漁業権がない室見川

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 福岡市西部を流れる室見川の下流域はいま、シジミ採りをする人で(天気が良い日は)連日にぎわっている。聞くところによると、ここのシジミは結構大ぶりで味も良く、みそ汁にすると美味しいらしい。とは言え、曲がりなりにも150万都市の市街地を流れる河川。「本当に食べても大丈夫か?」と思ったが、市の公表資料によると、今年4月に計測した室見川下流のBOD(生物化学的酸素要求量=水の汚れ具合を示す指標の一つ)は0.9mg/L。環境省の水質基準では最高ランクのAA評価だという。

 シジミのみそ汁と言えば、東日本では出汁だけ取ってシジミの身は食べないのに対し、西日本では喜んで食べるという食文化の違いが良く語られる。私も九州の人間なので、必ず身を食べる方だが、首都圏に住んでいた時代は食べなかった。別に東京人ぶったわけではなく、お椀に入っていたシジミがおおむね小さく、食べること自体が難しかったのだ。九州で流通しているシジミは少し大げさに言えば、小さなアサリぐらいはある。

 シジミのサイズの東西格差が食文化の違いを生んだのではないかと思ったが、有名な島根・宍道湖産などは別にして、東西でそれほどサイズが変わるはずがない。これは発想が逆で、首都圏では出汁を取るだけなので小さなシジミが出回り、身を食べる九州などでは一定以上の大きさのものが好まれるという結論に達した。正しいかどうかはわからない。

 室見川河口は、この時期のシジミ採りだけでなく、春にはアサリ目当ての潮干狩り客で大にぎわいする。潮干狩りの際は入漁料などを漁協に支払うのが普通だが、ここは無料。室見川漁協が2008年3月末に解散しており、漁業権が設定されていないためだ。ただ、福岡市議会の会議録を読むと、漁協解散以前から潮干狩りなどは自由だったようだ。福岡市が漁協に補助金を出す代わりに、市民からは入漁料を取らない約束だったという。
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高祖山の洞窟

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 福岡市西区の叶岳(341㍍)から、同区と糸島市の境にある高祖山(416㍍)まで縦走してきた。最初に麓の今宿野外活動センターから叶岳に登った後、いったん道を引き返し高祖山を目指した。叶岳~高祖山の距離は4㌔強。険しい場所は所々あるが、きちんとした登山道が整備されている。私たちが歩いた日も小学校低学年らしき女児から高齢者まで、多くの人が縦走路をたどっていた。

 登山道の周囲は杉木立が続き、それほど変化のある道ではないが、高祖山山頂に近くにあった二つの洞窟は目に付いた。高祖山は奈良時代、吉備真備が築いた山城・怡土(いと)城があったところ。この山城跡を活用して中世には在地豪族の原田氏により高祖城が築かれた。最初はどちらかの城の遺構ではないかと思ったのだが、写真でわかるように岩盤がきれいに掘り抜かれており、むしろ防空壕のようだった。

 帰宅後にネット検索したところ、「哨戒所の防空壕」という情報があった。ただ、糸島市の公式サイトに糸島地区にあった旧軍施設が掲載されていたが、高祖山の哨戒所については情報がなかった。哨戒所とは空襲を警戒した防空監視哨のことではないかと思うが、監視哨があったとされるのは志摩岐志、二丈深江、小呂島(現在は福岡市西区)の3か所。とは言え、高祖山の防空壕らしき洞窟が相当の労力をかけて掘られたのは間違いなく、記録や関係者の証言が残されていない軍施設があったとしても不思議ではないと思う。

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 叶岳山頂にある叶嶽神社。神社のいわれを紹介する説明板が地元町内会によって設置されている。それによると、祭神は勝軍地蔵。「地蔵を祀りながら神社とは」という疑問については、神仏習合の名残であることなどが説明されている。

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 縦走路の途中には数箇所の分かれ道があるが、下山路はすべて野外活動センターに通じている。
 
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 高祖山山頂。ここに高祖城があった。城の曲輪だったことが想像できる平坦な場所だが、素人目には城の遺構らしきものは見当たらなかった。現地にあった説明板によると、発掘調査では軒丸瓦、軒平瓦などが出土し、中世としては珍しい総瓦葺の建物があったと考えられている。また、中国製陶磁器なども出土しており、籠城するためだけの城ではなかった可能性が高いという。

