大野城跡散策

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 先日「油山市民の森」に行ったのに続き、今度は「四王寺県民の森」を散策してきた。福岡県大野城市、太宰府市、宇美町にまたがる四王寺山(標高410㍍)にあり、山中には国の特別史跡・大野城跡があることで有名だ。663年の白村江の戦いで敗れたヤマト王権が大宰府防衛のために築いた山城で、土塁の総延長は8㌔にも及ぶ。せっかくだから「百間石垣」「クロガネ岩城門」など城の遺構も見てきたが、地理に不案内なため相当遠回りするなど苦戦した。標高は低いうえに県民の森として整備されてはいるが、それでも山は山。あらかじめルートを確認しておくなど準備は必要だった。

 散策の起点にしたのは宇美町にある県民の森センター。実は大野城の遺構の多くが、大野城市ではなく宇美町側にある。元大野城市民の一人として、この事実を知った時は結構意外だった。筑紫郡大野町が1972年に市に昇格した際、大野市がすでに福井県にあったため、古くから有名だった山城の名を市名とした。この経緯を知るだけに、当然ながら多くの遺構が大野城市側に存在しているものと信じ込んでいた。


 最初に城内の倉庫跡と推定されている八ツ波礎石群、福岡市街地を一望できる展望台「博多眺め」などを巡った後、いったんセンターに戻って休憩。続いてアスファルト舗装された大城林道を通り、野外音楽堂経由で「クロガネ岩城門」を目指した。

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 「クロガネ岩城門」は2012年10月、九州歴史資料館の発掘調査により確認された大野城9ヶ所目の城門跡。城門は近年まで4ヶ所しか知られていなかったが、2003年7月の集中豪雨で石垣などが被災、この復旧工事に伴う発掘調査で新たに4ヶ所が発見された。しかし、江戸時代の絵図『太宰府旧蹟全図北図』には「屯水」(城の排水門)と「百間石垣」の中間点に別の城門が描かれており、まさにその場所から発見されたのがこの城門跡だ。

 すでに発掘調査が終わって埋め戻されているため、一見、山の斜面の岩場にしか見えない。しかも斜面はかなり急で、何のための城門だったのか、素人目には不可解な立地だ。発見前は九州歴史資料館にも「登城路を想定するには難がある」(『特別史跡大野城跡整備事業V下巻』(福岡県教委、2010)と城門の存在に否定的な見方もあったようだ。

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 続いて細く険しい山道を通って「百間石垣」に向かったが、本当は県民の森センターと福岡市街地方面とを結ぶ県道を通った方がはるかに近い。谷間に築かれた延長約180㍍(百間)の壮大な城壁で、高さは平均4㍍程。ここも集中豪雨で被災した場所だが、また一部破損したらしく、谷間の最上部に当たる石垣がブルーシートで覆われていた。

 帰路、県道沿いから「百間石垣」を見上げた。上から見下ろすよりも規模が良くわかる。家族からは「最初からこちらの道を通った方が楽だったのでは」と笑われた。良い運動にはなった。
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遠足はいつも油山だった


 福岡市の城南、早良、南区にまたがる油山に行き、「市民の森」を散策してきた。標高597㍍。いわゆる低山で、しかも中腹近くにある「市民の森」までは車で登ることができる。お手軽な山だと思われがちだが、麓から登山道を通って山頂を目指せば、意外にしんどい。小学生時代、遠足でこの山に良く登ったものだが、当時から標準体重オーバーの私にとっては難行苦行で、遠足の日が近付いてくると憂鬱で仕方がなかった。

 私が通った三つの小学校では、春に歓迎遠足、秋に鍛錬遠足に行くのが恒例で、鍛錬遠足とは即ち登山だった。最近の小学校では鍛錬遠足など行われていないらしいが、私が小学生の頃は、下手すると歓迎遠足まで油山ということさえあった。6年間を振り返っても、社会科見学で北九州市の八幡製鉄所に行った以外は、遠足では山登りばかりしていた気がする。

 油山以外で遠足に行った山は、太宰府、大野城市などにまたがる四王寺山(410㍍)、篠栗町の若杉山(681㍍)、筑紫野、太宰府市の宝満山(830㍍)、朝倉市の古処山(859㍍)、福岡、佐賀県境の脊振山(1,054㍍)等々。一番高い脊振でも1,000㍍を超えた程度だが、宝満山の長い石段、古処山の山頂付近の岩場などはかなりの難所だった。どの山も歴史をたどれば、修験者の修行場だったり、難攻不落とうたわれた山城があったりしたところ。眺望に優れ、見どころは多い。遠足で来る子供たちはいなくなっても、どこも登山客でにぎわっている。

