浜野浦の棚田

IMG_6705.jpg


 夕日に染まる棚田を撮影しようと5日、佐賀県玄海町の浜野浦地区に出掛けてきた。しかし、午後から雲が広がり、午後7時過ぎの日没時刻まで待ったが、残念ながら夕日は顔を出さなかった。田植えがちょうど終わったばかりのこの季節は、水が張られた棚田が夕暮れ時にはオレンジ色に輝き、1年の中でも特に美しいと評判だ。棚田を見下ろす展望台には多数のアマチュアカメラマンが集まっていた。狙い通りの写真が撮れず、残念だったが、曇り空の下の棚田も十分きれいではあった。

 浜野浦の棚田は、1999年に農水省が選定した「日本の棚田百選」の一つで、玄界灘に面した急傾斜地11・5㌶に283枚の水田が広がっている。農水省発行資料によると、棚田が整備されたのは1600年。近年までもっこで泥を運び、田を維持してきたという。資料が発行された2008年当時、浜野浦地区は農家数29戸の小集落だったが、農業者の平均年齢は51歳と若く、後継者も7人を数えていた。棚田の人気が地域に活気を与えているのだろう。

 「日本の棚田百選」は百選と言いながら、134か所が選ばれている。このうちの47か所、実に35%が九州地区からの選定だ。本来は稲作に適さない急傾斜地を苦労して水田に作り上げたのが棚田であるわけだから、平野部が少ない九州に多いのは当然で、対照的に首都圏からは千葉県内の1か所、広大な水田が広がっている(というイメージがある)東北からも計6か所が選ばれているだけだ。

 なお、余計な情報かも知れないが、浜野浦の棚田が位置する東松浦半島の先端には、再稼働が現在論議されている玄海原発がある。棚田からは直線距離で3㌔程だ。もっと余計な情報だが、この棚田は「恋人の聖地」なるものに認定され、展望台には場違いに思える教会風の鐘が設置されている。地元の人たちが棚田PRのため自ら応募して認定されたらしいので、余所者が口をはさむ筋合いなどないが、先人たちが営々と築き上げてきた景観に、軽薄とも思えるレッテルを貼るのは、かえってもったいない気がした。
スポンサーサイト
[Edit]

オートキャンプ禁止の看板

IMG_6635.jpg

IMG_6653.jpg

 連休前半の4月29日、大分県のくじゅうに日帰りで行き、九重町の長者原・タデ原湿原や、竹田市のくじゅう花公園を散策してきた。その長者原の公共駐車場に数年前から、オートキャンプ禁止を告知する看板が設置されている。これほど目立つ看板があっても、春から秋にかけての季節に長者原に行くと、たいていは駐車場に複数台のキャンピングカーが陣取り、料理をしたり、トイレの水道で食器を洗ったりしている人たちを目にしたものだが、この日午後は1台も見掛けなかった。たまたまかも知れないが、状況に何か変化があったのだろうか。

 長者原はくじゅう連山の登山口の一つで、標高1,000㍍の飯田高原にある。九州有数の観光地だ。年間を通して多くの観光客、登山客が訪れているが、中でもミヤマキリシマ、紅葉が見頃の初夏と秋は大変な人気で、国(環境省)や県が設置した計3か所の無料の駐車場(約400台収容)は休日には満車状態が続く。一方で、温泉郷でもある長者原には日帰り温泉や宿泊客以外の入浴を受け入れるホテルも複数あり、オートキャンプにも絶好の場所。禁止を無視して駐車場を占拠するキャンピングカーが相次ぎ、他の登山客や観光客からは苦情が出ていたという。これに苦慮した環境省は駐車場の有料化を検討していると過去には報道されていた。

 私自身は何の迷惑を被ったわけでもないので、キャンピングカーを見ても特に感想もなかったのだが、彼らを排除するために駐車場が有料化されたのでは「とばっちりだな」とは思っていた。しかし、現在のところ、駐車場は依然、無料のままだ。

