死刑執行1231日の空白


 近藤武数(1989年11月10日、福岡拘置所で死刑執行。62歳没)1953年、強盗殺人事件で無期懲役判決を受け服役。68年6月に仮釈放され、その後、熊本市内で女性と知り合い結婚した。2年後に妻が家出したが、妻の姉夫婦が近藤と離婚させようとしたためだと邪推。熊本県高森町内の義姉宅に侵入し、義姉の夫を刺殺、義姉と子供2人にも重軽傷を負わせた。79年7月、最高裁で死刑判決。

 立川修二郎(1993年3月26日、大阪拘置所で死刑執行。62歳没)1971年1月、姉と共謀しコンクリート片で殴るなどして実母を殺害、交通事故に見せかけて保険金をだまし取った。さらに今度は兄と共謀し、犯行を目撃した妻を口封じのために絞殺した。1981年6月、最高裁で死刑判決。(※立川と同日、別事件の死刑囚ほか2人も執行されている)

 上に2人の死刑囚の名前を挙げた。格別有名な事件の犯人というわけではないが、特筆されるのは近藤武数から立川修二郎までの3年4か月間、死刑執行が完全に止まっていたことだ。日数にして1231日。民主党政権下で1年執行が止まり論議を呼んだが、それどころではない。この空白期間は俗に“死刑モラトリアム”とも呼ばれ、死刑制度に反対する市民団体などの間では「このまま日本でも死刑が廃止されるのではないか」と期待が高まっていたらしい。

 これを打ち砕いた法相が、立川らへの執行命令書にサインした後藤田正晴氏。一方でモラトリアムの間に法相を務めたのは長谷川信、梶山静六、左藤恵(以上、3人は海部内閣)、田原隆(宮沢内閣)の4氏だった。

 モラトリアムが生じた理由については、死刑執行の事実さえ国が一切明らかにしていなかった時代のため正確なところは不明だが、先の4法相のうち、左藤氏だけは執行命令書へのサインを拒んだと明らかにしている。

 残る3人については命令書が手元に届いたか否かを含めわからない。ただ、モラトリアムの時期は、昭和天皇の崩御に伴い皇室の慶弔行事が続いていたことに加え▽1989年7月、島田事件の元死刑囚、赤堀政夫氏に対し再審無罪判決▽同年12月の国連総会で死刑廃止を求める議定書採択――などの事情で、死刑に対して慎重にならざるを得ない状況下にあったのは確かだろう。

 左藤氏は真宗大谷派の僧侶であり、サインを拒否したのは宗教上の理由だったという。法相退任後の1992年3月7日、アムネスティ・インターナショナル日本支部などの呼び掛けで開かれた死刑廃止を訴える集会に「宗教人として人の命の大切なことを人一倍感じている立場からもサインを拒否した」とメッセージを寄せている。

 集会参加者からは恐らく大喝采を浴びたものと思うが、法相としての職責よりも宗教人としての信条を優先したことは果たして政教分離に反しなかったのか。それ以前に宗教人としての立場が大事ならば、そもそも法相を受けるべきではなかったのではないか。政治音痴の私でも強烈な疑問を感じる。

 また、法相在職中は死刑制度に関する議論を呼びかけることも、情報公開を進めることもしなかったのに、退任後に「私は死刑を拒否した」と声高にアピールしたことについても死刑存廃を左藤氏個人の問題に矮小化したように思え、違和感を覚える。その後の死刑廃止運動にとって、このメッセージは本当に追い風になったのだろうか。写真は法務省旧本館。
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ツシマヤマネコ飼育15年

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 国の天然記念物ツシマヤマネコを15年も自宅で飼育していた対馬の男性に関するニュースが25日の各紙朝刊に載っていた。天然記念物を無許可で飼育するのは種の保存法違反であり、環境省は男性に厳重注意したのだが、一方で同省は飼育期間が15年にも及んだことに興味津々らしい。動物園での飼育期間は平均で10年程度で、男性が飼っていたヤマネコは1・5倍も長生きだったことになるからだ。

