アニマルさん死去

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 旧・阪急ブレーブスで抑え投手として活躍されたアニマルさん(本名ブラッド・レスリー)が腎不全で亡くなった。54歳。ご冥福をお祈りする。

 阪急に在籍していたのは1986、87年のわずか2シーズン。しかも87年はほとんど活躍していないので、実働は1年だけだ。もっと長い期間活躍していたように記憶していたので、訃報を読み、かなり意外に思った。このような選手を「記録より記憶に残る選手」と言うのだろう。

 写真は缶コーヒーのおまけで付いていたプロ野球の助っ人フィギュアだ。アニマルさんをはじめ計8人のラインアップだったが、ピッチャーで選ばれたのは彼だけだった。多くの人にとって印象に残る選手だったことの証明に違いない。

 助っ人フィギュアは、私のような中年親父に大人気だったらしい。普段飲まない銘柄のコーヒーだったので、このキャンペーンに気付くのが遅れ、ラルフ・ブライアント(近鉄)、ブーマー・ウェルズ(阪急)の2人をそろえ損ねた。少し残念だった。
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死刑と無期の分かれ目


 先日、静岡県三島市で2002年に起きた女子短大生焼殺事件を取り上げたが、この13年前の1989年、福岡市で全く同じような事件が起きている。男がアルバイト先から帰宅中だった女子大生を車ではね、車内に連れ込み乱暴しようとしたが、抵抗されたため洋酒をかけて火を付けたという事件だ。大やけどを負った女子大生は意識不明の重体となり、意識を取り戻すことなく約1ヶ月後に亡くなっている。

 この事件で逮捕されたのは長崎県諫早市出身の野中豊で、当時33歳。三島の焼殺事件で死刑が執行された服部純也とは、起こした事件がそっくりというだけでなく、残虐粗暴な性格・行状まで双生児のように瓜二つだが、野中に下された判決は死刑ではなく求刑通りの無期懲役。1審・福岡地裁判決に至っては懲役20年に過ぎなかった。残虐な事件に対する社会全体の処罰感情が13年の間に変化し、2人の生死を分けたように思える。

 野中が事件を起こしたのは1989年8月9日深夜。福岡市内ではこの事件前、アベックを車ではね、女性だけを拉致して暴行するなどの凶悪事件が続発していた。警察は同一犯とにらみ、暴行被害者の女性が覚えていた“ユタカ”という名前を手掛かりに捜査を進め、一時は別の“ユタカ”が捜査線上に浮かんだ。この男は別件で逮捕され、実名で大報道されたが、強固なアリバイがありシロ。事件から2ヶ月以上がたっても警察は深刻な冤罪事件を引き起こしただけで、捜査に進展は見られなかった。

 野中逮捕も警察ではなく、民間人のお手柄だ。10月18日夜、博多区内でひったくり事件を起こし、目撃した通行人に取り押さえられたのだ。女性を後ろから押し倒しバッグを奪うという荒っぽい手口が女子大生焼殺事件やアベック女性拉致事件と似通っていること、何より名前が“ユタカ”であることに警察は色めき立った。野中が数々の犯行を自供したのは、現行犯逮捕から約1週間後のことだ。

 この10年前の1979年、福岡市内の私立大生だった野中は女性だけを狙った連続強盗致傷事件を起こし、懲役10年の判決を受け、服役している。87年に仮出所し、保護観察期間中に犯行を繰り返していた。2審・福岡高裁は「炎の中に生きながら放置し殺した行為はあまりに冷酷で、酌量の余地はない」と1審判決を破棄し、無期懲役を言い渡したが、この判決理由は服部への死刑判決とほぼ同じ内容だ。死刑と無期との分かれ目はやはり“時代”だったとしか思えない。

 福岡で起きた女子大生焼殺は三島事件に比べて社会的知名度は低く、ネット上の情報も決して多くはない。これは事件の発生日が影響しているのではないかと思う。1989年8月9日とは、連続幼児誘拐殺人事件の宮崎勤が一連の犯行を認め始めた日なのだ。この日以降、犯罪報道は宮崎事件一色となった。女子大生焼殺事件は恐らく、全国的にはほとんど報道されなかったのだろう。残虐事件に対する社会全体の処罰感情が変化したのではないかと上で書いたが、その契機となったのがオウム真理教による一連の事件とこの宮崎勤の事件ではないかと私は思っている。
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服部純也の投稿


