20歳には見えない


 反り繰り返ったサングラスの男は、マルヨ無線事件川端町事件)の主犯格・尾田信夫死刑囚だ。1966年(昭和41年)12月28日の読売新聞から。逃走先の東京で逮捕され、博多駅に護送されてきた時の写真で、(到底そうは見えないが)当時20歳。読売新聞は「帰省客でごった返す博多駅に着いた尾田は悪びれたふうもなく、報道陣のフラッシュに、胸をはって英雄気どり」と伝えている。

 マルヨ無線事件とは同年12月5日夜、福岡市下川端町に当時あった電器量販店マルヨ無線に尾田と共犯の少年が押し入り、宿直の従業員2人をハンマーで滅多打ちにしたうえ、現金等約30万円を強奪したという事件だ。尾田らは逃走の際にストーブを蹴り倒し、これにより同店は全焼、従業員1人が死亡した。尾田は公判の途中で放火については否認に転じたものの、1970年に死刑判決が確定した。だが、確定から42年後の今も刑は執行されておらず、確定死刑囚の在監期間最長を更新し続けている。

 尾田の顔写真を求めてこのブログを訪れる方が時折おられるのだが、私自身も見たことはなかった。1966年12月に逮捕されて以来、ずっと収監されているのだから、公にされている写真などほとんどない。上の写真もサングラス姿のため人相が良くわからないが、いずれにせよ半世紀近く前の写真だから、65歳となった現在は面影などまったく残っていないことだろう。

 以前に書いた「マルヨ無線事件」の中で、なぜ40年以上も尾田の刑が執行されなかったのか不明だと疑問を投げかけたが、要するに日弁連の支援で再審請求を繰り返しているためのようだ。法務省側は万が一の冤罪を恐れて二の足を踏んでいるのかもしれないが、同様の状況にあると思われる名張毒ぶどう酒事件の奥西勝死刑囚(86)らに比べ、尾田は20歳以上も若い。

 国は、高齢の奥西らの獄死を狙っているのは明らかだが、尾田に関しても再審請求を認めず、刑も執行しないという宙ぶらりんの状態を、場合によっては今後何十年も続ける覚悟なのだろうか。
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日本最古の戦死者

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 麦秋の糸島半島を歩いて新町支石墓群を見学してきた。弥生時代が始まった頃(約2300年前)の人骨が見つかったことで有名な遺跡で、2000年に国史跡に指定されている。支石墓とは朝鮮半島から伝わったとされる墓制(下図参照)だが、ここに埋葬されていたのは渡来系の弥生人ではなく、低顔・低身長の縄文系の特徴を持つ人々だった。昨年書いた「糸島の支石墓群を歩く」の中で、「縄文人が稲作を学ぶために半島に渡り、墓制も持ち帰ってきた」という高倉洋彰・西南学院大教授の説を紹介したが、弥生時代がどのようにして幕を開けたのか、まだまだ解明すべき謎は多いらしい。

 新町支石墓群が位置するのは、糸島市教委発行の小冊子によると「糸島半島の中央部にそびえる別名『糸島富士』で名高い可也山の西側、引津湾に面した海岸砂丘上」。引津湾は古代、博多湾と同じく半島との交流拠点だったと言われる。九州帝国大の中山平次郎博士は大正時代からこの遺跡に注目していたというが、本格的な発掘調査が行われたのは1982年が最初だった。調査では計57基の支石墓、甕棺墓が確認され、うち半分の墓は内部まで発掘が行われた。残る半分は手付かずのままま保存されているという。

 人骨は計14体が出土しているが、中でも注目されるのは「日本最古の戦死者」と呼ばれる熟年男性の人骨だろう。左大腿骨に石の鏃が刺さった状態で埋葬されていたためだが、注目される理由はそれだけではない。彼の遺骨の下には人頭大の穴があり、ここから少年の歯が見つかっているのだ。熟年男性は部族間の戦争の犠牲者で、彼の復讐のため、相手部族の少年の首を切り、一緒に埋めたのではないかと研究者らはみている。弥生時代は幕開けの時から、陰惨な戦乱の世界だったようだ。

