東・西油山の海神社の立地は異色だった。

 大正時代、早良郡役場によって編まれた『早良郡志』(復刻版は名著出版、1973)によると、西油山の海神社の祭神は底津少童命、中津少童命、上津少童命の三神。航海安全や漁業などの神々だ。例祭は9月19日、氏子は25戸。一方、東油山の海神社は同じ海神ながら豊玉彦命を祭り、別名は龍樹権現。例祭は9月9日で、東油山35戸の産神だと記されている。両神社とも明治5年(1872)に「村社」に定められたとあるが、それ以外の沿革については記載がなく、山里でなぜ、海神が信仰されてきたのか理由は不明だ。

 龍樹権現とは油山山中にあった社で、江戸時代の地誌『筑前国続風土記』には「龍樹権現の社の跡、山の七分高き所に在り。(中略)今は龍樹権現をば、山下に移せり。村に近し」との記述がある。「山下に移せり」というのが、現在の東油山・海神社のことなのだろうか。

 続風土記には、西油山の集落の成り立ちについての記述もある。「今の西油山の地、昔は中河原と云ふ。村里なく、田畠もなかりしに、近世田畠を開き、家を作りて村と成れり。村民樒の皮と葉とを多く取て抹香とし、福岡などに持出て売り、家産を助く」。西油山の集落は移住者によって開かれた村だったことがわかる。海辺の民が移り住んできたのならば、話は簡単なのだが…。

 『福岡県の神社』(アクロス福岡文化誌編纂委員会、2012)によると、2012年1月現在、福岡県内には3,318の神社があり、このうち最も多いのは600社を超える天満宮で、県内での「天神さま=菅原道真」信仰の広がりを物語っている。続いて八幡宮、貴船社、熊野社、大山祇神社、祇園社、日吉社の順で、ワタツミ神社は8番目となっている。何社あるのか数は示されていないが、「筑後の有明海沿岸地方に多くのワタツミ神社がある」といい、やはり海辺にあるのが主流のようだ。
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動き出した「宗茂」大河ドラマ誘致

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 福岡県柳川市が、初代柳川藩主・立花宗茂 (1567~1643) と妻・誾千代(1569~1602)を主人公にした大河ドラマ制作を求め、誘致活動を始めた。8日午後には市長一行が甲冑姿で知事を訪ね、活動への協力を要請したという。以前、『軍師官兵衛』の放映が決まった際、福岡市への経済効果は薄いだろうと思い、「我が福岡も歴史ファンの間で人気が高い立花宗茂を候補に、本気で誘致活動に取り組んではどうだろう」と偉そうに書いたことがある。この時は立花城主としての宗茂が念頭にあったのだが、やはり柳川藩主として取り上げるべき人物であり、柳川市が活動の中心になる方が理にかなっている。(立花城は福岡市東区や新宮町などにまたがる標高367㍍の立花山にあった。写真は城跡の山頂と、山頂にある説明板)

 立花宗茂は、大友宗麟配下の武将・高橋紹運の子。紹運の同僚の戸次道雪に請われ、15歳の時に道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)の婿となり、立花城主(正確には城督と呼ぶらしい)を継いだ。九州の覇権を懸けた大友と島津の戦い、秀吉の九州平定戦、文禄・慶長の役などで数々の武勲を挙げ、秀吉からは「西国無双の誉」「九州之一物」と激賞され、九州平定後には柳川13万石に取り立てられている。関ヶ原の戦いでは西軍についたため所領を没収されたが、徳川家からの評価も高く、20年後の1620年には柳川藩主に返り咲いている。西軍方の武将で旧領復帰を果たした唯一の例だ。柳川市は宗茂復帰400周年に当たる2020年の大河放映を目指しているという。