 中でも油山は昭和初期から“市民の憩いの場”として整備が進められ、人気の行楽地となっている。豊かな自然と「油山十六景」と呼ばれる名所・旧跡を抱え、善しあしは別にして市営の観光牧場(油山牧場もーもーらんど)さえ設置されている。こんな場所が市中心部から車で20~30分のところにある。小学生の頃は鍛錬ばかりさせられ、名前を聞くのもうんざりだったが、最近では福岡市の貴重な宝ではないかと思い始めている。この山に遠足で行くのは近隣小学生の特権だったのかもしれない。

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 紅葉の名所、もみじ谷に架かる吊り橋。長さ52㍍、地上からの高さは30㍍。1969年、「市民の森」開設に当たり南区のご夫妻が寄贈し、78年に市が改修したと現地説明板にあった。吊り橋を寄贈するとは豪気だ。

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 春なのに真っ赤に染まっていたカエデ。野村モミジという品種だろうか。一番上の写真は夫婦石展望台から見た福岡市街地。山中に展望台は複数あるが、個人的には夫婦岩と片江展望台からの眺望が特に良いと思う。
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那珂八幡宮の絵馬堂

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 福岡市博多区那珂に那珂八幡宮という神社があり、この神社の鎮座する小山が那珂八幡古墳という福岡平野最古の前方後円墳であることを以前、紹介したことがある(「遊び場だった那珂八幡古墳」)。この神社の絵馬堂が見事だという情報があり、再訪してきた。なるほど絵馬堂の天井には所狭しと立派な大絵馬が飾られ、壮観の一語だった。

 「遊び場だった那珂八幡古墳」でも書いたが、小学生時代の一時期、近辺に住んでおり、この神社では毎日のように遊んでいた。2011年10月にも散策し、古墳の外観などを写真に収めている。にも関わらず、これだけ目立つ絵馬についてはおぼろげな記憶しか残っていなかった。情けないことだが、当時は関心がなく、目には入っても強く印象には残らなかったのだろう。

 掲げられている絵馬は、ざっと数えた限りで40数枚。題材は武者絵、それも合戦等の有名な場面を描いたものが多く、山笠の標題に通じるものがある。奉納者はすべて「那珂子供中」と書かれているが、絵自体はどう見ても子供の作品ではなく、明らかに専門家が絵筆を振るったものだ。

 2012年8月発行の『市史だより』がこれらの絵馬奉納について取り上げているが、それによると、那珂八幡宮氏子の子供たち(男児)が大みそかに家々を回ってご祝儀を集め、すべての家を回り終えた後、新たな大絵馬を奉納する習わしだという。少なくとも100年以上続く行事らしいが、近辺に住んでいた時はこんな伝統が残っているなどまったく知らなかった。

 那珂八幡宮があるのは那珂小学校の校区で、この学校は1,000人近くの児童が在籍する市内有数の大規模校だ。少子化の今では希有な存在だが、それでも絵馬に記された名前で判断する限り、氏子の子供の数は次第に減っているようである。このユニークな伝統を今後も受け継いでいくことができるのか、部外者ながら、気になる。


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絵馬堂は画廊だった

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 福岡市東区の筥崎宮、香椎宮に行き、絵馬堂を見てきた。最近読んだ『ふくおか歴史散歩』第6巻(福岡市、2000)に「大きな絵馬は、専門絵師が描いたものが多く、観賞画としての一面をもち、絵馬堂は、画廊としての性格をもった。古文書、古記録でわからない『時代の民俗、風俗』を理解するうえでも貴重な資料である」という一節があり、興味を覚えたのだ(上の写真は筥崎宮の絵馬堂)。

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 筥崎宮、香椎宮を選んだのは、いずれも福岡を代表する大きな神社であり、奉納された絵馬も恐らく多いだろうと考えたから。筥崎宮で最初に目に付いたのは、福岡ソフトバンクホークスなどがシーズン開幕前、必勝祈願に訪れた際に奉納した巨大絵馬だった。

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 絵馬堂には多数の絵が掲げられていたが、最も印象的だったのは上の絵。杜子春みたいな人物が白と灰色の2頭の象を連れている。恐らく有名な話の一場面を描いたものとは思うが、それが何かはわからない。白象の表情がいい。