 遺跡上には現在、展示館が建てられ、内部には発掘現場の一部がそのまま保存・展示されている。支石墓の構造が良くわかるが、見学路が地面と同じ高さのため、墓の隅々まで見えないのがやや難点だ。また、墓の内部に人骨は置かれていない。福岡市の金隈遺跡のように特殊加工された本物までは望まないが、せめてレプリカでもあれば、もっと生々しい展示施設になるのにと少し残念に思った。展示館は月曜休館、入場無料。係員等は常駐していない。
 

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市役所のお方の不祥事

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 福岡市職員の飲酒絡みの不祥事がまたも表ざたになった。市住宅供給公社に派遣されている職員が平日昼間から飲食店で泥酔した挙げ句、電話で取引先の会長に暴言を吐いたのだという。「体調不良」とウソをついて早退、業者と飲んだくれていたらしい。公務員として悪質極まりないが、刑事事件ではないので新聞各紙は匿名報道だった。しかし、一部ネットメディアが実名を出していたので、検索してみた。この職員、2年前には女性相手に暴力事件を起こし、しっかりと実名報道されていた。札付きの職員だったようだ。

 2年前の事件は、交際相手だった女性から別れ話を切り出されて激怒、首を絞めて1週間のけがを負わせたというものだ。復縁を迫るため、女性の職場に100回以上も電話する迷惑行為も行っていたらしい。「本人が反省し、女性との間で示談も成立している」という理由で起訴猶予になり、クビは免れたようだが、このような職員を業者と付き合いのあるポジションに置いている福岡市の神経がわからない。起こるべくして起きた不祥事であり、人事管理の失態ではないだろうか。

 不祥事続発に業を煮やした高島市長は、職員に「禁酒令」を出し、1ヶ月間は自宅外で飲まないように求めた。これに飲食店が「商売上がったりだ」と不満を募らせていると聞き、福岡の飲み屋も公務員でもっていることを改めて痛感させられた。

 昔、九州内の別の街で勤務していた時、スナックのママさんに飲み屋での客の序列を聞かされたことがある。「県庁のお方、市役所のお人、そのほかの奴」。大企業がない地方都市では公務員、中でも県庁職員こそが最高のエリートであり、実際に羽振りもいい。「そのほかの奴」扱いされ不愉快極まりなかったが、繁華街など滅多に繰り出せない我が身を振り返り、納得せざるを得なかった。「そのほかの奴」の機嫌を損ねても飲み屋は痛くもかゆくもないのである。

 福岡で「お方」に当たるのは、どこの職場だろうか。やはり県庁だろうか。それとも地場企業の盟主・九州電力あたりだろうか。禁酒令に飲み屋が危機感を覚えるぐらいだから、福岡市役所も有力候補だろう。禁酒令を伝えた22日の朝日新聞朝刊に匿名の職員の談話が載っていた。「1か月の禁酒が明けたら、反動で飲みまくって事件を起こす職員が出てくるのでは」。“市役所のお方たち”は普段、どれだけ外で飲んでいるのだろう。
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中山平次郎と今山遺跡


 福岡市西区の今山に登ってきた。玄武岩からなる標高80m程の小さな山で、山頂付近には江戸・享保年間に創建されたと伝えられる熊野神社があり、麓から長い石段が通じている。本殿の先には東西2ヶ所の展望台があり、東からは今津湾、西からは糸島平野が望める。この山は弥生時代前期後半から中期(約2000~1900年前)、北部九州一円に流通していた太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)の製作地でもあり、山全域が国史跡に指定されている。

