# 旧聞since2009

# 昭和の成人式

 タイミングを逸してしまったが、成人式の思い出話を。現在、福岡市では「成人の日」の式典は1会場(今年は博多区のマリンメッセ)だけで行われているが、私の時代は区単位で開催されていた。各区でどんな催しが行われるかを報じた当時の新聞記事を見つけたので、以下に紹介した。役所お仕着せではなく、新成人をまじえた実行委員会でプランを練ったらしいが、その割には(あるいはそのためか)どこも講演とコンサートばかりで、似たり寄ったりの内容だ。一部は講師までかぶっている。ただ、大規模ながらも非常に簡素な現在の式典と比較すれば、金はずいぶん掛かっていたと思われる。近年、“荒れた成人式”ばかりがクローズアップされ、式典不要論も勢いを増しているが、昭和の頃はまだ、若者が大事にされていた印象だ。

 ▽東区 テレビ朝日キャスター筑紫哲也さんの講演とフォークバンドのコンサート。成人の日に先立ち九州交響楽団のコンサートも。

 ▽博多区 式典前日の夜に43㌔を歩くナイトハイク。当日は斎藤文男・九大教授の講演とロックバンドコンサート。会場には体力測定やスピードガンコーナーも設置。

 ▽中央区 講演は西日本新聞の益田憲吉・解説委員長。他にフォークバンドのコンサートとチャップリンの『黄金狂時代』上映。

 ▽南区 福岡高校出身で、『高校大パニック』『狂い咲きサンダーロード』などで知られる映画監督、石井聡互さんの講演とロックバンド、リバーサイドのコンサート。

 ▽西区(現在の早良・西・城南区) 新成人の数が6,000人近いため、午前、午後の2回に分けて式典を開催。午前の部の講演はここも益田憲吉さん。午後はRKBの三善英毅キャスター。ここだけコンサートはなし。新成人には誕生日の新聞を配布、映画『アドベンチャーファミリー』(1977年の米映画)も上映。

 私が出席したのは南区の式典だが、高校卒業後に転居していたため、周りに友人・知人はゼロで、面白くもなんともなかった。現在は式典会場に自由に入れるらしいが、当時は事前に届いた招待状が必要で、嫌でも南区の会場に行かざるを得なかったのだ。だからと言うわけではないが、式典に関して辛うじて覚えていたのはバンドのライブがあったことぐらいで、このバンドがリバーサイドという名前だったことは記事を読むまで思い出せなかった。ちなみにアマチュアではなく、れっきとしたプロで、当時、大手時計メーカーのCMソングも歌っていた程だ。「♪君の時計になりたい 二人でチックタックしたいな」というフレーズが印象的な曲で、他にビートルズナンバー(『バック・イン・ザ・USSR』?)も披露してくれた記憶があるが、非常にあやふやなので、間違っているかもしれない。

 石井聡互さんの講演の方は、記事を読むまで石井さんの講演が行われていたこと自体を覚えていなかった。『高校大パニック』 の「数学できんが、なんで悪いとや!」という博多弁のセリフは高校時代に大流行し、当時の福岡では結構、注目されていた人物のはずだが、ここまで記憶ゼロというのは自分自身でも不思議だ。思い出話を書くつもりが、成人式の思い出などゼロに等しいことを自覚するという情けない結果になった。

 それにしてもこの時代はマスコミ関係者がもてはやされていたことに驚く。講師のうち、筑紫さん、益田さん、三善さんと3人を数え、斎藤・九大教授も地元マスコミのコメンテーターとして活躍された人なので、石井さん以外がマスコミ関係ということになる。ちなみに益田さんは“マスケン”の愛称と個性的な文章で福岡では知られていた人物。彼の書くコラム「マスケンのくるま座」というのが人気だった。
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# ここはバス通りだった

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 福岡市早良区西新に城南線から明治通りに抜ける一方通行の路地がある。上の地図では城西1丁目の交差点と西新2丁目の交差点とを結ぶ通りで、道沿いにはラーメン屋などの飲食店が並んでいる。一方通行であるぐらいだから、かなり狭い道なのだが、先日ふと思い出した。「昔、ここはバス通りだった」と。

