ハウステンボスと若鷹軍団

旧聞に属する話2010-ハウステンボス変更

 長崎県佐世保市のテーマパーク・ハウステンボスが経営苦境に陥っている。一度経営破たんした経緯があるだけに、九州外の人には「まだあったの?」と驚かれるかもしれないが、野村証券系の投資ファンド野村PFの経営下、入場者は一時、上向き加減だった。だが、世界同時不況で、頼みの綱ともなっていた外国人客も激減。佐世保市の要請を受けた、九州電力など福岡の主要企業7社が再建支援策などを検討していた。

 この7社は、プロジェクトチームを作り、2か月近く話し合いを続けていたのだが、結論は「再建を支援しない」。まったくのゼロ回答は、佐世保市長、途中で支援企業候補として名前が上がってきたエイチ・アイ・エスも予想外だったようだ。

 前回の破たんの際、JR九州など出資していた一部企業は痛い目に遭っている。各社の経営判断に口出しする筋合いはない。しかし、7社の首脳の中には「九州のためにも残したい」と明言する人もいただけに、建て前と本音が違い過ぎるようにも感じる。行楽施設で「危機説」が流れると、入場者は減るのが普通だと思うが、ハウステンボスには逆に人が押し寄せる。9月の連休に出かけたが、駐車場には車があふれていた。昼食を取るのにも長い列に並んだ。「九州のためにも残したい」という思いは、エイチ・アイ・エス頼みに完全にかじを切った福岡の経済界よりも一般市民の方が強いようだ。

 2004年の福岡ダイエーホークス売却の時も同じ印象を持った。親会社ダイエーの危機で、球団存続も危ぶまれ、「私たちに出来ることは」と考えた市民は、せっせとダイエーに買い物に行った。最終的に、ソフトバンクが200億円で球団を買収してくれ、九州にプロ野球チームは残った。この時、地元経済界の首脳は何をやったのか。事が収まった後、孫正義氏を酒席に呼び出し、福岡ダイエーホークスの応援歌合唱を聞かせたのだ。「この歌は、こんなにも愛されている。だから、変えるな」という意味だったらしい。

 当時、この話は地元のホークス愛を物語る“美談”として報道された。確かに、孫氏が理解を示し、応援歌の変更を最小限にとどめた(さびの「ダイエーホークス♪」を「ソフトバンクホークス♪」に変えただけ)のは美談だが、金も出さずに要求だけを出した経済界についても称えられる話なのだろうか。

 エイチ・アイ・エスのハウステンボス再建支援は、まだ正式決定に至っていないが、同社の沢田秀雄会長は「(施設運営に参加する場合は)規制のない自由な形で運営したい」と語ったと伝えられる(11月18日西日本新聞)。言葉の真意は報道だけではわからないが、「金を出さないのなら、口をはさまないでくれ」というメッセージだろうかと考えている。

 <追記>ハウステンボス再建問題はその後、エイチ・アイ・エスが支援を正式表明、このブログで酷評した地元経済界も側面支援することになった。あの落ち着いた街並みが廃虚にならなかったことは、非常に喜ばしいと思う。
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プリンス・ウィレム焼失

旧聞に属する話2010-プリンス・ウィレム

 マスコミやお役所が今年の10大ニュースを選定する季節になった。10大ニュースという程ではないが、個人的にショッキングな話題として記憶に残っているひとつに、プリンス・ウィレム号(の複製)焼失がある。7月30日にオランダ北部の都市であった出来事だ。

 プリンス・ウィレムとは、17世紀にオランダ・東インド会社で貿易船として活躍した帆船だ。当時としては最大級の帆船だったらしい。この船の忠実な複製が1985年、オランダで建造され、ハウステンボスの前身・長崎オランダ村にやってきた。優美な姿は、オランダ村のシンボルとして長く人気を集めていた。

 オランダ村の末期の2001年、係留されていたこの帆船内を見学したことがある。写真はこの時に撮影したものだ。17世紀には最大級だったとはいえ、現在では、サイズにしても居住空間の快適さにしても、長距離フェリー以下だ(焼失を伝えた共同通信の記事によると、船の大きさは全長73.65m、約2000t)。これでオランダからインドネシアまで航海していたかと思うと、当時の海の男たちの勇気と苦労に本当に頭下がる思いだった。

 このプリンス・ウィレムがオランダ村を離れ、古里オランダに戻ったのは2003年10月のこと。ハウステンボスの経営破綻で、債務返済のため売却されたのだった。関係者に見送られ、静かに出航する姿をテレビ報道で見たが、オランダ村、ハウステンボスの落日を見るようで、非常な寂しさを感じたのを覚えている。

 火災の原因は、電気系統のショートだったという。オランダでの第二の生活は6年弱に過ぎなかったが、母国でも日本と同様に人気を集め、観光客誘致に一役買っていたとも共同電は伝えている。

