クマ牧場の古い写真

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 上の2枚は1996年8月、札幌市の定山渓クマ牧場で撮影した写真だ。保存していた入場券の半券(下の写真)によると、当時の正確な施設名は「定山渓羆牧場」で、入場料は大人1000円。2004年に閉園したが、引き取り手のなかったクマたちが劣悪な環境で飼育されているとして昨年問題になったところだ。

 改めて写真を見てみると、狭いスペースで多数のクマが飼育されている。今になってみれば「動物虐待」の指摘が良くわかる。ただ、クマたちの肉付きは悪くないようだし、餌を求めて観光客(私たち)に愛想を振りまいている個体も少ない。少なくともこの時は餌は足りていたように思える。地面も汚れてはいないようだ。閉園する8年前だが、この当時はまだ経営悪化はそれほど深刻ではなかったのだろう。

 昨年秋に飼育環境が問題になった時、札幌市が施設への立ち入り調査を行っているが、この時点で計13頭のクマが生き残っていたと報道されている。秋田県の八幡平クマ牧場で女性従業員2人がクマに襲われ死亡した事故を受けて、札幌市が4月25日、再び立ち入り調査を行っているが、この時の報道ではクマの数は10頭だ。約半年の間に3頭減ったことになる。今になって引き受け手が現れたとは思えない。恐らく死んだのだろう。クマたちが今も厳しい状況で暮らしていることが想像される。


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福岡市役所ロビー大改装

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 市役所1階は、住民登録や証明書を取りに来た市民らでおおむね混雑しているものだが、福岡市役所の場合は先日までガラーンとしていた。窓口業務は区役所で行われているので、職員や出入りの業者でもない限り、一般市民はあまりこの役所に用がないのだ。ロビーにはこれまで小さな市政情報コーナーがあった程度(これさえも昔は近くのイムズビルに置かれていた)で、天神の一等地にありながら、まるまるワンフロアがほとんど活用されていなかった。

 高島市長はこの状況をもったないと思ったのだろう。2月から大掛かりなロビー改装工事に乗り出し、早くも4月27日には一新されたロビーが市民にお披露目された。目玉は新しく出店したカフェ。運営には社会福祉法人も加わっており、障害者雇用の場も兼ねている。市役所閉庁日の土日祝日もロビーは開放されると聞いたので、28日土曜日にのぞいてきたが、無機質で暗い感じだった場所が明るい雰囲気に変わっており、かなりの数の市民がくつろいでいた。床には市の巨大な衛星写真も敷かれており、これもなかなか面白かった。

 改装費用は総額1億3800万円。不要不急の事業に大金を使ったとの批判もあるようだが、公金の無駄遣いだったかどうかは今後の活用次第で評価が変わるだろう。少し気になったのは、障害者雇用の場を兼ねたカフェは、確か市役所とイムズを結ぶ地下通路にもあったはずだが、競合しないのだろうか。雇用の場が増えたと単純に考えれば良いのだろうか。

 カフェのイチ押しメニューは、博多どんたくサンド(280円)と博多とんこつスープ(150円)で、サンドの中身は明太子&おきゅうと。郷土色を出すために考えられた面白いメニューだとは思うが、私はできれば、明太子とおきゅうとはそれぞれ単品でご飯と一緒に食べたい。とんこつスープもなんだか麺を食べ終わったラーメンみたいで、替え玉が欲しくなる。ここまで博多らしさにこだわらなくても、オーソドックスなメニューで良かったのでは…。
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少年院の中の国史跡

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 福岡市にある国指定史跡の中に、立ち入り禁止の遺跡がいくつかある。過去に取り上げた吉武高木遺跡比恵遺跡がその例だが、この2か所は単に未整備のため、一般公開できないだけだ。南区老司にある老司古墳の場合はかなり特殊だ。この古墳があるのは福岡少年院の敷地内。一般開放したくても到底不可能な場所なのだ。

 老司古墳は5世紀初頭に築かれた前方後円墳で、墳丘の全長が75m、後円部直径が42m、高さ8m。この時代に那珂川、御笠川流域の平野を治めた首長の墓とみられており、四つの石室からは三角縁神獣鏡をはじめとする10面の鏡や、勾玉・管玉などの装身具、短甲などの武具といった多数の副葬品が出土した。また、計6体分の人骨も見つかっている。古墳時代の平均的福岡平野人は面長で渡来人的顔立ちとされるのに対し、この古墳に埋葬されていた人々は短顔で、むしろ縄文人的な特徴が色濃かったらしい。

