弁当代わりに遠足に持って行ったハンバーガー

DSCF4162.jpg

 数年前、40数年ぶりに福岡市博多区竹下の街を歩いた際、ここに暮らしていた時代に時折通っていたパン屋を探してみたことがある。街並みは全体としては意外なほど変わっていなかったのだが、残念ながらパン屋があった付近は様変わりし、懐かしの店に再会とはいかなかった。店名までは覚えていなかったので、この時に古い住宅地図をめくって確かめたのだが、地域名をストレートに冠した「竹下パン」だった。この街には現在も似た名前のパン工場があるが、関係があるのかはわからない。

 私が竹下で暮らしていたのは1969~70年頃のことで、住んでいたのは5階建てのアパート5棟が並ぶ雇用促進住宅だった。狭い道を挟んだ向かい側には小さなショッピングセンターがあり、名前は「アイ」としゃれていたが、実態は八百屋や肉屋、玩具屋、駄菓子屋などの個人商店が並んだマーケット。夕方になると、夕飯の買い物に来た主婦や小銭を握りしめた子供たちでにぎわっていた。ここの裏口を抜けると駅前通り(今はなんと「竹下通り」と呼ぶらしい)に通じる細い路地があり、通りに面した場所にあったのがパン屋だ。

 確か夫婦で経営していた庶民的な雰囲気の店で、パンや洋菓子などの商品はショーケースの中に並んでいた。あまり豊かでもない父子家庭の子供にとって、普段は縁遠い場所だったが、遠足の前日に買い物に行くことが時折あった。親に金を渡され、弁当代わりに昼に食べる調理パンを買いに行っていたのだ。

 朝から弁当を用意したくはないが、かといって菓子パンを持たせるのは気が引ける。出た結論が調理パンだったのだろう、と当時の親の気持ちを想像しているが、私の方はやはり複雑だった。みんなが手の込んだ弁当を開く時に、菓子パンだろうが調理パンだろうがパンをかじるのはあまり気持ちの良いものではない。しかし、矛盾する話だが、一方で楽しみな気持ちもあった。この調理パンが実にうまかったのだ。(コンビニや持ち帰り弁当店などは存在せず、スーパーでもおにぎりなどが市販されていなかった時代の話なので、念のため)

 どんな調理パンだったのかと言えば、簡単に説明できる。ハンバーガーだ。つまり小学生の一時期、ハンバーガーを持って遠足に行っていたわけで、表面的な事実だけを見れば、昭和時代としては結構モダンな話になる。レタスやトマトなどが入った彩り豊かな現在のハンバーガーとは違い、肉とタマネギを挟んでソースで味付けした非常にシンプルな品だったと記憶しているが、米国アニメで登場人物がうまそうに頬張っていた、あのハンバーガーを現実に口にできるのはうれしかった。ものすごく意外なことだったが、弁当を持たない私をうらやましげに見る級友さえいたほどだ。

 ハンバーガーを日本でも大衆的なものにした日本マクドナルドの第1号店開店は1971年で、九州で店があちこちに出来始めるのはさらに後年のことだ。だから、この思い出話を披露すると、多くの人が半信半疑といった表情を見せ、家族でさえ「本当にハンバーガーがまちのパン屋で売られていたの?」と懐疑的だ。しかし、後に移り住んだ現在の生活圏では、チェーン店進出以前から個人経営のハンバーガーショップが普通にあり、すでにハンバーガーは市民権を得ていた。ひょっとしたら、まちのパン屋のハンバーガーは「調理パン」の一種として記憶のがらくた箱の中にしまい込んでしまい、マクドナルドやロッテリアで初めてハンバーガーを食べたと自分で記憶を改ざんしてしまった人もいるのではないかと疑っている。
スポンサーサイト



[Edit]

子供の頃、チクロを飲んでいた

 ちょうど半世紀前のことだ。1969年、チクロという人工甘味料に発癌性があると疑われ、使用禁止を巡って大騒動になった。当時の私は小学校低学年で、本来だったらこういった社会問題を覚えているはずもないのだが、チクロは事情が違った。砂糖の安い代用品として駄菓子や粉末ジュースなどに使われていたため、チクロ追放は、私たち貧しい子供たちを直撃したのだ。