 遺跡を発見したのは九州考古学界の祖、九州帝国大医学部の中山平次郎博士(1871~1956)だ。発見は偶然ではない。博士は、太型蛤刃石斧が九州北部各地で出土するのに、製作工房跡が確認されないことに着目、この石器を製作する専門集団がどこかにいたはずだと推理した。今津の元寇防塁(この名称も中山博士の命名だという)調査のため付近を訪れた際、民家で石斧の未完成品をたまたま入手したことがヒントとなり、1923年(大正12年)、この山が製作地だったことを突き止めたという。

 石斧は弥生時代、この地を支配していた伊都国の重要な交易品だったとみられている。重さは1kg程もあり、木を伐採するのに威力を発揮したらしい。稲作の適地が少なかったとされる北部九州だけに、木を伐り、新たな農地を開墾する際に重宝されたのだろう。木々が鬱蒼と茂る山中では、現在でも玄武岩の露頭をところどころ確認できる。山の石を積んだと思われる石垣もあちこちにあった。

 中山博士は京都生まれで、東京帝国大卒。考古学上の功績は、今山遺跡の発見以外にも、鴻臚館があった場所を福岡城跡と正確に特定したこと、「漢委奴國王」の金印出土地を推定したことなど数多く、その偉業は今も称えられている。だが、戦後は厳しい生活を強いられ、貧困の中で没したという。「人情の厚い土地柄」と“自賛”する街だ。福岡を愛し、退官後もこの地にとどまることを望んだ博士を、戦後の混乱期とは言え、九州大なり行政なりが遇することはできなかったのか、残念でならない。
 

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五郎山古墳の壁画

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 福岡県筑紫野市にある五郎山古墳の石室を飾る壁画は、相当派手なものだったようだ。現在は色あせ、うっすらと見えるだけらしいが、麓の五郎山古墳館に実物大模型があり、往時をしのぶことができる。暗くて低くて狭い羨道まで精巧に再現されており、懐中電灯を片手に盗掘者気分を味わうことさえ可能だ。

 壁画は、石室の奥壁に黒、赤、緑の3色で所狭しと描かれている。題材は、馬に乗って矢を射る人物や祈りを捧げる女性、船、靱(ゆぎ=矢を入れる筒)などの武具、太陽と見られる同心円、イノシシらしい動物等々。九州の装飾古墳で良く見られる幾何学文様ではなく、いわゆる具象画だ。

 これらの絵画が何を意味しているのか、解き明かすのが研究者の醍醐味だろうと思うが、1947年(昭和22年)の古墳発見時、最初に調査に入った関西の考古学者の発言を読んで吹き出した。「知っている文様を適当に描いたのだろう」。それではまるで落書きである。

 五郎山古墳は直径32mのきれいな形の円墳で、石室の構造や須恵器などの出土遺物から6世紀後半の築造とみられている。古墳に葬られているのだから、被葬者は間違いなく当時の権力者だろう。壁画は確かに雑多にも見え、先の考古学者の意見に納得したくもなるが、権力者の墓を落書きで飾るものだろうか。

 現代の考古学者の見立てを紹介しておくと、辰巳和広・同志社大元教授は、壁画は「王の狩猟儀礼」と「他界へと被葬者の霊魂を運ぶ船」を描いたと指摘し、支配の永続と繁栄を願ったと解釈している(2001年の『五郎山古墳展』解説冊子から。執筆当時は助教授)。船が描かれた装飾古墳の壁画としては、他にうきは市の「珍敷塚古墳」の例がある。“落書き説”の考古学者は、船が死者の霊魂を運ぶという考え(「舟葬儀礼」とも言うらしい)に批判的だったらしい。ひょっとしたら五郎山古墳の壁画の意味をことさらに評価したくなかったのだろうか。

 五郎山古墳館の開館時間は午前9時~午後5時。月曜と年末年始休館。入館無料。数日前に事前予約すれば、本当の石室を観察室から見学することも可能らしい。


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戦いに敗れたムラ

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 福岡県筑紫野市にあった隈・西小田遺跡永岡遺跡は考古学者から「戦いに敗れたムラ」と呼ばれている。いずれも弥生時代中期前半ごろ(約2000年前)の墓地遺跡。隈・西小田からは429体、永岡からは53体の人骨が出土しているのだが、青銅器の切っ先が突き刺さっていたり、頭を割られていたり、首がなかったり、あるいは首だけだったりと、無残な“戦死者”がとにかく多いのだ。当時の北部九州は、稲作社会の進展とともに土地争い、水争いが激しさを増し、極めて不穏な社会だったらしい。