 【追記】『福岡の戦争遺跡を歩く』(川口勝彦・首藤卓茂、海鳥社、2010)に「この高射砲陣地(※中央区輝国にあった高射砲陣地)は軍の記録には見えない。このような例はほかにもあるようで、西区高祖にも存在したという伝聞もある」と記述があった。この伝聞通り、高祖山に高射砲陣地があったのならば、防空壕はそれに付随するものだった可能性はある。高射砲陣地ならば、空襲に絡んで証言が残されているのではないかと思い、福岡大空襲と同日にあった雷山空襲の証言集『村に火の雨が…六月十九日雷山空襲の記録』(雷山空襲を記録する会、1999)を読んでみた。

 雷山空襲とは1945年6月19日深夜、福岡を襲ったB29編隊のうちの1機が糸島上空に飛来、脊振山系の麓に位置する雷山村に焼夷弾で焼き払い、8人が犠牲になったというものだ。なぜ、米軍は山村を襲ったのか。『火の雨が降った 6.19福岡大空襲』(福岡空襲を記録する会、葦書房、1986)では米軍の記録をもとに、「誤爆」説を提示しているが、無差別爆撃と考える人もいる。

 地元で編纂された『村に火の雨が…』には、犠牲者遺族を含め生々しい体験談が数多く収録されているが、結論から言えば、高祖山の高射砲陣地に関する証言は一切なかった。雷山村から高祖山まで直線距離で6㌔。雷山村住民にとっては身近な場所のはずで、現実に複数の証言に「高祖山のふもとあたりに照明弾らしきものが投下され真昼のように明るくなった」「高祖の方から飛行機の爆音と同時にドドーンと音がした」などと高祖山(高祖)の地名は出てくる。ここに陣地があったのならば、まったく言及がないというのはあり得ないと思う。

 戦争末期には福岡の防空は事実上放棄され、多くの高射砲も南九州に移されていたとされる。雷山空襲時、高祖山の陣地は撤去されていたのかもしれないが、それでも何の証言も残されていないのは不自然だろう。個人的には高射砲陣地があったという伝聞には疑問を感じる。
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解体進む旧簀子小校舎

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 福岡市中央区大手門で、旧・簀子(すのこ)小学校の校舎解体が進んでいる。昨年3月、市中心部の学校統廃合で新・舞鶴小中学校に統合され、102年の歴史に幕を閉じた。跡地のうち、グランドや体育館は舞鶴小中学校の第2運動場や、地域のスポーツ広場、災害時の避難場所として活用されることが決まっており、解体工事が進む横では、学校があった頃と同じように子供たちがスポーツに興じている。何となくシュールな光景だ。

 今回の統廃合の対象になったのは大名、舞鶴、簀子の3小学校と舞鶴中学校で、このうちの舞鶴小学校跡地に新設校が誕生した。福岡城内にある舞鶴中学校の校舎は現在のところ、城跡や鴻臚館のガイダンス施設「三の丸スクエア」としてそのまま活用されている。

 大名小学校については、1929年(昭和4年)完成のレトロ校舎の先行きを含め、跡地利用に大きな注目が集まっているが、来年8月までは校舎建て替え中の私立小学校が仮住まいしており、結論は先送り状態だ。市中心部の天神に近い一等地とあり、市議会内には民間企業、中でも隣接地でホテルを経営する某鉄道会社への売却を市は目論んでいるのではないかと疑う声がある(
「大名小校舎の報告書」参照)。大名小学校跡地を巡っては今後、一波乱あるかもしれない。

 残る校舎解体中の簀子小学校跡地。こちらも天神に近く、交通の便も良い場所にあるが、約8,500㎡の跡地のうち、グランドや体育館部分が6,000㎡を占めるため、跡地利用が未定なのは校舎解体後の敷地2,500㎡に過ぎない。まとまった土地ではあるが、隣接地がグランドとして今後も活用されることを踏まえれば、自ずと利用法は限られてくるだろう。

