志免炭鉱の竪坑櫓

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 福岡市のベッドタウン、福岡県志免町は1960年代まで、国鉄志免炭鉱で栄えたまちだ。戦前は、軍艦用の燃料炭を産出した唯一の国営炭鉱でもあり、現在もボタ山や巨大な竪坑櫓などが残されている。この櫓については10年程前、保存か取り壊しかで論争が起きていた。当時の町長らは取り壊しに傾いていたと思う。ところが、いつの間にか流れが変わり、昨年10月には国の重要文化財にまで指定されてしまった。産炭地だった福岡県には、炭鉱関連の遺構が山ほどあったが、「近代化遺産」「産業遺産」といった概念が広がる前に取り壊されたものが多い。国重文にまでなったのは、まれな例だ。

 櫓は高さ約48m。1943年、海軍省によって建設された。町側が取り壊しを検討していたのは、崩落の可能性があって危険だが、かといって補修・維持管理には莫大な費用がかかる、といった理由だったと思う。さらに、敷地を公共施設用地として活用したい意向もあったようだ。

 櫓の保存をめぐる町民シンポジウムをのぞいたことがあるが、炭鉱町だった過去を嫌う参加者からは「櫓を見るのも嫌だ」などの声が出されていた。こういった否定的な意見は、よそから移り住んできた新住民に多いと思っていたが、保存運動に取り組んでいた関係者によると、取り壊し派が多かったのは、むしろ古くからの住民の方。櫓を、負の遺産とみなしていたようだ。新住民側は、日本の戦後復興の一端を支えた炭鉱を、かえって町の誇るべき歴史と考え、櫓の保存を望んでいる人が多いと聞き、意外に思った記憶がある。

 取り壊しから保存へ、潮目を変えたのは、竪坑櫓の予想以上の頑丈さだったと思う。調査の結果、表面は一部崩落しているものの、倒壊の危険性は当面小さく、解体にも多額の費用がかかることが判明したのだ。そこで、町が選んだのは「見守り保存」。わかりにくい言葉だが、要するに維持・補修には金をかけず、そのままにしておくということ。一帯は公園化され、隣接地には福祉施設が建設されたが、櫓の周囲だけはフェンスで囲われ、立ち入り禁止になっている。

 こういった歴史の生き証人が残されたのは非常にうれしいことではあるが、この櫓目当てに町を訪れる人も少なくないようなのに、なんとなく捨て置かれた雰囲気だ。せっかく国の重文にまでなったのだ。いつまでも「見守り保存」など消極策を取っていないで、せめて櫓内部ぐらいまでは見学できるように整備したら良いと思うのだが…。


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工場萌え

旧聞に属する話2010-工場2

 「工場萌え」と呼ばれる人たちが世の中にいるという。25日の読売新聞地方版で初めて知った。同紙によると、「無機質な煙突や配管、タンクなどの景観に美を見いだし、眺めて楽しむ」人たちのことを言うらしい。なぜ、新聞が彼らのことを取り上げたのかというと、かつて「4大工業地帯」のひとつとして栄えた北九州市が、工場萌えの人たちに目をつけ、今も市内に多数残る工場群を、観光資源として売り出すことにしたからだ。

 「4大工業地帯」と書いたものの、恐らく若い人には聞き慣れない言葉だろう。現在の社会科では、京浜、中京、阪神で「3大工業地帯」として教えているようだが、1970年代ごろまでは、これに北九州が加わっていたのだ。このまちの中心産業だった重工業の地盤沈下で、「4大」からは陥落したものの、有名な新日鉄八幡をはじめ、写真の住友金属小倉、三菱化学黒崎、安川電機など、今も昔も工場集積はすごいものがある。工場萌えの人たちには、確かに魅力的なスポットになり得るだろう。

 このまちは以前から、工場巡りを観光として売り出していた記憶がある。ただし、「産業観光」という堅苦しい名前だった。要するに、小学生の社会科見学の大人版みたいなもので、高度成長を担った工場群を見学し、日本の近現代史なりに思いをはせてもらおうという、かなり高尚な企画だったと思う。それなりの実績を(多分現在でも)挙げているはずだ。場所は同じでも、対象とする人が違えば、まったく別の観光資源になり得る。萌えではあまりにノリが軽過ぎ、役所のお遊びのような気もするが、ここは着眼点が良いと賞賛しておくべきだろうか。

 北九州ではほかに、工場街や町並みを映画などのロケ地として売り込む活動にも、官民挙げて取り組んでおり、なかなかの成果を収めているようだ。何しろこのまちには(次第に消えつつあるとは言え)今もノスタルジックな町並みが各所に残っており、「三丁目の夕日」みたいにバンバンCGを使わなくても、昭和を舞台にした映画が撮れたりする。昨年公開され、中高年世代に結構人気だった「おっぱいバレー」が好例だろう。あの映画の主演は綾瀬はるかだったが、バカな子供たちと北九州の町並みなしには出来なかった作品だと思う。

