幻の福岡市歌

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 福岡市に「市歌」があったことを最近知った。歌詞は次の通りだ。

 元寇十万屠りしところ 歴史は千代の深みどり
 松原駆けたいさおしの ほまれぞかおる おお漲ろう
 西日本の力なる 福岡 福岡 とどろくわが市

 さくら咲き咲く荒津の丘ゆ ながめ豊けき筑紫野を
 埋ずめ尽くして文明の 姿ぞ映ゆる おおあまねしや
 西日本の光なる 福岡 福岡 輝くわが市

 気はほがらかにのぞみはあふれ 睦みたすけてしらぬ火の
 もゆるが如き向上の 心ぞつどふ おお称へよや
 西日本の誇なる 福岡 福岡 理想のわが市

 この歌の存在は、『ふてえがってえ―福岡意外史』(江頭光、西日本新聞社、1980)を読んで知ったのだが、同書によると、福岡市教育委員会によって市歌が制定されたのは1931年(昭和6)。歌詞は公募され、80数編の応募作の中から、選考委員の旧制五高教授・八波則吉が選んだのが上記の作品。応募者は福岡在住の文学青年だった。これに数々の童謡、流行歌を手掛けていた作曲家の中山晋平が曲を付けた。締めのフレーズは応募作では「わが市」ではなく「都(みやこ)」だったが、国から「都は東京だ」とクレームを受け、急きょ変更されたという。

 『ふてえがってえ』では、イラストレーターの西島伊三雄さんが兄弟3人で合唱したエピソードが紹介されており、戦前派の市民には愛唱されていたのだろう。しかし、戦後はほとんど歌われなくなり、その理由については「たぶん、冒頭の歌詞『元寇十万…』へのアレルギーからと思われるが」と書かれていた。

 市立図書館の郷土資料室で関係資料を漁ったところ、2冊あった戦前、戦中の市勢要覧(1938、1942年版)にはいずれも市歌の歌詞が記されていた。だが、戦後になった途端に消え、現在では公式サイトなどにも全く記載がない。恐らく『ふてえがってえ』の推測通り、「元寇十万屠りしところ」という勇ましすぎる歌詞が、戦後は平和国家に似つかわしくないと敬遠され、さらに時代を経るに従い市歌の必要性自体が薄れていったのだろう。福岡市に長年住んでいる中高年ながら、戦後生まれの私が知らなくても不思議ではなかったのかもしれない。

 しかし、いくら歌詞が時代にそぐわないとは言え、存在を抹消したも同然の現在の扱いはいかがなものだろうか。『福岡市史』には、制定の事実は年表にさえ記録されてはいなかった。現在では市歌の座から下ろされているのかもしれないが、その経緯を含めた沿革ぐらいは、歌詞とともに公式サイトや市勢要覧などで紹介しても良いのではないだろうか。市歌については現在、市の公式資料ではほとんど何もわからず、個人の著書でしか知ることができない。
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白昼暴れる幽霊

 福岡市西区北崎に伝わるという幽霊話を最近、『伝説の糸島』(鷹野斜風、糸島新聞社、1933)で読み、笑ってしまった。恨みをのんで死んだ老婆が凶悪な幽霊となり、住民らに復讐するという話。一見、笑える要素はないようだが、老婆の幽霊が出てくるのは、なぜか白昼で、しかも復讐と言っても誰かを取り殺すわけではなく、ひたすら大暴れするだけなのだ。博多の怪談に出てくる幽霊もドスドス歩いたり、博多弁を喋ったりして、いまいち怖さに欠けるらしいが、北崎の幽霊にも通じるところがある。

 老婆は生前、邪険な性格で家人にも嫌われ、病に倒れた時も親身には看病してもらえないまま息を引き取った(餓死させられたという説もあるらしく、この話ではここが一番怖い)。家人や近隣住民は悲しむどころか、かえって喜んだというが、成仏できなかった老婆は化けて出て、家人や住民を苦しめ始めた。『伝説の糸島』には、幽霊の暴れっぷりが以下のように記されている。

 此の婆は奇抜にも臨終其の儘少しも幽霊化せぬ物凄い形相で、少し日下りの白昼から「恨めしや」ともいはず、両手を下げずに現はれて、阿修羅王の荒るゝが如しと形容されるやうに乱暴を働き手当たり次第に投打をする、人を追捲くる、夫れは夫れは非常の狂態を演ずるので、家人が泣叫んで逃げ匿くれると、幽霊は家から飛出して近隣の家に乱入して狼藉を極むると云ふ一寸一風変わった幽霊であった。

 一寸一風どころか、相当変わった幽霊で、生きた人間の振るまいとしか思えない。困り果てた住民たちは大がかりな施餓鬼を行い、老婆に成仏してもらおうとしたが、幽霊は、多数の僧侶が読経している最中に「憤怒の形相」で乱入し、例によって大暴れ。僧侶たちは腰を抜かしてしまったという。話が面白いのはここまでで、消化不良の結末を迎える。住民たちは最後の策として某高僧に怨霊退散を依頼、この高僧が「或る法力」を持って老婆を八万地獄のどん底に落とし、さすがの老婆もその後は姿を現さなかったというのだ。高僧が何をしたかは具体的には何も書かれておらず、また、「一ツ愚衲(わし)が懲して遣ろう」と請け合ったり、悲惨な死に方をした老婆を成仏させるでもなく地獄に叩き落としたりと、あまり高僧らしからぬ振る舞いが印象的だ。

