ミイラになった黒田綱政

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 前回書いた「小倉で黒田二十四騎」で、福岡市博多区千代の崇福寺・黒田家墓所に、福岡藩4代藩主・綱政(1659~1711)のミイラが眠っていることを紹介した。この殿様はいったい、なぜミイラになどなったのだろうか。

 最初にミイラ発見の顛末を振り返っておくと、発見されたのは1950年(昭和25年)5月23日、黒田家墓所を改装している時だった。所蔵文書調査のため崇福寺を訪れていた今枝愛真・東大名誉教授(故人、専門は日本仏教史)が偶然にも発見に立会い、その時の模様を雑誌『日本歴史』(吉川弘文館)1950年9月号に以下のように書き記している。

 「(略)驚くべきことにはこの甕の中には綱政の遺骸そのものが整然たる体裁を具備した埋葬の時のままの形で出て来たのである。即ち正面を破った甕の中に綱政の坐姿―全身は白布で捲かれている―が見出された。調査の結果は頭部のみがミイラで、他は屍蝋という判断であったが、かかる全身が完全に保存されていたのは、身体の下の甕の底に二・三寸程の高さに置かれていた玄米が水を吸い込んだ為ではあるまいかという説があったが、この点は明かではない」(原文は旧仮名遣い)。

 今枝氏は、綱政の遺体がミイラになったのは偶然と考えているようにも受け取れるが、地元福岡では意識的に作ったと考えられている。例えば、福岡市刊行の『ふくおか歴史散歩』第一巻には次の記述がある。

 「『黒田新続家譜』その他の記録によると、綱政の死後、家老隅田主膳はお家騒動(黒田騒動)を恐れ、病気と称して二ヶ月間その死を秘し、藩医篠田宗山、鷹取養巴らに遺体が腐敗しないよう処置することを命じたのである」。「貝原益軒らはエジプトのミイラの製造法を知っていた」とも書かれている。

 幸い『黒田新続家譜』は活字本になっている。図書館でめくってみたのだが、『ふくおか歴史散歩』に書かれているような記述は探し当てることができなかった。『黒田新続家譜』とは黒田家の公式記録である。単に私の読み込みが足りないだけかもしれないが、「病気と称して二ヶ月間その死を秘し」などの極秘であるべき情報を大っぴらに記録するだろうかと疑問に思わないでもない。“その他の記録”の方に書かれていたのだろうか。

 益軒が製造法を知っていたとの記述に至っては信じ難い。確かに益軒は『大和本草』でミイラを取り上げているが、その正体を「罪人ヲトラヘテ薬ニテムシ焼ト云此説是ナリ」と記しているぐらいである。

 とは言え、綱政がミイラとなっていたのは紛れもない事実である。また、彼の時代は家督相続を巡る暗闘が続いていたと言われ、彼には幽閉されていた兄・綱之を暗殺したとの嫌疑が掛けられている。綱政自身にも暗殺されたとの説がある。この時代背景を考えれば、綱政が生きているように見せかけるため防腐処置を施したとの見方には説得力がある。私にも綱政のミイラは陰惨な政治状況の産物と思える。もっと詳しく調べてみたいのだが、せっかく黒田藩政期の古文書が数々公開されているのに、読み解く力がないのが残念である。

 写真は、綱政をはじめ計6人の藩主が眠る合葬墓。比較対象がないのでわかりにくいが、この墓碑は物凄く大きい。


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小倉で黒田二十四騎

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 ずいぶん昔、北九州市に住んでいた時の話だ。たまたま市長選があり、当時の現職候補の決起集会に参加したことがある。“大人の事情”と言うか、早い話が事実上の業務命令で仕方なく出ていたので、集会の中身はほとんど覚えていないのだが、ひとつだけ印象に残っていることがある。景気づけで鎧武者姿の支持者たちがステージ上に並び、「エイエイオー!」と気勢を上げたのだが、このパフォーマンスのタイトルが確か「黒田二十四騎出陣」だったのだ。

