未解決は4件どころじゃない

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 福岡県警のサイトに未解決の殺人事件についての情報提供を呼び掛けるコーナーがある。掲載されているのは、2年前のOL遺体遺棄事件をはじめ、北九州市若松区の主婦殺害(2001年6月29日。以下、日付は事件の発生・または発覚日)、嘉麻市の男性殺害(2009年4月17日)、田川市のタクシー運転手強盗殺人(2001年7月19日)の計4件に過ぎない。

 私が記憶する限りでも未解決の殺人事件は他にも複数ある。例えば、北九州市戸畑区のホテル従業員2人殺害(1999年3月10日)、福岡市東区の老夫婦強盗殺人(2001年2月26日)、同市早良区の中古車販売男性殺害(2006年6月15日)など。これらの事件では、警察側も節目の度に情報提供を呼び掛けるチラシ配りなどを行っているようで、時折事件に関する報道を目にする。対照的に宇美町のコンビニ店主殺害は完全に忘れられた感があるが、この事件も容疑者は逮捕されていない。

 コンビニ店主(当時42歳)が2000年7月9日朝、店内で頭部を殴られ殺害されているのを家族が発見したという事件だ。レジの金や商品が物色された形跡はなく、店主の足は縛られていたという。店主は元自衛官で格闘技の心得があり、背後から襲われたのではないかとの見方が有力だった。

 発生の数か月後、私は仕事で糟屋郡(宇美町も含まれる)の担当となり、現場近くを何度か通ったこともあって妙に印象深い事件だ。根拠のない噂話のたぐいもいくつか耳にしたが、ある教育関係者から聞いた話は記憶に残っている。「粕屋警察署が非行少年撲滅月間でもやっているのか、少年犯罪を片っ端から立件している」というものだ。店主殺害に少年が関わっていると警察はにらみ、容疑者に関する情報を得ようとしているのではないか、というのが教育関係者の読みだった。実際、店主には暴走族とトラブルの噂があったという。

 警察の目論見が教育関係者の見立て通りだったのかはわからないが、現在まで容疑者が捕まっていないことを見ると、「非行少年撲滅月間」がコンビニ店主殺害の解決に役立たなかったことだけは確かだろう。ネット上には「容疑者が逮捕された」との情報もあるが、どうも翌2001年に起きた大野城市の建築士殺害事件と情報が錯綜しているように思える。元妻らが保険金目当てに建築士を殺害、宇美町内に遺体を遺棄したという事件で、こちらは元妻と実行犯2人が逮捕されている。

 殺人事件の時効は2010年の刑訴法改正で撤廃され、これら未解決事件の捜査は(少なくとも形の上では)容疑者が逮捕されるまで永遠に続くことになった。福岡県警もこれに応じ、専門の捜査班を設置したという。だとしたら、なおさら未解決事件を4件しか掲載していないのは腑に落ちない。「容疑者を捕まえることができていない」事件を多数並べるのは警察にとって不名誉なこととは思うが、未解決事件の全てを県民に提示し、協力を求めるべきではないだろうか。

 写真は粕屋警察署前の掲示板に貼られていた同事件についての情報提供を呼びかけるポスター。さすがに所轄署は事件を忘れてはいない。
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なぜ、また川辺里?

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 日本最古の「戸籍」木簡が福岡県太宰府市の遺跡から出土したとのニュースが先ごろ話題になった。用語から西暦685年から701年に作成されたとみられるらしい。不思議なのは、その戸籍がまたも嶋評川辺里(しまのこおり・かわべり、又はかわべのさと)のものなのである。この木簡の発見以前、最古の戸籍とされていたのは正倉院伝来品で、大宝二年(702年)作成の「筑前国嶋郡川辺里戸籍」(写真下、志摩歴史資料館展示の複製)だ。表記こそ異なるが、まったく同一の地域。単なる偶然の一致だろうが、出来すぎた話である。

