九重“夢”大吊橋はやはり怖かった

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 大分県九重町の鳴子川渓谷に架かる九重“夢”大吊橋を11年ぶりに渡ってきた。全長390㍍、高さ173㍍。2006年の完成当時、歩行者専用の吊橋としては長さ、高さとも日本一だった。現在では、長さは静岡県三島市に2015年完成した三島スカイウォーク(長さ400㍍、高さ73㍍)に抜かれたが、だからと言ってこの橋の怖さが薄れたわけではない。高所恐怖症のくせに好奇心から初めて大吊橋を渡ったのは2008年8月だったが、あまりの恐ろしさに足がすくみ、渡りきるまでに連れよりもはるかに時間が掛かった。性懲りもなく再びチャレンジし、高さ173㍍の空中を歩く恐怖を再び味わってきた。

 ただ、前回とは若干違ったことがある。初めて渡った時、首からカメラをぶら下げていたのだが、周囲の景色に目を向ける余裕などは全くなく、この時の写真は渡り終えた後に撮った記念写真ぐらいしかない。ところが、今回は平日で空いていたこともあり、途中で何度も立ち止まっては眼下の絶景を写真に収めてきたのだ。ここ最近、山に登っては断崖から平気で下を見下ろし、家族から「危ないからやめろ」と注意されることも度々だった。高所恐怖症がやわらいでいるのではないかと感じていたが、再度大吊橋を渡り、その意を強くした。

 そういえば、子供時代から高所恐怖症ではあったが、小学校低学年頃まではむしろ、「バカと煙が高いところに上りたがるのは本当だな」と親にののしられて育ってきた。それがなぜ高所恐怖症となり、今頃になってなぜ治りつつあるのか、自分でもさっぱりわからないが、私の高所恐怖症とは、要するにその程度のものだったのだろう。

 九重“夢”大吊橋は、観光振興のため町が20億円の予算を投じて建設したものだ。20億円のうち、9割近い17億3500万円が過疎債などの借金で、町は通行料(大人500円、小学生200円)収入により12年がかりで返済する計画だった。ところが、開業1年目に目標25万人の10倍近い230万人が押し寄せるなど大変な人気を呼び、借金はわずか2年で完済。それだけでなく、未就学児に限っていた町の医療費補助を小中学生まで拡大できたというのは有名な話だ。2017年3月には開業以来の通行者が1000万人を突破した。

 この橋の成功は、過疎や財政難に苦しむ全国自治体の注目の的となり、観光客に交じって多数の視察団も詰め掛けたという。しかし、彼らの中には刺激を受けながらも「多額の税金を使って観光施設を造っても、もし誰も来なかったら」と不安を口にする人もいたらしい。橋を渡るスリルに加え、紅葉の名所・九酔渓をはじめとする周囲の景観、さらには九州を代表する観光地・阿蘇くじゅうの程近くに位置することなど、橋が大成功を収めた理由はいくつか思い浮かぶが、道路事情の悪さを考えれば、「知る人ぞ知る観光名所」で終わった可能性もゼロではなかった気がする。

 その道路だが、くじゅう方面に向かう際は、普段は九州道九重ICから九酔渓の険しい山道を経由するか、湯布院ICから少し逆戻りしてやまなみハイウェイを利用することが多いのだが、この日は四季彩ロード(広域農道)という九酔渓の迂回路を初めて通ってみた。結構快適な道だった。
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情報番組が縁で新潟から移築された布施家住宅

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 熊本県和水町の国史跡・江田船山古墳に隣接して肥後民家村という観光・文化施設があり、この中に「旧布施家住宅」という築300年の重厚な民家が建っている。説明パネルによると、元々は新潟県上越市にあったもので、屋敷の主だった布施家は上杉謙信に仕えていた名門。1976年9月、当時の当主だった布施豊氏から和水町の前身の菊水町に寄贈されたという。しかし、いったいどんな事情で新潟から熊本に移築されることになったのだろうか。パネルには記されていなかったため調べたところ、テレビの情報番組がきっかけだった。

