# 旧聞since2009

# 鴻臚館発掘一段落?


 福岡市中央区の平和台球場跡で1988年以来、延々と続いていた鴻臚館跡の発掘調査が一段落し、穴だらけだった調査地点が埋め戻されている。四半世紀にも及んだ大調査もこれで終了かと思ったが、市の計画表を確かめると、7期に分けて行われる調査のうち、ようやく5期が終わっただけだった。今後は舞鶴球技場、続いて移転する福岡地裁・高裁跡地の順で調査が進められる予定で、すべてが終わるのはなんと2027年度。まだ13年も先のことだ。

 鴻臚館とは平安時代初期、外国からの賓客を接待するために設けられた“古代の迎賓館”。平安京、難波にも置かれたと伝えられるが、現在までに遺構が確認されているのは、この平和台球場跡地だけだ。だから球場外野スタンド改修工事の際、礎石などの遺構が確認され、続いて唐三彩の破片などが出土した時は地元では大騒ぎになった。当時の市長も、長年親しまれてきた平和台球場を廃止してまで遺構の保存を決断せざるを得なかった。

 しかし、発掘調査がここまで長引くと、一時の市民の熱狂は薄れた感がある。住民の出入りが多い街だけに、今となっては鴻臚館跡の存在を知らない市民も多いのではないだろうか。また、発掘現場を上屋で覆った「鴻臚館跡展示館」(1995年完成、下写真)は「施設として寿命を迎えようとしている」という。

 もっとも発掘調査は今後も続くとはいえ、中核施設だった「客館」の調査はほぼ終わっており、今後は警固所や倉庫など周辺施設の遺構確認が主眼となるらしい。調査と並行して話し合いが進められてきた「鴻臚館跡整備基本構想」も年度内にはまとまり、これをたたき台に、新年度からは復元に向けた整備基本計画の検討が始まる予定だ。発見当時から話題に上がっていた鴻臚館の復元だが、非常にゆっくりとしたスピードながらも徐々に進んではいるようである。

 鴻臚館跡があるのは福岡城三の丸跡で、全国的に珍しい二重の国史跡となっている。福岡城も今後、本格的な復元が始まる。古代の外交施設と近世城郭、異質の遺跡をどう調和させて整備していくのか、結構見ものだ。


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# 30年後の発掘調査報告書

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 福岡城本丸の北東隅に祈念櫓というちっぽけな櫓が建っている。1918年(大正7年)に崇福寺(福岡藩主黒田家の菩提寺)に払い下げられ、一時は末寺の大正寺(北九州市八幡東区)で観音堂として使われていた。現在ある建物は1983年(昭和58年)に福岡市が買い戻し、本来あった場所に移築復元したものだ。この際に発掘調査が行われ、礎石と建物の主柱との位置が一致せず、大正寺観音堂として使われていた際に大きく改変されたことが確かめられた。東西の長さは半分程度に縮小されており、本来はもっと大きな建物だったという。

 その発掘調査の報告書が、なぜか調査から30年以上が経った昨年になって福岡市教委から刊行された。この種の報告書は普通、調査完了からあまり間をおかずに出されるものだと思うが、当の報告書には大幅に遅れた理由について「予算化されなかったことが大きな理由ではあるが、福岡市の文化財保護行政において近世遺跡に対する認識や評価が低いことも一因している」と記されている。要するに市教委内部では「刊行の必要なし」と認識されていたということだろう。そうでなければ、30年間も放置されていたはずがない。

 むしろ30年間刊行されなかったことよりも、今になって突如として刊行された事情の方が気になる。刊行が遅れた理由の裏返しで「予算が付き、近世遺跡に対する認識や評価が高くなった」ということなのだろうが、これは多分「国史跡福岡城跡整備基本計画」の策定が関係しているのではないかと思われる。この計画とは、福岡城に現存する建物を改修しながら、古写真や記録等が残る櫓、門などを今年度から15年がかりで復元していこうというものだ。昨年6月に策定された。この祈念櫓についても中期計画(2019~28年度)の中で「本来の姿への復元を修復整備と併せて検討する」となっている。