 「昔」というのは正確には、まだ西鉄の路面電車が城南線や明治通りを走っていた頃で、城南線というのは本来、路面電車の路線名だった。明治通りを走っていたのが貫線。両線が廃止されたのは1975年11月2日だが、これ以前の福岡の市内交通はバスではなく路面電車が中心で、例えば、中央区六本松方面から西新に向かう場合は電車に乗るのが普通だった。

 ところが、別府橋や鳥飼経由で六本松と西新を結ぶバスが1路線だけあり、このバスが先の路地を窮屈そうに通っていたのである。「6番 市内循環線」と呼ばれ、博多駅を起点にやや特殊なルートを通って市内を一周する路線だった。この頃、西新に用がある時は主に自転車で行っていたが、時折、公共交通機関を利用する時はなぜか、この「6番」を使っていた。誰かに「6番が意外に便利だぞ」とあまり正しくもない情報を教えられ、それを真に受けてしまったのだ。

 狭い道を通る分、通常より一回り小型のバスが「6番」には使われていたが、それでも城南線から右折して例の路地に入る際は、あの西鉄の運転手でもかなり慎重に運転していた記憶がある。なぜ、こんな道をバスが通っていたのか、今となっては記憶が定かではないが、旧・プラリバ前の交差点付近には電停があり、ここではバスの右折が難しかったためだろうか。

 路面電車が廃止され、代替バスが城南線や明治通りに投入されると、「6番」もいつの間にか例の路地から消えた。西鉄バスの評判は以前から芳しいものではなかったが、“陸の王者”などと呼ばれるようになったのは猛烈な数の代替バスが我が物顔で市内を走り回るようになってからではないかと思う。傍若無人の運転ぶりに、車で営業に回っていた私の親族はよく「チンチン電車の方がましやったバイ」と嘆いていた。

 実は「6番」は現在も走っており、ルートも以前とあまり変わっていないのだが、市内循環線ではなく博多駅と福岡タワー南口とを結ぶ路線になっている。

 西新絡みの話をもう一つ。昨年7月いっぱいで閉店したプラリバの建物が今なお残っている。以前にも書いたが、地下鉄西新駅のコンコースと地上とを結ぶ新設エレベーターが未完成のため、この建物のエレベーターを使う以外にないからだ。新エレベーター設置のための土木工事完成予定は6月30日。このお陰で建物取り壊しが1年も遅れたことになる。こんなことならプラリバ閉店も先延ばしして欲しかった。

 プラリバ閉店以降、西新商店街の人出は2割程減ったと聞いた。それが原因かはわからないが、長年通っていたパン屋が先頃店を閉じ、ミスタードーナツもいつの間にかシャッターを下ろしていた。イオン西新店も5月で閉店する。どんどん街が寂れていく恐怖を感じる。「6番」があの路地を通っていた頃の西新は古びてはいたが、はるかに活気のある街だった。




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# 教室ストーブの思い出


 最高気温が13日には20度を超えていた福岡市だが、寒の戻りで15日には一気に5度前後まで下がり、凍える一日となった。福岡市は現在、全市立小中学校へのエアコン設置を段階的に進めているところだが、これほど寒くても暖房使用は認めていないという。あくまでも夏場の熱中症対策のため設置したエアコンであり、少々寒いのは我慢しろということらしい。せっかく教室にエアコンがあるのだから、校長らの判断で臨機応変に使えば良いのに、と思うが。

 ここで良き大人ならば「暑さ寒さに耐えるのも教育の一環」とのたまうべきだろうが、残念ながら私は根性なしなので、苦難を人に強いることなどできない。また、私が入学した筑紫野市の小学校には当時、冬は教室の後ろにストーブが置かれていたので偉そうなことは言えないのである。転校先の福岡都市圏の他の小学校ではストーブなど見たこともなく、なぜ、あの学校にだけ暖房があったのか今となっては謎だが。隙間風が入るような老朽木造校舎だったためだろうか。

 このストーブで給食時間にちょっとやらかし、担任の太った女性に大目玉を食らったことがある。コッペパンを温めたらうまそうだと思い、二つに割ってストーブの上にのっけたのだ。給食は好き嫌いなく何でも美味しく食べていた人間で、だから逆に特に好物というものはなかったのだが、『タカマーガリン』(こんな商品が給食で出ていた)を塗ったコッペパンのトーストは絶品だった。すっかり気に入り翌日もパンを焼こうとしたところ、初日は何も言わなかった級友たちが騒ぎ出し、担任は「火事になったらどうするの!」と激怒。こうして私のトースト天国はたった一日で空しく終わった。