 古墳は1965~69年、1987年の2度の調査を経て、2000年に国史跡に指定されている。なぜ、こんな場所に少年院があるのかというと、少年院の開設自体が戦前の1938年と早かったためだ。盗掘孔があり、古墳であることは早くから認識されていたようだが、前方後円墳と判明したのは、戦後になって周囲の藪が刈り取られた後。「古式古墳の特徴を持つ大型前方後円墳」として研究者の注目を集めるのはこれ以降のことだという。

 最初の調査は、少年院が敷地拡張のため古墳を削ることを計画、これに慌てた九大が調査を申し入れ実現したという。当時の院長が理解ある人物だったようで、最終的には調査を認めるだけでなく、計画を変更し古墳保存にも同意した。「少年の更生をなんと心得る!」とバンと机をたたいて拒否するような人だったら、古墳は残らなかった。1989年に福岡市教委から出された発掘調査報告書にも、当時の院長に対する感謝の言葉が記されている。

 冒頭に立ち入り禁止と書いたが、古墳は道路に面した場所にあり、金網越しに墳丘を見学することはできる(ただし、狭い道路なのに車の通行量が多く、どの車も猛スピードなので注意を)。簡単な説明板や古墳の復元模型も設置されている。

 この場所から少し離れた少年院の正門付近には老司瓦窯跡という別の国史跡(2010年指定、下の写真)もある。7~8世紀の登り窯の遺構で、ここで大宰府観世音寺の瓦を焼いたことが確認されているという。こちらは埋め戻され、普通の崖にしか見えないが、国史跡を二つ抱える少年院(別に少年院でなくとも他の施設でも)など珍しいと言うほかない。

 なお、この古墳を含め那珂川・御笠川流域平野の首長墓とみられる前方後円墳は、安徳大塚、日拝塚、貝徳寺、那珂八幡、東光寺剣塚、博多1号墳の計七つ。老司古墳は古い方から3番目に当たるらしい。最も古いのは、私の遊び場だった那珂八幡古墳だという。


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1966年、福岡家裁での凶行

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 家庭裁判所というのは家庭内の争いごとを調停したり、少年事件を審理したりする場所だというが、幸いにしてここにお世話になったことはない。福岡の家庭裁判所は、地裁・高裁から少し離れた目抜き通り沿いにあるが、ここで1966年(昭和41年)、2人の女性が殺害される事件が起きている。離婚による慰謝料の話し合いのため家裁を訪れていた男が、元妻と妻の姉の二人を登山ナイフで刺殺したのだ。男は、福岡で“御三家”と呼ばれる県立名門高校の英語教諭で、当時53歳。当時の記事に書かれていた犯行動機が信じ難い。「年も取って再婚ができず、また家政婦もおく余裕もなく苦労しているのに慰謝料を請求され、腹が立った」。

 事件が起きたのは1966年1月26日午後3時ごろ。家裁内の相談者控え室で、慰謝料の調停に来ていた男が登山ナイフでいきなり元妻を襲い、さらに凶行を止めようとした妻の姉にも刃を向けた。騒ぎで駆けつけた裁判所書記官に取り押さえられたが、二人の女性は救急車で近くの国立病院(当時は福岡城内に国立福岡中央病院があった)に搬送されたものの、出血多量で間もなく死亡した。

 男と元妻は事件の2年前、結婚相談所を通じて知り合い結婚したが、男の暴力で結婚生活は2年足らずで破綻。凶行の約20日前に正式な離婚が成立したばかりだったという。驚いたのは、この結婚が男にとって5度目の結婚だったことだ。記事に添えられた顔写真を見る限り、容姿は普通の中年男(かなり額は後退し、黒縁眼鏡)だ。しかも家庭内暴力の性癖がある。そんな男が5度も結婚できたとは不思議だが、私の子供時代を振り返れば、教師という職業はエリートだった。少なくとも教師本人とその家族はそう信じていた。今でも勘違いしている傲慢な輩が結構いるが、少なくとも安定した職業であるのは間違いないだろう。そこが女性の信頼を得たのだろうか。