 黒田二十四騎とは、黒田官兵衛孝高(如水)に仕えた後藤又兵衛、母里太兵衛ら24人の精鋭たちのこと。北九州市の西半分は江戸時代、福岡藩領だったのだから、黒田二十四騎が出てきても別に不思議ではないのかも知れないが、この時はかなり違和感を持った。決起集会が開かれていたのは、小倉城近くに当時あった小倉市民会館。小倉城は言うまでもなく豊前15万石を治めた小笠原藩の居城だ。「小笠原のお膝元で黒田武士に扮したパフォーマンスをするとは」と不思議に思ったのだ。

 ところが、これには歴史的な理由があった。小笠原藩は幕末の長州との戦争(1866年の第二次長州征伐時のいわゆる小倉戦争)の際、戦局が不利と見るや自ら小倉城に火を放ち、領民を見捨てて香春に撤退している。領民はこれを深く恨み、小倉の一部年配者の間では現在に至るも小笠原の名前は忌避されているらしいのだ。戊辰戦争での苦難を記憶する会津の例を見ても、あり得ない話ではないと思う。

 同じ県内にある二つの政令市、福岡市と北九州市はライバル関係にあることもあって、市民や行政同士はすこぶる仲が悪いと言われる。北九州、とりわけ小倉の人間にとって、福岡藩主だった黒田家は親近感を抱く存在ではないと思うのだが、小倉を捨てた旧主・小笠原家よりはマシということなのだろう。市長選の決起大会に、鎧武者のパフォーマンスが必要なのかという根本的疑問はここでは措いておく。

 翻って、福岡と黒田家の関係はどうなのだろうか。福岡藩も明治維新に乗り遅れたうえ、明治新政府下では藩ぐるみで贋札事件を起こすなど幕末以降の歩みは失点続きだ。贋札事件の責任を問われ、最後の12代藩主長知は廃藩置県を待たずに事実上福岡を追放されてもいる。しかし、黒田家はその後、いったんは廃校となった旧藩校・修猷館の再興や黒田奨学会の設立で近代以降の福岡の教育(正確には旧藩士子弟の教育)に大きく貢献している。その点では、福岡と黒田家とのつながりは現在でも深い。

 写真は、福岡市博多区千代にある黒田家の菩提寺、崇福寺の山門と、巨大な石塔が並ぶ同家の墓所。昨年まで、一般の墓地と黒田家墓所を隔てる藤水門(下の写真)が閉じられ、普段は立ち入ることが出来なかったが、今年に入って午前9時~午後5時は開放されている。この墓所が1950年に改装された際、4代藩主・綱政のミイラが発見され、調査の後、再びこの墓所に眠っている。ミイラの話は別の機会に書きたい。


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富士見崎

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 福岡市早良区百道浜にある福岡タワー展望台(高さ123㍍)に上り、西側の糸島半島にある可也山を写真に収めてきた。あいにくの薄曇りで遠くの景色は霞んでいたが、山の姿形は確認することができた。円錐形の美しい山容から「糸島富士」「筑紫富士」などの別名がある山だ。写真を見る限りでは結構な高さにも思えるが、実際の標高は365㍍。本家の10分の1程度に過ぎない。

 この山は東側の福岡市方面から見た方が美しいとも言われ、福岡市西区には富士見という町がある。現在は「富士見」と付く地名は市内に他にないが、早良区藤崎が昔、富士見崎と呼ばれていたという話が地元に伝わっている。名前から判断する限り、昔は博多湾に突き出た岬で、湾越しに可也山を一望できたのだろうか。

 恐らく戦後、建物が増えて見えなくなったため地名が変わったのだろうと思い、江戸時代の史料を物色したが、不思議なことに富士見崎という名前は一切出てこない。宝永6年(1709年)に編まれた貝原益軒の『筑前国続風土記』には「藤崎村 麁原村の内」と記され、文政4年(1821年)完成の『筑前名所図会』にもしっかり「藤崎」と書かれている。

 地名の由来を調べるには絶好の資料とも言われる『福岡県の地名』(平凡社)、『福岡県地名大辞典』(角川書店)もめくってみたが、こちらにも富士見崎などの記載はない。「藤崎=富士見崎」説は本当なのだろうかと疑問に思い始めたところ、福岡市刊行の『ふくおか歴史散歩』の第三巻に以下のような記述を見つけた。

