# 旧聞since2009

# 庚寅銘大刀

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 2011年9月、福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄製大刀に、庚寅など計19文字の漢字が刻まれていることがX線検査でわかり、福岡では大きな話題となった(「庚寅の年号を刻んだ大刀」)。それから3年数か月。市埋蔵文化財センター(博多区井相田2)による錆落とし作業が終わり、金象嵌の文字が姿を現した。同センターで3月31日まで無料公開されている。この手の施設としては太っ腹なことに、写真撮影も自由だ。

 19文字とは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□(最後の一文字は不明だが、練と推定されている)。刻まれているのは刀の背の部分で、文字の大きさは5㍉前後。「庚寅の年の正月六日庚寅の日、12回も(何度も)叩き鍛えて刀を作った」といった意味らしい。

 庚寅の年とは西暦570年に当たるというから、1445年前に作られたことになるが、我々現代人にもほぼ判読可能な字体だ。センター配布資料によると、古墳から出土した銘文のある刀剣は国内3例目だというが、この大刀の文字は毛筆で書いたような丸みを帯びた書体で、トメやハネ、曲線なども見事に表現され、格段に美しいという。

 埋蔵文化財センターなどは大刀について、少なくとも重要文化財級、場合によっては国宝級の価値があるとみているらしい。単に刻まれた文字が美しいからではなく、我が国での暦の使用を示す最古の文字資料に当たるからだ。

 庚寅銘大刀を見た後、隣の大野城市に足を延ばし、「新川緑地帯」を歩いてきた。福岡藩政時代の運河跡を埋め立てて造られた遊歩道で、総延長は約800㍍。運河は寛文4年(1664年)、朝倉地方と福岡城下とを結び年貢米を運ぼうと計画されたが、工事困難のためいったん中止に。後にルートを二日市~城下間に短縮して工事が再開され、寛延4年(1751年)に竣工したが、「水量乏しく十数年で廃止した」と現地の説明板にあった。

 実は小学生時代、近辺に住んでいたことがあり、埋め立て前の姿を覚えている。2枚あった説明板のうち、1枚には「新川は魚の名所でした。深い淵、清らかな新川の流れは、魚の絶好の住家だったのです」という住民の思い出が記されているが、これは生活雑排水が流れ込んでいなかった時代、恐らくは高度成長期前の話だろう。私の記憶にある新川は真っ黒に汚れたドブ川で、釣りはおろか、遊ぶ子供さえ見たことはなかった。

 その汚いドブ川が藩政時代に開削された運河跡であるなど、当時は知るはずもない。私が無知な子供だったのは間違いないが、新川の歴史を語る大人など教師を含め誰一人としていなかった。当時の地元の認識はやはり、汚いドブ川でしかなかったのだろう。皮肉なことに、その歴史にスポットライトが当てられたのは消え去った後のことだ。よくある話ではあるが。


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 写真の説明板とは別の場所に、緑地帯の来歴を記したタイルが貼られており、「旧太宰府往還にそって瓦田区石ヶ町から筒井1丁目まで藩政時代の運河跡が『新川』と呼ばれて残されていましたが、昭和54・55年度の都市公園化工事で埋められ『新川緑地帯』と名付けられて遊歩道となりました」と記されている。

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 説明板の地図に、二日市から吉松、大利、雑餉隈などの船着場を経由して川端に至る新川のルートが描かれている。各船着場からの運賃が記録に残っているため、ルートが推定可能だという。

新川

 大野城市のサイトに、市内の今昔を紹介する写真のダウンロードコーナーがあり、個人利用は可能とあったので、借用させていただいた。撮影年は不明だが、私が記憶する新川の風景はこの写真に近い。水路掃除を記録した写真なのだろうか。「秦病院」という大きな看板が写っているが、地元では大きな病院で、現在もある。
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# 大塚惟精と福岡藩刑場跡碑

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 福岡市中央区の天神中央公園に「福岡藩刑場跡」と刻まれた大理石の石碑があり、背後には墓石らしきもの(以下、墓石)が数基置かれている。現地には説明板などなく、どんないわれがあるのかさっぱりわからないが、中央区役所のサイトには以下のように紹介されている。