 この担任には給食時間にもう一度睨まれている。どんな料理だったかは忘れたが、パンに入れて食べ始めたところ、今度もまた「先生、駄田君が変な食べ方をしています」とご注進に及ぶ輩が現れた。担任に「そんなことして美味しいね」と詰問された私は、震えながらも「うまいです」と答え、侮蔑のまなざしを浴びた。極貧の父子家庭の子供はやはり下品だと思われたようだ。現在の給食ではあらかじめパンに挟む前提でメニューが考えられていることもあるようだが、昭和時代、しかも田舎の学校でそんなしゃれたものはなく、私のやったことは相当異端だったのだろう。

 図らずも太った担任の嫌な思い出話ばかりになってしまったが、福岡市立小学校で3、4年生の時の担任だった“日教組のくせに●●差別をしていた中年女”(
「福教組教員の差別」)とは違い、太った担任への嫌悪感は今も全くない。運動会の前、玉入れ用の玉を紅白1個ずつ家庭で作って持って来ることになった時、「あんたのところは大変だろうから」と言って、あらかじめ作ってきた玉2個を私に手渡してくれるような人でもあった。赤玉の色が微妙に茶色だったが。

 写真は私が通った小学校の一つ。ここにはストーブはなかった。

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# 食堂城内、ロバのパン、わらび餅…

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 先日書いた「動き出した潮見櫓復元」に、「保険局が懐かしい」とコメントをいただいた。私もこの記事の写真撮影で城内住宅一帯を歩いた際、「食堂城内」を見掛け、懐かしい気分になった。高校生時代、時折利用していた食堂で、すでに移転、または閉店したのか営業はしていない様子だったが、外観は昔のままだった。

 自宅も高校もこの近くにあったわけではないが、食堂近くの平和台陸上競技場に大会や練習でよく行っており、弁当を持参していない時はここで昼食を取っていた。インターネット上にある情報によると、ケースの中から好きな惣菜を選んだうえで、白ごはんと味噌汁を注文するシステムだったようだが、私の高校時代はラーメンなどのメニューもあった記憶がある。ラーメンはさっぱり味で、福岡では珍しく海苔が上にのっていたので妙に印象に残っている。

 関係ないが、私の夏は平和台で行われる中部支部予選で終わり、インターハイなど夢のまた夢。同じような境遇だった他校の3年生と一緒に食堂城内で昼食を食べた際、彼が口にした「オレのインタイ(引退)ハイが終わった」という面白くもない冗談がこれまた妙に耳に残っている。

 食べ物絡みで最近、もう一つ懐かしい体験をした。先日、福岡市中央区大手門付近の路地を歩いていた時、ロバのパンの歌が聞こえてきたのだ。「ロバのおじさん チンカラリン チンカラリンロン やってくる」というアレだ。「まさか、まだあるとは!」と驚き、慌てて音楽が流れてくる方に向かったのだが、残念ながら間に合わず、正体を確かめることはできなかった。インターネットで調べたところ、北九州市八幡西区に「ロバのパン」という有限会社があり、ここが福岡市でも移動販売を行っているとの情報があった。私が耳にした歌は、この会社の販売車が流していたのだろうか。

 ロバのパンの販売車をよく見かけたのは昭和40年代、小学校3、4年生頃だった。毎週日曜日の朝、住んでいた集合住宅に販売車がやって来ては例の歌を大音量で流していた。滅多にないことだったが、ロバのパンを買って朝ごはんにすることがあり、これが楽しみだった。単なる蒸しパンなのだが、初めて食べた時は「こんなうまいものがこの世に!」と驚いたぐらいだ。

 ほかによく現れたのはわらび餅の販売車で、モナカの皮で出来た皿に盛って売っていた。確か値段は10円からで、値段が上がる程皿が大きくなった。当時、冷たいわらび餅が大好物で、これも初めて食べた時は「こんなうまいものがこの世に!」と感動し、山ほど買って食べるのが叶わぬ夢だった。現在ではスーパーでパック売りされており、1、2度買って食べたことがあるが、さほど美味しいとは感じなかった。昔のわらび餅の方が美味しかったと感じるのは、ノスタルジーだけではないように思う。