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 博多湾での捕鯨の様子を描いたものと思われる2枚の絵馬も目を引いたが、残念ながら色あせが激しく、内容は良くわからなかった。保存状態が良ければ、まさしく“貴重な民俗・風俗資料”だっただろうと思う。

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 香椎宮に掲げられた絵馬は、筥崎宮よりも数が少なく、さらに保存状態が悪かった。唯一、鮮明だったのが上の絵馬。昭和4年の新嘗祭で献穀斎田に選ばれたことを記念、昭和51年に絵馬を奉納したことが記されている。

 私の小学生時代、地元の神社境内は学校の校庭と並ぶ貴重な遊び場で、土足で上がれる絵馬堂は雨の日のたまり場だった。あの頃によく眺めていた絵馬を民俗・風俗資料と考えたことなどなかったため、先の「絵馬堂は画廊」の一節を読んで“目から鱗”の思いだった。大型絵馬の貴重性に早くから着目し、データベース化を図った研究者によると、県内だけでも約1万点の大型絵馬が各地の神社などに残されているという。しかし、二つの神社を巡っただけだが、前述のように保存状態は万全ではなかった。もともと保存を前提としたものではないのだろうが、少し残念ではあった。
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スケートが得意だった福岡人

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 平成の初めごろまで、福岡市と周辺にはかなりの数のアイススケート場が点在していた。現在も存続しているオールシーズンのリンクは福岡市博多区のパピオアイスアリーナ(写真)ぐらいだが、以前はほかに東区の香椎スポーツガーデンや城南区の七隈ファミリープラザがあった。また、冬季限定で営業していたスケート場も天神の福岡スポーツセンターや津屋崎町(現・福津市)の恋の浦、犬鳴峠を越えて若宮町(現・宮若市)まで足を延ばせば、力丸スケート場が健在だった。

 これらの施設が全て同時期に存在していたわけではないが、あちこちにリンクがあったのだから福岡の子供や若者にとってアイススケートは比較的身近な娯楽だった。もちろん滑走料金に加え、スケート靴を借りる金も必要なので安い遊びではなかったが、小学生でも小遣いを貯めれば、時折は通える料金でもあった。

 私もローラースケート(現在のようなカッコいいシューズ型ではなく、靴に着ける台車みたいな代物)で鍛えた後、友達と誘い合って何度かスポーツセンターに行った。小学校のお別れ遠足は力丸スケート場だったが、こういった事情で小学6年生ともなるとスイスイ滑れる者が多く、本気で競走して「お前たち危ない!」と教師に怒鳴られもした。高校卒業の際もクラスでスポーツセンターに繰り出したが、男子連中は全員うまかった記憶がある。九州・福岡の人間の多くがスケートに親しんできたなど、他所の人にとっては恐らく意外な話だろう。

 福岡スポーツセンターは天神の再開発で1987年に閉鎖され、跡地はソラリアという商業ビルになった。一方、力丸スケート場は営業停止後、放置された施設が廃墟と化し、心霊スポットとなっていた。力丸スケート場の閉鎖時期については、「力丸ダム保険金殺人」という記事を書いた際に調べたのだが、まったく情報がなく、『若宮町誌』(2003)にさえ記載がなかった。

 しかし、この機会に古い新聞記事などを再度当たったところ、1996~97年シーズンの営業を取りやめ、そのまま閉鎖されたらしいことがわかった。 施設の老朽化や駐車場に暴走族が集結し治安上問題――などの理由だったという。事前に告知して廃業したわけではなく、気付いたら閉鎖されていたという経緯だったため、人々の記憶があいまいになったのだろう。

 現地にいったわけではなく、あくまでもグーグルアースで確認した限りだが、力丸スケート場の廃墟はようやく解体されたようだ。
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黒田綱之の墓所



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 福岡藩の第4代藩主になりそこねた黒田綱之(1655~1708)の墓が福岡市中央区天神3の少林寺にある。場所をわかりやすく言えば、親不孝通り(今では親富孝通りと書く)。飲食店やカラオケ店が建ち並ぶ一角に突如、山門が現れる。

 現在、墓所は一般人立ち入り禁止だが、境内にある案内板によると、昔は願い事をかなえたい人が多数参詣していた。その際、人々は墓石を削り取って舐めたり煎じて飲んだりしたため、墓は建立当初の高さの4分の1程になっているという。綱之が「自分の願いは叶えられなかったが、私の墓に真心を込めて祈るならば、願い事を叶えてやる」と言い残して没したためだと伝えられている。

