大浜流灌頂

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 博多に夏の終わりを告げるという「大浜流灌頂」が8月24~26日、福岡市博多区の大博町一帯で開かれた。流灌頂(ながれかんじょう)とは水死者や出産で亡くなった女性を供養する行事で、市の公式サイトには、宝暦5年(1755)の大風雨や、翌年の疫病流行で亡くなった人々を供養するため宝暦6年(1756)から大浜流灌頂は続いていると紹介されている。

 宝暦5年の大風雨がどんな災害だったのか調べてみると、『福岡県史 通史編 福岡藩(二)』(2002)の略年表に以下のように記されていた。

 <宝暦五年(一七五五)八月二四日 大風により上座・下座・夜須・御笠・嘉麻・穂波・遠賀・鞍手・宗像の各郡被害甚大。潰家二八三〇軒、死者四三人、斃牛馬一九匹、倒木一万五〇〇〇本(「黒田新続家譜」)>
 
 “大風”と表現されていることや、倒木が多数に上っていることから、恐らく風台風が福岡を襲ったものと思われる。ただ、水死者を弔うという流灌頂の性格を考えると、43人の死者の中には水難の犠牲者が含まれているのだろう。

 略年表に記載はないが、収穫前だった稲の被害も甚大だったと思われ、上記『福岡県史』によると、宝暦5~7年には凶作で米価が高騰し、庶民は飢えに苦しんだ。そういった状況の中でも藩外に米を売ろうとした米穀商がおり、これに怒った庶民が打ち壊し予告の貼り紙をするなど博多の町は不穏な情勢だったという。米穀商を説得して米売却を止めさせ、さらに庶民の救済を行ったのは博多の上層町人で、この頃は真の意味での自治が博多に根付いていたことがわかる。

 大浜流灌頂は昭和30年頃までは多数の露店が並び、放生会に匹敵する賑わいを見せていたらしい。今では地域の小ぢんまりした縁日といった規模だが、明治時代の絵師、海老崎雪渓によって描かれたグロテスクな武者絵が飾られ、異彩を放っている。武者絵が飾られている理由はわからないが、これだけでも見る価値はある。

 <追記>1935年(昭和10年)に博多区千代の松源寺住職だった佐々木慈寛によって編まれた『博多年中行事』には、流灌頂の由来について<これは享保十七年の大飢饉及び翌年の疫病の死者を合葬し供養したのに初まると云われてゐて、之は博多の夏祭の最後を飾る大祭である>と異説を記している。(『博多年中行事』は『新修福岡市史 民俗編一』に再録されている)
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岩窟弁財天で埋め立てを思う

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 福岡市西区、愛宕小学校裏の住宅街に「岩窟弁財天」という小さな神社がある。御神体の女神(弁財天)像は愛宕山(鷲尾山)麓の洞窟に祀られており、海の安全の守り神として古くから地域の尊崇を集めてきたという。現在は入り口付近がコンクリートで固められているため人工の構造物に見えるが、自然の洞窟で、江戸時代に貝原益軒が著した地誌『筑前國続風土記』にも登場している。

 <鷲尾山の北の麓なる海辺に岩窟有。蓋天工の成せる所にして、人力の開く所には非ず。其入七尺五寸許、横五尺余、高五尺余、口の広さ中間は小に低く俯して入。奥の間高さ六尺許に、内に石厨有り。弁才天の石像を安置す。>

 江戸時代は弁財天のある辺り、つまり愛宕山のすぐ下は博多湾だったことがこの一文でわかる。洞窟も恐らく、波の浸食によって出来た海蝕洞だったのだろう。現在の海岸線は、直線距離で1㌔以上先。2枚目の写真は愛宕山山頂にある愛宕神社境内から麓に広がる風景を撮影したものだが、この弁財天がある地域の先には姪浜炭鉱跡地に出来た豊浜団地の戸建て住宅街、続いて海に面してマリナタウンのマンション街が広がっている。いずれも博多湾を埋め立てて造られた新たな土地だ。

 福岡市の公式サイトにある情報によると、明治時代以降に博多湾埋め立てによって生まれた土地は約1,813㌶。これに加えて江戸時代までに900㌶の埋め立てが行われたと推定されており、埋め立て地の総計は2,713㌶に上る。月並みな例えをすると、ヤフオクドーム(建築面積は約7㌶)387個分。福岡市の総面積(341㎢)に占める割合は約8%だという。