 何よりこの騒動が始まって以降、不愉快な目にしばしば遭うようになった。現在も類似商品が販売されているが、当時、棒状のポリエチレン袋に入ったジュースや粉末ジュースが1本(または1袋)5円から10円程度の安い値段で売られていた。自分の小遣いで買うことができる数少ない商品だったこともあり、好んで口にしていたが、騒動が起きて以降も飲んでいると、コカ・コーラやセブンアップなどを小遣いで買える裕福な連中から「チクロやら飲んどうぜ」と小ばかにされる羽目になったのだ。

 これらの商品に本当にチクロが使用されていたのか、実際のところは知らないのだが、チクロの使用が現実に禁止されて以降、こういった商品の一部は店頭から消えた記憶があるので、恐らく使われていたのだろう。健康に絡む問題なのだから仕方のないことだが、チクロの禁止で、私たちは安いおやつを奪われることになった。

 このチクロ、前世紀に消え去った代物だとばかり思っていたが、最近でも時折、輸入食品からチクロが検出され、回収命令が出されたなどのニュースを目にすることがある。ヨーロッパ諸国などチクロの使用を認めている国が少なくないことを、これらの報道を通じて初めて知った。それどころか、チクロに発癌性ありと真っ先に警鐘を鳴らしたのは米国だが、当の米国では比較的早い段階でこの疑いが否定されていたことも。ところが、米国は日本と同様、チクロの使用禁止を続けている。何となくモヤモヤしたものを感じたため、1969年当時の経緯をこの機会に調べてみた。チクロ禁止は、考えられないような異常なスピードで決まっていた。

 主な出来事を時系列でまとめると、1969年9月12日、米食品医薬品局(FDA)がラットを使った実験の結果、チクロに発癌性があると発表。この結果を受けて約1か月後の10月18日、米政府はチクロの全面禁止と回収を命じた。日本でもチクロ禁止を求める声が高まり、政府は11月11日には全面禁止に踏み切った。つまりFDAの実験結果発表から、わずか2か月で日本国内からのチクロ追放が決まったのだ。

 この当時は発癌性があると信じられていたのだから、国民の健康を守るためには当然だと言われるかもしれないが、今も昔も何事にも後手後手に回るのが得意で、消費者よりも業界を守ることで定評のある我らが日本政府である。実際にチクロが使われた製品の回収期限は70年10月まで延期し、国民の健康より業界優先かと猛烈な批判を浴びている。米国にチクロ産業を潰したい何らかの裏事情でもあり、日本は例によって右に倣えで従っただけではないかと邪推したくなる。

 日本政府のスピーディーなチクロ使用禁止決定に対し、報道機関からは当時、「英断」と評価する声もあったようだが、一方で、冷静な議論がなかったと批判する意見もあった。例えば、著名な国際政治学者だった高坂正堯氏はチクロ使用禁止を「衝動的な決定としか見えないし、人々のチクロ恐怖症はヒステリカルなものであったとしか思われない」と批判した上で、甘味料を砂糖にだけ頼ることは健康上100%良いとは言えないと警鐘を鳴らしている。同様の意見は現在、医療関係者の間にもある。日本は世界でも有数の糖尿病大国らしいが、仮にチクロの使用が禁止されていなかったら、状況に違いはあったのだろうか。
[Edit]

子供時代の自分を褒めてあげたい

IMG_9446.jpg

 正月休み、宮崎県内の道の駅を巡った帰りに、とある農村部の道を通った。この道沿いにはかつて、家族の祖父の家があり、家族は宮崎市に住んでいた子供時代、夏休みには両親に連れられ姉妹3人で遊びに行き、祖父宅で過ごすのを楽しみにしていた。ただ、移動は大変だったという。当時はマイカーがなかったため、最寄の駅で列車を降りた後は祖父宅まで歩いて行っていたが、これがずいぶん遠かった上に、道もでこぼこ。長い長い時間をかけて祖父宅がある集落にたどり着いた時は本当にうれしかった、と家族は懐かしがっていた。