 昨年暮れの市議会第2委員会で、跡地利用の検討状況を尋ねた議員に対し、市側は「地域の意見も踏まえながら、行政需要などを含めて地域と協議を行い、解体後の跡地利用計画を策定することとしている」と答えている。市議会の野党サイドからは保育園の新設を求める声などが出ているようだが、委員会での答弁通り、市が地域の意見をきちんと聞いていくのならば、落ち着くところに落ち着くことだろう。隣接する簀子公園との一体化を図るのが、個人的には一番シンプルだと思うが。
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車で行ける古代山城・鞠智城

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 熊本県菊池市の道の駅「七城メロンドーム」に遊びに行き、ついでに近くにある国史跡・鞠智城跡に足を延ばしてきた。大野城や基肄城、水城などと同じく、白村江の戦い(663年)で唐・新羅に敗れたヤマト王権が、両国の来襲に備えて築いた朝鮮式山城の一つとされている。熊本県によって史跡公園化が進められており、復元された八角形の「鼓楼(ころう)」(太鼓で時を告げるとともに、見張りのための建物)が一風変わった景観をつくり出していた。

 最近、大野城、基肄城跡にも行ってきたが、両城があるのはいずれも標高約400㍍の四王寺山、基山の山中で、登山がてらの遺構巡りだった。もともと体力作りを兼ねてだったので覚悟はできていたが、史跡を見学するためだけに大汗をかくのは御免だったろう。一方、鞠智城跡があるのは標高160㍍程度のなだらかな丘陵上で、車で楽に行くことができる。九州自動車道の植木ICからは20数分の距離。古代においても鞠智城跡がある一帯は交通の要衝だったらしく、「アクセスの良さ」は古代、現代の両方で鞠智城のキーワードとなっているように思える。

 鞠智城の築城目的について冒頭、唐・新羅の来襲に備えてヤマト王権が築いたと書いたが、正確な築城目的は実際は不明だ。『日本書紀』に築城が記録されている大野城、基肄城とは異なり、鞠智城が初めて文献に出てくるのは、いきなり修復に関する記録であるためだ。(『続日本紀』文武天皇2年(698年)の「大宰府をして、大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」)

 ただ、調査 を続けている熊本県教委は立地条件などから「大宰府への兵站基地」を公式見解としており、現地のガイダンス施設「温故創生館」でもらってきた小冊子にも「大宰府を守るために大野城(福岡県)、基肄城(福岡県・佐賀県)、金田城(長崎県)が築かれました。鞠智城は、これらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地でした」と紹介されている。

 大宰府から鞠智城まで直線距離で60㌔強。現在の道では最短ルートでも80㌔を超える。古代の歩兵の行軍速度では大宰府まで2、3日はかかる計算で、これでは到底危急の際には間に合わない。だからこそ直接的な大宰府防衛の城ではなく、交通の要衝に置かれた後方支援基地だったという考えだ。一方で、同様に交通の要衝という見地に立ちながらも、北の大宰府ではなく、南の「隼人や熊襲に備えた城だった」という異論もある。(温故創生館のサイトに、これまでの調査報告書が多数PDF形式で掲載されている)

 現在では、アクセスの良さが観光客の誘致につながっている。熊本県が史跡公園整備を始めたのは1994年度からだが、累計来場者はすでに100万人を超えたとの推計がある。ただし、鞠智城跡からは70棟を超える建物跡が確認されているが、現在のところ、鼓楼のほか、米倉、兵舎、武器庫が復元されているだけ。さらに複数の建物の復元整備を進めるため、県は吉野ヶ里のような国営公園化を目論んでおり、実現すれば、「修学旅行などの飛躍的な観光客の増加が見込まれ、これが地域振興の起爆剤となり、県勢浮揚にもつなげていく」と期待している。

 近世の城・熊本城は毎年150~200万人の観光客を集めているが、古代の山城・鞠智城も同様の存在に育てようという遠大な構想なのだろう。

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 鞠智城のシンボル的なモニュメント「温故創生之碑」。防人とその家族、百済の亡命貴族・憶礼福留らの群像だ。憶礼福留は大野城、基肄城の築城を指導したとされるが、鞠智城については関わりは不明。ただし、城跡からは「百済系銅造菩薩立像」が出土しており、やはり百済系の人物が築城に関係したとみられている。

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 「温故創生館」の館内。創生館は2002年4月開館。入館無料。