 綱之とは、3代藩主・光之の嫡子として生まれたが、突如として廃され、30年以上も幽閉された後に没した人物。彼に代わって4代藩主となった実弟・綱政(1659~1711)に毒殺されたとも伝えられる。綱政に関しては以前、「ミイラになった黒田綱政」で取り上げたことがある。

 綱之が恐らくは恨みを残した死んだ後、綱政の跡を継ぐべき長男が1710年、29歳で早死し、その翌年には綱政も死去した。藩では綱之のたたりと恐れたという。菅原道真をはじめ、たたりをなすほどの強大なパワーを持つ怨霊は信仰の対象ともなってきた。綱之も死後、黒田家に続いた凶事が彼の怨念によるものと思われたことで、かえって人々の尊崇を集めたのだろう。いまわの際の言葉は後世の創作ではないかと思う。なお、綱之は生前に出家し、真言宗の僧侶となっていたが、墓がある少林寺は浄土宗の寺だ。

 案内板の説明にあるが、綱之が幽閉されていたのは現在の南区屋形原(やかたばる)。屋形原の地名の由来について、綱之の館があったためという説がある。しかし、綱之とほぼ同時代を生きた貝原益軒(1630~1714)は『筑前國続風土記』の中で「むかし此所に千葉探題の居宅有し故、屋形原と云」と書いており、屋形原という地名自体は綱之幽閉よりも古くから存在したと思われる。ただし、千葉氏は室町時代に力を持った豪族だったが、九州探題となったことはなく、益軒の記述自体は間違いだと指摘されている。

 先日、福岡城の復元整備に関して「単に建物の復元だけでなく、もっと福岡藩270年間の歴史にスポットを当て、物語性を付加していく取り組みが必要ではないだろうか」と偉そうに書いた(「閑散としていた熊本城宇土櫓」)。

 しかし、福岡藩の歴史を調べてみると、この綱之幽閉をはじめ、藩政初期の黒田騒動、多数の領民を餓死させた享保の飢饉、幕末の勤皇派の粛清(乙丑の獄)、「浦上四番崩れ」でのキリシタン迫害、明治になっての藩ぐるみでの偽札作り等々、名君不在の福岡藩らしく不名誉な歴史ばかりが目立つ。明治維新を導いた薩長土肥のように景気の良い話は少ない。個人的にはこれはこれで面白いとは思うが。

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心中偽装の保険金殺人



 福岡県筑豊地区に以前、赤池町という自治体があった。1992年に財政再建団体に転落したことで有名だが、その直前、町で発覚した凶悪犯罪も赤池の名を全国に轟かせた。小田義勝、益田千栄の2人が1億円の保険金をだまし取るため、男女を心中に見せ掛けて殺害したという事件だ。小田には死刑判決が下され、8年前に刑が執行されている。一方、益田は無期懲役判決を受け服役中。当時の新聞記事等によると、取り調べや裁判がかなり異例の経過をたどったことが目を引く。小田に死刑判決が言い渡された時、益田はまだ9年に及ぶ逃亡生活中だった。

 事件のあらましを紹介すると、1990年12月、赤池町の運動公園駐車場で乗用車が全焼し、中から若い男女2人の死体が見つかった。女性は町内に住む宝石店店員(当時20歳、以下Kさん)、男性は近隣の村の無職男性(当時27歳、以下Sさん)。いずれも首に刺し傷があり、これが致命傷とみられた。車内には男性が書いたとみられる「誘ったがバカにされた。死ぬ」という遺書めいたメモが残されていたことから、福岡県警は男性が無理心中を図ったものとしていったんは処理した。

 しかし、Kさんには1億円もの保険金が掛けられていた。しかも受取人が彼女の勤務していた宝石店経営者の益田だったことがわかり、県警が改めて捜査すると、次々に不審点が浮かんできた。まずKさん、Sさんの二人に接点が見つからなかった。また、車内に残された血の量が少なく、別の場所で殺害された後、車内に運び込まれた疑いが濃厚になった。益田と交際相手の小田が相次いで行方をくらましていることも判明。県警は数々の状況証拠から保険金目当ての心中偽装殺人だったとして91年10月、殺人、死体遺棄容疑で2人を指名手配した。ただし、保険金の請求自体は行われていなかったという。