 実は飯田高原にはオートキャンプが可能な「くじゅうやまなみキャンプ村」という大分県が設置した施設がちゃんとあるのだが、こちらは当然ながら有料で、1区画1泊4,320円(繁忙期は5,400円)。長時間の駐車に、例えば1,000~2,000円程度の料金を取ったところで、やまなみキャンプ村の料金よりも格安だ。駐車場の有料化が沙汰止みになったのは、下手に料金を取れば、利用者にお墨付きを与えることになり、かえって低料金のオートキャンプ場化が進み兼ねないと環境省などは危惧したのではないか、と勝手な推測をしている。

 タデ原湿原はまだ、野焼きの跡が黒々と残っていた。くじゅう花公園ではシバザクラやリビングストンデージーがきれいだったが、ネモフィラはスカスカの感じがして失礼ながらいまいちだった。福岡市の海の中道海浜公園などネモフィラの他の名所は、もっとぎっしり植えてある気がするが。


IMG_6658.jpg

IMG_6666.jpg

IMG_6659.jpg
[Edit]

入館者減が続く白秋生家



IMG_5770.jpg

IMG_5775.jpg

 先日の連休に柳川に行き、柳川藩主の別邸「御花」や北原白秋生家などを巡ってきた。御花周辺は大勢の観光客で混雑し、次から次にやってくる川下り船はどれも満員。掘割沿いにある有名な鰻料理屋には順番待ちの長い列ができ、昼食時をかなり過ぎても並ぶ人は一向に減る様子がなかった。市が行った観光動態調査によると、柳川には2015年、136万人を超える入り込み客があったと推計され、過去最高を記録した。これを後押ししたのが外国人観光客(主に東アジアから)の増加で、昨年は10万人の大台を初めて突破し、約15万人に上ったという。なるほど御花周辺では自撮り棒を手にした人たちが目についた。

 一見、好調な様子の柳川観光だが、市の公表資料をもとに施設別の観光客数をグラフにしてみると、施設によって明暗が分かれていることに気付いた。年間利用客が一時30万人を割り込んだ川下りはここ数年、反転攻勢中で、昨年は39万人に迫り、かつての40万人台に近付いている。一方、御花、白秋生家は長期低落傾向。中でも白秋生家は2000年代初めまでは年間入館者が10万人を超えていたが、近年はようやく5万人台。ピークだった1991年頃には20万人を超えていたとも言われ、実に4分の1に激減していることになる。

 文豪の名前だけでは集客は難しい時代なのだろうか。私自身ここに入館するのは約10年ぶり2回目だが、前回も今回も「あまり関心はないが、入館料500円ぐらいだったら、ついでにのぞいておくか」というレベルの人間なので、偉そうには言えないが…。

 白秋生家は明治の造り酒屋で、入館時にもらった資料には「生家は明治維新前後の建物だろうといわれています。明治34年の大火で大半を焼失して、わずかに残った母屋も荒廃していましたが、先生の偉大な詩業を讃仰すべく昭和44年11月、これを復元して一般に公開されることになりました」とあった。

 付け加えると、生家が復元・一般公開されることになったきっかけは、当時の所有者が競売にかけようとしたことで、郷土の宝が失われることを恐れた市民らが全国に募金を呼び掛け、買い取ったという経緯がある。我が国におけるナショナルトラストの先駆けみたいなものだったのだ。現在は北原白秋生家記念財団管理・運営を行っている。

 敷地内には白秋の生誕100周年を記念して1985年、市立歴史民俗資料館も併設され、二つの施設に直筆原稿や写真、遺品などが多数展示されている。恐らく白秋ファンには興味深いものだと思うが、あまり展示替えは行われていないのではないかという印象を持った。10年前に入館した時の展示内容を覚えていたわけではないので、あくまでも印象に過ぎないが。