 (略)昭和の初め、この地に福岡県知事公舎があったころ、僧侶の幽霊が出るとの噂が広がりました。時の大塚惟精(いせい)知事が調べてみたところ、江戸時代に空誉上人(くうよしょうにん)が処刑されていたことが分かりました。
 早速、大塚知事は公舎の庭の隅に小祠を建て、手厚く供養しました。その名残がこの跡碑だと思われます。(以下、略)

 天神一帯は江戸時代、黒田藩重臣の屋敷が建ち並んでいた場所。このうちの明石家(子孫に日露戦争中の諜報活動で有名な明石元二郎がいる)の屋敷跡に1876年(明治9年)、県庁舎が建設された。105年後の1981年(昭和56年)、県庁は東公園に移転し、跡地に建設されたのがアクロス福岡と天神中央公園。つまり天神中央公園があった場所は藩政時代は屋敷町だったわけで、複数の郷土史家が「ここに刑場があったはずがない」と主張している。

 天神中央公園は現在でも県が管理している。そこで県に石碑の由来について尋ねたところ、区役所サイトとほぼ同内容の回答が返ってきた。空誉上人を弔う祠が建立されたのは1927年(昭和2年)で、県庁移転に伴い、跡地に中央公園を建設することが決まった際、祠では支障があるため石碑に造り替えたのだという。ただ、墓石の正体については資料がなく、回答できないとあった。

 資料が散逸したのか、それともあの墓石は県が関知しないところで何者かが勝手に設置したのか。大塚知事がこの場所を空誉上人処刑の地と見定めた経緯を含め、わからないことが多すぎる石碑だ。少なくとも「福岡藩刑場跡」というのはミスリードする名前だと思う。“空誉上人慰霊碑”みたいなものに変更したうえで、設置までの経緯をわかりやすく紹介する説明板を設置してはどうだろうか。墓石だけでなく、廃棄されたと思える石材なども周囲に散在しており、もう少し片付ける必要もあるだろう。

 祠を建立した大塚知事は熊本出身で、東京帝大出の官僚の中でも「十人並の秀才ではなく断然秀才であった」(『民政党の陣営より―政界人物評伝』角屋謹一、文王社、1930)と評された程の頭脳明晰な人物。福岡県知事の後には内務省警保局長(現在の警察庁長官)、中国地方総監(県知事の上に位置する内務官僚)などを歴任している。略歴からは幽霊騒ぎを鎮めるため祠を建立するような人物とは思えないが、意外に信心深かったのだろうか。

 彼が福岡県知事の座にあったのは1926年9月から翌年5月までの極めて短い期間だった。その理由は憲政会(後の民政党)の若槻礼次郎内閣の抜擢により福岡県知事となったが、同内閣が倒れ、代わって政友会の田中義一内閣が1927年4月に発足すると、石川県知事への転属を命じられ、怒って辞表を出したらしい(『詳説福岡県議会史 大正編下巻』1957)。在任期間は実質7ヶ月だったというから、空誉上人を弔う祠は彼が福岡に残した数少ない足跡と言えるだろう。亡くなったのは中国地方総監在任中の1945年8月6日。日付でわかるように、広島で被爆死している。

 空誉上人は藩政時代初期の福岡の高僧。処刑された理由は、藩を出奔した後、「大坂の陣」で大坂方に加わった後藤又兵衛との内通が疑われたためなど諸説ある。

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# ノンアルコール日本酒

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 2011年10月に「ノンアルコール焼酎」というタイトルで以下のような話を書いた。

 私は大酒飲みで、毎日自宅でベロベロになるまで飲んでいる(金がないので外では飲まない)。風呂上がりの発泡酒やハイボールに始まり、食事中はカップ酒か焼酎、気分がいい時はこの全種類を制覇することさえある。
 (中略)
 いい年をしてこんな生活を送っていて、体にガタが来ないわけがない。9月ごろから心臓がバクバク言いだし、少しは酒量を控えることにした。まず風呂上がりの一杯をノンアルコールビールに変えた。物足りない味だが、のどを潤すだけならば事足りる。問題は晩酌。ここで今まで通りガンガン飲んでいたら意味はない。「ノンアルコール焼酎でもあればいいのに」とバカなことを思っていたら、本当にあった。近所のスーパーにそんな変な飲み物が売っていたのである。(以下略)