 警察は2人の行方を突き止めることはできなかったが、指名手配から2年後の93年11月、小田が逃走先の埼玉で強盗致傷事件を起こし、逮捕された。翌年2月には福岡に身柄が移され、偽装殺人についての本格的取り調べが始まったが、異例の展開を見せ始めるのはここからだ。小田は事件について黙秘を貫いた。物証を得られないまま福岡県警は殺人容疑等で送検したが、福岡地検は犯行を立証できず、3月には処分保留で釈放せざるを得なかった。もっとも、釈放とは言いながら埼玉の強盗致傷事件の取り調べで身柄は拘束されており、小田は埼玉事件で懲役3年8月の実刑判決を受け、甲府刑務所に収監された。

 福岡県警が新たな証拠(小田に犯行を告白されたという親族の供述)をもとに、服役中の小田を再度逮捕したのは2年後の96年2月。今度は検察側も起訴に踏み切り、この年5月から福岡地裁で裁判が始まった。しかし、小田は公判でも黙秘を続け、弁護側は無罪を主張。長い裁判となったが、初公判から2年半が経った98年12月、小田から殺人の告白を受けたという親族の供述調書を証拠採用することに小田が突如として同意。続く公判では保険金目的に殺人であったことを自ら認め始め、2000年3月15日、福岡地裁(写真)は小田に求刑通り死刑を言い渡した。

 小田は判決当日から「上訴権を放棄する」旨の発言をしており、弁護団による量刑不当を理由とした控訴を自ら取り下げ、4月には死刑が確定した。ただ、Kさん、Sさんの殺害場所などについて小田は明らかにしておらず、事件の全容解明には至っていない中での死刑確定だった。

 小田が公判の中で「どこかで生きているはず」と証言していた益田が田川署に出頭してきたのは、この直後の2000年4月29日夜。小田の控訴取り下げを知り、「自分も出頭する気になった」と供述したと伝えられる。益田の取り調べで、Kさんの殺害場所は田川市の山中、Sさんは川崎町の山道だったことが判明した。Sさんは殺害目的のためだけに益田が直前に知り合い、おびき出したという。

 益田の弁護側は事件を計画し、首謀したのは小田であり、彼女の罪は幇助にとどまるとして減刑を求めたが、福岡地裁は2002年6月27日、益田も殺人に重要な役割を果たしたとして無期懲役判決を下している。事件当時は20歳だった益田だが、この時32歳。現在では45歳前後か。運よく仮出所できても、その時は還暦を大きく過ぎていることだろう。

 小田は2007年4月27日、福岡拘置所で死刑が執行された。この時59歳。事件当時の新聞に彼の顔写真が掲載されていた。いつごろ撮影されたものかはわからないが、凶悪というより神経質そうな風貌だった。いわゆる三白眼で、目つきは何となく暗い感じがしたが、恐らく若い頃は優男だったろうと思えた。黙秘から一転して犯行を認め始めた理由は明らかではない。弁護団にもほとんど心のうちを語らなかったという。
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民主系の共倒れ

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 統一地方選前段の投開票が12日終わった。結果が出た後に「今さら」の話だが、福岡市早良区の県議選・市議選で民主系の候補擁立がどうにも不可解に思えたので、書き残しておきたい。

 早良区の県議選は定数3に対し6人、市議選は定数9に対し10人の候補者で争われた。不可解だったのは、民主公認で2期連続当選していた現職県議の宮浦寛氏がなぜか市議選にくら替えし、民主推薦の無所属候補として出馬したことだ。一方、県議選には前回選挙で東区から立候補し落選していた地域政治団体「ふくおかネットワーク」代表の外井京子氏が民主推薦で名乗りを上げた。公認の現職候補がいるのだから、彼をそのまま擁立して戦えば良いと思うのだが、いったいどんな事情があったのだろうか。

 一般的に県議と市町村議とでは、県議の方が待遇はずいぶん上だが、福岡市議との比較ではそれほど大きな差はない(議員報酬は県議が月額89万円に対し福岡市議88万円)。また、政令市が県並みの権限を持っているため、政令市選出の県議については「何をやっているのかわからない」と一部で不要論さえある。まだしも有権者に働きぶりをアピールできるのは福岡市議の方だろうとは思う。しかし、現実に県議から福岡市議にくら替えしたのは、私が記憶する限り“落ちた人”か“不祥事で辞めた人”だけで、現職はいなかった。格は県議の方が上なのだろう。

