カメは繁殖していない


 先日、福岡市中央区・舞鶴公園のお堀にカメの餌をまいたところ、一気に10匹ぐらいが集まってきて大喜びで食べ始めた。与えた餌はコメット「カメのおやつ」。乾燥させた川エビで、我が家で飼っていたアカミミガメのマルくんが一時期、大好物だったものだ。マルくんは私の不注意で今年1月に死なせてしまったが、月命日にはこれをお供えしており、その後は公園のカメたちにおすそ分けすることにしている。

 「カメのおやつ」に殺到したカメたちは、オスと思われる爪の長い個体を除き、どれもが甲長20cmを優に超えていた。また甲羅の汚れ具合を見ると、恐らく長い年月をここで暮らしてきたのだろうと思える。ここには多数のカメが生息しているのだから、間違いなく子ガメが誕生している。2年前に初めて子ガメを目撃して以来(「お堀で子ガメ発見」参照)、毎年春以降は注意して観察するようにしており、現にこの春にも生まれて間もないと思える1匹を目撃した。ところが、成長した子ガメを見たことは一度もないのである。

 毎年のように子ガメが生まれ、これが育っているのならば、お堀には様々な大きさのカメが生息しているはずだ。しかし、上にも書いたように、餌をまいた際に寄ってくるのは、いつもいつも大きなカメたちばかり。ひょっとしたら、このお堀では子ガメは誕生してもほとんど育たない、つまり厳密な意味での繁殖は行われていないのではないだろうか。

 この推測が仮に当たっているとすれば、理由はいくつか思い浮かぶ。「お堀で子ガメ発見」にも書いたが、公園一帯にはアオサギやカラスが多数生息しており、目撃したことはないが、子ガメは彼らに捕食されている可能性がある。また、お堀の環境(餌の質・量や広さ、水質など)自体がそもそも子ガメを養える状況にはないのかもしれない。これも以前に書いたが、カメたちは人から与えられる餌でかなりのカロリーを確保しているようにも思えるのだ。

 このお堀で、カメの駆除につながり兼ねないハスの生育実験が行われていることを2月に紹介した(「アカミミガメ哀れ」参照)。あれから3ヶ月以上が経ち、ハスの生育状況は写真のようになった。囲いの内外で生長具合にはさほど差がないように見えるが、さて、どのような結論を福岡市は出すのだろうか。ハスの生育実験も良いが、ハスを含めたお堀の環境を守りたいのならば、ここに生息するカメの生態を調べる方が有益だった気がする。
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佐賀替え玉保険金殺人


 このブログを始めるまで、古い犯罪に格別関心があったわけではないが、1981年1月に佐賀県肥前町(合併で現在は唐津市)で起きた替え玉保険金殺人は妙に印象に残っている。翌年には火曜サスペンス劇場でドラマ化され、たまたまこの番組を見たことも印象深い理由だと思うが、事件の構図は当時としては特異なものであり、結末もショッキングなものだった。しかし、発生から30年以上が経った現在、事件の記憶は完全に風化したのか、例えば、ウィキペディアには発生年月日以外の情報はない。

 替え玉保険殺人事件とは、多額の借金を負った北九州市の水産会社社長S(当時42歳)が自らに掛けた数億円もの生命保険金をだまし取ろうと、妻・K美(同41歳)や愛人・T子(同43歳)と共謀、無関係の第三者を身代わりとして殺害したというものだ。競艇場で知り合った男をバットで殴って失神させた後、車ごと海に転落させて殺害するという荒っぽい手口。捜査に当たった佐賀県警も交通事故を偽装した殺人だと即座に見抜いたが、被害者の身元については、まんまとだまされた。所持品の中にSの名刺があり、連絡を取ったK美が夫だと認めたため、それ以上の確認をしないまま「S殺害事件」として福岡県警と合同捜査を開始した。