 祈念櫓を本来の姿に戻すには、改めて発掘調査を行う必要があるはずだ。その前提として移築復元の際に行われた発掘調査の報告書刊行が、例え30年後であっても必須と考えられたのではないだろうか。この時の調査は移築復元を優先するあまり、かなり不十分な形で終わったらしく、報告書も「祈念櫓跡或は祈念櫓構造の実態に迫る調査が行われたとは言い難く、今にして忸怩たる想いである。すなわち祈念櫓の規模・構造及び櫓台の状況を考古学的・建築学的に調査することを目的としたものでは無く、第一義的には北九州所在の大正寺観音堂を移築復元するための方策のひとつに過ぎなかった」と明らかにしている。

 「国史跡福岡城跡整備基本計画」策定の目的は「『国史跡福岡城跡』を適切に保存し、確実に次世代にその歴史的価値を継承することにより、本市の歴史・文化・まちづくりに資する」ためだという。個人的には観光地づくりの側面が大きいのではないかと思うが、すでに完了した上之橋御門跡の石垣修復工事に続き、現在では旧母里太兵衛屋敷長屋門の修復工事が始まっている(下写真)。母里太兵衛とは、黒田如水に仕えた精鋭「黒田二十四騎」の一人で、福島正則から名槍「日本号」を呑み取ったエピソードで有名だ。大河ドラマ『軍師官兵衛』では速水もこみちさんが演じていた。

 話は少し脱線するが、その『軍師官兵衛』で、黒田家に滅ぼされた宇都宮鎮房を演じた村田雄浩さんが昨年暮れ、宇都宮氏の故地・福岡県築上町に招かれトークショーを行ったところ、「殿、帰る」と大歓迎されたという。宇都宮鎮房という悲劇の武将に日が当たったのは良いことだった。


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# 西新駅にエレベーター

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 福岡市営地下鉄西新駅の出入口の一つ(下のGoogle地図のマーカーの箇所)が昨年11月から、工事のため閉鎖されている。工事の具体的中身は、現地掲示板にも市のサイトにも「出入口の上屋改良」とあるだけで、何のための工事か良くわからなかったが、恐らくはエレベーター新設工事だろうと推測していた。利用客が多いのに、この駅には専用エレベーターが設置されていなかったからだ。市の当初予算案が先頃発表されたが、ようやくこの中で「西新駅におけるバリアフリー動線確保のためエレベーターを新設する」と明らかにされた。予算額は1億2,000万円だという。

 市交通局が発表している2013年度の運輸実績によると、西新駅の1日の利用客(乗車客)は2万2,222人で、これは地下鉄全35駅の中で天神、博多、福岡空港に次いで4番目に多い。駅に隣接する商業施設「プラリバ」のエレベーターを利用可能ではあったが、プラリバがあるのは目抜き通りの明治通りをはさみ南側。車いす利用者らの中には相当の遠回りを強いられてきた人がいたはずだ。しかもプラリバは8月閉館が予定されている。エレベーター設置は必然だ。

 この駅の周囲には修猷館高校や西南学院中学・高校・大学があり、学生・生徒の利用も多い。中でも工事中の出入口は西南学院中高生が利用しており、ここにエレベーターが設置されれば、同校に安心して通えると喜ぶ車いすの子供たちもいることだろう。ついでだから、駅出口から通じる周辺道路に、もっとましな歩道を整備すれば、さらに喜ばれるに違いない。通学路・生活道路なのに、渋滞しがちな大通りの抜け道として使い、平気で猛スピードで車を走らせるドライバーが多いからだ。

