白糸の滝

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 先週末、福岡県糸島市の山中にある国史跡、雷山神籠石に向かっていたところ、あまりの暑さに気が変わり、白糸の滝へと目的地を変更した。白糸の滝と言えば、静岡県の富士山麓をはじめ全国各地にあるらしいが、糸島にも同名の滝がある。「日本の滝百選」に選ばれるような名瀑でこそないが、福岡県の名勝に指定され、何より涼を求める人には人気の場所だ。私が行った日も滝へと向かう山道には長い車列が続き、駐車場は1時間待ちだった。

 この滝があるのは、雷山の隣に位置する羽金山(900㍍)山中で、福岡市西部からも車で30~40分程度と気軽に行くことができる。高さ24㍍、幅14㍍。福岡県はあまり大きな滝がないところらしく、県内では比較的大きな部類だ。私が間近で見た県内の滝の中では、北九州市小倉南区の菅生の滝にダイナミックさでやや劣る気がしたが、特有のひんやり感は十分堪能できた。

 滝つぼのすぐ下流はヤマメの釣り堀になっており、多くの家族連れが釣り糸を垂らしていた。もともとここに生息しているわけではなく、大分産を放流しているらしい。滝を眺めながら、釣ったばかりのヤマメの塩焼きやそうめんなどを味わえるのもこの滝が人気を集める理由のようだ。

 帰りには農産物直売所に立ち寄り、糸島産の野菜、糸島沖で取れた魚とそれを加工した練り物、糸島で仕込まれた清酒を買い込み夕食で楽しんだ。この土地ではほかに食肉やハム、ソーセージ、牛乳、多種多様な果物なども生産されている。最近、福岡県内では住みたい場所として糸島市の人気が高いと聞くが、良く理解できる。ここならば地産地消に徹した生活も可能だろう。これほど物産豊かな土地も珍しい。


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続々・陸軍が掘ったペグマタイト

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 福岡市西区の長垂山で戦前から戦中にかけ、陸軍がペグマタイト(大きな結晶からなる火成岩)を採掘していた話を以前取り上げたことがある(「陸軍が掘ったペグマタイト」「続・陸軍が掘ったペグマタイト」)。陸軍が欲しがったのはペグマタイト中のリシア雲母に含まれるリチウムだが、その使途がわからない。何とか突き止められないかと思っていたところ、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブの新聞記事文庫で興味深い記事を見つけた。
  
 1934年(昭和9年)7月15日の大阪朝日新聞記事で、朝鮮半島の忠清北道の農民が偶然、希少な鉱石を掘り出したというものだ。農民から届け出を受けた朝鮮総督府鉱山課が地質調査所に鑑定を依頼したところ、優秀なリシア雲母であることがわかったという。記事は「リシウムは軽金属中最も軽いもので飛行機その他軍需工業の合金材料として非常に重宝視され世界各国とも血眼になって捜しているものであるが、これまでアメリカとスペインで極く少量を発見したのみで、わが国では嘗て筑前長垂において標本程度のものを発見したくらいにとどまり今回のものは全く世界的の大発見といわれている」と報じている。

 この記事によると、リチウムは当時、飛行機などの軍事用合金材料として各国が重要視しながらも、産出量は世界的にも極めて少なかったことがわかる。「陸軍が掘ったペグマタイト」の中で、航空機用のアルミリチウム合金製造のため、陸軍はリチウムを欲しがったという地元研究者の説を紹介した。あくまでも状況証拠でしかないが、この記事を読む限りでは、合金説がやはり正解かもしれないと思う。

 神戸大学附属図書館の新聞記事文庫には、このほかにもリチウムに関する戦前の記事がいくつか収録されている。翌年1935年2月3日の大阪時事新報記事は「リシウム四%のチンワルド 軍需工業界に歓呼」との見出しで、忠清北道からまたもやリチウムを含む希少鉱石チンワルド(リチウムのほかに鉄を含有する雲母)が発見されたことを伝えている。さらに同年8月8日の中外商業新報記事は、日本電工が半島産のリシア雲母等を原料にリチウム国産化の研究を進めることを報じ、「軍事的にも、一般工業的にも多大の反響を呼ぶものと見られ今後の成行は誠に刮目に価しよう」と結んでいる。忠清北道で発見されたリシア雲母、チンワルド雲母が相次いで採掘され、国内で軍事利用されようとしたのは間違いないだろう。