 食べ物の話から外れるが、移動販売にまつわる思い出と言えば、この頃はインチキ手品用品を小学生に売りつけようとする胡散くさいオジサンが1年に1、2度の頻度で通学路に現れ、小学生の心をざわつかせていた。彼らが売っていたのはブリキ製の四角い小さな笛みたいなものや、舌に刺さったように見える鉛筆、指でこすると煙が出る粘土状のもの等々。メインの商品が笛で、これを吹きながら話せば、面白い声が出せるという代物だった。ただし、うまくいった試しはなく、すぐに壊れた。

 実演交じりのオジサンの売り口上を聞いている時はものすごく魅力的に思えるのだが、間違って買ってしまうと、「つまらないものを買ってしまった」と後悔し、なおかつ友人たちにはバカにされることとなった。静岡を舞台にしたマンガ『ちびまる子ちゃん』の第1話にも同じような人物が登場するので、全国あちこちで似たような商売があったのだろう。それとも元締めみたいなものが存在したのだろうか。

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# 子供の頃に通った二日市温泉

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 先日、山歩きの帰りに筑紫野市の二日市温泉に立ち寄り、「博多湯」という源泉掛け流しの温泉で汗を流してきた。小学校低学年だった昭和40年代、近隣の風呂なしアパートに住み、この辺りの銭湯にも通っていた記憶がある。まさか同じ風呂屋ではないだろうと思ったが、帰宅後に調べてみると、「博多湯」は万延元年(1860年)の創業。昭和どころか江戸時代末期から続く老舗で、子供時代の私が浸かっていたのも、やはりこの湯だったようだ。

 私が住んでいたのは二日市の中心商店街近くで、普段通っていたのは徒歩数分の場所にあった別の銭湯。ここの定休日に少し離れた「博多湯」まで足を延ばしていた。当時、子供の入浴料金は10円程だっただろうか。

 今でも覚えていることがある。確か夏休みで、暇をもてあましていたのだろう。友達と2人で昼間から二日市温泉に行き、湯船の中で風呂桶を二つ重ね合わせ、浮輪代わりにして遊んでいた。私たちの他に中年男性がくつろいでおり、当然ながら大目玉を食らったのだが、男性は私たちを叱った後、「桶の間に濡れたタオルを挟めば湯が入らず、浮くぞ」と教えてくれたのだ。その通りにすると、本当に浮いた。私たちは大喜びでさらに騒ぎ出したのだが、男性は不思議にもその後は何も言わなかった。

 「博多湯」の現在の入浴料金は大人300円。休憩室は無料で利用でき、非常にお得だ。近年に改装したらしく、建物はまだ新しかった。温泉をプール代わりに使うバカな子供など今はいないことだろう。

 以前、知り合いになった別府在住の人から「内風呂に入るのは台風の時ぐらい」と聞いたことがある。湯の街・別府には数多くの共同浴場があり、住民たちは老若男女、毎日温泉に入って疲れを癒やしているのだとか。羨ましくて仕方がなかったが、よくよく考えてみれば、私も子供時代は似たような環境にいた。ただ、当時はその価値がわからず、自宅に風呂のある生活が憧れだった。

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# 遠足はいつも油山だった


 福岡市の城南、早良、南区にまたがる油山に行き、「市民の森」を散策してきた。標高597㍍。いわゆる低山で、しかも中腹近くにある「市民の森」までは車で登ることができる。お手軽な山だと思われがちだが、麓から登山道を通って山頂を目指せば、意外にしんどい。小学生時代、遠足でこの山に良く登ったものだが、当時から標準体重オーバーの私にとっては難行苦行で、遠足の日が近付いてくると憂鬱で仕方がなかった。

 私が通った三つの小学校では、春に歓迎遠足、秋に鍛錬遠足に行くのが恒例で、鍛錬遠足とは即ち登山だった。最近の小学校では鍛錬遠足など行われていないらしいが、私が小学生の頃は、下手すると歓迎遠足まで油山ということさえあった。6年間を振り返っても、社会科見学で北九州市の八幡製鉄所に行った以外は、遠足では山登りばかりしていた気がする。