 嶋郡は現在の糸島市と福岡市西区の一部に当たる。大宝二年川辺里の戸籍には、郡の長官・肥君猪手の一族124人の名前があり、長官が住んでいた以上はここに郡衙があったとみられている。場所は特定されていないが、これまでは旧志摩町の中心部一帯と考えられてきた。これにちなみ、志摩中央公園には「川邊の里」の愛称が付けられている。しかし、最近になって東側に隣接する福岡市西区の桑原・元岡遺跡群から官衙的な遺構が相次いで発見され、むしろこちらを有力視する研究者が増えているらしい。

 桑原・元岡遺跡群は、九州大の統合移転に伴い発掘調査が続いている。昨年は庚寅の年号刻んだ大刀が7世紀の古墳から出土し、大きなニュースとなった。この遺跡群からはこれまでに50基を超える製鉄炉の遺構が見つかっており、出土した木簡などから8世紀(つまり大宝二年戸籍の時代)には大規模な官営製鉄所があったとみられている。郡長官が率いる肥君一族とは製鉄集団だったとも考えられているようだ。1901年(明治34年)操業開始の官営八幡製鉄所が日本の近代化を支えたことは良く知られているが、古代の福岡県も製鉄によってヤマト王権に貢献していたとしたら面白い。王権にとっても極めて重要な地域だったことだろう。

 ところで、川辺里と言うからには川のほとりの場所だと思うが、旧志摩町にしても桑原・元岡地区にしても現在は農業用水路程度の小さな川が流れているぐらいで、「川辺里」の名前には似つかわしくないように思う。ただ、古代の糸島半島は、西側にある船越湾、東側にある今津湾がそれぞれ大きく内陸に入り込み、今とはずいぶん地形が違っていたようだ。江戸時代、湾や河口を埋め立て新田開発を進めた結果が現在の地形で、飛鳥時代には、あるいはもっと大きな川が存在していたのかもしれない。


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より大きな地図で 川辺里 を表示
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医療扶助の怪

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 福岡県の公式サイトに、4月の生活保護速報が掲載されている。保護を受けている世帯数や保護費総額などを市郡別にまとめたもので、県の保護・援護課が毎月公表している。生活保護のあり方がいろいろ問題となっている折でもあり、初めて数字をじっくり見てみた。この問題に関心を持ってきた人にとっては「今さら」の話だろうが、医療扶助のあまりの多さにびっくりした。

 福岡県全体の数字を紹介すると、4月に生活保護を受けたのは9万2248世帯13万543人で、保護費の総額は184億308万円だ。1人当たりの金額は約14万円。ただ、この数字は生活費だけでなく、住宅・医療・教育・介護などあらゆる扶助を足し合わせた数字で、実はこの5割以上を医療扶助が占めている。医療扶助に限った額は101億9426万円で、1人当たり約7万8000円にも上る。生活保護者1人が4月1ヶ月で使った医療費がこの額なのである。

 私も中高年になって体にがたが来たので、昔は縁のなかった病院によく行くようになった。それでも年間の医療費総額は、仮に全額自己負担であってもこの数字に及ばない。何かの間違いではないかと思い、厚労省の発表資料を探してみたら、下の表が見つかった。2009年の1人当たりの年間医療扶助費を都道府県別に示したものだ。全国平均が81万5000円、福岡県がこれを大きく上回る94万9000円。今年4月の7万8000円を単純に12倍すれば、93万6000円で、近い数字になる。やはり間違いではなかったのである。

 なぜ、こんなに医療費がかかるのだろう? 福岡県の速報によると、保護世帯のうち、高齢世帯が43.7%、障害世帯が8.7%、傷病世帯が19.6%を占めている。もともと大きな病気を持っているから働くことができず、生活保護に頼っている人がいるのは確かなのだろう。高齢になれば、病院に行くことも増えるに違いない。しかし、厚労省が昨秋に発表した2009年の1人当たりの国民医療費は28万2400円にしか過ぎないのである。単純に比較はできないかもしれないが、生活保護者平均の3分の1だ。