 かつては“海に背を向けている”と評され、ウォーターフロント開発には無頓着だったと言われる福岡市だが、この流れを変えたのは恐らく3代前の市長の桑原敬一氏(市長在任期間は1992~2004)だろう。桑原氏が在任中に手がけた大規模な博多湾埋め立ては、シーサイドももち(138㌶)、西福岡マリナタウン(74㌶)、香椎パークポート(136㌶)、人工島(400㌶)と計約750㌶にも上る。つまり明治以降の埋め立て地のうち、実に4割以上が桑原市政12年間の遺産だ。

 人工島事業の苦戦が災いし、桑原氏の都市経営策は失敗だったという印象が私には強いが、彼が創り出した土地を改めて見ると、近年の福岡発展を担った地や将来担うであろう地が並んでいる。後世には“名市長”と称えられている可能性もゼロではないと思った。
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室見川の殺人

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 写真は福岡市西部を流れる室見川。河川敷は緑地として整備され、土日祝日などは散歩やジョギングする人でにぎわう。いわゆる市民の憩いの場だが、この河川敷で8月17日深夜、男女の無職3人組が72歳男性を川に投げ入れ、殺害するという事件が起きた。事件現場は、ちょうど写真の辺りだと思われる。

 例によってインターネット掲示板などでは「修羅の国の日常」などと揶揄されているが、これほど冷酷な殺人事件は福岡でも滅多に起きない。しかも無職3人組は、被害者男性とのトラブルが目撃されているJR(地下鉄)姪浜駅から殺害現場の河川敷まで、タクシーを使って男性を連れてきたと報じられている。タクシー運転手は何の異変も感じなかったのだろうか。運転手が通報してさえいれば、男性は救えたと思えるが。これまで報道されている限りでは、警察は3人組の認否さえ明らかにしておらず、不可解な点が残る事件だ。

 逮捕された無職3人組は、現場から程近い福岡市西区福重5に住む高田千晶(55)、高橋久美子(43)と、佐賀県伊万里市松浦町桃川の山口亮(29)。高田と高橋は交際中だという。これだけの事件を起こした連中だから、恐らくたたけばほこりが出るだろうと思ったが、あくまでも私が調べた限りではあるが、高田と高橋についてはそれらしい“過去”は出てこなかった。

 しかし、山口亮は2008年に佐賀県沖の玄界灘で起きた密漁事件の容疑者の中に名前があった。5人組の犯行グループがウニやアワビなどを密漁、漁業法違反に問われた事件。当時22歳だった山口は密漁団の中では最年少で、下っ端的な存在だったのだろう。主犯格3人と違って山口は正式な裁判にかけられることなく、罰金50万円の略式命令が下っている。なお、密漁団が手にしたウニやアワビなどは20万円相当。しかも犯行が発覚して逃走する際、山口は分け前を草むらに投げ捨てたという。

 インターネット掲示板では、3人の間柄をヤクザ(高田)とその情婦(高橋)、舎弟(山口)と推測する書き込みがあるが、何となく違うような気がする。福岡に暴力団組員が多いのは確かだが、もっと多いのは生活保護を受けて公営住宅で無為徒食の生活を送りながら、「俺にはヤクザの知り合いがいる」と自慢している人間たちだ。72歳の高齢男性を相手に、後先考えることなく殺人事件を起こした無職の中年カップルには、むしろそんな連中のにおいがする。

 高田、高橋が西区福重5のどこに住んでいたかまでは報道されていないが、地図を見ると、福重5には市営住宅団地がある。室見川河畔から徒歩10分程度の距離。ついでだから市営住宅まで足を延ばしてきた。市営住宅の周囲には古いアパートも若干はあるが、目立つのは比較的新しい一戸建てや分譲マンション。無職の中高年2人が一戸建てや分譲マンションに住んでいたとは思われない。2人の住処は、やはり市営住宅ではないかと推測したが、ただ、間取りはファミリー世帯向けと思われた。単身者は入居が難しいかもしれない。それとも高田、高橋とも勝手に単身者だと思い込んでいたが、あるいは違うのだろうか。
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うきはの円形劇場、復元を検討

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 福岡県うきは市にある「道の駅うきは」に17日立ち寄った。普段は物産直売所前の駐車場を利用するのだが、この日は満車で、少し離れた第二駐車場に車を停めたところ、敷地の外れに「円形劇場由来」と書かれた市教委設置の立て看板があるのに気付いた。看板には以下の説明が記されていた。

