日教組と戦った父母たち


 先日このブログのアクセス解析を見ていて、「日教組 宮崎県 通山小事件」をキーワードに訪問された方を発見し、かなり驚いてしまった。このキーワードでなぜ、当ブログにたどり着いたかは謎だが、私自身もこの事件を最近知り、関心を持ったところだったからだ。子供たちを放り出してストを強行した日教組教員に父母らが猛反発、彼らの転勤を求め延べ11日間にわたって集団登校拒否を続けたという事件。70年安保の前年、日教組が現在以上に驕り高ぶっていた時代の出来事だ。教育をよそに、政治活動に明け暮れる彼らを一般国民がどう見ていたのか。極端ではあるが、一つの象徴的な事例だと思う。

 発端となったストとは1969年11月13日、総評などの主導で行われた統一ストだ。安保破棄や沖縄即時返還、賃上げなどを訴え、全国で官民合わせ94万人あまりの労組員が参加したと言われている。公務員ストは当時も今も違法であり、行政サイドの切り崩し工作は激しかったという。また、教職員に対しては父母からも「ストに参加しないで、子供たちを見てほしい」という要望が殺到していたと当時の新聞は伝えている。

 しかし、宮崎県下の小中学校では2,567人もの教員がストに参加。事件の舞台となった通山小学校では教職員18人中、校長、教頭と1人の非組合員を除く15人が授業を放棄した。通山小学校は宮崎県中央部の川南町に現在もある小学校で、当時の児童数は414人。多くの学校でストが強行された中で、この学校だけ父母と教員との対立が先鋭化した背景には、一人の男性教員(以下、Wと表記)の存在があったようだ。

 Wは1年生の担任で、この時40歳。当時の新聞では「組合活動に熱心な先生」と評されている。父母側の証言によると、スト前夜には反対するPTA会長宅に「労使の問題に立ち入るな」と電話をかけ、スト当日には校門前に集まっていた父母の中に、嫌がらせをするかのように乗用車を乗り入れようとしたという。Wへの反発から、父母らの抗議行動はエスカレートし、遂には集団登校拒否に至ったらしい。

 日教組本部も事態打開のため(?)副委員長を団長とする5人の調査団を宮崎に派遣したが、その調査団が出した結論とは「集団登校拒否や転勤要求は教育への不当介入」「父母らの今後の言動によっては名誉毀損で訴える」というお粗末極まりないものだった。自ら教育を放棄しておきながら、“教育への不当介入”とはいかにも日教組らしい呆れるばかりの言い分で、当然ながら父母側は態度をさらに硬化。2学期の終業式にも全校児童の1割に満たない35人しか登校しないなど事態は泥沼化し、年を越した。宮崎県教委はオロオロするばかりで、まったく当事者能力を発揮しなかったという。

 父母会には「こんな学校、もうつぶしてしまえ」という強硬論もあったというが、対立が長引くにつれ「子供を犠牲にしている」との批判的な意見も上がるようになり、年明け1970年1月8日の臨時総会で登校拒否については矛を収めることとなった。いったんは教組側が笑う結果となったわけだが、この年の春、どんでん返しが待っていた。Wだけでなくスト参加の15人全員が異動となったのだ。

 優柔不断だった宮崎県教委にしてはずいぶん果断な措置で、教組側は「前代未聞の異動で、父母側の圧力に屈した」と猛反発したという。ただし、日教組はメンツをつぶされた格好であったが、個々の教員にとって実は悪い話ではなかったように思える。教員の権威をかさに傲慢な態度でも許されてきた彼らにしてみれば、父母から総スカンを食らったT小学校の状況は極めて居心地の悪いものだっただろう。口では父母らの転勤要求に反発してみても、「早く通山小学校から出て行きたい」が本音だったのではないだろうか。火薬庫みたいな状況を解消したかった県教委と教組とが裏で手を組み、三文芝居を打ったのではないかとも疑える。

 日教組は1992年の臨時大会で組合規約から「争議行為」を削除し、事実上スト戦術を放棄した。税制上の優遇措置を受けるため法人格取得を目指すに当たり、規約に“違法行為”があったのでは認められないからだという。笑える話だ。写真は日教組の本部があると“言われる”日本教育会館。日教組なる組織は公式サイトにも本部所在地を明らかにしていない。いかにもこの組織らしい。