 宮浦氏の公式サイトを見ても「次は 市政へ!」というキャッチフレーズはあるが、その理由についてはまったく語られていない。すべての新聞記事やテレビニュースを確認したわけではないが、宮浦氏の転身の事情について触れた報道もなかった気がする。唯一、ネット検索で見つかった地元ネットメディアの記事によると、外井京子氏の早良区転出の方が先に決まったらしい。東区の民主公認との共倒れを防ぐためだったとネットメディアは指摘しており、これが事実ならば、宮浦氏は自ら望んで市議選に転身したのではなく押し出されたということになる。ちなみに、ふくおかネットワークは福岡市長選で民主系の吉田宏氏を支援するなど民主党とは友好関係にある。

 前回県議選の東区、早良区の結果は以下の通りだ。
◆東区(定数4)
当 今林久(自現)25,419
当 大塚勝利(公現)21,352
当 佐々木徹(民現)17,065
当 長裕海(自現)16,619
落 外井京子(ネ新)10,762
落 橋本英一(共新)7,743
◆早良区(定数3)
当 古川忠(無現)26,912
当 新開昌彦(公現)20,673
当 宮浦寛(民現)15,764
落 松永洋幸(無新)9,334
 
 宮浦氏は3位ながら次点に大差を付けて悠々と当選していたが、自民党が候補を立てた場合は苦戦が予想された。一方、外井氏は他区とは言え1万票あまりを獲得しており、民主と福岡ネットワークの票を合わせれば、早良区での民主系の議席維持は可能と見込んだのだろうか。また、宮浦氏は早良区などを地盤とする元民主党代議士の秘書だった人物で、民主側が無理を言いやすかったのではないか、とも想像する。

 今回県議選の早良区の結果はこうなった。
当 大田満(自新)17,441
当 新開昌彦(公現)17,034
当 古川忠(無現)16,817
落 外井京子(無新)8,102
落 山内恵美子(共新)7,978
落 松永洋幸(無新)4,677

 外井氏の得票は、前回宮浦氏が得た票の半分強にとどまり惨敗。一方の宮浦氏も市議選は勝手が違ったのか、得票は4,734票で、最下位当選者に200票あまり届かなかった。こういうのも共倒れというのだろうか。(大田氏の名前を間違っていましたので、訂正しました)
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続・旧高宮貝島邸

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 4月8日の毎日新聞朝刊に小さな訂正記事が載っていた。

 <6日朝刊27面の雑記帳で「国内の商業炭鉱は姿を消した」とあるのは、現在も操業中の商業炭鉱があり誤りでした。>

 恥ずかしながら私も、国内にまだ炭鉱が生き残っていたとは、この記事を読むまで知らなかった。早速ネット検索してみたところ、財団法人石炭エネルギーセンター(JCOAL)のサイトに、北海道では今も8炭鉱が操業し、年間130万㌧を出炭しているとの情報が掲載されていた。

 年間2億㌧に迫る輸入量に比べれば、130万㌧は微々たる数字だが、原発停止により石炭火力発電の比重が増す中、北海道炭は再び脚光を浴びつつあるらしい。今年1月には札幌市の企業が石炭の露天掘りを始めるため、経産省の事業認可を受けている。新たに炭鉱が開かれるのは20年ぶりだという。

 JCOALのサイトには国内の石炭埋蔵量に関する情報もあったが、埋蔵量は確定分だけで48億9,900万㌧。推定・予想量まで含めれば、200億㌧を超えるという。輸入量のほぼ100年分だ。筑豊をはじめとする我が福岡県にもざっと15億㌧(確定分)が眠っているとされ、一瞬、「筑豊炭田を再建してはどうだろうか」とバカなことを思った。だが、国内炭鉱が次々に閉山していったのは、海外炭に価格競争で敗れたため。考えるまでもなく同じ歴史が繰り返されるだけだろう。現に北海道で生き残っている炭鉱の大半はコストが低い露天掘りで、坑内掘りは1ヶ所だけだ。

 福岡県宮若市にも1976年まで、露天掘りの炭鉱があり、経営していた貝島一族の邸宅が福岡市南区高宮に残っていることを昨年11月に紹介した(「旧高宮貝島邸」)。この頃は、邸宅を所有する福岡市の整備計画は一向に進展していない様子だったため、「我々市民が炭鉱王(の弟)の邸宅を目にできるのは、このままでは相当先のことになるだろう」と見通しを書いた。