 三島女子短大生焼殺事件の犯人で、昨年8月に東京拘置所(写真)で死刑が執行された服部純也・元死刑囚(執行時40歳)の文章を読む機会があった。死刑囚仲間で作る「ユニテ」という会の機関誌『希望』第65号に掲載されていたもので、中身はいわゆる近況報告。機関誌発行は2011年9月と記されており、刑執行の約1年前に書かれたことになる。自身に死刑判決が下ったことに対する憤懣を強烈に表現した一文で、“反省したふり”が必要なくなった服部の本音が見え、興味深い。

 服部の投稿は「かなり参っています」というタイトル。ストレスがたまり体調が優れないこと、再審請求書の作成が進まないこと、千葉景子元法相による死刑執行に非常な衝撃を受けたことなどをつづったうえで、「それにしても、無期懲役と死刑のボーダーラインもどこにあるのか判らない程滅茶苦茶であり、その点、検察側もデタラメなら裁判官も似たようなものです」と憤っている。「思う様に事が進まない苛々も日々積もり、その発散方法が見つからず、我慢ばかりでは疲れてしまいます」と被害者気取りで境遇を嘆いてもいる。

 服部が犯した三島女子短大生焼殺事件とは、静岡県三島市で2002年1月、路上でたまたま見かけた自転車の女子短大生(当時19歳)を車に押し込み暴行、さらに粘着テープで手足を縛り灯油をかけて焼き殺したという事件だ。

 1審・静岡地裁沼津支部は04年1月、死刑の求刑に対し無期懲役の判決を下している。服部が“反省を示している”ことや計画的犯行でなかったことなどを酌量しての判断だったが、検察側だけでなく、服部側も量刑を不服として控訴した。翌年3月、東京高裁は「残虐、非情な犯行」と一転して死刑判決を下し、最高裁でも覆らなかった。「少しでも刑が短くなれば」(控訴審の被告人質問での服部の発言)と控訴したことが裁判官の心証を悪くしたように思える。

 ところで、「ユニテ」なる会は、山中湖連続殺人事件の猪熊武夫死刑囚が中心になって作ったようだ。機関誌発行は、もちろん死刑囚自身が拘置所内で行っているわけではなく、投稿文を弁護士らに渡し、これを外部の協力者が編集しているらしい。

 猪熊による再審請求についての実戦解説みたいなものが中心だが、詩・短歌・川柳、イラストなどもあり、常連投稿者にはオウムの新実智光、愛知県交際2女性絞殺事件の兼岩幸男らがいる。福岡拘置所からは男女強殺事件の倉吉政隆が過去に投稿しているが、拘置所内での物品販売があこぎだと告発する内容もあり、結構面白かった。物品販売問題については一度調べてみたい。

 【山中湖連続殺人】1984年10月、元警視庁警部の沢地和夫・元死刑囚と猪熊らが宝石商や金融業者を相次いで殺害して現金や宝石など8000万円を奪い、2人の遺体を山中湖畔の別荘床下に埋めた。沢地は警視庁退職後に始めた割烹店経営に失敗、多額の借金を負ったため、同様に金に困っていた猪熊らを誘って事件を起こした。沢地は2008年12月16日、胃癌による多臓器不全のため東京拘置所で死亡。69歳。
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西新交番が移転

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 福岡市早良区の西新交番が先月19日、路地と駐輪場を挟んで20m程離れた場所に移転した。わざわざ移転した理由はわからないが、交番が設置されたのは1972年4月というから、恐らく老朽化や手狭になったためだろう。上の写真が新交番だが、何やら明るくて洒落た感じだ。昭和30年代の地図を見ると、新交番が移ったのは昔、西警察署(現在の早良警察署)があった場所のようだ。

 旧交番の跡地はあっという間に更地になった。以前、古い交番の写真も撮影していたはずなので、並べて掲載しようと探したが、削除してしまったのか見つからなかった。なぜ、交番などを撮影していたかというと、2010年12月、滋賀で女性を殺害した犯人がどういうわけがこの交番に出頭したことがあり、このブログでも取り上げようと考えたことがあったのだ。

 事件についてご記憶の方もおられるだろう。当時、35歳の男が復縁を断る元交際相手に殺意を抱き、アパートに忍び込んで女性(当時24歳)をナイフで何度も刺して殺害したという事件だ。男は事件後、新幹線で福岡に逃走していたが、指名手配されたことを知り観念して西新交番に出頭してきた。西新などという全国的にはマイナーな街に現れ、ひょっとしたら土地カンがあったのかと思ったが、多分単なる偶然だったのだろう。