 間もなくSの会社の従業員であり、愛人でもあったT子が逮捕され、殺害を自供したが、もう一人、重要参考人として事情聴取を受けたのが妻のK美だった。本来は相いれないはずの女二人が手を組んでSを殺害した疑いが浮上し、地元は騒然となった。だが、事件にはさらなるどんでん返しが待ち受けていた。連日の事情聴取にK美がついに、事件を計画し、実行したのがS本人であり、遺体は別人であることを自供したのだ。潜伏中だったSはこれを知って逃げられないと悟り、国鉄新下関駅で列車に飛び込んだ。S自殺の急報が警察に入ったのは、替え玉殺人だったことを発表する記者会見の直後だったと当時の新聞は伝えている。

 ここで佐賀県警の致命的失態が問題となった。K美の「遺体は夫」との言葉を鵜呑みにし、指紋照合さえ怠っていたことが明らかになったのだ。遺体の身元さえきちんと確認していれば、最初から替え玉殺人としてSの関与が疑われ、結末は違っていた可能性があるだろう。哀れなのは身代わりで殺害された男性とその遺族で、男性はすでにSとして弔われていたため、本来の葬儀の際には遺骨さえなく、遺族は「警察がしっかりしてさえいれば…」と泣き崩れたという。

 佐賀県警はこの後も“仕事が捌けない”ことを相次いで露呈し、地元で「さばけんけい」と揶揄されることになる。代表的なのが女性7人連続殺人事件を未解決に終わらせたことだが、佐賀・長崎連続保険殺人で第一の事件を見逃し、結果として第二の事件を招いたことなど類例は他にも多い。逮捕され裁かれるべき犯罪者が野放しになり、また凶悪事件を起こしているのだから、捜査能力の低さは犯罪的と言っていい。
 
 2000年6月、愛知県弥富町で似たような事件が起きている。停車中のコンテナ車にトラックが激突、助手席の会社社長が死亡し、運転手が姿を消した。だが、死亡したのは無職の男性であり、わざと車を衝突させ、男性を殺害した運転手こそが死んだはずの会社社長だった。愛知県警も関係者の証言にだまされ、替え玉殺人と気付いたのは発生から1週間以上も後のことだった。同県警は社長の潜伏先を突き止め、逮捕したものの、留置所内で首吊り自殺を許した。佐賀の事件の教訓は、他県警には生かされなかったようだ。

 話を佐賀の事件に戻すと、Sの自殺を警察官から伝えられたK美は思わず「私が死にたかった」と漏らしたらしい。冒頭に紹介した火曜サスペンス劇場でのドラマ化作品はこの言葉がそのままタイトルになっている。キャストは中村メイコ、野川由美子、山田吾一らで、ラストシーンは犯罪者の遺児となった少女が好奇の視線を浴びながら、無表情に登校していくという結構辛いものだった。

 殺人罪に問われたK美、T子には1984年5月21日、佐賀地裁唐津支部で判決が下された。裁判所は、事件に対する二人の関与度合いは異なると判断し、共犯と認めたT子に懲役7年、一方のK美の罪は殺人幇助にとどまるとして懲役4年と量刑に差を付けた。Sの犯罪のパートナーは正妻のK美ではなく、愛人のT子だったことになるが、この理由は古い新聞記事を読んだだけではわからなかった。写真は、Sの潜伏場所があった福岡市西部の旧国道沿い。Sは替え玉殺人決行の前、偽名でマンションの一室を借りていたという。
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倉吉政隆・短銃強盗団


 福岡拘置所(写真)の確定死刑囚の中に、倉吉政隆という人物がいる。2人の男女を殺害し、貴金属などを奪ったとして死刑判決が下され、2004年に刑が確定している。現在、61歳。死刑を言い渡されたぐらいだから凶悪犯であるのは間違いない。だが、不適当な表現かもしれないが、社会を震撼させた犯罪者が居並ぶ同拘置所の死刑囚の中では、比較的地味な犯罪者というイメージを持っていた。

