神籠石、豪雨で崩れる


 久しぶりに福岡県朝倉市、うきは市に行き、直売所で農産物を買い込んで来た。7月、2度にわたって九州北部を襲った豪雨により、両市では大きな被害が出た。平野部を走った限りでは豪雨の爪痕には気付かなかったが、所々通行止めの箇所がまだあった。つづら棚田で有名なうきは市の新川地区など山間部の被害は想像以上に甚大らしい。

 以前紹介した朝倉市の古代山城遺構、杷木神籠石でも7ヵ所で崖崩れが起きている。神籠石を象徴する列石遺構には幸い被害がなかったというが、近くの斜面も崩れ(写真)、立ち入りが制限されている状態だ。朝倉市教委は文化庁や県とも相談しながら復旧を急ぐ考えのようだが、今回の豪雨による被害額は同市だけでも20数億円に上っている。当然、社会基盤の復旧が急がれるであろうから、あるいは文化財が後回しになることはあるかもしれない。

 古代山城の豪雨被害は、2003年7月に国特別史跡・大野城でも起きている。この時も局地的に1時間100mmを超える記録的豪雨が襲い、広範囲にわたって土塁や石垣が崩落するなどした。翌2004年から復旧工事が始まったが、完成までには実に6年もの歳月がかかっている。ただ、復旧工事に伴う調査で、新たに4ヶ所の城門が見つかったほか、土塁や石垣についての構造が明らかになるなど考古学上の成果も大きかったという。

 杷木神籠石、大野城とも7世紀の東アジア情勢の緊迫化に伴い、国防のために築城されたと言われている。約1400年がたった現在まで遺構が残っているのだから、構造的に非常に頑丈なものだったに違いない。それが近年の豪雨で相次いで崩れている。「これまでに経験したことのない大雨」が襲っているためだろうか。
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現職警部補の犯罪

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 福岡県警の現職警部補が暴力団関係者に捜査情報を漏らし、見返りに現金を受け取っていたことが明るみに出た。犯罪小説に出てくるような悪徳警官がよくもまあ現実に存在していたものだが、毎年のように何かしら不祥事が起きている福岡県警の現状を思えば、驚くには当たらないのだろう。

 福岡県警では1988年にも現職警部補が世を騒がす事件を起こしている。当時46歳の機動捜査隊員が自分の拳銃を持って佐賀県鳥栖市の信用金庫に押し入り、現金280万円を奪ったというものだ。幸い死傷者こそ出していないが、威嚇のため発砲さえしている。犯行から10数分後には緊急配備中の鳥栖署員によってスピード逮捕されているが、取り調べが進むに従って明らかになった犯行動機は極めてお粗末なものだった。

 警部補には妻子がおり、福岡市近郊にマイホームも構えていたのだが、一方で久留米市のアパートの一室に若いフィリピン人ダンサーを愛人として囲っていた。二重生活を維持するため消費者金融などから多額の金を借りていたという。さらには愛人から「スラム街に住んでいるフィリピンの両親に家を買ってあげたい」と金をせがまれており、拳銃強盗の直接の動機はこの金を工面するためだった。

 この事件前、借金苦の警察官による強盗(未遂)事件が全国で続発していた。警視庁・道府県警は消費者金融等に借金を抱える警察官を洗い出したうえで、返済不能と判断した者には無理やり辞表を書かせ、退職金で支払わせる荒療治さえ行っていたという。その“大掃除”が終わった後に事件は起き、福岡県警のメンツ・信頼は地に堕ちた。警部補には1審で懲役10年(求刑15年)の判決が下っている。

 福岡県警は近年、一般市民の協力を得ながら暴力団壊滅に力を入れているが、暴追運動に関わる市民や企業が狙われる事件が相次ぎ、「市民を矢面に立たせている」との批判も出ていた。この中で起きた捜査情報漏洩事件。事件を伝える新聞各紙の記事は「もう警察は信用できない」という市民の声で埋まっている。逮捕された警部補の容疑は収賄であり、ほかに罪がなければ、量刑は5年以下の懲役に過ぎないが、事件が県警に与えたダメージは拳銃強盗と同等、あるいはそれ以上に大きいようにも思える。写真は福岡県警本部。
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マルくん、2倍に育つ

