# 旧聞since2009

# 阿蘇のミヤマキリシマ

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 阿蘇外輪山で近年“天空の道”(またはラピュタロード)などと呼ばれて人気を呼んでいる道を見てきた。外輪山と熊本県大津町と結ぶ通称ミルクロードから分岐する峠道(下の地図参照)で、雲海が立ち込めた時には道が空に浮かんでいるように見えるらしい。写真は道を見下ろす崖の上から撮影したのだが、重度の高所恐怖症なので結構怖かった。だったら止めておけば良いのだろうが、根っから大馬鹿者のミーハーなので、話題の場所には遅ればせながらでも行ってみたいのである。

 とは言っても、この道を通る勇気まではなく、ミルクロード経由で外輪山を下り、せっかくだからと阿蘇・草千里に足を延ばしてきた。例年ならば、阿蘇山上の各所がミヤマキリシマの花でピンク色に染まっている季節だが、今年は花を咲かせた株が非常に少ないという。先日読んだ西日本新聞の記事によると、阿蘇・中岳が大量の火山ガスを放出しており、これが影響した可能性が高いらしい。

 火山ガスの成分のうち、二酸化硫黄の放出量は福岡管区気象台が随時観測しており、公式サイトで公表されている数字を見ると、今年1~3月は1日当たり700㌧から2,300㌧に上っていた。中岳の活動が平穏な時は1日当たり500㌧程度だというから、最大4倍以上の有毒ガスが放出されていたことになる。火山環境に適応して分布を広げてきたと言われるミヤマキリシマにとっても、これは厳しい環境だったのだろう。

 ただ、草千里から周囲を見回すと、峰によっては例年同様ピンクに染まっている所もあった。花の付きが悪いと言っても、場所によってかなり状況が違うようだった。風向きの関係だろうか。

 上に書いたようにミヤマキリシマは火山環境に適応した植物で、火山の活動が静まり森林化が進んでいくと、かえって数を減らしていくらしい。ミヤマキリシマよりも背丈が高い樹木が増え、日当たりが悪くなると生きられなくなるためで、現に大分県のくじゅう山系では50年前に比べ、1割程に激減しているという記事を以前読んだ。火山活動が激しすぎると被害を受けるが、静まるとやがて滅びる運命にある。難しい環境に生きる花だ。



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# 野芥の塚穴

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 福岡藩の儒学者、貝原益軒が18世紀初頭に完成させた藩内の地誌『筑前國続風土記』に「野芥塚穴」というものが出てくる。

 <野芥村に石窟廿五所有。國俗は鬼塚と云。穴の入口は狭く、奥は廣し。皆南に向へり。左右及向の正面三方皆大石をたゝむ。上は大石を並べ、天井の如し。(中略)民俗は昔雹(ひさめ)降し時、人の隠れし所と云。或は人を葬し壙(つかあな)なりと云。皆ひがごと也。上古の時、未だ家居なくして、穴に住し時の栖(すみか)なるべし>

 益軒は墓所説等を「ひがごと(誤り)也」と一刀両断し、古代の住居説を唱えているが、上記の記述を読んだ限りでは古墳の石室と思える。野芥村とは現在の福岡市早良区野芥で、私が中高校生の頃までは完璧な農村地帯だったが、現在では市南西部の住宅地として発展しており、地下鉄の駅もできている。開発の波に押され、恐らく「野芥塚穴」は現存していないだろうと想像したが、今もあると聞いて現地を見てきた。

 油山の西の山麓に広がる住宅地を抜け、日蓮宗の寺に通じる林道をしばらく歩くと、道沿いの斜面に「塚穴」が口を開けていた。写真でわかるように、やはり古墳の横穴式石室である。しばらく山林内を歩き回り、倒壊した1基を含め計4基の石室を見つけることができた。やぶ蚊に相次いで襲撃されたため数枚の写真を撮って早々に退散したが、ちゃんとした装備でじっくり探索すれば、まだ多数の石室を確認できたに違いない。

 「塚穴」の正体を知りたいと思い、帰路に福岡市総合図書館に立ち寄り、資料を漁ったところ、意外に簡単に突き止められた。結論から言えば、西油山古墳群という6世紀後半以降に築造された群集墳で、9群41基もの古墳が狭い範囲に密集しているという。『福岡市埋蔵文化財調査報告書第240集 梅林古墳』(福岡市教委、1991)によると、油山西麓にはこの古墳群のほか、荒平、三郎丸、重留、山崎、霧ヶ滝、影塚、駄ヶ原、大谷の各古墳群があるという。これらの古墳群で確認された古墳の数を足し合わせてみると、実に250基にもなった(同報告書の発行時点での数字で、現在もすべて存在しているかはわからない)。

 福岡市内では西区の高祖山の麓に350基もの古墳が広がり、同山は“墳墓の山”とも言われているが、油山も事情は同じだったわけである。もっとも油山は、福岡市によって「市民の森」や市営牧場が整備され、市民の貴重な憩いの場となっている。間違っても墳墓の山などとは呼ばれないだろうが。