 情報番組とは、現在もテレビ朝日系列で放送されている『モーニングショー』。当時のタイトルは司会者の名前を冠した『奈良和モーニングショー』で、この番組に1976年8月、布施氏が出演し、建物を希望者に無償で譲ると申し出たという。詳しい事情まではわからなかったが、恐らく建て替えを決めたものの、先祖代々受け継いできた屋敷を何らかの形で残したいと思ったのだろう。

 テレビ朝日系列の熊本朝日放送(KAB)開局は1989年のことだが、当時は熊本放送(RKK)でこの番組は放送されており、布施氏の申し出にいち早く反応したのが、ちょうど民家村整備を進めていた菊水町だった。譲渡希望は全国から200件も寄せられたというが、町が主体となっての民家村構想が布施氏の信頼を得たのか、遠く離れた九州・熊本への移築が決まった。ただし、無償譲渡とは言っても、解体、輸送、復元などの経費は菊水町側の負担で、その額は3000万円に上ったとも言われる。移築は77年夏に完了しているが、小さな町にとっては、民家村の命運を懸けた大事業だったのだろう。

 この当時、布施家が上杉謙信の家臣だったという歴史がクローズアップされたため、「新潟から武家屋敷」と報道されたようだが、布施家は上杉の東北転封後も地元・上越に残り、江戸時代は豪農として栄えた。屋敷が建てられたのもこの時代で、現在では正しく農家として紹介されている。二階建て、広さは約360平方㍍、中には14もの部屋がある。外観は分厚い茅葺屋根が特徴的だ。以前は能面作りの工房などとして活用されていたが、現在は空き家状態で、内部も自由に見学できる。

 民家村には、国指定重文の「旧境家住宅」など計6棟の古民家があり、歴史民俗資料館なども併設されている。旧布施家住宅も重文級の価値があるのかもしれないが、本来は地元になかった建物であるためか、町指定文化財にとどまっている。
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格納庫だったワインセラーで竹灯籠を見た

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 八女市立花町の谷川梅園で開かれていた「竹あかり幻想の世界」に最終日の3日行き、トンネル内を竹灯籠で彩るという珍しい催しを楽しんできた。普段はワインの貯蔵庫として活用されている長さ112㍍(枝道を含めた総延長は約180㍍)、幅4㍍、高さ4㍍のトンネル内は精緻な模様を施した3,000本もの竹灯籠で彩られ、さらにロウソクの熱で温められて非常に快適な空間となっていた。

 ワイン貯蔵庫のトンネルは丘陵地帯の山肌に掘られている。現地のスタッフに尋ねたところ、元々は戦時中に格納庫として掘られたトンネルで、年間を通して温度がほぼ一定の環境がワインを保管するのに最適だったことから、1995年から地元のワイナリーが貯蔵庫として活用しているという。しかし、このトンネルには戦時中、いったい何が保管されていたのだろうか。格納庫という言葉からは飛行機が思い浮かぶが、一帯の地形やトンネル幅が4㍍しかないことを考えれば、その可能性はないだろうと思う。帰宅後にネット検索してみたが、現地で聞いた以上の情報は全くなく、いつ、誰が掘削したのかさえわからなかった。

 後日、市町村合併で新・八女市となる前に編まれた『立花町史』(1996)を図書館でめくってみた。観光地の一つとしてワイン貯蔵庫が紹介されていたが、既知の情報に加えてトンネルの規模が若干詳しく記されていただけで、知りたい情報は何も書かれていなかった。ただし、「なお、壁には『トンネルの歴史』というパネルが掲げてあります」という一文が…。なんとトンネルの来歴はトンネル内に掲示されていたわけだ。竹灯籠はじっくり見たものの、パネルには全く気付かなかった。気付かなかった私が悪いが、せっかく地元の歴史を紹介する町史なのだから、パネルに書かれた情報程度は盛り込んでくれても良かったと思うが。

