河内藤園

DSCF9294.jpg

DSCF9330.jpg

 北九州市八幡東区河内にある「河内藤園」に27日行ってきた。まったくの個人経営ながら、22種100本余りの藤が植えられた大規模な藤園で、面白いのは入場料金が開花状況に応じて300~1000円の変動制であることだ。もちろん満開の時が1000円。27日の料金は“残念ながら”700円だった。いつもはとにかく安ければ喜ぶ人間だが、せっかくなら満開を楽しみたい。今日ばかりは受付のお姉さんに「まだ1000円じゃないの」と思わず恨み言を言ってしまった。

 とは言っても薄い紫色や白、ピンク色の花々で彩られた藤のトンネルは十分に美しく、信じられないほど甘い香りが充満していた。この藤園には長さ120mと80mの2本の藤のトンネルのほか、体育館二つ分ぐらいの大きな藤棚がある。恐らく大型連休後半には満開となり、入場料は待ち兼ねた1000円となることだろう。

 私はずいぶん昔に北九州市に住んでいたことがあるが、この藤園については「八幡の山奥にすごい藤園があるらしい」という噂を聞いたことがあるだけだった。経営者が商売っ気のない人らしく、報道機関に取り上げられることも少なかったためだろう。河内という場所自体、100万都市・北九州市(現在の人口は90万人台)にあるとは到底思えない結構な山間部にある。北九州市民であっても気軽には行きにくい場所だ。

 しかし、ネットの普及以降、この知る人ぞ知る場所もメジャーな観光地となっているらしい。27日は大勢の観光客でにぎわっていたが、中には海外からの観光客と思しき人も多数いた。隠れ家的なスポットなど到底存在し得ない世の中になったということだろう。
スポンサーサイト
[Edit]

麁原・鳥飼炭鉱

DSCF7536.jpg

 「炭鉱の坑道が自宅の下あたりに残っているらしく、大型トラックが近くを通ると家が揺れるんだよ」。高校時代、福岡市西区姪浜から通っていた級友はこう嘆いていた。この炭鉱とは「愛宕神社からの眺め」で取り上げた姪浜炭鉱(早良炭鉱)のこと。同炭鉱は1963年に閉山し、坑道の入り口は塞がれたはずだが、恐らく坑道自体は地下にそのまま残されたのだろう。その後、一帯では地下鉄工事やマンションの建設ラッシュが続き、坑道が現存しているかはわからないが、少なくとも地面の陥没事故が起きたなどの話は聞いたことがない。

 福岡市内にはかつて、姪浜以外にも炭鉱が点在し、中には現在の早良区西新、祖原(以前は麁原と表記)、城南区鳥飼といった場所にも昭和初期まで存在していたというから驚く。総称して「福岡炭坑」と呼ばれていたらしい。『福岡市史 第2巻 大正時代』(1963)によると、西新で採炭が始まったのは1891、2年(明治24、5年)頃だが、ここは振るわなかったため1909年(明治42年)に廃鉱となり、代わって開かれたのが麁原。最初はちっぽけな炭鉱だったというが、第1次大戦中に造船業で大儲けした山本唯三郎という人物の手に渡ると、資金を惜しまぬ設備投資で近代的な炭鉱に生まれ変わり、勢いづいた山本は続いて鳥飼にも坑口を開いたという。

 炭鉱があった場所は、麁原が祖原公園(写真)の南側、鳥飼が鳥飼小学校付近。上記『福岡市史』には、両炭鉱と北筑軌道(現在の福岡市中央区今川橋―糸島市加布里間にあった鉄道)の藤崎とを結ぶ専用道路があったとも記されている。引き込み線だったという説もあり、福岡県立図書館がウェブ上で公開している「近代福岡市街地図」で確認したところ、1926、7年(昭和元、2年)の地図に「運炭軌道」という線路が確かに描かれていた。引き込み線があったのは間違いない。この地図をもとに、炭鉱や引き込み線の跡を一部たどってみたのだが、予想通り住宅街が広がるだけで、何の痕跡も見つけることはできなかった。

 両炭鉱は1920年(大正9年)、山本唯三郎から帝国炭業という会社に売却され、同社は麁原・鳥飼(第1坑)のほかに、現在の西区愛宕(第2坑)、小戸(第3坑)でも採炭を行ったが、第1次大戦後の不況で石炭価格が大幅に下落。さらには第2、3坑では激しい漏水が続き、排水のために多額の電力料金がかかったことも追い打ちをかけ、1924年(大正13年)11月には突如、第2、3坑の休業を1,200人の労働者に通告している。希望者には他の炭鉱を紹介すると言いながら、どの炭鉱も新規採用は困難だろうという理由で、結局は「この際、帰農を」と求めたという。