 油山以外で遠足に行った山は、太宰府、大野城市などにまたがる四王寺山(410㍍)、篠栗町の若杉山(681㍍)、筑紫野、太宰府市の宝満山(830㍍)、朝倉市の古処山(859㍍)、福岡、佐賀県境の脊振山(1,054㍍)等々。一番高い脊振でも1,000㍍を超えた程度だが、宝満山の長い石段、古処山の山頂付近の岩場などはかなりの難所だった。どの山も歴史をたどれば、修験者の修行場だったり、難攻不落とうたわれた山城があったりしたところ。眺望に優れ、見どころは多い。遠足で来る子供たちはいなくなっても、どこも登山客でにぎわっている。

 中でも油山は昭和初期から“市民の憩いの場”として整備が進められ、人気の行楽地となっている。豊かな自然と「油山十六景」と呼ばれる名所・旧跡を抱え、善しあしは別にして市営の観光牧場(油山牧場もーもーらんど)さえ設置されている。こんな場所が市中心部から車で20~30分のところにある。小学生の頃は鍛錬ばかりさせられ、名前を聞くのもうんざりだったが、最近では福岡市の貴重な宝ではないかと思い始めている。この山に遠足で行くのは近隣小学生の特権だったのかもしれない。

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 紅葉の名所、もみじ谷に架かる吊り橋。長さ52㍍、地上からの高さは30㍍。1969年、「市民の森」開設に当たり南区のご夫妻が寄贈し、78年に市が改修したと現地説明板にあった。吊り橋を寄贈するとは豪気だ。

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 春なのに真っ赤に染まっていたカエデ。野村モミジという品種だろうか。一番上の写真は夫婦石展望台から見た福岡市街地。山中に展望台は複数あるが、個人的には夫婦岩と片江展望台からの眺望が特に良いと思う。

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# スケートが得意だった福岡人

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 平成の初めごろまで、福岡市と周辺にはかなりの数のアイススケート場が点在していた。現在も存続しているオールシーズンのリンクは福岡市博多区のパピオアイスアリーナ(写真)ぐらいだが、以前はほかに東区の香椎スポーツガーデンや城南区の七隈ファミリープラザがあった。また、冬季限定で営業していたスケート場も天神の福岡スポーツセンターや津屋崎町(現・福津市)の恋の浦、犬鳴峠を越えて若宮町(現・宮若市)まで足を延ばせば、力丸スケート場が健在だった。

 これらの施設が全て同時期に存在していたわけではないが、あちこちにリンクがあったのだから福岡の子供や若者にとってアイススケートは比較的身近な娯楽だった。もちろん滑走料金に加え、スケート靴を借りる金も必要なので安い遊びではなかったが、小学生でも小遣いを貯めれば、時折は通える料金でもあった。

 私もローラースケート(現在のようなカッコいいシューズ型ではなく、靴に着ける台車みたいな代物)で鍛えた後、友達と誘い合って何度かスポーツセンターに行った。小学校のお別れ遠足は力丸スケート場だったが、こういった事情で小学6年生ともなるとスイスイ滑れる者が多く、本気で競走して「お前たち危ない!」と教師に怒鳴られもした。高校卒業の際もクラスでスポーツセンターに繰り出したが、男子連中は全員うまかった記憶がある。九州・福岡の人間の多くがスケートに親しんできたなど、他所の人にとっては恐らく意外な話だろう。

 福岡スポーツセンターは天神の再開発で1987年に閉鎖され、跡地はソラリアという商業ビルになった。一方、力丸スケート場は営業停止後、放置された施設が廃墟と化し、心霊スポットとなっていた。力丸スケート場の閉鎖時期については、「力丸ダム保険金殺人」という記事を書いた際に調べたのだが、まったく情報がなく、『若宮町誌』(2003)にさえ記載がなかった。

 しかし、この機会に古い新聞記事などを再度当たったところ、1996~97年シーズンの営業を取りやめ、そのまま閉鎖されたらしいことがわかった。 施設の老朽化や駐車場に暴走族が集結し治安上問題――などの理由だったという。事前に告知して廃業したわけではなく、気付いたら閉鎖されていたという経緯だったため、人々の記憶があいまいになったのだろう。

