4強、今年も同じ顔ぶれ

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 第92回全国高校ラグビー福岡県大会の準々決勝が28日、東福岡、筑紫高校の2会場で行われ、今年も4強は東福岡、小倉、筑紫、福岡の顔ぶれとなった。

 東福岡高校で行われた東福岡―修猷館、小倉―筑紫丘の2試合を見てきた。東福岡―修猷館戦は試合開始早々、修猷館が東福岡陣内深くに攻め込み、PGで先制。しかし、その後は東福岡が修猷館の粘り強いタックルに苦しみながらも、スピードと展開力で徐々に圧倒し、31-3で折り返し。後半も疲れの見えた相手からトライを量産した。修猷館は相手陣での強烈なタックルでボールを奪い、そのままつないで右隅にトライ。一矢を報いた。

 小倉―筑紫丘戦は立ち上がり、両校とも堅いディフェンスで相手のゲインを許さず、一進一退の攻防が続いた。小倉がPGで先制し、ようやくゲームが動くと、さらに1トライを追加して8-0で前半を終了。後半になると、接点で上回った小倉が徐々に試合を支配し、次々と4トライ(ゴールも全て成功)を決め、じりじりとリードを奪った。筑紫丘は試合終了直前、敵陣ゴール前での長い攻防の末に、小倉の鉄壁ディフェンスをこじ開けて左隅にトライ。個人的な感想だが、筑紫丘の意地の1トライに、会場はこの日一番の盛り上がりを見せていた。
 
東福岡 83-10 修猷館
小倉 36-5 筑紫丘
筑紫 59-0 福岡工業
福岡 54-14 東筑
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続・飯塚事件、再審の扉開くか

 今年3月「飯塚事件、再審の扉開くか」というタイトルで、2008年10月に死刑が執行された久間三千年・元死刑囚の遺族による再審請求について取り上げた。刑執行からまる4年、再審請求からはまる3年となる今月、再審弁護団が福岡市で記者会見し、有罪の証拠の一つなったDNA鑑定のネガを解析したところ、別人のDNA型が発見されたと発表した。さらに、鑑定書に添付されていた写真はこの部分が切り落とされており、弁護団は「証拠の捏造があった」と主張している。

 もともと久間元死刑囚には冤罪論も根強い。まして、パソコン遠隔操作による脅迫メール事件で、この国の警察・検察が無実の人間を平気で犯罪者に仕立て上げている実態が露になった時期だ。弁護団が落とした爆弾は大きな波紋を呼び、ネット上には再審決定を確実視する声もあふれている。

 各紙(朝日、毎日、読売)報道によると、検察側は「ネガ全体を裁判所に提出し、証拠採用されている。弁護側も見ているはずで、何を今さら」と反論。写真切り落とし問題については「久間元死刑囚のDNA型が良くわかるようにしただけ」と強弁しているようだが、詭弁に近いと思える。被告の無罪を証明するかもしれない部分を切り落としたのならば、それは間違いなく捏造、少なくとも証拠隠しではないのか。

 「飯塚事件、再審の扉開くか」の中でも書いたが、今となっては信頼性に欠けるDNA鑑定が唯一の物証だった足利事件とは異なり、飯塚事件の場合は▽被害者の洋服に付着していた繊維片が元死刑囚の車のシートと一致▽元死刑囚の車のシートに残された血痕が被害者の血液型と一致▽同じく尿痕は被害者の失禁によるものと考えられる――など他にも状況証拠は複数ある。1審に限れば、DNA鑑定は信用性に欠けるとまで指摘している。

 ひとつひとつは一人の人間を死刑台に送れるだけの証拠とは到底思えないが、最高裁はこれだけの状況証拠が積み重なれば「被告人が犯人であることについては合理的疑いを超えた高度の蓋然性がある」と判断した。しかし、仮に弁護側の主張が正しく、DNA鑑定結果に捏造、または誤りがあるのならば、決して強固とは思えない証拠構造は一部が崩れることになる。

 飯塚事件、及び菅家利和さんの冤罪事件として有名な足利事件で採用されたDNA鑑定は、MCT118型検査法と呼ばれる方法だ。科学警察研究所の研究者が発見したもので、16個の塩基からなる特定の並びが何回反復しているかによって個人を識別するものだという(反復回数は14~42回)。