 一方、妻の誾千代は7歳の時に父・道雪から家督を譲られ、女城主となった。もちろん、7歳の女児に城主が務まるはずもなく実質的権限は道雪にあったようだが、関ヶ原の戦後、自ら甲冑を身にまとい、女性部隊を組織して柳川の防備を固めたという勇ましいエピソードも伝わる(史実かどうかは不明)。立花城から柳川に転封後は宗茂と別居、所領没収後は熊本に身を寄せ、宗茂の返り咲きを見ることなく30代の若さで亡くなっている。

 私の拙い文章力では二人の魅力を到底伝えきれないが、NHK好み、または大河向きの人物であるのは間違いないと思う。むしろ、なぜ、これまで誘致運動が起きなかったのか、もっと言えば、すでに大河ドラマ化されていないことが不思議なぐらいだ。また、2012年には葉室麟氏が『無双の花』、故・山本兼一氏が『まりしてん誾千代姫』と、両直木賞作家がこの夫婦を題材にした小説を発表しているほか、宗茂を主人公にした小説は過去にも複数出版されており、原作・原案にも事欠きそうにない。

 ただ、気になるのは今年、誾千代とキャラがもろにかぶる『おんな城主直虎』という作品が放映されていることだ。直虎については「実は男だったのでは」と疑義が出されていることもあり、柳川市サイドは「誾千代は正真正銘の女城主で、史料も豊富にある」と意気盛んだ。しかし、史実がどうあれ、わずか2年のインターバルで、NHKが似たような題材を大河ドラマで取り上げるというのは、個人的には望み薄という気がする。せっかく魅力的な人物なのだから、柳川復帰400周年の2020年放映などという目標にこだわらず、息の長い誘致活動を続けた方がベターではないだろうか。短期決戦に懸けるというのならば、それはそれで仕方がないが。

 宗茂と誾千代の夫婦仲については、立花城を離れた後は別居していること、二人の間に子がなかったこと――などの理由から、不仲説が流布しているが、地元・柳川市にある立花家史料館は「二人と同時代の史料で不和を証言するものはない」と否定的だ。不和の原因について、誾千代が肥前名護屋城に陣を張っていた秀吉の目に止まり、寵愛を受けたためと描いた小説が過去にはあり、「柳川では大変な物議を醸した」と書かれた資料があった。400年前の人物を巡って物議を醸すところに、旧領主と地元との深いつながりが垣間見える。下の写真は柳川藩主の旧別邸「御花」。


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人民共立小学校と筑前竹槍一揆

 明治時代初めに編纂された地誌『筑前国福岡区地誌』(三原恕平編。活字版は1980年、文献出版発行)を読んでいて、“人民共立小学校”という見慣れない言葉が度々出てくるのに戸惑った。例えば、橋口町(現在の福岡市中央区天神の昭和通り付近)、大乗寺前町(現在の博多区上川端の一部)の項目には、それぞれ以下のように記載されている。
 「人民共立小学校二所(町ノ東方水鏡神社境内ニアリ)生徒男百七十五人女七十五人総計二百五十人」
 「人民共立小学校一所 町ノ西南大乗寺境内ニアリ生徒二百三十八人(男百九十四人女四十四人)」

 どこかの人民共和国にでもありそうな名称だなと思いつつ、その正体を調べてみると、1872年(明治5)の学制公布に伴い設立された小学校を当時、人民共立小学校と呼んでいたことがわかった。

 明治新政府はこの学制公布で、小学校を設立せよと全国に大号令をかけたものの、財政難から設立・運営費用は「凡学校ヲ設立シ及之ヲ保護スルノ費用ハ、中学ハ中学区ニ於テシ、小学ハ小学区ニ於テ其責ヲ受クルヲ法トス」と地元に丸投げした。このため児童の家庭から結構高額な授業料が徴収されたが、これだけでは到底賄えず、篤志家からの寄付金、さらには地域の全世帯に負担金(賦課金)まで課され、財源に充てられた。地域住民全体で学校を支えていたことになる。だから官立でも市町村立でも私立でもなく、人民共立だったのだ。