 1934年7月15日の大阪朝日新聞記事からはもう一つ、長垂山のリシア雲母は当時、標本程度しか産出していなかったことがわかる。長垂山山中でリシア雲母を含む有望なペグマタイト鉱床が見つかり、陸軍が本格的な採掘を始めるのは6年後の1940年。1934年段階で長垂山のペグマタイトは天然記念物に指定され、保存が図られていたのだが、泣く子と陸軍には勝てない。

 「陸軍が掘ったペグマタイト」で書いたが、陸軍が手にしたとみられるリチウムは計4㌧程度だったと想像される。仮に合金説が正しいとして、果たして軍部や軍需産業は長垂山や半島産のリチウムを使って合金の製造に成功し、何らかの兵器に利用したのだろうか。アルミリチウム合金に限れば、扱いの難しさ等から1950年代には研究は下火になり、再び注目されるようになったのは70年代に入ってからだという(航空機国際共同開発促進基金の解説記事
『航空機に於けるアルミリチウム合金の開発動向』2005)。確証はないが、合金は実用化に至らなかった気がする。
 
 写真は長垂山の下の海岸に突き出たペグマタイトの岩脈。
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朝倉の水車群

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 福岡県朝倉市にある国内最古の水車群が17日、今シーズンの稼働を始めた。例によって新聞やテレビが取り上げていたのは「菱野の三連水車」だったが、近くにはこのほか2基の二連水車がある。「三島の二連水車」と「久重の二連水車」(写真2、3枚目)で、計3基の水車と、筑後川から水を送る堀川用水路が1990年、ワンセットで国史跡に指定されている。これらの歴史については現地にわかりやすい説明板があるので、以下にそっくりそのまま引用させていただく。

 当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災異変の中に幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が新田開発のため、寛文3年(1663年)筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。更に60年後の享保7年(1722年)岩盤を切り貫き現在の取入口を新設したのである。しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。そのためにこの地では自動回転式の水車が設置されたのである。三連水車は寛政元年(1789年)に設置されており、三島・久重の二連水車も同じく宝暦のころに設置されたものと思われる。
 毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は、3基で35ヘクタールにもおよぶ。

 享保や寛政と言えば、あの徳川吉宗や松平定信が改革を断行していた時代だ。時代劇好きなため妙に親近感を覚えて時代感覚が狂ってしまうが、水車群の完成が約220年前、堀川用水路の開削に至っては約350年も前になる。もちろん木造の水車部分は何度も作り直されたのだろうが、200~300年前のかんがい施設が今なお現役で農地を潤していることに感心する。

 文明開化前の江戸時代と言いながら、日本が独自に培ってきた技術力は確かなものだったのだろう。九州大経済学部の元教授で、郷土史にも詳しかった秀村選三氏は「昔の土木工事は凄いんですよ。水害のとき調べてみると、近代科学の粋を集めて造った最近の堤防がくずれて、江戸時代に造られたものは、ビクともしないというのがよくあって、 自然の理をよく見きわめて造っていると思いますね」と語っておられる。(『博多に強くなろう』福岡シティ銀行、葦書房、1989)

 この3基の水車群でどの程度の水を汲み上げているのか。ある新聞には「1日2万㌧」と書かれていた。あまりに多すぎる気がして正直マユツバだと思ったが、現地説明板によると、菱野の三連水車だけで1日7,892㌧の揚水能力があるという。だとしたら3基合計で2万㌧は妥当な数字だ。初代ゴジラの体重並みの水を毎日毎日汲み上げているわけである。江戸時代の技術力恐るべし。


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西春町の桜並木通り

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 小学校高学年の頃、福岡市の隣の市に住んでいた。十数分も歩けば、福岡市博多区の雑餉隈(ざっしょのくま)地区。地元の繁華街はやや遠いうえ、さして大きな街でもないため、買い物や遊びに行くのは概ね雑餉隈だった。

 自宅から雑餉隈までの道沿いには、ひねこびた感じの木が多数植えられており、変わった道だなと思っていた。先日、数十年ぶりに雑餉隈界隈に行き、ひねこびた木が立派な桜並木に変じているのを目の当たりにした。しかも、ただの桜並木ではない。並木は巨大な中央分離帯となっており、両側に車道がある。札幌の大通公園のミニチュア版といった感じだ。