 この話がいつの時代のものかは不明だが、冒頭には「古老の話に依ると、餘り古い事ではないらしいが」とある。『伝説の糸島』の出版年(1933年)を考えれば、例えば、幕末や明治初期など、意外に新しい時代に生まれた可能性もあるのだろうか。福岡市総合図書館にある明治時代の新聞データベースで、試しに「幽霊」を検索したところ、想像以上に多い200本以上の記事が見つかった。一部の記事の見出しは以下の通りで、何本かを読んでみたが、どれも伝聞だけで、当たり前だが、記者が幽霊を実見した例はなかった。同じ明治時代でも、20世紀に入り、新聞の体裁が現在に近付いていくと、こういった記事も次第に減っていく傾向が見られた。

「浄業寺の幽霊話、先住に捨てられ井戸に身投げした女の亡霊」
「火の玉怪談、先ごろ吉原で情死の遊女と男を合葬した墓から毎晩出るとか」
「登保加美講先達の妻が病死、幽霊姿で夫の遊女買い止めさせる」
「夫婦が借りた貸座敷の部屋に幽霊、駆け付けた巡査も憶病風」
「釣りで暴風に遭い水死した男の幽霊話、僧招いての供養で収まったという」
「客2人が急死の貸座敷、幽霊出るとの評判に正体見たさの人で大繁盛」
「古着をだまし取った夫婦、老行商人の幽霊に悩まされ家に居られず」
「嫁をいびり殺して連れ子を後釜にした母親、婚礼の晩から怨霊におびえる」
「嫁に加担の息子にもいびられた母が身投げ、幽霊が出る評判」
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続・雑餉隈は鉄道を拒否したのか

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 1889年(明治22)に九州鉄道の博多~千歳川間が開業した際、宿場町だった現・大野城市雑餉隈が「宿場が寂れる」として駅設置を拒否したため、離れた別の場所に雑餉隈駅(現在のJR鹿児島線南福岡駅)が建設されたという話を先日取り上げた(「雑餉隈は鉄道を拒否したのか」)。似たような話が全国各地に伝わるが、裏付ける資料がなく、研究者の間では「鉄道忌避伝説」と呼ばれている。雑餉隈にもその疑いがあるのではないかと考えたのだ。引き続き関連資料を漁っていたところ、国立公文書館のデジタルアーカイブに、九州鉄道会社創立願(1887年提出)添付の路線図があるのを見つけた。少なくともこの地図を見る限り、雑餉隈を鉄道が通る計画は、そもそもなかったのではないかと思われる。

 上の地図は関係分だけをトリミングしたうえで、上が北になるように回転させたもので、赤い実線が九州鉄道の計画ルート、薄いオレンジ色の線が当時の幹線道路を示している。駅位置については赤の二重丸で記されているが、判読しづらいため赤い矢印で書き加え、さらに宿場町・雑餉隈の位置を黄色い矢印で示した。計画ルートは、雑餉隈から西に離れた場所に描かれており、開業後の鉄路も実際にその通りになった。

 地図を見てわかるのは、当たり前のことではあるが、山や丘陵地などを避けて路線が計画されていることだ。また、博多~久留米間の駅は博多、二日市、田代、久留米の4駅しか記されていないが、実際に1889年12月に開業した際は博多、二日市、原田、田代、鳥栖、千歳川(久留米の仮駅)の6駅で、さらに翌年1月に雑餉隈が加わり、7駅となった。鹿児島線と長崎線との分岐駅は現実には鳥栖だが、計画段階では田代だったことがわかる。

 「雑餉隈は鉄道を拒否したのか」の中で、『大野城市史』に雑餉隈が駅設置を拒否した傍証として1889年4月13日の福岡日日新聞記事が掲載されていることを紹介したが、この記事は「九州鉄道会社の博多久留米間の線路に就き先頃紛議起こりし処ろ」などとあるだけで、具体的内容が一切記されていない代物だった。これは全くの想像だが、開業時の駅が計画段階から三つも増えたことを考えると、紛議の中身は、鉄道反対、駅反対ではなく、ひょっとしたら「わが町にも駅を造れ」や「鉄道が通らないのに、なぜ駅名を雑餉隈にする」だったのではないだろうか。

 むしろ、この地図を見て気になったのは、博多以南ではなく、博多以北の方だ。現行とは大きく異なり、山や丘の間を縫うようにして古賀の青柳から博多へ通じる路線が描かれている。地図には入れなかったが、これより北は黒崎から木屋瀬近くを通っており、旧唐津街道をなぞっているようだ。九州鉄道の赤間~博多間は1890年(明治23)に開業したが、この時の駅は赤間、福間、古賀、香椎、箱崎、博多で、オレンジ色の線で描かれた道路の方が実際に近い。なぜ、これほど大きく変更されたのだろうか。

