# 旧聞since2009

# 天草四郎の城

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 今月、初めて島原城(長崎県島原市)に行ってきた。これまでにも島原市には何度か立ち寄ったことがあり、あの普賢岳噴火災害が続いていた時期に出張したことさえある。43人が犠牲になった1991年6月3日の大火砕流からしばらく後のことで、気は進まなかったが、仕事なので仕方がなかった。しかし、さすがについでに島原観光を楽しもうという気分にはならず、仕事を終えると早々に島原を後にした。記憶違いかもしれないが、島原城にはこの時、災害派遣された自衛隊が駐屯していたのではないだろうか。

 出張での島原滞在は短い時間だったが、それでも火砕流が普賢岳の山腹を走るのを何度か目にした。距離があったこともあり、それほど恐怖を感じたわけではないが、巨大な土煙が猛烈なスピードで斜面を下り落ちていくシーンは強く印象に残っている。地元の人によると、私が見た火砕流はごく小規模なものだったらしいが。

 今回の島原行きは、本当は島原城が目的ではなく、昼食に名物「具雑煮」を食べようというだけの魂胆だった。目当ての飲食店がちょうど城の正面にあったため、良い機会だからと城にも立ち寄っただけなのだが、巨大な石垣や5層の復興天守などを目の当たりにし、大昔に習った島原の乱(1637~1638年)についての記憶を少し呼び覚ますことができた。

 島原城は、松倉重政が1618年から7年がかり(完成までの期間については異説もある)で築いた城で、よく指摘されることだが、その規模はとてもとても4万石程度の大名の居城とは思えない。この城を築くため重政が領民に強いた重税や苦役、さらにキリシタンに対する凄惨な迫害が引き金となって島原の乱が起きたと伝えられ、重政とその後を継いだ勝家は日本史の中でもとりわけ悪名高い父子だ。司馬遼太郎氏は「忌むべき存在」とまで罵倒している。

 島原の乱の際、天草四郎率いる一揆軍は島原城に攻め寄せたが、領民たちの血と汗で築かれた城の防備は固く、落城させることはできなかった。だが、1960年代に復興された現代の城は、天守がキリシタン史料館となっているほか、城内の一角には北村西望氏作の天草四郎像<注>が立ち、時を経て一揆軍が攻略に成功したかのようだ。

 “天草四郎の城”と言えば、ふつうは一揆軍が立て籠もり、そして全滅した原城跡(南島原市)を指すのだろうが、島原城にもその雰囲気が漂い、何となく興味深かった。天草四郎を前面に出すのは観光戦略の面からも間違ってはいないのだろうが、松倉父子などという究極の悪役はなかなか他にはない存在なので、彼らにもっとスポットを当てても良いのではないかとも思った。

 昼食に食べた「具雑煮」も天草四郎がルーツだという。一揆軍が餅を兵糧として原城に持ち込み、それを他の食材と一緒に煮たという言い伝えをもとに江戸後期に初代経営者が考案したと飲食店ではPRしている。真偽はわからない。「名物にうまいものなし」とよく言われるが、具雑煮はうれしい例外だった。

 <注>復興された櫓の一つが北村西望記念館となっており、屋内外に多数の作品が展示されている。長崎市の平和祈念像の作者として有名な北村氏は現在の南島原市出身。天草四郎像はぽっちゃりしすぎていて、巷間伝わっているイメージとはかなり異なる。
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# 事業団アパート

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 小学生時代に一時期住んでいた雇用促進住宅の前をたまたま通った。完成から半世紀近くがたつはずだが、耐震補強工事を含む大規模改修が近年に行われたようで、外観は思いのほか古びていなかった。ただ、計5棟あった建物のうち、高台にあった2棟は取り壊され、一帯は立ち入り禁止だった。残る3棟についても廃止が打ち出され、住民には退去通告が出されていたという。景気悪化などを受けて一時的に棚上げ状態になっているが、取り壊しは既定方針らしく、建物外壁には「安心して住み続けられるようにしてください」と訴える垂れ幕が下がっていた。