 最新の鑑定法に比べて精度が低いため、菅家さんの冤罪が生まれたと私は理解していたが、足利事件を含む「北関東連続幼女誘拐殺人事件」を追い続けているジャーナリスト、清水潔さんのルポ等を読む限り、どうもそうではないらしい。菅家さんの再審裁判に際し、本田克也・筑波大教授(法医学)が改めてMCT118型検査法によって鑑定したところ、この手法でも菅家さんのDNA型は真犯人と一致しなかったという。つまり精度が低いから冤罪が生まれたのではなく、そもそも(故意がどうかは別にして)鑑定結果の判定自体が誤っていたというのだ。飯塚事件の再審弁護団の主張と同じ構図ということになる。

 MCT118型検査法は1989年から約7年間、500件以上の刑事事件の捜査で使われたと言われる。冤罪だった事件、あるいは関係者が冤罪を主張している事件は、足利、飯塚の2件だけなのだろうか。
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陸軍が掘ったペグマタイト

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 先日、伊藤野枝の墓を探しに福岡市西区今宿の長垂山に登った際、麓にある説明板(写真、クリックで拡大)に少し興味をひかれた。国指定天然記念物の「含紅雲母ペグマタイト岩脈」について紹介したもので、ペグマタイトとは大きな結晶からなる火成岩のこと(写真2枚目)。説明板によると、ペグマタイトの紅雲母(リシア雲母)に含まれるリチウムを得るため、戦時中に旧陸軍が採掘していたという。陸軍はいったい何のためにリチウムを欲しがったのだろうか。興味をひかれたのはこの点だが、軍に関係することなので記録等も残っておらず、よくわからないらしい。

 リチウムなので単純に電池かと思ったが、調べたところ、リチウム金属電池の発明は1948年のことで、現在主流のリチウムイオン電池の実用化に至っては1980年頃。そのほかリチウムの用途としては、航空機用のアルミリチウム合金、水爆(または核融合)といったところが軍に関係しそうだが、やはり両者とも戦後の技術だ。もちろん、これらの技術を陸軍が戦時中に研究していたという可能性はゼロではなく、福岡市の鉱物研究者の中にはアルミリチウム合金説を唱える人もいる。軽量で強度的にも優れた合金で、現代ではスペースシャトルの燃料タンクなどに使われているという。

 個人的には、旧日本軍は原爆開発もあきらめたわけだから、水爆の可能性はないだろうと思っているが、真相は少々調べたぐらいでは突き止められそうにない。ただ、陸軍が長垂山でペグマタイト採掘を始めた経緯はぼんやりとながらわかった。1933年から60年まで、九州大(九州帝国大)工学部の教授を務めていた著名な鉱床研究者、木下亀城氏が深く関わっていたようだ。

 これは旧地質調査所(現・独立法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)が発行していた『地質ニュース』(地質調査総合センターのサイトにPDFで掲載されている)に紹介されていた話なのだが、戦前、長垂山の麓に標本屋があり、リシア雲母を売っていた。この店主が巨大なリシア雲母を担保に木下氏から大金を借りたが、結局返済できず、雲母を地質調査所に売却して返済金を工面したという。この際、店主はこれまで秘密にしていたペグマタイト産地の場所を木下氏に明らかにした。これを知った軍部が目を付けたということらしい。

 陸軍は開戦前年の1940年から終戦の45年まで一貫して採掘を行い、木下氏著の『日本地方鉱床誌 第9巻 九州地方』(朝倉書店、1961)によると、計200tの鉱石を掘り出している。リチウム含有率は2%だったというから、陸軍が手にしたリチウムの総量は4t程度だったことになる。戦況が厳しくなった時期にも採掘を続けていたことを踏まえれば、用途が研究開発用だったとしたら、よほど重要な研究だったのではないだろうか。

 説明板の最後に「現在ではその美しい淡紅紫色の鱗状結晶群をみることは困難となっています」と記されているが、実はペグマタイト岩脈は、長垂山の真下の海岸に突き出している(下の写真)。うち1本の岩脈にはリシア雲母が含まれているらしいが、天然記念物なので採掘は不可である。