 【追記】学校名は最初、匿名にしていたが、この事件についての詳細な記述が『川南町史』(1983)にあるのを知り、名を伏せる意味はないと考えて実名に改めた。町史では<昭和四四年一一月、先生の統一スト参加をめぐって本校の父母と組合員教師とが対立し「登校拒否問題」に発展した。これは全国各地に起こった教育現場の混乱を象徴する事件であった>として時系列で経過を紹介している。わざわざ町史に記載するほどの大事件だったということだろう。
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119番、バカ通報

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 福岡市の救急出動件数が今年、過去最多の66,489件(12月23日現在)を記録し、このままでいくと67,000件を超える見込みだという。市の公式サイトに発表資料が掲載されていた。速報値なので、通報の内訳など細かい情報は一切ないが、<救急車を呼ぶ前に…「本当に救急車が必要なのか?」今一度考えてください>と呼びかけている。救急車をタクシー代わりに使いたがる市民が相変わらず多いということだろう。

 以前、「救急車で犬を運んで!」という記事を書き、この中で2011年中に福岡市消防局にあった「対応に苦慮する119番通報事例」を紹介した。対応に苦慮する119番通報とはいかにもお役所らしい言葉だが、もっとストレートに言えば、“はた迷惑なバカ通報”ということだろう。2012年の事例も市のサイトにあったので一部を以下に抜き出してみた。

 <飲酒しているが、タクシーを停められない。救急車の料金がかからないのであれば出してほしい>
 <家の鍵が壊れて中に入れない。2階のベランダから家の中に入って鍵を開けてほしい>
 <犬が熱中症のようなので、救急車で病院に運んでほしい>
 <猫を車で轢いてしまい、タイヤと車体の間に挟まっている。救助隊を出してほしい>

 今回も強烈な内容だ。犬絡みの通報は2年連続の登場だが、全国放送のワイドショーでも同様の事例が紹介されていたので、福岡特有の話ではないようだ。最初から犬だと言えば、消防も救急出動を拒否できるだろうが、ワイドショーの情報よると、「○○ちゃんが大変なの!」などとペットの名前だけを出して通報してくるから始末に負えないらしい。子供が重病なのかと救急隊が慌てて駆け付けてみれば、部屋の中では犬がぐったり――というわけだ。

 これは119番の事例ではないが、北九州市では2004年、「人間だけでなく犬も救急車で運べ」と救急隊員に暴行した男2人が公務執行妨害で逮捕される事件さえ起きている。国道をバイクで走っていた男性が放し飼いにされていた犬をはね、その弾みで転倒し重傷を負った。この男性を病院に運ぶため救急隊が駆け付けたところ、泥酔した犬の飼い主らが現れ、救急隊員に殴る蹴るの暴行を働き、病院(もちろん人間専用)でも「犬も治療しろ!」と大暴れしたという。

 これは暴力をふるったため公務執行妨害が適用できたケースだ。上記のようなバカ通報も消防の業務を妨害しているのに変わりないが、電話だけで実力行使を伴わないため摘発するすべはないらしい。これらの通報者の属性は明らかにされていないが、「自分の言うことに他人は必ず従うべきだ」という思考回路を持った人物ではないかと想像される。そんな人間で思い浮かぶのは……。ひょっとしたら通報者はたちの悪い福岡市議会議員あたりではないだろうか。
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神格化された『はだしのゲン』


 『はだしのゲン』(以下、ゲンと表記)閲覧制限問題が、東京・練馬区では今月まで尾を引いていたという。学校現場からの撤去を求める区民と、自由な閲覧を主張する区民とがそれぞれ区の教育委員会に陳情書を提出し、委員会はこんな問題の審議に時間を取られていたのだ。結論は両者とも「不採択」。判断は学校現場に委ねるということらしい。常識的な幕引きだと思う。いちいち教育委員会が口出しする問題ではなく、そもそも陳情を出すこと自体がお門違いだろう。

 周知の事実になったが、ゲンを1973年に世に出したのは少年ジャンプだった。その後、何度か掲載誌を変え、最後は日教組の機関誌に収まった。だから昔から日教組の教師たちは激賞し、子供たちに読ませたがっていた。しかし、大人、まして教師が“良書”と薦めるマンガなど、子供にはどこか胡散臭く感じられるものだ。今となっては消された過去だが、昭和時代、ゲンは大人には人気だが、子供が手に取らないマンガとして知られていた。