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 久しぶりに我が家のミドリガメ、マルくんの近況を書いてみたい。2年前の夏からは60cm×40cm程の衣装ケースで飼育しており、ちょうど真ん中辺りに陸揚げを兼ねたシェルターを置いている。夜は中で眠り、昼は上で気持ち良さそうに日なたぼっこをしているが、最近、マルくんがケースの中を移動しようとするとシェルターに引っ掛かるようになった。明らかに大きくなっている証しだ。

 偏食を許しているうえ、食欲も旺盛とは言えないので、それほど成長しているとは思っていなかった。ちょうど良い機会だと思い、嫌がるマルくんを「むんず」と捕まえ甲羅のサイズを測ってみた。長さが10cm、幅が8cm。楕円形とみなして面積を計算すると、約63平方cmといったところだ(楕円形の面積を求める公式は長半径×短半径×3.14)。

 マルくんを海岸で保護したのは2009年11月のこと(「偏食ミドリガメ」参照)だが、この時は長い付き合いになるとは思っていなかったので、サイズもまともに測っていなかった。翌2010年の春に計測した時は長さ7cm、幅5cm程度だったので、この時の甲羅の面積は約28平方cm。つまりマルくんはこの2年間で2倍以上に成長していたことになる。これはちょっと意外だった。同時に、ちゃんと育っていることに少しホッとした。

 ネット上にある情報によると、ミドリガメの寿命は25年以上、メス(マルくんは実はメス)は最大30cm以上になるとか。以前に診てもらった獣医さんによると、マルくんは現在5、6歳なので、きちんと世話をすれば、少なくとも20年は生きてくれることになる。非常に楽しみなことだが、こっちも長生きしないと、天寿をまっとうさせてやれない。
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クマゼミの羽化

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 7月20日の夕方、近所を散歩していたところ、危うくセミの幼虫を踏み潰しそうになった。アスファルトの歩道をノソノソ動いていたのだ。歩道沿いに街路樹が植えてある。恐らくここから地上に出てきたのだろうと思い、低い枝の上に置いて通り過ぎた。

 気になったので、帰り道に確認したところ、街路樹の根元に見事にひっくり返っていた。地上に出るだけで力を使い果たしたのだろうか。昨年も同じような状況で死にかけた幼虫を見つけたことがある。今度の幼虫は少しは元気があるようなので、自宅に連れ帰り、カエデの若木につかまらせた。幹の太さがちょうど良かったのか、見違えるような元気さで登り始めた。

 しばらく後、固まったように動かなくなった。静かに観察していると、肩のあたりが盛り上がってきたのがわかった。やがて、ゆっくりゆっくり成虫が顔を出してきた。姿かたちからクマゼミのオスだ。セミの羽化など見るのは初めて。あんなイナバウアーのような格好で出てくるとは思わなかった。

 翌朝には立派な色艶のクマゼミになっており、若木ごとベランダに出すと、あっという間に飛び去っていった。自宅の周囲ではクマゼミたちが「ワシワシ、ワシワシ」大合唱を繰り広げている。我が家で羽化したセミも加わったことだろう。
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Theme: 昆虫の写真 | Genre: 写真

洞海湾にあった中ノ島

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 北九州市の洞海湾をまたぐ若戸大橋が今年9月で開通50周年を迎えるという。今では自動車専用橋だが、私は子供の頃、橋を歩いて渡った記憶がある。多分、小学校の社会科見学の時だったと思うのだが、橋から見下ろしたはずの洞海湾の景色などまったく覚えておらず、非常にあやふやだ。あるいは記憶違いかとも思い、橋の歴史を調べてみたが、1982年5月までは確かに歩道が設置されていた。年代的にはちゃんと一致している。

 私は子供の頃から高所恐怖症で、吊り橋などは大の苦手である。なのに、九重夢大吊橋(大分県九重町、高さ173m)や照葉大吊橋(宮崎県綾町、同142m)など、九州内の主だった吊り橋は全て踏破しているという大バカ者だ。ただし、私の吊り橋の歩き方は、正面だけを見据えてロボットのようにぎくしゃく手足を動かすというスタイルで、怖いから周囲の景色などまったく見ていない。だから、恐怖の体験の割には記憶が希薄である。若戸大橋を渡った時も同じような歩き方をしていたのだろうか。

 ところで、本題だが、橋の歴史を調べる中で、洞海湾の入り口付近に昭和初期まで、中ノ島という島があったことを初めて知った。北九州市民、とりわけ若松・戸畑区民にとっては周知の事実かもしれないが、あの狭い湾に島が存在していたなど今でも信じ難い。東西180m、南北90m程の小島だったようだが、江戸時代には一国一城令で取り壊されるまで黒田藩の出城「若松城」が置かれ、削り取られる直前までは複数の造船所と70軒近い民家があったという。

