長者原のトンボ

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 飯田高原(大分県九重町)の長者原登山口に、有名なガイド犬「平治号」の像がある。立派な白い秋田犬だったらしいが、像は子犬時代をモデルにしているようで、可愛らしい感じだ。昨年の今頃は少し古びたピンクの水玉のスカーフを巻いていたが、きょう8月31日は色鮮やかな青いスカーフだった。左耳には赤トンボが止まっていた。この日の飯田高原は日射しこそ強かったが、タデ原湿原にはススキの穂が顔を出し、秋の風情だった。

 毎年眺めるのを楽しみにしているヒゴタイの花はちょうど見頃だった。これはまったくの個人的感想だが、花の数が例年以上に多いように感じた。以前にも書いたことがあるが、毎年ここにヒゴタイを見に来る度に生息域が広がっているような気がする。もっとも8月28日に環境省が公表した第4次レッドリストでは、ヒゴタイは依然、絶滅危惧Ⅱ類(絶滅の危険が増大している種)にランクされている。タデ原一帯で咲き誇るヒゴタイは希少な野生種だ。

 ヒゴタイは漢字では「平江帯」、または「肥後躰」と書くらしい。平江帯の字は江戸時代の儒学者・貝原益軒が自ら編纂した『大和本草』の中で使っている。ただし、ヒゴタイの記述そのものは極めて短く「花ルリ色ナリ葉ハ敗醤ニ似タリ」とあるだけだ。敗醤が何かわからなかったが、オミナエシの古名だという。
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カネボウプール


 福岡市博多区住吉の商業施設キャナルシティ博多がある場所には以前、カネボウプールがあった。さらに以前には鐘紡工場があり、昭和30年ごろの福岡市の地図を見ると、住所も住吉ではなく「鐘紡前町」となっている。沿革を調べてみると、工場が閉鎖されたのは1959年(昭和34年)。プールはこの2年後にオープンしているようだ。

 夏は泳ぐのが定番だった昭和時代、このカネボウプールや現在の中央区薬院にあった県営プール、各地の海水浴場はどこもとんでもない人出でにぎわっていた。私が足繁く通っていたのは料金が格段に安く、自宅からも比較的近かった県営プールの方だが、カネボウプールにも何度か行ったことがある。県営プールに比べれば、ずいぶん垢抜けた雰囲気で、ここの自販機で初めて買って飲んだカネボウのベルミーコーヒーも都会的な飲み物だと勘違いした程だ。後に知り合った山口出身の友人によると、「ベルミーの自販機があるのは田舎ばかり」だったらしいが。

 ところで、このカネボウプール、いつまで営業していたのか。まったく記憶がなかったので調べてみたのだが、ネット上には意外に情報がなく、辛うじて探し当てた地元・西日本新聞の記事にも「昭和46年(1971年)ごろに営業していた」とアバウトな記述があるだけだった。

 私自身は1975年(昭和50年)の夏に何度か行った記憶があるので、この年まで存続していたのは間違いない。76年以降はここで泳いだ記憶がないが、プールで泳ぐような年頃を過ぎてしまってもいた。一方、キャナルシティを開発した地元デベロッパー・福岡地所は77年に跡地の一部を取得しているらしい。75~77年のどこかで閉鎖されたということだろう。ひょっとしたら、私が最後に泳いだのは“カネボウプール最後の夏”だったのだろうか。

 ちなみに薬院の県営プールの方は88年に閉鎖されている。さすがに県営だけあって、こちらは簡単に調べがついた。

 【追記】1977年、78年の住宅地図で確認したところ、77年版ではカネボウ福岡ボウリングセンター、福岡ゴルフセンターが健在で、その隣接地にカネボウプールと考えられる楕円形の構造物が記載されていた。しかし、施設名の表記はなく、恐らくこの時点ではすでに営業を休止していたと思われる。地図の発行日が77年9月1日という点を踏まえると、少なくともこの年の夏以前にカネボウプールは閉鎖されていたのだろう。78年版では施設自体も取り壊され、跡地は玉屋大駐車場となっている。そう言えば、この土地は長い間、野外駐車場だった。
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馬頭観音

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 福岡市中央区黒門に馬頭観音を祭った祠がある。8月中旬、祠の中を見学していると、「金一封」を寄付した個人や事業所名を書いた紙が壁にずらりと貼られているのに気付いた。気になったのは、その中に同区選出の現職福岡市議の名前があったことだ。馬頭観音では毎年8月下旬、祭りが開かれているようで、金一封はこれに対する寄付ではないかと思われる。公職選挙法では、地元の祭りに対する政治家の寄付を禁じている。許される行為とは思えないが。