 赤間~博多間でも、現在の福津市上西郷地区が鉄道敷設に反対したとの話が伝わり、『福間町史』明治編(1972)はこのためにルートが変更され、駅も福間になったと記している。しかし、町史が挙げた、その反対理由とは「汽車に乗った、紅お白粧をつけた嬢もンさんを、村の若い者ンが見ると、仕事に実が入らん」(ママ)などというもので、町史自ら「今から考える全く吹き出したくなる様な」と評している程だ。平成に入って刊行された新しい『福間町史』通史編(2000)は、九州鉄道の開業について事実を淡々と記しているだけで、上西郷の鉄道反対には一切触れてはいない。話としては笑えて面白いが、信憑性には欠けるのだろう。

 鉄道を巡っては、陸軍が、艦砲射撃で狙われるのを恐れて沿岸部を通るルートを嫌ったと言われる。陸軍に配慮し、内陸部を通るように計画したものの、地形条件や、旧街道沿いに当たるため用地買収の難航が予想される、などの問題があり、結局は現行路線に変更されたと想像するのだが、どんなものだろう。
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百道海岸に昔、陸軍射撃場があった

1939福岡市全図

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 1939年(昭和14)発行の福岡市全図を眺めていて、百道海岸に「射撃場」があるのに気付いた。地図の左端、現在は市立百道中学校がある辺りだ(2枚目の写真の画面左側)。福岡城址に本拠を置いていた陸軍歩兵第24連隊の施設で、正式名称は「西新町射撃場」だったことはすぐに判明したが、大正時代初めには鴻巣山(現在の福岡市中央区・南区)に移設されていたとみられ、1939年当時は使われてはいなかったと思われる。当時も今も修猷館、西南学院など学校が並ぶ一帯。移設は当然過ぎる話だが、移設を巡る事情を調べたところ、西新町は陸軍側から巨額の費用負担を求められ、苦慮していたことがわかった。これを救ったのは、少し毛色の変わった陸軍の主計将校だ。

 射撃場移設を巡る軍と地元とのやり取りは、「西新町射撃場交換の件」と題した1911年(明治44)の陸軍省資料に記録されている(国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブで公開されている)。この中の西新町長・神崎潜一郎の陳情書には「旧藩時代ヨリノ射的場ニテ甚シク迷惑ヲ感セサリモ」とあり、射撃場を設置したのは、24連隊ではなく福岡藩だったことがわかる。資料中にある地図によると、明治末期の射撃場の規模は、1939年の地図に描かれていた時よりもはるかに大きく、東側は現在の西新小学校付近までを占めていた。(面積は9㌶余りで、移設後の跡地の一部に西新小が新築移転している)

 藩政時代に開かれた西新の町だが、明治に入ると、道路整備や路面電車の開通などで人口が急増。射撃場の存在は住民の安全を脅かし、現実に流れ弾が児童の下駄を直撃するという事故も起きていた。この状況下で陸軍側も移設やむなしと決断、西新町に射撃場を明け渡す代わりに、町側は陸軍指定の鴻巣山の用地を購入した上で、新射撃場の建設費も負担するという条件でいったんは合意した。

 西新町の負担額は計4万8000円。当時の貨幣価値について「明治の1円=現在の2万円」という情報がインターネット上にあり、これに従えば、9億6000万円もの巨費を要求されたことになる。西新町が福岡市に編入されるのは1922年(大正11)のことで、射撃場移設問題が持ち上がっていた明治末はまだ、単独の自治体。町側は当初、基本財産の7,000円に加え、原野の売却、起債、さらには町民に負担金を課してまで賄う方針だったが、小さな町が何とかできる金額ではないとわかり、陸軍側に再検討を求めた。上記の陳情書がそれで、日付は1912年(明治45)2月29日となっている。

 陸軍側で移設交渉を担当していたのは、24連隊が所属していた第12師団(小倉)の経理部長、浜名寛祐。「西新町射撃場交換の件」を読む限りでは、彼は西新町の事情をよく理解し、極力、町側の要望通りになるように陸軍省上層部に掛け合っていたようにみえる。例えば、神崎町長の陳情書を受け、同年3月12日に陸軍大臣・石本新六に提出した上申書では「適当ノ場所ニ射撃場ヲ新設スルニ其費用ヲ国庫ヨリ別途支弁セラレ而シテ現在射撃場ハ他日ヲ待チテ売却シ国庫ノ収入トナス方収支ノ点ニ於イテ得策ナルベシト信ズ」という提言さえしている。西新町側にとっては“満額回答”で、この場合、町側の負担はゼロになる。

 射撃場移設問題は、福岡市への編入前の話であるためか、『福岡市史』の明治編、大正編などには記録されておらず、正直なところ、詳しい経過はよくわからなかった。だが、アジア歴史資料センターが公開している西新町射撃場に関する、もう一つの資料「不用地処分の件」を見ると、浜名の提言通りに進んだのではないかと想像される。1921年(大正10)のこの文書には、旧・西新町射撃場敷地を売却して国庫の足しとするため陸軍省から内務省に還付すると記されている。少なくとも、この頃には移設が完了していたことがわかる。また、西新町が費用を負担したのならば、射撃場跡地は陸軍ではなく町の管理になっているはずなので、移設自体が国費で行われたのだろう。