 最近、図らずも死刑囚の交流誌『希望』(「服部純也の投稿」参照)に投稿された彼の文章を読む機会があり、興味を覚えたため、彼とその仲間が犯した犯罪を改めて調べてみた。かなり驚いた。男女強殺を含め、1年足らずの間に福岡県内で6件もの短銃強盗事件を起こし、追跡していたパトカーの警官を射殺しようとさえしている。破滅的なぐらいの荒っぽい手口は、我が物顔で日本を荒らしまわっている中国系の犯罪者集団のようである。亡くなった犠牲者は2人だが、逮捕が遅れれば、その数は膨れ上がっていたに違いない。

 倉吉一味が犯行を繰り返していたのは1995年3月から96年1月にかけてだ。95年と言えば、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件が起きた年。また、7月には未だ解決していない八王寺のスーパー3人射殺事件も起きている。いずれも日本の災害史、犯罪史に残る出来事だ。当時私は首都圏に住んでいたこともあって、九州の片隅で起きた事件には目が行き届かず、勝手に地味なイメージを形作ってしまったのだろう。一味が起こした事件を時系列で挙げると以下のようになる。

  • 1995年3月2日未明、福岡県筑後市内のパチンコ店駐車場で従業員を短銃で脅し、工具入りのアタッシェケースを強奪。中身を現金と勘違いしての犯行。

  • 4月18日夜、倉吉の経営するバーの常連客だった会社役員から貴金属を奪おうと短銃で殺害。バーの従業員で、会社役員と交際していたフィリピン人女性も殺害し、阿蘇の牧草地に埋めた。

  • 4月21日夜、大牟田市内のパチンコ店を襲い、610万円を強奪。

  • 6月20日夜、福岡市博多区中洲のカジノバーを襲い、客から現金120万円を強奪。

  • 8月22日夜、北九州市八幡西区で追跡中のパトカーに発砲。パトカーが追跡していたのは速度違反のため。倉吉らは盗難車で強盗に向かう途中だった。

  • 12月24日未明、筑後市内のパチンコ店を襲い、1600万円を強奪。

  • 1996年1月22日夜、筑後市内のパチンコ店を襲い、現金を奪おうとしたが、抵抗されたため短銃を乱射して逃走。従業員5人が重軽傷。

 パチンコ店を集中的に狙っているが、これは「パチンコ店には夜でも多額の現金がある」という理由だったようだ。倉吉は当時、福岡県八女市内でバーを経営していたが、経営不振に加え、ギャンブル好きだったため多額の借金を抱えていた。返済金を工面するため、実弟の暴力団員や知り合いの大工を誘い強盗を繰り返したという。上記の事件の中で最も大きく報道されたのは、実は5人が重軽傷を負った最後の事件とパトカー発砲事件で、これらの事件で逮捕後、大工の自供で男女強殺が明るみに出た。

 強殺の実行犯は大工で、裁判で彼は「倉吉に命じられてやった」と主張。一方の倉吉は「大工が欲にかられ、勝手にやった」と反論し、二人の言い分が対立したが、裁判所は倉吉を主犯と認定し、彼に死刑、大工には無期懲役を言い渡した。倉吉は『希望』への投稿文の中で、2008年に独力で再審請求を行い、3年半後に棄却されたものの即時抗告したことを明らかにしている。恐らく再審請求でも裁判での主張を繰り返しているのだろう。

 投稿には、再審請求に際して日弁連に支援を要請したが、「再審要件には当たらない」と相手にされなかったとも記している。死刑廃止を訴えている日弁連だが、死刑囚のすべてに手を差し伸べる考えはないようだ。
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福教組教員の差別

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 私が小学校3、4年生の時の担任は、えこひいきの激しい中年の女性教諭(以下、Kと表記)だった。当時あった福岡県知事選で、子供にすらわかるほど大っぴらに社会党系の候補を応援していたので、間違いなく福教組(日教組の県組織)の組合員だったと思う。片親の極貧家庭に育った私は、私自身のひねくれた性格もあって徹底的にKに嫌われていたが、私以上に嫌われていた子供が別のクラスにいた。仮にM君としておこう。自分の受け持ちでもないのに、なぜKがM君を毛嫌いしていたのか当時はわからなかった。

 ある時、Kが授業中に突然、「M君の住んでいる○○地区は昔は電気も通っていなかったので“ランプ集落”と呼ばれていたが、大雨の度に水に浸かる所で……」という趣旨のことを言い出した(正確には集落ではなく別の言葉を使ったのだが、あえて言い換えた)。

