月光苑放火殺人

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 今月28日の西日本新聞に、マルヨ無線事件の尾田信夫死刑囚(66)ら確定死刑囚の肉筆が掲載されていた。「死刑廃止を推進する議員連盟」副会長の福島瑞穂参院議員のアンケートに答えたもので、死刑制度への賛否を尋ねた質問に対し、尾田死刑囚は達筆で「死刑制度は絶対反対。自分が死刑確定者だから“反対”と言うものではなく、恣意的にこれが適用、運用されているからです。3名殺害で無期、1名殺害で死刑。実際にこのような裁判は存在します」などと答えていた。

 尾田がマルヨ無線事件で殺害したのは1人。それに対し、多数の犠牲者を出しながら判決は無期というケースが確かに存在する。代表的な例が、同じ福岡市で1983年12月20日に起きたホテル月光苑放火殺人事件だろう。ホテル社長と愛人らが約1億9000万円の保険金目当てに放火、結果として従業員4人もの命を奪った悲惨な事件だ。2人は殺人と放火の罪に問われたが、下された判決は無期。「死刑の運用が恣意的だ」という尾田の憤りは理解できなくもない。

 ホテル月光苑があったのは福岡市中央区清川の那珂川河畔。写真のように、現在はマンションやアパートが立ち並んでいるが、もともとは遊郭街として発展した街で、月光苑も遊郭だった建物を増改築して1952年に開業したという。木造2階建て。1983年の事件当時、経営は火の車だったらしい。また、社長の愛人もブティックを開業しては経営に失敗するという繰り返し。2人は多額の借金を抱えており、保険金で借金を返済しようと犯行を計画した。

 犯行当日はたまたま宿泊客がゼロだったため、従業員の忘年会が行われており、5人の従業員がそのままホテルに泊まり込んでいた。放火の実行犯は愛人の方で、1階廊下に大量のガソリンをまき、新聞に火を付け引火させたという。建物が老朽化していたため火は一気に燃え広がり、1人は消防隊に救助されたものの、残る4人は逃げる間もなく焼死した。

 裁判では未必の故意による殺意があったかが争点となり、1985年3月の福岡地裁判決は検察側の主張を全面的に認め、“求刑通り”無期懲役を言い渡している。検察がなぜ死刑を求刑しなかったかはわからない。ただ、大雑把に調べた限りでは、1970~80年代は死刑の運用が抑制的だったようにも思える。

 判決当時、社長は48歳、愛人は42歳。後に2人は控訴を取り下げ、1審判決が確定している。恐らく現在も収監されているはずで、以前「服役60年超の無期囚」の中で紹介した法務省発表資料「無期刑の執行状況及び無期受刑者に係わる仮釈放の運用状況について」の中に、2人のうち、どちらかとみられる記載がある。下の表の赤枠で囲った部分で、年齢、在所期間、犯罪事実、犠牲者数などが一致しており、まず間違いないと思う。ただ、性別は記載されていないため、社長か愛人かまではわからない。残る1人についての記載は見当たらないが、すでに仮釈放されているとは考えられない。まだ仮釈放の審理さえ行われていないのではないだろうか。

 なお、2人の名前についてインターネット上では“大野弥助”と“長島征子”と流布している。これは恐らく、私も参考にした『実録・福岡の犯罪』(葦書房、1993)からの引用だと思うが、実はこの本の一部人物名は仮名で、例えば尾田信夫も太田信次と記されている。正しくは月光苑社長が水野清助、愛人は三島正子である。


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尾田信夫の行動力


 マルヨ無線事件(1966年、福岡市の電器量販店で起きた強盗放火殺人事件)の尾田信夫死刑囚(66)について調べていて、彼が1審判決前に脱走事件を起こしていることを知った。間もなく潜伏先の福岡市内で拘束されたと言え、いったんは自由の身となっている。この時、21歳。以前「20歳には見えない」で、彼の年齢に見合わぬ貫禄について書いたが、大胆な行動力にも驚くほかない。

