ヒッピーとコンクリート船




 宮崎市赤江にタンポリという入り江がある。宮崎空港のちょうど裏側で、下の地図では宮崎マリーナがあるところだ。地図を拡大するとわかるが、正式名は津屋原沼。戦前、軍が赤江飛行場(現・宮崎空港)を建設する際に大量の土砂を採取、その跡地に海水が入り込んで出来たものだという。この周辺には戦時中の掩体壕(飛行機を空襲から守るための施設)が複数残っているらしいが、このタンポリも一種の戦争遺跡と言えるだろう。

 現在は上記のようにマリーナとして利用されているが、このタンポリに関する面白い話を以前、宮崎の知人に聞いた。現在からして40年程前、東京から何人もの若者たちがやって来てタンポリ周辺に住み着き、ここでコンクリート船の建造を始めたというのだ。風体はヒッピーのようだったが、名門大学の現役学生か卒業生だったらしく、地元民は迷惑に思いながらも彼らの行動を傍観していたという。

 若者たちはセメント代や生活費を稼ぐためか、時折、宮崎市内の繁華街で手作りのアクセサリーを販売していた。やがて船は完成、若者たちは勇んで出港しようとしたが、案の定と言うべきか、コンクリート船はまったく浮かぶことなくタンポリに沈んでいったらしい。ただ、知人も目撃したわけではなく、日向灘をわずかに航海し、近くの海岸沖で沈んだという説もあると話していた。

 この手の話は記録なども残っておらず、真相は今ひとつ不明だが、タンポリでの船の不法投棄問題を話し合った数年前の宮崎県議会常任委員会の議事録に、沈んだコンクリート船の話があった。これが問題の船ならば、出港もできなかったという方が正解かもしれない。

 若者たちが何を考えてコンクリート船を造り、どこを目指そうとしたかは知らないが、何となく1970年代らしい出来事ではあると思った。1970年代といえば、私は小中高校生の時代で、当時は何も考えずに生きていたが(残念ながら、現在もだが…)、高度成長が終わり、オイルショックだのドルショックだので経済的混乱が続き、妙な閉塞感があった時代だった。振り返れば、今よりはずいぶんマシな時代だったのかもしれないが、時代の空気を嫌った若者たちはどこか新天地を目指そうとしたのだろうか。

 ところで、コンクリート船など、どう考えても浮かびそうにないのだが、金属不足の戦時中、コンクリートの貨物船が何隻か建造され、実際に就航している。船底に金属を使っていないため、米軍が敷設した機雷に反応しないというメリットもあったらしい。戦時中を生き延びた、そのコンクリート船「武智丸」が戦後、防波堤として広島県呉市の漁港に沈められ、現存している。


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マルくん、ヒーターを愛する 

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 日本海側にある福岡は、冬にはどんよりした日和が続く。首都圏などより気温が低い日も多く、大相撲九州場所が開かれる時期ともなると水道の水も相当冷たくなる。マルくん(ミシシッピアカミミガメ)のケースにも今月からヒーターを入れ、紫外線ライトを取り付けた。暖かくてよほど気持ちがいいのか、起きている時はほとんどヒーターの上で過ごすようになった。下手すると、そのまま眠り込んでいることさえある。

 ヒーターは昨年までは50wのものを使っていたが、体が成長した分、水量を増やしているので、今年は65wのものにパワーアップした。本当は保温用のスポットライトも必要なのだが、マルくんには申し訳ないが、取り付けを見送っている。日中は留守をしているので、加熱による事故が怖いのだ。

 餌は、この間まで好んでいた「カメのおやつ」をまったく食べなくなった。飽きたのだろう。仕方がないので、また生ものを与えることにしたが、今度は刺し身ではなく鶏のササミが気に入ったようだ。「肉食のカメ」となり、性格が凶暴になるのではないかと恐れたが、幸い温厚なままである。ただ、最近は妙にどっしりしていて、以前ほどには臆病でなくなったような気がする。我が家に来て、今月でまる3年。だいぶ慣れてきたのだろうか。