 年がばれるが(今さらだが)、私はゲン連載当時のジャンプをリアルタイムで読んだ世代だ。同時期にジャンプで連載されていたのは『トイレット博士』『ど根性ガエル』『荒野の少年イサム』『マジンガーZ』『アストロ球団』等々。今でもカルト的人気を誇る作品も多い。私のようなバカな子供の間では、ゲンはジャンプ連載時から不人気だった。私の場合はあの絵が苦手だったのだが、先のラインアップの中で、はっきり言ってマンガとしての面白さで見劣りしていたのだ。

 被爆地の悲劇を真正面から描いたこの作品の価値を、私がまったく理解していなかったのは確かだが、言い訳をさせてもらえば、福岡の子供たちは小学校の修学旅行で被爆地・長崎に行く。別にマンガに頼らなくても、長崎の地で戦争、原爆の悲惨さをリアルに学んでいた。

 1996年に開館した長崎原爆資料館は素晴らしい施設だが、私が修学旅行で行ったのは古ぼけたビルの中にあった旧資料館の方だ。ここの展示内容は陰惨で残酷とも言って良いぐらいで、原爆の恐ろしさをもっとストレートに伝えていた。無脳児の写真などは特に衝撃的で、あれを見て宿の夕食がのどを通らなかった女子も少なくなかった。

 閲覧制限騒動の発端となったのは島根県松江市だが、同市内の大半の小学校にゲンが置かれていたと報道されていた。さぞかし日教組が強い土地柄なのだろうと思ったが、島根県の日教組組織率はゼロに等しいらしい。修学旅行で広島に行くため、その事前学習資料の一つとして多くの学校がそろえていたという。よくよく考えてみれば、日教組の影響力が低い土地だからこそ閲覧制限が始まってから8ヶ月間も公にならなかったのだろう。これが日教組の組織率がいまだに高い大分などで閲覧制限が行われていれば、ただちに彼らが大騒ぎし、この問題はもっと嫌な経過をたどったに違いない。

 今回の閲覧制限騒動によって、この作品は妙に神格化され、戦後マンガ史に残る名作の一つとの評価まで得てしまったように思う。今年は単行本も異様に売れたらしい。ゲン拒否派の排斥運動が、かえってこのマンガへの注目度を高めるという皮肉な結果となったようだ。出版社だけでなく日教組の高笑いまで聞こえてきそうで、何となく嫌な感じだ。
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加賀山領治の30年


 今年4回目となる死刑執行が12日、行われた。執行されたのは男女2人殺害の藤島光雄(55)と、大阪で2件の強盗殺人を犯した加賀山領治(63)の2人。この前日、宮崎県出身の死刑囚について取り上げたばかりだったが、この加賀山も宮崎県、恐らくは延岡市の出身だ。

 彼が大阪で犯した最初の事件は2000年7月29日未明、中国人女子留学生からバッグをひったくり、取り返そうと追いかけてきた留学生を刺殺したというもの。実はこの事件の30年前、当時20歳だった加賀山は故郷・宮崎で似たような事件を起こしている。幸いこの時は被害者が命を取り留め、加賀山に下った判決は懲役6年に過ぎなかった。

 宮崎での事件とは、1970年9月26日夜、宮崎市繁華街の喫茶店で起こした強盗致傷事件だ。店主の女性にオモチャの拳銃を突き付け現金を奪おうとしたが、悲鳴を上げられ逃走、追いかけてきた店主の夫を刃物で刺し、重傷を負わせている。緊急逮捕後、この約1ヶ月前に小林市で起きた連続強盗・強盗未遂事件も加賀山の犯行であったことが明らかになった。当時の加賀山は延岡市に住み、無職。小林の事件では数千円を奪っただけで、犯行当日にパチンコで使い果たしている。(写真は現在の宮崎市繁華街)

 大阪で事件を起こした時の加賀山も定職に就かず、実母や元交際相手の女性に金を無心してはパチンコや競馬などに興じていたという。1審大阪地裁判決が「無為徒食」と非難した生活ぶりで、いよいよ生活費にも窮すると、ひったくりで金を奪おうとし、逃げるために何のためらいもなく人を刺した。

