周回遅れの九州大

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 4月25日に書いた「
福岡県公会堂貴賓館 」の中で、九州大箱崎キャンパスの校舎群の行く末を心配した。改めて現地を見てきたが、中には完全に空き家になり、周囲を有刺鉄線で囲われた校舎もあった。場所によっては何となく廃墟のようで、学んでいる学生がかわいそうな気がした。

 伊都キャンパスへの移転が完了するまで、あと9年。学生たちはそれまで、(福岡市の東と西に離れた)箱崎と伊都との間で落ち着かない学生生活を送らざるを得ない。移転が進む箱崎キャンパスの教育環境はどんどん悪くなっていくだろう。これでは受験生の間で、九大の人気が次第に落ちているのも当然だと思う。そもそも福岡市の西のはずれの農村地帯に、なぜ九大が移転しなければならないのか。不可解極まりないが、やる以上は一気にやるのが学生のためではないか。

 写真を順に説明すると、1番上が九大本部。2番目が旧工学部本館。現在は総合研究博物館などとして活用されている。3番目は工学部の旧先導物質化学研究所。確か30年ぐらい前に文系学部の校舎が改築された際、文学部が間借りしていた記憶がある。もっとさかのぼれば法文学部の建物だったらしい。有刺鉄線で囲われた建物とはこの校舎のことで、一部窓ガラスも割れ、荒廃した雰囲気が漂っていた。最後が九大正門。

 それにしても、首都圏の大学や一部国立大が同様の郊外移転を行ったのは、もう10年以上も前だった気がする。その結果、大学の都心回帰が一部で叫ばれだした。なのに、九大は山の中に引っ込んでいく。まるで周回遅れの長距離走者のようだ。
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ヒゴタイ

旧聞に属する話2010-ヒゴタイ1

旧聞に属する話2010-ヒゴタイ2

 写真は2年前の夏、大分県九重町のくじゅう・長者原のタデ原湿原で撮影したヒゴタイだ。普段花には全く関心がないが、数年前、この花を初めて目にした時は少し驚いた。写真でもわかるように、ゴルフボールのようなまん丸の花で、しかも鮮やかなるり色だ。美しさとともに、珍しい姿かたちにひかれ、以来、この花を見に長者原に行くのが夏の恒例行事になった。

 最初に目にした時、花の素性を調べるため、長者原のビジターセンターで『九重に咲く花』(不知火書房刊)を買い求めた。著者は、九重の自然を守る会理事の上野哲郎氏。同書にはヒゴタイについて「日当たりのよい乾いた草原に見られる多年草」とある。はて自分が見たのは湿原だったはずと首をひねり、改めて確かめると、すべて湿原の周囲の乾いた場所に生えていた。

 同書には、日本列島が大陸と地続きだった氷河時代の残存植物とも紹介されている。昔は九州各地で当たり前に見られたらしいが、乱獲で数を減らし、現在は絶滅危惧種に指定されている。ただ、長者原に限れば、前年まで見られなかった場所でヒゴタイに出会うことがある。自生地が広がっているのであれば、うれしいのだが。

 昨年の夏は、なぜか長者原に行く機会がなく、何となく物足りなく思っていたところ、近くの花屋でヒゴタイが売られているのを見かけた。もちろんどこかで栽培されたものだろうが、花の色がえらく薄く、るり色というより灰色のようで、あまり魅力を感じなかった。しばらく売れ残っていたようにも思う。「やはり野に置けレンゲソウ」という言葉を思い出した。




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甘棠館

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 江戸時代、福岡藩には藩士の子弟を教育する藩校が二つあった。東学問所・修猷(しゅうゆう)館と西学問所・甘棠(かんとう)館。このうち修猷館の名は現在も県立高校に受け継がれ、同高校は名門進学校として福岡県内では名を轟かせている。

 一方の甘棠館、高名な儒者・亀井南冥が館長を務めたこともあり、開校当初はライバル修猷館以上の人気を誇ったと伝えられるが、寛政異学の禁や不慮の火災等により、わずか14年で廃校となった。甘棠館がかつてあった福岡市中央区唐人町の小さな路地に、これまた小さな石碑(1枚目の写真)が建っているが、その影の薄さが「悲劇の藩校」の歴史を物語るようでもある。

