布団詰め死体駅送事件


 福岡で戦後に起きた事件を調べる中で、推理小説まがいの殺人事件に出くわした。1957年(昭和32年)、福岡市の国鉄吉塚駅(当時)で、荷物の中から布団にくるまれた男性の死体が出てきたという事件だ。当時は「死体駅送事件」などと騒がれ、新聞も連日大扱いだったようだが、福岡ではあまり記憶されていない事件ではないかと思う。死体の“終着駅”が吉塚だったというだけで、主舞台が東京だったためだろうか。せっかくなので“忘れられた猟奇事件”の概要を紹介したい(年齢は当時)。

 死体が見つかったのは同年5月2日午後4時半ごろ。駅止めで届いた荷物が悪臭を放っているのに運送会社員が気付き通報、警察官が中身を改めたところ、布団とビニール製カバーに何重にもくるまれた若い男性の腐乱死体が出てきた。男性は丸首シャツにパンツ姿。荷物は3月10日、東京汐留駅で受け付けられ、いったん名古屋に送られた後、吉塚に転送されてきたことが荷札からわかった。この荷札を残したことが犯人の大失態だったと後にわかる。

 死体発見からしばらくは被害者の身元特定も困難を極めたが、死体を包んでいたビニール製カバーの販路をたどっていた警視庁捜査本部が有力情報をつかむ。このカバーを都内の衣類販売店が多数購入していたのだが、同店から布地を持ち逃げした販売員のSという男(20)がいることを突き止めたのだ。Sの交友関係を洗ったところ、同業の男性Cさん(22)が行方不明となっていることも判明した。死体の体格や年齢がCさんと一致する。さらにSが死体が梱包されていたものとそっくりの荷物を近所の運送屋に頼んで発送していたこともわかり、捜査本部は容疑者と断定。死体発見から約20日後の21日、Sを潜伏先の岡山で強盗・殺人・死体遺棄容疑で逮捕した。

 逮捕後のSの供述によると、被害者のCさんとは一緒にスーツ生地の外商を行っていたが、売り上げをめぐって争いになり、同年3月5日、こん棒で数回Cさんを殴って殺害。Cさんが持っていた現金50万円を奪った後、同10日に死体を汐留から名古屋に発送した。犯行から発送までは5日間の間がある。死体と一緒に暮らしながら、処理方法について頭を悩ませていたのだろう。いったん名古屋に送ったのは犯行現場が東京であることをわからないようにするためで、自身が名古屋に行って荷物を受け取った後、吉塚に転送したのだが、この時、東京からの荷札を1枚取り忘れたことが命取りになった。あるいはこのミスがなく、犯行現場が東京とすぐに判明しなければ、事件の解決は遅れていたかもしれない。

 当時の裁判は(良し悪しは別にして)相当スピーディーだったようで、逮捕から半年後の同年11月には東京地裁の1審判決が出されている。検察側は死刑を求刑したものの、犯行当時は未成年だったこと、幼くして両親を失い劣悪な環境で育ったことなどを酌量し、地裁は無期懲役の判決を下した。翌1958年3月の控訴審判決でも同様の判断が下され、刑が確定している。それから今年で54年、恐らくすでに仮釈放されていることだろう。写真は現在のJR吉塚駅。
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福岡拘置所の確定死刑囚一覧


 「福岡拘置所の確定死刑囚20人突破」という記事を昨年12月に書いた。実際に誰が収監されているのか? 一覧作りに挑戦した。確定死刑囚の名前はインパクト出版会の『年報・死刑廃止』シリーズなどを参考に、事件内容(犯罪事実)は過去の新聞記事などを参照した。(※氏名の後ろは生年月日。被害者の年齢はすべて当時。このブログで取り上げたことがある事件に関してはリンクを張っている)

  •  尾田信夫(1946.9.19)(マルヨ無線事件、最高裁判決1970.11.12)1966年12月5日、現在の福岡市博多区下川端にあったマルヨ無線川端店に、元店員だった尾田が少年とともに押し入り、店員2人をハンマーで殴り現金を強奪。さらにストーブをけり倒して放火し、逃走した。この火事により店員1人が死亡。公判では弁護側が尾田の精神鑑定を申請。裁判所はこれを認めるが、尾田は病院から一時脱走している。「マルヨ無線事件」「20歳には見えない」「尾田信夫の行動力」