 両遺跡の発掘調査は1970~80年代、西鉄沿線にニュータウンが建設されるのに伴って行われた。残念ながら現在は跡形もない。隈・西小田遺跡から出土した細型銅剣、重圏昭明鏡、鉄戈などの副葬品は国重文に指定されている。遺跡も一部なりとも保存できれば、国史跡指定は間違いなかったと思うのだが、福岡都市圏の膨張に迫られ、住宅地を供給することが優先されたのだろう。甕棺や青銅器など出土品の一部は、JR二日市駅近くにある筑紫野市歴史博物館で見ることができる(写真)。

 それぞれの遺跡ごとに分厚い調査報告書も出されている。どちらの報告書にも中橋孝博・九大教授(自然人類学)が出土人骨に関する論考を寄せているのだが、読み比べてみると興味深い。同じように不名誉な呼び方をされているとは言え、二つのムラの実態はかなり違ったようなのだ。甕棺のサイズから判断して、双方とも乳幼児をはじめとする未成年者の死亡率が高かった点は共通しているが、数字には差がある。被葬者のうち、未成年者が占める割合は隈・西小田の40~50%に対し、永岡は実に70%にも上るという。

 当然、平均寿命にも相当の差が出てくる。同教授によると、隈・西小田の平均寿命は25~30歳で、古代人としてはやや長命の部類に入るが、永岡の場合は10歳代前半にとどまる。これでは人口の維持すら困難だという。同じく戦乱の中にあったムラだが、永岡の方がより過酷な環境に置かれていたと思われる。勝手な推測だが、二つのムラは、現在の春日市を拠点としていた奴国の侵攻にさらされていたのではないだろうか。永岡遺跡は隈・西小田よりも4km近く北にあり、ここが戦いの最前線だったのかもしれない。

 出土した人骨は、両遺跡ともに高顔・高身長の渡来系弥生人の特徴が際立っており、成人の平均身長は隈・西小田遺跡の場合、男が163.5cm、女が152.4cmにも上るという。これは「長身だった金隈の弥生人」で取り上げた金隈遺跡(福岡市博多区)の弥生人(平均で男162.7cm、女151.3cm)よりも高い。
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大休と飢人地蔵

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 前回に続いて江戸時代の儒学者、貝原益軒が著した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』について取り上げたい。益軒はこの書の中で、福岡藩領の中でも特に眺望抜群の場所として那珂郡大休(おおやすみ)という場所を紹介している。木こりたちが荷物を下ろして一休みすることにちなんだ地名だそうで、現在の福岡市中央区南公園に当たる。動植物園などがある一帯だ。

 益軒は「天下に名高き」須磨や明石、天橋立、厳島などの絶景も大休には及ばないとまで絶賛している。長く福岡に住んでいるが、ここから景色を眺めた記憶がない。早速、南公園の展望台に上ってきた。あいにくの曇り空だったが、それでも確かに抜群の眺めだった。中央区六本松の九州大教養部があった場所は広大な緑地となっており、ビル街の中で異彩を放っていた。無責任を承知で言わせてもらえば、無理に跡地利用などしなくても、このまま公園にした方が市民には喜ばれるのでないだろうか。

 大休に関連し、六本松で夜な夜な見られる鬼火に関しても益軒は書き記している。鬼火と言っても、おどろおどろしい話ではない。「夏冬にかぎらず、夜々飛火あり、或は高く、或はひくく定る所なし。人近づく時は飛去て見えず。殊に雨夜に出る事多し、かならずしも毎夜見ゆるにはあらず」。福岡の人間は昔から見慣れているので、別に不思議と思っていないとも書いてあり、かなりユーモラスだ。『筑前国続風土記』の中には、六本松以外でも鬼火の話が複数出てくる。江戸時代は珍しいものではなかったのだろう。