 この並木があるのは、正確に言えば、福岡市博多区西春町の県道56号線(下のグーグルマップの緑の帯)で、市のサイトによると、総延長は約600㍍。桜の木の総数はわからなかったが、少なくとも百数十本はあると思われる。毎年花見のシーズンには大変な賑わいを見せ、出店も立ち並ぶという。現在は青葉が茂り、並木は緑のトンネルとなっているが、ここを歩くだけでも春の美しさは十分に想像できる。

 しかし、なぜこのような桜並木が生まれたのだろうか。ネット上には桜の美しさを紹介するブログ等は多数あるが、成り立ちに関する情報は見つからない。地元の人にとっては周知の事実かもしれないが、中央分離帯が公園化された県道など、福岡県内ではあまり見た記憶がない。

 資料を漁る前に、成り立ちについて以下の仮説を立ててみた。
 <1>鉄道の廃線跡をそのまま公園にした。
 <2>川や水路を暗渠にし、緑地化した。
 <3>火災の際に延焼を防ぐための防火帯だった。
 <4>桜並木横の道を交通量増加に伴い拡張した際、並木を保存して新たな車線を反対側に造った。

 ひょろ長い緑地の多くには<1><2>のケースが多いが、いくら調べてみても問題の場所に鉄道や川があったという事実は出てこなかった。ただ、昭和初期の地図を見ると、細いながらもこの時代から道はあり、周辺には現在以上に多数のため池が点在していたことがわかった。道沿いには田畑が広がっていたようだ。

 <3>に関しては、札幌の大通公園や長野県飯田市のリンゴ・桜並木など全国的には類例があり、飯田市の公式サイトにあった並木の写真は、西春町の桜並木によく似ていた。ただし、防火帯が必要だったほど一帯で火災が頻発していたという話は聞いたことがない。また、現在は住宅密集地帯だが、ここまで建物が増えたのは近年のことだろう。従って<4>が最も“くさい”とは思っているのだが、街の移り変わりを確認できる地図など確かな資料が見つかっていないため、残念ながら確定できていない。

【2014年6月20日追記】 福岡市と筑紫郡那珂町の合併30周年を記念して発行された『那珂南百年史』(1985)に、西春町の桜並木は「県に申し出て認可を受け、地元民に寄附を募って昭和三十二年に植樹したものである」と書かれていた。

 並木の成り立ちについてこれ以上の詳しい記述はないが、一帯の歴史を調べてみると、この付近から春日原に至る広大な区域で1941年から56年にかけ、県によって大掛かりな土地区画整理事業が行われていた。並木が整備されたのは、事業完成の翌年に当たることになる。

 並木の歴史は思いの外、古いものだった。あるいは土地区画整理事業の中で、県道56号線はシンボルロードなどとして現在の形に整備されたのだろうか。だとしたら、四つの仮説はすべて不正解ということになる。

 【2016年3月31日追記】 土地区画整理事業が完成した1956年撮影の航空写真で、県道56号線はこの当時から、2本の道路の間に空地がある構造だったことが確認できた。やはり区画整理事業の際に札幌・大通公園のような姿に整備されていたようだ。この空地に翌57年、地元住民が桜を植樹し、現在の桜並木ができあがったことになる。

 桜の咲いている時期の写真はこちらに。


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日拝塚古墳盗掘事件

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 福岡県春日市にある日拝塚古墳を撮影してきた。国史跡の前方後円墳で、全長は40㍍程。以前にこのブログで取り上げた老司古墳那珂八幡古墳と同じく、福岡平野を治めた首長の墓だとみられている。この古墳で1929年(昭和4年)、盗掘事件が起きている。初めて知った時は「間抜けな話だ」と思った。古墳というものは概ね盗掘に遭っており、昭和の時代に忍び込んだところで「副葬品など何も残っていなかっただろうに」と勝手に想像したからだ。ところが、事件を少し調べてみて驚いた。金銀製の装飾品をはじめ2,000点以上もの副葬品がこの時まで眠っていたという。古墳は6世紀前半の築造というから、約1,400年間も荒らされていなかったことになる。

 盗掘事件が起きたのは1929年6月7日夜から翌未明にかけてだと言われている。地元の男を含む3人組がひと儲けをたくらみ、あらかじめ掘り当てていた羨道から石室に侵入、副葬品をごっそり盗み出したという。古墳があるのは現在、住宅街のど真ん中だが、当時は農村地帯(古墳の当時の住所は筑紫郡春日村大字下白水官有地原野)。古墳は村人たちの信仰の対象だった。事件が起きた6月は農家にとって麦の刈り入れ、田植えが続く忙しい季節だ。3人組は「この時期なら気付かれにくい」と狙っていたのだろう。

