甘木公園の桜が見事だった

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 朝倉市の国道386号線バイパスを走っていて、沿道にある甘木公園の桜が満開になっているに気付き、せっかくだからと寄り道をしてきた。中央に池を配した広さ31.7㌶の公園で、園内にはソメイヨシノを中心に約4,000本もの桜が植えられている。公園自体には過去にも来たことがあるが、桜の季節は初めてで、4,000本が一斉に満開になっている光景は壮観だった。また、散策路はゴムチップ舗装されており、歩き心地は非常に快適だった。昼食を食べすぎ、気分が悪いぐらいだったので、いい腹ごなしになった。

 昼食を取ったのは、同じ朝倉市内にあるうどん店。素うどん一杯が600円と一見高そうだが、その分、トッピングや総菜(野菜料理)が食べ放題という実は非常にリーズナブルな店だ。ランチタイムぎりぎりの時間に入ったのだが、それでも揚げたてのサツマイモやタマネギなどの天ぷらが次々に並び、ついつい調子に乗って食べすぎてしまった。この店は地元の和菓子店の経営で、和菓子店の本店に併設されている。

 店があるのは、昨年7月の九州北部豪雨で大きな被害が出た地区の一つで、和菓子店&うどん店、さらには隣接してあった和菓子店の工場も壊滅的な被害を受け、一時休業を強いられていた。豪雨直後に一帯を歩き、一変した風景に言葉を失い、復興は容易ではないだろうと想像したが、店舗はいち早く昨年10月には再開した。工場の復旧はまだだが、やがては元の姿に戻ることだろう。

 食事の後は2箇所の農産物直売所に立ち寄り、野菜等を買い込んできた。うどん店横の直売所前には広い芝生広場があり、家族連れでにぎわっていたものだが、豪雨後はこの広場が土砂の集積場所に変わり、今も膨大な土砂で埋まったままだ。その土砂から雑草が芽吹き、緑に覆われようとしていた。
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慈恩の滝の裏側

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 大分県玖珠町にある慈恩の滝に4日、ほぼ20年ぶりに行き、滝の裏側から見た景色を写真に収めてきた。本来ならば、涼を求めて滝に行く季節ではないが、この日の最高気温は福岡でも大分でも20度超。由布院からの帰路、滝の横にある道の駅で休憩したついでに、陽気に誘われ滝を巡る散策路を歩いてきた。この散策路が滝の裏側にも通じている。こういった滝を「裏見の滝」と呼ぶらしい。写し方が下手なためにわからないが、本当は2段式の滝で、写真の滝(落差10㍍)の上にもう一つ滝(同20㍍)がある。

 慈恩の滝は、万年山(はねやま、1,140㍍)を水源とする山浦川にあり、古い資料には「慈恩寺瀑」または「寺下の瀑」とも書かれている。滝の上には杉河内集落があるが、ここにかつて慈恩寺という寺があったと思われ、これが滝の名前の由来となったようだ。『玖珠郡史』(1965)には「江戸時代に滝の近くに一宇の禅寺があり、その寺号が慈恩寺と言っていたので、慈恩の滝と言われるようになった」とあったが、これ以外に慈恩寺について書かれた資料を見つけることはできなかった。詳細は不明だ。

 滝があるのは、久留米市と大分市とを結ぶ国道210号線沿い。くじゅう方面に遊びに行き、のんびり帰る時など頻繁にこの道を通っているのだが、今までは素通りするばかりだった。しかし、昨年7月、滝のすぐそばに道の駅「慈恩の滝くす」がオープンし、せっかくだからと立ち寄る気になった。道の駅は広さ4,500平方㍍で、駐車場は39台分。比較的小規模な道の駅で、物販施設も非常に小ぢんまりとしていたが、4日は好天に恵まれたこともあり、駐車場は満車状態だった。観光面の効果は決して小さくはないのだろう。

 この玖珠町、くじゅう連山を抱えるお隣の九重町に比べ、このブログで取り上げることは少なかったが、万年山やその名も伐株山(685㍍)といった頂上が真っ平らな山があったり、慈恩の滝以外にも数々の名瀑があったりと自然景観に恵まれた土地だ。SL9600形29612号機安住の地となった
豊後の森機関庫もこの町にある。
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紅葉の秋月

