# 旧聞since2009

# 福岡城復元、始動へ

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 一昨年6月から続いていた福岡城・上之橋御門跡の石垣修復工事がいつの間にか終わり、修復前に比べてかなり引き締まった石垣が姿を現している。福岡市は続いて、先頃策定した「国史跡福岡城跡整備基本計画」に基づき、長年の懸案となっていた福岡城跡の復元工事に本格的に取り掛かる。

 計画によると、城跡整備は今年度から15年がかりで行われる。潮見櫓、武具櫓、上之橋御門、本丸裏御門などの復元や現存する多聞櫓などの改修を短期(今年度から5年間)、中期(2019~28年度の10年間)の2期に分けて進めるという。このうち原案で真っ先に復元されることになっているのは、部材が解体保管されている潮見櫓だ。場所は、福岡簡保事務センター横の土塁上で、城跡の西端に当たる(写真下)。

 ただし、天守に代わるシンボル的建物を欲しがっている高島市長は、最大の櫓だった武具櫓復元に前のめりだと言われる(「福岡城の武具櫓」参照)。この櫓の復元は計画では中期に予定されているが、城跡整備に関する報道等を読む限り、武具櫓の方が優先されそうな雲行きだ。

 一方、長い間潮見櫓だと信じられてきたが、近年になって間違いだったと判明、現在では“「伝」潮見櫓”という紛らわしい呼ばれ方をしている櫓が下之橋御門横にある(写真下2枚目)。謎だったこの建物の正体を、市は太鼓櫓とほぼ断定したようで、本来あった本丸に中期で移築復元する計画だ。上之橋御門、本丸裏御門の復元なども中期で予定されている。これら城跡整備にかかる総費用は約70億円と見込まれており、市はうち3億5000万円を市民や企業からの寄付で賄う考えだという。

 70億円を事業期間の15年で割れば、1年当たりの予算額は4億7000万円弱。大きな金額であるのは間違いないが、一般会計予算が7000億円を大きく超える福岡市にとって捻出困難な額ではないはずだ。また、復元が予定される建物については古写真などの資料が比較的良好に残っており、史実を歪めない形での建設が十分に可能だろう。一見、福岡城跡の整備事業に大きなハードルはないようだが、少し気になるところはある。

 城跡整備は福岡市の長年の懸案だったとは言え、ここに来て急に具体化してきたのは、都市型観光の振興(ばかり)に力を入れる高島市長の存在が大きいと思う。しかし、高島市長の任期切れは間もなくで、11月16日には市長選が予定されている。高島市長の再選立候補は確実視されているが、色々と批判の多い人物だけに、盤石の選挙とはいかないだろう。万が一、市長交代があった場合、観光地づくりの側面が色濃い今回の福岡城跡整備は果たして無事でいられるだろうか。


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# 土手町拘置支所はどこにあった

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 2012年2月に「福岡拘置所史」という記事を書き、この中で福岡市土手町(現在の中央区大名2丁目付近、写真)に1916年(大正5年)から1965年(昭和40年)まで、福岡刑務所土手町拘置支所があったことを紹介した。土手町拘置支所は1965年、福岡刑務所が郊外の宇美町に移転した際、その跡地の一部に移った。これが現在の福岡拘置所だ。以上の記述は『福岡刑務所史』(福岡刑務所、1977)を参考にしたのだが、では、土手町拘置支所は中央区大名2丁目のどの辺りにあったのか? 不思議なことに、大正~昭和期の地図を見ても一切記載がないのである。

 下の地図は「福岡拘置所史」にも掲載した1948年(昭和23年)の福岡市街図だが、これによると、土手町には西から順に裁判所(福岡地裁)、内務省土木出張所、大名小学校が並んでいるが、拘置支所(この当時は刑務支所)はない。これより古い大正や昭和10年代の地図を見ても、土木出張所の場所が鉱山監督局、または鉱務署になっているだけ。土手町だけでなく、これらの地図を隅から隅まで探してみても、やはり土手町拘置支所の前身に当たる施設は見当たらないのである。思い悩んでいたところ、たまたま読んだ古い事件記事に拘置支所の場所に関する記載があった。

 事件とは1961年5月28日、白タク運転手を殺害して売上金を奪った事件で公判中だった当時20歳の被告(以下、Kと表記)ら5人が、問題の土手町拘置支所から脱獄を企てたというものだ。1階の雑居房に収容されていた5人は厚さ5㌢のコンクリートの床を、やはりコンクリート製の洗面台で破壊した後、トイレのくみ取り口を通って中庭に逃れた。そして、“隣接する福岡地裁の屋根伝いに”逃走を図ったという。