 甘棠館の歴史については、写真の説明板で簡単に紹介されており、重複は避けるが、廃校後、生徒たちは修猷館に移されたらしい。このためか現在では修猷館高校が、自身の歴史の中に甘棠館をも取り込み、受け継いで行こうとしている。この動きは特に最近になって強まっているように見える。九大で保管されている甘棠館の扁額を、修猷館高校の前館長が“返還”を求めたという話も聞く。正直、修猷館の“いいとこ取り”のようにも思えるが、甘棠館の歴史をきちんと記憶するべき場所があるとすれば、この学校以外にないのも確かだろう。

 説明板の記述について、若干不正確な個所があるようなので、指摘しておきたい。甘棠館で学んだ者の一人として広瀬淡窓の名前が挙がっているが、淡窓は甘棠館廃校後、亀井南冥・昭陽父子が開いた私塾で学んだというのが正確ではないかと思う。淡窓が後に郷里の大分県日田市に開いた咸宜園は日本最大の私塾とされ、儒者という以上に教育者として著名な人物だ。現在の大分県知事・広瀬勝貞氏は子孫に当たるという。

 2枚目の写真は、福岡市中央区地行の浄満寺にある南冥・昭陽父子の墓所。
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福岡県公会堂貴賓館



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 建築や産業遺産を研究している人にとって、福岡は魅力がないというか、腹立たしい街らしい。古来から開けていたのだから、長い歴史を持っているのだが、その割に古い建物がないのだ。近代化や高度成長の過程で、古い建物を次々に取り壊していった。それなりに発展してきた街なのだから、ある意味当然なのだが、それにしても近代化の生き証人に対する畏敬の念がなさ過ぎた。旧・福岡県公会堂貴賓館(写真)や、旧・日生九州支店などは希有な例外だ。いずれも現在は国の重文に指定されている。

 福岡県公会堂貴賓館は、1910年(明治43年)に九州沖縄八県連合共進会が開かれた際、来賓接待所として建設された。この時の共進会とは産業博覧会のことで、和牛の品評会ではない。建物はその後、福岡高裁、水産高校の校舎など様々な施設に転用され、1956年から81年までは県教育庁舎として利用された。教育庁時代を記憶している人も多いが、オフィスとしては非常に使いづらい建物だったという。

 一帯には県庁舎を始め、県の施設が立ち並んでいた。いずれも堂々たる近代建築であり、81年の県庁移転の際には、保存を求める声も多かった。だが、残ったのは貴賓館だけ。この建物にしても、一体保存を図るべきだとの要望に反し、公会堂部分は取り壊された。福岡という街、観光地として見るべきところは少ないと酷評されているだけに、旧県庁舎群が文化施設などとして保存活用されていれば、と惜しまれる。市中心部のレトロな街並みは強力な観光資源になっただろうに。あの東国原知事で人気を集めた宮崎県庁舎が、最近では古くて重厚な建造物としても注目を浴びていると聞けば、なおさらだ。

 福岡は今後数年内に、大正から昭和初期に建てられた貴重な建造物群をどうするか、再度決断を迫られることになる。九州大箱崎キャンパスの校舎のことだ。現役の校舎のため文化財指定こそ受けていないが、その価値は十分にあるであろう建築物が林立しており、その数は10を超える。

 九州大は現在、箱崎キャンパスを市西部の伊都キャンパスに移転中で、計画が順調に進めば、今から9年後には完了する。跡地をどうするか。街から学生が消えることに大変な危機感を抱いている地元は、跡地への市立中学校移転、単科大誘致などの活用策を早くもまとめ、福岡市に提言している。校舎群を残すには、やはり学校として活用するのが最善であり、その意味で地元の提案には傾聴すべき点が多いと思う。問題は、果たして誘致できる大学があるかだろう。対応を急ぐべきだと考えるが、肝心の市は「これから検討しましょう」という段階で、少々心もとない。
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昭和の洋館燃える

旧聞に属する話2010-旧末永邸

 福岡市城南区にあれほど立派な洋館があるとは知らなかった。情けないことに、隣接する文化施設は訪ねたことがある。なのに初めて存在を知ったのが、全焼を伝えるニュースだったとは。目を閉じ、耳をふさいで生きていると貴重な体験の機会を失ってしまう。改めて痛感した。

 洋館とは、18日白昼に火災に見舞われた「旧末永邸」のことだ。昭和初期の建設で、終戦直後には進駐軍の宿舎としても利用されたが、ここ数十年は空き家状態だったという。一部報道によると、火災の直前、小学校高学年らしき数人が敷地から慌てて走り去ったとの目撃談があり、出火原因は火遊びが疑われている。