 ただし、人民共立小学校という言葉は、この記事を書くに当たって参考にした『福岡県教育百年史 第五巻 通史編(Ⅰ)』 (福岡県教育委員会、1980)、文部科学省がサイト上で公開している『学制百年史』には一切出てこなかった。公式用語ではないのだろう。

 当時の庶民にとって授業料や賦課金の負担は非常に重かったといい、国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトには「負担に耐えかねた人々の中からは学制反対一揆が起こることもありました」と書かれている。この一揆で最大のものが、学制公布翌年の1873年6月、わが福岡県で起きた「筑前竹槍一揆」だったようである。

 一揆の発端は旱魃に苦しんだ農民たちの暴動だったというが、明治新政府への大きな不満を背景に、当時の福岡県人口(※)の約4分の1に当たる10万人が加わる大騒乱となった。一揆勢の一部は福岡城跡にあった県庁に押し入り、庁舎を打ち壊し、官舎を焼いたというが、彼らが要求していたのが「御年貢三ヶ年間徳政の事」「学校、徴兵、地券、御取止めの事」など5項目。廃止を要求する項目のトップに学校が挙げられ、また、多くの小学校が焼き討ちの対象になったというから、いかに学校が憎悪の対象となっていたかがわかる。(※当時の福岡県は旧筑前藩領だけで、現在の県域には他に小倉、三潴県があった)

 これは必ずしも教育への無理解というだけでなく、新たな小学校教育の内容が当時の庶民にはわかりにくく、「実用的ではなく、かえって古くからの寺子屋の方がましだとの感をいだかせた」(『福岡県教育百年史』)ことも大きかったという。

 一揆は発生から約2週間後、最終的に軍によって鎮圧されたが、70人が死傷し、打ち壊しや焼き討ちの被害に遭った家屋は4,590棟に上ったという。首謀者とされた4人が死刑となっている。さすがに明治新政府も教育制度については矢継ぎ早に手直しを繰り返し、1890年(明治23)公布の小学校令で、小学校の設置・運営は市町村の責任であることを明確にした。人民共立小学校の歴史はここで幕を下ろしたということになるだろう。

 途中でも書いたが、人民共立小学校という言葉はオフィシャルな教育史には見当たらず、学校創立が学制公布直後に遡る福岡市立小学校の沿革を調べても、この言葉が使われている例は見つからなかった。正式用語ではなかったにしても、これは不思議だ。明治時代初めに編纂された地誌に書かれているぐらいだから、当時、一般的な呼び方であったのは間違いなく、現にインターネット検索をすると、創立当時の学校名を「〇〇人民共立小学校」と明記している例が他県では複数見つかる。草創期の初等教育で、国や地方行政がいかに役立たずだったかを証明するような言葉だから、敢えて使いたくはないのかもしれないが。

 文中に明示している資料の他に、竹槍一揆については国会図書館のデジタルコレクションに収録されている『社会変革過程の諸問題』(石浜知行、天人社、1930)、志免町ホームページなどを参考にした。
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地行の由来

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 検索サイトに「地行 地名の由来」と入力すると、比較的上位にこのブログの過去記事
「地行にあるのに西新?」が表示される。このためにこのブログを訪問される方が散見され、以前から心苦しく思っていた。「地行にあるのに西新?」は、地行(じぎょう)に新築されているマンションが西新を名乗っていることを取り上げた話で、地名の由来についてはひと言も触れていないからだ。実際に由来を解説しているページ自体もネット上には見当たらないようなので、この機会に調べてみた。結論から言えば、新たな宅地開発を意味する言葉がそのまま地名となったというものだった。(地図で赤く囲った箇所が現在の地行)

 最初に、この町が生まれた経緯について紹介しておくと、1709年(宝永6)に完成した貝原益軒の地誌『筑前国続風土記』には次のように書かれている。

 「昔は荒戸の西より百道原の末、早良川の遠干潟の際迄、平沙邈々として広く、松林なくして不毛の地成しかば、長政公松を植て松原とすべしとて、(中略)福岡、博多、姪浜の町人に仰て、毎家一軒より、高さ四五尺許なる小松、各一本宛植させられける。(中略)又唐人町の北、今の士屋敷に成れる所、又其西地形と云所、金龍寺の辺迄も、皆此時植し松原なりしが、唐人町の北は、寛永二十年の比より諸士の宅となり、其西の松原は慶安の比、足軽の屋敷と成て地形と名付」。