 どんな状況でこの発言が出たのかは全く覚えていないが、何かのきっかけはあるはずなので、恐らく災害などについての授業だったのだろう。通っていた学校の校区は二つの川に挟まれていた。繰り返すが、小学校3、4年生の頃の出来事である。この発言の裏に、M君、及びM君の住む地域に対する凄まじいばかりの悪意があることに気付くはずもなく、単なる昔話としか受け取っていなかった。

 私は5年生になると別の町に引越し、KともM君とも二度と会うことはなかったが、引越し先が人権問題に敏感な町だった。高学年になったこともあり、この町で色々なことを学び、Kの発言が強い差別意識に根付いたものであったことを理解した。現在ならば、教師として自殺行為に等しい発言だ。人権を標榜している“とある団体”が現在以上に力を持っていた一昔前ならば、比喩ではなく真の意味での「自殺行為」であったろう。

 しかし、一方で新たな疑問も芽生えてきた。福教組と“とある団体”とは表裏一体の関係とも言われるのに、福教組の教員が両団体の理念に反する発言をなぜ平気でしたのだろうか、と。

 社会人になってしばらく後、この疑問を(私なりに)解消する出来事があった。Kが露骨にひいきしていた男子児童は、地元で有名な工場経営者の一人息子だったが、もう一人、成績はそこそこ良いが、目立たない男子(H君としておく)がお気に入りだった。これはちょっと不思議だった。ある日、新聞を読んでいてH君が保守系の地方議員になっていることを知ったのである。「あの控えめなH君が議員に!」と驚いて調べると、世襲議員であった。H君の父親は工場経営者どころではない町の有力者だったのだ。強きにおもねり、弱者は蔑む。Kとは要するにそんな人物でしかなく、理念やイデオロギーよりも単純な価値観を優先させていたに過ぎなかったのである。

 私が出会った中で、Kは極端な例ではあるが、程度の差こそあれ児童生徒に対する好き嫌いが激しい教師は少なくなかった。福教組が団体としていくら“きれいごと”(もはや世迷いごとのレベルだが)を並べ立てようと、個々の教員など差別意識にまみれた者ばかりなのだろう。

 両親はちゃんとそろっているが、やはり決して豊かではない家庭に育った私の家族は、私以上に教員から無視された環境で学校生活を送ったらしく、「公立小中学校の教員などひいきばかりで、信用できる人間は一人としていなかった」とまで断言する。貧しい家庭の子供は学校現場でも教員からスポイルされる。これも今問題になっている「貧困の連鎖」の大きな原因の一つなのだろう。私たちと同様、経済的に厳しい環境で育ったのならば、うなずいてくれる方も多いに違いない。

 写真は福教組の入居する福岡県教育会館。この建物がドンと居座っているために一帯の区画整理が中途半端で終わっているような気がするのだが…。あるいは官公労の既得権みたいなものなのだろうか。
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糸島運河


 博多湾西部の今津湾(福岡市西区)と船越湾(糸島市、写真)とは古代、ひと続きの海峡だったという説が一時あった。両湾の間には現在、標高5m以下の低地帯が広がっている。海水面が今よりも高かった縄文時代には海だったはずだという考え方で、この海峡には「糸島水道」の名前さえ与えられていた。ボーリング調査などにより、現在では海峡の存在は否定されたようだが、両湾が現在よりも大きく内陸に入り込んでいたのは間違いないらしい。

 ボーリング調査を行ったのは九州大理学研究院の研究者らだ。この研究者が『新修志摩町史』(2009年)に書いた糸島水道についての考察によると、1000年ぐらい前までは海だったことを示す地層(海成層)がJR筑肥線沿線にあるのは確かのようだ。しかし、糸島市志登、泊地区一帯ではこの海成層が途切れており、海水面が最も高かった時代でも糸島半島は本土と陸続きだったと考えられるという。