 大休は益軒の死から約20年後の1732年(享保17年)、悲劇の舞台となる。この年、稲の病害虫(ウンカ、あるいはイナゴ)の大発生により西日本一帯は大飢饉に襲われ、福岡藩では領民の3分の1に当たる約10万人が餓死したと伝えられている。福岡藩は海辺にお救い小屋を設け、粥を施したが、飢えて体力を失った農民たちにとって大休越えは想像を超える難業だったに違いない。多くの者がここで力尽き、倒れていったという。

 1965年ごろ、一帯のヤブを刈り取ったところ、埋もれていた飢人地蔵と供養塔が発見され、この場所の歴史が明らかになった。地蔵は餓死者を悼むために建立され、江戸時代は手厚く供養されていたが、明治維新後、祭る人もいなくなり忘れられていたらしい。発見後は地元町内会が世話をすることになり、今も毎年4月4日には供養祭が営まれている。写真の真新しい地蔵は、平成になって新しく建立されたものだという。


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筑前国続風土記が面白い

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 前回取り上げた丸隈山古墳について調べる中で、福岡藩の儒学者・貝原益軒(1630~1714)が著した『筑前国続風土記』を一部参考にした。益軒が晩年、福岡藩領内をくまなく歩いて書き上げた地誌で、活字本を図書館でパラパラめくっただけなのだが、これが意外に面白かった。福岡、博多の町や郡ごとに地勢、産業、地名の由来、歴史、言い伝えなどがコンパクトにまとめられている。福岡の古い物事を調べるにはまたとない本のようだ。

 興味深かったのは、各郡に対する益軒の評価にずいぶん差があることだ。評価が高いのは、現在の朝倉市の一部に当たる上座郡。「國中第一の膏腴(こうゆ=土壌が肥えていること)の地にして、種植の利他所に倍せり。(中略)最上郡なり」と地勢を誉めたうえで、住民についても「民俗質實にして菲薄ならず」と激賞している。

 これと対照的なのが怡土郡(現在の糸島市の一部)。ここも地勢については「田地廣く山川美にして」と好意的なのだが、住民については以下のように相当辛辣だ。「村民に原田家士の子孫多し。田夫といへ共、言語いやしからず。頗世事に馴たり。唯恨らくは、風俗質朴ならず。誠實少なし」(あくまでも『筑前国続風土記』の記述なので、現在お住まいの方はご容赦を)。

 原田氏とは鎌倉時代から戦国時代にかけて糸島地方を治めた一族で、高祖山に城を構えていた。秀吉の九州征伐の際、秀吉か島津か迷った末に島津側に付き、秀吉に所領を没収されている。戦国を生き抜こうとした小大名の有り様としては珍しくないように思えるが、あるいは益軒のジャッジは厳しかったのだろうか。原田氏に対する評価が怡土郡住民に対する評価につながっているようにも思える。

 写真は益軒の墓所がある福岡市中央区今川の金龍寺と益軒像。最近、立派な山門が出来た。この寺は前述の原田氏が創設した寺で、もともとは怡土郡にあった。原田氏が所領を没収された後、寺の存続が危ぶまれるようになり江戸時代に現在地へ移って来たという。元祖・金龍寺も糸島に現存している。
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丸隈山古墳の石室


 福岡市西区周船寺にある丸隈山古墳の石室を見てきた。古墳時代中期、5世紀前半に築造された前方後円墳で、墳丘全長は85m。福岡市内では最大規模の古墳だ。石段を登った先に広場があり、後円部の中央に当たる場所に横穴式石室が残されている。鉄製の扉越しに石棺が置かれた内部を見学できるが、こんな古墳は全国でも数少ないらしい。