 ところで、浜名を毛色の変わった主計将校と書いたのは、陸軍の人間にしては物わかりが良かったということではなく、歴史研究者としての顔を持っていたからだ。国立国会図書館のデジタルライブラリーには彼の著作3点が収録されており、言語学の分野からのアプローチを得意としていたようである。そのうちの『日韓正宗溯源』(1926)には「卑弥呼は筑紫に在らず馬韓に在り」などということが書かれていた。
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1928年、西新町駅の写真

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 日の丸を付けた蒸気機関車の出発を大勢の人々が見守っている。1928年(昭和3)10月16日、現在の福岡市早良区昭代3にあった北九州鉄道西新町駅(後の国鉄西新駅、1983年廃止)で撮影された写真だ。機関車に積まれていたのは脇山村(現・福岡市早良区脇山)で収穫された新米。昭和天皇即位の礼の大嘗祭で献上するため、特別に作られた米で、翌17日に京都駅に到着し、御所に運ばれた。

 大嘗祭で供える新米を作る田を「悠紀斎田」「主基斎田」といい、この年の2月5日、悠紀斎田を滋賀県、主基斎田を福岡県から選ぶことが発表された。続いて3月15日、福岡県内94か所の候補地の中から、脇山村が主基斎田に決まった。国会図書館のデジタルライブラリーに保存されている資料に、この日の脇山村の熱狂ぶりが記録されている。

 「三月十五日太田主は県庁から呼出しをうけて耕作の命をうけたのであるが、太田主が拝命すると新聞記者が学校に沢山やって来て大騒ぎとなった。大朝、大毎の号外が第一番に舞ひこみ、小使がそれを持って教室に駆けこみ、これを聞いた児童は思はず脇山村万歳を唱へる有様だった」(福岡県小倉師範学校『郷土教育講演集』第1輯、1933)

 ところで、なぜ西新町駅出発だったのか。写真を見てわかるように、当時は駅周辺には民家らしき木造平屋がポツンと1軒見えるだけの寒村。今でこそ周辺はマンションが建ち並ぶ住宅街(写真2枚目)だが、国鉄筑肥線の西新駅時代でさえ、西新とは名ばかりのへんぴな場所だった。こういった大きな行事の場合、普通はターミナルの博多駅から出発しそうなものだが、脇山から徒歩で新米を運んできたため、最も近い西新町駅を使ったという単純な理由だったようだ。

 西新町駅の写真は、主基斎田に選ばれたことを記念し、福岡県が発行した『大嘗祭主基斎田写真帖』(1928)から拝借したのだが、この写真の前に掲載されていたのが、供納米を運ぶために脇山村を出発する古式装束に身を包んだ青年団の写真。一行はこのまま徒歩で西新町駅に向かっていたのだ。最も近いと言っても、その距離は約14㌔。しかも青年団だけでなく、見物人たちも付き従ったらしく、行列の長さは300㍍以上にもなった。脇山村を出発したのは午前7時半だったが、西新町駅到着は約4時間後の午前11時20分だったという。

 300㍍もの大行列がやって来たのだから、駅が黒山の人だかりで埋まっているのも当然だ。駅は1937年、北九州鉄道が国有化されたのに伴い、国鉄筑肥線の西新駅となったが、これほどの群衆が押し寄せたのは、後にも先にも供納米出発の時だけだったに違いない。『福岡市勧業要覧』によると、国有化前年1936年の西新町駅の乗降客は、1日平均で69人に過ぎなかった。

 この駅について、私が記憶するのは廃止直前の頃だが、福岡市西区今宿や糸島方面から駅周辺の高校(修猷館、福岡工業、城南、西南学院、中村学園)に通ってくる高校生らが結構利用していた。福岡の県立高校では昔も今も「ゼロ限」と呼ばれる朝補習が午前7時台から行われており、彼ら筑肥線組は普段から毎日とんでもなく早起きして学校にやって来ていた。また、この頃の筑肥線は、大雨が降ると西区の長垂山付近で頻繁に土砂崩れが起き、度々止まっていた。大雨の予報が出ている場合、彼らはあらかじめ運休に備えて着替えを持って登校し、そのままクラスメイトの家に泊めてもらっていた。学校近くに住んでいた連中よりも苦労して登校していた分、彼らの方がメリハリのある高校生活を送っていた印象がある。

 話を主基斎田に戻すと、今上天皇の時も主基斎田は同じ九州の大分県玖珠町が選ばれた。その今上天皇も退位が決まり、新天皇即位の礼の大嘗祭開催は2019年11月、悠紀斎田、主基斎田は同年2~3月に選定されると報道されている。
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雑餉隈は鉄道を拒否したのか

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 「鉄道忌避伝説」なる言葉を恥ずかしながら最近知った。鉄道駅が市街地から離れている街が全国には少なくなく、これらの多くは宿場町だった例が多いという。「鉄道が通れば、人々が素通りするようになり宿場が寂れる」などと地元が駅設置に反対したためだと言われている。