 所有者は、福岡大理事長の末永直行氏と紹介されているが、JR博多駅で駅弁を販売している寿軒社長という肩書きの方が通りがいいかもしれない。文化人としても著名な方であり、邸宅の隣には、末永氏が私財をなげうって建設した末永文化センターがある。訪ねたことがある文化施設とは、まさにこのセンターのことで、九州交響楽団の本拠としても知られている。火災当時は楽団員がリハーサルの最中だったという。

 この建物、焼失を伝える報道等では「昭和の名建築」とされていたが、文化財として指定、または登録を受けていた訳ではなく、形の上では「空き家の火災」でしかない。しかし、現在の痛々しい姿(上の写真は22日夕に撮影)からも、火災前の優美な姿が十分に想像できる。この建物を宿舎とした進駐軍関係者とは、司令官クラスの人物だったと聞く。彼は末永家に対し、度々この家で音楽会開催を求めたらしい。末永氏の音楽好きは、この時の体験にさかのぼるという記事を以前読んだ記憶がある。

 福岡市では最近、このブログでも紹介した福岡城跡・名島門のボヤをはじめ、妙な火災が続いている。城跡では続いて、古代の迎賓館と呼ばれる鴻臚館跡の発掘調査事務所も不審火で燃えた。貴重な史料の一部が焼失したという。福岡県警にはきちっと捜査してほしいものだが、こういった事件を主に担当していた刑事の一人が21日、改造銃の不法所持容疑で警視庁に逮捕されるというお粗末な事件が起きた。福岡県警の警官が逮捕されるのは今年に入って4人目、実に1か月に1人の計算だ。一体どうなっているのだろうか。
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筑豊のこどもたち

旧聞に属する話2010-筑豊のこどもたち

 写真家・土門拳氏の『筑豊のこどもたち』の中に、気になる写真がある。炭住街の子供たちを写した1枚なのだが、この中の一人が、えらくしゃれた格好をしているのだ。横文字が胸に入ったトレーナーにジーンズ姿。履いている靴はズックと違い、今風のスニーカーのように見える。髪形も、他の子供たちのように坊主頭や前髪を切りそろえた“坊ちゃん刈り”ではない。年齢は10歳ぐらいだろうか。

 『筑豊のこどもたち』と書いたが、現在も入手可能と思われる築地書館発行版(写真右側)には、この写真は収められていない。土門氏の子供をテーマにした写真集のダイジェスト版とも言える『腕白小僧がいた』(小学館文庫)の中に、「炭住街には、午前中も午後もずる休みしたこどもたちが群れている」という写真説明とともに掲載されている(写真左側)。

 今時の子供なら珍しくもない格好だが、この写真の撮影は1959年(昭和34年)。ちなみに、調べてみると、岡山県倉敷市のメーカーが国産ジーンズを初めて発売するのは翌1960年のこと。彼がはいているのは、間違いなく輸入物である訳だ。当時、進駐軍が持ち込んだ品がアメ横などで売られていたといい、国産物発売以前から、それなりに出回ってはいたらしい。しかし、高級品ではあったようだ。おいそれと手にできるものではなかっただろう。

 当時の筑豊はそれほど貧しくはなかったという意見はある。土門氏の撮影の舞台となった中小炭鉱はこの頃、ばたばたと閉山しており、写真集の事実上の主役となった「るみえちゃん」姉妹のように、極貧の中にいた子供たちも確かに多かったことだろう。その一方で、辛うじて存続していた大炭鉱の場合、過酷で危険な労働に従事する分、坑員の賃金は世間一般よりも相当高かったとも聞く。だから、地元では『筑豊のこどもたち』発刊当時から「筑豊の恥部だけを写した」と批判も多かったらしい。

 とは言え、『筑豊のこどもたち』に登場するジーンズ姿の子供は彼だけだ。それどころか、全国各地の子供たちのスナップが掲載されている『腕白小僧がいた』の中にも、同様の格好をした子供は誰一人として写っていない。大げさな例えだが、未来からタイムスリップして来た子供が一人交じっているようでもある。藤子アニメの『キテレツ大百科』で、ブタゴリラ(登場する少年のあだ名)が航時機(タイムマシン)に乗って昭和30年代に行き、自分の父親と仲良しになる話をつい思い出した。ジーンズの少年の素性が気になるところだ。
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ペタジーニ!?