 記事に書かれた動機は信じられないほど身勝手極まるが、こんな動機を述べること自体、男は犯行時、精神に異常を来たしていたようだ。検察側は無期懲役を求刑したが、福岡地裁はあらかじめ登山ナイフを持ち込むなど計画的犯行だったことは認めたものの「当時は精神分裂病質的で、心神耗弱傾向だった」として懲役13年の判決を下した。2人の命を奪いながら、たった13年。心神耗弱とは都合の良い言葉だ。写真は現在の福岡家裁。この事件から9年後の1975年(昭和50年)に建て替えられたというから、事件現場はもう残っていない。
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注目されなかった小銅鐸出土


 前回取り上げた比恵遺跡群の発掘調査で、弥生時代後期(約1700年前)の井戸の跡から高さ5.5cmの小銅鐸が出土している。現地説明会資料によると、有力な大集落から出土することが多い遺物で、福岡市での出土は5遺跡7例目。全国での出土数は確認できなかったが、数年前に香川県で出土した際の報道では、この時点で約40例が見つかっていたようだ。希少な発見ではないと判断されたのか、今回の発掘調査に関する報道で小銅鐸出土に触れたものはなかった気がする。

 小銅鐸は朝鮮半島にあった同形の青銅器を模倣したものとされ、大型銅鐸の祖形とも言われている。今回の出土品には残っていなかったようだが、内部には舌(ぜつ)と呼ばれる振り子があり、ベルのように振って、あるいは揺らして音を奏でていたとみられている。市によると、今回出土の小銅鐸所有者は集落のリーダー、またはシャーマンで、祭祀に使ったと考えられるという。

 福岡市内でこれまでに出土した遺跡は、板付(博多区)、桑原・元岡(西区)、今宿五郎江(同)などで、このうち板付遺跡の小銅鐸は九州で初めて埋納された状態で出土した。この発見まで、弥生時代には九州地方を中心とした「銅剣・銅矛文化圏」と近畿を中心とする「銅鐸文化圏」があったとの説が支配的で、私が中高校生の頃は教科書にも記述されていたと記憶している。ところが、板付遺跡での出土以降、九州でも銅鐸や銅鐸鋳型の出土が相次ぎ、この「文化圏」説はとどめを刺された。小銅鐸の九州での出土は以前は大ニュースだったのだ。

 今回出土の小銅鐸はどのような目的の祭祀に使われたのだろうか。比恵遺跡群があるのは、那珂川と御笠川の間に挟まれた低い台地だが、今回見つかった弥生時代の遺構からは数多くの井戸跡が見つかっており、水の確保が大きな問題だったと推測されるという。後の古墳時代には食料備蓄基地でもあった官家が設置されたと考えられるのだから、あるいは乾いた土地だったのかもしれない。小銅鐸が井戸の跡から出土したことも考えれば、水に関する祭祀に使われたのだろうか。
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比恵遺跡群の現地説明会


 那津官家跡とされる福岡市博多区の比恵遺跡(国史跡)の隣で、古墳時代後期(6世紀後半)の大型倉庫跡と見られる掘立柱建物跡が見つかり、21日に現地説明会が開かれた(この調査は比恵遺跡群第126次調査に当たる。比恵遺跡と区別するため説明会が行われた遺跡を便宜的に126次遺跡とする)。比恵遺跡では整然と並んだ10棟の大型倉庫群が確認されているが、今回発見された倉庫跡は建物の向きが異なり、一応別の施設と考えられるという。ただ、比恵遺跡同様、柵列で厳重に囲われており、重要な施設であったのは間違いないようだ。

 126次遺跡の正確な場所は、市道(竹下通り)をはさみ、ちょうど比恵遺跡の向かい側だ。周囲にはマンションや戸建て住宅が並んでいる。この場所もマンション建設予定地で、立体駐車場の設置が予定されていたが、事前の発掘で大型倉庫跡のほか、弥生時代の竪穴住居跡や貯蔵穴、井戸などの遺構が多数確認され、業者側は一帯を埋め戻したうえで保存することに同意したという。平置きの駐車場に計画変更するのだろうか。「弥生銀座」と評されるほど、古代から栄えていた福岡ではこんなことがよくある。いい例が、当の比恵遺跡だ。