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高校ラグビー福岡8強決まる

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 第92回全国高校ラグビー福岡県大会の4回戦8試合が21日、東福岡高校、筑紫高校の2会場で行われ、以下のような結果となった。全てAシード対Bシードの顔合わせだったが、7試合はAシード校が圧勝した。唯一、筑紫丘が下剋上を果たしたが、このチームも1月の新人戦まではAシードだったチームだ。

 高校ラグビーの激戦地と言われる福岡県だが、最近はAシード常連校とそれ以外の高校との間の実力差が顕著で、さらにどの大会であっても4強に勝ち上がる顔ぶれは東福岡、筑紫、福岡、小倉でほぼ固定している。そして、決勝は東福岡―筑紫の対戦となり、優勝するのは東福岡。番狂わせと呼ばれるゲームは極めて少ない。こんな予定調和のような状況が長く続いていて、果たして激戦地と言えるのか、疑問に思わないでもない。だが、今年は例年程には東福岡や筑紫の力が図抜けているわけではないらしい。ひと波乱が起こり得るだろうか。

 28日の準々決勝は、東福岡―修猷館、筑紫丘―小倉、筑紫―福岡工業、東筑―福岡の組み合わせで行われる。例年、準々決勝4試合は宗像市のグローバルアリーナで行われることが多かったが、今年は東福岡高校と筑紫高校で分散開催される。グローバルアリーナは交通の便が難点だが、(おおむね)秋晴れの下、自然豊かな会場で行われる準々決勝には出場校の関係者以外でも多数のファンが詰め掛け「ラグビー祭り」のような雰囲気があった。単に会場が変わっただけの話なのだが、風物詩がなくなるようで少し寂しい気もする。

東福岡 99- 0 明善
修猷館 55-10 福岡工大城東
筑紫丘 41- 7 宗像
小倉 71-0 香椎
筑紫 69-0 城南
福岡工業 47-15 新宮
東筑 31-15 九州国際大付
福岡 88-0 柏陵
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博多灯明ウォッチング

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 10月20日夜、福岡市博多区の御供所(ごくしょ)町や上川端町などで行われた「博多灯明ウォッチング」を見てきた。“本来の博多の街”には普段縁がないこともあり、初めての見学だったが、紙灯篭で描かれた美しい地上絵にまさに圧倒された。

 今年で18回目を迎えるという。灯篭で街中を彩る祭りは、九州では大分県臼杵市の「うすき竹宵」が有名だが、こちらは今年で16回目。灯明ウォッチングの存在は知っていたが、うすき竹宵よりも歴史が古いとは認識不足だった。不明を恥じるしかない。年ばかり食いながら、物を知らない。私のような人間を「馬齢を重ねる」と言うのだろう。

 1、2枚目は旧冷泉小学校の校庭に作られた地上絵で、1枚目が旧校舎から、2枚目が地上から撮影した。3枚目は特別支援学校「博多高等学園」で撮影したもので、写真が下手なため文字が読めないが、学園の校章をはさみ「ありがとう ごくしょのみなさん」と書いてある。学園は新校舎完成までの数年間、旧御供所小学校の跡地に間借りしていたが、来春には新校舎に移る。交流を深めてくれた地域住民への感謝を、巨大な絵文字で表現したものだ。どれも素晴らしかった。

 一夜限り、それもたった3時間限りだが、だからこそこれは贅沢な祭りだ。同じ市内に住んでいながら今まで無縁だったことを悔やんだ。
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橋下徹氏、博多駅で街宣

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 日本維新の会代表の橋下徹・大阪市長が20日夕、福岡市のJR博多駅前で街頭演説を行っていた。予定時間の午後4時45分ぎりぎりに博多駅に行ったところ、会場周辺はすでに黒山の人だかり。正確な数はわからないが、優に2000人はいただろうか。物見遊山の人も多かったに違いないが、最後まで演説を聴いていた人も相当数いた。一部で早くも「人気凋落」と言われる維新の会だが、橋下氏がまだまだ注目の的であるのは間違いないようだ。

 橋下氏はこの日、来る衆院選に向けた全国遊説を鹿児島からスタート。続いて熊本、福岡と九州を北上してきた。全国遊説最初の場所に鹿児島を選んだのは、言うまでもなく明治維新の原動力となった地に敬意を表してだが、福岡に来たのは九州一の大票田だからではなく、橋下氏いわく「明るい県民気質が大阪に似ているから」らしい。その大阪では既得権益に切り込んでいるものだから、相当な反発を喰らい、「ハシシタ」呼ばわりされていると憤っていた。これは明らかに週刊朝日の記事『ハシシタ 奴の本性』を指したものだろう。