 ただ、今津湾~船越湾の間はこの時代、最も狭い所でわずか1km程度。面白いことに、研究者は糸島水道の存在には否定的ながら、両湾の間を陸路で船を運んだ、あるいは運河があった可能性を示唆している。

 博多湾、船越湾とその北側にある引津湾は弥生時代以降、半島との交流拠点だったと言われる。博多湾と船越・引津湾との間も船の往来が盛んだったはずだが、糸島半島沖を通るルートはかなり遠回りになるうえ、同半島沖は潮流が早く小型船にとっては難所だという。だとしたら、環濠集落の建設に見られるように、相当の土木技術を持っていた弥生人ならば、運河を掘削しても不思議ではないと想像が膨らむ。

 ところで、この「糸島運河」構想は20年程前に実際に持ち上がったことがある。地場ゼネコン(現在は倒産)の関係者や学者グループが提唱したもので、前述と同じ事情で、糸島半島沖を通らない海上交通路を作るとともに、閉鎖性水域のため水質悪化が進む博多湾の浄化を図る狙いだったという。賛同者が広がらなかったのか、あるいは当のゼネコンの経営破綻が影響したのか、構想は「打ち上げ花火」で終わったと見られ、行政レベルで議論された形跡はない。

 福岡都市圏の膨張により、糸島一帯の都市化は20年前と比べ、ずいぶん進んだ。もはや「糸島運河」の実現など不可能とは思うが、運河を中心に据えた都市開発という試みは結構面白みがあったと思う。


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朽ち果てたキレニア号



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 福岡市博物館裏の芝生広場に放置されていた「キレニア号」がついに朽ち果てた。一昨年5月に「2隻あった復元キレニア号」で取り上げた際は、老朽化しながらも辛うじて原型を保っていた。だが、2年ぶりに様子を見に行ったところ、横倒し同然に傾き、ボロボロになった船底を樹木が突き破っていた。

 福岡市にはもはや補修する考えなどないのだろう。だったら早急に解体・撤去すべきではないのか。立ち入り出来ないように一応は周囲をロープで囲ってはあるが、危険な状態であり、見た目も悪過ぎる。いくら財政難だとは言え、腐っても政令市だ。その程度の予算ぐらいは工面できるはずだ。

 「キレニア号」とは1967年、地中海キプロス島沖の海底で発見された紀元前の交易船で、博物館裏にあるのは、ギリシア政府の協力を得て日本国内で建造された復元船だ。長さ約14.3m、幅約4.4m。1989年(平成元年)、現在博物館があるシーサイトももち一帯で開かれた「アジア太平洋博覧会」で展示され、そのまま福岡市に寄贈されていた。

 建造費がいくらかかったかはわからないが、復元には3年の歳月を要したというから、かなりの金額ではあっただろう。金だけの問題ではない。半年間の期間中に800万人以上の入場者を集め、今も福岡市役所が胸を張るアジア太平洋博覧会の遺産のひとつなのだ。もう少し大事にしても良かったのではないだろうか。

 アジア太平洋博覧会の展示品の一部は、キレニア号のほかにも周辺にいくつか残っている。福岡タワー前広場の植栽には10体ものインドの神々の像が飾られ、百道中央公園の駐車場横にはヤップ島の巨大な石の貨幣とタイの祠サーンプラプームがある。以前には「アラン」と呼ばれるインドネシアの高床式米蔵2棟も近辺に置かれていたが、風雨で老朽化が激しく、2004年7月に撤去された。


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志免炭鉱の黒歴史

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 3年前、「志免炭鉱の竪坑櫓」と題した記事の中で、行政側や古くからの住民たちが竪坑櫓を“負の歴史”の象徴ととらえ、保存に消極的だったことを取り上げた。負の歴史とは、主には炭鉱の払い下げを巡り労使が激しく争った「志免闘争」を指すのだと思う。流血の乱闘騒ぎや、“裏切った”従業員を労働組合が拉致監禁する事件さえ起き、負の歴史と言うより“黒歴史”と呼んだ方が適切なぐらいだ。櫓を毛嫌いする町民がいるのも無理からぬことと思える。