 マルくんを保護したのは、ミドリガメが絶対にいるはずもない海岸の遊歩道だった。目の前をノソノソ歩いていたので、思わず連れ帰ったが、人気のない薄暗い遊歩道をなぜカメが歩いていたのか、今でも不思議な気分になる。
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案山子



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 道の駅原鶴(福岡県朝倉市杷木)前の歩道に30体以上の案山子がずらりと並んでいた。「バサロかかし祭」という催しで、11月いっぱい展示されるらしい。昔は野鳥から農作物を守るのが案山子の役目だったが、最近は観光振興を狙いとするケースが多いようで、同じようなコンテストや祭りが全国各地で開催されている。

 「バサロかかし祭」はあらかじめテーマが決められていたのか、「家族」を表現したものばかりだった。3枚目の写真は恐らく農作業中(脱穀だろうか?)の若い夫婦を題材にした作品だと思うが、マネキンの顔を使っているので、他の作品と違って少しリアル過ぎ、一瞬ギョッとした。案山子にするよりも、地域の歴史資料館などに「昔の農作業風景」のテーマで展示した方が良さそうな感じだ。

 朝倉から自宅に帰って競馬のジャパンカップをテレビ観戦したら、オルフェーブルがまた牝馬に惜敗してしまった。ホウヨウボーイと同じでフェミニストなのだろうか、それとも巷で指摘されているようにやはり騎手が悪いのだろうか。きょうは馬券を買っていなかったが、ジャパンカップは予想が本当に難しい。

 もともと馬券など滅多に当たる人間ではないが、ジャパンカップに限れば、最後に当たったのは1995年に遡る。ほとんど大昔だ。この時は1着がドイツのランド、2着が女傑ヒシアマゾンで、確か枠連は4000円ぐらいついた記憶があるが、色々買っていたのであまり儲からなかった。
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風物詩の青い電飾

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 福岡市早良区百道浜の福岡タワーに、恒例のイルミネーションが点灯された。タワー側面に輝くのは、高さ108mのクリスマスツリー。例年とまったく同じデザインで、正直見飽きた気分もしないではないが、これはこれで福岡の冬の風物詩の一つなので、野暮は言うべきではないのだろう。クリスマス当日の12月25日まで点灯されるらしい。

 タワーのイルミネーションは「ももち☆ブルーライトクリスマス2012」の一環で、タワー前広場にある木々も青いLED電球で飾られている。こういった青い明かりは「幻想的」と表現されることが多いが、否定はしないものの、少し寒々しい光景だとも思っている。10年ぐらい前までは本物の大きなツリーが広場に飾られ、明るい色彩のイルミネーションが周囲を彩っていたが、いつの間にか姿を消した。不況の影響だろう。

 青いLED電球は消費電力の少なさはもちろんだが、青い色には人を落ち着かせる効果があり、犯罪抑止にもつながるという理由で街路灯やイルミネーションに多用されているとも聞く。英国・グラスゴーで2000年、街路灯をオレンジから青色に変えたところ、犯罪が激減したという話が伝えられ、日本でも一気に広まったようだ。青色防犯灯を設置し、実際に街頭犯罪が減ったという地域も少なくないようだが、個人的には眉唾だと思っている。むしろ街路灯を変えてまで治安を良くしようという住民や行政などの意識が好結果を生んだのではないだろうか。

 奈良女子大の研究グループによる『青色防犯灯の犯罪抑止効果に関する実証研究』(2007年10月)に、住民意識について面白い記述がある。要約すると、住民の多くはマスメディアや自治会の情報により「青色光には防犯効果がある」と信じており、白色光から青色光に変えることにより、かえって通りが暗く、寂しくなっても防犯効果への期待からこれを是認しているというのだ。また、実際に街頭犯罪が減った地域も少なくないが、それは青色光の効果ではなく、「青色灯設置を契機とした日常の防犯活動充実に依るものとも考えられる」と指摘している。