 那津官家とは、ヤマト政権が536年、博多湾岸に造った食料備蓄基地で、その設置は『日本書紀』に記録されている。役割は食料備蓄にとどまらず、九州統治の拠点であり、外交・軍事の出先機関であったとも見られている。この日の説明会でも市の担当者は「朝鮮半島をにらんだ前進基地でもあっただろう」と説明していた。

 比恵遺跡の場所にはもともとホテルのテニスコートがあったようで、現在も表札が残っている。この跡地を地場企業が購入し、本社ビルを建てる計画だったが、事前調査で大遺跡が顔を出し、この会社も遺跡保存のため計画を変更した。調査翌年の2001年には国史跡に指定されたことが、遺跡の重要性を物語る。しかし、その後10年以上、遺跡は半ば捨て置かれた状態で、研究者らの評判はすこぶる悪いらしい。

 下の写真が比恵遺跡の現状だが、周囲は金網で囲われ、クローバーが生い茂っていた。ここも史跡公園として市民に開放するのがベターだと思うが、いかんせん福岡市には整備すべき遺跡が多すぎ、財政難の状況ではスムーズに行かないのだろう。1993年に国史跡となった「早良王墓」吉武高木遺跡の整備がようやく今年度から3年計画で始まる(「レンゲ畑の吉武高木遺跡」参照)。比恵遺跡の順番はもう少し先だろう。少なくとも整備計画は一切公表されていない。


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女性議員の比率が低い社民党

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 2月に霞が関・永田町界隈で写真を撮っていたら、胡散臭い風体が災いして警備の警察官に呼び止められた。お上りさんだと説明すると、あっさり放免された。写真の社民党本部はこの時、最高裁側から撮ったものだ。ずいぶん古ぼけたビルだなと思っていたら、最近になってこの建物の老朽化により社民党が苦境に立たされていることを報じる記事が相次いで掲載された。

 耐震上も問題があり、党側は建て替えを検討したというが、資金難で無理とわかった。そこで移転することにしたが、国有地を借りて建設しているため、退去の際は更地にして返還する必要がある。ところが、解体費用さえ捻出できず、完全に手詰まり状態だという。

 無様な話だが、首都高横の建物が地震で倒壊する可能性があるなど危険極まりない。落ちぶれたとは言え、まだ10人の国会議員(衆6、参4)を抱える政党だ。昨年12月末現在の総務省資料によると、全国では41人の都道府県議、323人の市区町村議もいる。彼らが身銭(元は国民の税金だろうが)を切ってでも建物解体を急ぐべきだろう。

 国会議員10人の顔ぶれを見ると、党首の福島瑞穂氏以下、7人までが九州・沖縄出身。しかも衆院小選挙区で当選した議員も重野安正氏(大分2区)、照屋寛徳氏(沖縄2区)と2人いる(2009年の選挙時はこのほかに大阪10区で辻本清美氏が当選したが、現在では離党)。社民党所属の地方議員数も九州・沖縄は県議14人、市町村議91人と全国で最も多い。この党を生きながらえさせてきたのが九州・沖縄の有権者であるのは間違いない。

 ところで、先の総務省資料を読んでいて意外なことに気付いた。この政党、党首も女性なのだから、地方議員もさぞかし女性の割合が高いかと思ったら、これが想像以上に低いのである。母集団が少ない都道府県議は41人中7人が女性で、比率は17.0%だが、市区議になると287人中38人で、13.2%にとどまる。これはマッチョな自民党の5.4%こそ上回っているが、共産党の37.2%、公明党の29.7%を大幅に下回る。民主党16.2%、みんなの党14.0%よりも低い。色々と理想論を並べる党だが、こんなところにも理想論の限界が露呈しているようで、面白いと思った次第だ。
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西南学院大の地域貢献

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 西南学院大(福岡市早良区西新)の公式サイトに、学院創立100周年(2016年)を記念して進めるキャンパス整備計画の概要が掲載されている。完成予定は2023年。かなり大掛かりなもののようで、本館を東キャンパスに移転新築するほか、キャンパスの中央を貫いている西新通りには陸橋を設け、東西キャンパスを結ぶ計画だ。写真は法科大学院や博物館がある東キャンパスの一角だが、この辺りは庭園風に整備されるようだ。