 なお、右肩下がりの入館者だが、2014年は55,005人で、前年の53,634人からわずかに持ち直している。増加の要因はこの年に放映されたNHKの朝ドラ『花子とアン』だったという。主人公のモデルとなった女性の出身校が東洋英和女学院で、同校の校歌作詞者が白秋という関係だったため、彼にもやや注目が集まった結果らしい。“風が吹けば桶屋がもうかる”的な理由だったわけで、白秋、または白秋文学そのものに関心が集まったのならば、入館者はもっと跳ね上がっていたことだろう。


yanagawa.png
[Edit]
Theme: 福岡 | Genre: 地域情報

旧都井岬観光ホテル解体へ

DSCF8139.jpg

DSCF8176.jpg

 3年前の夏、御崎馬の生息地として有名な都井岬(宮崎県串間市 )に遊びに行き、廃ホテルが並ぶ無残な光景に衝撃を受けたことがある(「廃ホテルが並ぶ都井岬」)。このうちの一つ、旧・都井岬観光ホテル(写真上)の解体が近く始まるとの記事が読売新聞のニュースサイトに掲載されていた。ホテル跡を所有する串間市は9月議会に解体工事の請負契約議案を提案予定で、可決されれば年度内にも解体を終える見通しだという。宮崎有数の観光地の景観整備がようやく始まるわけだが、都井岬にはこのほかにも廃虚化したホテル跡が並ぶ。中でも2000年に閉鎖された旧都井岬グランドホテル(写真下)の惨状はすさまじいばかりだが、こちらの解体はまだメドも立たない状況のようだ。

 都井岬観光ホテルの沿革を簡単に紹介すると、宮崎が新婚旅行ブームに沸いていた1964年、宮崎交通の子会社として開業した。客室数150室、最大収容人員は410人。都井岬にはピーク時の1974年、70万人近い観光客が詰めかけ、16もの宿泊施設があったといわれるが、その中でも最大だったのがこのホテル。しかし、観光客の激減で経営は悪化、累積赤字に耐えかねた宮崎交通が投げ出した後、経営権は転々。最後は大阪の不動産会社が運営していたが、宿泊客は伸びず、2010年3月、突如として閉館した。

 2012年12月、ホテルの土地・建物は競売にかけられ、堺市の不動産会社が落札した。この会社は土地を太陽光発電に活用する計画だったという。シンボル的観光地のこれ以上の環境悪化を嫌った串間市も競売に参加していたが、タッチの差で落札できず、その後、不動産会社と交渉を続けた末、昨年、不動産会社の落札価格をやや上回る約4,000万円で買い取ったという経緯がある。同市の今年度当初予算には解体に向けての調査費が計上され、解体は既定方針となっていた。

 もう一つの大型ホテルだった旧都井岬グランドホテルについては経営母体など詳しくはわからなかったが、客室数は65、最大収容人員は227人で、2000年1月に廃業している。こちらは道路沿いの非常に目立つ場所にあり、近年は廃虚マニアにとっても有名な存在だ。今年3月の串間市議会一般質問では、議員の一人が「あの廃虚があっては都井岬のイメージが未来永劫下がり続ける」とまで訴え、旧観光ホテルとともに解体するよう求めていた。

 これに対する野辺修光市長の答弁は「該当する物件が民間の所有物でありますことから、課題が多いと考えておりますが、国定公園においては、景観の保全や美化が重要であることも認識いたしておりますので、国の制度事業などの情報収集はもちろん、その他の手法の調査研究も行い、よりよい解決策を見つけてまいりたいと考えているところであります」というものだった。旧観光ホテルの土地・建物買収費が約4,000万円、さらに調査費を含めた解体工事費が約1億円。今年度一般会計予算の規模が218億円、人口に至っては2万人を割り込んだ串間市にとり、旧観光ホテルの解体だけでも大事業であり、旧グランドホテルも同時には無理ということだろう。都井岬からの廃虚一掃までには、なお時間が掛かりそうだ。