 橋下氏の「本性」を暴くため、被差別部落に生まれ、後にヤクザとなり、最後は自殺した彼の父親を取り上げたこの記事に対し、橋下氏は激烈に反発し、ついには週刊朝日側に謝罪させたうえで、連載中止に追い込んだ。私は橋下シンパではないが、この記事を読んでの感想を正直に言えば、橋下氏に対する底知れぬ悪意を感じた。その悪意を前提に、「橋下家のルーツを調べあげる」というのである。言論の自由はあろうが、この記事に対抗する権利も橋下氏にあるだろう。

 不思議だったのは、この記事が橋下氏を徹底的に貶め、そのルーツとして被差別部落出身の父親を取り上げているのに、(少なくとも私の知る限り)あの部落開放同盟が何の反応も見せていないことだ。ちょっとした言動に対しても「差別だ!差別だ!」と人を糾弾する、あの団体がである。

 橋下市長は大阪で解放同盟の既得権益廃止を打ち出し、同団体と激しい対立関係にあるという。考えてみれば、朝日と解放同盟と言えば、旧社会党や日教組、朝鮮総連などとともに鉄の結束で結ばれていた一団だ。その朝日系列の媒体が部落差別につながりかねない記事を掲載したということは、この種の問題で一番恐ろしい解放同盟が「何も言ってこない」という確信があったに違いない。

 しかし、橋下氏の反発は織り込み済みだったかも知れないが、解放同盟は何も言わないのに一般社会が「差別だ」「人権侵害だ」と記事を糾弾してきた。これは人権を気取る朝日サイドにとって想定外・予想外だったのだろう。あまりにあっけない週刊朝日の降伏劇について、こんなふうに想像している。

 <注>この記事を書いた後、解放同盟は週刊朝日に抗議を行っている。一応追記しておく。
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警固公園改修

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 福岡市中央区天神の警固公園で改修工事が行われている。緑が多く、起伏のある公園だったが、これが死角を作り出し、市によると、夜間には性犯罪などが多発していたという。この対策として視界の開けた公園(下が予想図。福岡市の発表資料から)に造り替えるのが狙いで、費用は約3億8000万円。11月中には完成の予定だが、来夏には近くにある警部交番の公園内移転も計画されている。

 この工事計画が昨年発表された時は唐突な印象を持ったが、裏には高島市長の強い思い入れがあったようだ。市長自身がツイッターで明らかにしているが、地元民放に勤務していた時代、夜の警固公園の無法ぶりを自身が出演していた情報番組で取り上げている。これ以来、警固公園の現状に問題意識を持ち続けていたという。確かに、夜にはナンパ目的の車が公園周辺に多数集まり、不法駐車で周辺道路を占拠していた。私も苦々しく思っていたが、性犯罪が多発しているという言い分には少し疑いを持っている。

 福岡県警のサイト内にある情報によると、県内での昨年1年間の性犯罪認知件数は全国ワースト3位の550件だが、その45%までは路上で起きている。公園で発生したのは全体の3%、17件弱だ。この17件すべてが警固公園に集中しているのならば、「多発」と言えるだろうが、まさかそんなことはあるまい。性犯罪多発は市民や議会を説得するための方便で、市長の本当の狙いは傍若無人な若者たちの排除にあるのではないだろうか。

 高島市長は就任以来、自身の思い付きを次々具体化しては賛否両論(反対意見が圧倒的とは思うが)巻き起こしているが、一貫して力を入れているのが都市型観光の振興であることは良くわかる。と言うか、他の施策にはほとんど目を向けていない。だから、観光客にはそこそこ人気ながら、周辺住民には嫌悪の的となっている屋台を観光資源として残すことを簡単に決めた。しかし、屋台を中心に福岡の夜の観光を売り出そうとしたところで、市中心部に「犯罪都市福岡」の象徴とまでは言わないが、あのような雰囲気の公園があったのでは大方の観光客は敬遠することだろう。今回の公園改修は防犯対策ではなく、観光対策だと私は思っている。

 ナンパ車両を排除することには反対ではないが、彼らは実は福岡タワー周辺から締め出されて天神に集まるようになった。次はどこに行くのだろうか。


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秋月は城下町?