 この実証研究の結びはかなり痛烈だ。青色灯の防犯効果を現実のものにするには設置者側の自主的努力が必要と述べたうえで、「実態の伴わない安心感の提供は、かえって危険性を増大させる」とまで強調している。青色の街路灯やイルミネーションを設置した程度で犯罪が減るのならば、世話はないといったところだろう。
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杉山神社と松山神社

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 福岡市早良区の西新界隈を散歩していて、同じ西新2丁目の町内に同名の神社があったので不思議に思ったことがある。ところが私の勘違いで、神社名をよく見ると、一字違っていた。杉山神社と松山神社。どちらも稲荷神社だ。稲荷神社は東日本ではありふれているらしいが、九州では比較的少数派と聞くので、同じ町内に二つあるというのは、やはり珍しいことかもしれない。

 同じ稲荷神社で、名前も似ているとは言え、歴史はまったく別のようだ。杉山神社の方は、大正初期までこの地にあった紅葉八幡宮の境内社だったという。紅葉八幡宮は江戸時代初期の1666年(寛文6年)、黒田藩3代藩主の光之によって西新に移された神社で、藩から神領として100石が与えられていた。

 100石とはたいした数字ではないようだが、貝原益軒の『筑前国続風土記』によると、黒田藩内では太宰府天満宮の1971石、筥崎宮の518石を別格にして、桜井神社(現在の糸島市)の201石、宗像大社の133石に次ぐ。住吉神社、香椎宮(いずれも30石)よりもずいぶん上で、格式の高い神社だったことがわかる。

 明治時代後期、紅葉八幡宮境内の一角を路面電車が走るようになり、喧騒を嫌って1914年(大正3年)に現在地の早良区高取に社殿を移したが、杉山神社だけは西新にとどまったという。なお、『筑前国続風土記』には紅葉八幡宮の末社として印綸大明神、松河原大明神の二つが記されているが、いずれも近隣には残っていない。あるいは、どちらかが杉山神社の前身かとも思ったが、高取移転の際に紅葉八幡宮本体に合祀されたようだ。

 一方、松山神社の方は数年前まで、「九州最古の稲荷神社」と記した看板を掲げていた。第一次元寇の文永の役(1274年)の時、日田の御家人が松山神社近くで戦死したという記録が根拠となっていたようだ。稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社(京都)の創建は8世紀初めという。松山神社の正確な創建年はわからないが、「九州最古の稲荷神社」という記載が事実であるならば、九州には500年間、稲荷信仰がほとんど広まっていなかったことになる。何か特別の理由でもあったのだろうか。
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西新の防塁を築いたのは?



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 前回に続いて元寇絡みの話である。福岡市早良区西新に「防塁前」というバス停がある。路面電車が走っていた頃は電停もあった。言うまでもなく元寇防塁にちなんだ名前で、この地では古くからその存在が知られていた。近年も西南学院大の校舎新築の際、土塁を伴った特殊な防塁が新たに出土し、一部が校舎内に移築保存されている(写真)。

 元寇防塁は第一次の元寇「文永の役」(1274年)後の1276年(建治2年)、再度の元軍博多上陸を防ぐため、幕府が九州各国に命じて博多湾沿岸に築かせたものだ。総延長は推定で約20km。工事は8地区に分けられ、各国が分担したと伝えられるが、その分担は東から順に香椎は豊後、箱崎は薩摩、博多は筑前・筑後、姪浜は肥前、生の松原は肥後、今宿は豊前、今津は日向・大隅だったと言われる(上の地図参照。赤の実線は防塁が残っている個所で、点線は想定個所。クリックで拡大)。

 ところが、「防塁」の名前が残る西新地区の担当は今に至るもわかっていない。史料がないことに加え、工事を担当する九州の国はほかに残っていないからだ。

 いくつか説はある。ひとつは九州九ヶ国が共同で西新地区を担当したというもので、貝原益軒の『筑前国続風土記』がこの説の端緒となっている。早良郡紅葉松原(現在の西新地区)北側の海辺に土塁があり、地中には所々石が埋まっているが、その石には「筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向杯と國の名を刻み付たり」と益軒は書き記している。