 黒田長政が筑前に入国した当初、荒戸から室見川河口の辺りまでは不毛の砂地だったため、町人に命じて松を植えさせ、一帯は松原(防潮林)となった。このうち唐人町西側の松林は慶安年間(1648~51)、足軽の屋敷町となり、地形と名付けられた――という内容だ。17世紀中頃に開発された新しい町で、当初は“地形”と書いたことがわかる。

 続風土記に由来まで書かれていれば、話はそこで終わったのだが、残念ながら「足軽の屋敷と成て地形と名付」と非常に素っ気なく終わっている。そこで図書館に行き、地名辞典の類いをいくつかめくってみた。正直なところ、これで簡単に解決するだろうと甘く見ていたのだが、意外なことに地行の由来について触れたものはなかった。

 『角川日本地名大辞典 40 福岡県』(角川書店、1986)には 「江戸期にはこの一帯は地形と総称される下級武士の屋敷町であったが、…」、『福岡県の地名』(平凡社、2004)には「北流する菰川の西岸に位置し、北は博多湾に臨む。地形とも書く。福岡博多近隣古図では足軽屋敷が集中する下級武士の武家町で…」などとあるだけ。『筑前国福岡区地誌』(三原恕平編、文献出版、1980、原本編纂は明治時代)に至っては「昔ハ松原ナリシヲ慶安中歩卒ノ居地トセラレ地形ト名ツク」と、続風土記そのままの内容だった。

 この段階で非常に不可解な気分になった。複数の地誌、地名辞典がそろって特定の地名の由来にノータッチということがあるだろうかと。考えられるのは、わかりきった話なので、あえて説明しなかったというケースだ。ここで「足軽の屋敷と成て地形と名付」は、無理やりではあるが「足軽の屋敷町だから地形と名付けた」と解釈できないこともないと思いつき、大工町や職人町、鍛冶町などと同様、地形も居住者の属性を表した町名ではないかと推理した。そのうえで、福岡の地名に関する複数の資料を再度当たってみたのだが、これまた大半が空振り。唯一、福岡市都市計画局が35年前に出版した『福岡・博多の町名誌』(1982)に明確な記述があった。

 「新たに土地を開いて宅地を造成することを地形という。土地の形を整えるという意味である。地行はもとは地形とよばれていたが、他にも土地が開かれて地形とよばれたことから、その混同を防ぐためいつの間にか地行と改められた」。

 足軽の町だから地形だったのではなく、新たに町を造ったから地形だったのだ。益軒の時代にはわざわざ説明するまでもない話だったのだろう。現在でも建築土木用語では、地形を「ちけい」ではなく「じぎょう」と読んだ場合は地固めや基礎工事を意味するらしく、やや通じるところはある。ただ、『福岡・博多の町名誌』には他にも地形という地名があったと書かれているが、現在の福岡市には見当たらない。また、「地形=新たな宅地開発」が江戸時代の共通語だったのならば、全国に「地形」という地名があって良さそうなものだが、ネット検索した限りでは見つからない。福岡ローカルの言葉だったのだろうか。

 この町の明治以降の移り変わりを簡単に紹介しておくと、1872年(明治5)に地行東町、地行西町に再編され、この時に地形から地行に改称した。大正時代に出版された『現在の福岡市』(上野雅生、九州集報社、1916)によると、地行西町はこの頃、福博電車(西鉄の前身の一つ)によって貸し邸宅地として開発が進められ、豪邸が建ち並んでいたという。この名残りか、地行には今も西鉄所有の物件が多い。