 脱走したのは1968年8月13日夜。場所は福岡拘置支所ではなく、福岡市郊外にある精神科病院。尾田はこの1年前から「精神に異常を来した」として強制入院させられており、公判も停止中だった。同じ病院に入院中だったアルコール依存症患者2人を誘い、2階トイレの窓の鉄格子を調達した金ノコで切断、つなぎ合わせた毛布を伝って病棟から逃れたという。未遂に終わっているが、患者2人には「自動車強盗して大阪に逃れよう」と持ちかけていたらしい。

 尾田は福岡市に逃走後、「働かせてくれ」と土木業者を訪ねたが、業者の家族が「脱走犯だ」と気付き通報。脱走から約24時間後の14日夕、作業員用宿舎でくつろいでいる時に身柄を拘束された。逃走劇があっけなく終わり、放心状態だったと当時の新聞は伝えている。

 尾田が本当に精神を病んでいたのか、あるいは演技だったのかは私にはわからない。ただ、この脱走事件が裁判官の心証を決定的に悪くしたのではないかと思う。拘束から間もなく福岡地裁で公判が再開され、尾田には4か月後、死刑判決が下っている。最高裁まで争ったが、死刑判決は覆ることなく、70年に刑が確定。以来43年間、確定死刑囚として拘置所暮らしを続けている。

 尾田はこれまで6度も再審請求を繰り返しているが、最初の4回は独力での請求だったという。また、昨年4月には刑場写真が載った雑誌閲覧を拘置所が認めなかったのは違法として、国に対し660万円の賠償を求める訴訟を起こしている。凶悪犯の多くは悪い意味で行動力のある人間だろうが、尾田という男のバイタリティーには目を見張るものがある。もちろん、これらの行動の背景にあるのは自身の生に対する執着だとは思うが、月並みな表現ながら、この行動力を犯罪以外に生かしていれば、人生の大半を死刑囚として送ることもなかっただろうにと思う。

 写真はかつてマルヨ無線があった博多リバレイン付近。
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獄中自殺した第2の帝銀事件犯人

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 死刑囚に対し、執行が言い渡されるのは当日の朝らしい。以前は前日に告知していたが、執行直前に自殺した死刑囚がいたため変更されたという。その死刑囚とは、筑後市ボーナス強盗事件の犯人で、1975年、福岡拘置支所(現在は福岡拘置所、写真)で自殺した津留静生(死亡時43歳)だと言われている。ボーナス強盗事件は1964年の発生当時、「第2の帝銀事件」と騒がれた凶悪犯罪だが、津留はその犯人としてよりも、死刑執行の慣行を変えた人間として名前を残している節がある。

 津留が自殺したのは1975年10月3日早朝。独房からうめき声がするのに巡回中の刑務官が気付き、室内に入ったところ、津留がカミソリの刃で左手首を切り、血まみれになっていた。すぐに応急手当をした後、担当医を呼んだが、助からなかったという。

 この一件が報道されたのは3週間あまりがたった同年10月26日。当時は死刑執行の事実さえ明らかにされていなかった時代で、当局側は恐らく、この不祥事を表沙汰にするつもりなどなかったのだろう。当然ながら、津留の自殺が死刑執行直前だったことなど公にされるはずもない。当時の新聞には自殺の動機について、「6月に福岡事件の西武雄死刑囚の死刑が執行されたが、津留は西の姿が見えなくなったことで執行に気付き、気が滅入っていたと考えられる」という職員のもっともらしい談話が掲載されている。

 問題は死刑囚がどうやってカミソリの刃を入手したかだが、これが現在に至るも謎らしい。同種の刃が付いたT字型のカミソリを入浴時などに貸し与えていたというから、刃を外して隠し持っていたのではないかと思うのだが、“公式発表”では刃を外す器具は一部の刑務官しか所持しておらず、また紛失の記録もないことになっている。容易には信じ難いが、津留が使った刃はわずかに錆付いており、新しいものでなかったようだ。あるいはかなり以前に手に入れ、その日に備えて隠し持っていたのだろうか。