 宮崎事件で服役した後の加賀山の生活ぶりは、報道では断片的にしかわからないが、宮崎で大工となり、家庭を持っていたとの情報がある。しかし、1990年頃にひとり宮崎を離れ、神奈川、石川県の建築現場や自動車工場で働いた後、1999年に大阪・西成に流れ着いたと言われている。留学生刺殺事件ではまんまと逃げ延び、一時は産廃処理の仕事に就いていたが、この仕事を辞めると再び金に困り、2008年2月、2件目の殺人を犯した。この時もいとも簡単に若い一人の男性の命を奪っている。

 加賀山という男は刑務所と実社会との間を行ったり来たりしていたわけではなく、大阪地裁判決も「前刑の仮釈放後、第1事件に至るまでの25年以上は、特に犯罪行為に及ぶことなく平穏に過ごしていたとうかがわれる」と認めている。しかし、宮崎の事件と大阪で起こした事件を見比べると、30年の時を経ても、加賀山領治という人間の本質は何も変わっていなかったように思える。

 拘置所生活で衣食住足りた加賀山は短歌をたしなむようになったらしく、毎日新聞が何首かを紹介していた。

 <現世では孝行できぬ身となりて 病みたる母に詫びるすべなし>
 <還暦を祝ってくれる人もなく 孤独な我に便りまい込む>

 正直、どの歌もきれいすぎるように感じられ、特に胸に響くものはなかった。死刑囚の作品を“極限の芸術”などともてはやす一部の風潮が私にはわからない。ただ、残された“病みたる母”は哀れだ。
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死刑囚と西都

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 以前、福岡市西区の伊都土地区画整理事業地区内に出来た市の複合施設が“さいとぴあ”と名付けられたことに関し、「宮崎県西都市にあるみたいで、紛らわしい」と書いたことがある。油断していたら今年10月、“さいとぴあ”がある一帯の住所がなんと“福岡市西区西都”に変わっていた。元々は女原(みょうばる)という名前だった所である。区画整理事業などで誕生した街が新しい名前を名乗るのはよくあることだが、それにしても他県の市名を堂々と付けるとは…。

 そう言えば、昔住んでいた宮崎市には松山、高松、広島などという中国・四国地方の都市名を冠した町名があった。それぞれの街から移住してきた人たちが土地を開き、故郷の名前を付けたためだと聞いた。宮崎出身者が西区西都の名前を聞いたら、あるいは「西都出身者が開発した街なのだろうか」と誤解するかもしれない。

 前置きが長くなった。タイトルの西都は宮崎県西都市の方である。現在、福岡拘置所にいる確定死刑囚の中に2人の宮崎出身者がいる。2女性殺害の石川恵子、詐欺共犯者ら殺害の渕上幸春だ。さらに昨年までは独居女性連続強盗殺人の松田康敏元死刑囚(2012年3月29日刑執行)もいた。この3人、不思議なことに全員が西都市で事件を起こしているのである(下記)。

  •  石川恵子 1996年8月、ホテル従業員女性に睡眠薬入り缶コーヒーを飲ませ、眠らせた後に絞殺。現金などを奪った後、西都市の石川実家近くの廃材置き場に遺体を埋める。(他にも1人殺害) 
  •  渕上幸春 1999年3月、詐欺共犯の土木作業員を口封じのため西都市で絞殺し、遺体を車のトランクに入れて車ごと同市内の産廃処分場に埋めた。同年9月には詐欺の事情を知っていた税理士を宮崎市で殺害、遺体は西都市の別の処分場に埋めた。
  •  松田康敏 2000年11月、西都市のスナック女性経営者宅に侵入、経営者を包丁で刺した後、首を絞めて殺害。現金などを奪った。(他にも1人殺害)

 宮崎県西都市は、300基以上の古墳が並ぶ「西都原古墳群」で知られるまちで、1955年に児湯郡内の妻町と上穂北村が合併した際、この古墳群がある台地の名を新町名にしたという。宮崎時代、西都原古墳群や有名なうなぎ店を目当てに何度か行ったことがあるが、別に治安の悪さを感じる土地ではなかった。このまちが事件現場となったのはたまたまなのだろうが、3人のうち、石川、松田の2人は西都市出身であり、産業廃棄物の収集運搬業者だった渕上は契約していた処分場が西都市にあったという。3人に共通して土地勘があったことだけは間違いない。