 志免炭鉱の歴史を簡単に振り返っておくと、海軍炭鉱として軍艦用の石炭採掘が始まったのが1889年(明治22年)。高さ約48㍍の竪坑櫓は1943年(昭和18年)に完成している。戦後は旧国鉄に移管され、SL用の石炭を出炭していた。つまり拉致事件を起こした労働組合とは、あの悪名高き国労なのである。志免炭鉱の従業員が加盟する国労志免支部は最盛期、3,200人もの組合員を抱える巨大組織であり、その好戦的な性格により国労内でも“関東軍”的存在だったという。

 戦後復興を担った志免炭鉱だが、1950年代に入ると安価な海外炭の輸入が急増し、毎年数億円単位の巨額赤字を出していたという。この時代に数億円単位の赤字なのだから、尋常な状況ではない。炭鉱払い下げは国鉄の合理化策の一環として決まったものだが、これに国労側は猛反発。1959年6月には、払い下げ準備のため石炭埋蔵量を調べようとした国鉄調査団を実力阻止し、警官隊と激しく衝突、双方が数十人単位の負傷者を出す流血騒ぎさえ起こしている。

 冒頭に書いた拉致監禁事件とは、国鉄側との条件闘争に方針転換した一部労組員を国労側は“裏切り者”と決め付け、転勤先まで押し掛けて志免炭鉱へ連行し、集団リンチまがいの糾弾を行ったというものだ。条件闘争派が転勤を強いられたのも子供までがいじめを受けるなどの陰湿な嫌がらせに耐えかねてのものだが、労組幹部は「裏切り者はどこまでも追いかけて仕事ができないようにしてやる!」と息巻いていたと言われる。到底、正気の沙汰とは思われない。

 志免炭鉱払い下げには、三井、三菱、住友の3社が名乗りを上げていたが、こんな状況に嫌気が差したのか各社とも取り下げ、国鉄側も結局は払い下げを断念する。その意味では闘争は国労側の勝利に終わったわけだが、国労側も合理化案には歩み寄らざるを得なくなった。そこで国鉄当局との間で、炭鉱従業員を希望退職や配転により3分の2に減らす計画案に合意することとなった。

 ところが、国鉄他部門への配転希望者募集が始まると、予定を大幅に超える希望者が殺到した。国労組合員が求めていたのは“志免炭鉱という職場”ではなく親方日の丸に安住する国労組合員という身分だったことがあらわになったのだ。流血の惨事から5年後、国鉄側は炭鉱閉山を国労側に提案するが、もはや国労側に抗う力はなく、1964年6月30日、志免炭鉱は75年の歴史に幕を閉じた。

 巨大な竪坑櫓は一部から厄介者扱いされながらも、あまりの頑丈さ故に簡単に壊すこともできず、2009年には国重要文化財に指定された。私自身は、歴史の生き証人はどんな性質のものであれ残すべきだと考えているので、堂々たる櫓の保存は非常に喜ばしいことと思っている。だから、志免町政が竪坑櫓に対して冷淡だと指摘したことがあるが、背後にある歴史や櫓を嫌う住民が存在することを思えば、行政の立場としては仕方がない部分もあるのだろう。
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古墳の石材再利用

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 福岡市内には石室が跡形もなく破壊された古墳が多いらしい。犯人は墓泥棒や、筑後平野のように石材業者(「珍敷塚古墳」参照)ではない。筑前藩主の黒田家だと言われている。1601~07年(慶長6~12年)に福岡城を築いた際、近隣にあった古墳を片端から壊し、石室の石を石垣に転用したのだという。現在から見れば、とんでもない文化財破壊行為だが、黒田藩にとっては相当の経費節減になったことだろう。

 写真は南区にある大平寺古墳群の6号墳だ。入り口が開いた横穴式石室の奥に2体の石仏が安置されおり、別名「大平寺の穴観音」とも呼ばれている。この古墳群には古墳時代後期に築造されたとみられる小規模な円墳7基があるが、中には墳丘が大きく掘り返され、無残な状態をさらしている古墳もある。これも黒田藩が石材を抜き取った跡なのだろう。近隣の柏原地区にも江戸時代以前は数多くの石室(盗掘された古墳)が存在し、「百穴」とも呼ばれていたらしいが、多くが黒田藩によって取り崩されたという。