 今回、三姉妹が歩いたルートを車でたどってみたわけだが、本当にこんな道を幼い子供が歩いていたのか、と驚いた。「ずいぶん」どころではない遠さだったのだ。車でも所要時間はたっぷり十数分。しかも現在では舗装されているとは言え、駅から集落までは民家はまったくなく、道の両側はほぼ山林という寂しい道だった。

 帰宅後にグーグルマップを使って距離を測ってみたところ、約8㌔。大人でも徒歩1時間半以上は十分かかる。幼い子供の足ならば、確かに「長い長い」道のりだったことだろう。三姉妹の間では、今でもこの頃の思い出話で盛り上がることがあるらしいが、幼児の頃から8㌔を歩き通していた末っ子の口癖は「子供時代の自分を褒めてあげたい」だという。

 早くに伴侶を失ったため、長く独り暮らしだった祖父宅はかやぶきの古い家で、夏は過ごしやすかったという。家の前には畑が広がり、三姉妹はこの周りを三輪車で走り回ったり、祖父が庭木を利用して手作りしてくれたブランコで遊んだり、近くを流れる小川で涼んだりしていた。この思い出が詰まった家も、祖父が亡くなって空き家になると、空き巣に狙われるようになり、治安悪化を嫌った地域の要望もあり、自治体に買い取られた。今では公共施設が建っている。家族は子供の頃、相当広い敷地だと思っていたが、実際は猫の額ほどだったという。

 ところで、空き巣は何を盗んでいったのか? 裕福な暮らしをしていたわけではないので、いわゆる金目のものなど何もなかったが、囲炉裏端にあった自在鉤や鉄瓶、金属製の取っ手が付いた古ぼけたタンス、大きな壷など、家具・調度類がごっそり消えていたという。古民家やレトロ調の家具などに人気が出始めた頃の出来事だったらしい。テレビで鑑定番組を見るたび、家族は「盗まれた自在鉤や鉄瓶は、きっと今だったら高値で売れたのに」と悔しがっている。
[Edit]

芦屋町の海岸で撮影された『トラ・トラ・トラ!』

0828001.jpg

 調べ物でめくっていた『芦屋町誌』の年表に、目を引く記述があった。1969年の出来事に<映画「トラ・トラ・トラ」ロケ芦屋浜で>とあったのだ。町誌にはこれ以外に詳しいことは書かれていなかったが、真珠湾攻撃を題材にした1970年公開の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』の撮影が同町で行われたということだろう。調べてみると、単なるロケではなく、同町の遠賀川河口に、連合艦隊の旗艦だった戦艦「長門」、空母「赤城」の実物大セットを作って撮影したという非常にスケールの大きな話だった。

 このセットが作られたのは、日本側の撮影を担当していた黒澤明監督(途中で降板)が舞台装置を忠実に再現することを求めたためで、1968年秋から約2億円の費用をかけて製作されたという。「長門」は高さ50㍍、全長224㍍、「赤城」は艦の前部を再現しただけだが、それでも長さ約100㍍。木製で、これに色を塗ったものだったが、近隣の丘陵からこの2隻を眺めると、突如として軍港が出現したようなリアルさだったらしい。セットの巨大さは近隣住民の度肝を抜き、ロケが休みの日には一般公開されたが、大変な人気だったという。

 この映画は米国・20世紀フォックスの作品で、制作費は2500万ドル。当時の為替レートは1ドル=360円の固定相場制の時代だから、日本円に換算すると90億円になる。セット製作費の2億円でさえ「日本映画だったら、2、3本は撮れるのに」と国内の映画関係者から羨ましがられたというから、途方もない巨費を投じた映画だった。

 公開当時、小学生だった私も戦争映画好きの親族に連れられ、見に行ったが、迫力に圧倒された記憶がある。この時代は、『バルジ大作戦』『空軍大戦略』『ネレトバの戦い』『風雪の太陽』といった戦争映画の大作が次々に公開されていたが、旧日本軍がアメリカ映画でお決まりの悪役ではなく、一方の主役として描かれていた『トラ・トラ・トラ!』の面白さは格別だった。ただ、私も親族も映画の舞台裏にまでは関心がなかったため、この映画の撮影が一部福岡県内で行われ、しかも巨大セットが作られていたことなど全く知らなかった。半世紀前のことを悔やんでも仕方がないが、この巨大セットは見たかった。(参考文献は『黒澤明VSハリウッド』田草川弘、など。写真はイメージ)
[Edit]