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 福岡県朝倉市の秋月に23日、紅葉見物に行ってきた。福岡藩の支藩、秋月5万石が治めていた静かな城下町で、秋月城址は県下有数の紅葉の名所だ。祝日とあり、城址一帯は大勢の行楽客で混雑し、秋月に通じる細い一本道は渋滞が続いていた。ただ、この日の秋月の賑わいぶりを伝えたNHKニュースによると、例年に比べ、人出は2割程減っているという。今年7月、同じ朝倉市の杷木地区を九州北部豪雨が襲い、秋月も被害を受けたと勘違いしている人がいるためらしい。

 肝心の紅葉だが、全体的にきれいに色付いてはいたが、紅葉前に枯れ始めている木々も目立った。10月下旬に台風21号が接近、沿岸部にある福岡市街地では海水混じりの強風により、葉が落ちたり、変色したりしたため、今年の紅葉は今一つだと言われている。山間部にある秋月も同様の状況なのだろうか。

 紅葉見物のついでに、秋月のたたずまいには似合わぬ“もめ事”の種となった二つの建物も見てきた。一つは城址の一角にある秋月中学校。風格ある木造校舎は歴史的景観と見事に調和している。朝倉市はこの中学校を秋月小学校の敷地に移転させたうえで、2020年4月に小中一貫校を開校する計画を打ち出し、地元住民からは反発が出ていた。上記のように九州北部豪雨が同市に甚大な被害をもたらし、市側は「復旧・復興を優先する」との理由で開校を21年度以降に先送りしたが、計画自体を撤回したわけではなく、この校舎の行く末はまだ、不透明だ。

 もう一つは秋月博物館。老朽化した秋月郷土館に代わり、10月21日に開館したばかりの真新しい施設で、1,000平方㍍弱のコンパクトな展示スペースには、島原の乱の戦いの様子が生々しく描かれた「島原陣図屏風」のほか、横山大観、ピカソ、シャガールら国内外の有名画家の作品が並んでいる。この博物館に絡むもめ事とは、市側が館長に予定していた人物に論文盗用問題が持ち上がり、市議会などから反対の声が上がったことだ。市側が人事案を取り下げ、落着したが、結局、誰が館長に就任したかの報道はなく、館の公式サイト等にも記載はない。館長は誰なのだろうか。

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 秋月中学校の校舎。校舎の居心地まではわからないが、これだけ見事な建物を無にするのは非常にもったいない気がする。

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 秋月博物館の館内。藩政時代の展示は充実しているが、それ以外の時代は質量とも物足りない。入館料は大人320円と良心的だが。

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 城址に通じる橋の上から見た紅葉。ここが一番きれいだった。

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 秋月の町の入口に架かる目鏡橋。野鳥川の増水の度に橋が落ちていたことから、8代藩主・長舒(ながのぶ)が長崎から石工を招いて1810年(文化7)に完成させた。長舒は、黒田以前に秋月を治めていた高鍋秋月家から養子に来た人物で、父は高鍋藩の中でも名君とされる秋月種茂、種茂の弟はあの上杉鷹山。二人の薫陶を受けた長舒は、この血筋に恥じない正真正銘の名君だったようで、藩校・稽古館の拡充強化や、養蚕、和紙・葛作りなどの産業育成を図り、秋月藩中興の祖とうたわれている。
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「天空の道」が廃止?

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 2016年の熊本地震で大規模な地割れや崩落が起き、今も通行止めが続いている熊本県阿蘇市の市道「狩尾幹線」の廃止が検討されている。地元紙の熊本日日新聞などが報じていた。復旧には100億円を超える巨費が必要と見込まれ、仮に国等の補助が得られても市の持ち出しは10億円以上に上る見通し。小さな自治体には到底負担できないという。

 市道「狩尾幹線」では地元の人以外には通用しないと思うが、「天空の道」「ラピュタロード」などと呼ばれている道だと言えば、ご存じの方も多いことだろう。阿蘇外輪山を走る通称ミルクロードから麓に通じる延長5.8㌔の峠道で、雲海が立ちこめる朝には道が空に浮かんでいるようにも見えることから、インターネットなどで話題を呼び、人気の観光地ともなった。残念ながら雲海の季節に行ったことはないが、好天の時でも十分絶景だった。