 つまり拘置支所があったのは福岡地裁の隣、しかも屋根伝いに逃げようとしたのだから、両者の建物はかなり近接して建っていたのではないかと思われる。恐らくは、地図では裁判所だけが記された場所の一角に拘置支所もあったと考えて間違いないだろう。1948年の地図では裁判所敷地は非常に狭く感じられるが、現在では中央区役所や複数のマンション、商業ビル、立体駐車場などが建ち並ぶ一角で、裁判所と拘置支所を収容するぐらいのスペースは十二分にある(一番下のGoogleマップ参照)。現在の中央区役所付近に裁判所があり、その西隣に拘置支所があったのではないだろうか。

 「福岡拘置所史」を書いた際にまとめた関係年表を一部加筆して以下に再掲する。

  •  1913年 福岡監獄が福岡市須崎浜から早良郡西新町藤崎(住所表記は異なるが、ほぼ現在の福岡拘置所所在地)に移転。須崎浜は女性の受刑者や未決囚らを収容する出張所として残る。
  •  1916年 須崎浜出張所が福岡市土手町に移転し、福岡監獄土手町出張所となる。
  •  1922年 福岡監獄が福岡刑務所に改称。土手町出張所は土手町刑務支所に。
  •  1948年 福岡刑務所に新刑場が完成し、死刑執行が可能に。これ以前は広島刑務所に移送し、ここでは行われていなかった。死刑執行刑務所指定は翌年。
  •  1965年 土手町拘置支所が福岡刑務所本所敷地内に移転する一方、本所は福岡県宇美町に移転。
  •  1967年 土手町拘置支所が福岡拘置支所に改称。
  •  1996年 福岡拘置支所が福岡拘置所に昇格。

 脱獄事件の顛末を記しておくと、5人のうち3人は気付いた看守によって拘置所内で捕らえられたが、Kと窃盗犯の2人は拘置所の高さ5㍍の塀を乗り越え、脱獄に成功した。記事には詳しく書かれていなかったが、あるいは裁判所の屋根から飛び降りたのではないだろうか。しかし、窃盗犯は1時間後には逮捕され、間もなくKも金を無心するため福岡市内の友人宅に現れたところを、張り込んでいた警察官に取り押さえられた。

 殺人未決囚の脱獄(未遂)騒ぎは福岡ではその後も起きており、このブログでも熊本大学生誘拐殺人事件の田本竜也(「死刑囚脱獄未遂」)、マルヨ無線事件の尾田信夫(「尾田信夫の行動力」)が起こした事件を過去に取り上げている。




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# 政務活動費の使途、福岡市議は

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 不透明な政務活動費の使途を追及され、“号泣県議”として一躍時の人になった野々村竜太郎・兵庫県議が辞職願を提出した。過去3年間に受け取っていた政務活動費約1800万円も返還する意向だという。兵庫県議会の政務活動費は一人月額50万円、年額600万円にも上る。にもかかわらず、いい加減な収支報告がまかり通っていたことに驚かされるが、それでも我が地元の福岡市議会に比べれば、兵庫県議会にはずいぶんマシな点がある。

 原則添付が義務付けられている領収書等の写しを兵庫県議会では誰でも簡単に閲覧することができる。だから、号泣県議が不可解な日帰り出張を繰り返していたことが閲覧開始と同時に暴かれた。これに対し、福岡市議会の場合はわざわざ情報公開請求をしないことには見ることができないのである。透明度はどちらが上かは言うまでもないだろう。

 福岡市議会の政務活動費の額は議員一人月額26万円で、年額312万円だが、会派所属議員に対してはこれに加え一人当たり月額9万円が会派に支払われる。従って議員一人が使える額は最高で年420万円。兵庫県議会の600万円(福岡県議会も同額)より少ないとは言え、議員報酬とは別に、サラリーマンの平均年収(2012年国税庁調査で408万円)を上回る金が支払われているのである。

 この金を福岡市議は何に使ったのか? 各議員や会派ごとの2013年度の収支報告書がこのほど公開され、ウェブでも閲覧できる。上がその写真だが、定型の用紙に金額を記しただけの極めて簡単なものだ。これを見る限り、広報費や事務所の家賃、スタッフの人件費などに多くが使われていることがわかる。