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 これが道の駅「七城メロンドーム」。名前でわかるようにメロンが地元の名産。


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梅林駅から油山へ

 またまた油山に登ってきた。ただし、いつもは中腹近くにある市民の森まで車で行っているが、たまには麓から山頂を目指そうと思い、福岡市営地下鉄七隈線の梅林駅(城南区)をスタート地点に選んだ。


 梅林駅。この駅の1日平均の乗車客は1,251人(2013年度実績)で、福岡市営地下鉄全35駅の中では最も少ない。七隈線は西区橋本から天神南までの12㌔の路線だが、実に16駅がある。駅間距離は平均でたった800㍍。梅林駅も両隣の駅(野芥と福大前)が1㌔に満たないところにあるのだから、増えようがない。七隈線開業前、福岡市は「バスのような利便性を提供する」と胸を張ったが、ふたを開けてみれば、市民から「地下鉄なのにバスみたいに止まってばかり」と嫌われ、毎年数十億円単位の赤字を垂れ流している。役人の机上の空論は罪深い。

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 駅からすぐの場所にある「梅林緑道」から実質的な登山スタート。梅林緑道なる名前はなかったと思うが、この階段は高校時代、部活のトレーニングで頻繁に駆け上がっていた。時には妙見岩(後述)あたりまで行っていたのだから、今から思うと信じられないことをしていた。

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 登山道は概ねこんな感じ。市民の森からの登山道のようには整備された道ではない。

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 木立に囲まれた登山道だが、一箇所だけ眺望が開けた場所があり、福岡市西部の市街地が見渡せた。

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 道が二股に分かれ、どちらに行くべきか迷う箇所があるが、小さな崖を滑り降りるのが正解。すぐに林道に突き当たる。 

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 林道をわずかに歩くと、山頂まで2.7㌔の矢印があり、林道に別れを告げる。

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 「油山十六景」の一つ妙見岩に到着。説明板が設置されており、「昔、北辰妙見大菩薩がまつられていたところで、龍樹権現の上宮と称されていますが、今は大岩のみが残っています。干ばつのとき、焚火をたき、太鼓をたたいて、雨乞いをした場所です」と書かれている。高校時代、駆け上がっていた場所とはここだ。久しぶりにここまで登ってみて、懐かしさを感じるよりも高校時代の体力が空恐ろしくなった。同級生の中では相当運動音痴の方だったが。

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 市民の森からの国見岩ルートに合流。ここから山頂までは約1㌔。

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 駅を出てから約2時間で山頂に到着。雨こそ降らなかったものの、山頂はかなりガスが出ていたこともあり、先客はゼロ。山頂からの眺望もゼロだった。

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 市民の森経由で、南区の花畑園芸公園に下山。週末は家族連れでにぎわっている場所だが、閉園間近の午後4時過ぎだったため、人影はなし。近隣に住んでいた頃、家族で良く遊びに来た場所で、ここは少し懐かしかった。ここからバス&地下鉄で帰宅した。スマホの万歩計アプリによると、この日歩いた距離は計17.71㌔だった。
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謎の生き物「シイ」

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 シイという謎の獣が江戸時代、福岡藩領に生息していたらしい。貝原益軒(写真は菩提寺・福岡市中央区の金龍寺にある益軒像)の『筑前國続風土記』土産考には次のように書かれている。

 「狸に似て、夜中に人家に入て牛馬をなやます。牛馬是にあへば病で死す。良狗も取事あたはず。なり物を恐る。人を多かり集、山に入て鐘太鼓を鳴らし、かり出し打殺す。唐の書にも出たり。志摩郡野北、桜井、鞍手郡境村に在て、牛馬を害せしを、先年かりて打殺す」(※志摩郡野北、桜井は現在の糸島市、鞍手郡境村は直方市)

 続風土記の志摩郡野北村の項目には、シイを狩り出して駆除した一件がもっと詳しく書かれている。シイ騒動が起きたのは寛文二年(1662年)のことで、牛24頭が相次いで熱病で死んだ。その際、防州山口伊勢太神宮の神職から使いが来て「是は狸に似たるシイと云獣来りて、牛をなやます故、病つきて死する也」と伝え、太鼓や鐘、笛などを鳴らしてシイを狩り出せば、災いは止むと助言したという。