 野芥の塚穴こと西油山古墳群については市教委等による調査は行われていないようだが、大正時代に早良郡役所によって編まれた『早良郡誌』(復刻版は1973、名著出版)には「此の塚から刀剣、陶器、金環、勾玉の類を発掘したことがあった」との記述がある。“発掘”と記されてはいるが、きちんとした調査が行われたわけではなく、開墾、あるいは石材を取るために掘り起こされた際に副葬品が出てきたということではないだろうか。開墾等によって破壊された古墳は少なくないという。

 とは言っても、これらの古墳群がもっと福岡城下に近い場所にあったならば、さらに甚大な被害を受けていたに違いない。福岡城築城の際、黒田藩は近隣の古墳を片端から破壊し、石材を城の石垣などに転用したというから。

 野芥の塚穴に行く途中、道沿いの幼稚園に新幹線ゼロ系があったのでびっくりした。初めての場所を歩くのは、これだから楽しい。(20年以上も前にJR西日本から払い下げを受け、職員室や図書室として利用しているらしい)


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# 篠栗九大の森

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 福岡県篠栗町にある「篠栗九大の森」を散策してきた。九州大農学部の福岡演習林(計480ha)のうち、蒲田池の周囲に2kmの遊歩道を整備するなどして開設された水辺の森で、広さ17haの敷地内にはスダジイ、コナラ、ヤマフジなど計90種もの木々が生育している。水の中から生えた落羽松の森(写真)など、どことなく日本離れした風景にも出会える場所だ。

 現地にあった説明板によると、落羽松は北米原産の落葉針葉樹で、別名はヌマスギ。原産地では30~40m、国内でも20m程の高さまで生長するという。どこか見覚えのある木だと思ったが、恐らく中世代の想像画で恐竜とともに描かれているのを目にしたのだと思う。

 篠栗九大の森は、演習林を開放してほしいという住民の要望に応え、九大と地元・篠栗町が共同管理する形で4年前の2010年夏にオープンした。演習林の一般開放は全国初の試みだという。ウッドチップが敷き詰められた遊歩道は適度な起伏があり、森林浴を楽しみながらの散策は非常に快適だった。また、子供の頃によく見たヘビイチゴの実を目にして懐かしい気分に浸ることもできた。大学の演習林でなければ、150万都市近郊にこれだけの自然は残らなかっただろう。

 ただ、帰り際に「事故を防ぐための注意事項」が記された看板を見て、少し青くなった(入場する時に見るべきだが…)。

  • イノシシと不意に出会わないよう 手負いイノシシが逃げ込む可能性がある駆除期間は特に注意する
  • マムシに咬まれないよう 歩道から外れずに足元に注意して歩き、沿道の草むらに入らない

 注意書きの意味は良く理解できるが、「イノシシと不意に出会わないよう」と言われても、相手がある話なので人間サイドで注意するだけでは難しい気がする。向こうがいきなり出現した場合はどうしたら良いのだろう。できれば、その場合の対処法も書いていて欲しいものだ。

 この篠栗九大の森を紹介するパンフレットの中で、九大側は「『水辺の森を散歩できる場所』であり、整備された公園ではありません」と釘をさしているが、その意味が看板を見て良くわかった。近隣住民の憩いの場所とはなっているが、結構デンジャラスである。

 開園時間は9月までは午前6時~午後6時、10月から3月は午前7時~午後5時。時間内ならば自由に入ることができる。下の地図の蒲田池の西側に入り口が2ヶ所ある。


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# 富岡製糸場

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 この大型連休中、ユネスコ世界文化遺産への登録が確実になった群馬県の富岡製糸場に行ってきた。中高校生の頃、明治時代の「殖産興業」の項目では必ず習ったあの富岡製糸場が今も当時の姿のまま保存されているとは、今回の世界遺産の話題が出るまでまったく知らなかった。いくら群馬から遠い九州に住んでいるからとは言え、無知を恥じる以外にないが、少し責任転嫁させてもらうならば、日本史の教科書も悪いと思う。

 富岡製糸場の説明のため教科書で使われている図版はおおむね完成当時に描かれた錦絵ではないかと思う。現に山川出版社の改訂版『詳説日本史』(2010)にも「富岡製糸場の内部(錦絵)」という時代を感じさせる絵が使われている。2枚目の写真は入場券の半券だが、私が高校時代に教科書で目にしたのは、恐らくこの錦絵だった。歴史の教科書の使命ではないのかもしれないが、製糸場の現在の写真を掲載し、1872年(明治5年)完成の建物の多くが立派に現存していることを広く伝えるべきだったのではないだろうか。

 富岡製糸場、正確には戦前の生糸産業に関し、もう一つ私が勘違いしていたことがある。製糸や紡績と聞くと、どうしても映画『あゝ野麦峠』を連想してしまい、地井武男さんに背負われて峠を越える大竹しのぶさんの映像が思い浮かぶのだ。生糸産業=悲惨というステロタイプな印象が刷り込まれてしまったわけだが、私と同様の勘違いをしていたのか、それとももっと深い理由があったのかは知らないが、最近ある方がネット上で富岡製糸場を「ブラック企業の元祖」と論評。これに多くの方が反論し、ヤフーニュースでも取り上げられるなど話題となっていた。

