荒津大橋眼下の造船所

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 博多漁港を横切る福岡都市高速道路の荒津大橋を通るたび、港内の福岡造船で建造されている大型船が目に留まる。ドックが空の時はめったにない。巨大クレーンが林立する中、さび止めの塗料で赤く塗られた船体がいつもドーンと鎮座しており、恐らく業績好調なことだろう。

 福岡造船は1947年創業で、最初は漁船建造が主だったらしい。当時は以西底引き網漁の最盛期。港内には他にも数軒の造船所があり、一帯は活況を呈していたと聞く。その後、底引き網漁不振で他社が相次いで撤退する中、福岡造船だけはケミカルタンカー建造に転換することで生き残りを図った。同社HPによると、現在は1万~2万トン級のタンカーを毎年5隻程度建造している。

 面白いことに2005年には福岡市の都市景観賞に同造船所が選ばれている。荒津大橋の眼下に広がるダイナミックな景観が高評価を得たようで、審査委員の一人は「造船とは古来『アーキテクチャー(建築)』であることを思い起こさせ、景観の新しい見方・考え方を提示する好例」とまで絶賛している。
 
 造船所がある一帯の地名は、ずばり「中央区港」だ。以前は何となく寂れた雰囲気だったが、最近はマンションが立ち並び、飲食店も増えてきた。横浜や神戸のように洒落た港町ではない。マンション建設ラッシュを少々不思議に感じていたが、造船所が見える立地というのも言われてみれば得難いロケーションかもしれない。
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辻田遺跡出土の旧石器

 北九州市の公式サイトに掲載されている市指定文化財紹介記事の内容(該当ページ)に疑問を覚え、先日、同市教委に問い合わせのメールを送った。北九州市八幡西区の辻田遺跡から出土した旧石器が中期旧石器時代に当たる4万年から9万年前のものとされていることについて、「本当に間違いないのか」と尋ねたのだ。

 藤村新一氏(現在は改名しているらしい)による旧石器捏造事件が暴かれた2000年以降、彼がかかわった中期・前期旧石器時代の遺跡は検証作業が行われ、結果としてすべてが「クロ」と断定された。これによって日本国内には中期・前期旧石器の確実な遺跡は存在しなくなった。年代で言えば、3万5000年より前の遺跡はないわけだ。にもかかわらず辻田遺跡は堂々と4万年から9万年前を名乗っているのである。

 問題の石器が出土したのは1994年の発掘で、文化財指定は99年である。藤村氏の事件発覚以前のことであり、捏造遺跡・石器をもとにした当時の知見で評価された可能性が高いのではないかと思う。藤村氏が関係しなかった遺跡のため再検証の網から漏れ、結果として捨て置かれた状態になっているのではないか――というのが私の疑問点だ。

 実際、公式サイトの紹介記事には「斜軸尖頭器やヘラ形石器などは技術、形状ともに同時代特有の資料である」という記述がある。しかし、斜軸尖頭器は縄文時代にも存在しており、「中期旧石器時代の特有の資料ではない」というのが現在の定説のようだ。当然だろう。藤村氏は手持ちの縄文石器などを古い地層に埋め込み、捏造を行っていたのだから。

 また、石器発見当時のスクラップを読み返すと、他にもおかしな点がある。11点の石器のうち、9点までが弥生時代の地層で見つかっているのだ。残る2点が鳥栖ローム層と言われる9万年前の地層からの出土だ。鳥栖ローム層とは阿蘇山大噴火による火砕流の跡だという。当時は石器の形式から4万年~9万年前のものと判断、弥生時代の地層から出土したことについては、後の時代に掘り返されたと解釈したようだ。だが、今となっては形式論があてにならない以上、ローム層の2点の方が後に埋められたと考えることも可能だろう。第一、これは藤村遺跡の再検証でも強調されたことだが、火砕流が堆積するような土地に果たして人が住めたのだろうか。

 北九州市教委からの回答はまだない。回答がもし来たら、ここでも紹介したい。
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大野城にもごみ屋敷