 都井岬を訪れる観光客は近年はかつての7分の1の10万人程度にまで落ち込んでいる。串間市観光協会のサイトによると、岬には現在、宿泊施設としては小規模な国民宿舎と民宿2軒があるだけで、収容人員は3施設合わせてもようやく100人を超える程度だ。旧観光ホテル跡地については、更地になった後、宮崎市の企業が新たな観光施設建設に乗り出すと伝えられているが、具体的なスケジュールはまだ未定らしい。
[Edit]
Theme: 宮崎情報 | Genre: 地域情報

おがわ作小屋村

IMG_5519.jpg

IMG_5527.jpg


 先日、宮崎県西米良村の小川地区にある「おがわ作小屋村」という施設に行き、昼ご飯を食べてきた。いわゆる村おこしのための観光施設で、食事処兼土産品店のほか、民俗資料館、コテージなどがある。作小屋とは、農繁期に村民たちが暮らしていた一種の別宅。西米良ではかつて焼き畑農業を生業の一つとしていたが、畑は集落から離れた山中にあるため、自宅とは別の生活拠点が必要だったという。もともと資料館等があった小川城址公園の一角に木造茅葺きの作小屋が復元され、7年前の2009年10月「作小屋村」はオープンした。

 西米良村は、宮崎市から車で2時間。かつては焼き畑農業が行われていたことでもわかるように、米良三山(市房山、石堂山、天包山)などの1,000㍍級の深い山々に囲まれた、まさに秘境のような土地だ。西米良村に行くのは初めてで、予備知識も全くなかったため、そんな秘境に「城址」と呼ばれる場所があることに驚いた。現在では人口100人に満たない小川地区だが、藩政時代、ここには米良山十四か村(現在の西米良村と西都市、木城町の一部)を治めた豪族・米良氏の本拠があったという。

 帰宅後に調べたところ、米良氏とは、元寇や南北朝の争乱などで活躍した菊池氏の末裔と伝えられていることがわかった。戦いに敗れた菊池一族の一人がこの地に逃れて米良氏を名乗ったという。大正時代に出版された『肥後の菊池氏』(植田均、嵩山房、1918)には「初め菊池武運(たけゆき)が島原に落ち行く時、嫡子の重為と云うのは、未だ襁褓にあったが、一家臣は武運の寄託を受け、重為を扶けて密に日向の米良山中に落ち行き之を鞠養した。重為長じて米良を領し米良石見守重次と名乗った」とあった。

 菊池武運(1493―1504)とは室町時代の武将で、1501年、一度は内乱により本拠の隈府城を追われており、重為の米良落ちはこの時の話ということになる。武運は2年後に隈府城を奪回しているが、この時の戦傷がもとで間もなく死んでいる。先が見通せない状況の中で、重為は菊池に戻されることなく、米良にとどまることになったのだろうか。秘境には貴種流離譚が付きものだが、よくある平家の落人伝説とはかなり毛色は違う気がする。

 米良山は藩政時代、人吉・相良藩の属領だったが、米良氏は幕府から旗本格として扱われ、事実上自治が認められていた。米良の山々が鷹狩り用の鷹を将軍家に献上する鷹巣山(または巣鷹山)として幕府の保護を受けていた関係らしい。なお、最後の米良山領主・米良則忠は明治維新後に菊池に改姓しており、小川城址には「菊池則忠公」として彼の座像があった。

IMG_2202.jpg

 ところで、作小屋村で食べたのは、地元の料理を16の小皿に並べた「おがわ四季御膳」だ。ご飯と汁物が付いて1,300円。メニューはおから天、椎茸南蛮、ゆずみそ、小川豆腐、シソ寒天などで、福岡の人間には少し味付けが甘めだったが、総じてどれも美味しく、中でもシソ寒天はピカイチだった。寒天など滅多に口にしないし、食べてもうまいと思ったことなど一度もなかったのだが。

[Edit]
Theme: 宮崎情報 | Genre: 地域情報

馬ヶ背とクルスの海

IMG_5474.jpg

DSCF1247.jpg


 この盆休み、親族に連れられ宮崎県日向市の馬ヶ背に行ってきた。日向灘の荒波に削られて出来た柱状節理の断崖絶壁。現地の説明板によると、この柱状節理は1500万年前の火山活動によって生まれたという。具体的な火山名までは記されていなかったが、この辺りに広く存在する柱状節理は、尾鈴カルデラ(日向市の耳川河口一帯)を生んだ大噴火の産物だという。