 現地にいったわけではなく、あくまでもグーグルアースで確認した限りだが、力丸スケート場の廃墟はようやく解体されたようだ。

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# 謎の言葉「モンチ」

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 昭和40年代、私が小学校に上がった頃の話だ。九州山地に囲まれた田舎町から福岡都市圏に出てきたのだが、一番戸惑ったのは言葉だった。私も方言を話していたのだから偉そうなことは言えないが、博多弁(あるいは福岡弁)には意味不明の言葉が少なくない。同世代の子供たちが何を言っているのか、さっぱり理解できないことも多かった。

 特にわからなかったのが「モンチ」と「ココトットート」だ。2番目は鶏の鳴き真似ではない。例えば、公園でブランコに乗ろうとしたら、いきなり「モンチ、モーンチ!」と騒ぎ出す者が必ず現れ、わけわからずに無視して遊んでいたら今度は「コケコッコー!」(正確には「ココトットートと言ったろうが」)と喚きながらケンカを吹っかけてくるのである。とにかく参った。福岡人は鳴き声も行動も雄鶏に似ていると思ったものだ。

 この意味不明な2語はどちらも自らの所有権を高らかに宣言する、いかにも福岡らしい言葉で、モンチは「俺のものだ」、ココトットートは「この場所は取っている」ぐらいの意味だ。ココトットートはひょうきんな感じが気に入り、そのうち私も使うようになったが、モンチの方には馴染めなかった。言葉の響きが何となく不快だし、なぜこの言葉が「俺のものだ」になるのか意味不明なことも気色悪かった。ただ、私が嫌ったからではないだろうが、そのうち耳にすることがなくなった。

 私が小学生時代に住んでいたのは、1~2年生の頃が現在の筑紫野市、3~4年生の頃が福岡市博多区、5~6年生が大野城市。モンチを使っていたのは筑紫野市、博多区の子供たちで、大野城市では聞いた記憶がない。しかし、地域的には大野城市は博多区南部と隣接しており、ここだけ言葉が違ったとは考えられない。高学年になると使うのが恥ずかしくなる、いわゆる“幼児語”みたいなものだったのだろうか。

 語源を調べてみようと、図書館にあった『博多ことば』(江頭光、海鳥社、2011)、『博多方言』(松井喜久雄、1997)、『福岡県のことば』(平山輝男他、明治書院、1997)などの本をめくってみたのだが、モンチに関する記載は幼児語の項目を含め一切なかった。どうも真っ当な博多弁ではなかったようである。「チカッパ」などと同様、歴史の浅いローカルな流行り言葉だったのだろう。まったくの想像だが、「俺のもんち言っとろうが」(俺のものだと言っているだろう)などの言葉の省略形だったのかもしれない。

 福岡で育った20歳代の若者数人に「モンチという言葉を知っているか」と尋ねたところ、誰もが聞いたこともないと答えた。現在では死語のようだ。よそから福岡に引っ越して来た子供たちが、この意味不明な言葉で悩まされることはもうないだろう。

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# 「よど号」事件のバカな思い出


 45年前のあの時、親に逆らっても見に行けば良かったと時々悔やむことがある。1970年3月に起きた「よど号」ハイジャック事件だ。当時、事件の主舞台の一つとなった福岡空港(当時は板付空港)近くに住んでおり、小学生だった私は米軍機を見に自転車でよく通っていた。その板付で大事件が起きたとテレビで大騒ぎなのである。中身はよく理解できなかったが、とにかく大事件ならば野次馬は行かねばならない。そう親に告げて板付に向かおうとしたところ、「このバカちんが!」とひどく怒鳴られ、断念させられた。

 私が向かおうとしたのは米軍機見学の定位置だった空港西側のフェンスだが、考えてみれば、あの事件の最中に小学生が近づけたかどうか怪しい。仮にたどり着くことができても、何一つ目撃することできなかっただろうと理解はしているが、日本最初のハイジャック事件の現場に立ち会う(?)チャンスを逃したかと思うと、やはり残念である。

 それにしても板付絡みの大事故や事件があの頃はよく起きていた。このブログでも取り上げたことがあるが、1968年6月に米軍板付基地所属のファントムが九大構内に墜落(
「ファントム引き降ろしの真相は?」)、69年4月には米軍偵察機が離陸に失敗し炎上した(「板付基地で米軍機炎上」)。そして70年に「よど号」事件。今思い返しても当時の福岡は騒然としていた。