 男には事件翌年の2011年10月、大津地裁の裁判員裁判で懲役20年(求刑22年)の判決が下され、確定しているが、この判決言い渡しの際、裁判長が少し妙なことをやっている。「判決理由を静かに聞いてほしい」という理由で主文を後回しにしているのだ。主文後回しの場合、判決は普通、極刑(死刑)であることは今では常識であり、恐らく男も知っていたと思う。求刑が22年だったとは言え、裁判長が判決理由を読み上げている間、死の恐怖を多少なりとも味わったのではないだろうか。かえって静かに聞くどころではなかったかもしれない。
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地行にタワーマンション

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 福岡市中央区地行の西鉄営業所跡で大型賃貸マンション「ラクレイス地行(仮称)」の建設が本格化している。29階建て、延べ床面積は約2万平方m。完成後の高さは100m近いらしい。西鉄が樋井川沿いの一帯で進めている「リバーサイドビッグプロジェクト」の一環で、すでに分譲マンション3棟が完成。続いてラクレイス地行に加え、商業施設整備を進める計画だという。

 この一帯は江戸時代、黒田藩が城下町防御のため樋井川沿いに多数の寺を配置したところで、今でも寺町の風情が残っている。交通の便が良いこともあって次第にマンションが増えているが、どのマンション建設に際しても現在の住環境を守りたい住民たちによって激烈な反対運動が繰り返されてきた。数年前には、反対を押し切りマンションが建設された場合は「入居者を訴える」という趣旨の巨大横断幕が大通り(明治通り)沿いに掲げられ、これにはさすがに驚いたことがある。

 こういった事情があるだけに、29階建ての超高層マンション建設など良く地元が黙っていたなと不思議に思っていたら、今回は横断幕こそなかったものの、やはり反対運動は起きていたらしい。当初の計画では高さ100mを超える33階建てで、西鉄側はこれでもいくらかは譲歩したようだ。

 タワーマンションが1棟でも建てば、街の景観はずいぶん変わる。福岡市全体のマンション需要次第とはいえ、あるいはこれが呼び水となり、地行に開発の波が押し寄せる可能性もあるのではないだろうか。古い町並みの変貌を西鉄が強引に迫っているようにも思える。
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アヒルのいじめ



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 5日の夕方、福岡市中央区の舞鶴公園のお堀で、アヒルのいじめに出くわした。アオクビアヒル2羽が白い1羽の首筋を執拗に攻撃し、時には2羽とも背中に乗り、白いアヒルの顔を水面に沈めるぐらいの激しさだった。

 白いアヒルは時折悲鳴を上げて逃げ惑うだけで、ほぼ無抵抗。私が見ているだけで、少なくとも10分以上はこの状態が続き、堀を渡って向こう岸の土手に上ってからも一方的な暴力が続いているようだった(それ程遠いわけではないが、暗くなってきたのでよく確認できなかった)。一体何があったのだろう?

 この3羽、仲良く泳いでいる姿を見たことがあるので、多分縄張り争いではないと思う。餌の取り合いから一方がエキサイトしたのか、それとも発情期を迎えて痴話げんかでも始めたのだろうか。目の前でいじめが続いた時は思わず割って入りそうになった。相手は鳥なので思いとどまったが、やはり止めるべきだっただろうか。

 <追記>一方的に攻撃されていた白いアヒルが気になったので、6日も舞鶴公園のお堀を見に行ったところ、白いのとアオクビの1羽が仲良く泳いでいた。しかし、アオクビのもう1羽は近くには見当たらなかった。どこに行ったのだろうか。なかなか下世話な興味をかきたててくれるアヒルたちだ。
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免田町主婦殺害事件

 父方の祖母は事件の噂話が大好きな人で、生前、福岡から子供たちが里帰りする度、地元で起きた凶悪事件の顛末を語っていた。祖母が暮らしていた熊本県の人吉・球磨地方は九州山地に抱かれたのどかな土地だが、過去には人吉市で起きた祈祷師一家4人殺傷事件、免田町(現・あさぎり町)の主婦殺害事件などで世間を騒がせたこともある。祈祷師一家殺傷事件は一般的に「免田事件」と呼ばれているが、犯人とされた免田栄さんには再審無罪が下っている。

 主婦殺害事件でも金川一死刑囚(62)が長く冤罪を訴え、日弁連の支援を得て再審請求を繰り返している。事件を伝える当時の新聞記事を読むと、後に再審請求でクローズアップされる凶器が二転三転しており、確かに不可解な点が残る事件ではある。

 事件の経過を振り返ると、21歳主婦の惨殺死体が免田町のトウモロコシ畑で見つかったのは1979年9月11日午後。当時の読売新聞は「若妻が絞殺されたうえ、下腹部をカマで切り裂かれた遺体で発見された」と事件発生を伝え、「遺体のそばに血のついた○○さんの草刈りガマがあった」(被害者名は伏せた)とも書いている。