 念のためと思い、先日もう一度訪ねてみると、市議の名前は消えていた。例祭が終わった後だったので、今年の寄付者名に貼り替えられたようだ。紙も真新しくなっていた。市議は今年、寄付をしなかったのだろう。本人、あるいは事務所関係者が「まずい行為だった」と気付いたのだろうか。

 福岡市刊行の『ふくおか歴史散歩(第三巻)』によると、この馬頭観音は天明3年(1783年)、農民の善三が飼い馬の死を悼み建立したと伝えられるが、黒田藩士が愛馬を祭ったとの異説もあるらしい。明治20年(1887年)頃までは毎年7月23日に馬市が開かれ、近郊の農民たちが自慢の飼い馬を美しく飾って集まり、愛宕神社(現・福岡市西区)まで参拝していたという。数十頭、数百頭の馬が行進する姿は壮観だったようだが、都市化の進展で農耕馬が次第に少なくなり、この行事も廃れていったという。
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ホームドア


 私は金がないので外ではほとんど飲まないのだが、たまに飲み会に出ると「会費の元は取るぞ」と意地汚く飲みまくるので、帰宅時はいつもベロベロである(酒を飲めば、どんな時もベロベロだが)。最近は泥酔すると記憶まで飛ぶようになった。翌日、自分がどうやって帰宅したかをまったく覚えていないのである。話には聞いていたが、まさか自分も同様の状況に陥るとは思ってもいなかった。

 こんなこともあった。飲み会の翌朝、通勤で地下鉄の自動改札機を通ろうとすると、ICカードが何度もはじかれ入場できない。おかしいと思って駅員にカードを点検してもらったら、「昨日の夜に某駅に入場しているが、どの駅から出たのかカードの履歴に残っていない」と言われた。要するに、カードの履歴上は自動改札機を通らないで駅外に出たことになっているのである。酔っ払いが改札機を乗り越えていたら100%警察のお世話になっているはずなので、恐らくすり抜けたのだろう。

 こんな情けないオジサンが無事帰宅できるのは、福岡市営地下鉄の3路線全35駅に転落防止のためのホームドアが設置されているお陰である。私が普段利用している空港線(13駅)には2004年3月に設置が完了したが、年平均で11件程度あった線路への転落事故がこれ以降はゼロになった。転落していたのは私のような酔っ払いが多かったようだが、ホームドア設置を何より喜んだのは視覚障害者の方々だろう。彼らにとって駅のホームは「欄干のない橋」だという。

 全国の地下鉄で最も早くホームドアを採用したのは、2000年に全線開業した東京メトロの南北線だが、現在、各地で進められている既存駅への設置に関しては福岡市営地下鉄をモデルにしたところも多いという。また、2005年開業の七隈線のバリアフリー思想は、実際に利用した障害者(特に視覚障害者)から絶賛されているとも聞く。福岡絡みではろくなニュースがない昨今だけに、少々誇らしい思いだ。

 国交省のサイトによると、ホームドアが設置されている鉄道駅は全国で519駅。莫大な費用がかかる(福岡市営地下鉄空港線の場合で計23億円)ことに加え、電車によってはドア位置が異なるなどの技術的な問題も大きく、なかなか設置は進んでいなかったらしい。だが、不幸な事故を防ぐにはホームドアが最も効果的と、国交省は昨年以降、1日の利用客が5000人以上の駅には設置を促し始めた。

 利用客5000人以上の駅は全国で約2800。昨年1月の大臣会見で当時の大畠国交相は「現在までに5分の1弱しか設置が終わっていない」と述べているが、この発言には間違いがある(意識的なものではないと思うが)。確かに設置駅は519駅なので、2800駅に対する割合は20%弱(18.5%)だが、519駅の中には利用客が5000人未満の駅が結構含まれているのだ。例えば、福岡市営地下鉄の場合は35駅中、18駅(すべて箱崎・七隈線)までは5000人以下。福岡以外にも札幌、仙台など地方都市の地下鉄駅も519駅には含まれているので、実際の設置率はさらに低いことだろう。
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福岡城天守復元!?