 仕方がないので、旧・八女市の市史なども当たってみた。こちらにも欲しい情報はなかったが、現在では結構有名になった「幻の八女遷都」について詳しく紹介されていたので、興味深く読ませてもらった。

 八女遷都とは、太平洋戦争中の1943年10月、内閣直属の機関・企画院によってまとめられた『中央計画素案』に記されていた極秘プランだ。大東亜共栄圏建設の大事業を完遂するためには首都移転が必要だとして、候補地として挙げられた3か所の中に当時の福岡県八女郡福島町(現・八女市)が含まれていた。残る2か所は、岡山県邑久郡行幸村(現・瀬戸内市)と京城(現・ソウル)。戦後、立花町在住の男性が素案を掘り起こし、この男性に取材した西日本新聞が1977年10月6日の夕刊で「大戦中、大まじめに検討された八女遷都論」との見出しで大々的に報じた。地元住民は郷土の知られざる歴史にびっくり仰天したという。まさに「秘史」と呼ぶべきだろう。

 トンネルの歴史は秘史でも何でもないはずだが、私の手際が悪いこともあってこのブログで紹介することはできなかった。来春も谷川梅園に行き、今度こそパネルを確認してこようと思う。なお、書き忘れていたが、「竹あかり幻想の世界」は単独のイベントではなく、梅園に植えられた3万本もの梅が見頃を迎えるのに合わせて開かれる観梅会の催しの一つだ。今年は例年になく梅の開花が早かったそうで、残念ながら3日は完全に見頃を過ぎていた。
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唐人町商店街に昔、飾り山があった

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 書くネタが何もないので、3回連続で博多祇園山笠の飾り山についての話を。最近、山笠関連の資料を読んでいて、福岡市中央区の唐人町商店街に1965年(昭和40)まで飾り山があったことを初めて知った。同区地行浜の福岡ドーム(現・ヤフオクドーム)に2000年、初めて飾り山が建てられるまでは、山笠の歴史上で最も西にあった飾り山だったという。福岡部の数少ない飾り山の一つとして親しまれてきたが、66年、商店街のアーケード工事のため建設を見合わせ、結局復活を果たせなかった。

 唐人町に初めて飾り山が建てられたのは1950年のことで、途中休止の年(1961年)を挟みながらも、16年間山笠に参加していたことになる。1950年代初めは戦後復興が進み、山笠の経済的基盤となっていた市内各地の商店街も繁栄、続々と山笠に参入していた時代で、『博多山笠振興会五十年史』(2004)に、1952年には「この年の舁き山笠は14本、飾り山笠は13本という空前の規模となった」と書かれていた。この頃、唐人町商店街は飾り山だけでなく、子供山笠も運営していたという。

 唐人町の飾り山が廃止された理由については、『五十年史』には「祭り一般について言えることだが、経費がかかるため、いったん中断すると復活が難しいという問題を浮き彫りにした」とあり、やはり資金問題が復活のネックとなったようだ。高さ10㍍を超える豪華な飾り山建設には多額の経費がかかると言われ、1990年代初めの話だが、建設費は1000万円前後と漏れ聞いたことがある。アーケード建設という大事業を終えた後でもあり、毎年多額の経費を負担するのが困難になったのだろう。ただし、山笠振興会の役員名簿には、1970年頃までは唐人町関係者の名前があり、飾り山建設を休止して以降も数年間は、復活を模索していたことがうかがえる。

 1965年、唐人町に最後に建てられた飾り山の標題は、表が「柳生武芸帳一殺一生」、見送りが「琴姫七変化」。『柳生武芸帳』は五味康祐の小説で、1960年代はこの作品が原作の映画やテレビドラマが人気を博していたようだ。「琴姫七変化」も当時の人気テレビドラマで、主演は松山容子。ボンカレーのCMで有名だった、あの女優さんだ。写真は現在の唐人町商店街。小さな商店街だが、地元では根強い人気があり、黒田藩御用達の老舗も今なお健在だ。一部建物の建て替えが予定されており、複数の店舗が現在、閉店セールを行っている。
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ヤフオクドームの飾り山小史