 酒量を控えるためノンアルコール焼酎を飲んでみたが、期待はずれだったという話で、結局のところ私の酒量は何も変わらなかった。あれから3年数ヶ月、心臓をバクバクさせながら酒を飲み続けた結果、最近は少し歩いたぐらいで息切れするようになった。さすがに焦り、今度こそ週2、3日程度の休肝日を設けることにした。きっぱり禁酒できればいいのだが、たばこ(10年以上前にやめた)に続いて酒まで断っては生きる楽しみがかなり減る。

 休肝日と言っても飲み物なしでは食が進まない。そこで今回登場したのはノンアルコール日本酒「月桂冠フリー」である。昨秋発売された際には結構話題となった商品だ。だが、九州人には需要がないのか、近所では売っておらず、インターネット通販で12本セットを取り寄せた。本当は試しに1、2本買いたかったのだが、仕方がない。

 さて、味である。ノンアルコール焼酎・ワインで痛い目に遭っているので、正直なところ、まったく期待していなかった。そして、案の定だった。薄い砂糖水に少し酸味を加えたような微妙な味。ただ、日本酒特有の香りは結構再現されており、“よろしくない日本酒”を飲んでいると思えば、我慢できないレベルではない。当たり前のことだが、「寒山水」や「国菊」(いずれも福岡のうまい地酒)の代わりにはなるものではなかった。

 ノンアルコールなどでごまかすことなく、休肝日は茶でも飲んでいればいいのだが、性懲りもなく次は焼酎抜きのホッピーを試している。最近はなぜか、福岡でもホッピーとキンミヤ焼酎が売られており、私もたまに『酒場放浪記』の吉田類さん気分で焼酎のホッピー割りを楽しんでいるのだ。そのままのホッピーはこれまた物足りない味わいだが、それでも数あるノンアルコール飲料の中ではこれが一番ましな気がしている。

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# 「青陵の泉」像の行く末

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 福岡市中央区の九州大六本松キャンパス(旧教養部)跡地でいま、木下大サーカスの公演が行われている。6.5㌶の跡地のうち、国道202号線に面した北側の2.1㌶は昨年、JR九州がUR都市機構から取得した。買収額は117億円にも上り、福岡ではちょっとした話題となったが、JR九州は2017年度中の完成を目指し、ここに2棟の複合ビルを建設する計画だという。その割にはサーカス会場に貸し出され、ずいぶんのんきな開発だなと思ったが、着工までの間の土地有効活用なのだろう。

 跡地に新たに誕生する街は「青陵の街・六本松」と名付けられており、南側街区には裁判所など司法機関の移転が計画されている。北側街区にJR九州が建設する2棟の複合ビルの概要については、まだ正式発表はないようだが、1棟には福岡市の青少年科学館と九州大の法科大学院が入居することが事前に決まっている。福岡市の公表資料によると、この建物には他に有料老人ホームや商業施設の入居が計画されているようだ。

 「青陵の街」という名前は、教養部の前身・旧制福岡高校の同窓会「青陵会」にちなむ。六本松キャンパスにはかつて、同会によって建立された「青陵の泉」、または「青春乱舞」という名のブロンズ像があった。キャンパス解体の際に撤去され、その行く末が気になっていたのでURにメールで尋ねたところ、像は敷地外で保管しており、JRが開発する側の街区に設置される予定との回答をもらった。「青陵の街」を名乗るぐらいだから、粗末に扱われることはないだろうとは想像していたが、あるいはこの像が新たな街のシンボルとなるのだろうか。旧制福高と九州大六本松を記憶する数少ないモニュメントにもなるだろう。