 現在において、現実に国名が刻まれた石は見つかっているわけではないが、九ヶ国共同説を唱える人は、防塁の「模範工事」が西新地区で行われたという考えらしい。中世博多の権威、川添昭二・九州大名誉教授も史料がない以上、共同説を「まったく否定はできない」という立場のようだ。ただし、積極的に肯定されているわけではない。

 ほかには筑後説がある。「筑前は博多前浜、筑後は博多庄浜」と分担を記した文献があり、筑後は筑前と共に博多の防塁を築いたというのが定説らしい。この筑後説は1970年に福岡市教委が発行した『西新元寇防塁発掘調査概報』の中で、市教委担当者が提唱しているのだが、各国の分担範囲は概ね3km程度だが、西新地区(愛宕山から荒津崎まで)も博多の沿岸線もちょうど3kmほど。また、中心部を地元が、中心部から離れた地域を遠国が担当したことを踏まえると、「西新は筑後の分担と想定し得る」というわけだ。

 私は筑後説になんとなく説得力を感じている。平安時代に編まれた『延喜式』では、筑前・筑後の国力は「上国」に分類されている。二ヶ国で今津を担当した日向・大隅はいずれも一段国力が劣る「中国」だ。いくら大事な博多とは言え、上国2ヶ国が共同で行ったとは疑問に思えるからだ。また、当時の西新地区は無人の土地だったらしいが、文永の役の際にはここから元軍が上陸、一帯が主戦場となるなど戦略的には極めて重要な土地だった。だとしたら、博多を地元の筑前が担当し、西新を準地元と言うべき筑後が担当するのは理にかなっているように思える。

 西新地区の防塁は、全体を石で築いた今津などと違い、内部は粘土や砂で埋められ、石材が節約されている(2枚目の写真参照)。ただし、他地区では見られない基礎工事が行われるなど構造的にはきちんとしたものだったようだ。西南学院で新たに見つかった土塁については、石塁よりも前に造られたことが判明しており、市教委は「土塁が本来の元寇防塁で、石塁は当初の防塁の前面に新たに改良されたもの」(2002年『西新地区元寇防塁発掘調査報告書』)とみている。現実に敵が攻め寄せてきたら、かなり守りにくそうな構造ではあるが。
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福教組が歪めた元寇

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 二度目の元寇「弘安の役」(1281年)の際、元軍(東路軍)の博多上陸を阻んだのが元寇防塁(石築地、写真=福岡市西区・生の松原で撮影)と鎌倉武士の奮戦であったことはよく知られている。東路軍はやむなく防塁が築かれていなかった志賀島に上陸するが、日本軍の猛襲を相次いで受け、いったん壱岐に撤退している。東路軍はこの後、伊万里湾沖の鷹島で遠征軍の主力・江南軍と合流、直後に暴風が襲い、元軍は壊滅したと伝えられている。

 こうしてみると、防塁は元軍壊滅の遠因だったと言えるだろう。防塁の存在や彼我の戦力等をもとに勝敗を検討した陸上自衛隊第4師団司令部(所在地は福岡県春日市の福岡駐屯地)は、仮に暴風がなくても日本軍の勝利に終わったと結論付けているほどだ(1963年『本土防衛戦史―元寇』)。当時の鎌倉武士団は「やーやー我こそは」などと名乗りを上げている間に討ち取られるような間抜けな軍隊では決してなかった。でなければ、あの広大なユーラシア大陸を席巻した強大な元軍(モンゴル軍)をどんな形であれ二度も撃退できたはずがない。