 ここまでは良く聞く話で、私自身も実例を知っているが、ところが、これらの話には事実であることを証明する一次史料が見当たらない場合が大半だというのだ。しかも、現実の鉄道ルートは概ね地形条件に適合している。また、用地買収の問題を考えれば、建物の密集していない街はずれに駅が設置されたのは当然のこと。だから鉄道忌避は史実ではなく「伝説」。

 地理学者の青木栄一さんが2006年、『鉄道忌避伝説の謎』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)を出版して以降、一般にも知られるようになったが、青木さん自身は1980年代から、地域に伝わる鉄道忌避が伝説に過ぎないことを論文等で指摘し、この見解は研究者の間では広く支持されていたという。

 福岡都市圏でも、地元が鉄道敷設や駅設置に反対したという話がいくつか伝わる。代表例の一つが大野城市の雑餉隈(ざっしょのくま)だろうか。現在、福岡市博多区銀天町に雑餉隈という西鉄天神大牟田線の駅があるが、現在のJR鹿児島線・南福岡駅(博多区寿町)も開業時は雑餉隈という駅名だった。どちらも大野城市の雑餉隈からは、やや離れた場所にある。

 鉄道忌避の話に関係するのは、南福岡駅の方で、1889年(明治22)12月、九州鉄道の博多~千歳川(久留米の仮駅)間が開業した際、博多の次の雑餉隈は駅舎建設が間に合わず、同駅の営業開始は翌年1月にずれ込んだ。この理由について、『大野城市史』下巻・近現代編(2004)は、駅は本来、大野村雑餉隈に設置されるはずだったが、宿場町として栄えていた地元は冒頭のような理由で強硬に反対、やむなく九州鉄道側は急きょルートを変え、駅の場所も那珂村麦野に変更したためと説明している。ただ、駅名はすでに「雑餉隈」で決まっていたため反対派にも承諾してもらい、結果として雑餉隈ではない場所に雑餉隈駅が誕生することになったという。

 オフィシャルな市史に書かれている話だから、事実として信じても良さそうだが、厄介なことに伝説を事実として広めたのは概ね地方史誌だと『鉄道忌避伝説の謎』は指摘している。古老らから聞き取った話を、文献などで裏付けないまま記述し、これが事実として定着していったという。確かに『大野城市史』にも雑餉隈の鉄道反対運動についての出典は全く記されておらず、以下の1889年4月13日の福岡日日新聞記事が傍証として出されているだけだ。

 九州鉄道会社の博多久留米間の線路に就き先頃紛議起こりし処ろ、同会社技師小野琢磨氏と那珂御笠席田郡役所書記岡部圓蔵氏と立合の上、犬飼村(ママ現福岡市東区堅粕)より原田村(現筑紫野市原田)に至る迄の更生すべきは厚生を加え、二、三を除くの外は全て円滑に折合い落着したりと

 鉄道敷設を巡って何らかの問題があったことだけはわかるが、雑餉隈という地名は一切出てこないため反対運動を裏付ける資料にはなり得ないだろうと思う。また、そもそも鉄道敷設という大規模プロジェクトのルート問題が、一技師と郡役所の書記との話し合い程度で決着するはずがないと思うのだが。

 『九州鉄道会社史料集』『日本国有鉄道百年史』などもめくってみたのだが、雑餉隈駅の開業遅れについて『百年史』に「用地買収の遅れにより」と書かれていた程度で、反対運動に関する記述はなかった。だからといって、この程度の調べで雑餉隈の鉄道忌避も伝説だったと断言するつもりはないが、『大野城市史』の記述はもう少し検証されて良いのではないだろうか。

 とは言え、雑餉隈ではない場所に、なぜ雑餉隈駅が設置されたのかという謎は残る。九州鉄道・博多~久留米間の途中駅は、雑餉隈のほか、二日市、原田、田代、鳥栖。どこも宿場町だったことが共通しており、古くから知られた地名だったと想像される。なまじ栄えていたために用地買収が難しく雑餉隈から離れた場所にしか駅は設置できなかったが、駅名については無理を承知で雑餉隈にしたと思えなくもないが。


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 現在の大野城市雑餉隈。かつては7軒の旅館がこの道沿いに立ち並んでいたという。雑餉隈恵比須神社の縁起に、地域の歴史が紹介されている。なお、雑餉隈という難読地名の由来について、福岡藩の地誌『筑前国続風土記』は、酒食を商う店があったため、または大宰府の役人で雑務を取り扱った「雑掌(ざっしょう)」が住んでいたためではないかと推測している。
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桜井神社と黒田忠之

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 墓参の帰り、以前から気になっていた桜井神社(福岡県糸島市)に参拝してきた。1632年(寛永9)の創建で、当時から残る重厚な楼門、本殿、拝殿などは県指定文化財ともなっている。木々に囲まれた境内は神秘的な雰囲気で、最近はパワースポットとしても人気を集めているらしい。この神社を建てたのは福岡藩2代藩主・黒田忠之(1602~1654)で、重臣と争って「黒田騒動」を引き起こし、名君不在の福岡藩歴代藩主の中でもとりわけ暗君扱いされている人物だ。一方で、寺社に対する崇敬は際立っていたとも評され、彼が創建・再興した寺社はこの桜井神社以外にも数多い。神仏頼みのバカ殿だったのだろうか。