  •  浜田武重(1927.3.10)(3連続保険金殺人、同1988.3.8)内縁の妻(病死のため公訴棄却)と共謀、福岡県内で1978年から1979年にかけて、保険金目当てに妻の連れ子など3人を次々に殺害した。しかし、2件については事故死だとして無罪を主張。「1979年、浜田武重がいた場所」

  •  金川 一(1950.7.7)(熊本主婦殺人、同1990.4.3)1979年9月、熊本県免田町(現在のあさぎり町)の畑で農作業中の主婦(21)を襲い、乱暴の後、刃物で殺害した。同死刑囚は18歳の時に強盗殺人を犯し、10年間服役。主婦殺害は出所直後の事件であったこともあり、極刑が下った。1審途中から自供を翻し、無罪を主張。「免田町主婦殺害事件」

  •  大城英明(旧姓・秋好)(1942.3.10)(内妻一家4人殺害、同1997.9.11)1976年6月13日、内縁の女性との結婚を妻の姉に反対されたのを恨み、福岡県飯塚市の姉宅に押し入り一家4人=姉(44)、姉の夫(46)、姉夫婦の長女(20)、姉と女性の母(73)=を殺害。ただし、3人は女性が殺害したとして一部冤罪を主張している。

  •  倉吉政隆(1951.7.2)(男女強殺、同2004.12.2)1995年4月18日、仲間の男と共謀し、福岡県山川町(現在の久留米市)で知人の会社役員(46)を射殺し、貴金属などを強奪。一緒にいたフィリピン人女性(25)も殺害し、2人の遺体を阿蘇の牧草地に埋めた。倉吉死刑囚は事件当時、バーを経営しており、フィリピン人女性はホステスとして勤務。殺害された会社役員は常連客で、女性と交際中だった。多額の借金を負っていた倉吉死刑囚らはこの事件前後に連続短銃強盗事件を起こし、逮捕。共犯の男が2人の殺害を自供し、強殺事件が明るみに出た。共犯の男には無期懲役判決が下っている。「倉吉政隆・短銃強盗団」

  •  石川恵子(1958.5.23)(宮崎2女性殺害、同2006.9.21)父親の経営する工務店の資金繰りに困り、1996年8月と97年6月、女性を相次いで強殺、遺体を畑や山林に遺棄した。弁護人が婦女暴行未遂事件を起こし、1審判決が延期されたほか、死刑を言い渡した宮崎地裁裁判官が控訴を勧めるなど法廷内外の“事件”も注目を集めた。当初、死刑判決を受け入れることを表明した石川死刑囚だったが、裁判官の勧めに従い控訴。結局は最高裁まで争った。「死刑囚と西都」

  •  松田康敏(1968.2.23)(宮崎独居女性連続強盗殺人、同2007.2.6)2001年11月、宮崎県西都市のスナック経営の女性(53)宅に侵入し、包丁で女性の胸を刺したうえ首を絞めて殺害。同年12月には同県国富町の雑貨店経営の女性(82)を首を絞めて殺害し、現金63万円を奪った。(2012年3月29日執行、44歳)

  •  中原澄男(1947.6.3)(暴力団抗争連続殺人、同2007.6.12)太州会系暴力団組長。1997年10月、対立する暴力団組長を配下の組員に命じて路上で射殺。さらに実行犯の一人を口封じのため殺害し、穴に埋めた。死刑確定前、2002年9月に福岡県二丈町(現・糸島市)で起きた立てこもり女児殺害事件の犯人、川村忠(無期懲役が確定)の養父となっている。

  •  外尾計夫(1947.7.11)(佐賀・長崎連続保険金殺人、同2008.1.31)愛人関係にあった山口礼子受刑者(無期懲役判決)と共謀し1992年9月、山口受刑者の夫(36)を睡眠薬で眠らせ“佐賀県”の海に突き落として殺害、1億円近い保険金をだまし取った。これに味をしめた外尾らは98年10月に山口の次男を海に突き落として殺害、再度を保険金をだまし取ろうとしたが、今度は現場が“長崎県”の海だったため同県警が疑惑を抱き、事件発覚。以前から捜査能力を疑問視されてきた佐賀県警は第一の事件を見逃し、結果として次男の死を招いたことで、大きな批判を浴びた。

  •  松田幸則(熊本松橋男女強殺、2009.4.3上告取り下げ)2003年10月16日、熊本県宇城市松橋町の女性(54)宅で、女性と同居人の男性(54)を包丁で刺して殺害。現金8万円余りを奪った。(2012年9月27日執行、39歳)