 男性が飼っていたのは交通事故でけがをしたメスで、保護した15年前、対馬には獣医がいなかったため、わざわざ福岡市まで出向いて治療を受けさせたという。そのまま自宅で飼うに至った事情はどの新聞にも書かれていなかったが、恐らく自然界に返しても生存は厳しいと考えたのではないだろうか。

 最近、このネコの具合が悪くなり、男性は対馬にある環境省の野生生物保護センター(野生生物と名乗ってはいるが、事実上ツシマヤマネコの専門施設)に持ち込み、ここで違法飼育が明るみに出た。ネコは結局助からなかったが、死因は老衰だったらしい。つまり天寿を全うしての大往生だ。本来ならば100万円単位の罰金を科すケースだというが、以上のような事情なので、環境省も形だけ叱ったことにしたのだろう。

 ツシマヤマネコは、福岡市動物園でも繁殖のため飼育されている。このニュースを読んだ後、せっかくだから見に行こうと思ったのだが、公式サイトで確認したところ、繁殖に専念させるため今月23日から展示を中止したという。同動物園ではこれまでツシマヤマネコの子供26頭が育っているが、2009年6月以降は出産が止まっているらしい。国産のトキの時もそうだったが、個体数があまりに少なくなると、子供を作ること自体が極めて難しくなる。福岡市動物園の展示中止を見ると、ツシマヤマネコの種の保存に関し、環境省は今までにない危機感を持っているのではないだろうか。

 これまで飼育下で最も長生きだったツシマヤマネコは、福岡市動物園で今年6月に老衰死した「ジョージ」で16年(捕獲当時は2歳ぐらいだったので、推定年齢は18歳以上)。自宅飼育の15年は、これに次ぐ記録のようだ。

 なお、一般の飼い猫の寿命は東京農工大が2004年、全国のペット病院にアンケートして調べたところ、平均で9・9歳。ワクチン接種が普及し感染症で死ぬネコが減ったため、1992年の調査と比べれば、寿命は倍近くに伸びているという。それでも10年に満たない。飼い猫とは単純比較できないかもしれないが、15年という数字に、保護されたツシマヤマネコがいかに大事にされていたかが良くわかる。ただ、種の存続が危ぶまれる状況だけに、このネコが母親になる機会を失ったことは残念だった。

 写真のツシマヤマネコは「福馬」というオスで、対馬の野生生物保護センターのダウンロードサイトから写真をお借りした。福岡で生まれ、対馬で育ったことが名前の由来だという。
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カパプーを復活させては

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 福岡市早良区百道の福岡インターナショナルスクール前の歩道フェンスに、懐かしい「カパプー」の絵があるのに気付いた。1995年に開かれた大学生のスポーツの祭典、ユニバーシアード福岡大会のマスコットキャラクターだ。恐らくこの時に飾られたものだと思うが、今も色鮮やかに残っている。

 このカパプーなるマスコットは国内のイラストレーターの考案で、名前は後に公募で決まったと記憶している。ムーミンを縦に引き延ばしたような姿かたちだが、モデルは一角獣だったらしく、ユニコーン星から来た20歳の大学生という設定だった。ひょうきんな見た目が当時の子供たちには結構人気があり、ユニバ関連のイベントなどでは着ぐるみに人だかりができていた。様々なキャラクター商品も販売され、我が家にもTシャツやタオルがあった。当時はゆるキャラという言葉はなかったが、その先駆け的な存在の一つだったのではないだろうか。

 以前、「ゆるキャラ乱立の福岡市、居直る」という記事を書き、39種ものゆるキャラを抱える福岡市役所だが、どれもこれも知名度はゼロで「かわいくもなければ、インパクトにも乏しい」とけなしたことがある。この記事を書いてから2年近くがたったが、状況は変わっていないと思う。39種ものゆるキャラのうち、一つでも名前を言える人が果たしてどれだけいるものだろうか。