 「(略)富士山に似た可也山が遠望できたので、藤崎を富士見崎といった。しかし江戸時代に入り百道松原や人家が建ち並び、可也山が遠望できなくなったため『フジミサキ』から『フミサキ』『フジサキ』と町名の呼び方が時代とともに変わってしまった」

 出典は明記されていなかったが、この記述を信じるならば、藤崎から可也山が見えたのは江戸時代初期、または安土桃山時代までだったということになる。江戸時代の史料を見ても富士見崎の名前は出てこなかったはずである。しかし、そうなると地元では江戸初期以前の地名が言い伝えられてきたことになる。藤崎と隣接する西新一帯は江戸時代に百道松原が植林されるまで、ほぼ無人の地だったと言われる。どうやって「富士見崎」の名前は伝えられてきたのだろうか。まだ、疑問は残る。
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マルくん、永眠する

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 カメのマルくんが永眠した。肺炎をこじらせ、苦しんで逝かせてしまった。すべては私の責任だ。

 食欲がない、動きが鈍い、くしゃみをする――異変に気付かねばならない兆候がいくつもあった。なのに、「冬だから、食欲がなくなっているのだろう」などと簡単に見過ごした。1月18日夜、体を斜めにして苦しそうに泳いでいるのを見て、初めて事の重大さがわかった。「翌朝早くペット病院に連れて行こう」と決めたが、その翌朝がマルくんには来なかった。

 よく散歩に行く海岸の遊歩道でマルくんを保護したのは2009年11月のことだった。翌2010年の暮れに獣医師の診察を受けた際、年齢は3歳ぐらいだと教えてもらった。だから、たった5、6年を生きたに過ぎない。親族の一人からは「あなた方に出会わなければ、死ぬはずのカメだった。3年寿命を延ばしてあげたと思いなさい」と言葉をかけられた。そう思うことが出来れば、どんなにか救われることだろう。

 マルくんが逝く直前まで、「自分より長生きしそうだったら、誰に世話を頼もう」と本気で悩んでいた。滑稽で仕方がない。写真は昨年11月に書いた「マルくん、ヒーターを愛する」のカットを再掲した。これが最後の写真となった。
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革労協の活動家逮捕

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 革労協主流派の活動家(57)が16日、脅迫容疑で福岡県警に逮捕された。地元では小さく報じられていたが、その容疑とは福岡県筑紫野市のスーパーで昨年10月、知人(50歳代)を「お前何したかわかっとんのか、俺らは許さんけんな。覚えとけよ」と脅したというものだ。福岡では一般人の喧嘩でもありがちなセリフだが、報道された限りでは、これだけで福岡県警は活動家を逮捕し、さらには東京、福岡の活動拠点など6か所の家宅捜索まで行っている。

 どんな裏事情があるのだろうと思い、逮捕された活動家の名前で検索してみたら、同派による生活保護費詐取事件に行き当たった。独り暮らしの障害者(生活保護受給者で、革労協主流派の元活動家。当時47歳)を介護したように装い、福岡県太宰府市から190万円の生活保護加算金をだまし取ったという事件だ。2008年5月に活動家の男女7人が逮捕されているが、この中に今回の脅迫容疑者も含まれていた。

 これは朝日新聞地方版にだけ書かれていた情報だが、脅迫された知人は電動車いすを使っていたという。この知人とはつまり、生活保護費詐取事件の際に利用された障害者本人なのではないだろうか。少なくとも年齢的には一致している。

 この推測が正しければ、「俺らは許さんけんな」という言葉や、それに対する県警の反応の意味が見えてくる気がする。生活保護費詐取事件で(恐らく)捜査に協力した人物に対し、革労協活動家が組織的報復を宣言したとも取れる言葉を発したため、県警が「これ幸い」と大規模な摘発に動いた――と思える。県警の公式サイトにある「事件検挙掲示板」によると、今回の事件は、筑紫野署とともに左翼過激派を担当する公安3課が直接動いている。