 筑後市ボーナス強盗事件について振り返ると、彼が事件を起こしたのは1964年暮れ、同市のボーナス支給日当日だった。当時、彼も同市職員として市立病院の運転手を務めていた。ボーナス運搬役の3人が銀行から出てくるのを待ち伏せしていた彼は、「二日酔いにきくから」と言って青酸入り栄養ドリンクを勧め、3人を毒殺して金を奪おうとした。しかし、2人は飲み干しその場で昏倒したものの(後に2人とも死亡)、残る1人は途中で吐き出したため、強盗は未遂に終わった。

 1970年1月の最高裁判決によると、自宅の新築費や塗装工場を経営する(市職員の傍ら、自営業をしていた)資金作りに困っての犯行だったとされている。しかし、後にこの事件を洗い直したフクニチ新聞の記事(『実録・福岡の犯罪』として葦書房から刊行されている)は、金を強奪した後の逃走計画は白紙で、<本気で金を奪う気があったのかどうか事件当時でも疑問視する捜査員がいたほどだった>と不審がっている。当時、津留は嫁姑の対立や親の介護などで憔悴しきっていたという。このため裁判では津留の精神状態が主要な争点となり、弁護側は事件当時は心神喪失状態で、発作的な犯行だったとの主張を展開している。

 死刑囚の自殺事件はこのほか、女性デザイナー誘拐殺人事件(1965年)の山川真也(1977年5月21日、東京拘置所で独房の窓ガラスを割り、破片で首を切る)、一家四人をライフル銃で射殺した北海道・平取事件(1979年)の太田勝憲(1999年11月8日、安全カミソリの刃で首を切る)等々、各地で結構起きている。
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行旅死亡人


 数年前の春先、福岡市早良区百道浜(写真)を散歩中、砂浜に救急車が停まっているのに出会った。誰かが溺れたのかと思い目を向けると、波打ち際に人が倒れていた。救急隊員は周囲を取り巻いているだけ。一緒に歩いていた家族が不審がったので、「すでに亡くなっているのだろう。救急隊員は死者は運ばない」と説明したが、腑に落ちない様子だった。

 行旅死亡人データベースというサイトに、この人物らしき死亡者の情報が掲載されている。60~70歳の男性。2005年3月18日、百道浜で溺死。時期や場所が一致しているので、恐らく間違いないだろう。行旅死亡人とは身元がわからず、引受人もいない死者のことで、性別や年齢、遺体の発見日と場所、状況などは官報に掲載されている(インターネット版官報はこちら)。

 今年3月1日の官報には、昨年福岡市で火葬された7人の行旅死亡人が掲載されている。行旅死亡人が発見される度に官報に掲載する自治体もあるが、福岡市では1年分をまとめて告示しているようだ。恐らくこれも行革の一環なのだろう<注>。7人の死因は、溺死が3人、交通事故死、失血死、墜落死、原因不明の内因死が各1人。交通事故死は、昨年暮れに「今も身元不明」で取り上げた、ジョギング中に輪禍に遭った女性だ。文面を読んで少々不可解に感じたのは失血死、内因死のケースだが、以下のように書かれている(民間物件は住所・ビル名を伏せた)。

< 本籍・住所・氏名不明、20歳前後、男性、身長約170センチメートル、紺色半袖Tシャツ 、ジーンズ、焦げ茶色靴
 上記の者は、平成24年6月3日福岡市城南区鳥飼7丁目34番市営中浜団地34棟北側1階敷地で失血死体で発見された。>

< 本籍・住所・氏名不明、40~50歳代、男性、身長165~170センチメートル
 上記の者は、平成24年9月25日福岡市中央区渡辺通*丁目**番**号*ビル4階ベランダ物置内で原因不明の内因死体で発見された。>