 しかし、福岡市は今年度から、貝島邸を観光客のもてなしや市民の憩いの場として整備していくことを決め、932万円の予算を計上した。2年後の2017年度には完成させ、一般公開を始める予定だという。写真は深い緑に覆われた貝島邸の敷地で、この奥に邸宅が残る。眠っていた宝がようやく日の目を見る。

 蛇足ながら、毎日新聞6日朝刊の雑記帳とは、九州国立博物館でいま、筑豊の炭鉱画家・山本作兵衛の作品保存に関する展示が行われていることを紹介した記事だ。記事の最後の部分に「国内の商業炭鉱は姿を消したが、絵画は守られ続けている」とあった。
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閑散としていた熊本城宇土櫓

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 4月5日の日曜、熊本城に5年ぶりに行ってきた。年間約150万人が訪れるという有数の観光地だけに、この日も大天守は多数の観光客でごった返し、中国からの団体客と思われる一団も目立った。しかし、不思議なことに約400年前の築城当時から残る宇土櫓(国重要文化財、写真1、4、5枚目)はガラガラだった。1960年に復元された大天守の威容は「日本三名城」にふさわしく、最上階からの眺めも抜群だが、意地悪い表現をすれば、コンクリート製の和風展望台だ。“本物”の宇土櫓の閑散とした様子を見て、賛同はできないものの、福岡城に模擬天守を造りたがる人たちの気持ちが少しだけ理解できた。

 宇土櫓は三層五階建てで、高さは約19㍍。長大な廊下(武者走り、写真2枚目)を抜けると、梯子を立てかけたような急な階段があり、こちらも最上階まで上ることができる。眺望は大天守には及ばないが、ここから望む大小天守はまた圧巻だ(写真3枚目)。ただし、慶長年間に築かれた正真正銘の城なのだから、バリアフリーにはほど遠く、乳幼児を連れた人や高齢者が見学するのは厳しいだろうと思う。見学者が少ない理由の一端はこの当たりにあるのかもしれない。

 名称の由来については、関ヶ原の戦いで滅んだ小西行長の居城だった宇土城天守を移築したためという説が以前は流布していた。私もそう聞いていたが、現地説明板や熊本城公式ホームページによると、1989年に行われた解体修理の際に移築の痕跡は見つからず、完全に否定された。代わって現在では、小西行長の遺臣を加藤清正が召し抱え、彼らにこの櫓の管理を任せたため、という説が有力であるという。

 熊本城では1998年度から、加藤清正築城当時の姿に復元することを目的に大掛かりな整備事業が進められている。すでに本丸御殿大広間や飯田丸五階櫓など六つの建造物が完成。現在も2017年度の完成を目指し、さらに複数の櫓や塀復元の真っ最中だ。2006年度までは年間100万人に満たなかった城の入場者だが、復元整備や築城400年祭のイベント、九州新幹線の開通なども相まって急増、2008年度は過去最高の200万人を記録し、現在も150万人台で高止まりしている。私の住む福岡市が福岡城整備を急ごうとしているのは、熊本城の観光面での大成功に刺激を受けてのことだろう。

 一方で、この熊本城整備は文化庁から「史跡保護の視点に欠ける」と厳しい指摘を受け、地元の専門家からも「観光振興ばかりに力を入れ、まるでテーマパークだ」「復元と言うより史跡破壊に等しいケースもある」などと批判を浴びた経緯がある。文化庁のだめ出しを受けるまで、熊本市の城整備の担当部署には考古学や歴史に詳しい職員さえいなかったという。

 福岡市の場合、福岡城整備を担当するのは経済観光文化局の文化財部大規模史跡整備推進課。文化財部門はもともと市教委内にあったが、観光に力点を置く高島市長の意向で組織替えとなった。観光部局の中にある文化財部門とは胡散臭さを感じるが、職員は専門家がそろっており、熊本市と同じ過ちは犯さないだろうと思う。ただ、二つの城の復元整備計画を見比べると、福岡城は二番煎じになりかねないという危惧を感じた。名城の誉れ高い熊本城に対抗していくには、建物の復元だけでなく、もっと福岡藩270年間の歴史にスポットを当て、物語性を付加していく取り組みが必要ではないだろうか。いつまでも『軍師官兵衛』頼みでは情けない。


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