 新設が噂される理系学部(「西南学院大に理系学部新設?」参照)についてはこの計画に盛り込まれていないが、進展はしているらしく、設置場所は西新ではなく、総合グラウンドが置かれている西区田尻だという話を漏れ聞いた。大学キャンパスには不似合いな農村地帯だが、ほど近い場所に九州大の伊都キャンパスがある。確かな筋から聞いたわけではないので、情報の信頼性には自信がないが、仮に事実だとすれば、この一帯の変貌はさらにスピードを増すことだろう。

 計画概要を紹介するパンフレットを読んで印象的だったのは、「地域への貢献」がずいぶん強調されていることだ。これは恐らく、「現在は貢献していない」ことの裏返しなのだろう。失礼ながら私は、珍しいぐらい地域に無頓着な学校だと思ってきた。例えば、地元の小学生は東キャンパスを大きく迂回して登下校しているが、これまで学院側が配慮することはなかった。市民の立ち入り自体がかなり厳しく制限されてもいる。他大学に比べれば、公開講座の数も少ない(半期で1 講座程度)。強いて挙げれば、大学博物館や学内にある元寇防塁跡を公開している程度で、正直「地域に開かれた大学」というイメージは薄かった。

 「地域への貢献」は少子化の時代を迎えての大学改革の一環なのだろうが、では具体的に何をするのか? パンフレットには「開かれた交流スペースの確保」「キャンパス外縁部整備による地域への貢献」などと抽象的表現が並び、今ひとつわかりづらいが、言葉通りに解釈すれば、市民へのキャンパス(の一部)開放を進めるということなのだろう。前述の通学路問題に関しては具体的記述がないが、整備計画を報道した新聞によると、通学路としてのキャンパス開放を検討はしているらしい。早急に実現すれば、何よりの地域貢献になると思うが。
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226人に減った福岡市のホームレス

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 ホームレスが減ったのでは、と漠然と感じていた。一部の公園などでは一時期、青いビニールシートで覆われた段ボールハウスが住宅密集地のように建ち並んでいたが、近頃はずいぶん少なくなってきたからだ。資源ごみの日の名物だった自転車でアルミ缶を回収して回るオジサンたちも以前ほどには見かけない。ただし、アルミ缶回収は最近では業者らしき者が軽トラックで回っている。ホームレスの場合と違い、業者が資源ごみを持ち去っていくのには少々抵抗がある。一部自治体で先例があるが、条例で取り締まれないものだろうか。

 話が横道にそれた。厚労省が13日、全国のホームレス数が1万人を割ったとの調査結果を公表した。やはりホームレスの数は減っていたのだ。調査は今年1月、市町村に命じて行ったもので、公園や河川敷、道路、駅などで暮らしている者の数を調べた。その結果、全国で確認されたホームレスの数は9576人(男8933人、女304人、不明339人)。昨年より1314人減っており、1万人を割ったのは2003年の調査開始以来初めてだという。性別に「不明」があるのは、目視による調査(見て数えるだけ)だからだ。

 厚労省のサイトにある発表資料には都道府県や政令市・中核市別の数字も紹介されている。福岡市は226人で、昨年より44人の減。2009年には969人を数えたというから、4分の1以下にまで減ったわけだ。報道によると、全国的に減った理由について厚労省は「生活保護が適切に受けられている」と分析している。恐らく福岡の減少も同様の理由だろう。

 福岡市の2012年一般会計予算は7662億円だが、この1割を超える783億円が生活保護費だ。健全な状況ではないが、国民が国に見捨てられたまま路上で生活している方がよほど不健全だ。ましてホームレスの中には知的障害者が少なくないとの話も伝わる。行政サイドの調査は「目視」だけなので、こういった実態を明らかにしていないが、東京で支援団体が行った調査では3割に上ったとの報道もあった。こうなると個人の努力うんぬんの話ではなく、福祉に関する国の制度設計の問題だろう。

 アルミ缶集めなどでの精力的な姿を見るにつけ、ホームレスは相当勤勉でないと生きていけないと感じてきた。「働きたくない人たち」と捉えるのは偏見だと思う。「働きたくない人たち」は空き缶拾いなどせず、最初から生活保護をもらってパチンコ生活を送っている。
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柱が林立する公園