 お役所がゆるキャラを抱える必要があるとは個人的には全く思わないが、どうしてもと言うのならば、この際だから39種の無名キャラを一掃し、代わってこのカパプーを復活させてはどうだろうか。ユニバーシアード限定のキャラだったので、ひょっとしたら権利関係など解決すべき課題があるのかもしれないが、せっかくの秀逸キャラを埋もれさせておいてはもったいない。

 唯一気になるのは1995年に20歳の大学生だったわけだから、現在は38歳になっているという点だが、全国各地のゆるキャラの中には“中年オヤジ”みたいなものも存在するから、問題はないだろう。私みたいな酒好きのオヤジたちから「一緒に酒が飲めていいじゃん」と案外歓迎されるかもしれない。

 
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博多灯明ウォッチング2013

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 福岡市の秋の恒例行事となった「博多灯明ウォッチング」が10月19日夜、博多区の中心街一帯で行われた。昨年に続いて見に行き、今年も大いに楽しんできた。ただし、櫛田神社の灯明を見た後、空腹に耐え切れずにキャナルシティのラーメンスタジアムで夕食を取ってしまったため、午後9時までの開催時間内にすべての個所を回ることはできなかった。1年に一度きりの催しなのだから、空腹を少し我慢すれば良いものを。

 写真は博多小学校の校庭を彩っていた龍。小学校の3階踊り場から金網越しに撮影した。2枚目が櫛田神社の黒田官兵衛。このほかにも冷泉小学校の跡地や浜口公園などで写真を撮ったのだが、どれもこれもピンボケでまともな写真は一枚もなかった。ラーメンスタジアムではアルコールを取らなかったので、別に酔っ払っていたわけではない。決定的に写真が下手なのだろう。

 博多小学校に飾られていた灯明は、2年生児童が授業で作ったものだとパンフレットで紹介されていた。また、そのほかの灯明の多くは地元住民たちが仕事などの合間に手弁当で製作したと冷泉小学校跡地で説明を受けた。

 一般的に博多の三大祭りと言えば、博多どんたく、博多祗園山笠、筥崎宮の放生会を言うらしい(筥崎宮があるのは正確には博多ではないが)。灯明ウォッチングは今年で19回目の新しい祭りだが、これを加えて四大祭りと称しても良いのではないかと個人的には思う。去年も書いたが、たった一日きりの催しであるのが惜しい限りだ。
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大バカ者の阿蘇ドライブ

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 先日、くじゅう・阿蘇にドライブに行った際、帰路は菊池阿蘇スカイラインを通ることにした。ところが、阿蘇の大観峰から10分程車を走らせると、大渋滞にぶつかった。

 スカイラインは、熊本市街地と阿蘇とを結ぶ国道57号線の抜け道的な利用もされている。「スカイラインが混んでいるということは国道57号線が尋常でないほど渋滞しているのに違いない」と想像できた。なのに、この想像の正しさを確かめるため、わざわざスカイラインを引き返して国道57号線を通るという大愚行をしでかしてしまった。案の定、とんでもない大渋滞に出くわし、帰宅は深夜となった。

 熊本県南小国町の瀬の本高原にあるドライブインで久しぶりに美味しい「だご汁」を食べ、阿蘇では輝くばかりのススキの群落を楽しむことができた。しかし、バカな選択をしたばかりに最終的には疲れ果てただけの一日となってしまった。最悪の結末を正確に予測しておきながら、その最悪手を打ってしまうことが私には結構ある。こんな人間を「大バカ者」と呼ぶ。実際、親にはそう罵られて育ってきた。