 桜井神社創建の経緯は『筑前国続風土記』に詳しく記されているが、実は合理的な社会だったと言われる江戸時代にしては、かなり胡散くさい話だ。慶長15年(1610)、桜井地区を襲った豪雨により突然、岩戸の口が開いた。これを見物に行った地元・志摩郡の住人・浦新右衛門(新左衛門と記した資料もある)の妻(以下、浦姫)が神懸かり状態となり、人々の吉凶を占い始めた。さらに神託に従い5年間五穀を絶ったところ、浦姫の霊験はさらに高まり、遠方からも信奉者を集めるようになった。噂を聞き、自ら浦姫を訪ねた忠之は彼女の力を目の当たりにして深く信仰するようになり、ついには彼女を祭る社を建立し、社は人々から「與土姫大明神」とあがめられた。

  與土姫大明神=桜井神社という物的証拠が残っていなければ、できの悪い作り話としか思えないエピソードだが、この話の後半部分は少し様相が変わってくる。少し長くなるが、その部分を引用すると、
 「浦氏をば則社務職として、其子毎成(つねもり)をば京都に遣し、吉田流の神事を学しめ、唯一神道を守らせ、国中社職の惣司とし、諸社の神職の輩にも、志有者は浦氏に属し、仏氏の徒とならずして吉田流に帰せり。始は神社の側に、いかめしき仏閣多く、社僧も往して、仏事を取行ひけるに、此事京都の吉田より、心得ぬ執行也と沙汰有故、寛文十二年に祠官浦権太夫毎春、是を国君に申して、ことごとく仏閣をこぼちて、僧をしりぞけて、専に神道を執行せり」

 浦氏の一人を京都に派遣して吉田神道を学ばせたうえで、領内の神職のトップに据え、さらには仏教の影響下にあった神道(両部神道)を排除したという内容だ。桜井神社の草創期の歴史は一気に政治色の濃いものとなる。忠之による桜井神社創建は領内神社の一元的な統制につながる話だったわけで、『福岡県史』通史編・福岡藩文化(上)(1993)には「忠之時代の文化的な営みに特徴的なことは、忠之の寺社に対する崇敬・外護で、歴代福岡藩主中きわ立っている。それが同時にキリシタン禁教、寺社統制、及びそれをとおしての藩秩序の維持・強化を意味したことはいうまでもなく」と記されている。

 こうなると、忠之を「神仏頼みのバカ殿」と考えるのは不当な話で、ファンタジーじみた桜井神社創建の経緯にも、何らかの意図が隠されていたのではないかと思えてくる。浦姫の夫、新右衛門は、戦国大名・大友氏配下の武将の子孫。浦姫の霊験はともかくとして、その評判が藩主の耳にも届いた程だから、新右衛門、または浦氏のプロデュース能力の高さは相当なものだったと想像される。また、一族の毎成は藩命で京都に留学し、帰国後は「社職の惣司」となったのだから、忠之から実務者能力を高く買われていたのは間違いない。桜井神社創建による神社統制は、結果論ではなく、最初から練り上げられたものだったのだろうか。なお、浦姫は神社創建から4年後の寛永13年(1636)、68歳で死去している。

 暗君とばかり思っていた忠之だが、この機会にめくった『福岡県史』などには「藩主専制権力の伸長をドラスチックに強行した」人物として扱われていた。結果としてこれが初代藩主・長政以来の重臣との軋轢を生み、その一人・栗山大膳が幕府に対し「忠之に謀反の疑いがある」訴える事態となり、福岡藩は一時、存亡の危機に立たされた(黒田騒動)。無実を認められた忠之は騒動以降、大坂城再建の手伝いや長崎警備、島原の乱などで幕府への忠勤に励み、その結果、福岡藩の財政は忠之の晩年には早くも破綻状態だったという。福岡藩の2代藩主は暗君ではなかったかもしれないが、名君でもなかったのだろう。桜井神社には、忠之自身も島岡大明神として祭られている。
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山麓にある海神社

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 福岡市早良区西油山に海(わたつみ)神社という社がある(写真)。海から離れた油山(597㍍)の山麓に海を名乗る神社があるのは不思議だが、調べてみると、城南区東油山にも全く同名の神社があった。古代の遣唐使たちが脊振山に登り航海安全を祈ったという故事もあるぐらいなので、ひょっとしたら山で海神を祭るのは珍しいことではないかもしれない。だが、福岡都市圏にある「ワタツミ神社」(漢字表記は海のほか、綿津見、綿積、少童)と、これらの神社の総本社と言われる東区志賀島の志賀海神社の位置を地図に落としたところ、やはり大半は海、または河口に面した場所にあり、東・西油山の海神社の立地は異色だった。

 大正時代、早良郡役場によって編まれた『早良郡志』(復刻版は名著出版、1973)によると、西油山の海神社の祭神は底津少童命、中津少童命、上津少童命の三神。航海安全や漁業などの神々だ。例祭は9月19日、氏子は25戸。一方、東油山の海神社は同じ海神ながら豊玉彦命を祭り、別名は龍樹権現。例祭は9月9日で、東油山35戸の産神だと記されている。両神社とも明治5年(1872)に「村社」に定められたとあるが、それ以外の沿革については記載がなく、山里でなぜ、海神が信仰されてきたのか理由は不明だ。