わがままになって福岡から帰ったパンダ

 上野動物園で誕生したパンダの赤ちゃん、シャンシャン(香香)が大人気だが、福岡市動物園にも以前、中国から貸し出されたパンダの中にシャンシャンがいた。もっとも、こちらはオスで、漢字では珊珊と書いた。福岡に来た時はすでに25歳で、相方だったメスのパオリン(宝玲)も17歳と、結構な高齢カップルだった。パンダ来日はちょうど私が学生時代のことで、せっかくパンダが福岡に来たのだからと、同級生と男ばかり十数人で見に行ったが、可愛いと言うよりも「妙に堂々としているな」というのが正直な感想だった。

 シャンシャン、パオリンは福岡市と中国・広州市との友好都市締結1周年を記念して貸し出され、1980年4月1日から5月31日までの2か月間、特別公開された。期間中、福岡市動物園には現在の年間入園者に匹敵する約87万人が詰めかけるなど大変な人気を呼んだのだが、先日、古い新聞記事で、この2頭についての面白い後日談を読んだ。福岡から広州に帰ってきた2頭はわがままになっていたというのだ。

 新聞記事とは、
「続・樋井川河口にあったものは」で紹介したフクニチ新聞の連載記事『町名物語ルーツわが町』の「南公園、小笹、平尾」編で、これによると、広州市動物園に戻ったシャンシャン、パオリンの2頭は行儀が悪くなり、言うことを聞かなくなっていたという。原因は、福岡で厚遇され、甘やかされていたため。帰国前日の6月1日、広州市の飼育班が檻を用意するなど帰国準備を始めると、これに気付いたパオリンは食べていた竹を放り出して運動場を狂ったように走り始め、その姿は「帰りたくない」と駄々をこねているようだったとも記されていた。

 非常に面白いエピソードと思ったが、念のために公開当時の新聞記事等も当たってみたところ、シャンシャン、パオリンは福岡滞在中、決して甘やかされていなかったという記事も見つかった。前述のように、広州市動物園の飼育班が2頭と一緒に来日しており、彼らは午前9時を過ぎると、2頭のお尻を青竹でたたいて運動場に追い出し、汚れるとせっけん水をかけてブラシでごしごし洗っていた。貴重な動物だから、ガラス細工を扱うように飼育していると思っていた福岡市動物園の関係者は、あまりの手荒さに度肝を抜かれた程だったという。

 もっとも、この2頭のためにパンダ舎(寝室各20平方㍍と運動場が150平方㍍)を新設したり、広州産によく似た笹を毎日沖縄から空輸したりと、至れり尽くせりの待遇だったのも事実で、広州流のスパルタ飼育は同じながらも、どこかで居心地の良さを感じていたのかもしれない。また、2頭とともに福岡市動物園に派遣されていた飼育員が昨年6月、広州紙の取材を受け福岡での思い出を語っているが、インターネット上にある日本語版の記事には「広州は暑い。パンダは暑がりで、福岡のほうが涼しいから、パンダはそこがとても気に入っていた」とあった。わがままになって帰ったかは別にして、2頭が福岡を気に入ったのは、やはり事実のようだ。

 なお、パンダ貸し出しはもちろん無償というわけではなく、福岡市はお返しとして広州市にジェットコースターを贈ったという。この費用を賄うため、パンダ公開期間中の入園料は100円増しだった。
[Edit]

電気柵の恐怖

IMG_8012.jpg

 先日、大野城市の「御笠の森」に行ったついでに、同市の仲畑地区を歩いてきた。私がこの街に住んでいた1970年代は、仲島、畑詰という二つの地区に分かれ、まだ農村の面影を色濃く残していた。田畑だけでなく、電気柵で囲われた牛の放牧地さえあり、バカな小学生だった私は不用意に電気柵に触れ、吹っ飛んだこともある。