 島が削り取られることになったのは、石炭積み出しで洞海湾を行き交う船が増え、海上交通の邪魔者となったためだが、若戸大橋の建設と同じく、多数の犠牲者を出した若戸渡船の転覆事故もきっかけの一つだったようだ。

 事故が起きたのは1930年(昭和5年)4月2日。この日は若松で祭りが開かれ、大勢の人出でにぎわっていた。転覆した「第一わかと丸」には定員(110人)を大きく超える178人が乗り込み、若松側を出港した時から船は大きく傾いていたという。船の航路上に中ノ島があり、これを避けるためにいつも通り舵を切ったところ、船はバランスを崩し、あっという間に転覆。73人が犠牲となる大惨事となった(犠牲者数に関しては72人説もあるが、北九州市公式サイトにある数字に従った)。

 明治時代後期、筑豊で掘り出される石炭は全国産炭量の40%以上を占めるようになり、福岡県は大正時代以降、洞海湾の整備拡充(当時の用語では「洞海湾修築」)を国に繰り返し訴えていた。しかし、洞海湾を田舎港湾としか見ていなかった国側の反応は最初、極めて冷たいものだったという。港の整備や浚渫だけでなく、中ノ島の削り取りも必要とあり、巨額の整備費が見込まれたことも国が渋った一因だったようだ。

 転覆事故をきっかけに、若松―戸畑を海底トンネルで結ぶ構想が持ち上がったが、洞海湾修築についても国が重い腰を上げた。事故から10年後の1940年には、中ノ島は当時の内務省によって跡形もなく削り取られている。土砂は湾内の港湾整備に活用されたという。一方の海底トンネルは戦争によって頓挫するが、戦後、若戸大橋に姿を変えてようやく実現する。戦前にトンネルが構想されたのは橋を建設する技術がなかったためだろうが、「トンネル掘りならば石炭採掘で慣れている」という理由もあったと聞いた。福岡らしい話だ。若戸大橋と渡船の写真は北九州市情報発信強化委員会の「北九写真ダウンロード集」からお借りした。
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サラ金に追われCO中毒死

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 わが世の春を謳歌していた消費者金融業界は貸金業法改正で一転、青息吐息の状態らしい。以下に紹介するのは消費者金融を巡って起きたやりきれない事件の一つだ。恐らく自民党の族議員どもが阻んでいたのだろうが、この業界に対する規制をさっさと強めていれば、こういった悲劇や事件の多くは未然に防げたのではないだろうか。

 事件とは、福岡県甘木市(現在は朝倉市)の山中で1987年1月、家族4人がテント内で一酸化炭素中毒死していたというものだ。発見された時、死後約1か月。テント内には暖を取るための練炭があり、これが不完全燃焼したのが原因とみられた。テント内には大量の食糧が残されていた。

 真冬になぜ、4人はテントなどで生活していたのか。身元が判明し、理由が明らかになった。4人は同県筑後地方に住んでいた30歳代の会社員と妻、その子供の中学生と小学生の兄弟で、会社員は消費者金融に数百万円の借金を負っていた。厳しい取り立てから逃れるためだったのだろう。前年の暮れからキャンプ生活を送る一家を、付近の山荘の住民が目撃していたという。

 「サラ金地獄」という言葉が広まったのは1970年代後半らしい。2010年の改正貸金業法の完全施行で「グレーゾーン金利」が撤廃されるまで、消費者金融業界は利息制限法の上限(15~20%)を大幅に超える29.2%もの金利を課していた。だが、業界が拠り所としていた出資法の上限金利は、1992年まではさらに凄まじいものだった。実に54.75%。

 29.2%でさえ「一度借りたら完済は難しい悪魔的ビジネスモデル」と評されていたのだ。膨れ上がる借金と厳しい取り立てに絶望した借り手が、自ら死を選ぶ事件が度々起きていた。消費者金融で大手と言われたのは武富士、アイフル、アコム、レイク、プロミス、三洋信販の6社だが、東京の武富士を除き、カタカナ4社が関西、三洋信販が福岡の発祥。それが理由か、特に大阪や福岡でサラ金絡みの自殺が多かったとも言われる。