 阿蘇へのドライブと言えば、私が子供時代にも帰路にひどい目に遭ったことがある(正確には私ではなく、私の親が)。まだ、九州道が開通していなかった昭和40年代頃の話だ。車のガソリンが切れかかったため、熊本県内の国道沿いのガソリンスタンドに立ち寄った。そこで“満タン”に給油したはずだったのに、福岡市に近づいたあたりで、またもやガス欠寸前の状態になったのである。

 燃料漏れを疑い慌てて車を点検したが、そんな気配はない。明らかにドライブ帰りとわかる福岡ナンバーの一見客だったので、給油量をだまされたのではないかと親たちは憤っていた。しかし、長い道のりを引き返して抗議する元気もなく、再び給油した後、とぼとぼと帰宅したことを覚えている。

 そんなあこぎな商売をするスタンドが本当に存在したのか、それとも親たちの勘違いだったのか、今となっては真相はわからない。仮に詐欺行為が事実だったとしたら、単に福岡ナンバーだったからではなく、オンボロ軽自動車に乗った見るからにバカ面の一家だったので絶好のカモと思われたのだろう。

 十数年前の話になるが、実際にそんな不正を行っていた静岡県のスタンドが摘発されている。検定外のメーターに付け替えて実際の給油量以上の数字が表示されるようにし、代金を余分に受け取っていたという。「タンクの容量以上に給油され、おかしい」という苦情が警察署に次々届き、悪事は明るみに出たらしい。

 写真はいずれも大観峰で撮影したススキ越しの阿蘇五岳と地蔵。何を祀った地蔵なのだろうか。
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東京拘置所

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 東京拘置所に行ってきた。と言っても別に受刑者に面会してきたわけではない。単に周囲を散歩してきただけだ。1997年から行われた建て替え工事で周囲の巨大な塀は取り払われ、敷地の一部は公園化されてもいる。開放感さえ感じる施設だったが、死刑囚や刑事被告人らが収容されている放射状の巨大な建物には奇妙なまでに圧迫感を覚えた。

 拘置所があるのは葛飾区小菅。初めて行く土地だったが、東武線の小菅駅で電車を降りると、周囲を圧してそびえる建物がホームから見えた。私も撮影してきたが、よく見かける東京拘置所の写真はこのアングルから撮影したもののようだ。400億円を超える建設費を投じ2006年に完成したという建物は地上12階、高さ50m。実に3000人が収容できるらしい。

 周囲を30~40分ぐらいかけて回ったが、建物の一部に窓ガラスがなくブラインドで覆われた個所があった(下の写真)。恐らく死刑囚が収容されているのだと思う。敷地内には木々も少なくなかったが、彼らが四季の移ろいを目にすることはないのだろう。自業自得だとは言え、窓から景色を見ることさえできない独房生活にはやはり同情を覚えた。

 拘置所付近を散策中、パトロール中らしき警察官を複数見かけた。普段から厳戒態勢が取られているのかとも思ったが、地元の福岡拘置所の周囲では警官の姿など見かけたことがない。拘置所近くには結構大規模な早良警察署があるのにである。

 宿に帰ってテレビを見ていると、警視庁綾瀬署(足立区)の外勤警察官が拳銃を持ったまま行方不明になっているとのニュースが流れていた。拳銃には実弾5発が装填されているという。地図を見てみると、拘置所付近は葛飾区と足立区とが複雑に入り組んでいた(小菅駅の所在地は足立区)。不明警官の捜査だったのかもしれない。

 不明の警官は15日夜、騒音苦情を受けて自転車で出かけたという。自転車は足立区西綾瀬(拘置所に隣接する地域)の路上で見つかり、制帽と無線機も近くの川に落ちていたというが、警官の安否、及び拳銃や警察手帳の行方は18日現在、不明だ。虚偽の通報で呼び出され、襲われたのではないかと心配されている。別府の派出所巡査が殺害され、拳銃などを奪われた半世紀前の事件について調べ、このブログで書いたばかりだっただけに、胸騒ぎを感じている。