 これに従い村人は山狩りを行い、7匹のシイを追い詰め殺した。これ以降、牛が死ぬことはなくなったという。シイの姿形は「狸に似て小し。面は長くして、馬の面に似たり。目角尾も狸のごとし」で、これを藩主(1662年当時は3代藩主・光之)に見せたとも益軒は書き残している。

 シイについて、Wikipediaには妖怪、つまり想像上の生き物として取り上げられている。しかし、続風土記を読む限り、牛の大量死の原因だったかどうかは別にして、タヌキに似た未知の生き物が駆除されたのは事実だったようにも思える。この生き物を中国の書に出てくるという「シイ」と考えたのではないだろうか。

 続風土記が一応の完成を見たのは1703年(元禄16年)。野北村のシイ騒動はこの約40年前ということになるが、1630年生まれの益軒はこの時、すでに30歳を超えていた。ちょうど藩医として京都留学中だった時で、彼自身が見聞きしたわけではないだろうが、彼が生きていた時代の話だ。シイの死骸を実見したとされる3代藩主・光之に至っては益軒が直接仕えた人物。まったくの作り話を記録したわけではないだろう。

 仮に未知の生き物を駆除したのが事実だったとして、この生き物とは何だったのだろうか? タヌキに似た動物と言えば、アナグマ、アライグマ、ハクビシンといったところが思い浮かぶ。アナグマは古来から日本に生息し、続風土記にも「狢(ムジナ)」の名前で出てくる。候補から除外して良いだろう。アライグマは北米原産。江戸時代初期に日本に到来していた可能性は低い気がする。

 残るハクビシンも明治時代以降に日本に住み着いたと言われているが、こちらはアジア原産。大陸との交流の窓口だった福岡・博多ならば、鎖国以前に持ち込まれ、その子孫が生息していたというケースはあり得るかもしれないと思う。木登りがうまいうえ、運動能力も高いらしく、「良狗も取事あたはず」だった可能性もある。ただ、この程度ではあまりにも根拠薄弱なので、「野北のシイ=ハクビシン」説を唱える勇気はないが…。

 続風土記のシイに関する記述が以前から気になっていたので、取り上げてみた。下の絵は江戸時代の百科事典『和漢三才図会』(国立国会図書館の近代デジタルライブラリーから)に描かれたシイ。この書物でも物の怪の類ではなく獣の項目に収録されている。


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唐人町界隈地蔵巡り

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 福岡市中央区の唐人町商店街にあるパン屋を気に入り、最近足しげく通っては、ついでに界隈を散策している。商店街のアーケードはかつて、唐津街道が通っていた場所。また、唐人町から今川、地行にかけての一帯は城下の防衛ラインとして築かれた寺町で、歴史や伝説に彩られた地蔵や観音堂が点在する。ヤフオクドームのおひざ元である一方、藩政時代の記憶が今も色濃く残る街だ。

 先日は唐人町商店街近くにある成道寺に行き、八兵衛地蔵尊に参ってきた。“消防の守り地蔵”として今もなお信仰を集めるお地蔵さまで、毎年8月23日に行われる施餓鬼会には多くの消防団が纏を持って参拝するという。この地蔵が建立され、消防の守り地蔵となった経緯について、中央区のサイトには以下のように紹介されている。

 元禄時代、ある町で火事が起こり唐人町と須崎町の火消したちの間で火事場の争いから喧嘩が始まり、須崎町に数人の死者が出てしまいました。唐人町からは、下手人を奉行所に差し出さなければならなくなりました。
 この話を成道寺の近くに住んでいた肥後の浪人、森八兵衛が聞きました。八兵衛は以前、大病を患い、隣人に手厚い看護を受けて九死に一生を得たことを非常に感謝しており、「父母妻子のある若い命が失われるのは悲しいこと。独り身の私がこの罪を受けましょう」と自ら身代わりとして申し出ました。
 両町とも切羽詰まった状況だったことと、八兵衛の意志が強かったことなどから八兵衛に刑が執行されました。
 町の人々はその犠牲心を尊び、その供養のために建てたのが八兵衛地蔵です。