 だが、この一家は決して自ら死を選んだわけではなく、中毒死はあくまでも不幸な事故だった。テント内には食糧のほかに、グローブなど子供たちの遊具も残されていたという。山ごもりで一時的に取り立てから逃れたところで、何の解決になるはずもなく、逃走劇はいずれ破綻を迎えたことだろう。それでも、奇抜な方法ながら必死で家族を守ろうとした夫婦に、私は非常な共感を覚える。国が、消費者金融業界ではなく借り手の国民を守る方向に舵を切るのは、この悲劇から20年も後のことだ。

 一家の遺体が見つかった1987年は、バブル景気が始まった年と言われる。この年を象徴する出来事として、安田火災がゴッホの『ひまわり』を54億円で落札したことが記憶されている。個人的な感想だが、地方に住み続けていた私にはバブルの恩恵などかけらもなく、崩壊後の不景気だけがずしりとこたえた。
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撤去された院外喫煙コーナー

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 福岡市中央区のヤフードーム向かい側にある地行中央公園を10日夕に通ったところ、公園の一角に写真上のような中央区役所の張り紙があった。車止めに張り付けてあるので読みづらいが、「灰皿、ベンチは撤去保管しています」とある。この場所には1、2年ほど前から、大きな灰皿とパイプ椅子数脚を並べた「屋外喫煙所」が設置されていた。これを中央区役所の公園担当課が撤去したというわけだ。

 喫煙所の設置者は、公園の隣にある国立病院機構九州医療センターの関係者と私はにらんでいた。裏を取ったわけではないが、一服し終えた人が白衣をまとい、医療センターに消えていくのを何度も見ているので、恐らく間違いないだろう。第一、この周辺にはほかに事業所などない。

 冒頭書いたように、この喫煙所は少なくとも1年以上も前からあるのだから、病院上層部も市も黙認しているのだろうと思っていた。「気付かなかった」という言い訳が通用する程、控えめな喫煙所ではなかった。しかし、ここに至って撤去したところを見ると、お粗末なことに市は気付いていなかった、あるいは気付いていない振りをしていたのかも知れない。

 なぜ、公園の一角に不法な“院外喫煙所”があったのか。理由は2枚目の写真で分かる。この病院は、敷地内での完全禁煙を勤務者、来院者に強いている。勤務している喫煙者は仕方なく周辺道路で一服していた。ところが、周辺の住宅街から苦情が来たので、仕方なく公園に院外喫煙所を設けた。こんなストーリーが看板から想像できる。当たらずと言えども遠からずだろう。

 しかし、せこい話である。吸う人間も吸う人間だが、それ以上に医療センターに不快感を覚える。医療機関として「敷地内完全禁煙」という体裁だけは保ち、隣接公園の不法な院外喫煙所は黙認するという対応に対してである。あえて繰り返しておく。「気付かなかった」では決して済まされない、堂々たる喫煙所であった。
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連れ子殺しと「3時のあなた」

 宮崎市で1976年10月に起きた幼稚園児殺害事件は、この街に住んでいた人にとって今も記憶に残る事件らしい。20歳代後半の母親が、夫の連れ子の5歳女児を熱湯に入れ殺害したというもので、当時「釜ゆで事件」とも報道されている。冷酷な犯行もさることながら、犯行が明らかになるまでの母親の行動が、事件の印象をより強烈なものにしている。遺体を自宅床下に隠した後「娘が行方不明になった」と騒ぎ、ワイドショーに夫とともに出演、「娘を捜して」と視聴者に訴えることまでしていたためだ。

 当時の新聞記事等によると、事件が起きたのは夫の出張中のことだ。5歳女児と1歳下の弟を一緒に風呂に入れていたところ、2人がけんかを始めた。怒った母親は女児を裸のまま屋外に出したが、それでも収まらなかったのか、弟が寝静まった後、女児を再び風呂に入れガスを点火した。数十分後に引き上げたが、女児は全身に火傷を負っており、間もなく死亡したという。姉弟で扱いに差があり過ぎ、弟の方は実子だろうと想像したが、2人とも夫の連れ子。自分に懐いた弟の方は可愛がっていたらしい。

 事件から2日後、夫が出張から帰る日になって母親は偽装工作を始める。「娘が遊びに出たまま帰らない」と言い出し、警察に届け出る。さらに夫の帰宅後は、大量のチラシを配布して情報提供を呼びかけ、全国系列のワイドショーだけでなく地元の番組にも夫婦で度々出演していたという。果たしてどんな心境でテレビカメラの前に立っていたのだろうか。