 この後、昭和40年代の町界町名整理で、地行東町が地行1、4丁目、地行西町が2、3丁目に再編され、現在に至っている。表通りに面した場所にはマンションが増えたが、狭い路地沿いに寺や大きな屋敷が建ち並び、藩政時代の面影を残していると思われる場所もある。比較的近年までは福岡藩の下級武士の屋敷に付き物だった「ちんちく塀」(竹の生垣)も残っていたという。
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福岡市通俗博物館

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 福岡市に戦前まで、『通俗博物館』なる施設があったと知り、「館内は俗な展示物で埋め尽くされていたに違いない」と勝手に想像してワクワクしてしまった。ところが、これは大正時代ぐらいから盛んに提唱され始めた“通俗教育”のための施設で、通俗教育は現在では社会教育という言葉に言い換えられている。通俗の意味が現在とは異なり、要するに普通の博物館だったわけで、少し落胆した。

 通俗博物館があったのは現在の福岡市中央区天神1丁目、中央警察署がある辺り。1917年(大正6)、大正天皇の即位を記念して市によって建てられ、記念館(講演会場)も併設されていた。収蔵品は3,000点にも上っていたというが、大半が1945年(昭和20)6月19日の福岡大空襲により疎開先で焼失。難を逃れた数少ない収蔵品の一つが、現在は福岡市博物館に展示されている「ドン」(写真)だという。正午の時報代わりに空砲をぶっ放していたという代物で、この大砲は自身のとんでもない歴史とともに、通俗博物館の生き証人でもあったわけだ。

 ほかにどんな物が収蔵されていたかは、『福岡市議会史 第2巻 大正編』(1991)に収録されている「福岡市通俗博物館規則」で何となく想像できる。「第三条 本館に陳列すべきものの種類左の如し」として、次のような物が列挙されている。
 <碩学鴻儒、忠信義士、孝子、節婦及産業に功労ある者の肖像、遺墨、遺物等><児童成績品、学用品、教師の考察研究に成る物品><経済的台所用品、教育玩具、古今風俗模型標本、其の他の参考品>……。

 まだまだ多数書かれているのだが、まったく通俗的ではない面白みのない物ばかりだ。似たような感想は大正時代の市議たちも持っていたらしく、先の『福岡市議会史』には開館からわずか6年後の1923年には廃館を訴える議員も現れたことが記されている。議員側の主張は「経費は毎年四千円以上のものを支出しているが博物館の内容は余りに貧弱である。同館にあるくらいのものは小学校にもあって…」というもので、かなり痛烈だ。
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 通俗博物館の建物は左右に尖塔を配した重厚なゴシック様式で、こちらの方は戦火を免れ、戦後も長く中央公民館として活用されていたという(写真右、福岡市総合図書館の資料から拝借した)。取り壊されたのは1979年(昭和54)だったという情報がある。天神には今も
県公会堂貴賓館旧日本生命九州支社(現・福岡市文学館)という重要文化財が残っているが、昭和の後半まではこのほかにも、通俗博物館や旧県庁舎、旧大同生命福岡支店など数多くの近代建築が密集していたことになる。当時の魅力的な街並みについて、あやふやな記憶しか残っていないのが残念だ。

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続・鶴城高女を探して


 「鶴城高女を探して」へのコメントで「鶴城高女の『第六回卒業記念写真帳』が福岡県立図書館に所蔵されている」との情報を頂いた。図書館に問い合わせたところ、閲覧可能ということだったので、現物を見てきた。タイトル通り、1928年(昭和3)の卒業アルバムで、セーラー服姿の卒業生の顔写真をはじめ、修学旅行や運動会、バザーなど学園生活の模様を記録した写真が収録されていた。現在の高校卒業アルバムと比べれば、かなりシンプルな作りで、掲載写真も少ない印象だった。