 放牧地があったのは、友人宅から別の友人宅に通じる細い道(通学路でもある)沿いで、確か数頭の牛が放し飼いされていた。道を挟んだ反対側には畑が広がっていた。はっきり記憶していないが、電気柵には恐らく「危険」「触るな」などの注意書きはあったと思う。あったからこそ本当に電気が流れているのか、確かめようとしたのだろう。「不用意に」と書いたが、本当は確信犯で、ある日、友人と二人、ポケットにあった10円玉でそっと電気柵に触れたのだ。

 この時まで、電気とはビリビリするものだと思っていた。だが、違った。10円玉が柵に触れた途端、いきなり右肩にドンという衝撃が来たのだ。気付いた時には道を挟んだ畑の中で、友人と二人尻餅をついていた。本当はあまりの衝撃に思わず自分で飛び離れたのだが、「畑まで吹っ飛んだ」というのが実感だった。命拾いしたとも思った。

 この後しばらく、自分の愚かな行為を棚に上げて、「子供が通る道に電気柵を設置するなんてとんでもない。感電死したら、どうするのだ」と勝手に怒っていた。しかし、私と友人が感電死しなかったこと自体が、ちゃんとした電気柵だったことを証明するものだと後年知った。電気柵は電圧こそ高いものの、非常に短い時間しか電気は流れない仕組みのため、危険はないらしい。静岡県で2015年7月、シカの侵入防止用の電気柵が原因で2人が感電死する事故が起きたが、これは安全措置が講じられていない自作の電気柵だったために起きた悲劇だという。

 この感電体験談、長じて飲み会の席で披露すると、結構受けた。電気柵に触るバカな行為が面白がられたわけではなく、「通学路沿いに牛の放牧地があるなど、どれだけ田舎に住んでいたんだ」と。仲島、畑詰地区は、今では仲畑1~4丁目に再編され、住宅や事業所などが密集する地域に変貌した。人口急増で小学校も新設され、校区が変わったと聞く。放牧地はおろか、田畑さえ消えた地区内を歩き回り、見覚えがあったのは古びた神社ぐらいだった。ただ、小学生の頃には気にもかけなかった神社の名前を確認すると、井相田宝満宮…。井相田とは隣の福岡市博多区の地名だ。小学生時代、大野城市から飛び出し、博多区でも遊び回っていたことを初めて知った。
[Edit]

高千穂製紙

DSCF5424.jpg

 現在の福岡県古賀市に1970年(昭和45)まで、高千穂製紙の本社・工場があった。跡地は現在、日吉台という住宅団地になっており、こんな場所になぜ製紙工場があったのか、今では不思議なぐらいだ。『古賀町誌』(1985)には「大根川下流の豊富な工業用水により、年商十二―十三億円の地場中堅企業であった」などと書かれているが、その大根川(写真)にしても、現在ではそれほど水量豊かな川には全く見えない。九州自動車道が通る現在はともかく、昭和時代は特に交通至便な場所だったわけでもなく、考えれば、考える程不思議な立地だが、町誌には失敗した古賀国益マオラン工場を買い取り、1937年6月24日に開設されたとあった。

 このマオランとは何か。聞いたことのない代物だったが、正体はニュージーランド原産の繊維作物で、昭和初期、福岡県を中心に、農家の副業としてマオラン栽培が爆発的ブームとなっていたことがわかった。しかし、これはひと儲けを企んだ者たちの策謀だったらしく、1934年2月10日の時事新報記事(神戸大学附属図書館の新聞記事文庫で閲覧)によると、国が農家に対し、マオラン繊維の商品価値は現在のところゼロに等しい、と警告する事態ともなっていた。

 古賀でもマオラン栽培が広がり、繊維工場(国益マオラン工場)が造られたが、「三、四年で失敗」(町誌)。その跡地に建てられたのが高千穂製紙というわけだが、この高千穂製紙も当初はマオランを原料にパルプ製造を目論んでいたことが、同社創業翌年の1938年に出版された『本邦パルプ会社紹介』に記録されている。