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 福岡県大野城市で、男性が拾い集めたごみが市道をふさぎ、近隣住民は通行できないうえに悪臭や害虫被害に悩まされているとの報道が22日あった。いわゆる「ごみ屋敷」問題だ。市側は道路管理権などを根拠に、ごみ撤去を求めて男性を訴える方針だという。プライバシーの問題か新聞各紙には詳しい住所も写真もなかったが、グーグルマップの航空写真で確かめると、それらしい住宅が見つかった。現地を見てきたが、なるほど凄まじい状態だった。

 とにかく膨大な量のごみが一帯を埋め尽くしていた。多くはビニール袋に入れられた空き缶やペットボトルのようだったが、自転車やタイヤ、廃家電などの粗大ごみも含まれ、住宅の2階には大きなサーフボードらしきものもはみ出ていた。

 写真では分かりにくいが、一帯は狭い道沿いに住宅が立ち並ぶ閑静なところだ。ところが、男性方の前の道路は完全に通れない状態のため、木々や草が生い茂り、まるで山林のようである。反対側に回ってみると、道は木々でふさがれていた。22日はさほど気温が高くなかったせいか、臭いには気付かなかったが、真夏の雨上がりなどは恐らくひどいことだろう。近隣住民の多くが耐えきれずに転居していったらしい。

 新聞報道によると、男性が独り暮らしを始めたのは1993年のことで、ほどなくごみを集めた始めたという。市側もこの18年間、手をこまぬいていたわけではなく、何度も撤去を指導したが、男性はごみを所有物と主張し、従わなかったらしい。現行の法体系では、例えごみでも所有権を主張されると行政には打つ手が限られるのだという。

 国交省が2009年、こういったごみ屋敷問題などへの対応を検討するため、全自治体に対し「地域に著しい迷惑をもたらす土地利用の実態把握アンケート」を行っている。1217自治体から回答があり(回答率67%)、その集計結果が公表されているが、約2割に当たる250自治体がごみ屋敷問題が発生していると回答し、うち72自治体は深刻な状況に陥っているとしている。自由意見には「廃棄物であるのか、私有財産であるのかの判断が難しい」「当該居住者本人がゴミと思っていない場合、規制できる法令、条例等がない」などの嘆きが並ぶ。

 裁判に訴えるという大野城市の方策は非常にまだるっこしく思えるが、他に方法がなかったというのが現実なのだろう。

 福島県郡山市の美化条例にはごみの持ち去りを禁じる規定があるというが、この狙いはまさしくごみ屋敷の発生を防ぐためで、別名「ごみ屋敷条例」と呼ばれているらしい。事後の対策が難しいのならば、同市のように防止策を取ることも必要ではないか。現実に2割の自治体ですでに問題が起きているのだから。


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なぜ亀山上皇像なのか

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 福岡県庁のある東公園に亀山上皇と日蓮の像がそびえている。日露戦争が始まった1904年、戦意高揚のため、元寇に際して重要な役割を担った二人の像が建立されたと聞くが、以前から不思議に思っていた。蒙古襲来を予見した日蓮はともかく、時の為政者として元寇に対処したのは執権・北条時宗である。なぜ、時宗像ではなく亀山上皇像なのだろうか、と。

 八尋七郎氏という方が1992年に『県史だより』に書かれた「亀山上皇銅像について」という文章を最近読む機会があり、疑問が解けた。やはり、最初は「馬に乗る時宗」像建立が計画されていたようなのである。それがなぜ上皇像に変わったのか。このあたりの経緯が『福岡県議会史 明治編下巻 附録』に記されており、八尋氏の一文はこれを紹介したものだ。

 県議会史に収録されている原典は福岡日日新聞記者の執筆で、孫引きで申し訳ないが、面白い話なので八尋氏の一文から要約させてもらう。

 元寇記念碑(時宗像)建立の計画が持ち上がったのは安場保和知事(在任期間はウィキペディアによると1886~1892年)の時代だったという。当時の福岡署長だった湯地丈雄が知事に命じられて資金を集めたが、この金を安場知事が第2回衆院選(1892年)での選挙干渉に流用してしまった。選挙干渉とは、明治政府よりの政党を勝利させるため、知事自ら警官隊を動員して立憲自由党や立憲改進党の選挙活動等を妨害したという悪質な事件だ。死者さえ出している。