 龍樹権現とは油山山中にあった社で、江戸時代の地誌『筑前国続風土記』には「龍樹権現の社の跡、山の七分高き所に在り。(中略)今は龍樹権現をば、山下に移せり。村に近し」との記述がある。「山下に移せり」というのが、現在の東油山・海神社のことなのだろうか。

 続風土記には、西油山の集落の成り立ちについての記述もある。「今の西油山の地、昔は中河原と云ふ。村里なく、田畠もなかりしに、近世田畠を開き、家を作りて村と成れり。村民樒の皮と葉とを多く取て抹香とし、福岡などに持出て売り、家産を助く」。西油山の集落は移住者によって開かれた村だったことがわかる。海辺の民が移り住んできたのならば、話は簡単なのだが…。

 『福岡県の神社』(アクロス福岡文化誌編纂委員会、2012)によると、2012年1月現在、福岡県内には3,318の神社があり、このうち最も多いのは600社を超える天満宮で、県内での「天神さま=菅原道真」信仰の広がりを物語っている。続いて八幡宮、貴船社、熊野社、大山祇神社、祇園社、日吉社の順で、ワタツミ神社は8番目となっている。何社あるのか数は示されていないが、「筑後の有明海沿岸地方に多くのワタツミ神社がある」といい、やはり海辺にあるのが主流のようだ。
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動き出した「宗茂」大河ドラマ誘致

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 福岡県柳川市が、初代柳川藩主・立花宗茂 (1567~1643) と妻・誾千代(1569~1602)を主人公にした大河ドラマ制作を求め、誘致活動を始めた。8日午後には市長一行が甲冑姿で知事を訪ね、活動への協力を要請したという。以前、『軍師官兵衛』の放映が決まった際、福岡市への経済効果は薄いだろうと思い、「我が福岡も歴史ファンの間で人気が高い立花宗茂を候補に、本気で誘致活動に取り組んではどうだろう」と偉そうに書いたことがある。この時は立花城主としての宗茂が念頭にあったのだが、やはり柳川藩主として取り上げるべき人物であり、柳川市が活動の中心になる方が理にかなっている。(立花城は福岡市東区や新宮町などにまたがる標高367㍍の立花山にあった。写真は城跡の山頂と、山頂にある説明板)

 立花宗茂は、大友宗麟配下の武将・高橋紹運の子。紹運の同僚の戸次道雪に請われ、15歳の時に道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)の婿となり、立花城主(正確には城督と呼ぶらしい)を継いだ。九州の覇権を懸けた大友と島津の戦い、秀吉の九州平定戦、文禄・慶長の役などで数々の武勲を挙げ、秀吉からは「西国無双の誉」「九州之一物」と激賞され、九州平定後には柳川13万石に取り立てられている。関ヶ原の戦いでは西軍についたため所領を没収されたが、徳川家からの評価も高く、20年後の1620年には柳川藩主に返り咲いている。西軍方の武将で旧領復帰を果たした唯一の例だ。柳川市は宗茂復帰400周年に当たる2020年の大河放映を目指しているという。

 一方、妻の誾千代は7歳の時に父・道雪から家督を譲られ、女城主となった。もちろん、7歳の女児に城主が務まるはずもなく実質的権限は道雪にあったようだが、関ヶ原の戦後、自ら甲冑を身にまとい、女性部隊を組織して柳川の防備を固めたという勇ましいエピソードも伝わる(史実かどうかは不明)。立花城から柳川に転封後は宗茂と別居、所領没収後は熊本に身を寄せ、宗茂の返り咲きを見ることなく30代の若さで亡くなっている。

 私の拙い文章力では二人の魅力を到底伝えきれないが、NHK好み、または大河向きの人物であるのは間違いないと思う。むしろ、なぜ、これまで誘致運動が起きなかったのか、もっと言えば、すでに大河ドラマ化されていないことが不思議なぐらいだ。また、2012年には葉室麟氏が『無双の花』、故・山本兼一氏が『まりしてん誾千代姫』と、両直木賞作家がこの夫婦を題材にした小説を発表しているほか、宗茂を主人公にした小説は過去にも複数出版されており、原作・原案にも事欠きそうにない。

 ただ、気になるのは今年、誾千代とキャラがもろにかぶる『おんな城主直虎』という作品が放映されていることだ。直虎については「実は男だったのでは」と疑義が出されていることもあり、柳川市サイドは「誾千代は正真正銘の女城主で、史料も豊富にある」と意気盛んだ。しかし、史実がどうあれ、わずか2年のインターバルで、NHKが似たような題材を大河ドラマで取り上げるというのは、個人的には望み薄という気がする。せっかく魅力的な人物なのだから、柳川復帰400周年の2020年放映などという目標にこだわらず、息の長い誘致活動を続けた方がベターではないだろうか。短期決戦に懸けるというのならば、それはそれで仕方がないが。