 「大川系の特殊繊維株式会社は九州地方でマオラン栽培をやっている。高千穂製紙(やはり大川系)は此の特殊繊維のマオランから人絹用パルプを製造せんとして創立されたものであるが、現下のパルプ情勢に鑑み、マオランでは早急に大量的生産が難しいので、経験のある木材パルプに転向した」

 同社も結局はマオラン利用に失敗し、オーソドックスに木材を原料にパルプ製造を行っていたわけだ。別資料によると、高千穂製紙がパルプの原料としていたのは、九州産のアカマツだったという。

 改めて高千穂製紙の沿革に戻ると、初代社長は大川義雄で、資本金は200万円。サルファイトパルプ洋紙等を製造していたが、赤字経営から脱却できず、1970年10月、日本パルプ工業に吸収合併され、工場は閉鎖された。工場の生産設備は日本パルプの日南工場に移されたという。工場13万平方㍍、社宅1万平方㍍の跡地利用が大きな問題となったが、冒頭記したように、現在では工場時代の面影など全くない住宅地に変貌している。

 初代社長の大川義雄は、事業家としてのほかに、競走馬の生産者兼オーナーとしても有名な存在だったようで、次男には競馬評論家として活躍した大川慶次郎(1929~99)がいる。父親は、一代で財閥を築き上げ、「日本の製紙王」とも呼ばれた大川平三郎(1860~1936)。大川義雄は1956年9月12日、56歳で死去しているが、この時の訃報によると、自宅は東京の府中市。高千穂製紙社長とは言っても恐らく古賀に住んだことはなく、ずっと東京競馬場のある府中暮らしだったのだろう。

 なぜ、唐突に高千穂製紙などという、ずいぶん昔に消え去った企業を取り上げたのかと言えば、私の親族がこの会社に勤めていたことがあり、最近になって急に思い出したのだ。勤めていたと言っても、古賀の工場勤務だったのではなく、九州山地でパルプの原料の木を伐り出す仕事をしていた。だから正社員だったのではなく、本当は下請けの従業員だったのかもしれないが、私の子供時代に高千穂製紙横を車で通った際、彼が「昔、ここに勤めていたんだ」と言った時は何となく誇らしげだった。工場はすでに廃墟じみていたが、大きな煙突のある黒ずんだ建物は強く印象に残っている。(加筆修正しました)
[Edit]

昭和の成人式

 タイミングを逸してしまったが、成人式の思い出話を。現在、福岡市では「成人の日」の式典は1会場(今年は博多区のマリンメッセ)だけで行われているが、私の時代は区単位で開催されていた。各区でどんな催しが行われるかを報じた当時の新聞記事を見つけたので、以下に紹介した。役所お仕着せではなく、新成人をまじえた実行委員会でプランを練ったらしいが、その割には(あるいはそのためか)どこも講演とコンサートばかりで、似たり寄ったりの内容だ。一部は講師までかぶっている。ただ、大規模ながらも非常に簡素な現在の式典と比較すれば、金はずいぶん掛かっていたと思われる。近年、“荒れた成人式”ばかりがクローズアップされ、式典不要論も勢いを増しているが、昭和の頃はまだ、若者が大事にされていた印象だ。

 ▽東区 テレビ朝日キャスター筑紫哲也さんの講演とフォークバンドのコンサート。成人の日に先立ち九州交響楽団のコンサートも。

 ▽博多区 式典前日の夜に43㌔を歩くナイトハイク。当日は斎藤文男・九大教授の講演とロックバンドコンサート。会場には体力測定やスピードガンコーナーも設置。

 ▽中央区 講演は西日本新聞の益田憲吉・解説委員長。他にフォークバンドのコンサートとチャップリンの『黄金狂時代』上映。

 ▽南区 福岡高校出身で、『高校大パニック』『狂い咲きサンダーロード』などで知られる映画監督、石井聡互さんの講演とロックバンド、リバーサイドのコンサート。

 ▽西区(現在の早良・西・城南区) 新成人の数が6,000人近いため、午前、午後の2回に分けて式典を開催。午前の部の講演はここも益田憲吉さん。午後はRKBの三善英毅キャスター。ここだけコンサートはなし。新成人には誕生日の新聞を配布、映画『アドベンチャーファミリー』(1977年の米映画)も上映。