 生活保護費詐取事件では2011年9月、今回の脅迫容疑者に対し福岡地裁は懲役2年6月の実刑判決を下している。脅迫事件はその1年後なので、出所があまりに早すぎる気がするが、2年6月の中に未決勾留期間がごっそり算入されていたのかもしれない。この裁判中、革労協側は地裁周辺で街宣活動をよく行っていた。たまたま近くを通りかかった際、県警や裁判所を糾弾する内容のチラシをもらった記憶がある。写真は福岡県警。
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ヒヨドリの分派

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 福岡市中央区地行浜を散歩していたら、ヒヨドリの群れが「ヒーヨ、ヒーヨ」と大声で鳴いているのに出くわした。以前、我が家のベランダに飛行訓練中のヒナがやって来たことがある(「ベランダにヒナ鳥」)。野鳥にはほとんど興味がなかったが、この時に素性を調べて以来、ヒヨドリは何とか識別できるようになった。羽毛が逆立った頭と茶色い頬を目印にしている。

 福岡では一年中見かけることができる留鳥だが、以前は越冬のために北から渡ってくる冬鳥として扱われていたという。ところが、渡りをやめて都会に住み着くヒヨドリが出てきた。福岡だけでなく、仙台以南の各都市で1960年代後半頃から起きている現象らしい。詳しい理由は不明のようだが、公園や街路に実のなる木々が大量に植えられ、餌に困らなくなったためという説がある。

 ただ、紛らわしいことに、依然として渡りを続ける一派もいる。関門海峡では毎年秋口になると、九州に渡ってくる大群が見られるそうで、冬のこの時期の福岡にはヒヨドリの「定住派」と「渡り派」とが混在している。当然、生息数も普段より多いはずだ。ヒヨドリによる農作物被害が集中するのは冬場だが、これはクロガネモチなど実のなる都会の木々は「定住派」が縄張りとしており、「渡り派」はやむなく農村部に回るためだという。これが正しいのならば、両派は共存ではなく、競争関係にあることになる。

 ところで、図書館でヒヨドリ関係の書籍を物色していたら、『生物いまどき進化論―都市化がもたらす人工サバイバル』(藤本和典、技術評論社、2009)という本に興味深い記述があった。韓国でソウル五輪前、ネズミを駆除するため殺鼠剤をまいたところ、狙い通りネズミは駆除されたが、ネズミの死骸を食べたカラスも死滅した。するとカササギが都市に住み着き、ゴミ箱を漁りだしたというのだ。著者は、仮に日本で同様の状況が起きたら、都市での食べ物に目覚しい適応力を見せるヒヨドリが「カラスに取って代わる可能性がある」と主張している。

 地味な色調ながらも愛らしい姿のヒヨドリが、まさかゴミ箱を漁るようになるとは想像できないが、バードウォッチャーの間では「図々しい鳥」として昔から嫌われ者だったそうだ。下の写真は、地行浜で見かけた他の“鳥”。後ろ姿が異様にたくましく、味わい深い。


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『軍師官兵衛』効果は

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 「NHK大河ドラマ『黒田官兵衛』を誘致する会」という団体がある。来年の大河ドラマが『軍師官兵衛』に決まり、念願かなった会の関係者はさぞかし喜んでいることだろう。この会の参与には高島宗一郎・福岡市長が一応名を連ねてはいるが、福岡の団体ではない。会長は石見利勝・姫路市長。副会長や委員にも同市関係者がずらり並んでいる。姫路は官兵衛(如水)が生まれた地で、同市では以前から「この魅力的な人物をぜひ大河ドラマに」と訴え続けてきたのだ。

 姫路市の公式サイトなどによると、誘致する会が発足したのは2008年11月13日。翌2009年1月には早速、NHK会長に面会し要望書を手渡している。当時のNHK会長は、たまたま北九州市戸畑区(戸畑区の大半は旧筑前領内)出身の福地茂雄氏で、「私は福岡人ですから」と如水への愛着を披歴し、会側は好感触を得たらしい。実際、NHK関係者から「黒田如水は大河ドラマの候補に入っている」と明かされたという。これに力を得た会は以降、毎年要望活動を行ってきた。