 そう言えば最近、こんな噂話を聞いた。病院は生活保護者には必ず最高級の医薬品を勧めるとか。全額国が支払ってくれるため医療費滞納の心配などないからだ。生活保護者が処方された薬をネットで転売したり、病院がぐるになって必要もないのに長期入院していたりといった悪質なケースもニュースで見かけるようにもなった。民主党政権は保護費の減額に言及しているが、メスを入れるべきは明らかに医療扶助の方だろう。不正同然の受診を抑えるため、1割程度の自己負担は保護者にも求めてはどうか。もちろん「本当に必要な人」のための制度設計はきちんと行ったうえでだ。

 年金暮らしの私の親族は、医療扶助の額を聞いて卒倒しそうだった。“普通の高齢者”にとって医療費負担はバカにならないのである。ネット上でささやかれている「生活保護貴族」という言葉が思い浮かんだ。写真は福岡県庁。


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ごね得

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 こういうのを「ごね得」と言うのだろうか。福岡市が、中学校に放火した少年3人とその親に3400万円の損害賠償を求める訴訟を起こしていたが、半額の1700万円で和解する方向になった。この親たちは最初から賠償する気などまったくなく、市はやむなく裁判ざたにしたが、それでも拒否を続けた。裁判所は和解を勧告、市も「まったく賠償金を得られないよりは」と半額で手を打った。

 放火事件が起きたのは2008年5月16日未明。卒業生を含む当時16~17歳の少年3人が南区の中学校に侵入、職員室に盗んだガソリンをまいて火を付け、職員室のほか校長室、事務室などを焼いた(写真は全焼した職員室。市の発表資料から)。復旧には約6700万円がかかったが、うち半額は保険が支払われた。残る実費分の支払いを、少年たちと「監督義務を怠った」親たちに求めたわけだが、親たちは裁判の中で「監督義務はちゃんと果たしていた」と強弁していたようだ。

 議会の承認を得られれば、市は7月早々にも正式に和解する予定らしい。「全額支払わせるべきだ」と正論を述べる硬骨漢の市議でもいれば別だが、視察として称して観光旅行に行ったり、ウィキペディアを丸写しした視察報告を提出したりするような輩しかいない議会だ。市の提案は100%ノーチェックで通ることだろう。

 和解案によると、1世帯当たりの賠償額は600万円弱。我々庶民にとっては大変な金額だが、「親と子がまじめに働きさえすれば」数年もあれば返済可能な額でもあるだろう。残りの1700万円は税金が充てられる。まったく無関係の市民が犯罪者の尻拭いをするわけだ。福岡という街ではこんなことは珍しくもない。

 <追記>「親と子がまじめに働きさえすれば」数年もあれば返済可能な額でもあるだろう――と書いたが、とんでもない認識違いだった。和解案の概要が明らかになったが、それによると、放火少年側が月々に支払う金額は2~3万円。600万円の賠償を求められ、月々2万円の支払いで手を打った少年の完済予定は、なんと26年後の2038年である。まるで戸建て住宅並みの長期ローンである。福岡市とは、一部の人々にとってはずいぶん話の分かるお役所であるようだ。
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死刑囚脱獄未遂

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 多数の死刑囚を収容する福岡拘置所は住宅地のど真ん中にある。しかも福岡では「環境がよい」と評され、転勤族らに人気がある地域だ。拘置所の管理体制などが一定の信頼を得ているためか、普段は誰も存在を気にしていないが、1996年、死刑囚の脱獄未遂事件が起きている。独房の鉄格子を金ノコで切り脱走を図ったというもので、金ノコを差し入れたのは看守の一人(以下、Sと表記)。別の看守が気付き未遂に終わったが、責任を感じた所長が飛び降り自殺する事態ともなった。