 現場は失血死が完全な住宅地、内因死が大通りから一本入った路地で、1階に小料理屋やスナックが入居するアパートが立ち並んでいる。若者が失血死するなど犯罪絡みと思えるし、ベランダの物置で死んでいたというのも奇妙な話だ。図書館で新聞をめくり関係記事を探してみたが、どれも見つけることはできなかった。報道に値するだけの事件性はなかったということだろうか。

 「今も身元不明」でも同じようなことを書いたが、20歳前後の若者が命を落としたというのに身元がわからないという状況が不思議で仕方がない。行旅死亡人と言えば、何となく高齢者が多いものと思っていたが、確かに50歳以上の中高年齢者が多いものの、彼のような若者も決して珍しくはない。音信不通となった息子の行方を、親は今も必死で探しているのではないだろうか。それとも天涯孤独の若者が当たり前に存在している世の中なのだろうか。どちらにしても切ない。

 <注>官報の掲載料金は、地方自治体の告示等が1行(22字)当たり918円。行旅死亡人を個別ではなく、まとめて告示することで「当該行旅死亡人については、引取人がないため遺体は火葬に付し、遺骨は当市において保管中です。心当たりの方は、福岡市博多区保健福祉センター保護第3課まで申し出ください。平成**年*月*日 福岡県 福岡市長 高島宗一郎」という文章が一回切りの掲載で済むことになる。この一文が官報では6行、つまり5508円。7人の行旅死亡人をそれぞれに告示した場合、33048円を余計に支払わなければならなくなる。ただし、これはあくまでも私の推測で、一回一回告示するのが単に面倒くさいだけということもあり得る。
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大崎事件と氷見事件

 1979年に鹿児島県大崎町で起きた大崎事件は冤罪の可能性が高いと思っている。根拠は何もない。あの志布志事件をでっち上げた志布志警察署が手掛けた事件だからだ。志布志事件とは2003年、鹿児島県議選当選者による買収を警察自ら捏造、長期間にわたる暴力的な取り調べ(当選者は恐ろしいことに1年以上も勾留されている!)で自白を強いたという悪質極まる事件だ。21世紀の日本で起きた話とは今でも到底信じられない。この警察署の体質を考えれば、手柄欲しさに事故死を殺人事件に仕立て上げ、無実の人間を犯人にすることなど30年前ならば平気でやりかねなかったと思える。

 その大崎事件の第2次再審請求が先日、鹿児島地裁によってあっさり棄却された。弁護団は検察側の証拠リストの開示や法医学者の尋問を求めていたが、裁判長は一顧だにしなかった。「第1次再審の不当な蒸し返しになる」などともっともらしく理由を並べ立てたようだが、真実を追及すべき裁判所の言い分とは到底思えない。伝わってくるのは「やる気のなさ」だけだ。再審を求め続けている85歳女性には誠にお気の毒なことだが、少々いわく付きの判事が運悪く裁判長になってしまったというほかない。

 実はこの判事、冤罪事件にかかわるのは初めてではない。富山県で2002年に起きた女性連続暴行未遂事件(氷見事件)で、警察・検察による捏造証拠を鵜呑みにし、無実の男性に懲役3年の判決を下した当時の富山地裁高岡支部長こそ、この判事本人なのだ。男性の服役後に真犯人が現れ、冤罪だったことが明らかとなった。厳しい批判はデタラメな捜査を行った警察・検察に集中したが、判事も自分の目が節穴だったことを満天下に暴かれ恥をさらした。

 判事の世界は世間一般よりも上下関係に厳しく、下級裁判所の判事が、先輩であり階級も上の判事が裁いた事件の再審を認めるなど、よほどのケースでない限りあり得ないと言われる。下手に再審を認めると、出世をフイにするという話さえある(徳島ラジオ商殺しで再審を認めた秋山賢三・元判事が証言している)。こういった現実や当の裁判長自身の経歴を踏まえれば、鹿児島地裁が大崎事件の再審請求で審理を尽くすなど、最初から期待できなかったという気がする。