 断崖絶壁の海面からの高さは約70㍍。展望台から見下ろせば、足がすくむという程ではないが、結構なスリルだった。同じく柱状節理の断崖絶壁で、有名な福井の東尋坊に「勝るとも劣らないスケール」と地元ではPRしている。残念ながら東尋坊には行ったことがないので優劣はわからないが、これだけの景勝地が地元・九州にあることを今までうかつにも知らず、もったいないことをしたとは思った。

IMG_5487.jpg

 馬ヶ背のすぐ近くには「クルスの海」と呼ばれる景勝地もあり、日向市観光協会などは馬ヶ背とセットで観光客を呼び込もうとしている。こちらは岩礁が十字型に削り取られ、近くの展望台から眺めると、なるほどクルス(十字架)に見えなくもない。横の岩場を組み合わせると「叶」のという字にも見えるとも言われ、「願いが叶うクルスの海」という売り出し方もされているようだ。近くの展望台には鐘(「クルスの鐘」というらしい)が設置され、鐘の台座には“恋人の聖地”よろしく南京錠がじゃらじゃらぶら下がっていた。

 観光協会のサイトには「願いが叶うクルスの海には、訪れると願いが叶うという不思議な言い伝えがあります」という一文が書かれているが、妙に現代的で漫画チックな伝説が本当に地元にあったのだろうか? 不審に思い調べてみると、2000年頃、地元では長く「十文字」と呼ばれてきた地形が「叶」という字に見えなくもないことに観光関係者が気付き、それから「クルスの海」の売り出し作戦が始まっていることを確認した。たかだか十数年の言い伝えだったわけだ。

 地元の熱意に冷水を浴びせるようで申し訳ないが、せっかくの景勝地を、伝説をでっちあげてまで彩る必要があるのだろうか。現代人が好むのは安っぽい言い伝えなどではなく、混じりけの無い絶景の方だろう。
[Edit]
Theme: 宮崎情報 | Genre: 地域情報

今年は今宮と武田

DSCF1169.jpg

DSCF1171.jpg

 博多祇園山笠の飾り山笠公開が例年より1週間早く6月24日から始まった。福岡市では同日から28日まで、第99回ライオンズクラブ国際大会が開かれており、国内外から集まった38,000人の参加者を歓迎するため、お披露目を早めたという。参加者数は福岡市で開かれた国際会議としては過去最大で、地元紙の西日本新聞によると、市は112億円の経済効果を見込んでいるとか。どういう計算で112億円になるのかは報道されていないので胡散くさい数字に思えるが、事実ならば、景気のいい話だ。

 25日夜は福岡ヤフオク!ドームで谷村新司さんらが出演して歓迎のショーが開かれ、ドーム前の飾り山笠が参加者を出迎えていた。今年のモデルは工藤監督のほか、今宮、武田の両選手。武田はともかく、今宮の方は特徴的な細い眉と、何よりバントの構えをしているので彼だとすぐにわかる。バント姿の山笠人形など初めてではないだろうか。

 見送り(裏側)は「奇襲桶狭間決戦」。ライオンズクラブ国際大会の参加者は海外はじめ県外からが中心。当然ながら日本のプロ野球、ましてホークスには関心のない人が大半で、勇壮な武者人形が飾られた見送りの方が断然好評の様子だった。

[Edit]
Theme: 福岡 | Genre: 地域情報

恋の浦の現在

IMG_4417.jpg

 福岡県宗像市の直売所に行った帰り、福津市の「恋の浦」に立ち寄って来た。ここには以前、鹿児島市の城山観光が運営する「玄海彫刻の岬 恋の浦」という野外美術館を兼ねたレジャー施設があり、開放的な雰囲気を気に入り、かなり頻繁に通っていたことがある。入場客減少により2001年12月にいったん休園したが、その後、跡地を買い取った別会社が2008年7月、「恋の浦ガーデン」の名前で営業を再開したと聞いていた。しかし、門は閉じられ、「休園中」の看板が掲げられていた。