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 博多祇園山笠が開幕し、中央区のヤフオクドーム前にも恒例の飾り山が登場している。ただ、残念なことに、今年はソフトバンクホークス戦の観戦客が飾り山を目にする機会は少ない。山笠期間中、ヤフオクドームでの試合は1日に行われたロッテ戦だけだったのだ。しかも、その試合でホークスは良いところなく敗れ、山笠を勢いづけにとはいかなかった。遠征とオールスターゲームを終え、ホークスがヤフオクドームに戻ってくるのは、山笠閉幕後16日の西武戦になる。

 今年の標題は「躍進玄海鷹」で、山笠人形のモデルは、千賀―甲斐の育成出身バッテリーだ。昨年はなぜか「投の若鷹」「打の若鷹」と選手の具体名がぼかされたが、今年は元通り、旬の選手をモデルに人形が作られた。似ているか似ていないかは見る人次第だが、やはり伝統の祭りに自らの人形が登場するというのは、選手にとっても励みになるのではないかと思う。

 ヤフオクドーム前の飾り山が初めて作られたのは、ホークスが福岡で初優勝した翌年の2000年で、この年以来、王、秋山、工藤の歴代監督、その時々の中心選手に加え、球団マスコットのハリーホーク、ソフトバンク携帯のCMで人気のお父さん犬などが球場前を彩ってきた。このブログでは2010年以降、ヤフオクドームの飾り山を紹介しているが、主役に選ばれた選手を振り返ると、10年が川崎、11年が攝津、細川、12年が森福、本多、13年が大隣、内川、14年が松田、長谷川、15年が柳田、16年が武田、今宮。すでにホークスを去った選手も4人いる。

 意外なことだが、飾り山の「表」は、初めの頃は伝統的な時代物で、ホークスは見送り(裏側のこと)だった。2000年の標題は、表が「決戦巌流島」、見送りが「めざせV2」。「めざせ」が平仮名で表記されているところを見ると、この時のホークスの飾り山は、アニメや特撮物などと同様、“子供向け”の扱いだったのだろう。01年もホークスは見送りで、02年に初めて表に昇格するが、この年はホークス選手を戦国武士に見立てた「決戦誉鷹城」という異色作だった。03年は再び見送りに戻り、表が定位置となったのは04年以降のことだ。

 時代物の題材は、球場がやはり戦いの舞台であるためか、歴史上でも有名な戦いが選ばれることが多い。中でも人気なのは、九州最大の合戦と言われる筑後川の戦い(大保原の戦い)だ。05年「勇姿凜々剣洗川」、14年「合戦大保原」、17年「雄姿凜々剣洗川」と、19年間で3度も登場しており、05年と17年はタイトルまでほぼ同一だ。南北朝時代、南朝方の懐良親王、菊池武光、北朝方の少弐頼尚らが両軍合わせて総勢10万の軍勢を率いて激突した戦いで、合戦後、菊池武光が血塗られた刀を川で洗い、これが今に残る大刀洗の地名の由来と言われる。続いて標題として多いのは、壇ノ浦の戦い、桶狭間の戦いの各2回で、ちなみに今年は「攻防千早城」(写真2枚目)だ。

 ヤフオクドーム前のホークスタウンモール跡地では現在、今秋のオープンを目指して新商業施設・マークイズ福岡ももちの建設が進んでいる。来年以降は、ヤフオクドームで試合やコンサートなどのイベントがない時でも、一帯は多くの人でにぎわっていることだろう。逆に言えば、現在は試合などがなければ、人が行き交う場所ではない。冒頭書いた話とだぶるが、福岡を代表する夏祭りの開催中であり、ドーム前にはせっかく豪華な飾り山も建てられているのだから、多くの人の目に触れるよう、試合日程にはもう少し配慮があって良かった気がする。
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新天町の飾り山、今年もサザエさん