旧聞に属する話2010-ヤフードーム

 昔、ヤクルトや巨人で活躍したペタジーニを、地元・福岡のソフトバンクが獲得した。日本球界復帰は6年ぶりらしいが、つい最近もバラエティー番組で見かけた気がするので、あまり「懐かしい!」という感じはしない。昨年までは韓国球界に所属し、大変な活躍をしていたそうだが、秋山監督は当面2軍で調整させる方針のようだ。

 正直なところ、“守れない、走れない”選手ばかりを集めて、チーム編成としてはいかがなものかという気がするが、ここ数年、ソフトバンクが大砲不足で苦しんできたのは確かだ。何しろ主砲として期待されるMさんが“守れない、走れない、ついでに好機で打てない”の三重苦状態だから。年にホームラン20数本でも打ってくれたら、御の字だろう。王さんの眼力に期待したいところだ。

 大方の人が痛感しているのではと思うが、ここ最近のソフトバンクのチーム作りは、非常に不可解だった。パウエル強奪事件や城島獲得失敗など、そのいい例だが、水面下では、王さんと背広組のフロントとの間で深刻な対立が続いていたのではないか。主導権を握っていたのは背広組であり、王さんは戦意喪失というか、ソフトバンクに嫌気がさしていた節がある。城島の問題も大きいだろう。城島については「ホークスに2度までも後ろ足で砂をかけた」という非難が一部にあるが、彼はマリナーズ退団を決意した早い段階で、内々に古巣に相談、ここでソフトバンクのフロントに冷たくあしらわれたのではないかと推測している。恐らく城島が日本球界復帰を正式に宣言した段階で、ソフトバンク入りの可能性などすでに消えていたのだ。

 このまま進めば、フロントの意図した王さんの影響力排除が成功したと思うが、最後に打った森脇氏解任という手が、王さんの逆鱗に触れた。日本球界の至宝が本気で怒れば、木端フロントなど吹っ飛ぶ。その結果が竹内孝規・最高執行責任者(COO)の事実上の解任であり、王さんのチーム編成責任者就任、森脇氏の背広組での復帰、ヤフードームへの王ミュージアム設立計画などだろう。王さんと竹内氏、どちらを取るかの選択を迫られ、竹内氏を選ぶオーナーなどいないだろうから。

 不可解なチーム編成についての責任の一端(あるいは大半)は、個人的には竹内氏にあると踏んでおり、彼の退任は喜ばしいことと思っている。ただ、かわいそうなのは、森脇氏の後任としてフロント組が引っ張ってきた大石大二郎ヘッドコーチだろう。ヘッドコーチといいながら、どうもチーム内で存在感がないように思え、マスコミにもまったく登場しない。また、王さんのチーム作りは明らかに大艦巨砲主義に回帰しており、その方が「九州の人間は喜ぶ」と確信していることも少し心配だ。去年までのオリックスのようなチームにならないと良いが。
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福岡城跡でまた不審火

旧聞に属する話2010-名島門

 福岡城跡にある福岡市指定文化財「名島門」(写真)で14日、ボヤ騒ぎがあった。幸い門扉の一部を焦がしただけで終わったが、福岡城跡では2000年にも下之橋御門が半焼する不審火が起きており、市の文化財担当者らはヒヤリとしたことだろう。2000年の火災もそうだったが、今回も放火とみられている。愉快犯か何か知らないが、文化財とわかって火を付けるのだから、始末に負えない。下之橋御門の復元には、実に3億円が投じられている。

 下の写真はボヤがあった名島門の門扉と復元された下之橋御門。名島門の下のコンクリートに、焼け焦げた跡が残っている。写真ではわかりにくいが、門の先には市立中学校がある。朝夕には、中学生たちが門をくぐって登下校する姿が見られる。風景的にも非常に優れた場所だけに、大事に至らず良かったと言う以外にない。

 名島門の名前は、もともと名島城の門であったことにちなむ。名島城とは、現在の福岡市東区にあった城で、1588年には小早川隆景が改築し、筑前支配の本拠とした。関が原戦後、この地を治めた黒田氏によって取り壊され、資材は福岡城に再利用されたらしいが、この門だけは家臣に下げ渡され、邸宅の門としてそのまま残った。名島城の構造物は、ほかにほとんど残っていないだけに、極めて貴重な遺構であり、歴史的意味合いを考えれば、もっと上のランクの文化財でも構わないぐらいだ。