 像の制作者についてこの機会に調べたところ、福岡県美術界の重鎮だった安永良徳(1902~70)という方で、生まれは横浜だが、もともとは福岡藩士の家柄。中学修猷館を経て東京美術学校で学び、中央で活躍していた彫刻家だが、戦後は地方の美術振興のために敢えて福岡にとどまり、数多くの作品を残したという。西公園にある幕末の志士、平野国臣像もその一つ。1968年に完成した「青陵の泉」像は、旧制高校生が手ぬぐいを手に応援歌を歌いながら乱舞する姿を表現したもので、最晩年の遺作に当たる。(参考:『青春群像 さようなら六本松 一九二一福高――九大二〇〇九』九州大学さようなら六本松誌編集委員会編、花書院、2009)

 「青陵の泉」像の写真は、キャンパス解体前の2010年4月に撮影。相当ピントが甘い写真だが、手持ちはこれしかなかった。二度と戻らない風景はきちんと記録しておくべきだった。

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# 東福岡新チーム始動

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 福岡県高校ラグビー新人大会の3回戦が18日行われ、全国高校ラグビーで3年ぶり5度目の優勝を飾った東福岡の新チームが初戦に臨んだ。花園優勝メンバーの大半が3年生だったため、新チームの力がどの程度のものだろうかと思い観戦に行ってきた。相手は初戦を80-5で突破した筑紫台。両校は昨秋の全国大会予選4回戦でも顔を合わせ、東福岡が121-0で完勝している。新チームでも力の差はあるだろうとは想像していたが、東福岡の強さは想像よりも一段上だった。前後半合わせて27トライを奪い、実に183-0(前半89-0、後半94-0)での圧勝だった。

 試合はスクラムなどのセットプレーや密集での攻防が極めて少ないものとなった。キックオフのボールを東福岡がキャッチし、そのままノーホイッスルトライを奪うという繰り返し。筑紫台も果敢にタックルにいくのだが、東福岡は花園でも見せた展開力と選手個々の突破力でやすやすと防御網を切り裂いていった。

 次の4回戦(準々決勝)で東福岡と対戦するのは、県内では長年ライバル視されてきた筑紫だ。全国大会と同時期に開催され、“裏花園”とも呼ばれるサニックスワールドユース交流大会の予選会で準優勝(決勝は常翔学園に5-32で敗れる)、この日の新人大会3回戦でも東福岡の次に登場し、城南を95-0で退けた。新チームの始動が早かった分、仕上がりは恐らく東福岡よりも上だろう。FW陣の体格もほぼ互角。4回戦にはもったいないカードだ。東福岡も楽には勝てないだろうとは思うが、きょうの試合を見る限り、今年も東福岡を止めるのは全国どこのチームであっても容易ではなさそうだ。

 東福岡はこの冬、ラグビーだけでなく、春高バレーでも優勝を飾ったほか、サッカーも優勝候補として選手権に出場し、高校スポーツ界で注目を集めた。どんな学校か関心を持っている方がおられるかもしれないので、校舎の写真も撮影してきた。しばらく見ない間にずいぶんきれいな校舎が建った。きょうの新人戦会場となったのは東福岡のグランドで、ここは美しい人工芝だ。


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# 不思議な原尻の滝

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 先日、大分県豊後大野市にある原尻の滝に初めて行ってきた。「平野の真ん中に突如現れる滝」として有名で、滝というものは普通、山間部にあり、見上げるものだと思っていたが、ここでは田んぼが広がる平野部から豪快に流れ落ちている。規模こそ小さいながら、見た目が似ているということで「東洋のナイアガラ」などという安っぽい呼ばれ方もされている。

 規模は小さいと書いたが、それはナイアガラと比較してのことで、半円形に広がる滝の長さは120㍍、落差は20㍍。上から見下ろしても、河川敷に降りて下から見上げても結構な迫力だ。落差はともかく、長さは私が見た中では最大級の滝だろう。なぜ、こんな不思議な滝が誕生したのか? 予備知識もなく行ったため、河道が途中で陥没してできたのだろうと勝手な想像をしたが、現地でもらったパンフレットなどによると、9万年前に起きた阿蘇大火砕流の堆積物が冷えて固まり、柱状の割れ目(柱状節理)が入った巨大な凝灰岩台地となった。やがてこの柱状節理が緒方川の流れによって徐々に削られ、垂直の崖が出来たということらしい。