 官営模範工場として設立された富岡製糸場の労働条件は極めて先進的なものだったらしく、工女(女工ではなく工女と富岡では呼ぶ)たちの一日の実働時間は7時間45分、日曜は休日など“女工哀史”とは無縁の世界だったというのが定説だ。工場が民間に払い下げられた後もこれは同様だったらしい。

 国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにある『甘楽産業叢談』(矢島大八編、1909)という富岡地方の郷土資料には「工女を優待すること至れり尽くせりで、営利工場として斯かる施設は全国中到底当所の右に出づるものはない」と記されている。この資料が出版された1909年(明治42年)は、官営から三井を経て原合名会社という企業が製糸場の経営に当たっていた時代だ。地元礼賛の記述である点を割り引いても、工女たちがこの時代も厚遇されていたことは確かだろう。

 もちろん富岡製糸場が終始一貫して労働条件・環境に優れた職場であったはずはなく、ネット上には「富岡にも女工哀史はあった」と指摘する意見もある。ユネスコの諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)が「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界文化遺産に登録するようユネスコに勧告した際、配慮事項として当時の労働環境の研究を深めることなどを求めたのは、あるいは富岡製糸場=工女の楽園という別な意味でステロタイプな見方を戒める意味があるのかもしれない。いずれにしろ、これを機会に労働条件・環境に関する研究は進展することだろう。

 ところで、今なお堂々たる姿をとどめる富岡製糸場の建造物群だが、廃墟どころか倒壊した建物が1棟あったので驚いた(一番下の写真)。繭の乾燥場だった建物で、倒壊現場前にあった立て看板によると、今年2月14~15日の記録的な大雪で半壊したという。この「平成26年豪雪」により関東内陸部などで大きな被害が出たことはニュースで知っていたが、それを5月になって目の当たりにするとは思わなかった。九州、中でも積雪がほとんどない福岡市の沿岸部に住んでいると、雪が凶器になるということを実感する機会など滅多にない。


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# 国史跡がない北九州市

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 写真は北九州市八幡東区の河内貯水池に架かる南河内橋。近くにある河内藤園に行った際に撮影してきた。河内貯水池とは八幡製鉄が工業用水確保のために1927年に完成させたダムで、橋はこの1年前の1926年竣工。凸レンズを二つ並べたような外観が特徴的で、「レンティキュラー・トラス」と呼ばれる形式らしい。複雑な形状を見てもわかるように、技術も金も手間も掛かるため欧米では19世紀に滅びた様式で、日本ではわずかに三つが造られただけだという。国内に現存するのはこの南河内橋だけで、世界的にも貴重な存在とあり、2006年には国重文に指定されている。

 北九州市内にある国重文はこのほか、門司区の旧門司三井倶楽部とJR門司港駅、戸畑区の旧松本家住宅の三つ。いずれも堂々たるレトロ建築ではあるが、日本の近代化・工業化を支えてきたこの街にしては意外に少ないと思った。八幡製鉄所の工場群などは指定されていないのかと不思議に感じたが、同製鉄所関連施設の中で東田第一高炉跡が市の指定史跡となっていた。この機会に北九州市内の史跡を調べたところ、妙なことに気付いた。北九州市には国指定史跡が存在しないのである。

 例えば、福岡市には福岡城跡、鴻臚館跡、板付遺跡、元寇防塁など計12の国史跡がある。古代から大陸との窓口だった福岡市との比較は適当ではないかもしれないが、北九州市に隣接する行橋・京築地域にも御所ヶ谷の神籠石をはじめ10ヶ所以上の国史跡が存在する。地域的に考えても北九州市のゼロは不思議である。

 5市合併で100万都市・北九州が誕生したのは約半世紀前の1963年のことで、市自体の歴史が浅いのは間違いない。しかし、市域全体が古くから開けていなかったわけではなく、現実に市内にある県指定史跡の中には弥生時代の集落跡・重留遺跡があり、市指定史跡には複数の古墳が存在する。

 また、私が知るだけでも小倉南区には国内有数の山城跡と言われ、山の斜面に多数の畝状竪堀があったことで知られる長野城跡があり、何より小倉北区には江戸時代、細川、小笠原氏の居城だった小倉城(下の写真)もある。小倉城周辺の地下には、戦時中の兵器工場・小倉造兵廠の地下施設が眠っているとも聞く。だが、これらはすべて国史跡どころか、県・市の指定史跡でさえないのである。

 詳しい事情を知らないので無責任なことは言えないが、遺構の保存状態が悪いなどの理由で史跡としての価値が低いのだろうか。確かに小倉城については復興天守があまりに観光化され、史跡というよりもテーマパークに近い気がする。シンボル的な建物がない福岡城跡に比べ、復興天守がそびえる小倉城はいかにも城跡らしい雰囲気があるが、史跡としての価値は無関係ということだろう。

 別に国史跡がないからと言って北九州市の歴史や文化が否定されるわけではなく、特筆することではないかもしれないが、少し意外に思ったので取り上げてみた。



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駄田泉

管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。