 家族を含め計4,000人を放り出しながら、帝国炭業が労働者1人当たりに支払った退職金は10円。大正時代は貨幣価値が大きく動いているため、10円の価値がどの程度だったのかよくわからないが、『福岡市史』所収の九州日報記事が「涙金」と評しているぐらいだから、再出発に足る金額では到底なかったことだろう。

 この時は生き延びた麁原・鳥飼も数年後には閉山となったらしく、「近代福岡市街地図」の1929年(昭和4年)の地図では早くも“炭坑跡地”に変わっている。福岡炭坑の歴史は、西新での採炭開始から数えても40年に満たなかったことになる。お陰でこの土地が戦後の石炭景気に沸くことはなかったが、一方でエネルギー革命後の疲弊を経験することもなかった。仮に炭鉱が戦後まで存続していたら、一帯は現在とは違った街になったのだろうか。
[Edit]

菊池一族の首

DSCF6594b.jpg

 4月7日に書いた「菊池神社」の中で、以前、福岡市博多区御供所町の地下鉄工事現場から大量の人骨が出土し、鎌倉幕府に反旗を翻して敗死した菊池武時の軍勢の骨ではないかと大きく報道されたことを紹介した。当時学生だった私も興味を持ったものだが、「菊池神社」を書いた後になって、報道通り実際に菊池一族の骨だったのだろうかと疑問に思い出した。きちんとした資料がないかと探したところ、図書館にあった『高速鉄道関係埋蔵文化財報告V博多』(福岡市教委、1986)の中に九大医学部解剖学教室の永井昌文教授(当時)による調査報告を見つけた。

 菊池武時の敗死について改めて簡単に触れておくと、後醍醐天皇に従い幕府に反旗を翻した武時は1333年(元弘3年)、幕府の九州統括機関だった鎮西探題(写真の櫛田神社近くにあったと推定されている)を攻めたが、敗れ、武時をはじめ多数が戦死。また、生き残った武時の配下は犬射馬場なる場所で斬首されたと伝えられている。

 人骨が出土したのは1978年8月のことで、この時から注目を集め、後に菊池一族の骨ではないかと大騒ぎになった。当時福岡県の文化財専門委員だった筑紫豊氏(郷土史家として著名な人物)が<1>骨の大半が頭骨<2>一緒に出土した陶磁・土器片から14世紀初頭のものと推定される<3>出土したのが犬射馬場と考えられる場所――といった理由から斬首された菊池一族説を打ち出し、これに報道機関が飛びついたらしい。筑紫氏が根拠としたのは『博多日記』という古文書で、武時の探題攻めを目撃した僧良覚が著したものだという。

 人骨について人類学的な側面からの調査を福岡市教委に依頼されたのが永井氏で、同氏は報告の中で以下の所見を挙げている。

  • ほとんどが頭骨で、すべて700~800度程度の温度で焼かれている。
  • 頭骨の数は少なくとも110体で、多くは成人男性、一部に性別不明の未成年のものを含むが、乳幼児はない。
  • 合戦の証拠とみられる刀傷を負った骨が一部にある。

 まとめると、斬首した首を火葬したものと考えられ、永井氏は「『博多日記』の記録との整合性であるが、目下のところ記載と完全に矛盾する事実は見当たらない。むしろこの日記の文献的価値を裏づけているとの感の方が強い」と記している。つまり、直接的な証拠がないため断定こそしていないものの、やはり菊池一族の頭骨である可能性が高いと見ているようだ。

 ところで、永井氏の報告は写真等を別にして4ページの短いもので、しかも『高速鉄道関係埋蔵文化財報告V博多』の中では本編ではなく、付録的な扱いだった。センセーショナルに報道された菊池一族の骨騒動だが、考古学の扱いは意外に冷淡なものだった。
[Edit]

菊池神社

DSCF9242.jpg

DSCF9261.jpg

 私が短い期間通った中学校の通学路に小ぢんまりした神社があった。小さいながらも立派な社叢があり、それなりに歴史ある神社かもしれないとは思っていたが、当時は由緒を記した説明板などもなく、「菊池神社」という名前しか知らなかった。菊池氏の有名な武将を祭った神社だと教えてくれたのは学生時代の友人で、彼は菊池氏の本拠地だった街の生まれだった。福岡での生活が落ち着くなり、真っ先に菊池神社に参拝してきたそうで、私はそれを聞き、武将の素性に関心を抱くよりも友人の愛郷心の強さに感心してしまった。

 その菊池氏の武将とは鎌倉時代末期、後醍醐天皇に味方して幕府に反旗を翻した菊池武時であることを後に意外な形で知ることになった。福岡市博多区御供所町の地下鉄建設現場から大量の人骨が出土し、これが鎮西探題(幕府の九州統括機関)攻めで敗れた菊池武時軍の骨ではないかと地元で大々的に報道されたのだ。武時が鎮西探題を攻め、敗死したのは1333年(元弘3年)のことで、探題は櫛田神社(福岡市博多区上川端町)近くにあったと推定されている。現在、菊池神社があるのは武時の遺体の一部を埋めたと伝えられる場所(胴塚)で、人骨出土の報道に触れ、伝説に生々しさを感じた。