 創立年と校名の移り変わり以外はわからないことだらけの鶴城高女だったが、この卒業記念写真帳により1928年の卒業生は100人で、教職員数は23人だったことがわかった。卒業生数が一学年の定員で、修業年限が5年だったと仮定すれば、この頃の学校規模は最大500人程度だったと思われる。卒業生の住所は多くは福岡市内だったが、長崎、佐賀、熊本、さらには広島など県外からの入学者も散見され、卒業記念写真帳には県外生が暮らしていたと思われる寄宿舎の写真も掲載されていた。

 修学旅行は1927年10月18~23日の6日間。序盤は東大寺大仏殿や清水寺など奈良・京都の名所を巡るというオーソドックスなものだが、ところがこれで終わりでなく、瀬戸内海航路でいったん九州に戻り、旅の最後は大分県の宇佐、別府で締めくくるという、ある意味豪華版だった。

 
国立国会図書館デジタルコレクションでさらに他の資料を探してみたところ、『福岡市』(清原伊勢雄編、福岡市編纂部、1916)という資料の中に簡単な記載があった。当時の校名は福岡実科高女で、「福岡今泉町にあり、明治四十五年の設立にして元技芸女学館を拡張したるもの也、現在の生徒百二十名にして教職員十名現校小野正躬なり」と説明されていた。この頃の全校生徒120人から、1928年には卒業生だけで100人になっているわけだから、12年の間に学校規模はかなり拡大したと判断できる。校長の小野正躬は創立者。明治45年設立と書かれているが、 「鶴城高女を探して」で取り上げた『福岡県教育百年史』には明治35年設立とあった。

 また、1938年(昭和13)5月現在の 『高等女学校女子実業学校職員録』には当時の生徒数が1~4年生で計313人、これに加え専攻科に6人、教員養成所に56人が在籍していたことが記されている。ちなみに新制高校として福岡市内に現存している各校の生徒数は、私立筑紫高女(現・筑紫女学園)が923人、九州高女 (現・福大若葉)が775人+専攻科41人、福岡女(現・福岡女学院)が391人+専攻科42人、福岡女子商(現・福岡雙葉)が356人と、いずれも鶴城高女を上回っていた。なお、鶴城高女の学年ごとの在籍者は1年129人、2年50人、3年90人、4年44人。他校、中でも1学年約230人で一定している筑紫高女と比べてデコボコが激しく、この頃の学校経営は果たして順調だったのだろうかと疑われるところがある。

 廃校の経緯は依然不明のままだが、名前さえ聞いたことがなかった鶴城高女の姿が少し見えてきた気がする。
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鶴城高女を探して

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 戦前に出版された福岡市のガイド本<注>に、見慣れない学校名が記載されていた。私立の鶴城高等女学校(以下、高等女学校は高女と表記)。所在地は薬院庄で、現在の福岡市中央区今泉、渡辺通付近に当たるらしい。他に紹介されていた女子校は、県立の福岡、早良、筑紫高女、市立の第一女、私立が筑紫高女(県立と同名)、九州高女、福岡女、福岡女子商。現在のどこの高校の前身かはほとんど想像がつき、容易に確認できた。県立福岡高女が福岡中央高、早良高女が福岡講倫館、筑紫高女が筑紫中央高、第一女が福岡女子高、私立筑紫高女が筑紫女学園、九州高女が福大若葉、福岡女が福岡女学院、福岡女子商が福岡雙葉。しかし、鶴城高女はわからない。

 今の時代、「鶴城高等女学校」「鶴城高女」でグーグルなりヤフーなりで検索すれば、概ね欲しい情報が得られるものだが、検索結果として表示されたのは大分県立佐伯鶴城高校の情報が大半。鶴城高女という学校が福岡に確かにあったことは確認できるものの、その実態は一切わからない。現在では校名や経営母体が変わっているにしても、学校の沿革等に鶴城高女の名は記載されているはずで、全く情報が得られないというのは不思議な話だ。