 滝つぼもかなりの広さで、夏にはボート遊びなどもできるようだ。10年ほど前、滝つぼに飛び降りた女性が亡くなり(自殺を図ったわけではない)、現在は飛び込み禁止だが、地元の人らのブログなどを読むと、子供たちは昔、当たり前に飛び込んで遊んでいたという。しかし、20㍍の高さから飛び降りるとはかなりの度胸だ。ビルで言えば、6~7階。高所恐怖症の私には到底考えられない。

 高所恐怖症と言えば、原尻の滝の正面に架かった、その名も「滝見橋」という吊り橋は相当怖かった。高さは滝と同じ約20㍍。100㍍を大きく超える九重夢大吊橋(大分県九重町)、照葉大吊橋(宮崎県綾町)を踏破してきたのだから、「これぐらいの高さだったら楽勝」と勇んで渡り始めたのだが、これが相当揺れる上に、何より板を張っただけの床を見て足がすくんでしまった。滝を見るどころではなかった。

 原尻の滝を後にしたのは夕方だったが、ついでだからと近隣にある岡城址(大分県竹田市)まで足を延ばしてきた。この日の有料入場者(登城料は大人300円。巻物風のパンフレットをもらえる)の最後が我が家だったと思う。こちらは約10年ぶり2度目。建物は全て取り壊され、郭と石垣が残るだけだが、たかだか7万石の居城だったとは思えない壮大な規模の山城跡は散策しがいがある。と言っても日没が近付き、薄暗くなった城跡をうろつく者など我が家以外になく、相当怪しい存在だったに違いない。


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# 「よど号」事件のバカな思い出


 45年前のあの時、親に逆らっても見に行けば良かったと時々悔やむことがある。1970年3月に起きた「よど号」ハイジャック事件だ。当時、事件の主舞台の一つとなった福岡空港(当時は板付空港)近くに住んでおり、小学生だった私は米軍機を見に自転車でよく通っていた。その板付で大事件が起きたとテレビで大騒ぎなのである。中身はよく理解できなかったが、とにかく大事件ならば野次馬は行かねばならない。そう親に告げて板付に向かおうとしたところ、「このバカちんが!」とひどく怒鳴られ、断念させられた。

 私が向かおうとしたのは米軍機見学の定位置だった空港西側のフェンスだが、考えてみれば、あの事件の最中に小学生が近づけたかどうか怪しい。仮にたどり着くことができても、何一つ目撃することできなかっただろうと理解はしているが、日本最初のハイジャック事件の現場に立ち会う(?)チャンスを逃したかと思うと、やはり残念である。

 それにしても板付絡みの大事故や事件があの頃はよく起きていた。このブログでも取り上げたことがあるが、1968年6月に米軍板付基地所属のファントムが九大構内に墜落(
「ファントム引き降ろしの真相は?」)、69年4月には米軍偵察機が離陸に失敗し炎上した(「板付基地で米軍機炎上」)。そして70年に「よど号」事件。今思い返しても当時の福岡は騒然としていた。

 その「よど号」ハイジャック犯らのグループが昨年10月から「何でもアリ!?よど号のyobo-yodo」というアカウントでツイッターを始め、激烈な批判が殺到しているという報道があったので、のぞいてきた。確かに「今更どの面下げて戻ってくるのか?多くの人に迷惑掛けて好き放題したくせに。二度と戻ってくるな」といった厳しいコメントが並んではいたが、コメント自体がそれほどの数ではない。開設から3ヶ月で4,200を超えるフォロワーを集めてはいるが、朝日新聞などで大扱いされた割に注目度は低い様子だ。多くの国民は今さら「よど号」グループなどに興味はないのだろう。

 ツイートは電子メールで日本国内の支援者に送り、支援者が月1回更新するという仕組みらしい。下に一部を紹介したが、最初は小西隆裕のツイート。彼は1944年7月生まれらしいから、現在70歳。二番目は、グループのリーダーだった田宮高麿(1995年に病死と伝えられている)の妻、森順子のもの。脳天気なツイートだが、衛星放送が見られて、鍋も囲めるという暮らしぶりは見て取れる。「よど号」グループが監視下にあるとは言え、物質的に恵まれた生活を送っていることは度々報道されてきたが、それは現在も変わらないようだ。