 ざっと調べただけだが、広報費としてホームページの管理費を計上しながら、2012年からまったく更新していない議員がいた。無料ブログではなく、ちゃんとしたサイトではあったので、サーバー利用料などはいるのだろうが。市政報告の印刷・発送だけで300万円近くを使った議員や、事務所のスタッフ経費に全額を注ぎ込んだ議員もいた。

 号泣県議でも問題になっているが、過去には福岡市議の中にも政務調査費(当時)で切手を大量購入したり、推理小説を買ったりした議員(いずれも引退)がおり、大きな問題となったことがある。冒頭書いたように情報公開請求しない限りは領収書の写し等は閲覧できず、使途の精査はできないが、報道機関ならばそこまでやるだろう。号泣県議のように脇が甘く、程度が低い議員は福岡市議会にはいないだろうと思うが、政務活動費を正当に使ったことを広く市民に証明するためには領収書等の写しを自主的、積極的に公開すべきではないだろうか。

 議会事務局が事務作業増を嫌がるならば、議員個人がそれこそホームページで公開したら良い。つまらない自慢話でしかない活動報告などを掲載するよりも、よほど議員活動の実態を伝える情報になることだろう。

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# 松田…なのか?

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 博多祇園山笠が7月1日開幕し、市内各所に飾り山がお目見えした。写真はソフトバンクホークスの選手が登場するヤフオクドーム前の飾り山だ。人形師の人には大変失礼ながら、毎年、人形を見ただけでは誰をモデルにしたのかさっぱりわからないが、今年は特に悩ましい。人形の写真を見て誰だかおわかりになるだろうか。

 最初の写真はサルがユニホームを着ているわけではない。ゴリラでもない。アンダーシャツの襟もとに書かれた「5」の数字でわかる。松田である。2枚目の写真は対照的にスッキリした顔立ちだが、こちらは長谷川だ。ホークスが誇る生え抜きの強打者2人だが、山笠人形の出来はずいぶん差があるように思え、少し松田が可哀想になった。あれでも現段階ではチームのホームラン王なのだが…。

 福岡の人には今さら説明するまでもないが、飾り山笠には必ず表と見送り(裏側を見送りと呼ぶ)があり、ヤフオクドーム飾り山の今年の見送りは「合戦大保原」がテーマだ。南北朝時代の1359年、南朝方の懐良親王、菊池武光と北朝方の少弐頼尚らが戦った九州最大の合戦で、「筑後川の戦い」とも呼ばれている。下の写真の一番上に飾られているのが懐良親王、その下の武将が菊池武光だ。

 筑後川をはさみ南朝方4万、北朝方6万の軍勢が対峙したと伝えられるこの戦いでは、激戦の末に南朝方が勝利を収め、武光は武名を轟かせた。「菊池神社」「菊池一族の首」で取り上げた菊池武時の跡継ぎに当たる人物だ。

 その「菊池神社」の中で、最後の福岡藩主・黒田長知が明治2年に武時を祭る菊池神社を建立した理由について、天皇の忠臣を称えることで「明治新政府に媚を売ったのではないか」と書いたが、少し違うのではないかと思い始めたので、この場で訂正しておきたい。

 幕末、武時を「楠木正成と並ぶ忠臣」として最初に顕彰を図ったのは平野国臣だったという。平野国臣とは福岡藩の下級藩士の家に生まれ、後に脱藩して勤王の志士として活躍した人物。欧米列強に対抗するためには、幕府を倒し、強力な統一政府を作るべしと早くから訴えてきたシャープな政治感覚の持ち主で、彼の主張が明治維新の原動力になったと評価する意見さえある(『類聚伝記大日本史』1935、雄山閣)。

 国臣は明治維新前の1864年(元治元年)に非業の死を遂げているが、明治新政府内の評価は極めて高いものだったと言われ、維新に乗り遅れ冷遇されていた福岡藩内には「国臣が生きていてくれれば」と嘆く声が多かったという。黒田長知が「明治新政府に媚を売る」ため奉ろうとした人物は、菊池武時ではなく、彼を再評価しようとした平野国臣の方だったのではないだろうか。黒田長知による唐突過ぎる菊池神社創建の理由は、南北朝時代に遡るよりも、幕末にあると考えた方が合理的な気がする。一番下の写真は、平野国臣を祭る福岡市中央区の平野神社。


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駄田泉

管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。