 鶴城高女の記念誌でもないかと思い、福岡市総合図書館で資料を漁ったところ、『福岡県教育百年史 第六巻 通史編(Ⅱ)』(福岡県教育百年史編さん委員会、1981、以下『百年史』)に同校創立に関する記載があった。それによると、1902年( 明治35)、福岡市浜町に開校した私立技芸実習女学館が前身で、後に今泉に移転し、福岡実科高女、今泉高女を経て、1922年(大正11)に鶴城高女に改称したという。また、1928年(昭和3)には小学校教員検定試験受験者の予備校に当たる鶴城教員養成所を併設し、「他に類例のない施設として九州各県から生徒が集り盛況を呈した」とあった。さらに、戦時下の章では、1945年6月19日の福岡大空襲では鶴城高女も焼けたと書かれていた。

 1902年創立は、福岡県内の女子中等教育の先駆け的存在である県立福岡高女より4年遅いだけで、歴史ある学校だったことがわかる。ただ、鶴城高女に関する記載は福岡大空襲が最後。盛況を呈していたはずの同校が戦後どうなったかについての情報は、『百年史』通史編だけでなく、第7巻の統計・年表編を相当注意深くめくっても見つけることは出来なかった。学制改革により1948年に新制高校として再出発した学校の中にも名前はなく、同校の痕跡は忽然として消えてしまった。あるいは大空襲の被災から立ち上がることが出来ず、戦後を迎えられなかったのだろうか。

 何となくスッキリしなかったため、他に資料はないかと手に取った『福岡県教員養成史研究』(平田宗史、海鳥社、1994)という全2巻の相当ボリュームある書籍の戦前編に「鶴城教員養成所の設置」と題して、短いながらも一項目が割かれ、その最後にこう書かれていた。
 「昭和二十一年六月一日現在の『福岡県下学事関係職員録』をみると、鶴城教員養成所の母体である鶴城高等女学校の名前もないし、そして、鶴城教員養成所の名称も記載していない。それから推察すると、鶴城教員養成所は、戦後、いち早く廃校となったものと思われる」
 著者の平田宗史氏は福岡教育大教授だった方で、そんな研究者でも鶴城高女の歴史は正確にはたどれなかったことになる。これ以上の追跡はここで諦めた。

 ところで、福岡市総合図書館郷土資料室の学校関係図書の中に、非常に奇妙なものが一冊混じっていた。某県立高校の卒業アルバム。私と同じ学年ではないが、極めて近い世代で、学生時代の友人・知人の顔が複数あったので少しびっくりしてしまった。卒業アルバムなのだから、氏名や顔写真のほか、卒業当時のものとは言え住所さえ収録されている。こんな個人情報満載の代物が図書館の書棚に平然と置いてあるとは不可解だ。

 <注>『筑前博多』(福岡協和会編、1938)。国立国会図書館のデジタルコレクションに収録されている。
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走る!アロー号

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 福岡市博物館で23日、「走る!アロー号」という催しがあった。アロー号とは現存する中では最古の国産乗用車で、1916年(大正5年)にこの福岡で製作された。エンジンは今も走行可能な状態に保たれている。普段は博物館で常設展示されているが、完成から100年に当たるの記念し、実際に走る姿を市民に見てもらおうと企画された。

 詰め掛けた市民が見守る中、アロー号は運転手のほか、後部座席に博物館長を乗せてゆっくり動き出すと、想像していた以上に軽快な走りで博物館前庭を一周し、大喝采を浴びた。見た目は「輪タク」程度のサイズだが、エンジンの排気量は約1,000ccと意外に強力で、完成当時は最高時速50㌔で福岡の街を快走していたという。この日のスピードは“上品な自転車程度”だったが、やはり100歳の老体だけに、走行終了後、エンジンは急ぎ大型扇風機で冷やされていた。

 アロー号を作ったのは矢野倖一という当時24歳の青年で、福岡県新宮町に本社を置く矢野特殊自動車の創業者。製作の経緯などは同社のホームページにある
「History of ARROW」 に詳しい。矢野特殊自動車は冷凍機付きの冷凍車を国内で初めて開発・製造したことで有名な会社で、アロー号自体は現在も同社が所有し、博物館に貸し出しているという。同社の現経営陣は矢野倖一の長男や孫に当たる方たちで、この日の催しにも来賓として招かれ、運転手役も務めていた。
 
 博物館では11月19日から12月25日まで『大正・昭和の福岡市―アロー号とその時代―』という特別展が開かれ、アロー号や福岡市の都市発展に関する資料などが展示されるほか、シンポジウムなども予定されている。


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川南造船所敷地を埋め立てたのは?