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 博多祇園山笠が7月1日開幕するのを前に、福岡市内各所では飾り山の準備が進んでいる。29日、中央区天神の新天町商店街を通ったが、飾り付けはほぼ終わり、関係者が最後の調整中だった。ここの飾り山の題材は、今年も見送りが『サザエさん』で、実に7年連続。商店街関係者に直接聞いたわけではないが、福岡に縁の深い作品であり、TVアニメは国民的番組として幅広い年代に親しまれていることから題材に選んでいるらしい。

 『サザエさん』原作者の長谷川町子さんは戦時中の一時期、現在の早良区西新に疎開し、百道海岸(埋め立てで現在はない)を散歩していてサザエさんら磯野家のアイデアを思い付いたと言われている。これにちなみ、磯野家の“生まれ故郷”に近い西新商店街は「サザエさん商店街通り」を名乗っているが、福岡市民の多くがサザエさんと聞いてイメージする商店街は、ひょっとしたら毎年山笠が登場する新天町の方かもしれない。

 ところで、冒頭に「福岡市内各所では」と書いたが、博多祇園山笠は本来、福岡市内でも那珂川東側の博多部だけの祭りで、西側の福岡部に飾り山が登場したのは新天町が初めてだった。終戦からまだ間もない1949年(昭和24)のことで、最初は祭りを取り仕切る山笠振興会側から「山笠700年の伝統を破る」と猛反対を受けたという。だが、新天町商店街の店主の多くは、もともと博多の商家の生まれで、山笠に親しんで育ってきた人間ばかり。粘り強い交渉の末、最終的には振興会側も折れ、「長い山笠の歴史の上でもエポック」となったという。

 新天町は1954年(昭和29)にも、斬新な飾り山を作り、再度物議をかもしている。見送りの題材に、ディズニーのアニメ映画『シンデレラ』を選んだのだ。山笠の表題は今も昔も時代物が主流。これまた「伝統に反する」と猛反発を受けたが、ふたを開けてみれば、子供たちに大人気。これ以降、見送りの題材に限れば、特撮やアニメを選ぶ流が多くなり、新天町では恒例の『サザエさん』につながっている。

 今年はこのほか、アンパンマン(渡辺通一丁目)、ゴジラ(キャナルシティ博多)などが子供たちの人気を集めそうで、さらにはローカルのお笑い旅番組を題材にした『ゴリパラ見聞録』(博多駅商店連合会)というのもある。個人的には嫌いな番組ではないが、よくわからない選択だ。(参考文献は『福岡天神 都心界五十年の歩み』1999など)
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甘木公園の桜が見事だった

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 朝倉市の国道386号線バイパスを走っていて、沿道にある甘木公園の桜が満開になっているに気付き、せっかくだからと寄り道をしてきた。中央に池を配した広さ31.7㌶の公園で、園内にはソメイヨシノを中心に約4,000本もの桜が植えられている。公園自体には過去にも来たことがあるが、桜の季節は初めてで、4,000本が一斉に満開になっている光景は壮観だった。また、散策路はゴムチップ舗装されており、歩き心地は非常に快適だった。昼食を食べすぎ、気分が悪いぐらいだったので、いい腹ごなしになった。

 昼食を取ったのは、同じ朝倉市内にあるうどん店。素うどん一杯が600円と一見高そうだが、その分、トッピングや総菜(野菜料理)が食べ放題という実は非常にリーズナブルな店だ。ランチタイムぎりぎりの時間に入ったのだが、それでも揚げたてのサツマイモやタマネギなどの天ぷらが次々に並び、ついつい調子に乗って食べすぎてしまった。この店は地元の和菓子店の経営で、和菓子店の本店に併設されている。

 店があるのは、昨年7月の九州北部豪雨で大きな被害が出た地区の一つで、和菓子店&うどん店、さらには隣接してあった和菓子店の工場も壊滅的な被害を受け、一時休業を強いられていた。豪雨直後に一帯を歩き、一変した風景に言葉を失い、復興は容易ではないだろうと想像したが、店舗はいち早く昨年10月には再開した。工場の復旧はまだだが、やがては元の姿に戻ることだろう。