 通称「円形劇場」と呼ばれているこの屋外劇場は、大正十四年(一九二五年)に建設されたものです。
 「野天でもいいから数千人が一堂に会されるものがほしい」と言う嫩葉(わかば)会の提案が受け入れられ、山春村あげての奉仕と浄財によって建設されました。
 完成式は十一月二十三日の山春村招魂祭の日、工事報告の後、演説会があり、前舞台では青年相撲が披露されました。
 ギリシャ式のこの「円形劇場」はロマン・ロランの「民衆劇論」にある民衆のための新しい劇場そっくりに、野天公会堂兼劇場として安元知之氏を中心とした嫩葉会の設計によるものです。
 写真でわかるように、観覧席から見下ろす位置に舞台があり、当時としては画期的な野外劇場でした。


 連れがこの説明を読んでいたところ、近くで草刈りをしていたと思われる地元の方々が「この円形劇場は日本初のもので、現在、復元に向けて取り組んでいるんですよ」と話しかけてこられた。予備知識がない私たちにはさっぱり理解できなかったが、帰宅後に嫩葉会や円形劇場について調べてみて事情がつかめてきた。
 
 「円形劇場由来」は固有名詞が唐突に出てきて不親切極まりない文章だが、安元知之氏とは、山春村(後に合併で浮羽町→うきは市)の開業医だった人物。彼が地元の青年たちに「農作業に明け暮れるだけでなく、文化的な楽しみを持ちたい」と懇願され1923年(大正12年)に結成したのが日本初の農民劇団と言われる嫩葉会だ。嫩葉会は、安元氏の自宅2階大広間を改装した舞台で、旗揚げ公演となった菊池寛作の「屋上の狂人」など約4年の間に50作以上の戯曲を上演した。この取り組みは全国的にも反響を呼び、評判を聞いた詩人のサトウハチローが視察にもやって来たという。

 円形劇場は、嫩葉会の新たな拠点となるはずだった4,000人収容の巨大な野外劇場で、現在は「道の駅うきは」がある小高い丘の一角に建設された。しかし、安元氏は円形劇場での公演を待たずに37歳で病死。指導者を失った嫩葉会の活動は間もなく下火になり、円形劇場も現在では跡形もない――というのが嫩葉会や円形劇場の大ざっぱな沿革だ。

 「道の駅うきは」で出会った方々は、この円形劇場復元に取り組んでおられるわけで、もっと詳しい事情を知りたいと思い、市教委の文化財担当者に話を聞いたところ、劇場復元を提唱しているのは同市名物の棚田保全に尽力してきた民間団体。まだ、検討が始まったばかりの段階らしいが、うきは市の行政サイドも復元への取り組みを側面支援する考えだという。

 【追記】嫩葉会が正式に解散したのは1927年(昭和2年)8月30日。同年12月28日の読売新聞文芸欄には小説家・湯浅真生の「農民劇の諸問題(上)」と題した寄稿が掲載され、嫩葉会の解散について大きな事件として取り上げている。以下に一部を抜粋する。

 <大正十二年の春菊池寛氏の「屋上の狂人」を試演してより以来、内外の作品六十餘種を上演し、これまで何等この種の教養を有たなかった、農村の人々に近代劇を或る程度まで理解せしめ得た功績は決して小さいものではなかった。だが、この劇團も、創立以来五年を経て遂に解散をした。これも本年度に於ける大きな事件として數へなくてはならない。
 去る八月三十日夜半に『起てよ若者我等。永久の光に幸を求めて…』の會歌を合唱して青年達が悲壮な閉會の式を行ふまにではいろんな経緯はあったものゝ、この會の創立者であり指導者であった安元知之氏の死は、到底劇團の存續を許さなかった。
 最初に本紙によって紹介されてより忽ち文壇の注目をひき、續いて全国的にその存在を知られた嫩葉會は、斯うして全くその跡を絶つことになった。>

 筆者の湯浅真生とは後に“ひとのみち教団”(現在のPL教団)に入信し、幹部となった人物。記事中にもあるが、嫩葉会が全国的な注目を集めるきっかけとなったのは、彼の読売新聞への寄稿だったようだ。

 【後日譚】「遺構が残っていた円形劇場」
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修学旅行土産の酒