 本物のプリンス・ウィレムは1651年に処女航海を行い、62年には嵐のため一生を終えた。複製のウィレム号も(本物より長いとはいえ)24年の短い生涯だったが、日本だけでなく故国オランダでも人々に愛されていたと聞き、救われる思いだった。
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旧石器捏造は終わった事件か

旧聞に属する話2010-毎日スクープ

 長らく関心を持っている事件のひとつに、藤村新一氏による旧石器捏造事件がある。この事件をいち早く見抜き、表立って疑問を表明していた数少ない研究者のひとりに角張淳一氏がいる。文化財整理会社を経営されており、旧石器時代の研究者としても著名な方らしい。捏造事件に関する、この方の講演記録をネット上で読んだが、非常に示唆に富む内容だった。

 一部を紹介すると、捏造事件は、座散乱木、馬場壇の発掘をはじめとする前期、接合石器や石器埋納遺構など奇跡のような発見が相次いだ後期に分けられる。前期の発掘は極めて科学的に行われており、調査報告書もきちんと出されている。これに応じて、捏造も極めて緻密なものだったという。

 一方、後期はこれと全く逆で、発掘、捏造ともいい加減(調査報告書も出されていない)。だからこそ疑問が噴出し、最終的に毎日新聞のスクープ=写真=につながった。捏造が前期だけで終わっていれば、「半永久的に捏造がわからなかったのではないか」という。だからこそ、事件の本質と構造は、前期を読み解く必要があると角張氏は指摘する。

 座散乱木、馬場壇といえば、学界の前~中期旧石器時代存否論争を決着させた重要な遺跡だった。従って、この2遺跡が捏造と判明したことで、国内の前~中期旧石器はいったん白紙に戻ったと理解している。

 存否論争とは、文字通り「あったか、なかったか」の対立であり、「あった」と主張していたのが、藤村氏と関係の深い芹沢長介・東北大名誉教授(肩書は事件発覚当時)と、その教え子や支持者たちだった。藤村氏の“発掘”した石器によって、芹沢派は論争に勝利を収め、一度は学界の主流となった。藤村氏はこのころ、周囲に「芹沢先生の愛弟子」とみられていたらしい。

 こういった点から、芹沢名誉教授の周辺を「事件の黒幕」と疑う声もある(角張氏が講演の中でこのようなことを言っているわけではない。念の為)。確かに「黒幕説」をとれば、うやむやのままとなった捏造目的が見えてくる気がする。ただ、ちょっと気になるのは、黒幕説の根底に、一介の作業員に過ぎない藤村氏に多くの考古学者を欺く捏造など出来る訳がないという見方がある点だ。

 だが、1976年の座散乱木発掘開始から数えても20数年。芹沢氏だけでなく、著名な研究者と藤村氏は交流を深めてきた。非常な努力家、勉強家と認められていた彼が「当代一流」の研究者との交わりのなかで、得るものがなかったとは思えない。研究者として〈もっともらしい捏造ができるだけの能力〉、少なくとも十分な考古学的知識はあったとみるのが自然ではないだろうか。

 藤村氏は、岩宿遺跡を発見した相沢忠洋氏を非常に尊敬していたと聞く。相沢氏の業績は、戦後まもなくの考古学界に黙殺され、さらには“横取り”されかかったとされる。これに敢然と異を唱えたのが、当時明治大学の院生だった芹沢氏だったという。芹沢氏はこの事件をきっかけに大学を去り、東北に拠点を移した。捏造発覚後、芹沢氏には黒幕説をはじめ様々な批判、非難が集中したが、このエピソードを思うと、芹沢氏の人間性まで貶めるのは筋違いではないか、という気がする。

 藤村氏は、在野であっても業績を正当に評価する芹沢氏の度量にひきつけられたのではないだろうか。彼が芹沢氏の知己を得るのは、座散乱木、馬場壇よりもずいぶん後年のことらしいが、当時から付き合いがあった芹沢氏の教え子たちの背後に、芹沢氏を見ていたとしても不思議ではない。

 芹沢氏とその周辺によって、藤村氏はアカデミズムの輪に加えられた。それに対する“返礼”とともに、輪の中での自身の位置を確固たるものにするため行ったのが、あの捏造ではなかったか。さらに言えば、「日本で3万5000年以上前の石器は出ない」という仮説を唱えたのは、相沢氏の業績をめぐって、芹沢氏が対立した例の研究者だったのだ。

 この問題にかかわった人物のうち、芹沢氏は2006年に亡くなり、若手研究者の藤村氏に対する批判を封じ込めたと後に非難を浴びた当時の考古学界の重鎮・佐原真氏はそれに先立つ2002年に死去している。時間の経過とともに、事件の関係者も次第に鬼籍に入りつつあるが、幸いにして藤村氏も、芹沢氏の東北の教え子たちもまだ存命だ。事件の本質を探る試みはまだ可能でないかと思っている。

 <追記>角張氏は2012年5月に逝去された。ご冥福をお祈りする。
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