 脱獄を企てた死刑囚とは、熊本大学生誘拐殺人の主犯格・田本竜也だ。彼が犯した大学生誘拐殺人とは、1987年9月、不良仲間3人とともに幼なじみの大学生を山中に誘い出して殺害。さらに大学生が生きているように装い、父親から身代金5000万円を奪おうとしたものだ。田本はこの時21歳。犯行を主導したとして1・2審で死刑、他の3人には無期~懲役18年の判決が下ったが、田本は自分だけが死刑となったことを「理不尽」と思っていた節がある。上告審の最中、「死刑を免れるには逃げるしかない」と事件を起こした。

 手助けしたSは同じ熊本出身の縁で田本と親しくなったらしい。以前から職場に不満を持っており、「上司が左遷されればいい」という信じ難い動機で田本の頼みに応じたという。Sの公判の中で、田本の脱走計画が一部明らかになったが、独房の窓から屋外(恐らく中庭)に出た後、別の棟からロープを使って拘置所外に出る目論見だったという。拘置所内の通路を示した手書きの地図を準備し、ロープもSが隠し持っていたようだ。

 外から見た限り、外部に面した福岡拘置所の窓は分厚いガラスがはめ殺しになっており、仮に独房から脱出できても、容易に所外に出られたとは思えない=写真=。Sの裁判では、弁護側は「そもそも不可能な計画だった」として情状酌量を求めている。ただ、誰の手助けもなく悠々と広島刑務所を脱獄した中国人受刑者の例もある。看守の協力があるのだから可能性はあったと考えるべきかもしれない。

 田本は1998年、死刑が確定。4年後の2002年9月に刑が執行された。この時36歳。刑執行時には「春田」と改姓していた。犠牲者1人で死刑が執行された例として記録に残っているが、自ら命を絶った当時の拘置所長をはじめ、彼に人生を滅茶苦茶にされた人間は現実にはもっと多いことだろう。
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もらい子殺し


 終戦直後まで、国内ではもらい子殺しが度々起きていた。100人以上の赤ん坊を殺したのではないかと言われる事件さえあり、この事件は恐らく国内最大規模の大量殺人事件ということになるだろう。

 頻発した原因は他のサイトで紹介されているので詳細は省くが、妊娠中絶が非合法だったため、社会的・経済的理由で育てられない子供も生まざるを得なかった。そういった赤ん坊を決して安くはない手数料を受け取って引き取り、子供が欲しい家庭に斡旋するビジネスがあった。これに目を付け、最初から手数料をだまし取るのが狙いの輩が次々に現れたということのようだ。

 数あるもらい子殺し事件の中で、特に有名なのは戦後に発覚した東京・新宿区の寿産院事件だろう。犠牲者100人以上と疑われているのは他でもないこの事件のことで、発覚翌日1948年1月17日の朝日新聞には「死亡百六十九名」の見出しが躍っている。

 犠牲者数については諸説あるようだが、求刑の際に検察側が示した数は84人。にもかかわらず主犯格の女への求刑は懲役15年。これでも十分不可解だが、判決に至っては1審が懲役8年、確定判決となった東京高裁判決は4年に過ぎない。女が公判段階で殺意否認に転じ、裁判所も殺人ではなく業務上過失致死と認定したためのようだが、それにしても量刑が不当に軽過ぎるように思える。望まれない子供の命の重さはその程度だったということだろうか。
 
 こういったもらい子殺しが起きたのは東京をはじめ、主に人口が多い都会だが、明治時代に九州・佐賀でも著名な事件が起きている。百武栄一、タカ夫婦と行商人の松本ツゲの3人が共謀して起こした事件で、松本が各地を回って赤ん坊を集め、夫婦が次々に殺害していったらしい。

 1910年(明治43年)6月8日の判決を伝える記事によると、百武夫婦が13人のもらい子を「干し殺した」と判決は断罪している。「干し殺す」という表現が大時代的で恐ろしいが、餓死させたということだ。一説には犠牲者は60人を超えるというから、立件できた数は少なかったようだが、それでも夫婦には死刑、従犯の松本には懲役12年の判決が下っている。明治時代の方が戦後の混乱期よりもよほどまっとうな判断を下している。
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日の里団地のガス爆発