 だが、私が小学生だった数十年前、鎌倉武士とは元軍に一騎打ちで挑むアナクロな集団であり、防塁とは無用の長物の代名詞だと教わった。防塁に使われた石は後代に漬物石として重宝されたのが関の山だったとも。私と同じ中高年世代には、同じように習ってきた人が多いのではないだろうか。今になってわかることだが、これが当時の歴史認識だったというわけではない。福岡には、史実を歪めてまでイデオロギーを主張するような教員たちがはびこっていたのだ。

 この時代、福岡県内では福教組なる教職員組合が異常なほど幅を利かせており、組合員の教員たちは学校現場でやりたい放題だった(現在でもか?)。上記のような偏向教育は当たり前。それどころか、ストだの旧社会党系の選挙だの私的な用事だので彼らが授業を放り出すのは日常茶飯事だった。当然ながら子供たちは自習。あの悪名高き「ゆとり」教育が始まったのは1980年度からだが、福岡県ではそれ以前から、教員たちが勝手にゆとり教育を行っていたのも同然だ。全国学力テストの結果を見ると、県内小中学生の学力は総じて低いが、その遠因は福教組が傍若無人に振舞っていたこの時代に遡るに違いない。

 高校、大学、社会人と進むに従い、彼ら福教組の教員たちに植え付けられた誤った知識を一つひとつ正していくのに私は苦労した。正確には恥をかいたと言うべきだろう。あれほど隆盛を極めた福教組の組織率は聞くところによると、現在は3割を下回るらしい。私の小学校時代に比べれば、まともな時代になったと思うが、見方を変えれば、まだ3割近い教員が福教組に加入していることになる。その3割の多くは恐らく、担任発表の際に父母や子供たちから「はずれ」と嘆かれる教員たちであることだろう。(昨年12月に書いた「元寇防塁」を加筆修正した)
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筑紫、またも涙

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 第92回全国高校ラグビー福岡県大会決勝が10日、福岡市博多区のレベルファイブスタジアムで行われ、東福岡が24-17で筑紫を下し、13年連続23回目の優勝を飾った。

 後半20分を終わって24-0で東福岡リード。両校の決勝対決としては珍しい一方的な試合となったが、ラスト10分の筑紫の追い上げは凄まじかった。残念ながら、今年も東福岡の壁を崩すことは出来なかったが、この10分で筑紫が見せたテンポの良いラグビーは非常に小気味いいものだった。この攻撃を引っ張った筑紫の司令塔はまだ2年生だ。また、来年に期待したい。

東福岡 24(14-0、10-17)17 筑紫
 
 【試合経過】前半11分、東福岡がモールで筑紫陣に攻め込み、最後はFL西内が相手ディフェンスを跳ね飛ばして飛び込み先制。さらにその4分後にも東福岡が再びモールでトライを奪い、東福岡が14-0とリードして前半を終了。後半も優勢に試合を進める東福岡は7分、筑紫ゴール前の密集からBK陣に展開、最後はCTB東川がトライ。その10分後にも同様の展開からWTB中尾が飛び込み、残り10分を切ったところで24-0と一方的にリードする。

 自慢のFW陣が押され気味のうえ、BKの攻撃も不用意なキックやノックオンなどでリズムに乗れず、打開策の見えなかった筑紫だが、後半22分、東福岡陣22m付近の攻防からSO鶴田がきれいに抜け出し、CTB古田につないで、ようやく1トライ。さらに27分にはNo.8山崎が突破し、ゴールも成功。ロスタイムにもラインアウトからモールで攻め込み、密集に加わっていた主将のFB井上が持ち込み、1T1G差にまで迫った。しかし、最後は自陣でオフサイドの反則を犯し、無念のノーサイド。

 終わってみれば、今年も決勝にふさわしい好試合だった。


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福岡城の石垣、修復中

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 福岡城「上之橋御門」跡で今年6月から、石垣の修復工事が進められている。その模様が9日から一般公開された。工事現場の後ろに専用の見学台が設けられたのだ。早速、行って来た。2枚目が見学台から撮影した写真。素人目には普通の土木工事現場と区別はつかないが、滅多に見られない貴重な光景であるのは確かなのだろう。