 石室や石棺については説明板(一番下の写真、クリックで拡大)を参照していただきたいが、石棺の構造も珍しいものだと紹介されている。むき出しの状態で良く石室が残っていたものだと感心したが、現在の姿は1927~8年(昭和2~3年)に復元されたものだという。

 この古墳が発掘されたのは江戸時代初期の1629年(寛永6年)のことで、貝原益軒が著した『筑前国続風土記』には「村民新蔵といひし者、村の南道路の上なる丸隈山と云所に、石棺あるよし夢にみて、八月廿一日より掘りかかり…」と発掘の経緯が紹介されている。言い伝えでは、この時に小仏像が出土したため、これを祭るお堂を石室内に設け、信仰の対象になっていたという。昭和初年の復元は、お堂が朽ちたことがきっかけだったようだ。

 古墳が築造されたのは仏教伝来(538年、または552年)よりも1世紀以上も前のことだが、半島とのつながりが強い地域だから、伝来以前に仏像がもたらされることもあり得るかもしれない。ただし、説明板(一番下の写真)にもあるように、副葬品の中に仏像があったとの記録はない。

 同古墳は石室復元が終わった1928年に国史跡に指定されているが、これは福岡市では最も早い。現在の文化財保護法施行は1950年だから、旧法(1919年施行の史蹟名勝天然紀念物保存法)下での指定だ。福岡市域では最大規模とはいえ、同じ古墳時代中期に造営された畿内や岡山の巨大古墳と比べれば、小さな古墳だが、良し悪しは別にして巨大古墳の多くは「陵墓」という形で保護の網がかけられている。この古墳のすぐ西側にJR周船寺駅があるが、駅開業は1925年(大正14年)だ。あるいは開発の波が押し寄せ、住民の尊崇を集める古墳の先行きが懸念されたため、史跡指定が急がれたのかもしれない。

 丸隈山古墳は2004年、他の6基の前方後円墳とともに今宿古墳群として改めて国史跡に指定されている。今宿古墳群は高祖山の麓に広がる。国史跡外にも約350基もの古墳が存在しており、研究者はこの山を「墳墓の山」とも呼んでいる。これほどの規模の古墳群を残しながら、被葬者が何者かは謎らしい。


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サザエさん通り

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 日本で2番目の「サザエさん通り」が福岡市早良区に誕生するらしい。別に新しい道路が開通するわけではない。明治通りの脇山口交差点から西新通り、よかトピア通りを経由して福岡タワーに至る道筋に区が愛称を付けるのだという。

 原作者の長谷川町子さんは戦時中の一時期、疎開でこの付近に住んでいたことがあり、『サザエさん』のアイデアを思い付いたのは百道の海岸を散歩中だったことは良く知られている。西新通りとよかトピア通りとの交差点の一角(長谷川さんが住んでいた当時は海岸だった場所)には「サザエさん発案の地」の碑が建てられ、「磯野広場」と名付けられてもいる。

 こういった歴史や現状もあり、著作権を管理している長谷川町子美術館も名称使用にOKを出したようだ。ちなみに日本最初の「サザエさん通り」は作品の舞台と言われる世田谷区の桜新町商店街だ。

 福岡の「サザエさん通り」命名は区が主導したわけではなく、地元のまちづくり団体が希望したのがきっかけだという。新聞報道によると、この団体の代表は「街の活性化につながれば」と述べたというが、この言葉に少々違和感を持った。通り沿いにあるのは県立修猷館高校や西南学院大学、西新小学校、あるいは博物館や図書館などだ。しかも周囲は閑静な住宅街。

 活性化なる言葉が何を意味するかは正確には分からないが、「活性化=にぎやかさ」であるならば、住民の中には迷惑に思う人さえいるだろう。活性化が狙いならば、むしろ西新商店街あたりに「サザエさん通り」の愛称を付ける方が良い気がする。本家の桜新町と商店街同士交流を進めることも出来るだろう。命名を提案したまちづくり団体代表は西新商店街の関係者のようだが、それでは何か差し障りでもあったのだろうか。


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