 人口31,000人強の西都市の人口密度は宮崎県平均のちょうど半分の約71人。これに対し、石川、渕上が暮らしていた宮崎市は周辺の町と合併し市域が大幅に広くなった現在でも625人を数える。例えば、車ごと遺体を埋める行為は宮崎市内だったら人目に付いたかもしれないが、西都市では可能だったのだろう。これが西都市が犯行現場となった理由の一つではないだろうか。

 石川は昨年10月、再審請求を行っていたことが最近になって明らかになった。石川の刑確定は2006年9月で、福岡拘置所にいる19人の確定死刑囚の中では比較的古参の部類に入る。彼女より古い死刑囚と言えば、日弁連の支援を得て再審請求を繰り返している尾田信夫や金川一らをはじめ執行が難しそうな面々ばかりだ。現実に彼女より確定が遅かったものの、再審の手続きが遅れた松田らが先に執行されている。ここでアクションを起こさないと執行は近いと思ったのだろう。

 無期懲役の終身刑化が言われているが、死刑に関しても再審請求中は刑の執行がないという事実が知れ渡り、多くの確定死刑囚が延命のための再審請求を間断なく繰り返し、これまた事実上終身刑化しているように思える。執行されているのは、真に罪を反省して再審請求を行っていない死刑囚か、さもなくば児童殺傷事件の宅間守、土浦通り魔事件の金川真大のような自ら望んだ死刑囚のどちらかだろう。

 死刑廃止論者による終身刑導入論議とは別に、死刑と、社会に戻れる可能性がある無期懲役とでは刑の重さが違い過ぎるとして終身刑を導入すべきという意見が以前あった。無期懲役の仮釈放や死刑執行の現状を見れば、無意味な意見だと思える。
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先生の常識

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 北九州市で昔、こんな教師の話を聞いた。勤務先の小学校の卒業式の日、この教師は年休を取った。別の学校に通う自分の子供もこの日が卒業式だったためだ。ところが、卒業式当日、教師は勤務先の学校に姿を現した。そして、校門前で行われていた日の丸・君が代反対行動に参加すると、ひとしきり「日の丸ハンターイ!」などとシュプレヒコールを上げた後、さっさと自分の子供の卒業式に向かったという。

 容易には信じ難い話だが、この教師が卒業式を妨害したことを理由に市教委から処分を受けた際に聞いたので、恐らく実話なのだろう。この教師はいくらなんでも卒業生の担任ではなかったのだろうとは思う。だとしたら自分の家庭を優先し、勤務先の卒業式を欠席するのは「あり」かもしれない。政治信条も人それぞれだろう。しかし、自分の学校の卒業生にお祝いの言葉一つかけるでもなく、ただひたすら日の丸・君が代への憎悪を吐き出して卒業式を邪魔する必要はないだろうにと思う。

 この教師の心情を図示すれば、“自分の家庭=自分の政治信条>>>>>勤務先小学校の子供たち”といった感じなのだろう。

 最近、『先生のための実践マナー講座』(学事出版、2003)なる本を読んだ。「教師の常識=社会の非常識」という視点から、世の教師たちに社会人として最低限のマナーを説き教えるという本だ。編著者は新学校システム研究協議会となっているが、どうもこれは福岡県内教師たちのグループらしい。

 福教組(日教組の下部組織)の教師たちの礼儀知らずの行動にウンザリしていた福岡県教育委員会が裏で手を引き、校長らに啓蒙本を書かせたのではないかと私は推測している。何しろ、「Tシャツや短パン、Gパンやポロシャツ、ジャージで授業をするな」と指導するこの本に対し、福教組は「服装は個人の自由だ」と猛反発したらしいから。

 福岡市で以前、ある有名な事件で市教委から処分を受け、取り消しを求めて裁判で争っていた教師がいたが、そう言えば、テレビで見るこの教師はいつもトレーニングウェア姿だったような気がする。あの格好で裁判にも出廷していたのだろうか。

 実はこの本については数年前、「教師にマナーを教える本が面白いぞ」と人から聞いたことがあったが、別に教師ではないから関心もなかった。たまたま図書館で目にしたので借りてきたのだが、恥ずかしながら私自身がろくにマナーを知らない、育ちの悪い人間なので、別に面白くはなかった。面白くはなかったが、非常にためになった。例えば、トイレでたまたま管理職とバッタリ会った時は軽く目礼するぐらいがかえって礼儀正しいらしい。私はトイレでも上司に大声であいさつし、考えてみれば嫌な顔をされていた。定年前なのに平社員のままのはずである。まあ、あいさつひとつ満足にできない福教組の教師たちよりはましだと思っているが。
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2013無期懲役の状況