 この住宅は私が小学生時代、地域住民から「事業団アパート」と呼ばれていた(運営が当時の雇用促進事業団だったため。以下、事業団アパートと表記)。当時は築10年に満たない頃で、間取りは2Kと手狭ながら、水洗トイレやホーロー浴槽を備えた小ぎれいなアパートは子育て世帯でにぎわっていた。世帯数は最大でも240戸だったというが、私と同学年の子供だけでも5、6人はいたのでないだろうか。前後の学年や近隣の子供たちを含めれば、同世代は軽く20人を超え、これが全部遊び友達だった。

 私が暮らしていたのはすでに取り壊された高台の棟だが、かつては敷地の一角に鉄棒、ブランコなどの遊具を備えた公園や広場があり、ここで毎日毎日暗くなるまでエスケンや缶蹴り、三角ベース、ドッジボールなどに興じていた。また、珍しく小遣いを手にした時はアパートの前にあった某ショッピングセンター(名前はしゃれているが、個人商店の集積)で買い食いをするのも楽しみだった。経済的には厳しい生活を送っていたが、あれだけ多数の遊び友達に恵まれていたのだから、幸せな子供時代だったのかもしれない。

 だが、その遊び友達は櫛の歯が欠けるように事業団アパートから次々に離れていった。海辺の街に、ちょうど大規模な市営住宅団地が建設されていた時期で、もっと広い住宅を求めてこの団地に移る世帯が多かったと記憶している。私も親から「次に住む家は海の近くだ」と聞き、楽しみにしていたのだが、入居者の抽選に外れたのか、どういうわけか我が家だけは郡部に移り住むことになり、遊び友達との再会は叶わなかった。

 その事業団アパートは今、入居者の過半数を高齢者世帯が占めるらしい。通りかかったのは小学生の下校時間だったが、アパート内では子供たちの姿を目にしなかった。もっとも、アパートがある地域自体は交通の便の良さなどもあり、今も子育て世帯に人気だと聞く。周囲には真新しいマンションや戸建て住宅などが建ち並び、少子化の時代にかかわらず、私が通っていた小学校は市内有数の大規模校になっているという。

 完成が市内で最も古いとは言え、耐震補強が終わり、高齢者ばかりの住む事業団アパートがなぜ、真っ先に廃止対象に選ばれたか。恐らく、更地にしたら高値で売れる可能性が高いからだろう。廃止予定の雇用促進住宅を買い取り、公営住宅にする自治体もあるようだが、福岡市にその気はないと聞いている。

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# 鴻臚館発掘調査


 上の写真は、福岡市中央区の旧平和台球場跡地で行われていた古代の迎賓館、鴻臚館跡発掘調査の模様だ。昨年11月に撮影した。この付近をよく散策しているが、遺跡は普段、ブルーシートで覆われている。人気がまったくない遺跡はカラスのたまり場となり、耳障りな「カー、カー」という鳴き声だけがこだましているのが日常だ。発掘調査を目にするのは久々だった。

 しかし、考えてみれば、私が一帯を散策しているのは平日の夕方か週末。平日の日中には精力的な調査が続いていたとみられ、2月15日には2013年度の発掘調査説明会が行われていた。残念ながら私は参加できなかったのだが、奈良時代から平安時代の建物跡が新たに確認されたことなどが報告されたようだ。

 1987年の遺跡発見から今年で27年。平和台球場が解体され、本格的な発掘調査が始まった1998年から数えても16年。その歴史的価値は大きいとは言え、吉野ヶ里遺跡のような数十haに及ぶ巨大遺跡ではない。規模はたかだか球場一個分だ。その割にはずいぶんスローペースな調査が続いているが、“弥生銀座”などと呼ばれる福岡特有の事情があるのだろう。

 この街では地面を掘れば、かなりの確率で遺跡が出土する。九州大学移転用地から姿を現した西区の元岡・桑原遺跡群をはじめ、開発が控え、調査時間の限られた遺跡が優先された結果、市有地にある鴻臚館は後回しになってきたのだろう。だが、四半世紀以上かかった発掘調査もようやく2014年度いっぱいで終わるという。調査と平行し、昨年からは鴻臚館の復元整備に関する検討も始まっており、こちらも14年度中に構想をまとめると聞いている。