  •  菅 峰夫(1950.10.4)(福岡庄内町連続強盗殺人、最高裁判決2009.12.11)1996年6月、手柴勝敏・元死刑囚と共謀、共同で土地開発事業を行っていた不動産会社社長(59)を絞殺。さらに同年11月には建設会社社長を殺害し、現金900万円などを奪った。手柴・元死刑囚は2010年4月、獄中で病死。

  •  吉田純子(1959.7.10)(久留米看護師連続保険金殺人、同2010.3.18)病院の同僚らと共謀し1998~99年、同僚の夫2人を鼻から医療用チューブで大量のウイスキーを流し込むなどして殺害。保険金約6750万円をだまし取った。(2016年3月25日執行、56歳)

  •  尾崎正芳(1974.5.16)・原 正志(1957.8.12)(替え玉保険金殺人等、同2010.11.8)2002年1月8日、以前の勤務先の顧客だった北九州市八幡東区の男性(73)宅に押し入り男性を刺殺、印鑑と通帳を奪い住宅に放火して逃走した。さらに原にかけた生命保険金をだまし取ろうと替え玉殺人を計画。ホームレス男性(62)を睡眠薬で眠らせ、大分県内の川で水死させた。「大分替え玉保険金殺人」

  •  鈴木泰徳(福岡3女性殺害、同2011.3.8)2004年12月12日、福岡県飯塚市の公園で専門学校生(18)の首をマフラーで絞めて殺害。同31日には北九州市小倉南区の路上でパート従業員の女性(62)を包丁で刺殺、さらに05年1月18日には福岡市博多区の公園で会社員女性(23)を刺殺し、現金などを奪った。消費者金融に数百万円の借金を抱えていたのが犯行の動機だったが、奪った会社員女性の携帯電話でアダルトサイト接続を繰り返すなど異常な行動が目立った。最高裁判決時の年齢は41。「鈴木泰徳の転落」

  •  渕上幸春(1969.1.23)(詐欺共犯者殺害事件、同2011.4.19)1999年3月、交通保険金詐欺の共犯(47)を口封じのため睡眠薬で眠らせ絞殺。遺体を知人に依頼し産廃処分場に埋めた。さらに詐欺に気付いた税理士(47)を粘着テープで縛ったうえトラックでひいて殺害。渕上は筋ジストロフィーを患っており、公判には車椅子で出廷。弁護側は「体の不自由な渕上が絞殺するのは不可能」と無罪を主張した。

  •  北村実雄・真美・孝・孝紘(大牟田4人殺害、同2011.10.3=真美・孝紘、10.17=実雄・孝)2004年9月18日、一家4人で知人女性(58)を殺害し、現金26万円を強奪。女性の長男(18)、その友人(17)も口封じのため殺害した後、さらに女性の次男(16)も殺害した。最高裁判決時の年齢は北村実雄(67)・真美(52)・孝(30)・孝紘(27)。死刑確定後、実雄は広島拘置所、孝は大阪拘置所に移送。「大牟田4人殺害、死刑確定へ」

  •  魏巍(福岡一家4人殺害、同2011.11.20)2003年6月20日、他の中国人2人とともに福岡市東区の衣料品販売業の男性(41)宅に押し入り、男性の妻(40)と長男(11)、長女(8)を次々に殺害。帰宅した男性にも重傷を負わせた後、3人の遺体とともに博多湾に投げ入れ殺害した。共犯2人は中国に逃走後逮捕され、1人は死刑がすでに執行され、1人は無期懲役に服している。最高裁判決時の年齢は31。「福岡一家4人殺害の現場」

  •  松永 太(1961.4.28)(北九州監禁殺人、同2011.12.12)1996年2月~98年6月、内縁関係にあった緒方純子受刑者と共謀し、緒方の父母、妹家族など計7人を次々に殺害(1人は傷害致死を認定)した。1審では緒方にも死刑判決が下ったが、凄まじい虐待により松永に逆らうことができなかったとして2審は無期に減軽。最高裁もこの判断を踏襲した。