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 福岡県古賀市を久しぶりに歩いてきた。昨年2月にもこのブログで取り上げたことがあるが、市長の竹下司津男氏に経歴詐称疑惑やカルト教団在籍の過去が持ち上がり、ニュースとなった街だ(「古賀市長」参照)。

 竹下市長は昨年10月、公職選挙法違反(虚偽経歴の公表)容疑で書類送検されている。検察の結論はまだ出ていないようだが、市長が書類送検されるとは穏やかな話ではない。さぞかし議会対策に苦労しているだろうと思ったが、これが予想に反し、市の予算案や長期計画などすべての議案が圧倒的多数で可決されている。

 議会の定数は19。前市長支持派の議員も少なくないようだが、市のサイトで明らかにされている議案に対する賛否を見ると、前市長派が必ずしも反対に回っているわけではない。疑惑の追及は検察に任せ、議案に対しては是々非々で臨むという“大人の対応”なのだろうか。それにしても前市長の宿敵と目されていた議員が、前市長の懐刀とみられる人物と同一会派を組んでいる。私の知る時代とはずいぶん政治状況が変化しているようだ。

 ところで、古賀市に行った目的は鹿部(ししぶ)田渕遺跡の見学だ。1999年、鹿部土地区画整理事業に伴う発掘調査で確認された大型建物群の遺構で、発見当時は糟屋屯倉の跡だと大騒ぎになった。糟屋屯倉とは、「磐井の乱」(527~8年)後、筑紫君磐井の息子・葛子が命を助けてもらう代わりにヤマト政権に差し出したと伝えられる土地で、筑紫君が持っていた海上交通の拠点(港)だったのではないかと言われている。現在、海岸線は1km以上先だが、古代には花鶴川河口に面した丘陵地で、河口には5世紀頃から江戸時代の明暦4年(1658年)まで港が存在したという。

 遺跡は現在、「みあけ史跡公園」として整備されている。「みあけ」とは、糟屋屯倉にちなんで名づけられた区画整理事業完成後の新地名で、漢字では「美明」と書く。新興住宅地の中の非常に小ぢんまりした公園だが、林立する柱が変わった景観を作り出している。この柱は、確認された4棟の大型建物群の柱跡を表現したものだ。大型建物群は、溝で囲まれた区画にL字型に配置されていたという。

 この建物群が、後の律令時代の郡衙(ぐんが=地方政庁)と類似した特徴を持っていたことが屯倉と推定された理由のひとつだが、建物群が建てられたのは6世紀後半とみられ、磐井の乱よりも約半世紀後ということになる。また、この地は律令時代、糟屋ではなく「宗像郡席内郷」の一部だったとも言われる。これらの点から鹿部田渕遺跡=糟屋屯倉説に懐疑的な見方もあるようだ。遺跡の調査報告書は2007年度に古賀市教委から出されているが、以下のように結論付けている。

 「『糟屋屯倉』の設置目的を軍事的政治的拠点としての港の確保や海上交通に携わる外洋系海人集団の掌握と捉えるならば、鹿部田渕遺跡の官衙的大型建物群は、朝鮮半島との海上交通拠点である玄海灘沿岸部の港に関連する施設と考えられる以上、『糟屋屯倉』の対象から外れることはないといえる」
 
 回りくどい表現だが、要するに糟屋屯倉である可能性はゼロではないということだろう。発見当時と比べれば、かなりトーンダウンしたように感じられる。この遺跡が国ではなく県の指定史跡となったのも微妙なところだ。本当に糟屋屯倉の可能性が高いならば、文句なく国指定史跡になっても不思議はないと思うが。

 遺跡から足を延ばし、現在の花鶴川(大根川とも呼ばれる)河口を見てきた。10日程前、河口の海岸部で生後間もない女児の遺体が見つかったとのことで、情報提供を呼びかける粕屋署のチラシが貼られていた。市長の話に戻るが、公職選挙法の虚偽事項公表の公訴時効は3年。時効の起点が正確にはわからないが、市長選の投開票日が2010年11月28日だから、来年秋頃までには起訴・不起訴・起訴猶予の結論が出ていることだろう。

 <追記>古賀市長は2012年11月20日付で不起訴に。


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