 この日がたまたま休園日だったというわけではなく、2014年9月31日限りで一般営業を終了したとのお知らせが門の横にあった。「恋の浦ガーデン」としての歴史は6年程で終わっていたわけだ。現在はイベント利用に限って貸し出しているという。近くを通ったため、懐かしさもあって外観だけでも見ようと思ったのだが、それさえも叶わず、少し残念だった。

 「玄海彫刻の岬 恋の浦」は玄界灘に突き出た丘(岬)に造られた施設で、開園は1984年。100㌶以上の広大な敷地はカートで散策することができ、野外美術館のある岬の突端からは玄界灘の絶景が望めた。沿革を調べてみると、87年に屋外スケート場、91年に遊園地が新設され、この91年にピークとなる年間50万人が来場したという。私がよく通っていたのもこの時代で、施設入り口前の駐車場が満車のため、麓の駐車場からシャトルバスで運ばれることも度々だった。

 ところが、転勤でしばらく福岡県を離れた後、北九州勤務となった90年代後半に久しぶりに行ってみると、施設内の様相が変わっていた。スタッフが極端に少なく、遊園地では1~2人のスタッフが走り回って複数の遊具を動かしていたのだ。つまり、それで間に合う程度の入場者しかいなかったわけで、10年足らずの間にここまで凋落するのかと信じられない思いだった。もともと不便な場所にあるだけに、いったん飽きられると客足が遠のくのは早かったのだろう。休園前年の2000年、入場者はピーク時の4割程度まで落ち込んでいたという。

 城山観光が休園を決めた際は、温泉を新設するなど施設をリニューアルし、2年後に再オープンする計画だったというが、会社自体の経営再建を迫られ、果たせなかったようだ。城山観光は鹿児島市が本拠だが、以前は恋の浦のほか、ホテルや高級中華料理店などを福岡でも手広く経営しており、これに絡んでタクシーの運転手から面白い話を聞いたことがある。福岡空港で乗せた客が「城山ホテルまで」と言うので、中洲にあった城山ホテルに送ったところ、客はひと言「鹿児島の城山ホテルまで行って欲しいんだよ」。もちろんバブル時代の話で、鹿児島の城山ホテルで客が差し出したタクシーチケットには製薬会社の名前があったという落ちがつく。

 信憑性は「?」だが、あの時代ならば、あり得た話かもしれないとも思う。
[Edit]
Theme: 福岡 | Genre: 地域情報

2年ぶりの博多灯明ウォッチング

IMG_4091.jpg

IMG_4100.jpg

IMG_4117.jpg

 福岡市博多区で17日夜に開かれた博多灯明ウォッチングに2年ぶりに行ってきた。昨年も行くつもりだったのだが、開催日にホークス対日本ハムのパ・リーグCS第4戦がデーゲームで行われ、試合終了後(ホークスが5-2で勝利し、日本シリーズ進出に王手)には祝杯を挙げてしまい、出掛けるどころではなくなったのだ。

 今年もCSが17日までに決着がつかなければ、外出する気分にはならなかったと思うが、幸いにも16日の第3戦でホークスがけりをつけてくれたお陰で、心おきなく博多の町を巡ることができた。それにしてもペナントレース144試合戦ってリーグ優勝を勝ち取ったのに、無条件で日本シリーズに進出できないとは。CSは興行的にはメリットがあるのだろうが、優勝チームにとっては単なる罰ゲームだ。

 ところで、肝心の灯明ウォッチングだが、例年は櫛田神社、旧・冷泉小学校、博多小学校など大博通り西側の会場ばかり見て回っているので、今年は聖福寺、承天寺、東長寺などの大寺が並ぶ東側の街並みも巡ってきた。