 などと書いていたら、問題の警官は18日夜、宇都宮市で逮捕されたとのニュースが流れてきた。いわゆる狂言だったようだが、いったい何が目的の行動だったのだろうか。人騒がせでは済まない話だ。


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別府巡査殺しの謎


 先日、大分県宇佐市に行ってきた。宇佐神宮に参拝し、境内に保存してあるSLクラウス号を見学してきたが、宇佐神宮だけが目当てだったわけではない。同市の四日市地区にあったという防空壕にも行きたかったのだ。だが、下調べが不十分だったこともあり、探し当てることが出来なかった。あるいは、そもそも現在では存在さえしていないのかもしれない。

 この防空壕とは今から半世紀以上前の1962年2月17日、別府市内の派出所に勤務していた巡査(以下、G巡査と表記)の絞殺遺体が見つかった場所だ。G巡査はこの6日前、一人で勤務中に派出所から連れ去られていた。遺体は下着姿。制服や拳銃、警察手帳が奪われていたという。不謹慎とは思ったが、数々の謎を残したまま15年後の1977年に時効となった事件のため、現場の一つをこの目で確かめたかったのだ。

 ついに容疑者を突き止められなかった事件だとはいえ、手掛かりがまったくなかったわけではない。それどころか、奪われた拳銃は事件から8年後の1970年12月、兵庫県尼崎市の暴力団幹部射殺事件に使われたことが明らかとなっている。銃弾の線条痕がG巡査の拳銃と一致したのだ。この事件は内紛で、実行犯の男は翌71年1月に逮捕されたが、拳銃は犯行後、海に捨てたと供述。入手ルートについては頑なに口を閉ざしたまま病死した。

 また、射殺犯逮捕の翌月の2月には「別府の暴力団が古井戸で銃の試し打ちをした」との情報提供に基づき、大分県警が古井戸を浚ったところ、数年間水に浸かっていたと思われる銃弾が複数見つかった。このうちの1発がG巡査の拳銃から発射されたものと確認されたという。尼崎と別府の組は同じ山口組系列。G巡査殺害の実行犯は不明とはいえ、彼の拳銃が最終的に暴力団に渡ったことは間違いない。古井戸の銃弾が古かったことを考えれば、先に巡査殺害事件の地元である別府の組が手に入れ、その後何らかの形で尼崎に流れたということになるだろう。

 G巡査殺害事件の起きた1962年初頭、福岡、大分は不穏な空気に包まれていたという。この年の1月、山口組に所属する通称“夜桜銀次”が福岡市内で射殺されたことをきっかけに、山口組と地元・福岡県筑豊地区の暴力団が一触即発の状態となっていたためだ。G巡査殺害の直前、抗争のため福岡市内に集結していた多数の山口組組員が凶器準備集合罪などで福岡県警に逮捕される大騒動さえ起きている。

 警官を襲い拳銃を奪う事件は現在に至るまで全国で数々起きているが、多くは銃を手に入れるのが困難な、組織に属さない犯罪者やガンマニアの犯行であり、暴力団員による犯行はゼロではないが極めて稀なケースだ。暴力団員は、一般人に比べれば比較的容易に闇のルートで銃器を手に入れることができ、警官を襲うというリスクの大きい行為を犯す必要がないからだろう。当時の西日本新聞記事の見出しを追っていくと、大分県警は事件発生当初、暴力団ではなく、白タク行為(無認可タクシー)で稼いでいた一種の“半グレ”集団に狙いを定めていたようでもある。

 一方で、上記のように暴力団抗争が起きる寸前の状況下だっただけに、「対立する暴力団を油断させて襲うため、拳銃ではなく本当は警官の制服を欲しがったのではないか」という推測もあったらしい。