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 福岡市の高島市長が16日の記者会見で「福岡城天守閣を復元したい」とぶち上げたという。新聞報道で知り、不快な気分だった。同様の主張をしている民間団体もあるが、バカげた運動だと思っている。理由は単純。福岡城天守については存否さえはっきりしていない。当然、絵図面などの資料も残っていないのだから「復元」は絶対に不可能。仮に想像で天守を建設するとしたら、それは偽物の城でしかないからだ(「福岡城に模擬天守はいらない」参照)。

 この日の会見で市長が発表したのは、2014年度から進める福岡城跡の整備計画。計画の中心は、解体保管している潮見櫓、花見櫓や、古写真が残る松の木御門の復元などが中心のようであり、天守の復元についてはあくまでも「個人的な願望」と断ってはいる。だが、この人は個人的願望に基づき独断で物事を進めるきらいがある。良い例が、大量の中国人公務員を研修で受け入れるという計画だろう。全国から激烈な反対意見がメールなどで寄せられているらしいが、テレビなどで見る限りではあまりこたえている様子もない。

 新聞記事だけに基づいて批判するわけにもいかないので、市が公開している記者会見の映像を見てみた。結論から言えば「現段階で復元は不可能」であることを市長自身も理解はしているようだ。福岡城跡は国史跡であり、建物を復元する場合、絵図面や古写真などきちんとした資料に基づいて行うべきことを文化庁は求めている。昭和30~40年代の城ブームの時とは違い、史実に基づかない模擬天守建築など現在ではあり得ないのだ。

 では、なぜ市長はあえて個人的願望を語ったのだろうか。記者からの質問に正直に答えただけかもしれないが、会見からは、市長が福岡城跡の整備を進めるのは観光地作りが第一の目的であり、そのためには「お城の形がはっきりわかるように」と考えていることがわかる。外国人観光客に「ジャパニーズキャッスルすごいだろ!」(会見での市長発言。本当にこう言った)と自慢できる姿に整備を進めたいようなのだ。単純極まる話だが、そのためにはシンボル的な建築物である天守が欲しいと考えたのだろう。

 福岡市にさしたる観光地がなく、九州を訪れる観光客がこの街を素通りしている現状に、市長や経済界が憂慮していることは良くわかる。その中で、数少ない候補地である福岡城跡に着目することは予想はしていた(「多聞櫓が景観賞に」参照)。しかし、いくら観光振興のためとは言え、市長ともあろう人がまさか何の物証もない天守復元を言い出そうとは予想できなかった。

 この人の市政運営は、屋台存続や大量の中国人公務員研修受け入れ計画によく表れているが、短絡的に金を稼ぐことしか考えていないように思える。しかも、どの政策もマイナス面には目をつむっていることが共通している。仮に外国人観光客が喜んだところで、今の時代に模擬天守を造るなど「恥」でしかないことを理解して欲しいものだが…。

 写真は、福岡城の天守台の石垣。
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ユネスコ村大恐竜探検館

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 同好の士も多いと思うが、私は大の恐竜ファンである。首都圏に暮らしていた時は埼玉県所沢市にあったユネスコ村大恐竜探検館に行き、年甲斐もなく大喜びした程だ。写真はその時にこっそり撮影した(本来は撮影禁止)。私が遊びに行ったのは1995年11月3日。その2年前の映画『ジュラシックパーク』公開をきっかけにした恐竜ブームがまだまだ続いていた時で、祝日だったこともあり探検館には長い列が出来ていた。

 大恐竜探検館を簡単に説明すると、ライドと呼ばれるボート型の乗り物に乗って太古の恐竜世界を巡るというもので、仕組みはディズニーランドの「イッツ・ア・スモールワールド」に似ている。ただ、待ち受けているのは可愛い人形ではなく、動き吼える実物大の恐竜模型だ。料金は大人1200円。これで2回まで入場できたと記憶している。「子供だまし」との声はあったようだが、もともと子供を楽しませるための施設だから、的外れの批判だろう。

 この施設、てっきり現在もあるものと思っていたが、2006年から営業を休止していることを最近になって知った。恐竜ブームが表面的には去り、入場者数が激減したため、経営していた西武鉄道のリストラ対象になったという。リアルな恐竜模型を展示する施設が博物館など他にも増え、施設の希少性が薄れたことも入場者減の一因らしい。確かに、現在では九州でも北九州市立いのちのたび博物館(2002年オープン)で目にすることが出来る。