 ただ、この人気は地元にプラス面ばかりをもたらしたわけではない。写真でもわかるように、車の離合(すれ違い)が難しい狭い道。観光客の殺到は地元民にとっては迷惑な話で、早朝から響く車の騒音に悩まされていた近隣住民もおり、実は被災前から、市道廃止を訴える声が上がっていたという。また、近隣には観光客が金を落としてくれるような飲食店や土産品店などは少なく、人気の割には地元への経済効果は小さかったのではないかと想像される。熊本地震での被災は不幸な出来事だが、廃止には厄介払いという側面があるのかもしれない。

 せっかくの絶景が地震をきっかけに失われることになり、個人的には非常に残念な気がするが、100億円の費用負担が必要となると、よそ者が残せとは簡単に言えない。写真は2014年5月に撮影。
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今年の飾り山は

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 博多祇園山笠は15日未明、「追い山」でフィナーレを飾る。このブログでは毎年、ヤフオクドーム前の飾り山を紹介してきたのだが、今年は完璧に失念していたので、今さらだが写真を掲載させていただきたい。表はホークス選手が主役の「若鷹快進撃」。例年、モデルの選手が誰かは明示されているのだが、私みたいに「似てない」と難癖を付ける人間が多いのに人形師がうんざりしたのか、今年は「打の若鷹」「投の若鷹」とモデル不明になった。一応、打者は左、投手は右のようである。

 見送りは「雄姿凛々剣洗川(ゆうしりんりんけんをあらうかわ) 」。南北朝時代の1359年、懐良親王、菊池武光が率いる南朝方4万、少弐頼尚らの北朝方6万が九州の覇権を懸けて筑後川の戦い(大保原の戦い)で激突。勝利した菊池武光が刀を川で洗ったところ、流れが真っ赤に染まったという故事にちなむ。九州最大の合戦と言われる筑後川の戦い、及びこの戦いで武名を轟かせた菊池武光は山笠の題材としても人気で、ヤフオクドーム前飾り山の見送りは3年前も同じテーマが選ばれていた。
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浜野浦の棚田

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 夕日に染まる棚田を撮影しようと5日、佐賀県玄海町の浜野浦地区に出掛けてきた。しかし、午後から雲が広がり、午後7時過ぎの日没時刻まで待ったが、残念ながら夕日は顔を出さなかった。田植えがちょうど終わったばかりのこの季節は、水が張られた棚田が夕暮れ時にはオレンジ色に輝き、1年の中でも特に美しいと評判だ。棚田を見下ろす展望台には多数のアマチュアカメラマンが集まっていた。狙い通りの写真が撮れず、残念だったが、曇り空の下の棚田も十分きれいではあった。

 浜野浦の棚田は、1999年に農水省が選定した「日本の棚田百選」の一つで、玄界灘に面した急傾斜地11・5㌶に283枚の水田が広がっている。農水省発行資料によると、棚田が整備されたのは1600年。近年までもっこで泥を運び、田を維持してきたという。資料が発行された2008年当時、浜野浦地区は農家数29戸の小集落だったが、農業者の平均年齢は51歳と若く、後継者も7人を数えていた。棚田の人気が地域に活気を与えているのだろう。

 「日本の棚田百選」は百選と言いながら、134か所が選ばれている。このうちの47か所、実に35%が九州地区からの選定だ。本来は稲作に適さない急傾斜地を苦労して水田に作り上げたのが棚田であるわけだから、平野部が少ない九州に多いのは当然で、対照的に首都圏からは千葉県内の1か所、広大な水田が広がっている(というイメージがある)東北からも計6か所が選ばれているだけだ。

 なお、余計な情報かも知れないが、浜野浦の棚田が位置する東松浦半島の先端には、再稼働が現在論議されている玄海原発がある。棚田からは直線距離で3㌔程だ。もっと余計な情報だが、この棚田は「恋人の聖地」なるものに認定され、展望台には場違いに思える教会風の鐘が設置されている。地元の人たちが棚田PRのため自ら応募して認定されたらしいので、余所者が口をはさむ筋合いなどないが、先人たちが営々と築き上げてきた景観に、軽薄とも思えるレッテルを貼るのは、かえってもったいない気がした。
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オートキャンプ禁止の看板