 法務省が2008年頃から毎年公表している「無期刑の執行状況及び無期受刑者に係わる仮釈放の運用状況について」が2012年末現在の数字に更新されている。改めて数字を見てみると、興味深い点がいくつかあったので、内容の一部を紹介してみたい。

 昨年末の無期懲役囚は戦後最高を更新する1826人。昨年1年間で8人が仮釈放されたが、これを上回る14人が獄死している。8人のうち、6人が初めて仮釈放を許された者たちで、彼らの平均服役期間は31年8月。35年を超えていた過去2年間に比べれば、やや短くはなったが、刑確定が30歳の場合、運が良くても還暦過ぎまでは社会に戻ってこれないことになる。50~60歳ならば、一生刑務所暮らしだろう。(服役期間の推移はグラフ参照。縦軸の単位は年。例えば20年10月は20.8年と表記している)

 仮釈放を認めるか否かは、全国8か所に置かれた地方更生保護委員会によって審理されているという。下表は、法務省発表資料(過去分を含む)をもとに1998年以降15年間の審理結果をまとめてみたものだが、2009年以降、状況が劇的に変化していることがわかる。対象者は大幅に増えているのに、仮釈放が許された者は年間数人程度。対象者の過半数、03年に至っては90%以上が仮釈放を許可されていた08年以前とは異なり、許可される確率が極端に落ちているのだ。


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(※仮釈放を許可された者と実際に仮釈放された者の年ごとの数は異なる。許可された翌年に仮釈放されるなどの例があるためと思われる)

 この理由は、仮釈放運用の透明性を確保するため法務省が2009年4月、新たな制度を導入したためだという。服役30年以上の者は原則、審理の対象とし、その結果を公表するというもので、30年の基準は有期刑の上限に基づき設けられた。法務省発表資料によると、これ以前は、刑務所長が個別の無期囚ごとに「それぞれの具体的事情を検討した上で」地方更生保護委員会に審理を申し出ていたという。

 つまり仮釈放の候補となるかどうかは刑務所長の胸三寸だったわけで、この頃は恐らく、審理対象に選ばれること自体が超狭き門だったのだろう。2009年を境に対象者は一気に増え、10年に至っては実に69人に上っている。言葉は悪いが、まるで棚卸のようだ。この中には「服役60年超の無期囚」をはじめ、40年以上刑務所暮らしだった17人が含まれていたが、仮釈放が許されたのはこのうちの1人、全体でも7人に過ぎなかった。恐らく長期服役者の多くは精神を病み、仮釈放出来る状況にはないのだろう。

 対象者のうち、仮釈放が許可された者の割合は98~08年が65%、09年以降が17%弱。ただ、仮釈放が許可された者の1年当たりの数で見ると、08年以前が7.1人だったの対し、09年以降は5.8人。減っているのは確かだが、仮釈放に至る門がそれほど極端に狭まっているわけでもない。繰り返しになるが、08年以前は審理の対象になる段階でふるい分けられ、09年以降は審理で厳しく選別されているという違いだろう。

 ただ、05年1月施行の刑法改正で有期刑の上限が20年から30年に引き上げられ、これが仮釈放審理対象者の基準となったことで、服役期間が30年に満たない者が仮釈放される可能性はほぼゼロになった。仮釈放者の平均服役期間は98年は20年10月だったが、09年以降は一貫して30年を超えている。

 刑法改正前の98~04年には服役20年未満で仮釈放を許可された者が計10人おり、最も短かった者はわずか13年1月に過ぎなかった(下表参照)。01年に許可された当時50歳代の強盗殺人犯だ。被害者は1人。服役期間を考えると、1988年に刑が確定した計算になる。ひょっとしたら“勇気ある大学生事件”だろうか。

 無期懲役に関し、「10年ちょっとで戻ってこられる」という誤った認識を持っている人を現在でもたまに見掛ける。比較的最近にも日曜朝の情報番組に出ている太ったコメンテーターが自信満々で発言しているのを聞いた。非常に稀な例とは言え、10年程前までは事実だったのである。

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