 こういった、あれやこれやの活動で、せっかく北九州のイメージアップを図っても、暴力団が住宅街のど真ん中に事務所を構えたことで、すべてが台無しになった。あげくに暴追運動のリーダー宅への銃撃事件まで起きた。北九州のイメージアップの試みは、どうしていつも徒労に終わるのだろう。非常に残念なことだと思う。
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熊本城と福岡城

旧聞に属する話2010-熊本城

旧聞に属する話2010-熊本城2

 長いこと九州に住んでいながら、なぜか一度も訪ねたことがなかった熊本城に3月18日、ちょっとしたついでがあって行ってきた。肌寒さを感じる気候だったが、平日にもかかわらず、驚くほど大勢の入場者でにぎわっていた。築城400年祭が続いていた2008年には200万人超、昨年も177万人がこの城に詰めかけたと聞く。“歴女”と呼ばれる女性客も増えているらしい。もっとも、この日は当方と同じ中高年ばかりで、若い女性はほとんど見かけなかったが…。

 それはともかく、この城の壮大な規模には感じ入った。さすがに名古屋、大坂城とともに「日本三名城」と言われるだけのことはある。城郭について語るだけの知識は何も持ち合わせていないが、復興天守の最上階から周囲を見渡し、熊本という街が城を中心に発展し、同時に城を非常に大切にしていることが良くわかった。「非常に大切にしている」とは、もっと具体的に言えば、城を城としてきちんと再建し、保存しているということだ。

 福岡市にも福岡城跡がある。往時には熊本城と並ぶほどの壮大な規模の城だったと聞く。巨大な石垣=下の写真参照=などに、わずかにそれがしのばれるが、城跡には現在、陸上競技場をはじめとするスポーツ施設や裁判所、学校、さらには平和台球場跡(古代の迎賓館と呼ばれる鴻臚館の遺跡でもある)まであったりして、とてもとても「日本100名城」(日本城郭協会が選定)という雰囲気ではない。訪れて、ガッカリする城郭ファンもいるらしい。市民の憩いの場としてちゃんと機能しているのだから、これはこれで良しと考えるが、熊本との違いは何なのだろうと思わないでもない。やはり、城のシンボルとなる天守がないことが影響しているのだろうか。

 福岡城にはもともと天守がなかったと伝えられ、このため昭和の城ブームの時も建設論議は起きなかった。当然の話のようだが、現実にはなかった天守を造ってしまった例が全国的には結構ある。唐津城や中津城がいい例だ。ところが、最近になって福岡城にも天守があったことをほのめかすような史料が見つかり、一部市民の間で建設運動が起きている。この運動をリードしているのは、地元財界人OBだ。ただし、あったと確定したわけではなく、まして構造など皆目わからないのだから、賛同する人は極めて少ないようだ。昭和の城ブームの時と同様、極めて良識ある判断だという気がする。

 専門家の中には、仮に天守があったとしたら、天守台の壮大な規模や櫓の構造などから判断して「五層の大天守があり、外観はしっくい塗りではなく、下見板張りだったのでは」という趣旨のことを述べる人もいるが、現状ではこの程度が精いっぱいの推測ではないか。歴史を無視して天守建築に狂奔するような時代ではない。今ではすっかりまちの顔になった唐津城などを否定するわけではないが、平成の時代に同じことをやったのでは「恥」以外の何物でもないだろう。建設運動は、きちんとした史料が見つかり、天守の存在が確認されてからでも遅くはないと思う。


旧聞に属する話2010-福岡城石垣
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モラルなき街の自転車専用レーン

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 福岡市の中心部近くの歩道に最近、長さ約700mの自転車専用レーンが完成した。完成とは言っても、新しい道を造ったわけではない。元からあった幅5mの歩道の真ん中を柵で区切り、それぞれ歩行者、自転車専用に分けたのだ。「安心して道を歩けるようになった」と、おおむね市民の反応は良いようだ。何しろこの街では、自転車とはすなわち「走る凶器」だから。

 どんなに歩行者が多くても猛スピードで走り抜けていく、信号は平気で無視する。だから自転車による人身事故も多い。あげくに、写真でわかるように、これだけ明確に歩行者、自転車が区別されているのに、それでも歩行者レーンを疾走する者がたまにいる。

 そんな恥知らずの行為を平気でやるのは、あくまでも個人的な感想だが、若い女性が多い。多分、自分たちは何をしても許されると勘違いしているのだろう。これに次ぐのが、なにやらどこぞの国の言葉を話している者たちだ。留学生か何か知らないが、一体何を学びに日本に来たのか。この両者は、マナーやモラルに欠けるところがよく似ている。

 この柵を造るのに、2800万円の税金を使ったという。“ある程度”は市民の安全が確保されたのだから、無駄な金ではないだろうが、市民一人一人が「安全に自転車を走らせる」というまともな常識を持っていたのならば、不要な金だったのも確かだろう。モラルのない人間があふれる街には余計な金がかかる。