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 先日、福岡県朝倉市の秋月地区を7年ぶりに散策してきた。江戸時代は秋月黒田藩5万石(福岡藩の支藩)が治めたところで、現在も城下町の風情が色濃く残る。町の玄関口に架かる目鏡橋(1810年完成)を渡りながら、「この町はいつ来ても変わらないな」と思っていたが、自宅に帰って目鏡橋の写真を7年前と今回とで見比べてみると、何か違う。調べてみると、完成当時の姿に近付けるため2006~7年に整備工事が行われたという。この時、路面のアスファルトがはがされ、本来の姿の石畳に戻されていたのだ。何も変わらないどころか、大きく変わっていたのである。

 ところで、秋月は「城下町」と呼ばれ、現在秋月中学校がある一帯は「秋月城址」と言われている。だが、秋月黒田家が拠点としていたのは「城」ではなく、「陣屋」と呼ぶのが正確らしい。一国一城令により、筑前領内には福岡城以外の城はないはずだからだ。九州大学のデジタルアーカイブの中で、『筑前秋月藩館下之図』が紹介されているが、確かにこれを見る限りでは、建物が平屋ばかりのためもあり、城という感じはない。大きな屋敷といった雰囲気だ。

 ただ、前面には今も残る堀と石垣が配され、背後は山で守られている。また、瓦坂を登ったところにあった大手門(黒門、現在は城址横の垂裕神社に移されている)は坂の正面に配置されておらず、直角に右に曲がったところにある。正面は大規模な石垣だ。建物の配置もかなり複雑で、恐らく相当に堅固な構造だったことだろう。

 近世陣屋の研究者によると、城と陣屋との間には実は明確な区別はないらしい。建物規模の大小だけで判断しようとすると、研究者の主観に左右されるケースも多いという。また、幕府による大名の格付けに従い、「国持ち大名」「城持ち大名」の居所を城、そうでない大名(格付けは下)の居所を陣屋と呼ぶ考え方もある。この考え方では、秋月黒田家の格付けは「城持ち大名」であり、「秋月城」と呼んでも間違いではないことになる。陣屋町という言葉はあるらしいが、やはりこの町を「陣屋町秋月」と呼んだのではしっくりこないのは確かだ。

 写真は上から秋月の町並み、目鏡橋と石畳に変わった路面。下の4枚は順に、秋月中学校、堀を渡る瓦坂、黒門、長屋門。黒門、長屋門周辺は間もなく美しい紅葉に染まる。


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西部軍司令部跡

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 福岡県筑紫野市山家の宮地岳山麓に太平洋戦争末期、西部軍司令部の巨大な地下壕陣地が建設され、本土決戦に備えていたという。地下壕は南北2ヶ所に掘られ、両者とも現存しているらしいが、北壕は旭化成工場、南壕は採石場の敷地内にあり、いずれも部外者立ち入り禁止。一般人が目に出来るのは、司令部跡に通じる道沿いにある「西部軍司令部跡洞窟」と刻まれた小さな石碑(写真上)ぐらいだと思っていた。

 ところが、先日読んだ九州の戦争遺跡を紹介した本の中に、辛うじてながら南壕が見える場所があると書かれていた。採石場入り口の左側に公園があり、この公園から細い道をたどっていくと行き着くという。早速、この情報に従い、現地に行ってきたのだが、残念ながら壕を目にすることは出来なかった。本に書かれた情報が間違いだったというわけではなく、どうも季節が悪かったようだ。

 まず「公園」と書かれていた場所は、完全に草むら状態。草は腰の高さ近くまで生い茂り、最初は場所を間違ったかと思った程だが、しばらく進むと朽ち果てた看板があり、確かに遊園と書かれていた。どこが管理しているか知らないが、この状態で誰が遊べるものだろうか。続いて、くもの巣に悩ませられながら杉木立を進み、採石場の敷地が見渡せる場所に行き着いたのだが、ここでも生い茂った草や木々に視界を遮られた。草木が枯れる頃に再チャレンジする以外にないようだ。