 福岡市は歩道整備などにはあまり金を使いたがらず、ドライバーの“モラル”や“マナー”に訴えることでお茶を濁しがちだ。しかし、何十年も前から「福岡の運転マナーは最悪」と言われ、いまだに状況は変わっていないことが、モラル・マナー頼みの愚かさを証明している。あの福岡市政史上に残る珍事業「カワイイ区」は今年度限りで打ち切りらしいが、ほかにも予算の無駄遣いは多いことだろう。市民の安全にこそもっと金を掛けてほしいものだ。

 なお、西南学院中高の生徒たちにも「道いっぱいに広がって歩くのは迷惑だよ」と言っておきたい。こちらの方は学校側がきちんとモラルやマナーを教えれば、恐らく改善されるのではないかと思うが。写真は閉鎖された出入口。閉鎖期間は当初3月末までとなっていたが、いつの間にか6月末までに延びている。

 【カワイイ区】福岡市が2012年、公式サイト上に開設した仮想区で、ファッションなど市のカワイイものを情報発信する狙いだったらしい。高島市長と当時AKB48の篠田麻里子さんの対談をきっかけに誕生し、初代区長には篠田さんが就任した。しかし、「カワイイ区」という名前に対して「女性を容姿で差別するのか」という批判があり、篠田さんは数か月で退任し、福岡在住のカナダ人女性が2代目区長に就いていた。予算額は年間約1,000万円。

 この記事の続編はこちらに。


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# 城島酒蔵開き



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 福岡県久留米市城島町で14、15日開かれた第21回「城島酒蔵開き」に行き、“日本酒の新酒”をたらふく試飲してきた。心臓が弱っているうえに血糖値も高く、本当はこんな呑兵衛の祭典に参加できるような状態ではないのだが…。

 酒蔵開きには地元の九つの蔵元が参加。メイン会場には40種の新酒が並び、500円でお猪口で6杯まで飲み比べを楽しめた。ただ、お猪口程度では到底満足できない来場者が多かったようで、会場のあちこちでは買ったばかりの新酒の瓶を開けての酒盛りが始まっていた。酔いつぶれて寝てしまった人は1、2人見掛けたものの、誰もが笑顔で新酒を楽しんでおり、非常に良い雰囲気のイベントだった。

 ところで、冒頭でわざわざ“日本酒の新酒”と断ったのは、恐らく「福岡=焼酎」というイメージを持っている人が多いだろうと思ったためだ。信じ難いかもしれないが、昭和の一時期、福岡は灘、伏見に次ぐ日本酒生産量を誇ったことがある。現在では都道府県別で10位以内にも入っていないようだが、今なお各地には多数の酒蔵が残り、かつて酒どころと呼ばれた頃の名残をとどめている。

 それなのに、なぜ福岡の日本酒の知名度が低いのかと言えば、造った酒の多くを灘の大手酒造会社に桶売りし、自前のブランドを育てなかったためだと言われている。つまり福岡の蔵元は灘の下請け的な存在だったのだ。

 しかし、日本酒の消費量が右肩下がりとなってその地位が揺らぎ始め、さらには顧客だった灘の酒造会社が1995年の阪神・淡路大震災で被災し、一時買い入れを中止したことが大打撃になったと聞いた。城島酒蔵開きが今年で21回目ということは、まさに1995年に始まったことになる。震災を契機に、城島の各酒蔵が自前のブランドで勝負を始めたという見方もできるだろう。

 私が学生だった昭和時代の後期、福岡の学生たちが初めて口にしていた酒はビールと日本酒で、コンパと言えば、大きな薬缶に入れガスコンロでカンをした日本酒が付き物だった。鹿児島、宮崎出身の友人たちが当たり前に焼酎のお湯割りを飲んでいるのを見て、カルチャーショックを受けたぐらいだ。「福岡=焼酎」というイメージが現在あるのは否定しないが、それは比較的近年に作られたイメージであることを強調しておきたい。酒蔵開きの盛況を見れば、ここはまだ「日本酒文化圏」に片足を突っ込んでいる気もする。