 彼らがわざわざ日本国内に向けてツイッターを始めたのは、老境に入って望郷の念が募る中、日本国内での支援者・理解者を増やしたいという狙いがあるらしい。森のツイートにある元旦に死んだ仲間とは田中義三のことだろう。日本に送還後、懲役12年の判決を受けた田中は、熊本刑務所収監中に癌が見つかり、2007年1月1日死亡した。息を引き取った場所は病院だったが、事実上の獄死。日本には帰りたいが、かと言って田中のように刑務所で一生を終えたくない――という彼らの本音が透けて見える。それにしても彼らにツイッターを許した北朝鮮側には何か思惑があるのだろうか。






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# 福岡城下町の発掘調査


 福岡市中央区の赤坂門交差点近くで、昨年暮れから発掘調査が行われている。JR九州のマンション建設予定地で、つい最近まで時間貸しの駐車場だった場所だ。現場前の貼り紙には「この遺跡には、江戸時代に城下町があった場所であり、この調査は当地域の貴重な歴史を解明し、文化財保護をはかる上で必要なものであります」と書かれている。調査は春頃までの予定らしい。

 いったいどんな遺構が出てきたのか、この説明だけではさっぱりわからない。そこで、この場所の歴史を調べてみたのだが、結論から言えば、例によって中途半端な結果に終わった。ただ、この過程で前々から私にとって“謎の存在”だった近くの別の場所の来歴がわかった。

 最初に発掘調査が行われている場所についてだが、こちらは『古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み』(宮崎克則・福岡アーカイブ研究会、海鳥社、2005)などで確かめると、江戸時代は福岡藩の重臣たちが屋敷を構えていた一角だ。同書によると、このうち中老だった斎藤蔵人の屋敷は文化12年(1815年)に火災で焼失し、跡地には藩の農政を一元的に担った郡役所が建てられたとある。発掘箇所は、この郡役所があった場所ではないかと思えるのだが、私が地図を読み誤っている可能性はある。

 この場所の明治以降の来歴を、さらにウェブ上の古地図でたどってみたが、1873年(明治6年)に大明小学校(後に大名小学校と改称)が建てられ、小学校移転後は武徳会の演武場があったようだ。Wikipediaによると、武徳会とは戦前、武道を統制した政府の外郭団体だったという。

 最近は前述したように駐車場として利用され、私はそれ以前の記憶がないが、1960~80年代の住宅地図を見ると、この時代は大林組の福岡支店が置かれていた。ただ、ちょうど発掘が行われているスペースには建物が描かれておらず、当時から駐車場として利用されていたのではないかと思える。だから遺構が残り、今頃になって発掘調査が行われているのではないだろうか。

 続いて“謎の存在”だった場所。個人宅なので詳しい場所の説明や写真掲載は控えるが、オフィス街のど真ん中にある民家で、広い敷地は鬱蒼とした木々に覆われている。いったいどんな場所なのだろうと疑問に思っていたのだが、発掘箇所の歴史を調べるためにめくった『大名界隈誌』(柳猛直・財部一雄、海鳥社、1989)に詳しく紹介されていた。

 ここに明治から昭和初年にかけてあったのは、九州帝国大学医学部耳鼻咽喉科の教授だった久保猪之吉の屋敷。赤煉瓦の塀に囲まれた大邸宅は当時、福岡で最も華やかな文化サロンで、NHK朝ドラで再び脚光を浴びている柳原白蓮も福岡滞在時は度々訪れていた。久保夫人と白蓮は当時の福岡社交界の華だったという。定年退官した久保が東京に移住後、屋敷は耳鼻咽喉科の後輩で、久保と同様に医者としても文人としても名高かった曽田公孫樹が買い取った。戦後には旅館となり、近くのキャバレー出演者らの定宿として繁盛したらしい。

 現在では何の変哲もない地方都市のオフィス街に過ぎない場所だが、その歴史は思いの外に面白いものだった。発掘調査の詳細についてわかれば、また取り上げたい。

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駄田泉

管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。