 小早川隆景は、毛利元就の三男であり、あの「三本の矢」の逸話にも登場する人物。名将、知将と歴史上の評価はめっぽう高いが、筑前を治めたのが晩年の短い期間で 、関が原戦後には小早川氏自体が岡山に転封されたこともあり、福岡では一般的に「郷土の偉人」的な扱いは受けていない。やはり中国地方の武将というイメージが強い。また、隆景の養子・秀秋が関ヶ原の裏切りで有名であり、この点も福岡で小早川の影が薄いことに影響しているのだろうか。

 名島城跡については、福岡市がこの場所に展望台の建設を計画したことで、地元住民や郷土史家らが「歴史的景観を台無しにする」とかみつき、ちょっとした論争が起きた。これを機会に、筑前時代の小早川氏にもっとスポットが当たれば、面白いと思う。難を逃れた名島門の価値も、ますます上がることだろう。


旧聞に属する話2010-名島門ボヤの跡

旧聞に属する話2010-下の橋大手門
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九大教養部跡

旧聞に属する話2010-教養部修正

 写真は、福岡市中央区にある九州大六本松キャンパスの跡地。教養部跡と言った方がわかりやすい人も多いだろう。九州大は現在、福岡市西区の伊都キャンパスに統合移転を進めており、六本松キャンパスは昨秋、88年の歴史に幕を閉じた。今は閉鎖され、本館をはじめとする校舎群はすべて空き家の状態だ。もう40年ぐらい前になるだろうか。初めてこの本館を目にした時は、まだ学園紛争の爪跡が残っていた。校舎のガラス窓はほとんど割れ、学生たちの主張を書いた紙がべたべたと貼ってあり、子供心に「大学とは何やら怖い場所」という印象を持ったものだ。

 後から知ったことだが、学園紛争時の九大教養部長は、後に福岡県知事を3期務めた奥田八二氏。学内に機動隊を呼び込んだ人物として、民青などにはずいぶん嫌われていた。革新統一候補として知事選に打って出た時、自民党が「奥田はアカだ、共産党だ」とネガティブ・キャンペーンを繰り広げたが、奥田氏の教養部長時代を知る人は「奥田がアカであるものか」とあざ笑っていたらしい。「共産党だ」と断じることがネガティブ・キャンペーンになると信じた、当時の自民党の時代錯誤にもあきれはてたが。

 奥田氏は、三池闘争を指導した向坂逸郎の弟子でもあり、社会主義教会の一員でもあった。社会主義者であったのは間違いないだろうが、懐が深いのか、現実的なのか、わかりにくいところも多い人だった。彼の知事時代、こんなエピソードを聞いたことがある。福岡県を訪問された両陛下を、空港でお見送りした際の話だ。お二人が乗った飛行機が見えなくなるまで、誰よりも長く深々と頭を下げていたのが奥田氏だったという。個人的には奥田氏の人柄を物語る、いい話だと思う。

 それはともかく、六本松キャンパスの跡地は都市再生機構(UR)が取得し、住宅開発を行う予定だ。また、跡地の一部には裁判所や検察庁などの司法機関が移転することも決まっているようだが、住宅街と裁判所が共存できるものなのか。URが主催していた「六本松キャンパス跡地コンセプト委員会」でも若干の疑問が出されていたようだが、結局は目をつぶったようだ。右寄りの人たちの街宣や左寄りの人たちのデモで、変に“にぎやかな街”にならないと良いが。

 URはキャンパス跡地に新たにつくる街を「青陵の街」と名付けている。青陵とは「希望にあふれた若者を育てる緑豊かな丘」との意味だという。教養部の前身、旧制福岡高校の同窓会が「青陵会」と名乗っていることにちなむ。下の写真のブロンズ像は、現在も跡地に残る「青陵の泉」像で、旧福高OBらの寄付により1968年に完成した。青陵会、九大は像の現地保存をURに働きかけているが、「青陵の街」と名付けたぐらいだから、恐らくきちんと保存され、新しい街でもシンボルになることだろう。街づくりの取りかかりがどうにも遅れ気味に思えるのが、少し気にかかるところだ。

旧聞に属する話2010-九大教養部2
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今村カトリック教会

 この記事はこちらに移転しました。
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