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 飲み比べは、40種の新酒をA(普通酒~本醸造酒)、B(純米酒)、C(吟醸酒~大吟醸酒)の3クラスに分け、各クラス2杯までを飲める仕組みだ。

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# 昭和の生き証人だった「さくら寮」

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 先日書いた
「新川緑地帯にあった石碑」の中で、緑地帯から程近い大野城市の住宅街に昔、「さくら荘」という巨大な木造アパートがあったと紹介した。恐らくこの建物に関する記録など何も残っていないだろうと思っていたが、たまたま図書館で手に取った『大野城市巡杖記』(赤司岩雄、2002)にかなり詳細な記述があり、私がとんでもない勘違いをしていたと知った。真っ先に訂正しなければならないのは名前で、「さくら荘」ではなく「さくら寮」だった。(『大野城市巡杖記』著者の赤司岩雄氏は『大野城市史』の副編纂委員長)

 「寮」という名前でわかるように、完成当初はアパートではなく従業員寮だった。しかもどこの寮かと言えば、太平洋戦争中の兵器工場、陸軍小倉造兵廠の春日原分廠だ。分廠は1943年(昭和18年)、春日原競馬場の跡地(「春日原競馬場の毒餅事件」参照)に完成したが、北九州から転勤してくる従業員や徴用工員の宿舎が絶対的に不足していた。このため久留米の旅館業者が急ぎ建設したのが「さくら寮」だったという。

 『大野城市巡杖記』によると、建物は「木造二階建で北側の道路に面して玄関があり、□の字形に建てられ中央は吹き抜けの広場になっており、中央広場に面して廊下が一周してこの廊下に各戸の入り口が設けられ、一階は六帖と四帖半二間が一世帯分で約二十世帯あり、二階は四帖半一間のワンルームを主として三十世帯ほどであった」という。

 寮完成から2年後には終戦を迎え、春日原分廠が閉鎖されたため、一時お役御免となった。しかし、50世帯が入居できる巨大アパートは貴重な存在だったのだろう。程なく大陸からの引揚者の一時収容施設として活用されることとなった。つまり「さくら寮」とは、戦中・戦後の歴史を深く刻んだ戦争遺産とも言うべき貴重な建物だったのだ。

 私の記憶にある寮は、威圧感を覚えるほど巨大で黒ずんだ建物で、また内部の雑多な状態から、「新川緑地帯にあった石碑」の中では「今思えば、香港の九龍城を思わせるような雰囲気を漂わせていた」などと書いた。しかし、寮の歴史を知った今では、そんな薄っぺらな表現で語るべき建物ではなかったと恥ずかしくなる。

 入居者の減少と老朽化により、この歴史の生き証人が解体されたのは1974年頃。ちょうど私が大野城市から引っ越した直後のことで、その後何十年もこの街を訪ねたことはなかったため、取り壊しを知ることもなかった。写真は寮の跡地付近。昔から住宅街だった場所だが、私が住んでいた頃には点在していた空き地や田畑が姿を消した。一帯を歩いても記憶と一致する風景はほとんどなかったが、唯一、夏休みのラジオ体操会場となっていた神社だけがかつての姿をとどめていた。


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# 旧伊藤伝右衛門邸

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 飯塚市幸袋の旧伊藤伝右衛門邸に11日行ってきた。“筑豊の炭鉱王”と呼ばれた伝右衛門が1897年(明治30年)頃に建造した豪邸で、飯塚市が日鉄鉱業から買い取り、2007年から一般公開している。

 入場者数は最近、じり貧気味だったというが、昨年放送されたNHKの朝ドラ『花子とアン』に、伝右衛門やその妻だった柳原白蓮をモデルとした人物が登場したことで、一気に人気がヒートアップ。昨年は、前年の5倍近い24万人が押し寄せ、過去最高だったという。11日も旧伝右衛門邸を主会場に「いいづか雛のまつり」が開催中だったこともあり、大変な人出だった。