 これが美談なのかはさておいて、福岡城下では元禄時代(1688~1707)には町火消し体制が整っていたことになる。言い伝えではなく、実際のところはどうなのかと思い『福岡県史 通史編 福岡藩(一)』(1998)をめくったところ、福岡城内や博多の消防体制についての説明はあったが、なぜか城下に関してはなかった。ただ、以下の記載が参考になりそうだった。

 「天和二年(一六八二)になると、延宝八年の大火の経験からであろう。博多はもちろん、近在の消火を応援するための細かな対策と組織化が進んでくる。箱崎・馬出・堅粕・西東辻・住吉の六か村で火災が発生した場合、一組一〇〇人単位で消火に参加する組割りを行った」

 1682年には博多周辺部の村落にまで火消し制度を整えたというわけだから、当然、福岡城下ではこれよりも早く整備されていたと考えて間違いないだろう。元禄時代に唐人町と須崎町の火消しが大ゲンカしたというのはあってもおかしくないわけで、八兵衛地蔵の由来は、少しは信憑性のある話なのかもしれない。

 この日は足を延ばし、地行4丁目の円徳寺「おにぎり地蔵」、今川2丁目の金龍寺「妙清地蔵」も巡ってきた。「おにぎり地蔵」は享保の飢饉で餓死した人々を弔って建立された飢人地蔵の一つ(「享保の飢饉の餓死者数」)。赤い前掛けで隠れているが、小さなおにぎりを大事そうに持っておられる。

 「妙清地蔵」はかつて「朝鮮地蔵」とも呼ばれていたらしい。文禄の役(1592)の際、黒田二十四騎の一人、林掃部が戦乱で孤児となった女児をふびんに思い、半島から連れ帰って養育した。掃部の死後、恩を感じていた女性は尼(妙清尼)となり、掃部の菩提を弔って生涯を終えたという。地蔵は彼女を祭ったものだ。福岡では黒田武士の心優しい一面を表すエピソードとされているが、イチャモンを付けられそうなので隣国には内緒にしていた方が良いと思う。


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菰川の怪

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 思わせぶりなタイトルを付けたが、14日に書いた「黒門川の河口はどこ?」の続編である。15日午後、福岡市中央区の菰(こも)川に架かる地行浜橋を歩いていて、橋を境に河口側(写真1枚目)と上流側(2枚目)とでずいぶん流量が違うことに気付いた。ちょうど干潮で水量自体が極端に少なかったのだが、2枚の写真を見比べると、到底同じ川とは思えない程だ。

 河口側は地行浜(ヤフオクドームなどがある)埋め立てに伴い造られた新たな水路、上流側が本来の河口。写真でもわかるように河口側の方がずいぶん川幅は広いのだが、狭い上流側が干上がっている状態なのに、河口側は水を湛えている。不思議に思い、周辺で行われていた工事の関係者に胡散くさがられながら、地行浜橋の下をあちこちから観察したところ、下の地図のマーカーの箇所から2本の流れが注いでいるのが見えた。

 橋の橋脚に隠れ、肝心の流出口自体は確認できなかったが、2本の流れということは黒門川の暗渠と同じ構造だ。黒門川はやはり、福浜団地入口交差点の手前で再び地下に潜った後、よかトピア通りの下を西に進み、地行浜橋で菰川に合流していたのである。新たな菰川河口が広く設計されたのは、黒門川の合流で流量が大幅に増えるためだろう。

 いつも疑問を提示するだけで、さっぱり答えを見出せない本ブログにしては珍しく、すっきり解決することができた。最初から行政資料でも当たれば、簡単にわかった話だとは思うが、たまたま干潮の時間帯に通り掛かり、流量の違いに気付いたことがヒントになった。しかし、干潮の時に地行浜橋を通ったことなど何度もあったはずだが、川の流量の違いに対し、これまでは一度も疑問を覚えたことはなかった。自分の注意力や観察力の足りなさを痛感する。


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黒門川の河口はどこ?