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 連休前半の4月29日、大分県のくじゅうに日帰りで行き、九重町の長者原・タデ原湿原や、竹田市のくじゅう花公園を散策してきた。その長者原の公共駐車場に数年前から、オートキャンプ禁止を告知する看板が設置されている。これほど目立つ看板があっても、春から秋にかけての季節に長者原に行くと、たいていは駐車場に複数台のキャンピングカーが陣取り、料理をしたり、トイレの水道で食器を洗ったりしている人たちを目にしたものだが、この日午後は1台も見掛けなかった。たまたまかも知れないが、状況に何か変化があったのだろうか。

 長者原はくじゅう連山の登山口の一つで、標高1,000㍍の飯田高原にある。九州有数の観光地だ。年間を通して多くの観光客、登山客が訪れているが、中でもミヤマキリシマ、紅葉が見頃の初夏と秋は大変な人気で、国(環境省)や県が設置した計3か所の無料の駐車場(約400台収容)は休日には満車状態が続く。一方で、温泉郷でもある長者原には日帰り温泉や宿泊客以外の入浴を受け入れるホテルも複数あり、オートキャンプにも絶好の場所。禁止を無視して駐車場を占拠するキャンピングカーが相次ぎ、他の登山客や観光客からは苦情が出ていたという。これに苦慮した環境省は駐車場の有料化を検討していると過去には報道されていた。

 私自身は何の迷惑を被ったわけでもないので、キャンピングカーを見ても特に感想もなかったのだが、彼らを排除するために駐車場が有料化されたのでは「とばっちりだな」とは思っていた。しかし、現在のところ、駐車場は依然、無料のままだ。

 実は飯田高原にはオートキャンプが可能な「くじゅうやまなみキャンプ村」という大分県が設置した施設がちゃんとあるのだが、こちらは当然ながら有料で、1区画1泊4,320円(繁忙期は5,400円)。長時間の駐車に、例えば1,000~2,000円程度の料金を取ったところで、やまなみキャンプ村の料金よりも格安だ。駐車場の有料化が沙汰止みになったのは、下手に料金を取れば、利用者にお墨付きを与えることになり、かえって低料金のオートキャンプ場化が進み兼ねないと環境省などは危惧したのではないか、と勝手な推測をしている。

 タデ原湿原はまだ、野焼きの跡が黒々と残っていた。くじゅう花公園ではシバザクラやリビングストンデージーがきれいだったが、ネモフィラはスカスカの感じがして失礼ながらいまいちだった。福岡市の海の中道海浜公園などネモフィラの他の名所は、もっとぎっしり植えてある気がするが。


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入館者減が続く白秋生家



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 先日の連休に柳川に行き、柳川藩主の別邸「御花」や北原白秋生家などを巡ってきた。御花周辺は大勢の観光客で混雑し、次から次にやってくる川下り船はどれも満員。掘割沿いにある有名な鰻料理屋には順番待ちの長い列ができ、昼食時をかなり過ぎても並ぶ人は一向に減る様子がなかった。市が行った観光動態調査によると、柳川には2015年、136万人を超える入り込み客があったと推計され、過去最高を記録した。これを後押ししたのが外国人観光客(主に東アジアから)の増加で、昨年は10万人の大台を初めて突破し、約15万人に上ったという。なるほど御花周辺では自撮り棒を手にした人たちが目についた。

 一見、好調な様子の柳川観光だが、市の公表資料をもとに施設別の観光客数をグラフにしてみると、施設によって明暗が分かれていることに気付いた。年間利用客が一時30万人を割り込んだ川下りはここ数年、反転攻勢中で、昨年は39万人に迫り、かつての40万人台に近付いている。一方、御花、白秋生家は長期低落傾向。中でも白秋生家は2000年代初めまでは年間入館者が10万人を超えていたが、近年はようやく5万人台。ピークだった1991年頃には20万人を超えていたとも言われ、実に4分の1に激減していることになる。

 文豪の名前だけでは集客は難しい時代なのだろうか。私自身ここに入館するのは約10年ぶり2回目だが、前回も今回も「あまり関心はないが、入館料500円ぐらいだったら、ついでにのぞいておくか」というレベルの人間なので、偉そうには言えないが…。