 その「よど号」ハイジャック犯らのグループが昨年10月から「何でもアリ!?よど号のyobo-yodo」というアカウントでツイッターを始め、激烈な批判が殺到しているという報道があったので、のぞいてきた。確かに「今更どの面下げて戻ってくるのか?多くの人に迷惑掛けて好き放題したくせに。二度と戻ってくるな」といった厳しいコメントが並んではいたが、コメント自体がそれほどの数ではない。開設から3ヶ月で4,200を超えるフォロワーを集めてはいるが、朝日新聞などで大扱いされた割に注目度は低い様子だ。多くの国民は今さら「よど号」グループなどに興味はないのだろう。

 ツイートは電子メールで日本国内の支援者に送り、支援者が月1回更新するという仕組みらしい。下に一部を紹介したが、最初は小西隆裕のツイート。彼は1944年7月生まれらしいから、現在70歳。二番目は、グループのリーダーだった田宮高麿(1995年に病死と伝えられている)の妻、森順子のもの。脳天気なツイートだが、衛星放送が見られて、鍋も囲めるという暮らしぶりは見て取れる。「よど号」グループが監視下にあるとは言え、物質的に恵まれた生活を送っていることは度々報道されてきたが、それは現在も変わらないようだ。

 彼らがわざわざ日本国内に向けてツイッターを始めたのは、老境に入って望郷の念が募る中、日本国内での支援者・理解者を増やしたいという狙いがあるらしい。森のツイートにある元旦に死んだ仲間とは田中義三のことだろう。日本に送還後、懲役12年の判決を受けた田中は、熊本刑務所収監中に癌が見つかり、2007年1月1日死亡した。息を引き取った場所は病院だったが、事実上の獄死。日本には帰りたいが、かと言って田中のように刑務所で一生を終えたくない――という彼らの本音が透けて見える。それにしても彼らにツイッターを許した北朝鮮側には何か思惑があるのだろうか。






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# 高校学食の思い出話三題

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 先日、高校の学食の思い出話で家族と盛り上がった。くだらない話ばかりだが、結構面白かったので、一部を紹介したい。

 ドリアを生まれて初めて食べたのは1970年代後半、高校の学食でだった。学食にはカレーや焼きめし、うどんなどの定番メニューのほかに、日替わりのA定食(値段は200円)とB定食(230円)があり、ある冬の寒い日、A定食でドリアが出てきたのだ。黒板のメニューに料理名は書いてあったはずだが、当時はドリア自体をそもそも知らなかったし、現在ほどメジャーな料理ではなかったと思う。級友とサンプルを見て「グラタンうまそう!」とA定を頼み、食べ始めてしばらくの後、級友と次のような会話となった。
 「このグラタン、ご飯が入っとうぜ」
 「俺のもだ。マカロニが切れたっちゃろうか」
 「文句言いに行こうか…。でも、これ意外とうまいね」
 「オウ、うまいな!」

 別の日、バドミントン部のエースでインター杯にも出場したA君が変なカレーを食べていた。ご飯の色が妙に黄色っぽいのである。
 「A、なんかご飯の色が変じゃないか」
 「食堂のおばちゃんが『白ご飯が切れたけん、これでいいね』って言って焼きめしにカレーをかけたったい!」
 「……うまい?」
 「意外にうまい。次からもこれ頼もうかいな」
 後日、私も「焼きめしにカレーかけて~」と食堂のおばちゃんに頼んだが、「白ご飯がちゃんとあるけん、駄目」と断られた。少し悔しかった。

 珍しく懐が少し豊かで、ご飯、おかず、スープの3点セットからなるB定食を頼んだ日のことだ。食堂内が大混雑していたので、級友たちとトレーを中庭に持ち出し、野外ランチとしゃれこんだ。級友の一人がスープを飲みながら、首をひねりだした。
 「見たことのない野菜がスープに入っとるわ。何やろ?」
 「これに似とらんか」
 別の級友が指さした先にあったのは中庭に生えた雑草。私たち男子高校生の行儀があまりに悪すぎるので、食堂のおばちゃんたちが怒っているという噂はあったが、いくら何でもまさか…。突き詰めると怖くなるので、この日はこれで終わったが、仲間内ではその後長く冗談話(怪談話?)として語り継がれることになった。

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駄田泉

管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。