 福岡市中央区に黒門川という川が流れている。と言っても大半は暗渠になっているため、地上で見られる部分はわずか。黒田長政が福岡城を築城した際、入り江を埋め立て巨大な外堀を造った。外堀が現在の大濠公園。黒門川は築城の際、外堀の排水のために開削された人工の水路だ。

 暗渠化されたのは比較的近年のことで、1988年。翌年の89年、埋め立て地のシーサイドももち完成を祝いアジア太平洋博覧会が開かれたが、これに先立ち会場へのアクセス道路として黒門川が暗渠化され、現在の黒門川通りが整備された。

 この当時、黒門川は生活雑排水の流入でドブ川と化しており、東岸の荒戸側住民は暗渠化を歓迎したという。しかし、西岸の唐人町側は水辺空間を残して欲しいと反対した。現在、唐人町側の歩道だけに水路が流れ、親水公園風になっているのは、こういった理由のようだ。

 1980年頃、大濠公園近くに友人が住んでいたため、近辺にはかなり頻繁に遊びに来ていた。有名な黒門飴を買ってしゃぶっていた記憶もある。だから暗渠化前の黒門川の姿を覚えていても良さそうなのだが、情けないことに全く印象に残っていない。この機会に古い写真を見てみたが、それでも記憶は呼び覚まされなかった。

 先日、黒門川通りを改めて歩いてみた。地図①の黒門橋から川は地下に潜る。写真2枚目が②地点から撮影した黒門川通り。

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 地図③の地点で黒門川は再び姿を現し、西に蛇行する。この場所を見ると、暗渠の構造が良くわかる。④は藩政時代、黒田藩が魚を捕っていた「簗所」があった場所で、説明板が設置されている。

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 ⑤の地点で黒門川は再び地下に潜る。昔はこの先で博多湾に注いでいたはずだが、現在は埋め立てられ、福浜団地入口の交差点となっている(地図⑥)。ここで黒門川の流路がわからなくなった。まっすぐ北に行けば、伊崎漁港(地図⑦)だが、ここには河口らしきものはなかった。ひょっとしたら⑤地点で大きく西に曲がり、ヤフオクドーム横を流れる菰川に接続しているのだろうか。


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油山に登って体重増

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 福岡市の油山山頂(597㍍)に2週連続で登ってきた。登山の趣味は全くないが、体力作りのため、最近は近場の低山によく通っている。油山は、中腹近くに「市民の森」という自然公園が整備されており、ここまでは車で行くことができる。市民の森から山頂へは主だったルートが三つ。全国の県木が植えられた「県木の森」から一気に山頂を目指す約1.8㌔、キャンプ場を経由して谷あり、岩場ありの山道をたどる約2.2㌔、油山十六景の一つ「国見岩」を経由する約2.6㌔。先週は「県木の森」から登り、キャンプ場に下りたので、今回は最も長く、起伏にも富んだ「国見岩」ルートを選んだ。

 「国見岩」とは標高550㍍あまりの尾根から突き出た巨石で、現地にある説明板によると、「筑前の國(朝倉から遠賀まで)が見渡せるので、この名が付いた」という。また、「黒田公が城下の配置を眺めた」とも記されている。高所恐怖症を忘れて岩の先端まで行き、写真を撮ってきたが、現在では木々の枝が眺望を遮り、残念ながら朝倉から遠賀まで見渡せる状況ではなかった。ところで、城下の配置を眺めた黒田公とは、やはり初代藩主・長政のことだろうか。

 この「国見岩」を過ぎると、間もなく「県木の森」からのルートと合流し、ここから山頂までは300㍍程。山頂はベンチなどが置かれているが、意外に狭く、定員は10数人といったところだ。この日はそれほど混雑していなかったので、ゆっくり昼食を取ることにし、コンビニのおにぎりや市民の森の自販で買ってきた焼きそばなどをぱくついた。さらに「県木の森」ルートで市民の森に下りた後は、福岡県民の愛する「マンハッタン」(堅めのチョコレートドーナツ様の菓子パン)にもかぶりついた。

 登山が趣味の人にとっては油山など福岡の低山はハイキングコースみたいなものだろうが、私のような体力不足の中高年には相当にしんどい。いつもいつも息を切らし、大汗をかきながら山頂を目指している。しかし、運動後に大量の炭水化物を摂取するものだから、帰宅後に体重を量ると、へたしたら2㌔ぐらい増えている。この日も恐る恐る体重計に乗ると、予想通りだった。焼きそばと「マンハッタン」が余計だったかもしれない。


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