  •  田尻賢一(熊本2人強盗殺人、2012.9.10上告取り下げ)2004年3月、熊本県宇土市の開業医宅に押し入り、妻をスパナで殴るなどして殺害し現金18万円を強奪。さらに7年後の2011年2月には熊本市の会社役員宅で妻をナイフで刺し殺害、帰宅した役員にも重傷を負わせ、現金10万円を奪った。上告取り下げ時の年齢は41歳。裁判員裁判で1審を裁かれた者としては3人目の死刑確定者。
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大名小学校の校舎



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 福岡市からまた一つ、数少ない近代建築が消えるかもしれない。1929年(昭和4年)完成の大名小学校校舎(中央区大名、鉄筋コンクリート3階建て)だ。同市の市立学校校舎では唯一戦前から残る。学校自体は市中心部の児童数減少による統廃合のため、2014年3月で廃校になることが決まっている。地域のシンボルでもあった重厚でモダンな校舎存続を願う声も上がっているが、例によって福岡市のやることだ。どうも雲行きが怪しい気がする。

 学校は1873年(明治6年)、大明小学校として開校した。学校の歴史も市内では一番古い。OBの一人には城山三郎さんの『落日燃ゆ』で有名な元首相、広田弘毅もいる。こういった学校の歴史も踏まえ、郷土の先人資料館として活用を提案する市議もいるが、市側の回答は「校舎の歴史的価値を調査したうえで検討する」。ただ、市議会本会議での教育長答弁をたどっていくと、ニュアンス的には次第に後退しているように感じられる。

 例えば、2010年12月議会の答弁では「昭和4年の建築で80年以上がたっており、本市の学校で唯一現存する戦前の校舎」とだけ述べていたのが、2011年3月議会では「建築80年以上経過し老朽化など進んでいることから、取り扱いには慎重な判断が必要だと考える」と老朽化を強調するような答弁に変じている。歴史ある建物なのだから老朽化するのは当然のことで、それをきちんと保全していくのが文化行政であるはずだろうに。第一、この建物に関しては現役の校舎なのだから、一番重要な耐震補強は行われているのだ。老朽化を理由に保存できないとは思えない。

 市側は最近になって、大名小の敷地の一角にある市立青年センターの廃止を打ち出した。「役割を終えた」との理由で、大名小と一体で跡地利用を考えていくのだという。下の地図でもわかるように、市の中心部・天神に隣接し、目抜き通りの明治通りにも面した一等地に結構な広さのスペースが生まれるのだ。財政難にあえぐ福岡市が有効活用を考えても不思議はない。実際、昨年3月議会では教育長のほかに、市役所内の“デベロッパー”住宅都市局長も答弁に立ち、「都心の魅力を向上する上で重要な役割を担う場所であると考えております」などと述べている。雲行きが怪しいと感じるのは、こういった点からだ。

 市教委が行っている大名小校舎の歴史的価値を探る調査は3月にもまとまり、市側はこれを参考に2012年度中に保存か取り壊しかの方向性を打ち出すという。結論を注視したい。


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服役60年超の無期囚

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 先日紹介した法務省公表資料「無期刑の執行状況及び無期受刑者に係わる仮釈放の運用状況について」に驚くべき記載がある。仮釈放審理状況を示した表に、服役期間が60年10月にも上る受刑者の存在が明らかにされているのだ(下表の赤枠参照)。審理が行われたのは平成22年(2010年)のことだから、現在も存命ならば刑務所暮らしは63年に及ぶ。

 2010年時点で70歳代。従ってこの受刑者は少年の時に犯した罪で服役していることになる。表に記されている罪名は強盗致死傷と放火、被害者は3人(死者は2人以上)。この条件に当てはまる犯罪を調べてみたが、特定することはできなかった。ただ、ネット上に1947年12月に鹿児島市で起きた「雑貨商一家強盗殺傷事件」だと断定する情報があった。

 あまりに古い話なので、事件を伝える記事等も探し当てることはできなかったが、ネット上の情報では、当時17歳の少年が金目当てに雑貨商宅に押し入り、一家3人のうち2人を斧で殺害、1人に重傷を負わせ、放火して逃走したというものだ。少年には1948年、福岡高裁が死刑判決を下したが、現行少年法制定に伴う恩赦で翌49年4月、無期懲役に減刑されたという。

 犯罪事実が法務省資料と一致しているほか、犯行時の年齢や刑確定時期なども同資料から推し量られる数字と符合しており、恐らくこの情報は正しいものと思う。別のサイトの情報によると、この受刑者は現在、北九州医療刑務所(北九州市小倉南区葉山)に収容されているらしい。つまり精神を病んでいるということだ。