 しかし、大切な場所を荒らされたことに村人たちはすぐに気付き、大騒ぎになった。激怒した村人たちは総出で犯人捜しを行い、3人組は副葬品を売りさばく暇もなく捕らえられた。

 この盗掘事件後、九州帝大の教授だった中山平次郎氏らが古墳の調査を行っており、金製耳飾り、金環、水晶製切子玉、馬具など計2,217点もの副葬品を確認している(『史蹟名勝天然記念物調査報告書 第五輯』福岡県、1930)。

 これらの副葬品はいったん石室に戻されたが、その後、東京に移送された。春日市の奴国の丘歴史資料館に金製耳飾りが展示されているが、これが地元に残された数少ない日拝塚古墳の出土品。大半は東京国立博物館が保管しているという。せっかく地元で出土した古墳時代のお宝なのに春日市民は目にすることもできない。事件当時と違い、現在では福岡にも立派な国立博物館があるのだから、そろそろ地元に戻してもらっても良いと思う。

 盗っ人たちが侵入した石室には現在、扉が取り付けられ常時鍵がかかっている。あらかじめ市教委に連絡すれば、見学可能だという。中山平次郎氏らの上記調査報告によると、「玄室の構造は單室にして本縣の他の玄室に比すれば簡單なる形式に屬し、奥行三米四〇間口二米二四許なる長方形石室」であるらしい。

 日拝塚の名前の由来については、彼岸の時期には東に16㌔程離れた大根地山の山頂から昇る太陽を眺めることができ、「日を拝む塚」として地元民に親しまれてきたためだと現地説明板に書かれていた。現在は史跡というよりも地域の公園といった雰囲気で、墳丘には人が通った跡が幾筋もあった。ずいぶん自由な国史跡だなと思い、私も危うく登ろうとしたが、裏に回ると「古墳に上らないで!」と書かれた立て看板がちゃんとあった。


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仙道古墳

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 福岡県筑前町久光にある国史跡・仙道古墳公園で少し意外な風景に出くわした。仙道古墳は6世紀に築造された2段式の円墳で、周囲は芝生広場として整備されているのだが、その広場がパークゴルフ場として利用されていたのだ。違和感を持たないではなかったが、地上にコースを設定しているだけに過ぎない。桜などを植樹して地下の遺構を破壊するよりも、よほど真っ当な利用法なのかもしれない。運悪くパークゴルフの大会でも開かれていたら、落ち着いて古墳の見学など出来なかったとは思うが。

 仙道古墳は圃場整備に伴い1977年、県教委による発掘調査が行われた。この調査によって2段式の円墳であることや石室内には円や三角形などの幾何学文様が描かれていることが判明し、翌78年5月には国史跡に指定されている。墳丘の直径は33m、外濠までを含めれば47mと結構な大きさだ。この古墳を含め、一帯には阿弥陀ヶ峯古墳群と呼ばれる約50基の円墳があるが、仙道古墳は中でも最大だという。

 この古墳公園にはパークゴルフ場のほか、もう一つ特徴的なものがある。墳丘の周囲や墳丘上にかなり大きな円筒形の埴輪が並べられていることだ。人の形をした埴輪は少々間の抜けた表情をしており、史跡公園としての重みを失わせているように思えるが、発掘調査によって出土した埴輪の忠実なレプリカらしい。しかも、この埴輪は“盾持武人埴輪”と呼ばれる貴重なもので、九州では出土自体が珍しいというから驚く。人はもちろんだが、埴輪も見かけだけで判断してはいけない。本物は町の歴史資料館に展示されているという。

 石室には幾何学文様が描かれ、そのレプリカが公園の一角に展示されている。明治時代に盗掘に遭い、発掘調査の時点では石室の天井石だけは抜き取られていたという。「珍敷塚古墳」でも書いたが、石材が乏しい筑後平野では業者が古墳を破壊したケースが多かったらしい。仙道古墳の天井石も恐らく、庭石などとして利用するため持ち去られ、文様が描かれた石材は商品としては使い物にならないため残されたのだろう。

 しかし、いくら石材不足だったとは言え、古墳、つまりは墓の石を庭石に使うなど趣味が悪すぎる気がする。たたりなどはなかったのだろうか。
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