 食事の後は2箇所の農産物直売所に立ち寄り、野菜等を買い込んできた。うどん店横の直売所前には広い芝生広場があり、家族連れでにぎわっていたものだが、豪雨後はこの広場が土砂の集積場所に変わり、今も膨大な土砂で埋まったままだ。その土砂から雑草が芽吹き、緑に覆われようとしていた。
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慈恩の滝の裏側

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 大分県玖珠町にある慈恩の滝に4日、ほぼ20年ぶりに行き、滝の裏側から見た景色を写真に収めてきた。本来ならば、涼を求めて滝に行く季節ではないが、この日の最高気温は福岡でも大分でも20度超。由布院からの帰路、滝の横にある道の駅で休憩したついでに、陽気に誘われ滝を巡る散策路を歩いてきた。この散策路が滝の裏側にも通じている。こういった滝を「裏見の滝」と呼ぶらしい。写し方が下手なためにわからないが、本当は2段式の滝で、写真の滝(落差10㍍)の上にもう一つ滝(同20㍍)がある。

 慈恩の滝は、万年山(はねやま、1,140㍍)を水源とする山浦川にあり、古い資料には「慈恩寺瀑」または「寺下の瀑」とも書かれている。滝の上には杉河内集落があるが、ここにかつて慈恩寺という寺があったと思われ、これが滝の名前の由来となったようだ。『玖珠郡史』(1965)には「江戸時代に滝の近くに一宇の禅寺があり、その寺号が慈恩寺と言っていたので、慈恩の滝と言われるようになった」とあったが、これ以外に慈恩寺について書かれた資料を見つけることはできなかった。詳細は不明だ。

 滝があるのは、久留米市と大分市とを結ぶ国道210号線沿い。くじゅう方面に遊びに行き、のんびり帰る時など頻繁にこの道を通っているのだが、今までは素通りするばかりだった。しかし、昨年7月、滝のすぐそばに道の駅「慈恩の滝くす」がオープンし、せっかくだからと立ち寄る気になった。道の駅は広さ4,500平方㍍で、駐車場は39台分。比較的小規模な道の駅で、物販施設も非常に小ぢんまりとしていたが、4日は好天に恵まれたこともあり、駐車場は満車状態だった。観光面の効果は決して小さくはないのだろう。

 この玖珠町、くじゅう連山を抱えるお隣の九重町に比べ、このブログで取り上げることは少なかったが、万年山やその名も伐株山(685㍍)といった頂上が真っ平らな山があったり、慈恩の滝以外にも数々の名瀑があったりと自然景観に恵まれた土地だ。SL9600形29612号機安住の地となった
豊後の森機関庫もこの町にある。
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紅葉の秋月

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 福岡県朝倉市の秋月に23日、紅葉見物に行ってきた。福岡藩の支藩、秋月5万石が治めていた静かな城下町で、秋月城址は県下有数の紅葉の名所だ。祝日とあり、城址一帯は大勢の行楽客で混雑し、秋月に通じる細い一本道は渋滞が続いていた。ただ、この日の秋月の賑わいぶりを伝えたNHKニュースによると、例年に比べ、人出は2割程減っているという。今年7月、同じ朝倉市の杷木地区を九州北部豪雨が襲い、秋月も被害を受けたと勘違いしている人がいるためらしい。

 肝心の紅葉だが、全体的にきれいに色付いてはいたが、紅葉前に枯れ始めている木々も目立った。10月下旬に台風21号が接近、沿岸部にある福岡市街地では海水混じりの強風により、葉が落ちたり、変色したりしたため、今年の紅葉は今一つだと言われている。山間部にある秋月も同様の状況なのだろうか。