 60年以上も社会と隔絶された生活を送っているのだから、精神に異常を来たしても不思議はないと思うが、死刑を免れたのは彼が犯行当時少年であったため、更生を期待されたからだろう。しかし、以前は20年程度の服役で仮釈放が許可されるケースがあったというのに、彼には60年以上経ても許されなかった。「更生を果たせなかった」ということだろうか。それとも司法側は罪一等こそ減じたものの、娑婆に戻す気は最初からなかったのだろうか。

 仮釈放の審理は一度「不許可」になると、次は10年後だという。彼がその機会を得られるのは2020年、90歳を目前にしての時期となる。彼以外でも、2010年時点で仮釈放が不許可になった70歳代の受刑者が下表にはずらりと並んでいる。刑務所の老人ホーム化がよく指摘されるが、こういった資料を見ると、それが本当に理解できる。写真は法務省旧本館。


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破天荒の弁護


 「山口の母子殺害、20日判決」で書いた光母子殺害事件の上告審判決が20日言い渡され、最高裁は大月孝行被告(旧姓・福田)に対し死刑やむなしの判断を下した。被害者2人の少年事件で死刑判決が確定するのは、永山基準が示されて以降では初のケースという。これ以後の少年事件での死刑確定は永山事件を含め、市川一家4人殺害事件、連続リンチ殺人と被害者はすべて4人だ。今回の判決は今後、「光母子殺害基準」あるいは「大月基準」として、少年犯罪に死刑判決を下すうえでの新たな判断基準となるのだろうか。

 この事件の裁判で印象に残ったのは、差し戻し控訴審で弁護団が展開した「ドラえもん」「魔界転生」などの被告供述をベースにした弁護活動だった。不愉快という以上に、非常に不可解な弁護だなと思っていたが、『年報・死刑廃止04-無実の死刑囚たち』(2004年、インパクト出版会刊)を読み、納得する部分があった。「司法改革と死刑」と題した座談会の模様が収録されているのだが、この中で光母子殺害事件の主任弁護人・安田好弘弁護士が以下のような発言をしているのだ。

 「(略)弁護というのは自由でなければならないし、多くの非難を受けても破天荒の弁護というのは案外成功するものでしてね(笑)、そういうところにじつは弁護の本質があって、そういうもので弁護というのは切り開かれてきたと思うんです(以下、略)」(下線は筆者)。

 なるほど、2007~8年の差し戻し控訴審での弁護は、この言葉を実践したものだということがよく理解できる。ただ、当人の予想通り多くの非難こそ浴びたが、弁護としてはまったく成功しなかったのではないか。差し戻し控訴審判決で広島高裁は「荒唐無稽」と一顧だにすることなく退け、最高裁もこの判断を踏襲した。安田弁護士は、大月被告の1・2審の弁護人を「犯罪事実についてほとんど関心がなかった」と厳しく批判しているが、少なくとも1・2審の弁護人は無期懲役を“勝ち取った”。法廷で「生きたい」とすすり泣いたと伝えられる大月被告にとっては、どちらの法廷戦術が良かったのだろうか。写真は永田町側から見た最高裁。



 <追記>大月被告に対する第二次最高裁判決が、少年犯罪に対して死刑判決を下すうえでの今後の新たな判断基準になるのだろうか、と書いた。法曹関係者、あるいは研究者の間では「あくまでも例外的なもの」という評価が大勢のようだが、現実には「死刑回避は不当」と高裁に差し戻した2006年6月の第一次最高裁判決が、すでに新たな死刑判断基準となっているように思える。

 良い例が「石巻3人殺傷事件」だろう。一審・仙台地裁の裁判員裁判は2010年11月、18歳の少年に対し死刑判決を下したが、光事件との量刑のバランスが大きな判断材料となっている。大月被告に対しては第一次最高裁判決は死刑を下したも同然だったが、殺人の計画性などの点で、より悪質と思われる石巻事件が無期懲役では公平を欠くという考えだ。2008年4月の差し戻し控訴審での死刑判決後、土本武司氏は「死刑適用のリーディング・ケースになり得よう」(2008年10月、白鴎大学法科大学院紀要『死刑をめぐる諸問題』)と述べられているが、死刑を確定させた第二次最高裁判決により、この流れは一層強まるのではないだろうか。
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人工島事業、385億円の減収

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 福岡市が博多湾で進める人工島(アイランドシティ)事業の収支が180億円の赤字になるとの報道があった。一向に土地が売れないため、市は分譲価格を大幅に引き下げる方針で、これによって見込んでいた125億円の黒字がきれいさっぱり消え、逆に大幅赤字に転落するという。

 差し引き305億円の減収となる計算だが、この事業で減収が明らかになるのは初めてのことではない。2009年の事業計画見直しの際にも今回とは別の区画の分譲価格を引き下げ、80億円の減収となると公表していた。減収は計385億円の巨額に上るわけだ。これは「見通しが甘かった」で済む話なのだろうか?