 未解決のまま時効となった事件だから、何が真相であったか知るすべはないが、Wikipediaのこの事件についてのページに異様な記述がある。現在の本文には当たり障りのないことしか書いていないのだが、削除された過去の記述に真犯人を通報したという人物による記載があるのだ(履歴表示やノートで現在も読むことはできる)。

 その内容を要約すると、真犯人は拳銃を暴力団に売りつけ、一儲けしようとたくらんだ4人組で、別府の組と商談がまとまり巡査殺害事件を起こした。この4人組は“当該ページの執筆者本人”が警察に通報し逮捕されたが、全員が拘置所で自殺し事件は迷宮入りしたという。肝心の巡査の名前を間違っており、でたらめと決めつければ済む話だが、妙な生々しさも感じる。事件の謎がまた一つ増えたような気分だ。
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同僚に発砲した泥棒警官

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 大分県別府市で1962年、派出所の巡査が殺害され、拳銃や制服、警察手帳を奪われる事件が起きている。今回の本題はこの巡査殺害事件ではないのだが、事件を知って、警官が拳銃を奪われた例が過去にどのぐらいあるのかを調べ始めたところ、64年に福岡市で起きた非常に特殊な事件に出くわした。泥棒がパトロール中の警官から拳銃を奪い発砲したというものだが、何が特殊なのかというと、この泥棒も現職の警官だったのだ。しかも同じ署の勤務。警官の不祥事は今も昔も様々起きているが、これは相当珍しいケースだと思う。

 事件が起きたのは1964年10月15日未明。現在の福岡市中央区大手門付近をパトカーで巡回中だった20歳代の若い警官2人が、ジャンパー姿の不審人物を発見した。職務質問をしようとしたところ、男は逃走を図り、警官たちともみあいになった。男はすきを見て一人の警官から拳銃を奪い相次いで発砲、一人の警官は手首に傷を負い、もう一人は腹部に銃弾を受けた。しかし、腹部を撃たれた警官はひるまずに拳銃を奪い返し、2人はたまたま通りかかったタクシー運転手の協力を得て男を取り押さえたという。

 捕まった男というのが二人の警官にとっては先輩に当たる当時39歳の巡査で、しかも二人とは同じ警察署管内の派出所勤務。警察拳銃の取り扱いにも慣れていたはずだ。この3人に面識があったかどうかは私が読んだ新聞記事には書かれていなかったが、同じ署の外勤警官同士なのだから顔見知りであっても不思議はない。若い2人は「まさか先輩が」と驚がくしたからこそ、拳銃を奪われるようなすきが生まれたのではないだろうか。

 この事件前、大手門一帯では深夜の事業所に侵入し金品を奪う空き巣ねらいが続発していた。捕らえた巡査が持っていたカバンには、ドライバーや懐中電灯、金ノコなど明らかな七つ道具が入っていたという。まさに空き巣に入ろうとした直前、職質を受けたわけで、破滅的な抵抗はそのためだろう。最初は住宅ローンが苦しく空き巣に手を出したが、事件当時はスリルを味わいたくて犯行を繰り返していたという。根っから警官には向かない人間だったのだろう。

 この不祥事の責任を取り、当時の福岡署長は辞任している。腹部を撃たれた警官は重傷を負ったが、一命を取り留めた。定年まで職務を全うし、かなり出世もされたようだ。数年前の危険業務従事者叙勲の受賞者名簿にこの警官の名前があった。

 写真は現在の大手門界隈。この事件を調べるきっかけとなった別府の派出所巡査殺害事件については機会があったら書きたい。

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斉明天皇と神籠石

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 5市合併で1963年に北九州市が誕生した際、それに先立ち新市名を一般公募したところ、最も多かったのが「西京市」だったことは良く知られている。だが、この地域が都だったことは一度たりともない。それどころか、西京というのは室町時代の山口の異名だ。市名選考に当たった委員会が1位を退け、次点の北九州を選んだのは良識ある判断だったと思う。当時の新聞は、西京市を選ばなかった理由を「京都、東京に遠慮して」と報じたらしいが、大きな見当違いだろう。