 6号墳が辛うじて残ったのは、恐らく江戸時代以前から穴観音として祭られ、さすがの黒田藩も手が出せなかったためではないだろうか。似たような例が同じ南区の寺塚にある。黒田藩成立以前はここにも多数の古墳があったと伝えられているが、現在残るのは興宗寺境内の寺塚穴観音古墳だけだ。この古墳にも石室奥の壁に3体の仏像が彫られている。仏像が彫られた時期は不明だが、古くから信仰の対象となってきたという。

 大平寺古墳群は全体的に保存状態が悪いためか、市の史跡にさえ指定されておらず、調査も行われていないらしい。このため被葬者をはじめ詳しいことは一切不明だが、近隣の遺跡からは製鉄関連の遺構が見つかっているという。あるいはこの古墳群も西区の桑原・元岡地区と同様、製鉄集団の墓なのだろうか。

 史跡にこそ指定されてはいないが、古墳群のある森が「大平寺緑地」という緑地保存地区となっており、開発からは完全に守られている。大平寺の穴観音は現在も地域住民によって大切にされているようで、石室内部は非常にきれいな状態だった。

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泳いで大丈夫か!?

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 12日の福岡市は夏日となり、早良区のシーサイドももちでは早くも水遊びをする子供たちらでにぎわったようだ。夕方、付近を散歩した時もまだ大勢の若者たちが上半身裸で戯れていた。3年前にこの人工海浜に関して以下のような話を書いた。加筆修正して再録した。文中にあるシーサイドももちの水質調査結果は2010年のものである。

     ◇

 福岡市のシーサイドももちは、博多湾を埋め立てて造られた街だ。湾に面して美しい人工海浜があり、毎年夏になると大勢の海水浴客で大にぎわいする。だが、以前から疑問に思っていた。「この海岸、泳いで大丈夫なのか?」

 どういうことかと言うと、この場所には埋め立て前にも海水浴場があったのだが、水質悪化で遊泳禁止の状態だったのだ。埋め立てによって近代的な街が誕生し、人工海浜も整備されたが、水質が劇的に改善したという話は聞かなかった。

 第一、この付近の海域が汚いのは、室見川、樋井川という二つの河川が流れ込んでいるからで、中でも海水浴場側の人工海浜に流れ込む樋井川の強烈な汚濁度合いは見た目でも臭いでもわかる。この悪条件が変わったわけではないのだ。だから、私は絶対にこの海岸では泳がない。友人に誘われやむなく泳いだ家族によると、やはり「糸島あたりの海に比べると、水は格段に汚かった」という。

 海水浴シーズン前には毎年、福岡県が各海水浴場の水質検査結果(大腸菌群数や化学的酸素要求量、透明度などをもとに5ランクで評価)を公表するのだが、この場所は調査対象に含まれていない。この点も「本当は泳げないほど汚いのではないか」という疑惑を深めることとなった。

 ある時、福岡県の環境保全課に「なぜ、シーサイドももちの水質検査を行わないのか」と電話で問い合わせたことがある。回答は、シーサイドももちは海水浴場ではなく、“水遊びの場”として認識しているので、行っていないというものだった。要するに、この海岸では人は水遊びはしているが、泳いではいない、だから検査は必要ないという判断らしい。

 実態をまったく考慮しない、いかにもお役所らしい仕事ぶりだと思い、非常に腹立たしかったが、水質検査自体は海岸を管理している福岡市の外郭団体が行っているという。そこで、その外郭団体にも電話で検査結果を尋ねてみた。結果は、なんと「AA」。これは宗像市の神湊や北九州市若松区の脇田など、外海に面した海水浴場と並ぶ最高ランク評価だ。