 白秋生家は明治の造り酒屋で、入館時にもらった資料には「生家は明治維新前後の建物だろうといわれています。明治34年の大火で大半を焼失して、わずかに残った母屋も荒廃していましたが、先生の偉大な詩業を讃仰すべく昭和44年11月、これを復元して一般に公開されることになりました」とあった。

 付け加えると、生家が復元・一般公開されることになったきっかけは、当時の所有者が競売にかけようとしたことで、郷土の宝が失われることを恐れた市民らが全国に募金を呼び掛け、買い取ったという経緯がある。我が国におけるナショナルトラストの先駆けみたいなものだったのだ。現在は北原白秋生家記念財団が管理・運営を行っている。

 敷地内には白秋の生誕100周年を記念して1985年、市立歴史民俗資料館も併設され、二つの施設に直筆原稿や写真、遺品などが多数展示されている。恐らく白秋ファンには興味深いものだと思うが、あまり展示替えは行われていないのではないかという印象を持った。10年前に入館した時の展示内容を覚えていたわけではないので、あくまでも印象に過ぎないが。

 なお、右肩下がりの入館者だが、2014年は55,005人で、前年の53,634人からわずかに持ち直している。増加の要因はこの年に放映されたNHKの朝ドラ『花子とアン』だったという。主人公のモデルとなった女性の出身校が東洋英和女学院で、同校の校歌作詞者が白秋という関係だったため、彼にもやや注目が集まった結果らしい。“風が吹けば桶屋がもうかる”的な理由だったわけで、白秋、または白秋文学そのものに関心が集まったのならば、入館者はもっと跳ね上がっていたことだろう。


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旧都井岬観光ホテル解体へ

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 3年前の夏、御崎馬の生息地として有名な都井岬(宮崎県串間市 )に遊びに行き、廃ホテルが並ぶ無残な光景に衝撃を受けたことがある(「廃ホテルが並ぶ都井岬」)。このうちの一つ、旧・都井岬観光ホテル(写真上)の解体が近く始まるとの記事が読売新聞のニュースサイトに掲載されていた。ホテル跡を所有する串間市は9月議会に解体工事の請負契約議案を提案予定で、可決されれば年度内にも解体を終える見通しだという。宮崎有数の観光地の景観整備がようやく始まるわけだが、都井岬にはこのほかにも廃虚化したホテル跡が並ぶ。中でも2000年に閉鎖された旧都井岬グランドホテル(写真下)の惨状はすさまじいばかりだが、こちらの解体はまだメドも立たない状況のようだ。

 都井岬観光ホテルの沿革を簡単に紹介すると、宮崎が新婚旅行ブームに沸いていた1964年、宮崎交通の子会社として開業した。客室数150室、最大収容人員は410人。都井岬にはピーク時の1974年、70万人近い観光客が詰めかけ、16もの宿泊施設があったといわれるが、その中でも最大だったのがこのホテル。しかし、観光客の激減で経営は悪化、累積赤字に耐えかねた宮崎交通が投げ出した後、経営権は転々。最後は大阪の不動産会社が運営していたが、宿泊客は伸びず、2010年3月、突如として閉館した。

 2012年12月、ホテルの土地・建物は競売にかけられ、堺市の不動産会社が落札した。この会社は土地を太陽光発電に活用する計画だったという。シンボル的観光地のこれ以上の環境悪化を嫌った串間市も競売に参加していたが、タッチの差で落札できず、その後、不動産会社と交渉を続けた末、昨年、不動産会社の落札価格をやや上回る約4,000万円で買い取ったという経緯がある。同市の今年度当初予算には解体に向けての調査費が計上され、解体は既定方針となっていた。

 もう一つの大型ホテルだった旧都井岬グランドホテルについては経営母体など詳しくはわからなかったが、客室数は65、最大収容人員は227人で、2000年1月に廃業している。こちらは道路沿いの非常に目立つ場所にあり、近年は廃虚マニアにとっても有名な存在だ。今年3月の串間市議会一般質問では、議員の一人が「あの廃虚があっては都井岬のイメージが未来永劫下がり続ける」とまで訴え、旧観光ホテルとともに解体するよう求めていた。