 旧伝右衛門邸は、所有していた日鉄鉱業が「飯塚市が有償で購入しなければ、解体する」と言い出し、一時は存続の危機に陥っていたが、保存を求める市民の声に押された市が2005年、1億5,000万円で敷地を買い取った経緯がある(建物は無償譲渡)。1億5,000万円とは大変な金額だが、日鉄鉱業側の言い値は当初4億5,000万円だったとも言われており、これでも3分の1に値切ったことになる。

 そうは言っても財政難の飯塚市にとっては大変な出費であり、さらには管理運営経費も多大とあり、先行きが心配されていた。1年目こそ23万人を超える入場者を集めたものの、一昨年は5万人まで激減。懸念が的中したとも思われたが、『花子とアン』が予想外の追い風となった。貴重な歴史遺産を無理してでも買い取り、保存を図ったことに対するご褒美なのだろう。

 昨年は大河ドラマも福岡と縁が深い『軍師官兵衛』が放送され、福岡市はこれに乗じて観光客を呼び込もうと躍起だったが、本当に美味しい思いをしたのは『花子とアン』の飯塚市だったのではないかと密かに思っている。


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 旧伝右衛門邸は入り母屋造り一部2階建てで、広さは約1,000平方㍍。1911年(明治44年)に伝右衛門が白蓮と結婚した際に大改築され、九州初の水洗トイレなども設置された。向かって左側の2階部分が白蓮の居室。


 玄関を入ってすぐ左側にある応接室。ステンドグラスやマントルピースが備えられ、炭鉱王の豪奢な暮らしぶりが想像される。

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 飯塚市内では3月30日まで、18会場に約1万体の雛飾りを展示する「いいづか雛のまつり」を開催中。その目玉が旧伝右衛門邸大広間の座敷雛で、約20畳分のスペースに500体が飾られ、「京の雅な世界での花見」を表現している。会場にあった説明板によると、愛媛県八幡浜発祥の座敷雛を筑豊に働きに来ていた炭鉱労働者が伝え、これが旧伝右衛門邸には形を変えて残ったという。

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 大広間から伸びる長い廊下。突き当たりの左側に階段があり、白蓮の居室に通じている。右側には白蓮専用の衣装蔵があり、壁は驚くほど分厚いものだった。現代風に言えば、防火建築の巨大なウォークインクローゼットといったところ。現在は展示室として利用されている。

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 白蓮の居室から見た庭園。旧伝右衛門邸の敷地は7,500平方㍍で、広大な庭園は国の名勝にも指定されている。

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 浴室・脱衣場の鏡。純和風の建物ながら、調度類の多くは洋風だった。

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 旧伝右衛門邸の正門。現在の福岡市中央区天神2の昭和通り沿いにあった伊藤家の別邸、通称「銅(あかがね)御殿」の門を移築したもの。銅御殿は白蓮のために伝右衛門が増築したものだが、完成前に離婚騒動が起き、白蓮が暮らしたことはなかったという。別邸は1927年(昭和2年)に漏電による火災で焼失、この門だけが難を免れ、往時の豪壮さを伝えている。

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# 新川緑地帯にあった石碑

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 先日、大野城市の「新川緑地帯」を歩いた際(「庚寅銘大刀」)、よくわからない石碑があったので写真に収めてきた。「春日原 停留所 運動場 道」と彫られている。

 帰宅してネット検索をしたところ、緑地帯の地元・下筒井公民館のサイトに石碑に関する詳しい説明があった。1924年(大正13年)4月に九州鉄道が開通し、春日原停留所(現在の西鉄春日原駅)が設置されるとともに、駅前には野球場・陸上競技場などが造られた。当時、この付近から駅に行くには雑木林を抜ける以外になく、このため草壁幸市という人が道路敷地と工事費を寄贈し、駅や野球場などに至る村道が建設された。これを記念して同年5月にこの石碑が建立されたという。