 福岡県全体を対象に広げれば、斉明天皇の時代に都、正確には宮が置かれたことがある。7世紀、同天皇が百済復興のため朝鮮半島出兵を企図、その前線基地として造営したと言われる朝倉橘広庭宮だ。正確な場所は特定されていないが、現在の福岡県朝倉市にあったと推定されている。江戸時代初期の儒学者、貝原益軒は『筑前国続風土記』の中で、須川村(現在の朝倉市須川地区)に宮があったという村人の伝承を紹介したうえで、昔は一帯に多くの礎石があったと記している。少なくとも昭和初期までは橘広庭宮の遺構と信じられていたようで、九州大の鏡山猛氏らにより発掘調査も行われている。結果としてこの礎石は奈良時代の廃寺跡だったようだ。

 斉明天皇は661年7月、この宮で崩じているが、葬儀の模様を朝倉山上から大きな笠を着た鬼がのぞき見ていた(「是夕於朝倉山上、有鬼、着大笠、臨視喪儀。衆皆嗟怪」)と『日本書紀』は記している。朝倉山とは、現在の麻底良山(「底」の字で代用したが、正確にはまだれが不要。氏の下に横棒)だと言われている。麻底良は「までら」と読み、標高294m。宮の所在地は不明とは言え、斉明天皇に関する伝承が残る場所はこの山の周辺に多い。

 葬儀をのぞき見ていた鬼とは一体何者なのだろうか。鬼と言っても、角を生やした妖怪のイメージが出来上がるのは平安時代以降のことで、飛鳥時代、あるいは『日本書紀』が編まれた奈良時代は人知を超える事象全般を指したという。山の上に傘雲(レンズ雲)がかかっていたのを「大きな笠を着た鬼」と表現したという説があり、個人的には説得力を感じているが、怪異な要素が消え、面白みはなくなってしまう。

 現在の朝倉には、斉明天皇に直接関係する遺構は何も残っていないが、麻底良山の東側にある「杷木神籠石」(写真)との関連を指摘する人はいる。神籠石とは記紀に記録されていない古代山城の遺構とされ、北部九州・瀬戸内地方だけに十数ヵ所が残る。築造の時期・目的等はわかっていないが、最近『新修志摩町史』(2009年3月発行)を読んでいて面白い記述に行き当たった。古代山城研究会の瓜生秀文氏という方が書かれていたのだが、神籠石とは朝倉橘広庭宮防衛のために築造されたものだというのだ。

 説の正否を自分なりに考えてみようと思い、九州北部に残る国史跡の神籠石の位置を地図に落としてみた。なぜか多数の神籠石が高速道路(九州自動車道、大分・長崎道)の沿線にあった。福岡県上毛町の唐原山城跡のように建設中の高速道路に面したものさえある(唐原山城跡の下を東九州道のトンネルが通る)。

 杷木をはじめ多くの神籠石が交通の要衝に置かれているのは確かだろうが、ルート決定には政治的思惑も加味されているはずの現代の高速道路とこうも一致するものなのか。不思議に思ったが、古代の官道・西海道のルートが現代の高速道路と驚く程一致するらしい(『続古代の道』武部健一、吉川弘文館、2005)。西海道が整備されたのは奈良時代(8世紀)とされ、神籠石の建造はこれよりも先だったと考えられる。だとしたら、防衛拠点である神籠石を結ぶ形で西海道が整備されたのではないか。そう考えれば、偶然の一致に納得がいく。

 なお、神籠石が朝倉を囲むように配置されているのは間違いないように思える。いわゆる考古学や歴史学の研究者たちが瓜生氏の説について真面目に取り上げた形跡は(私の知る限りでは)ないようだが、真剣に検討すべき価値はあるように思う。(昨年6月の記事を加筆修正した)



より大きな地図で 神籠石式山城 を表示
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