 夫婦が出たワイドショーとは、1968年から88年までフジテレビ系列で放送されていた『3時のあなた』だ。主婦向けの情報番組としては草分け的な存在だが、この事件が起きたころは他局の後追い番組と熾烈な視聴率競争を展開していたらしい。この中で起きた女児の行方不明事件。女児は夫の連れ子で、まして夫の出張中に行方不明になったとなれば、早くから母親には疑いの目が向けられていたに違いない。秋田連続児童殺害の母親と同じように、ワイドショーにとっては格好の獲物だったことだろう。

 犯行発覚後、母親は「テレビ出演の日は朝から髪をセットし厚化粧」などと報じられている。だが、母親をかばうわけではないが、スッピンで全国放送のテレビに出る20歳代の女性など当時も今も珍しい存在だろう。犯行自体は許し難いものだが、テレビ出演に関しては、娘を必死で捜す夫の心情に引きずられ、テレビ局側の罠にかかったという気がしないでもない。
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幼児の“犯罪”

 昭和の古い事件を調べるようになって、「犯罪の低年齢化」という状況に疑いを持ち出した。統計をきちんと確認したわけではないが、今では信じ難いような事件がこの時代には結構起こっている。極め付きの例が、1975年(昭和50年)に鹿児島県のある町で起きた事件だろう。5歳を筆頭とする幼児3人組が近所の家に侵入、生後間もない赤ん坊に凄惨な暴行を加えて殺害したというものだ。

 ネット上に情報が流布しているので、ご存知の方も多いかもしれないが、概要を簡単に紹介すると――。両親が寝ている赤ん坊を一人残し、近くで農作業をしていたところ、留守宅に近所の5歳と2歳の兄妹、3歳の従兄弟の3人が上がり込んできた。赤ん坊を見るのが目的だったようだが、そのうち5歳と3歳の男児2人がリンチまがいの暴行を加え始めた。この家にあった包丁を持ち出して刺し、棒状のもので殴り、最後は犬用の鎖で赤ん坊を物干し用の柱に縛り付けたという。帰宅した父親の妹が惨劇に気付き、赤ん坊は病院に運ばれたが、頭蓋骨骨折など全身にむごたらしい傷を負い、助からなかった。

 驚くのはこの事件が起きたのが1975年だったことだ。30歳代前半までの人にとっては自分が生まれる前の大昔だろうが、戦後の混乱期だったわけではない。高度成長期は過ぎていたとは言え、社会全体、そして個々の家庭がまだまだ急速に豊かになっていた時代だった。この年の出来事や世相をネットで拾い出してみると、3月には山陽新幹線が博多まで開通、一方で集団就職列車の運行がこの月限りで終了している。中卒就職者が減り、少なくとも高校まで行くのが当たり前のライフスタイルになっていた。大卒の初任給は10万円の大台が目前だった。

 だが、事件が起きた町、そして幼児たちの家庭は豊かさを実感できる環境にはなかったようだ。農漁業が主産業であるのに肝心の農地はやせて狭く、決して少なくない住民が当時も出稼ぎに行かざるを得なかったという。兄妹の両親も子供を親類に預けて福岡で働いていたが、母親はほとんど帰省することはなかったらしい。幼児たちは両親に愛される赤ん坊に嫉妬したのではないか、と当時の新聞記事は伝えている。現在も健在ならば、3人組は42歳、40歳、39歳になる。
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森福だよ!!

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 今年のホークスは弱い。主力が4人も抜けたのだから苦戦はある程度覚悟していたが、ここまではとは思わなかった。ヤフードームで4日に行われた西武ライオンズ戦も躍動していたのは「神様、仏様」の背番号を背負った西武の選手ばかり。

 この日は西鉄ライオンズで活躍した故・稲尾和久氏の生誕75年を記念し、西武の選手たち全員が彼の背番号「24」でプレーしていたのだ。西武が稲尾氏の功績を称え、こうした催しを行ってくれるのは、福岡の人間としてうれしいことではあるのだが…。9回表、新戦力ロメロが栗山にツーランを浴び点差が絶望的となったところで、多くのファンが席を立っていた。

 帰る際に、1日から球場前で公開されている博多祇園山笠の「飾り山」を見てきた。今年のモデルは、選手会長の本多と森福のようだ。ただ、人形師の方には大変失礼ながら、例によってあまり似ていないので、多くの人が「誰だろう?」と首をひねっていた。携帯で撮影していた中年女性は連れの男性に「左ピッチャーだし、顔も角張っているから杉内じゃない」と自信満々に話しかけていて、面白かった。
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