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 廃虚として有名な存在だった川南造船所跡(佐賀県伊万里市)についての話を続けさせていただきたい。同造船所に関する情報を漁っていて、用地埋め立てに絡む、少し面白い資料を見つけた。『伊萬里港公有水面埋立の件』と題された昭和10年(1935)9月5日付の海軍省の文書で、国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブに収録されている。中身は、伊万里港内の「佐賀県西松浦郡西山代村大字立岩字浦ノ崎二番古里地先三二、〇五三平方米」で計画されている埋め立てについて、海軍省が「本件当省主管上異存無之候」と内務省に回答したものだ。埋立免許を与えるのは当時も今も知事だが、時代が時代だけに海軍の了解が必要だったのだろう。

 文書には海軍省だけでなく軍令部の決済印も多数押されている。大臣の印は「済」、軍令部総長の印は「閲」だが、それ以外は個人の認め印が押されており、海軍省次官は「長谷川」、軍令部次長は「加藤」の印がある。文書が残された1935年9月当時の海軍首脳を調べてみると、海軍大臣が大角岑生、次官が長谷川清、軍令部総長が伏見宮博恭王、次長が加藤隆義という顔ぶれだった。この時代に海軍省と軍令部の力関係が逆転したと評されたり、長谷川清の孫に『ウルトラマン』の監督として有名な実相寺昭雄がいたりなど、色々興味深い点もあるが、ここではスルーしておく。

 この文書を面白いと思ったのは、埋め立ての起業者が川南豊作となっていた点だ。埋め立て予定地の場所や面積から考えて、この場所に後の川南造船所が建てられたのは間違いない。だとしたら経営していた川南工業社長、川南豊作の名前があっても別に不思議ではないが、インターネット上に「閉鎖されたガラス工場を川南が買い取り、軍需工場に転用した」との情報があったため、川南自身がこの土地の埋め立てを行っていたとは予想外だったのだ。

 他の資料を当たってみると、海軍省文書から3年後に出版された『事変下の有望会社』(投資経済社、1938)という資料には川南工業が「浦崎工業所」でソーダ灰と板ガラスを製造していたことが明記されていた。造船所の前身がガラス工場であったのは間違いないが、このガラス工場は川南工業が海を埋め立て、建設したものだったことになる。

 ただ、そうなると不可解な点も出てくる。川南造船所の廃虚が長らく放置されていたのは、建物の権利関係が複雑だったことに加え、埋め立ての途中で免許が失効したため“造船所敷地が法律上は公有水面のままで、土地ではなかった”ことが問題をややこしくしたとされている(2005年9月の佐賀県議会でも当時の知事が証言している)。川南工業が法的にはうやむやの土地建物を安く買いたたいたため、こんな事態が生じたと思っていたが、同社自身がうやむやにしたのならば、理屈に合わない話だ。

 先の海軍省文書によると、埋め立て工期の期限は、竣功が「着手の日ヨリ三ヶ年以内」。 『事変下の有望会社』出版の1938年にはソーダ灰、板ガラス工場が稼働していたのだから、川南側がなぜ竣功認可の手続きを取らなかったのか理由がわからない。川南豊作は戦後、経営破綻の際に不渡り手形を乱発して巨額の金を詐取したり、さらにはクーデター未遂の「三無事件」を引き起こしたりした人物で、あまり遵法精神があったとは思われない。あくまでもこの人物像から考えての臆測だが、工場敷地を法律上は公有水面のままにしておくことで、例えば固定資産税を免れるなどの狙いでもあったのだろうか。
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