 野球場とは現在の春日公園球場のことではなく、西鉄ライオンズの練習場として使われ、1953年までは時折公式戦も行われていたという春日原野球場だ。所在地は春日市。現在、跡地は住宅地となっている。私の知る限り、球場の痕跡は何も残っていないが、そこから数百㍍離れた隣の大野城市に球場の存在を記憶する石碑があるとは面白い。

 春日原駅に通じるこの道は現在もあり、すぐ西側を走る県道112号線(福岡日田線)を越えれば、道の両側には商店街が広がっている。「庚寅銘大刀」の中でも書いたが、私は小学生時代、近辺に住んでいたことがあり、頻繁に通っていた道だ。当時の風景もおぼろげながら覚えているのだが、石碑については全く記憶がない。小学生が関心を持つような代物ではないのだろうが。

 石碑の西隣は現在、駐車場になっているが、私が住んでいた頃は木造2階建ての美容室があり、この向かいには酒店(同じ店かどうかはわからないが現在も酒店がある)や大衆食堂などが並んでいた。春日原駅から歩いてくると、ちょうどこの辺りで商店街は完全に途切れ、この先は住宅街だったように思う。

 その住宅街の中に、数十世帯が入居する巨大な木造アパートがあり、一帯の名物的存在だったことを強烈に覚えている。確か名前は「さくら荘」だっただろうか。今思えば、香港の九龍城を思わせるような雰囲気を漂わせていた(九龍城はテレビで見たことがある程度だが)。新川緑地帯を歩いた際、もしやこのアパートも残っていないかと思い、少し足を延ばしてみたが、さすがに跡形なく、跡地には戸建て住宅が並んでいた。この街も私が住んでいた頃とは様変わりし、あか抜けた雰囲気になった。

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# 日銀福岡支店建て替え

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 日銀福岡支店の建て替えが発表された。福岡市中央区天神の昭和通り沿いにあり、重厚な外観が街のアクセントともなっていた。今年で築64年。老朽化が建て替えの理由だ。全く縁のない建物だったため「惜しい」という気持ちはなかなか湧かないが、福岡からまた一つ古い建物が消え去っていくのは確かだ。

 建て替えのニュースを聞き、日銀福岡支店のウェブサイトを初めて開いてみたが、それによると、開設は1941年(昭和16年)12月1日。全国32支店の中で19番目の開設だというから比較的後発の部類だ。県内では北九州支店がこれより半世紀近くも早い1893年(明治26年)10月に開設されているというので、同支店のサイトものぞいてみた。初代支店長はなんと後に二・二六事件で殺害された蔵相、あの高橋是清だった。

 大阪に次ぎ全国2番目の支店が北九州、正確には現在の門司港に開設されたのは、九州鉄道会社が設立されるなど、同地が西日本経済の中心地に発展すると見込まれたためだという。当時の名称は西部支店(後に門司支店を経て北九州支店に)。ただし、開設当初は対岸の山口県下関市(当時は赤間ヶ関市)に仮店舗を置いており、門司港での業務開始は1898年(明治31年)。この時、高橋是清はすでに離任しており、“初代北九州支店長”と言いながらも、実際には北九州勤務はなかったことになる。

 ところで、北九州支店の情報に従い“全国2番目の支店”と書いたが、福岡支店の情報では大阪、函館に次ぎ北九州が3番目となっている。同じ日銀同士でなぜ異なるのか、不可解な話だが、函館支店のサイトには「明治26年(1893年)4月、『函館出張所』として開設」とあった。要するに函館は最初出張所だったため、北九州は支店として2番目を名乗っているようだ。金メダルではなくとも銅よりは銀の方が良いという感覚だろう。

 話を福岡支店に戻すと、現在の建物の完成は1951年9月で、日銀の支店・出張所としては初のコンクリート造りだったという。64年が経った今では32支店の中で最も古い建物となった。これはこれで金メダルではないかと思うが、築64年というのがかなり微妙ではある。築100年ならば、恐らく日銀も保存を考えたのではないだろうか。

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駄田泉

管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。