 福岡県にある宗像地区消防本部(写真)のホームページに興味深い記述がある。消防本部設立のきっかけになったのが、昭和48年(1973年)に宗像町(現・宗像市)の日の里公団アパートで起きたガス爆発事故だったと記されているのだ。事故の詳細を調べてみると、2人の住民が死亡、重軽傷者も多数に上ったという大惨事で、この事故を契機に消防本部が設立されただけでなく、国レベルで集合住宅の構造や熱源まで再検討されたほどだという。原因は火元の部屋に住む主婦の自殺未遂。しかも動機は子供をせっかん死させたことを警察や夫に知られるのを恐れたためというから、巻き添えとなった人たちにとってはやりきれない話だ。

 事故が起きたのは11月15日朝。火元の部屋で大爆発が発生、猛烈な爆風で天井、床、玄関ドアが吹き飛び、階上、階下、向かいの部屋も一瞬にして炎に包まれた。死亡したのは、火元の住民ではなく向かいの部屋に住んでいた女性(55)と孫(1歳3ヶ月)だった。

 事故の前日、火元の部屋に住む夫婦の子供が頭を打ち、死亡していた。主婦は病院で「押入れに寝せていたところ、誤って転落しコタツで頭を打った」と話していたが、警察は不審を抱き、ガス爆発が起きたこの日、主婦を事情聴取する予定だった。

 この夫婦も火傷を負って入院したため、捜査は慎重なものとなったが、事件から約1ヶ月後、主婦は夫を道連れにガス自殺を図ったことを自供。夫に対する殺人未遂や重過失致死傷の疑いで逮捕された。何も知らない夫が朝、たばこに火を付けたことが爆発の直接の原因だった。その後の調べで、子供が押入れから落ちたという供述もうそで、泣き止まないのに激怒し床にたたきつけて死なせたことを自白する。近所では暴力的な子育てで有名だったという。

 爆発の原因は身勝手極まるものだったが、堅固なはずの鉄筋コンクリートの建物に大被害が出たことに建設省(当時)は衝撃を受け、冒頭書いたように建物の構造やガス漏れ対策など再発防止策の検討を進めている。熱源を電気に切り替える方針もこの時に打ち出されたというから、現在のオール電化住宅普及の遠因はこの事故だと言えるかもしれない。

 亡くなった女性は女手一つで一人息子を育て上げ、事故が起きた年の夏まで、息子家族とともに幸せな生活を送っていたという。しかし、夏の豪雨で息子が死亡、詳しい理由は当時の新聞等では語られていないが、嫁はその後出て行き、事故当時は孫と二人暮らしだった。一つの家族をこうも相次いで悲劇が襲うとは…。言葉もない。
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1979年、浜田武重がいた場所


 1979年5月9日未明、福岡市東区箱崎6丁目の狭い市道上で、男性が倒れているのを通りがかった大学生が発見した。ちょうど写真の辺りだが、向かって左側には当時も今も九州大学のグラウンドがある。右側には地下鉄箱崎線が走っているが、 79年当時は廃止されたばかりの西鉄貝塚線(路面電車)の線路跡があった。使い勝手が悪いのか、車の通行量は現在でも少ない通りだ。

 倒れていたのは当時37歳の土木作業員で、すでに死亡していた。着衣にタイヤ痕があったことから、当初はひき逃げ事件とみられたが、警察の捜査が進むに従い、次々と不審な点が出てきた。前輪に続いて後輪にもひかれるのが普通なのに、片方の跡しかない。推測される車の速度は時速20~30kmと不自然なほど低速だ。しかも被害者に事件直前、多額の保険金がかけられていることがわかり、警察はひき逃げに偽装した保険金殺人との見方を強めていった。