 熱心な誘致活動は、言うまでもなく巨大な経済波及効果に期待してのようだ。例えば、2010年放送の『龍馬伝』が高知県にもたらした波及効果は、日銀高知支店の試算によると、最終的に535億円にも上ったという。先頃放送が始まった『八重の桜』の場合、日銀福島支店は福島県内への効果を113億円、観光PRが功を奏して観光客が震災前の水準にまで回復すれば、その額は650億円にまで拡大すると見込んでいる。

 姫路市では現在、国宝姫路城の大修理が行われている。美しい大天守は工事用の建屋ですっぽり覆われており、大幅な観光客減が心配されている。大河効果でこれを最小限にとどめ、化粧直しを終えた大天守が姿を現す2015年春以降の飛躍につなげるという狙いが姫路市にはあったようだ。

 こうしてみると、2014年の『軍師官兵衛』放送は、同市の目論見通りに動いたことがわかる。自治体側の熱意次第で大河誘致は可能ということだろうか。我が福岡も歴史ファンの間で人気が高い立花宗茂を候補に、本気で誘致活動に取り組んではどうだろう。

 福岡市も『軍師官兵衛』効果に期待はしているようだが、ドラマの脚本次第とは言え、晩年を過ごした地の福岡が果たしてどれだけ取り上げられるだろうか。一貫してNHKに熱意を見せてきた如水生誕の地の姫路には、波及効果の面でも到底かなわないことだろう。写真は黒田家の菩提寺・崇福寺(福岡市博多区千代)にある如水の墓所。
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奥寺選手が11人


 サッカー・ワールドカップを初めてテレビで見たのは1982年のスペイン大会だった。イタリアが3度目の優勝を飾り、得点王には同国のストライカー、パオロ・ロッシが輝いた大会だ。ジーコやマラドーナ、プラティニ、リトバルスキーらの選手や、アフリカ勢の驚異的な身体能力が注目を集めた大会でもある。

 当時の日本サッカー界は実業団による日本リーグが地味に繰り広げられていた時代で、代表チームは五輪アジア予選でさえ惨敗を繰り返していた。ワールドカップなど夢のまた夢というレベルだった。深夜にワールドカップを中継していたNHKのアナウンサーが彼我の格差にため息をつきながら「日本がこの舞台に立つためには何が必要でしょうか」と解説者に尋ねたことが印象に残っている。解説者の答えは明快だった。

 「奥寺君が11人いることです」。

 奥寺君とは言うまでもない。1977年からただ一人ヨーロッパに渡り、ドイツのブンデスリーガで活躍していたプロサッカー選手、奥寺康彦氏のことだ。当時の日本にはプロサッカー選手自体、奥寺氏しかいなかった。解説者が言いたかったのは、海外で活躍するプロ選手で代表チームを作れるようになれば、日本がワールドカップで戦うことも夢ではないということだったと思う。

 日本がワールドカップに初出場するのは、それから16年後の1998年フランス大会。この時の代表メンバーに海外組はいなかった。その意味では解説者の予言は外れたが、初出場に先立つ1993年にJリーグが発足、国内のサッカー環境が日本リーグ時代とは比較にならない状況となっていた。全盛期を過ぎていたとは言え、ジーコやリトバルスキーらが日本でプレーする時代となっていたのだ。

 海外でプレーする日本人選手は現在、20人を超えている。国内組にも能力が高い選手は多いため、代表すべてが海外組とはいかないが、「奥寺君が11人」という状況はすでに超えている。1982年当時、こんな時代が本当に来るとは想像もできなかった。リトバルスキーが我がアビスパ福岡の監督となり、さらには成績不振で解任されるなどもっと想像できないことだったが。

 サッカーは普段、今も昔も代表の試合ぐらいしか見ない「にわか」以下の人間だが、このニュースを知って「奥寺君が11人」発言を思い出した。サッカーで飯を食っている日本人が、日本人選手のヨーロッパ進出に暴言を吐くなど、本当に時代が変わったと痛感する。

 「奥寺君が11人」発言の解説者が誰だったかは覚えていないが、今と違って専業のサッカー解説者が存在できた時代ではない。NHKの放送によく呼ばれていたのは、当時すでに日本サッカー協会の重鎮だった岡野俊一郎氏が多かったような気がする。(別ブログに書いていた話をこちらに移した。写真はアビスパ福岡のホーム、レベルファイブスタジアム)
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