 地下壕陣地の存在は軍の極秘事項だったこともあり、資料自体もあまり残っていないらしいが、『筑紫野市史 昭和編』(1999年3月発行)によると、北壕、南壕ともに平行に掘られた3本の幹線トンネルからなり、さらにこれらはそれぞれ3本の連絡壕で結ばれていたという。幹線トンネルの奥行きは北壕が150m、南壕が200m。工事を請け負ったのは関門鉄道トンネルを手掛けた熊谷組で、1945年(昭和20年)1月から、筑豊炭田の炭鉱労働者らを大量投入して突貫工事を進めたが、計画の半分が完成したところで終戦を迎えたらしい。ただし、1945年6月の福岡大空襲以降、軍司令部は実際にこの地下壕に移り、軍司令官の横山勇中将以下、600人余の将兵が駐屯していたという。

 横山中将は終戦後、撃墜したB29の搭乗員を殺害した二つの事件(九州大での生体解剖事件と油山事件)の責任を問われ、死刑判決を受けている。その後、マッカーサーによる恩赦で終身刑に減刑されたが、1952年、収監先の巣鴨拘置所で死亡した。当時の新聞によると、死因は就寝中の心臓マヒ。64歳。葬儀は杉並のカトリック修道院で行われ、死亡により公職追放は解除されている。

 筑紫野市山家は、江戸時代に長崎街道の宿場町があったことで知られる歴史ある土地だが、戦争中の暗い歴史も刻まれている。その遺構がせっかく残っているのに、一般人が気軽に目に出来ないのが残念だ。下の壕の写真は筑紫野市歴史博物館のリーフレット『ちくしの散歩』から転載させていただいた。


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より大きな地図で 西部軍司令部地下壕跡 を表示
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伊藤野枝の墓

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 福岡市西区今宿に伊藤野枝の墓があると聞いた。1923年(大正12年)、関東大震災直後の混乱の中で、夫で無政府主義者の大杉栄、大杉の甥の橘宗一(当時6歳)とともに、憲兵大尉の甘粕正彦らによって虐殺された女性解放運動家だ。今宿は伊藤の出身地。大杉、伊藤の墓は静岡市葵区の沓谷霊園にあるが、2人がここに葬られるよりも先に、伊藤の親族が非業の死を悼み、今宿の海岸沿い(写真上、西区横浜の今山遺跡から撮影)の松原に墓を建立したのだという。

 当時は国賊扱いだったこともあり、自然石を置いただけのひっそりした墓で、墓碑銘さえ刻まれていなかったらしい。戦後、市営住宅建設に伴って立ち退きを迫られ、墓石はいったん早良区の寺に移されたが、1995年に遺族によって再び今宿に戻されたと言われる。だが、その場所がわからない。伊藤、あるいは大杉に対する悪感情からか過去に墓石が被害を受けたこともあり、場所を秘したとも聞く。

 ただ「今宿青木の山中にある」という情報があった。今宿にある山など長垂山(写真上の左端)ぐらいしか思い浮かばない。そこで山中を探索してきた。標高は120mに満たない小さな山で、一部公園化もされている。この山にあるのならば、案外簡単に見つかるのではと思ったが、結論から言えば「甘かった」。一歩遊歩道から外れると、生い茂った木や草が侵入を阻み、クモの巣も凄まじかった。しかもこの山は紛らわしいことに自然石の露頭が多い。山頂付近に観音像があったが、刻まれた文字を読んだ限りでは無関係のようだった。

 静岡の墓では2003年の80回忌まで、毎年堂々と法要が営まれていたという(関係者の高齢化で現在は中止)。だが、故郷の今宿では墓の場所さえ公にされていない。地元ならではの感情があるということだろうか。伊藤は東京の女学校卒業後、いったんは帰郷し、親の命で結婚している。しかし、数日で婚家を出奔し女学校の英語教師(ダダイストで有名な辻潤)と同棲を始めたという。さらに、辻と別れた後、大杉との間に5人の子供をもうけている。当時としては奔放な行動に対し、反発があったことは容易に想像できるが。

 来年は伊藤の90回忌。100回忌もすぐに来る。個人的には無政府主義には賛同できないし、伊藤の生き様や思想に共感するわけでもないが、近現代史の中でそれなりに名を知られた女性解放運動家の存在を、地元がまったく再評価することもなく忘れ去っていいものだろうか、とは思う。今宿だけでなく、福岡市全体の問題として一度は考えても良い気がする。
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