 この資金流用は、後々福岡県政の負の遺産となったが、安場の10年後に知事を務めた河島醇(在任期間は1902~06年)の時代、日蓮宗の僧侶から願ってもない許可願が出された。それが日蓮像建立のための資金集め。河島知事は許可する代わりに、これ幸いと「像二つ分」の資金集めを持ちかける。ただ、日蓮を迫害した鎌倉幕府の執権では具合が悪いだろうということで、時宗から亀山上皇の像に計画を切り替えたのだという。

 建立を巡って巷間伝わっている話とはずいぶん違い、信ぴょう性については分からないが、少なくとも「なぜ亀山上皇なのか」の疑問には十分に答えてくれる内容だとは思う。


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「亀井光」伝説

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 福岡県庁舎を巡って都市伝説じみた噂話が今も語り伝えられている。福岡の人はご存じの人も多いだろう。庁舎を構成する三つの建物を上空から見ると「亀井光」と読めるという、あの話だ。

 亀井光とは、庁舎が出来た1981年当時に知事を務めていた人だ。一応説明すると、「亀」に当たるのが六角形の県議会棟(写真上)で、カメの甲羅のように見えなくもない。「井」は県庁本体に当たる行政棟(写真下の左側)。細長い長方形の建物2棟が平行に建っており、その上ご丁寧にも平行する2本の渡り廊下で結ばれている。最後は県警本部棟(写真下の右側)。建物自体は何の変哲もないが、屋上に太陽「光」パネルが設置されている。

 単なるこじつけのようでもあるが、偶然にしては出来すぎた話でもある。冒頭に都市伝説と書いたのは「県庁舎=亀井光」説を真実と証言する人がいないからだが、私自身は面白いので信じている。ついでに「行政棟の地下深くには玄室があるらしい。県庁は実は亀井氏のピラミッドとして設計されたんだ」という冗談を言いふらしている。もちろん、まったく受けないが。

 亀井氏の5選を阻んだ奥田八二県政の時代、知り合いになった県庁マンに亀井氏の人となりを聞いたことがある。あらかじめ断っておくと、この県庁マンは亀井シンパで、「亀井県政のころは県庁に緊張感があった」と懐かしんでいた人だ。ただ、物凄いワンマンではあったという。自分を支える与党県議の実力者さえ、気に入らなければ怒鳴り上げていたらしい。知事選で奥田氏に敗れた大きな要因は、県民の血税を注ぎ込んで建てた豪華知事公舎問題だった。スリッパ一つとってもとんでもない値段だと言われ、県民の猛反発を浴びた。ワンマンと言うより独裁者、まるでフィリピンのマルコス大統領みたいである。県庁舎を巡る都市伝説が生まれたのもこのあたりが遠因ではないだろうか。

 問題の県庁舎群を設計したのは黒川紀章氏の設計事務所や日建設計なのだが、両事務所のHPを見て面白いことに気付いた。両事務所とも過去に設計を手掛けた建物を多数紹介しているのだが、福岡県庁舎についてはどちらも掲載していないのである。単なる偶然かも知れないが、他の県庁舎などは堂々とPRしているのにである。

 1981年当時としては結構大規模な建築物だったと思うが、それでも両事務所にとって福岡県庁舎は誇れる仕事ではなかったのだろうか。意に沿わない仕事だったのではと邪推したくもなる。やっぱりあれは「亀井光」なのではないだろうか。


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 ※航空写真は国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」から。
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ベランダにヒナ鳥




 8日朝、ベランダから「チー、チー」と甲高い鳥の声がする。何事だろうと出てみると、ヒナ鳥が大口を開けて鳴いていた。近所の庭の木にある巣から落ちたのだと思い、どうしたら良いかと戸惑いながら、取り敢えずカメラを構えた。2枚撮ったところで、ヒナは「チーッ!」と一声鳴いて飛び去って行った。一安心した。飛び方の訓練中だったのだろうか。