 鴻臚館があるのは、同じ国史跡の福岡城址。時代も性格も異なる二つの遺跡をどう調和させるのか、整備はかなり難しい問題だと言われているが、個人的には鴻臚館を優先させても良いのではないかと思う。暴論かもしれないが、江戸時代の城など、どこにでもある。それに対し、鴻臚館はもともと現在の京都、大阪、福岡にしかなかった稀少な施設で、しかも遺構は福岡でしか見つかっていないのだ。

 「福岡のシンボルにする」という良く理解できない理由で、存在したかどうかもわからない福岡城天守の建設を主張する市民団体があり、福岡市もなぜかその尻馬に乗り、恐らくはその団体メンバーが作ったと思われる天守想像図を城内に掲示するなどしている。見学者をミスリードする行為だろう。「福岡のシンボル」なるものが本当に必要ならば、発掘調査の結果をもとに、きちんとした復元が可能な鴻臚館の方がよほどふさわしいと思う。下の動画は福岡市制作の鴻臚館CG復元モデル。


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# 続・福岡OL遺棄事件に進展は


 4年前の2010年3月に起きた福岡OL死体遺棄事件に絡み、関係者の一人が今月6日、有印私文書偽造・同行使容疑で博多署(写真)に逮捕された。この関係者とは、被害者女性と交通事故を起こしトラブルになっていた会社員男性(36)。事件発生当時、疑惑の目を向けられた人物の一人だ。6日の西日本新聞夕刊で会社員逮捕の記事を読み、いよいよ捜査に進展かと思ったが、その後1週間以上がたっても続報はない。それどころか、全国紙をはじめ多くのメディアはこの件を報じる様子がない。事件の本筋とは無関係の逮捕劇なのだろうか。

 逮捕容疑の有印私文書偽造・同行使は、問題の交通事故に絡み、被害者女性との示談書を偽造し、簡易裁判所に提出したというものだ(西日本新聞記事によると、本人は否認している)。提出の時期は2010年12月。つまり死体遺棄事件が明るみに出てから9ヶ月後に、生前の女性と示談を交わしていたと偽ったことになる。遺棄事件も彼が犯人だとしたら、あまりにも大胆な行動と思える。また、警察がこの件を今まで見逃していたことも不可解だ。会社員男性は世間的には疑われた存在だったが、警察側は完全に「シロ」とみなし、行動確認の対象からも外れていたのだろうか。

 この会社員男性は西日本新聞では匿名だったが、時事通信は実名で報じ、ネットでは彼が過去に犯した免状不実記載事件が掘り起こされている。2008年、他人(以下、Aさん)になりすまして免許証の再交付を受けたというもので、手口はかなり手が込んでいた。再交付を受けるのに必要なAさんの住民票を手に入れるため、まずAさんをかたって防火管理者講習を受講、取得した自分の顔写真が付いたAさん名義の管理者証を本人確認用の資料として役所窓口で使っていたのだ。

 防火管理者証は公的証明として役所の窓口で通用するが、管理者講習を受ける際には本人確認が行われていないという盲点を突いての犯行だった。免状不実記載自体は懲役1年以下、または罰金20万円以下の刑罰が科されるに過ぎないが、この事件以降、管理者証での本人確認を禁じる自治体が出るなど社会的影響は大きかったらしい。

 「福岡OL死体遺棄事件」が殺人事件であるのは間違いないと思うが、女性がなぜ亡くなったかは不明であるため、形式上は単なる死体遺棄事件として扱われてきた。情報提供を呼びかけるため、警察が以前に配布したチラシにも「遺棄事件」とだけ表記されていた。しかし、死体遺棄の時効は3年であり、遺棄事件としては昨年3月ですでに時効を迎えている。

 もちろん警察側は時効のない殺人事件として捜査を進めているとは思うが、一昨年暮れには捜査特別報奨金制度の対象から外れ、福岡県警のサイトからも事件に関する情報が一切なくなっている。今回の示談書偽造が明るみに出るまで、地元福岡でも事件の記憶はすでに風化した雰囲気すらあった。以前は「やや強引だが、有能」という印象のあった福岡県警だが、最近は暴力団絡みと思われる犯罪を中心に、未解決事件が多いのは気がかりだ。