 宗茂と誾千代の夫婦仲については、立花城を離れた後は別居していること、二人の間に子がなかったこと――などの理由から、不仲説が流布しているが、地元・柳川市にある立花家史料館は「二人と同時代の史料で不和を証言するものはない」と否定的だ。不和の原因について、誾千代が肥前名護屋城に陣を張っていた秀吉の目に止まり、寵愛を受けたためと描いた小説が過去にはあり、「柳川では大変な物議を醸した」と書かれた資料があった。400年前の人物を巡って物議を醸すところに、旧領主と地元との深いつながりが垣間見える。下の写真は柳川藩主の旧別邸「御花」。


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人民共立小学校と筑前竹槍一揆

 明治時代初めに編纂された地誌『筑前国福岡区地誌』(三原恕平編。活字版は1980年、文献出版発行)を読んでいて、“人民共立小学校”という見慣れない言葉が度々出てくるのに戸惑った。例えば、橋口町(現在の福岡市中央区天神の昭和通り付近)、大乗寺前町(現在の博多区上川端の一部)の項目には、それぞれ以下のように記載されている。
 「人民共立小学校二所(町ノ東方水鏡神社境内ニアリ)生徒男百七十五人女七十五人総計二百五十人」
 「人民共立小学校一所 町ノ西南大乗寺境内ニアリ生徒二百三十八人(男百九十四人女四十四人)」

 どこかの人民共和国にでもありそうな名称だなと思いつつ、その正体を調べてみると、1872年(明治5)の学制公布に伴い設立された小学校を当時、人民共立小学校と呼んでいたことがわかった。

 明治新政府はこの学制公布で、小学校を設立せよと全国に大号令をかけたものの、財政難から設立・運営費用は「凡学校ヲ設立シ及之ヲ保護スルノ費用ハ、中学ハ中学区ニ於テシ、小学ハ小学区ニ於テ其責ヲ受クルヲ法トス」と地元に丸投げした。このため児童の家庭から結構高額な授業料が徴収されたが、これだけでは到底賄えず、篤志家からの寄付金、さらには地域の全世帯に負担金(賦課金)まで課され、財源に充てられた。地域住民全体で学校を支えていたことになる。だから官立でも市町村立でも私立でもなく、人民共立だったのだ。

 ただし、人民共立小学校という言葉は、この記事を書くに当たって参考にした『福岡県教育百年史 第五巻 通史編(Ⅰ)』 (福岡県教育委員会、1980)、文部科学省がサイト上で公開している『学制百年史』には一切出てこなかった。公式用語ではないのだろう。

 当時の庶民にとって授業料や賦課金の負担は非常に重かったといい、国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトには「負担に耐えかねた人々の中からは学制反対一揆が起こることもありました」と書かれている。この一揆で最大のものが、学制公布翌年の1873年6月、わが福岡県で起きた「筑前竹槍一揆」だったようである。

 一揆の発端は旱魃に苦しんだ農民たちの暴動だったというが、明治新政府への大きな不満を背景に、当時の福岡県人口(※)の約4分の1に当たる10万人が加わる大騒乱となった。一揆勢の一部は福岡城跡にあった県庁に押し入り、庁舎を打ち壊し、官舎を焼いたというが、彼らが要求していたのが「御年貢三ヶ年間徳政の事」「学校、徴兵、地券、御取止めの事」など5項目。廃止を要求する項目のトップに学校が挙げられ、また、多くの小学校が焼き討ちの対象になったというから、いかに学校が憎悪の対象となっていたかがわかる。(※当時の福岡県は旧筑前藩領だけで、現在の県域には他に小倉、三潴県があった)

 これは必ずしも教育への無理解というだけでなく、新たな小学校教育の内容が当時の庶民にはわかりにくく、「実用的ではなく、かえって古くからの寺子屋の方がましだとの感をいだかせた」(『福岡県教育百年史』)ことも大きかったという。

 一揆は発生から約2週間後、最終的に軍によって鎮圧されたが、70人が死傷し、打ち壊しや焼き討ちの被害に遭った家屋は4,590棟に上ったという。首謀者とされた4人が死刑となっている。さすがに明治新政府も教育制度については矢継ぎ早に手直しを繰り返し、1890年(明治23)公布の小学校令で、小学校の設置・運営は市町村の責任であることを明確にした。人民共立小学校の歴史はここで幕を下ろしたということになるだろう。

 途中でも書いたが、人民共立小学校という言葉はオフィシャルな教育史には見当たらず、学校創立が学制公布直後に遡る福岡市立小学校の沿革を調べても、この言葉が使われている例は見つからなかった。正式用語ではなかったにしても、これは不思議だ。明治時代初めに編纂された地誌に書かれているぐらいだから、当時、一般的な呼び方であったのは間違いなく、現にインターネット検索をすると、創立当時の学校名を「〇〇人民共立小学校」と明記している例が他県では複数見つかる。草創期の初等教育で、国や地方行政がいかに役立たずだったかを証明するような言葉だから、敢えて使いたくはないのかもしれないが。

 文中に明示している資料の他に、竹槍一揆については国会図書館のデジタルコレクションに収録されている『社会変革過程の諸問題』(石浜知行、天人社、1930)、志免町ホームページなどを参考にした。
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