 探検館のオープンは『ジュラシックパーク』公開と同じ1993年というから、たった13年で幕を閉じたことになる。恐竜ブームを当て込んで造られ、ブームの終焉とともに消え去った軽薄な施設のようだが、写真でもわかるように、恐竜の姿形や姿勢などは当時最新の学説に基づき製作されていた。下の写真は、探検館訪問から数年後、九州某県のテーマパークで撮影した強化プラスチック製の恐竜だが、当時はこれでも出来が良いぐらいだったのだ。探検館の恐竜模型のリアルさは相当衝撃的なものだった。

 九州某県テーマパークの恐竜模型も今となっては味のあるものに見えないでもないが、この施設も残念ながら現在は営業を休止している。冒頭、大の恐竜ファンと書いたものの、この舌出し恐竜の名前は知らない。


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相撲部屋だった海の家

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 写真は、福岡市早良区のシーサイドももち。1989年に完成した人工海浜だ。大規模な埋め立てが行われる以前は、下の地図の「よかトピア通り」の辺りが海岸線で、ここには百道海水浴場があった。私が子供の頃には博多湾の水質悪化で遊泳禁止となっていたが、海の家だけは残っていた。大相撲九州場所の際に相撲部屋として使われていたためで、夏はガラーンとしているのに、冬は裸の大男でにぎわっているという変な海岸だった。

 ここに宿舎を構えていたのは、花籠、二子山部屋などで、一時期は輪島、貴ノ花、魁傑、若三杉といったスター力士が百道の海岸に勢ぞろいしていた。私の浪人時代の友人は高校生の頃、朝稽古の見学に花籠部屋に行ったところ、親方(らしき人物)から「お前、いい体しているな」と入門を勧誘されたというのが自慢だった。某高校ラグビー部でFWをしていた人物で、身長180cm以上、体重も90kg近い巨漢。親方はデカイ少年を見て冗談を言ったのだろうが、鍛えた巨体であるのは一目見てわかるので、案外本気だったのかもしれない。

 花籠部屋があったのは「ピオネ荘」というところで、九州場所の季節以外はコンパ会場としても使われており、私も高校時代、何かの打ち上げで利用したことがある。数年前、久しぶりにこの界隈を歩いたら、「旅荘ピオネ荘」という名前で残っていたのでびっくりした。ただ、この建物もいつの間にか取り壊され、跡地には今、しゃれたマンションが建っている。

 昭和の中ごろまでは海水浴客でにぎわい、その後は大男たちが闊歩していた海岸付近は、今では閑静な住宅街。面影はまったく残っていないが、ピオネ荘跡地近くの一角に海水浴場があったことを示す石碑があり、往時の写真を焼いたタイルが貼り付けてあった(下の写真)。遊泳禁止になる前から「汚い海水浴場」として有名だったとも聞くが、市中心部に近い交通至便な場所だったので、人気はあったのだろう。今ではあり得ないぐらいのにぎわいぶりを伝える写真だ。大勢の海水浴客がいるのにボートを漕ぎ出そうとしている人たちさえいる。いつごろ撮影されたものだろうか。


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憧れの竪穴式住居

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 縄文~古墳時代の史跡公園には竪穴式住居が復元されているケースが多い。写真の撮影場所は、上から平塚川添遺跡(福岡県朝倉市)、板付遺跡(福岡市博多区)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)、岩戸山古墳(福岡県八女市)。どれも同じような代物と思っていたが、こうやって写真を並べると結構個性的で、入り口の配置に関しても上から三つは「平入り」、岩戸山古墳は「妻入り」と異なっている。住居の規模や入り口の位置などについては柱穴から類推可能だろうが、平入り、妻入りの違いは何か具体的な根拠があるのだろうか。

 どうでもいい話だが、私が小学生低学年の頃に住んでいた福岡市近郊の町の借家よりも、この復元竪穴式住居の方が見た目も広さもましな気がする。私が暮らしていたのは農家の納屋を改造したような粗末な長屋で、確か4世帯ぐらいが入居していた。屋内の細かい構造などはあまりに恥ずかしいので書きたくはないが、屋根は茅葺きだったような気がする。文化財級の古民家ではあるまいし、いくらなんでも茅葺きは記憶違いだろうとは思うが。

 ただ、福岡県新宮町にある九州最古の民家「横大路家住宅」(江戸時代半ばの建築と言われている)を以前、見学させてもらった時、子供時代に戻ったような非常に懐かしい気分になったことを覚えている。私が住んでいた家も今の時代に残っていたら、ひょっとしたら自治体指定の文化財ぐらいにはなっていたのだろうか。まあ、単なる超ボロ家に過ぎなかったのだろうが…。
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