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# 南溟の果てに

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 小学3、4年生の頃、熊本の田舎町から大阪に就職していく叔父に「荷物になるし、もう読まないから」と大きな段ボール1箱分の古本をもらったことがある。その中に太平洋戦争関連の本がかなり含まれていた。私が戦闘機好きで米軍板付基地にもよく通っていると聞き、特に選んで送ってくれたようだ。小学生には難しい本が多く、中でも特攻隊のドキュメント本は難解だったが、あとがき(だったと思う)に記されていたエピソードが妙に印象に残った。

 もらった本の多くは学生時代、食べるのに困って古本屋に売り払ってしまった。特攻隊のドキュメント本も今は手元にない。だから、あやふやな紹介しかできないが、ソ連の事実上の支配下にあった東欧のある国の青年が、日本の特攻隊に対して抱いた思いが紹介されていた。この青年は最初、自らの生命を犠牲にして攻撃することに大変な疑問を感じていた。しかし、ソ連軍の侵攻にさらされた祖国を守るため、圧倒的優勢なソ連軍に立ち向かった時、特攻で散っていった日本の若者たちの苦しい心情を初めて理解できたという。

 ドキュメントの書名はある程度覚えていたので、正確な書名、著者等は調べがついた。『南溟の果てに―神風特別攻撃隊かく戦えり』(安延多計夫、自由アジア社、1960)。発行年を考えれば、私が漠然としか覚えていなかった東欧の国とは、1956年にソ連の圧制に対して国民が蜂起したハンガリーだろう(ハンガリー動乱、あるいはハンガリー革命)。

 10年程前、鹿児島県知覧町(現在は南九州市)の知覧特攻平和会館に行き、特攻隊員が残した数多くの手紙を読み、彼らが出撃の日まで過ごした三角兵舎を見てきた。戦闘機のパイロットが大変なエリートであることは理解していたつもりだったが、どの手紙も格調高い文章が美しい文字で綴られていることに大きな衝撃を受けた。これは戦争で亡くなられた方すべてに言えることだが、この方々が生き延びていれば、我が国にとって、そしてそれぞれの家族にとって、いったいどれほどの力になっただろうかと歯がゆく思ったものだ。

 これらの手紙をはじめとする特攻隊員の遺品を今月4日、南九州市がユネスコ世界遺産へ登録申請した。例によって隣の面倒な国が「侵略の美化」などと騒いでいるようだが、南九州市が世界に伝えたいのは、特攻という理不尽な戦術で命を捨てねばならなかった若者たちの悲痛な思いだろう。

 この機会に『南溟の果てに』をもう一度読み返してみたいと思ったが、残念なことに福岡県内の公立図書館はどこも所蔵していないようである。今だから言えることだが、いくら空腹でも本をパンに換えてはいけないと思う。

 <追記>コメントをいただいた方の助言に従い、Amazonで『南溟の果てに』を購入した。数十年ぶりに読み返しているところだが、上記で紹介した個所にかなり不正確な部分があったので訂正させていただきたい。ハンガリー国民の特攻隊に関する感想が書かれていたのは「あとがき」ではなく「まえがき」であった。以下に該当個所を引用する。

 <ソ聯の圧迫に耐えかねたハンガリー市民は十二歳の少女まで、銃を取って強暴なソ聯兵と戦った。そうして今になって、はじめて日本の神風特別攻撃隊員の気持が解ったと言っている>


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# 地行にあるのに西新?

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 福岡市中央区地行の樋井川沿いに建設中の超高層マンションが徐々に姿を現してきた。建築主・西鉄の公式サイトによると、完成後は29階建て、高さ98m、近辺では破格の規模の建物になる。ざっと見たところ、現在は20階付近の工事が進んでいるが、高層ビルの少ない福岡だけに、すでに周囲を圧してそびえ立っている。

 昨年4月に「地行にタワーマンション」でこのマンションの着工を紹介した際、マンション名を「ラクレイス地行(仮称)」と記していた。建設地が地行2丁目なのだから、このまま正式名になるのではないかと予想していたが、違った。正式名は「ラクレイス西新レジデンシャルタワー」である。