 ちなみに、2012年度の水質検査結果を見ると、西区の大原や能古島、糸島市の深江など福岡市や近郊の海水浴場の多くは2ランク下の「B」評価。「AA」など近辺にはない。なぜ、条件の悪いシーサイドももちの水質だけは良いのか。ちょっと謎であり、正直なところ、結果を無条件に信用できない。もっと端的に言えば、汚濁が進行しやすい閉鎖性水域の博多湾の最深部に当たり、なおかつ小汚い川が流れ込んでいる場所の水質が最高ランクなどあり得るはずがなく、間違いなく「嘘っぱち」だと思っている。
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鈴木泰徳の転落


 先日、福岡空港近くにある大井北公園の前を通った。2004年暮れから05年1月にかけて福岡県内で3人の女性の命が相次いで奪われた「福岡3女性殺害事件」最後の現場だ。ゴミ一つ落ちていないきれいな児童公園で、遊具もそれなりにそろっていたが、人影はなかった。すぐ近くにある別の小さな公園では、対照的に小学生たちの歓声が響いていた。公園横で工事が行われていた影響かもしれないが、地域住民にとって事件の記憶が今も生々しいのではないかとも思った。

 事件の犯人、鈴木泰徳は現在、確定死刑囚として福岡拘置所にいる。金目当てに18歳の専門学校生、62歳のパート従業員、23歳の会社員を冷酷に殺害。しかも会社員女性から奪った携帯電話でアダルトサイト接続を繰り返し、女性の安否を気遣いメールを送ってきた友人たちには「昨日Fちゃんのことを好きで告白したら、俺みたいな男は嫌いだって言われてついかっとなって殺してしまった」などと人を小ばかにした返信さえ送っている。強盗殺人だけなく被害者を冒涜する行為までしながら、鈴木は法廷で「罪を憎んで人を憎まず」とうそぶき、死刑回避を求めた。

 裁判所は反省のそぶりさえ見せなかった鈴木を「公判段階においても(中略)自己中心的かつ身勝手な考え方や行動傾向がさらに根深くなっているというほかなく、被告人の更生可能性については、悲観的に見方にならざるを得ない」(2006年11月13日の福岡地裁判決。裁判所サイトにある判決文にリンクを貼っている)と痛烈に批判している。

 不思議なのはこの男が事件前まで「交通関係の罰金刑以外に前科がなかった」(2008年2月7日の福岡高裁判決。同)ことだ。また、鈴木本人の借金問題により夫婦関係は冷え切っていたとは言え、一応は家庭生活を営んでおり、子煩悩でもあったらしい。

 ネット上には鈴木の生い立ちが不遇だったという情報があるが、私が調べた限りでは、そのような事実はない。自動車整備工場を営む夫婦の長男として生まれ、県立高校から専門学校に進み、自動車整備を学んでいる。後の話だが、鈴木が作った多額の借金をいったんは実父が返済しているぐらいだから、育った家庭は少なくとも経済的には恵まれた部類だと言えるだろう。

 事件の遠因は、福岡地裁・福岡高裁の判決文で理路整然と語られている。要約すれば、嫁姑の対立に悩まされ、そのストレス解消のため酒やパチンコ、出会い系サイトにのめり込み、2度にわたって多額の借金を負ったことだという。妻には愛想を尽かされ、これが直接の引き金になったようだが、この程度のことで凶悪事件を起こしたのでは、嫁姑問題に苛まれる男の大半は犯罪者になることだろう。

 福岡拘置所には現在、鈴木のほかに20人近い確定死刑囚がいる(「福岡拘置所の確定死刑囚一覧」参照)。私の偏見かもしれないが、例えば北九州監禁殺人の松永太、大牟田4人殺害の井上一家らは少なくとも社会に出て以降、“普通の庶民”として生きたことなど恐らくないだろう。一方の鈴木は自己中心的過ぎるとは言え、一時期までは小心者の家庭人でしかなかった(有名人やヤクザに知り合いがいるというのが自慢だったらしい。もちろん、でたらめだろう)。そんな人物が福岡の犯罪史に残る凶悪事件を引き起こした。死刑判決に異論はないが、犯罪抑止のためにも、この男の転落の軌跡は公的機関などにより、もっと研究されても良いと思う。
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