 日本の刑事裁判の有罪率は99%を超えるらしい。私や皆さん方が起訴されれば、ほぼ間違いなく有罪判決が下されるということだ。99%という数字が検察の優秀さを示しているのなら良いが、現実には有罪の証拠を捏造し、無罪の証拠は隠蔽してでも強引に起訴に持ち込む捜査側、そして判決文を書く能力だけに秀でた裁判官によって支えられているのではないかと最近は疑っている。「何を今さら」と言われそうだが。大崎事件、志布志事件、氷見事件についてはウィキペディアページにリンクを貼った。
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不審火相次ぐ

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 福岡市東区、またはその近辺に放火犯がいる。地元の人にとっては周知の話だろうが、市消防局作製の放火マップ(消防局のサイトで公開されている)を見ると、同区では毎年のように連続放火事件が起きていることに気付く。2010年には香椎で6件、同年から11年にかけては松崎で計6件の不審火が続いた。この二つの事件の犯人は逮捕されたが、2011年11月14日、たった一晩で6件もの放火を繰り返したとみられる容疑者は依然、捕まっていない。少なくとも逮捕されたとの報道を見た記憶はない。今年に入っても香椎浜団地駐車場で不審火が相次いでいる。犯行時間は深夜から早朝にかけてが多い。周辺の方々はおちおち寝ていられないという心境だろう。

 東区で起きた放火件数は、2010年が19件(市全体で100件)、11年が27件(同99件)。同区の人口(市全体の約20%に当たる約30万人)を考慮すれば、とりわけ多い数ではないのかもしれないが、発生地域には特徴的な傾向がある。宇美川、多々良川を挟み、南側の箱崎や馬出などの地域では比較的少なく、北側の香椎、香椎浜、和白などの一帯で多発しているのだ。

 これが偶然なのか、何らかの理由があるのかはわからないが、香椎、松崎の連続放火犯には若干の共通点がある。香椎事件の犯人は30歳代、松崎事件は50歳代と年齢こそ異なるが、いずれも無職。二人とも深夜から未明にかけて、自宅周辺で自転車やバイクなどに放火しており、最後は自分の部屋に火を付け、現行犯逮捕されたことも共通している。愉快犯というより、自暴自棄、あるいは精神を病んでの犯行だったのではないだろうか(香椎事件の犯人には精神的な障害も考慮し執行猶予判決が出ている)。

 香椎事件に関しては、福岡大人文学部の大上渉准教授がプロファイリングを試みているが、かなり正確に犯人像を推定しており、非常に興味深い(『福岡市内で発生した連続放火事件における犯罪者プロファイリングの試み―報道情報に基づいた犯罪者プロファイリングの検討』)。連続放火犯の約88%は男性で、年齢層は30歳代が中心(平均年齢35.5歳)、そして無職が多い。また、自転車やバイクに火を付けるのは20歳代、ゴミや新聞の場合は40歳代が目立つという。当たる当たらないは別として、こういったデータを一つ一つ検討していけば、素人にも未解決事件の容疑者を推定する試みはできそうだ。

 また、放火が起きやすい地域特性はあるらしい。有馬隆文・九州大准教授らの研究グループが1998~2003年に市内で起きた925件の放火をもとに研究を行っているが、その結果をひとことで言えば、放火が起きやすいのは死角が多く、逃走ルートが確保しやすい街ということになる(『福岡市における放火地区の空間特性と誘発要因―都市犯罪の空間特性に関する基礎研究』)。あまりに大雑把に要約したので、当たり前すぎる結論になってしまったが、データ解析に加え、綿密な実地調査で導き出された放火が起きやすい地域の特性は非常に説得力がある。

 逆に放火が一切発生しないのは「計画的に作られた戸建住宅地である」という。具体名こそ挙げられていないが、東区のアイランドシティ(写真)や早良区百道浜などといった地域が当てはまるだろう。いわゆる高級住宅地ということになる。紹介した二つの論文はいずれもインターネット上で公開されている。
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