 アイランドシティの公式サイトに2009年策定の事業計画が掲載されているが、この時点の収支計画は下表のようになっていた。土地分譲は、港に面した産業用地の第1~4工区、島の東部に位置する主に住宅地の第5工区に分けて行っており、2009年に分譲価格を引き下げたのは第5工区。最初の減収80億円はこれで生じた。

 第1~4工区はこの時点では据え置いたが、分譲面積78.5haのうち、現在までに売れたのは14.2haにとどまっている。2027年度までに残る約64haを売却する計画だが、現在の経済状況を踏まえれば、見通しは極めて暗い。そこで1平方m当たり13万円から10万円以下まで引き下げる方針を固めた。これによる減収は単純計算では約193億円だが、土地すべてを売却することはあきらめ、一部に定期借地も導入予定のため減収幅が拡大するということらしい。

 この事業、下表でわかるように事業費はすべて借金で賄われており、土地の売却収入で元利償還していく仕組みだ。特別会計で運営されているため、市税や国税からなる一般会計とは一応は切り離されており、大幅赤字転落を明らかにした高島市長の会見でも公金による補填は強く否定したらしい。しかし、こども病院、青果市場に続き、新・市立体育館の建設地まで人工島が候補地として挙がっている。売れない土地を市が自分で利用するわけだから、これも形を変えた公金投入だろう。

 提案がある。人工島を推進してきた全ての市幹部・職員(退職者も含め)が自ら島内に土地を買い、家を建てたらどうだろうか。何より土地がさばけるし、こども病院人工島移転を危険という理由で反対している市民たちの中にも「移転を進める市職員自身がたくさん住んでいるのならば」と納得する人が出てくるかもしれない。「見通しが甘かった」程度の釈明で済み、役人が誰一人として結果責任を負わないのならば、同じ過ちが何度も繰り返されるだけだ。

 <追記>福岡市がその後、定期借地期間の延長などで赤字額を180億円から160億円に圧縮すると発表した。この数字に基づくと、減収幅は365億円に縮小される。


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福岡拘置所史

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 前エントリーに続いて昭和時代の連続殺人犯・西口彰の話である。ネット検索すると、西口の死刑執行を、戸籍法に基づき福岡市長に報告した時の文書が出てくる。恐らく公文書が流出したのではなく、彼をモデルにした小説『復讐するは我にあり』の中にある記載を、小説の主人公・榎津巌から西口彰に名を変えて転載したものだと思うが、これには執行場所が「福岡市百道2-16-10 福岡刑務所土手町拘置支所」と記されている。私もそうだったが、福岡にお住まいの人は首をひねられるのではないかと思う。百道2-16-10とは拘置所の現在地なのだが、この付近が土手町と呼ばれたことはあっただろうか、と。

 福岡市総合図書館に『福岡刑務所史』(1977年、福岡刑務所発行。非売品)という書籍があり、一部疑問が解けた。刑務所史と言っても年表と当時の職員の住所録が収録されているだけで小冊子程度のボリュームだが、色々と興味深くもあった。以下に関係する記載をまとめてみた。

  •  大正2年 福岡監獄が福岡市須崎浜から早良郡西新町藤崎(住所表記は異なるが、ほぼ現在地)に移転。須崎浜は女性の受刑者や未決囚らを収容する出張所として残る。
  •  同5年 須崎浜出張所が福岡市土手町に移転し、福岡監獄土手町出張所となる。
  •  同11年 福岡監獄が福岡刑務所に改称。
  •  昭和23年 福岡刑務所に新刑場が完成し、死刑執行が可能に。これ以前は広島刑務所に移送し、ここでは行われていなかった。死刑執行刑務所指定は翌年。
  •  同40年 土手町拘置支所(旧・土手町出張所)が福岡刑務所本所敷地内に移転する一方、本所は福岡県宇美町に移転。
  •  同42年 土手町拘置支所が福岡拘置支所に改称。