 これに対する野辺修光市長の答弁は「該当する物件が民間の所有物でありますことから、課題が多いと考えておりますが、国定公園においては、景観の保全や美化が重要であることも認識いたしておりますので、国の制度事業などの情報収集はもちろん、その他の手法の調査研究も行い、よりよい解決策を見つけてまいりたいと考えているところであります」というものだった。旧観光ホテルの土地・建物買収費が約4,000万円、さらに調査費を含めた解体工事費が約1億円。今年度一般会計予算の規模が218億円、人口に至っては2万人を割り込んだ串間市にとり、旧観光ホテルの解体だけでも大事業であり、旧グランドホテルも同時には無理ということだろう。都井岬からの廃虚一掃までには、なお時間が掛かりそうだ。

 都井岬を訪れる観光客は近年はかつての7分の1の10万人程度にまで落ち込んでいる。串間市観光協会のサイトによると、岬には現在、宿泊施設としては小規模な国民宿舎と民宿2軒があるだけで、収容人員は3施設合わせてもようやく100人を超える程度だ。旧観光ホテル跡地については、更地になった後、宮崎市の企業が新たな観光施設建設に乗り出すと伝えられているが、具体的なスケジュールはまだ未定らしい。
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おがわ作小屋村

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 先日、宮崎県西米良村の小川地区にある「おがわ作小屋村」という施設に行き、昼ご飯を食べてきた。いわゆる村おこしのための観光施設で、食事処兼土産品店のほか、民俗資料館、コテージなどがある。作小屋とは、農繁期に村民たちが暮らしていた一種の別宅。西米良ではかつて焼き畑農業を生業の一つとしていたが、畑は集落から離れた山中にあるため、自宅とは別の生活拠点が必要だったという。もともと資料館等があった小川城址公園の一角に木造茅葺きの作小屋が復元され、7年前の2009年10月「作小屋村」はオープンした。

 西米良村は、宮崎市から車で2時間。かつては焼き畑農業が行われていたことでもわかるように、米良三山(市房山、石堂山、天包山)などの1,000㍍級の深い山々に囲まれた、まさに秘境のような土地だ。西米良村に行くのは初めてで、予備知識も全くなかったため、そんな秘境に「城址」と呼ばれる場所があることに驚いた。現在では人口100人に満たない小川地区だが、藩政時代、ここには米良山十四か村(現在の西米良村と西都市、木城町の一部)を治めた豪族・米良氏の本拠があったという。

 帰宅後に調べたところ、米良氏とは、元寇や南北朝の争乱などで活躍した菊池氏の末裔と伝えられていることがわかった。戦いに敗れた菊池一族の一人がこの地に逃れて米良氏を名乗ったという。大正時代に出版された『肥後の菊池氏』(植田均、嵩山房、1918)には「初め菊池武運(たけゆき)が島原に落ち行く時、嫡子の重為と云うのは、未だ襁褓にあったが、一家臣は武運の寄託を受け、重為を扶けて密に日向の米良山中に落ち行き之を鞠養した。重為長じて米良を領し米良石見守重次と名乗った」とあった。

 菊池武運(1493―1504)とは室町時代の武将で、1501年、一度は内乱により本拠の隈府城を追われており、重為の米良落ちはこの時の話ということになる。武運は2年後に隈府城を奪回しているが、この時の戦傷がもとで間もなく死んでいる。先が見通せない状況の中で、重為は菊池に戻されることなく、米良にとどまることになったのだろうか。秘境には貴種流離譚が付きものだが、よくある平家の落人伝説とはかなり毛色は違う気がする。

 米良山は藩政時代、人吉・相良藩の属領だったが、米良氏は幕府から旗本格として扱われ、事実上自治が認められていた。米良の山々が鷹狩り用の鷹を将軍家に献上する鷹巣山(または巣鷹山)として幕府の保護を受けていた関係らしい。なお、最後の米良山領主・米良則忠は明治維新後に菊池に改姓しており、小川城址には「菊池則忠公」として彼の座像があった。

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 ところで、作小屋村で食べたのは、地元の料理を16の小皿に並べた「おがわ四季御膳」だ。ご飯と汁物が付いて1,300円。メニューはおから天、椎茸南蛮、ゆずみそ、小川豆腐、シソ寒天などで、福岡の人間には少し味付けが甘めだったが、総じてどれも美味しく、中でもシソ寒天はピカイチだった。寒天など滅多に口にしないし、食べてもうまいと思ったことなど一度もなかったのだが。

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