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 今年の夏、高校の修学旅行以来、数十年ぶりに岐阜県高山市に行ってきた。修学旅行の際は仲の良かった数人と高山の街を巡ったのだが、剣道部のS君がわざわざ旅先でナンパをしていたのが印象深かったぐらいで、街自体の記憶はなかった。この夏の旅行から帰宅後、撮影してきた写真を修学旅行の写真と見比べたら、巡った場所はほとんど同じだったことがわかり、ようやく少しずつ思い出がよみがえってきた。

 そう言えば、高山の古い街並みで買った土産は、親からのリクエストに応え地酒だった。今ではあり得ない話だと思うが、当時は小学生が親の使いで当たり前に酒を買っていた。学生服姿の高校生がレジに酒を持ち込んでも、店の人から「お父さんへの土産かい。親孝行だね~」と褒められるぐらいだったのだ。コンビニで酒を買えば、私のような中年男でさえ年齢認証を求められる現代からすると、良く言えば、おおらかな時代だった。

 通っていたのは比較的厳しい学校だったが、意外に生徒を信用していたのか、男女を問わずかなりの数の生徒が酒を買い込んでいたのに、その後の検査など一切なかった。旅行中に酒瓶のふたがなぜか開いてしまった男子生徒が少なからずいたし、そもそも土産になるとは到底思えないサントリーレッドのポケット瓶を買った者さえいたのだが…。

 私は帰宅して中身が少し減った地酒を親に渡したところ、ずいぶんと怒られた。ただし、その理由は「小遣いとは別に酒代をしっかり渡しているのだから、最初からもう一本買ってこい」というとんでもないものだった。

 私の修学旅行の思い出はこの程度のかわいいものだが、私より年上のいわゆる団塊の世代あたりになると、笑い話では済まなくなる。1970年代前半頃までの京都の繁華街は、夜になると修学旅行でやって来た高校生であふれ、無法地帯と化していたとか。彼らは当たり前にスナックで酒を飲み、挙げ句の果てに乱闘騒ぎを起こしていたというから無茶苦茶な話だ。

 この手の高校は、我が福岡をはじめ北海道や東北など遠来組が多かったという。某球技で共に有名な地元・京都の高校と東北の高校とが激突したこともあったといい、まるで“夜の熱闘甲○園”である。こういうのは「おおらか」とは言わない。
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平和ぼけしたクマゼミ

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 先日の夕方、日課の散歩をしていた際、猫が街路樹につかまり立ちして何かをじっと見つめている光景に出会った。何事だろうと街路樹に目を向けると、猫の視線の先にクマゼミが止まっていた。地上からの高さはせいぜい1㍍程の場所。ずいぶん無防備なセミだと呆れたが、最近は低い場所に止まり、しかも人間に対してほとんど警戒心を持たないクマゼミを見かけることが多くなった。2枚のクマゼミの写真は、いずれもスマホで撮影したものだが、かなり近付いて写したにもかかわらず、どのセミも一向に逃げる気配がなかった。試しに何度か手づかみで捕らえてみたが、成功率はほぼ100%だった。

 ネット上には似たような体験を語っている人が少なからずおられるが、私がセミ捕りに明け暮れていた小学3、4年生の頃、クマゼミとはこんな平和ぼけしたような生き物では決してなかった。4年前の記事「福岡のセミはミンミンと鳴かない」でも書いたが、当時はニイニイゼミやアブラゼミに比べてクマゼミは希少な存在で、しかも彼らがワシワシ鳴いているのはおおむね木のてっぺん近くだった。短い捕虫網では捕えられるはずもなく、クマゼミ捕りの必需品は先端にとりもちを付けた長い竹竿だった。

 出来る限り木に登ったうえで、そこから思い切り竹竿を伸ばしてクマゼミを狙ったものだが、あっという間に逃げられるのが常。運良く捕らえることが出来ても羽にとりもちがべったり付き、引きはがす際に羽が破れたものだった。

 考えてみれば、セミはカブトムシやクワガタのように飼育を楽しめる昆虫ではなく、私自身も昆虫採集の標本作りといった高級な趣味を持っていたわけではない。なぜ、あれほどセミ捕りに熱中していたのか今となっては謎だ。私が中高年となってようやく到達した境地に、現代の忙しい子供たちはすでに達しているのだろう。今ではセミ捕りをしている子供など滅多に見ることはなく、クマゼミたちは代を重ねるに従い人間への警戒心を薄れさせていったのではないだろうか。