 5ヶ月近くがたった同年9月27日、警察は事件に関わっていた疑いがある男3人を別件で逮捕、入院中の女の事情聴取を始めた。男の一人が確定死刑囚として現在も福岡拘置所に収監されている浜田武重で、当時52歳。女が内縁の妻。この前年、浜田夫婦と同居していた内妻の遠縁の女性が風呂場で、連れ子の高校生が用水路で相次いで溺死、浜田と内妻が保険金を受け取っていたことを警察はつかんでいた。後に「福岡3連続保険金殺人」と呼ばれる事件は、こうして明るみに出た。

 作業員殺しは4人の共謀で、大量の酒で酔いつぶしたうえで道路に寝かせ、ダンプカーで圧殺するという残忍な犯行だったことが明らかになった。残る2件は浜田夫婦の犯行。遠縁の女性は睡眠薬で眠らせ、連れ子はシンナーを吸って意識が朦朧となった後、水面に顔を押し付け殺害したという。浜田は最初、犯行のすべてを認めていたが、内妻が80年に病死した途端、78年の2件は「事故だった」と否認に転じた。しかし、裁判所は3件とも保険金目的の「極悪非道の犯行」と断じ、1988年、死刑判決が確定している。

 この時から24年。複数回にわたる再審請求が功を奏してか、刑は執行されていない。内妻の親族・連れ子殺しは直接の物証がなかっただけに、法務省も一抹の不安を持っていたのだろうか。

 逮捕時にまで遡れば、浜田死刑囚の拘置所暮らしはすでに33年に上る。今年3月で85歳。過去に80歳以上の死刑囚に刑が執行された前例はなく、彼もそれを知っているのは間違いない。真偽は確認出来ていないが、浜田死刑囚はこれ以上再審請求は行わないと明言しているらしいのだ。「もはや執行はない」と確信したのだろうか。(朝日新聞、読売新聞の各縮刷版を参考にした)
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梅ヶ谷から127年

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 唐突だが、福岡から大相撲の横綱がもう120年以上も出ていない。これまでに福岡が生んだ横綱は、雲竜久吉(1822~1890年)、初代梅ヶ谷藤太郎(1845~1928)の2人。梅ヶ谷が引退したのは1885年(明治18年)5月場所後のことだから、横綱不在期間は正確には127年にも上る。あの魁皇を持ってしても横綱には届かなかった。

 先日、梅ヶ谷の出身地・旧杷木町(現在は朝倉市)を訪ねたところ、公共施設の敷地にある梅ヶ谷のブロンズ像前で小学生の相撲大会が開かれていた。「江戸の大関よりも地元の三段目」ということわざがあるが、三段目どころか地元が生んだ大横綱である。現役時代は1世紀以上前とは言え、町にとっては今も大きな誇りのようで、こうやって大きなブロンズ像が建ち、顕彰の相撲大会が開かれ、生家跡も名所になっている。

 生家も昭和の末までは現存し、町の文化財に指定されていた。81年刊行の『杷木町史』に当時の写真が掲載されているが、木造平屋茅葺きの質素な住宅だったようだ。町史刊行当時、すでに築160~170年と推定されており、老朽化により、残念ながら1987年に取り壊されたという。

 福岡出身の総理大臣も奇しくも2人。こちらも最初の広田弘毅(在任期間1936~37年)から2人目の麻生太郎氏(同2008~09年)まで長い空白があったが、それでも71年だ。福岡に限っての話だが「一国の首相となるよりも横綱になる方が難しい」と言えるかもしれない。

 ただ、現在の角界には大関琴奨菊という期待の若手がいるが、政界の方は福岡出身の国会議員の顔ぶれを見渡しても次代の総理を狙える人材など誰一人として見当たらない。“3人目”の可能性は横綱の方がずいぶん高いと言えるのではないか。昇進後の琴奨菊の成績が今ひとつパッとしないのが少し心配だが。

 梅ヶ谷の生い立ちや事績は、朝倉市の公式サイトにある「ふるさと人物誌」が詳しい。
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