 紅葉見物のついでに、秋月のたたずまいには似合わぬ“もめ事”の種となった二つの建物も見てきた。一つは城址の一角にある秋月中学校。風格ある木造校舎は歴史的景観と見事に調和している。朝倉市はこの中学校を秋月小学校の敷地に移転させたうえで、2020年4月に小中一貫校を開校する計画を打ち出し、地元住民からは反発が出ていた。上記のように九州北部豪雨が同市に甚大な被害をもたらし、市側は「復旧・復興を優先する」との理由で開校を21年度以降に先送りしたが、計画自体を撤回したわけではなく、この校舎の行く末はまだ、不透明だ。

 もう一つは秋月博物館。老朽化した秋月郷土館に代わり、10月21日に開館したばかりの真新しい施設で、1,000平方㍍弱のコンパクトな展示スペースには、島原の乱の戦いの様子が生々しく描かれた「島原陣図屏風」のほか、横山大観、ピカソ、シャガールら国内外の有名画家の作品が並んでいる。この博物館に絡むもめ事とは、市側が館長に予定していた人物に論文盗用問題が持ち上がり、市議会などから反対の声が上がったことだ。市側が人事案を取り下げ、落着したが、結局、誰が館長に就任したかの報道はなく、館の公式サイト等にも記載はない。館長は誰なのだろうか。

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 秋月中学校の校舎。校舎の居心地まではわからないが、これだけ見事な建物を無にするのは非常にもったいない気がする。

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 秋月博物館の館内。藩政時代の展示は充実しているが、それ以外の時代は質量とも物足りない。入館料は大人320円と良心的だが。

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 城址に通じる橋の上から見た紅葉。ここが一番きれいだった。

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 秋月の町の入口に架かる目鏡橋。野鳥川の増水の度に橋が落ちていたことから、8代藩主・長舒(ながのぶ)が長崎から石工を招いて1810年(文化7)に完成させた。長舒は、黒田以前に秋月を治めていた高鍋秋月家から養子に来た人物で、父は高鍋藩の中でも名君とされる秋月種茂、種茂の弟はあの上杉鷹山。二人の薫陶を受けた長舒は、この血筋に恥じない正真正銘の名君だったようで、藩校・稽古館の拡充強化や、養蚕、和紙・葛作りなどの産業育成を図り、秋月藩中興の祖とうたわれている。
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「天空の道」が廃止?

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 2016年の熊本地震で大規模な地割れや崩落が起き、今も通行止めが続いている熊本県阿蘇市の市道「狩尾幹線」の廃止が検討されている。地元紙の熊本日日新聞などが報じていた。復旧には100億円を超える巨費が必要と見込まれ、仮に国等の補助が得られても市の持ち出しは10億円以上に上る見通し。小さな自治体には到底負担できないという。

 市道「狩尾幹線」では地元の人以外には通用しないと思うが、「天空の道」「ラピュタロード」などと呼ばれている道だと言えば、ご存じの方も多いことだろう。阿蘇外輪山を走る通称ミルクロードから麓に通じる延長5.8㌔の峠道で、雲海が立ちこめる朝には道が空に浮かんでいるようにも見えることから、インターネットなどで話題を呼び、人気の観光地ともなった。残念ながら雲海の季節に行ったことはないが、好天の時でも十分絶景だった。

 ただ、この人気は地元にプラス面ばかりをもたらしたわけではない。写真でもわかるように、車の離合(すれ違い)が難しい狭い道。観光客の殺到は地元民にとっては迷惑な話で、早朝から響く車の騒音に悩まされていた近隣住民もおり、実は被災前から、市道廃止を訴える声が上がっていたという。また、近隣には観光客が金を落としてくれるような飲食店や土産品店などは少なく、人気の割には地元への経済効果は小さかったのではないかと想像される。熊本地震での被災は不幸な出来事だが、廃止には厄介払いという側面があるのかもしれない。

 せっかくの絶景が地震をきっかけに失われることになり、個人的には非常に残念な気がするが、100億円の費用負担が必要となると、よそ者が残せとは簡単に言えない。写真は2014年5月に撮影。
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