 最近、地元紙・西日本新聞夕刊に掲載されている電話投稿コーナー「テレホンプラザ」で、なぜ、近年クマゼミが増えたかについて議論が交わされていた。近年の都市の温暖化が南方系のクマゼミにとって幸いしたというのが定説らしいが、テレホンプラザでは「都市化で土が固められ、幼虫の掘る力が強いクマゼミだけが環境に適応した」「他のセミに比べ飛翔力の強いクマゼミが鳥から逃れられる可能性が高い」といった意見が出され、なかなか面白かった。さらに興味深かったのは、クマゼミについて熱く語っているのはすべてが60、70歳代の方々だったという点だ。もちろん、これは新聞を読んでいるのが中高年世代が大半ということも影響しているのだろうが…。

 クマゼミたちは今も午前中は「ワシワシ、ワシワシ」と騒がしい限りだが、14日夕、福岡城址ではツクツクボウシが物寂しげに鳴いていた。盆を過ぎると、あっという間に夏休みの終わりがやって来る。

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白川郷と飛騨トンネル

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 台風11号が四国、近畿地方を縦断した10日、強い風雨にさらされながら岐阜県の白川郷にいた。以前から合掌造りの民家が連なる景観にひかれるものはあったが、“高山から車で3時間”という古い知識が災いし、九州人には簡単に行けない秘境だと思い込んでいた。ところが、2008年7月に東海北陸自動車道が全線開通して以来、アクセスは劇的に改善したという。高山から1時間足らず、名古屋からでも3時間程で行けると聞き、この夏は世界遺産の里を訪ねる旅を計画した。

 出発日の9日、台風接近が気にはなったが、今さら予定は変えられない。初日は高山に宿を取り、2日目、風雨が次第に強まる中を白川郷へ。高山から白川郷への道のりは飛騨トンネル(長さ10.7㌔)をはじめトンネルの連続。普段はこんな道は嫌いなのだが、この日ばかりは雨風を避けることができ、長大なトンネルに感謝した。飛騨トンネルのあまりの長さに興味を持ち、帰宅後に調べてみると、掘削工事は大量の湧水や軟弱な岩盤に阻まれ、日本の土木史に残る難工事だったとか。1997年7月の掘削開始から開通まで実に11年を要し、工事費も当初予定の600億円を大幅に上回る1000億円に上ったという。

 トンネルは片側1車線の対面通行のため、大型連休期間中などは白川郷や、同じく合掌造りで有名な富山県・五箇山へと向かう車で大渋滞し、トンネル内で事故が起きれば、大惨事につながりかねないと心配されているという。しかし、飛騨トンネル完成までに費やされた歳月と費用を思えば、もう1本トンネルを通して片側2車線化するのは相当困難な話だと思える。

 ところで、肝心の白川郷。無事にたどり着くことはでき、しばらく現地で台風11号が過ぎ去り、天候が回復するのを待ったが、台風の歩みは遅く、むしろ風雨は強まるばかり。ついには散策など到底不可能な天候となり、早々と退散せざるを得なかった。雨に煙る集落を何枚か写真に収めるのが精いっぱいだった。

 この白川郷の景観、観光パンフレットなどでは“日本の原風景”と紹介されていることが多く、私も無批判に受け入れてきた。しかし、旅行後に読んだ一文によると、白川郷が日本の原風景などと表現され出したのは比較的近年のことで、1935年(昭和10年)に白川郷を訪ね、合掌造りの素晴らしさを世界に広めたドイツの建築学者ブルーノ・タウトはその景観をスイス的と表現し、柳田國男も「西洋風」と評したという(神田孝治・和歌山大学観光学部教授『白川郷へのアニメ聖地巡礼と現地の反応―場所イメージおよび観光客をめぐる文化政治―』)。

 柳田國男が白川郷について言及したのは、紀行文『秋風帖』だと思われ、この中で確かに柳田は<里の家は皆草葺の切端なり。傾斜急にして前より見れば家の高さの八〇%は屋根なり。横より見れば四階にて、第三階にて蚕を養ふ。屋敷を節約し兼ねて風雪の害を避けんために、かヽる西洋風の建築となりしなるべし>と記している。国内各所を巡った柳田にとっても見慣れない風景だったということだろう。言われてみれば、白川郷の景観は国内では他にない極めて特異なものだとは思うが、“日本の原風景”論にすっかり毒されてしまった目には、もはや西洋的とは見えない。
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