 <追記>写真のみ2013年3月に撮影したものに差し替えた。
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偏食ミドリガメ2

旧聞に属する話2010-マルくん2

 我が家にやってきた偏食カメさんは、だいぶ食欲が出てきたようで、毎朝きっちり食事を取るようになった。ただし、食べるのは、相変わらずタイの刺し身だけ。ほかのものには見向きもしない。タイの刺し身など、いつもいつも買っている訳はない。ごくまれに食卓に上がった時にカメの分を取り分け、細かく切って冷凍しているのだ。完全に解凍したものよりは、まだ冷たい半解凍のものをどうも好むようだ。

 名前は「マル」という。一部の知り合いから「おいおい、『マル』って食うつもりかよ」と言われた。関西地方ではスッポンのことを「まる」といい、「まる鍋」だの「まる雑炊」などの料理があるらしい。甚だしい誤解だ。第一、うちにいるのはミドリガメだ。いくらなんでも食べる人はいないだろう。

 実は最初は「イチハシくん」という名で呼んでいた。ちょうど拾ったのが、整形して逃亡していた“彼”が逮捕されたころだったのだ。ところが、家人が「そんな犯罪者の名前をつけて」と嫌がった。しかも、餌をまったく食べないところが、逮捕直後に絶食を続けていた彼と重なり、これは確かに縁起が悪そうだと思い、改名した。マルという名は「丸でも四角でも、この際何でもいいだろう」という非常に投げやりな理由でつけたのだが、いつの間にか「マル」と呼ぶと、水面に顔を出すようになった。単に音に反応しているだけかもしれないが、こういう姿を見せてくれると、拾ったカメでも情が移るものだ。

 だから、拾った当初は「金、手間をかけない」で飼う方針だったのに、寒いだろうからとスタンドを改造してスポットライトを作ったり、様々な配合飼料を買ったりと、それなりに金も手間もかけてしまった。極め付きは、1か月ほど前に買ったメダカだ。もちろん、友達をつくってやろうとした訳ではない。あんまり餌を食べないものだから、生き餌をやって刺激を与えようとしたのだ。7匹を買ってきて、試しに1匹をカメの水槽に入れてみた。ひょっとしたら「マル」が喜んで追いかけ回すのでは、と期待して…。

 結果は、どうなったか? 最初のうちはメダカが「マル」を警戒して逃げ回っていた。しかし、「マル」は完全に無視。そのうち、メダカが安心したのか、平気で「マル」の顔の前を泳ぐようになった。「これはダメだ」とメダカを別の水槽に移し、今も7匹は元気に泳いでいる。カメに加え、メダカの世話まで日課になってしまった。
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阿蘇清峰高校とテイエムドラドラ

旧聞に属する話2011-阿蘇

 熊本県阿蘇市に県立阿蘇清峰高校という学校がある。県立農学校として創立されたのは1901年。100年を超える歴史を持つ伝統校だ。この学校に縁もゆかりもないのだが、昨年秋、同校の運動会を伝える記事を読み、「変だけど、いい学校だなあ」と妙に感動してしまい、ファンになってしまった。

 何が変なのかというと、運動会の名物行事が「人間対ポニー」の100m競走なのだ。同校馬術部がインターハイ常連の強豪であるのに加え、学校のある阿蘇地域でかつて、盛んに放牧が行われていたことから、学校の特色にしたいと始まったのだという。過去2年間の対戦成績は1勝1敗だったが、昨秋はポニーが爆走、陸上部員らに圧倒的差を付けて、勝利を飾った。

 このポニー爆走の記事でも十分笑ったのだが、暮れには、これまた変わった持久走大会が報道された。ペースメーカー役を務めたのが、今度は元競走馬のサラブレッド。生徒たちは当然体操服だが、馬にまたがる馬術部顧問の教諭が、びしっと燕尾服で決めているのが、また笑える。

 ところで、この馬の名は「テイエムドラドラ」。生徒か教師が冗談半分で付けたのだろうと思ったら、競走馬時代の本名だった。テイエムの冠でわかるように、競走馬時代の馬主は、あの「テイエムオペラオー」で知られる竹園正継氏。父はデインヒルの子・デザートキング、母の父はマルゼンスキー。ノーザンダンサーをクロスした魅力的血統ながら、JRA時代(鹿戸明厩舎に所属)の成績は4戦4敗と不振だった。引退後は、こうやって高校生たちに大事にされている。幸せな生涯と言えるだろう。

 この阿蘇清峰高校は今年4月、同じ市内にある阿蘇高校と統合し、阿蘇中央高校となることが決まっている。OBや地元住民らは反対運動を展開したと聞くが、少子化による生徒数減の流れには逆らえなかったようだ。現在の1年生が卒業する2年後には、このユニークな学校が消えるのかと思うと、部外者にも寂しいものがある。せめてこれらの魅力的な行事が、新しい学校でもぜひ続いていってほしいと思う。写真は阿蘇の外輪山。
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