 土手町とは現在の中央区大名2丁目の辺りだ(下の地図参照、クリックで拡大)。そこにあった拘置支所が現在地の百道に移転したものの、施設名はそのまま旧名を名乗っていたということらしい。百道に別の地名を冠した拘置支所があったわけだ。ただ、「一部疑問が解けた」と書いたのはもう一つおかしな点があるからだ。

 上の年表にあるように、移転から2年後の昭和42年(1967年)には福岡拘置支所に改称している。西口彰の刑執行はこの後の同45年(1970年)12月のこと。従って執行施設は「福岡拘置支所」であるはずなのだ。この部分が(固有名詞を意識的にぼかした)小説からの転載だろうとみている理由なのだが。

 刑務所史に書かれた以降のことを付け加えると、福岡拘置支所は1996年5月、法務省の組織改編に伴い福岡拘置所に昇格している。


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西口彰の母校



 タイトルの西口彰とは佐木隆三さんの小説『復讐するは我にあり』のモデルとなった連続殺人犯(被害者は5人)だ。彼の事件を調べていて、福岡市のミッションスクール(旧制中学校)を中退していることを知った。1925年(大正14年)生まれだから、彼が旧制中学校に通ったのは1940年(昭和15年)ごろ。男子が入学できるミッションスクールと言えば、福岡市には当時も今も2校しかない。中央区輝国にある泰星(現在は上智福岡に改名)と早良区西新の西南学院だ。

 二者択一なので簡単に突き止められるだろうと思ったが、これが意外にわからない。福岡県立図書館の郷土資料室にこもったが、それらしい資料は見当たらなかった。西口の両親はカトリック信者だったというので、信教の点では泰星だろうが、当時大分県別府市在住だった彼がわざわざ福岡に進学してきたという点から考えれば、歴史が古く、学校規模、知名度とも上の西南学院だったようにも思える。同学院の校史をめくったが、現在でこそ地元の子供しか通わない学校だが、当時は大きな寄宿舎を備え、県外の生徒が多数在籍していたらしい。

 もう一つ、意外な事実に行き当たった。西口が死刑確定後、福岡拘置所で点訳奉仕をしていたのは有名な話で、彼の点訳本で勉強した全盲の大学生が無事卒業できたという話が伝わっている。『復讐するは我にあり』のラスト近くにもそんなシーンがある。古い新聞記事を調べてみると、西口の点訳した哲学書により、卒論を書き上げた全盲の男子学生(早稲田大生)を紹介する記事が実際に見つかった。

 意外というのは、男子学生のその後で、現在は地方議員として活躍されているのだ。今さら西口彰との関係で名前が出るのは迷惑と思うので名前は伏せるが、全盲の議員誕生ということで、当選時には大きな話題となったようだ。

 『復讐するは我にあり』は2007年、福岡市の弦書房から改訂版が出版されている。写真は西南学院の寮があったと思われる西南学院中高の旧敷地。現在は法科大学院がある。
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山口の母子殺害、20日判決


 山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の最高裁判決が20日に言い渡される。差し戻し控訴審で、広島高裁が被告の男に下した判決は死刑。同高裁はこれ以前に一度、無期懲役の判断を下したが、最高裁は2006年「死刑回避は不当」との理由で判決を破棄、高裁に審理を差し戻した経緯がある。わかりづらいので、これまでの判決を時系列まとめると以下のようになる。素人考えだが、この流れを踏まえれば、死刑以外の判決が出るとは考えにくい。

 ▽2000年3月 死刑の求刑に対し山口地裁が無期懲役判決
 ▽2002年3月 広島高裁が検察側の控訴を棄却
 ▽2006年6月 最高裁が審理を高裁に差し戻す
 ▽2008年4月 差し戻し控訴審で広島高裁が一転死刑判決
 ▽2012年2月 最高裁判決

 被告は犯行当時18歳だったため、現在でも報道では「元少年」などと匿名表記だが、現実には間もなく31歳になる。2000年の1審判決で無期懲役判決を受けた後、知人に「無期はほぼキマリ、7年そこそこに地上に芽を出す」(ウィキペディアより引用)との手紙を送っていたことが暴かれたが、未決勾留期間は7年どころか、すでに13年にもなる。