 西新とは、建設地の樋井川対岸の地域で、詳しい説明は省くが福岡市の中では比較的人気の住宅地として知られている。現在でも西新付近にあるマンションの中には、正式な住所は違っても「○○西新」などと名乗っている例も少なくない。福岡ならずとも良くある話で、不動産業界では許容範囲内のことなのだろう。

 川幅数十mの樋井川を挟んで向かい合っている地域でもあり、地行のマンションが西新を名乗ってもそれほど違和感はないのかもしれないが、西新があるのは早良区で、当然学区などは異なる。入居希望者は通学区などはきちんと調べてくるだろうから、混乱はないとは思うが。

 しかし、地行の名を却下された地元の住民感情はどうなのだろうか。「地行にタワーマンション」でも書いたが、この街は大通りから一歩中に入れば、今も黒田藩政期以来の寺町の風情が残る。この環境を守りたい住民たちによって度々マンション建設反対運動が起きた地域でもあり、ラクレイス建設に対しても反発があったと聞いている。恐らく地行の名に地元住民たちは誇りと愛着を持っていることだろう。マンション建設は西鉄所有地の再開発事業とは言え、私が住民だったら「西新を名乗りたいのならば、わざわざ地行に建てるな」と不快な気分になりそうだ。

 蛇足だが、ラクレイス西新レジデンシャルタワーは賃貸マンションで、完成予定は今年9月。総戸数は1ルームから面積100平方mを超える3LDKまで、計190戸(テラスハウスを含めれば206戸)に上る。家賃は現在のところ、未定のようだ。

 <追記>おおざっぱな家賃が判明した。月額57,000円~400,000円で、このほかに共益費が8,000~20,000円。金額が高いのは恐らく上層階にある3LDKの部屋だと想像するが、40万円という家賃は福岡では相当大胆な金額だ。敷金が1ヶ月、礼金が2ヶ月なので、前家賃を含めた初期費用は160万円になる。

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# キレニア号こっそり撤去

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 福岡市早良区の市総合博物館裏で朽ち果てていた復元「キレニア号」がいつの間にか撤去され、裏庭はガラーンとした状態になっている(写真上、2月2日撮影)。

 私が気付いたのは昨年秋ごろのことだった。昨年5月に「朽ち果てたキレニア号」という記事を書き、「危険な状態であり、見た目も悪過ぎる」から早急に解体・撤去すべきだと訴えたことがある。だから撤去自体には何の異議もないのだが、アジア太平洋博覧会の遺産の一つとして存在感のある代物だったのに、その割には何の公式アナウンスもないまま“こっそり”解体されてしまったなというのが正直な感想だ。

 「キレニア号」とはキプロス島キレニア沖の地中海に沈んでいた古代の交易船。船内からは404個もの把手付きの壺が見つかったといい、オリーブオイルやワインを運んだものとみられている。博物館裏にあったのは、木船製造で有名な静岡県松崎町の岡村造船所によって建造された復元船で、長さ約14.3m、幅約4.4m。1989年に開かれたアジア太平洋博に展示され、博覧会終了後に日本IBMから福岡市に寄贈されていた。

 以来20年以上。博物館2階の展望ロビーから船の全景を眺めることができ、博物館もそれなりに存在をアピールしていたが、維持・管理にはほとんど手を掛けていなかったものと思われる。2枚目の写真は2011年5月の撮影だが、この時は辛うじて原型を留めていたものの、右舷などはすでに崩壊が進んでおり、解体・撤去されるのもそう遠い先ではないだろうと思っていた。(「2隻あった復元キレニア号」

 博物館近くの百道中央公園には以前、やはりアジア太平洋博の展示品だったインドネシアの高床式米蔵「アラン」2棟が残されていたが、老朽化により2004年7月に解体・撤去された。この時、福岡市は「危険なので撤去する」と公式発表し、マスコミも報じていた記憶がある。

 ところが、今回の「キレニア号」撤去に関しては、冒頭書いたように市からは何の発表もなかったと思う。市と市議会の公式サイトで検索しても解体・撤去について何一つ情報が掲載されていないから、恐らく間違いない。せっかくの寄贈品を放置したまま朽ち果てさせ、さすがの福岡市も恥ずかしかったのだろうか。

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駄田泉

管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。