 ところが、翌日に金川死刑囚が逮捕された際の報道では、「ヤスリを改造した刃物で下腹部をめった突きにした」と変わり、凶器だったはずの草刈りガマは消えている。裁判段階になると「左手で首を絞め、右手のあいくちで下腹部などを二十回刺して殺した」とまたも変わっている。しかも、この凶器は結局発見されないまま終わっているのだ。

 最初の報道以降、消えていた草刈りガマが再び表舞台に出てくるのは第2次再審請求の際で、弁護側は血のついたカマが証拠申請されていなかったことを指摘し、「捜査側の対応は不自然で、犯罪の事実認定に合理的疑いがある」と追及した。この請求は2004年に棄却されているが、肝心の凶器一つをとっても未解明な部分があることを公にしたとは言えるだろう。

 金川死刑囚は事件当時、29歳。少年時代に犯した強盗殺人の罪で10年間服役、事件の3ヶ月前に出所したばかりだった。免田町には養父を訪ねてきていたという。事件翌日の朝には重要参考人として拘束され、午後には犯行を自供している(公判段階で否認に転じる)。本人自身も主婦の遺体を発見し触れたことまでは認めており、凶器の問題を別にすれば、彼が犯人であっても矛盾はない。

 ただ、あえて付け加えれば、彼には知的障害があり、弁護側によると「相手側に安易に同調する傾向」があったという。凶器という物証もなく、有罪認定は彼の当初の自供に負うところも大きいだけに、こういった事案では再審請求のハードルを下げ、もう一度審理を尽くしてはどうかと思う。あくまでも素人考えに過ぎないが、「無辜の救済」という再審の理念にも沿うし、再審でも死刑判決が支持されたケースではこれ以降、請求要件を厳格化すれば、延命のための安易な請求をシャットアウトすることにもつながるのではないだろうか。
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大昔、肥薩線でSLに乗った

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 私は小学生の頃、蒸気機関車に乗ったことがある。現在では復活したSLがあちこちの鉄路を走っているので、別に自慢できる程の話でもないが、私の子供時代、九州北部でSLが電車やディーゼル車に切り替わってから、かなりの時間が経っていた。少なくとも福岡市ではSL乗車体験のある子供など結構珍しかった。もっと正確に言えば、「蒸気機関車やら乗ったことあるとや~、どこの田舎モンや~」とバカにされる存在だったのだ。(福岡の人間は自分を田舎者だとは決して思っていない)

 ところが、日本で最後に残っていた北海道のSLが引退する時期あたりから人気が沸騰。中学・高校生時代になると、後に“鉄ちゃん”となったであろう級友たちから「本当にSLに乗ったことあると? 良かね~」と逆に羨ましがられることになった。たかが鉄道で移動しただけなのに、軽蔑されたり尊敬されたりと人によって180度評価が変わるのだから、SLの存在感はたいしたものである。

 私が乗った路線は、熊本~鹿児島の山沿いを走る肥薩線だ。沿線にある熊本県の山間部、人吉・球磨地方の町に祖父母が住んでいた(私が育った町でもある)。普段帰省の際は昼間の急行を利用していたのだが、一度だけ博多を深夜に発ち、早朝に目的地に着く夜行列車で帰省したことがあった。

 乗車した途端、グーグー寝入った私は朝起きると、車窓の外を煙が流れているのに気付いた。何事かと思い窓を開けようとすると、周囲の大人たちから「煤が入ってくるからやめろ」と止められた。博多駅で乗車した時は電気機関車に牽引されていたのだが、肥薩線は当時も今も非電化路線。私が寝ている間、熊本駅でSLに交代したというのだ。テーマパークに動態保存されていた車両を除けば、これが私の唯一のSL体験。煙臭かったというだけで特に何の感慨もなく、「何というSLに乗ったと?」と尋ねてくる鉄ちゃん級友には何も答えられなかった。

 祖父母が亡くなり、SLはおろか肥薩線沿線の町とも縁遠くなった。今は九州道を車で走る際に通り過ぎるだけ。温泉、よく遊んでいた城跡や球磨川、青井さんのおくんち、初めて一人で怪獣映画を見に行った駅近くの映画館、焼酎最中、駅弁の栗ご飯……。懐かしいものはいっぱいあるが、祖父母のいない町にわざわざ足を止める程でもない。肥薩線には5年前から「SL人吉」が復活しているが、残念ながら乗ったことも見たこともない。写真のSLは東京・新橋駅前のC11。
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