 それにしても「7年」とは、どれだけ自分の罪を軽くみていたのか。確かに少年犯罪の場合は7年の服役(成人は10年)で仮釈放の対象とはなるが、現実には7年や10年程度で娑婆に出られるはずがない。彼が甘っちょろい見通しを書いた2000年の場合、仮釈放が認められた無期懲役囚の平均受刑期間は21年2月だった。

 その後の刑法改正で有期刑の上限が30年に引き上げられた結果、仮釈放が認められるまでの期間は大幅に長くなっており、2010年では35年3月に及ぶ。しかも、これはあくまでも“仮釈放が認められた幸運な受刑者”の平均であって、受刑期間が50年を超えても認められなかった者が多数いるのだ。これらの数字は法務省が昨年11月に公表した「無期刑の執行状況及び無期受刑者に係わる仮釈放の運用状況について」に詳しく記されている。

 あえて付け加えれば、未決勾留期間は受刑期間に算定されない。20日の判決で万が一無期懲役に減軽されたとしても、被告が運良く出所できるのは、現在の傾向に従えば、今から30数年後、60歳を大きく超えた時だ。この男は仮に還暦を超えてもなお少年法に守られ、「元少年」と呼ばれるのだろうか。写真は最高裁。

 <2月20日追記>最高裁が20日、元少年側の上告を棄却、広島高裁の死刑判決が確定することになった。事件発生以来13年間、少年法に守られ匿名で報じられてきた元少年だが、「死刑が確定する以上、もはや更生の機会なし」と報道機関はこの日をもって一斉に実名に切り替えた。大月孝行被告、30歳(1981年3月16日生)。ただ、大手マスコミは匿名だったとは言え、ネット上には以前から実名が流布し、彼の名字をズバリ題名に取った書籍さえあった。いつ「福田」から「大月」に改姓したのだろう? 確定死刑囚への面会は親族以外は難しいと聞いた。あるいはこの事態に備え、支援者との間で養子縁組を行ったのだろうか。
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執行猶予付き死刑


 1999年6月、福岡空港敷地内の緑地に中国人女性の遺体が遺棄されていた事件で、中国に逃げ帰っていた交際相手の男に同国側が「執行猶予付き死刑判決」を下していたとの報道が2月4日あった。「執行猶予」という表現に戸惑ったが、“服役中”に一定期間(この事件では2年)問題を起こさなければ無期懲役などに減刑するという仕組みで、少し古い産経新聞記事には「死の恐怖を与え、人間改造を図る」手段とあった。当たり前だが、保釈されるわけではないようだ。

 肝心の事件をまったく覚えていなかったので、図書館で古い記事を探してみた。それによると、遺体を最初に見つけたのは緑地の手入れをしていた造園業者で、死後約3か月。当初身元不明だったが、所持品等から不法滞在していた元研修生の中国人女性と後に判明した。交際相手の留学生が彼女を通じて金を借りまくっていたことがわかり、疑いの目が向けられたが、すでに出国した後だった――というのが事件の概要だ。

 女性の死因は不明のため、日本では厳密には殺人事件として扱われているわけではないが、金銭のもつれから凶行に及んだと想像できる。被害者が同じ中国人であることを別にすれば、福岡一家4人殺害事件をはじめ、その後多発した中国人留学生による金目当ての凶悪犯罪と同根の事件と言えるだろう。

 2月4日の記事によると、福岡県警は中国側に捜査協力を求めていたが、何の音沙汰もなかったため、捜査資料も提供していない。なのにICPOを通じて照会したところ、すでに10年前の2002年、男に死刑判決が下されていたことがわかった。福岡県警は中国側がどのような証拠に基づき裁いたのか首をひねっていることを記事は伝えている。刑が執行されたかどうかの回答も依然中国側からはないという。

 それにしても2002年とは。被害者が同じ中国人だったことも大きいだろうが、日本で犯した罪に対し、例え中国に逃げ帰っても厳罰が下される。しかも、きちんとした証拠がなくても。この判決がもっと早く明らかになっていれば、「留学生の犯罪」の抑止力になっていたかもしれないのに、と惜しまれる。福岡一家4人殺害が起きたのは翌2003年6月のことである。それとも同国人を殺害しては証拠がなくとも厳罰に処される。だから、日本人に牙をむき始めたと考えるべきだろうか。

 写真は遺体が見つかった福岡空港第3ターミナル付近。
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