 最近、神社近くに行く機会があり、久しぶりに境内を歩いてみたのだが、神社自体のたたずまいは変わらないものの、周囲には住宅や学生アパートが建ち並び、社叢の緑は一層目立つ存在になっていた。本殿に通じる石段の登り口には福岡市が設置したと思われる説明板があり、神社の建設者について「明治2年(1869年)、最後の福岡藩主黒田長知が、その忠勤をたたえこの地に社殿を建立しました」と記されていた。神社の歴史が思いのほか新しいのは意外だった。同時に、長知がなぜ、菊池武時に入れ込んだのか不思議に思った。

 黒田長知は津の藤堂藩から婿養子に入った人物で、“最後の藩主”と言いながら、家督を継いだのは神社を建てた明治2年のことだ。どういう理由か、長知は藩主となってすぐに菊池神社建立に取り組んだことになる。長知が個人的に武時を尊敬していた可能性もあるが、下衆の勘繰りをさせてもらえば、明治新政府に媚を売ったのではないかと思える。当時、佐幕派だった黒田藩は新政府から冷遇され、厳しい状況に置かれていたという。武時の探題攻めには私怨が含まれるらしいが、形の上では天皇に忠義を尽くして戦死した人物だ。武時を顕彰することで、点数稼ぎを図ったのではないだろうか。

 <追記>「武時を顕彰することで、点数稼ぎを図ったのではないだろうか。」と最後に書いたが、誤った推測だったと思い、この記事の中で訂正した。
[Edit]

辻堂口門

IMG_0929.jpg

 福岡市博多区の承天寺そばに先月下旬完成した「辻堂口門(つじのどうぐちもん)」を遅ればせながら見学してきた。愛称は「博多千年門」。JR博多駅側からこの門をくぐれば、承天寺をはじめ数多くの寺が並ぶ一帯だ。全国的にはあまり知られていないと思うが、古代から大陸への窓口だった博多には格式の高い古寺が多い。市による辻堂口門建設と、併せて行われた「承天寺通り」の整備は、これらの古刹群を観光資源にしようという狙いがある。

 門は木造で、高さ、幅ともに8m。辻堂口門とは江戸時代、やはり承天寺のそばにあった門の名前で、これをそっくり引き継いだ。辻堂は承天寺がある一帯の旧地名。江戸時代の門は、1821年(文政4年)完成の地誌『筑前名所図会』に「博多 東の郭門」として描かれており、辻堂の入り口というだけでなく、博多の玄関口の一つだったことがわかる。ここから大宰府に通じる道が延びていたという。

 門の建設は、福岡市が2012年度の新規事業の一つとして大々的にアピールしており、市単独の事業だと思っていたが、傍らにあった説明板によると、もともとは地元から出されたアイデアだったらしい。承天寺境内を分断する承天寺通りの景観整備などについて意見を出し合う中で、新たな博多のシンボルとして辻堂口門再建が提案され、これに「歴史的文化資産の活用による観光振興」を目論んでいた福岡市が乗っかったということのようだ。建設費8800万円のうち、1300万円は地元などからの協賛金で賄われたという。

 私は数年前から博多の古い街を歩くようになった。ブランクを挟みながらも長く福岡市に住んでいるのだが、狭義の意味での「博多」(福岡市のうち、那珂川と石堂川に挟まれた狭い区域)にはあまり縁がなかったため、この年になっても驚きと感動がある。古い遺産をあまり大事にしてこなかった福岡市だが、承天寺や聖福寺、東長寺などの大寺が並ぶ一帯は同じ市内とは思えないほど歴史的景観が残り、この街並みを灯明やライトアップで彩る「博多灯明ウォッチング」「博多千年煌夜」といった催しは毎年でも行く価値があると思う。

 誕生したばかりの辻堂口門は、今はまだ真新しすぎて唐突な感じがしないでもないが、時を経れば、この景観の中に溶け込んでいくのではないだろうか。また、車道を川、歩道を川岸の遊歩道に見立てて整備したという新しい承天寺通りは落ち着いた雰囲気で、地元民の評判も上々らしい。ただ、私が見学に行った5日は冷たい雨が降っていたためもあるだろうが、土曜の午後の早い時間帯だったというのに観光客らしき人は全く見掛けなかった。門を作り、道路を整備したからと言って一気に観光客が増えるはずはないとは思うが、少し残念だった。(下の写真は承天寺)


IMG_0952.jpg
[Edit]