 今回の修復工事は、2005年3月の福岡県西方沖地震などの影響で、本来ならば弓なりに反っているはずの石垣が緩み、崩落の恐れも出てきたためだ。いったん全てを解体した後、再度江戸時代の姿に積み上げるという。完成は2014年春の予定だ。

 石垣修復完成後の2014年度以降、福岡市は城跡の復元整備を進める考えだ。解体され20年も部材が保管されたままになっている潮見櫓、花見櫓の復元などが中心になるのだろうが、古写真が残る上之橋御門(下が明治時代の写真。現地の説明板から)なども候補になるのだろうか。

 ところで、復元の基本計画をまとめる検討委員会の場で、委員長の西谷正・九大名誉教授は冒頭、一部市民や高島市長から願望が出ている天守復元について「幻想は持たない方がいい」と釘をさしたらしい。

 存否さえ明らかではない、まして古写真も絵図面も残っていない天守の復元など国が絶対に認めるはずがないことをはっきりさせたものだ。委員会の場で、天守復元を巡って無駄な議論をすることは避けられた。見事な見識だったと思う。一部市民団体による模擬天守建設運動はこれで完全にとどめを刺された、と私は思っている。

 見学台の開放時間は午前9時~午後5時。雨天時は工事中止らしい。


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猿田彦神社

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 福岡市早良区藤崎に猿田彦神社というこぢんまりした社がある。普段は無人で、参拝客もまばらだが、毎年、初庚申の日には縁起物の猿のお面を買い求める人で大にぎわいする。お面を玄関先に掛けておけば「災いが去る」と言われるからだが、この起源には民間信仰などが複雑に絡み合い、「猿=去る」という単純な語呂合わせだけはないようだ。

 猿田彦とは、天孫降臨の際にニニギノミコトの道案内をしたとされる神で、この神話にちなみ古くは道の神、現代では交通安全の神としても信仰されている。また、猿の字が申に通じることから、江戸時代には中国の道教を起源とする庚申信仰とも結び付けられたという。庚申信仰とは、人間の体内に住んでいる三尸(さんし)という虫が60日ごとに回ってくる庚申の日には体内を抜け出し、天帝に宿主について告げ口する。この内容によって人間の寿命が決まる――というものだ。三尸の告げ口を防ぐには庚申の日は徹夜すると良いとされ、昔は「庚申待ち」などと呼ばれる徹夜の懇親会が各地で催されていたという。

 境内に庚申塔が安置されているなど、藤崎の猿田彦神社が庚申信仰と密接に関わっているのは確かだが、では庚申の日に売る猿のお面はどうやって生まれたのだろうか。これに関係するのは「笹野(笹の)才蔵」という別の民間信仰のようだ。笹野才蔵とは、実在した戦国武将・可児吉長の異名だが、「疱瘡神(天然痘の神)」を退治したという伝説があり、江戸時代の博多では疱瘡除けのまじないとして才蔵人形が盛んに作られた。その人形は必ず猿を連れており、これが猿田彦神社と結び付けられ、お面の起源ともなったらしい。

 可児吉長は、柴田勝家や明智光秀、福島政則ら多数の大名に仕えたことで有名だが、福岡・博多に縁のある大名は誰一人いない。その彼がこの地で信仰されたのは、古くから大陸との玄関口だった博多は天然痘をはじめ数々の伝染病が真っ先にもたらされた地でもあり、その恐ろしさが身に染みていたためだろうか。猿田彦神社境内には複数の猿の石像が置かれているが、どれも赤い頭巾をかぶっている。赤は疱瘡神が嫌う色だといい、この神社の歴史を物語っている。

 なお、天然痘の「痘」の字が「盗」と同じ音であることから、猿のお面は次第に泥棒除けのまじないとなっていったという。現代では、むしろこちらの意味合いの方が強そうだが、確かにここまで複雑だと「猿=去る」の語呂合わせで御利益を説明した方がはるかに簡単ではある。来年2013年の初庚申は2月23日の土曜日だ。


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