 写真は、1枚目が櫛田神社の灯明地上絵で、「あっかんべぇをする風神」を描いている。2枚目は御供所小学校(博多高等学院)跡地。ここの地上絵は聖福寺山門がテーマで、非常に大掛かりできれいだったが、地上からしか見ることができないため、残念ながら何を描いているかはわからなかった。「ドローンでも飛ばさないと全貌を撮影するのは無理だな」と思っていたら、本当にドローンが上空を舞っていた。博多高等学院がここに間借りしていた時代は校舎から地上絵を眺めることができ、絶好のスポットだったが。

 3枚目は博多小学校で、テーマは博多ふ頭。校舎2階の渡り廊下が見学場所として開放されていたため、博多ポートタワーやクルーズ船が描かれているのがよくわかった。校舎と言えば、旧・冷泉小学校グランドにも毎年、大作が描かれ、校舎の窓から楽しむことができたが、残念ながら今年は不参加だった。地元の皆さんが手弁当で灯明を飾っていたというので、昨年の20回限りで区切りをつけたのだろうか。

 どの会場も例年同様、大勢の人でにぎわっていたが、隣国からの観光客らしき人々も多数交じっていることに気付いた。自撮り棒を使って記念撮影しているカップルは概ね外国語を話していた。今年で21回目を迎える灯明ウォッチングだが、私の周囲の福岡市民の中には「何それ?」という人がいるというのに、隣国人らの貪欲なまでの好奇心には感心する。
[Edit]
Theme: 福岡 | Genre: 地域情報

城下町杵築の坂道

DSCF1342.jpg

 大分県杵築市の町を初めて散策して来た。能見松平藩3万2,000石の城下町だった小都市。八坂川の河口に面した台地上には杵築城天守がそびえ、西側には落ち着いた町並みが広がる。3層の天守は、例によって城ブームの時代の1970年に造られた鉄筋コンクリート製の模擬天守だが、城下町は本物だ。しかも、谷間の通り沿いに位置する商人の町をはさみ、南北の高台に武家屋敷街が広がるという特殊な構造で、商人の町から高台へは「酢屋の坂」「志保屋の坂」などの数々の美しい坂道が通じている(写真は志保屋の坂から見た酢屋の坂)。

 今年8月に別府に泊まった際、宿に杵築の町並みを紹介するパンフレットが置かれていた。写真で見る城下町の坂道は非常に魅力的で、興味を覚えたが、予定が決まっていたこともあって翌日は阿蘇方面に向かった。それに「パンフレットの写真は出来過ぎで、実物はたいしたことないのだろう」という懐疑的な気持ちも少しあった。

 しかし、実物の杵築はパンフレット通りの魅力的な町で、なおかつ観光客に対するもてなしの心を感じたのは、町の各所に無料駐車場があり、そこには清掃の行き届いたトイレがあることだった。その割には土産物屋や食事処などは少なく、良い意味で商売っ気は感じられなかった。昔ながらの生活の場がそのまま観光地となったようなサラッとした雰囲気の町だった。例によって、ここにも中国人らしき観光客の一群が押し寄せていたが、彼らに杵築はどう映ったのだろうか。




 南と北の武家屋敷街(南台、北台)。杵築も全国に数々ある小京都の一つ。ミニ東京と呼ばれて喜ぶ人はいないのに、小京都はなぜか誉め言葉になる。小京都と一括りにすると、かえって町の個性が見えなくなる気がするが。

IMG_4040.jpg

 北台から杵築城方面に通じる「勘定場の坂」。杵築は2009年、京都のNPO法人が認定する“きものが似合う歴史的町並み”の第1号に選ばれた。着物レンタルの店もあり、和服姿で城下町を散策している女性が少なくない。

IMG_4055.jpg

 杵築城の模擬天守。各地の復元天守、模擬天守と同じく、郷土資料館兼展望台となっている。

DSCF1334.jpg

 模擬天守から見た城下町。垂直の崖の上にあるのが南台。特殊な地形の町であることが良くわかる。


[Edit]