 ヒナと言ってもスズメよりも大きなサイズだ。近隣にはムクドリが多数棲んでいるので、多分ムクドリのヒナだろうと思い、写真をもとに調べてみた。ネット上にあった他の画像と比較してみると、どうも我が家の珍客はヒヨドリだったようだ。

 とある動物病院のサイトに、ムクドリ、ヒヨドリはヒナの時代は極めて良く似ているが、くちばし(正確にはくちばしの内側)の色で見分けるとあった。黄色いのがムクドリで、赤っぽいのがヒヨドリ。この情報が決め手になってヒヨドリと判断したのだが、姿形は似ていても食性はまったく異なるらしい。ムクドリの餌は動物性タンパクが80%は必要なのに対し、ヒヨドリは20%程度で十分だとか。仮にヒナを保護することになっていたら、何を与えたら良いかで大騒ぎするところだった。飛び去ってくれて本当に良かった。

 別のサイトには、ヒヨドリの繁殖時期は5、6月とあった。だとしたら、ずいぶん遅く生まれた子供ということになる。2枚目の写真の顔つきが何となく生意気な感じで、おかしい。

 
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「殺人県」福岡

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 先日書いた「マルヨ無線事件」で福岡の古い事件に興味を覚え、『実録・福岡の犯罪』(フクオカ犯罪史研究会編、葦書房、1993)という本を読み返している。フクオカ犯罪史研究会編とはなっているが、実際には福岡に昔あった地域紙フクニチ新聞の連載記事を再録したものだ。

 手元にある下巻には、1952年の門司の幼児三人殺しから1983年のホテル「月光苑」放火殺人まで計25件の事件が収録されているのだが、23件までが殺人事件だ。「殺人県・福岡」。こんな恐ろしい表現がこの本の中にあったが、なるほどその通りである。以前、2chなどで福岡県が「修羅の国」と揶揄されていることを紹介したが、「殺人県」の方がはるかに生々しい。

 紹介されている事件をいくつか挙げると、佐木隆三さんの『復讐するは我にあり』のモデルとして有名な西口彰事件をはじめ、「十人殺し」古谷惣吉による連続殺人(被害者8人。これ以前にも2人を殺害し服役している)、津田院長殺害事件などがある。

 これらの事件は有名どころと言えそうだが、1954年に現在の豊津町で起きた一家8人殺害事件などはこの本を読むまでまったく知らなかった。別れ話のもつれから、男が内縁の妻とその家族を襲い、鍬で殺傷したという事件だ。福岡と言えども、一度にこれだけの犠牲者を出した事件は空前絶後ではないか。犯行現場は比喩でなく血の海で、現場検証を行った捜査員らは血に浸かる状態だったという。

 『実録・福岡の犯罪』が取り上げたのは1983年までの事件だが、その後も凶悪犯罪が相次いでいる。死刑が確定した事件だけでも、飯塚の2女児殺害(1992年。2008年に刑が執行されたが一部で冤罪の指摘がある)、久留米の看護師による連続保険金殺人(1998~99年)、福岡3女性殺害(2004~5年)など少なくない。

 また、1・2審で死刑判決が出され、上告審を待っている事件でも、親族ら7人が男女2人によって皆殺しにされたと言われる北九州監禁殺人(2002年事件発覚)をはじめ、中国人の元留学生による福岡一家4人殺害(2003年)、大牟田の元組員一家による知人家族ら4人殺害(2004年)などがある。

 こうして見ると、1990年代後半から2000年代初めにかけて福岡では毎年のように大量殺人が起きている。まるで戦後の混乱期のようだ。これは“たまたま”なのか、福岡という土地柄に何か問題があるのか。行政、ないしは警察が社会病理学的な側面から本腰を入れて研究する必要があるのではないだろうか。

 写真は、数多くの殺人事件を裁いてきた福岡地・高裁。
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