 私が出席したのは南区の式典だが、高校卒業後に転居していたため、周りに友人・知人はゼロで、面白くもなんともなかった。現在は式典会場に自由に入れるらしいが、当時は事前に届いた招待状が必要で、嫌でも南区の会場に行かざるを得なかったのだ。だからと言うわけではないが、式典に関して辛うじて覚えていたのはバンドのライブがあったことぐらいで、このバンドがリバーサイドという名前だったことは記事を読むまで思い出せなかった。ちなみにアマチュアではなく、れっきとしたプロで、当時、大手時計メーカーのCMソングも歌っていた程だ。「♪君の時計になりたい 二人でチックタックしたいな」というフレーズが印象的な曲で、他にビートルズナンバー(『バック・イン・ザ・USSR』?)も披露してくれた記憶があるが、非常にあやふやなので、間違っているかもしれない。

 石井聡互さんの講演の方は、記事を読むまで石井さんの講演が行われていたこと自体を覚えていなかった。『高校大パニック』 の「数学できんが、なんで悪いとや!」という博多弁のセリフは高校時代に大流行し、当時の福岡では結構、注目されていた人物のはずだが、ここまで記憶ゼロというのは自分自身でも不思議だ。思い出話を書くつもりが、成人式の思い出などゼロに等しいことを自覚するという情けない結果になった。

 それにしてもこの時代はマスコミ関係者がもてはやされていたことに驚く。講師のうち、筑紫さん、益田さん、三善さんと3人を数え、斎藤・九大教授も地元マスコミのコメンテーターとして活躍された人なので、石井さん以外がマスコミ関係ということになる。ちなみに益田さんは“マスケン”の愛称と個性的な文章で福岡では知られていた人物。彼の書くコラム「マスケンのくるま座」というのが人気だった。
[Edit]

ここはバス通りだった

IMG_4644.jpg

IMG_4646.jpg


 福岡市早良区西新に城南線から明治通りに抜ける一方通行の路地がある。上の地図では城西1丁目の交差点と西新2丁目の交差点とを結ぶ通りで、道沿いにはラーメン屋などの飲食店が並んでいる。一方通行であるぐらいだから、かなり狭い道なのだが、先日ふと思い出した。「昔、ここはバス通りだった」と。

 「昔」というのは正確には、まだ西鉄の路面電車が城南線や明治通りを走っていた頃で、城南線というのは本来、路面電車の路線名だった。明治通りを走っていたのが貫線。両線が廃止されたのは1975年11月2日だが、これ以前の福岡の市内交通はバスではなく路面電車が中心で、例えば、中央区六本松方面から西新に向かう場合は電車に乗るのが普通だった。

 ところが、別府橋や鳥飼経由で六本松と西新を結ぶバスが1路線だけあり、このバスが先の路地を窮屈そうに通っていたのである。「6番 市内循環線」と呼ばれ、博多駅を起点にやや特殊なルートを通って市内を一周する路線だった。この頃、西新に用がある時は主に自転車で行っていたが、時折、公共交通機関を利用する時はなぜか、この「6番」を使っていた。誰かに「6番が意外に便利だぞ」とあまり正しくもない情報を教えられ、それを真に受けてしまったのだ。

 狭い道を通る分、通常より一回り小型のバスが「6番」には使われていたが、それでも城南線から右折して例の路地に入る際は、あの西鉄の運転手でもかなり慎重に運転していた記憶がある。なぜ、こんな道をバスが通っていたのか、今となっては記憶が定かではないが、旧・プラリバ前の交差点付近には電停があり、ここではバスの右折が難しかったためだろうか。

 路面電車が廃止され、代替バスが城南線や明治通りに投入されると、「6番」もいつの間にか例の路地から消えた。西鉄バスの評判は以前から芳しいものではなかったが、“陸の王者”などと呼ばれるようになったのは猛烈な数の代替バスが我が物顔で市内を走り回るようになってからではないかと思う。傍若無人の運転ぶりに、車で営業に回っていた私の親族はよく「チンチン電車の方がましやったバイ」と嘆いていた。

 実は「6番」は現在も走っており、ルートも以前とあまり変わっていないのだが、市内循環線ではなく博多駅と福岡タワー南口とを結ぶ路線になっている。

 西新絡みの話をもう一つ。昨年7月いっぱいで閉店したプラリバの建物が今なお残っている。以前にも書いたが、地下鉄西新駅のコンコースと地上とを結ぶ新設エレベーターが未完成のため、この建物のエレベーターを使う以外にないからだ。新エレベーター設置のための土木工事完成予定は6月30日。このお陰で建物取り壊しが1年も遅れたことになる。こんなことならプラリバ閉店も先延ばしして欲しかった。

 プラリバ閉店以降、西新商店街の人出は2割程減ったと聞いた。それが原因かはわからないが、長年通っていたパン屋が先頃店を閉じ、ミスタードーナツもいつの間にかシャッターを下ろしていた。イオン西新店も5月で閉店する。どんどん街が寂れていく恐怖を感じる。「6番」があの路地を通っていた頃の西新は古びてはいたが、はるかに活気のある街だった。




IMG_4653.jpg

IMG_4654.jpg
[Edit]

教室ストーブの思い出


 最高気温が13日には20度を超えていた福岡市だが、寒の戻りで15日には一気に5度前後まで下がり、凍える一日となった。福岡市は現在、全市立小中学校へのエアコン設置を段階的に進めているところだが、これほど寒くても暖房使用は認めていないという。あくまでも夏場の熱中症対策のため設置したエアコンであり、少々寒いのは我慢しろということらしい。せっかく教室にエアコンがあるのだから、校長らの判断で臨機応変に使えば良いのに、と思うが。

 ここで良き大人ならば「暑さ寒さに耐えるのも教育の一環」とのたまうべきだろうが、残念ながら私は根性なしなので、苦難を人に強いることなどできない。また、私が入学した筑紫野市の小学校には当時、冬は教室の後ろにストーブが置かれていたので偉そうなことは言えないのである。転校先の福岡都市圏の他の小学校ではストーブなど見たこともなく、なぜ、あの学校にだけ暖房があったのか今となっては謎だが。隙間風が入るような老朽木造校舎だったためだろうか。

 このストーブで給食時間にちょっとやらかし、担任の太った女性に大目玉を食らったことがある。コッペパンを温めたらうまそうだと思い、二つに割ってストーブの上にのっけたのだ。給食は好き嫌いなく何でも美味しく食べていた人間で、だから逆に特に好物というものはなかったのだが、『タカマーガリン』(こんな商品が給食で出ていた)を塗ったコッペパンのトーストは絶品だった。すっかり気に入り翌日もパンを焼こうとしたところ、初日は何も言わなかった級友たちが騒ぎ出し、担任は「火事になったらどうするの!」と激怒。こうして私のトースト天国はたった一日で空しく終わった。

 この担任には給食時間にもう一度睨まれている。どんな料理だったかは忘れたが、パンに入れて食べ始めたところ、今度もまた「先生、駄田君が変な食べ方をしています」とご注進に及ぶ輩が現れた。担任に「そんなことして美味しいね」と詰問された私は、震えながらも「うまいです」と答え、侮蔑のまなざしを浴びた。極貧の父子家庭の子供はやはり下品だと思われたようだ。現在の給食ではあらかじめパンに挟む前提でメニューが考えられていることもあるようだが、昭和時代、しかも田舎の学校でそんなしゃれたものはなく、私のやったことは相当異端だったのだろう。

 図らずも太った担任の嫌な思い出話ばかりになってしまったが、福岡市立小学校で3、4年生の時の担任だった“日教組のくせに●●差別をしていた中年女”(
「福教組教員の差別」)とは違い、太った担任への嫌悪感は今も全くない。運動会の前、玉入れ用の玉を紅白1個ずつ家庭で作って持って来ることになった時、「あんたのところは大変だろうから」と言って、あらかじめ作ってきた玉2個を私に手渡してくれるような人でもあった。赤玉の色が微妙に茶色だったが。

 写真は私が通った小学校の一つ。ここにはストーブはなかった。
[Edit]