花園出場校の増枠分はどこに

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 全国高校ラグビー福岡県大会4回戦が25日行われ、この日が初戦だったAシード8校が全て勝ち進んだ。前回全国大会の覇者、東福岡は143点を奪って圧勝。同校に続くと思われる東海大五、筑紫、修猷館なども大差で対戦校を退けた。11月1日の準々決勝は、東福岡―東筑(A)、東海大五―筑紫(B)、小倉―福岡工(C)、修猷館―福岡(D)、続いて8日の準決勝は、A勝者―C勝者、B勝者―D勝者の組み合わせで行われる。今年は福岡県に2校の全国大会出場枠が与えられると予想されるだけに、準決勝の戦いは例年に増して注目される。

 全国大会の出場枠が増えるのは今回が95回の記念大会に当たるためで、出場校は例年より4校多い55校。90回記念大会では、予選出場校が多く、全国大会でも好成績を収めてきた埼玉、神奈川、愛知、福岡4県の出場枠があらかじめ2校に増やされ、福岡では東福岡、福岡が花園出場を果たした(「福岡高28年ぶり花園へ」)。この時の東福岡の出場メンバーにはW杯日本代表の藤田慶和選手(当時2年)、福岡には同じく福岡堅樹選手(同3年)がいた。

 今回は複雑だ。過去10年の大会で4強進出校を出した関東、近畿、中国、九州の4ブロックに各1校の増枠分が割り当てられ、最終的にどこの都道府県が増やされるは11月23日、高体連ラグビー専門部の話し合いで決めることになっている。

 従って九州ブロックの増枠分が必ず福岡県に割り当てられると決まったわけではないが、もともと出場校増の目的は「地方予選決勝において強豪校に僅差で敗れ全国大会に出場できない高校に出場機会を与えること」(日本ラグビー協会の公式サイトより)。この10年、福岡県代表の東福岡は花園優勝5回、準優勝1回、4強2回の戦績を収めてきたが、主に筑紫と激突した県大会決勝では苦戦することも度々だった。こういった過去の状況から、福岡県準優勝校が花園出場権を獲得する可能性が高いと新聞などは報じているが、決勝が予想外の大差になった場合、選考は非常に悩ましいことになるだろう。

 これは花園の話ではないが、高校ラグビーを巡っては2008年選抜大会のチャレンジ枠選出で首をひねったことがあった。九州からは修猷館が選ばれ、30年ぶりの全国大会出場を果たしたのだが、新聞等が報じた選考理由とは「(県新人大会の準優勝校で争う)九州大会Bパートで優勝した筑紫と県新人大会で接戦を演じた」というものだった。しかし、その筑紫はと言えば、県新人大会決勝で東福岡に敗れ、この時点で選抜大会出場は絶たれていたのである。

 修猷館の選抜大会出場は、福岡を代表する県立名門校の文武両道ぶりを示す快挙として地元では大きく報道されたが、筑紫の立場からすれば、不可解な選考理由だったのではないだろうか。高校生に不信を残さないためには、各都道府県予選の終了後に話し合いで出場校を決めるなどという曖昧な方法を取らず、90回大会と同様、最初から予選出場校の多い府県に増枠分を割り当てた方が無難だったのではないかと個人的には思っている。25日の4回戦の結果は次の通り。

東福岡 143-0 宗像
東海大五 79-5 筑紫台
筑紫 79-0 福岡舞鶴
東筑 54-24 福工大城東
小倉 27-24 筑紫丘
福岡工 36-24 城南
福岡 50-7 輝翔館
修猷館 56-5 筑前

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鴻臚館のトイレは男女別だったか?

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 福岡城址にある古代の外交・通商施設、鴻臚館の遺跡からは国内で初めて、古代のトイレ遺構が見つかったことで知られる。1993年、土壌の科学分析により、トイレが男女別だったことがわかったと新聞などで大きく報道され、鴻臚館跡展示館のパネルにも「男女別々に使用された可能性がある」と紹介されている。しかし、科学分析を行った人物を最近になって知り、男女別トイレの存在に疑問を覚え始めた。根拠など何もないが、あまりにもいわくつきの人物なのだ。

 かつては国立大の教授だったが、現在は退官して一般人になっているので名前を伏せ、元教授と表記する。元教授は残存脂肪酸分析という手法を考古学に持ち込み、いくつかの華々しい“成果”を収めた。中でも大きな話題になったのは宮城県の馬場壇遺跡から出土した旧石器からナウマンゾウの脂肪酸を検出したというものだ。旧石器時代人がナウマンゾウを狩り、解体した証しとして大変な注目を浴びたが、馬場壇遺跡とは言うまでもなく、あの旧石器捏造事件の主舞台の一つ。石器も当然ながら捏造品だった。

 縄文時代のドングリ加工品、通称縄文クッキーがドングリの粉に獣肉や血、卵などを混ぜ合わせて焼いたものだという分析結果も輝かしい業績だが、これにも残存脂肪酸分析の本家、食品化学の分野から強烈な疑問が出されている。「残存脂肪酸の組成から種類を特定するのは困難。まして数千年前の脂肪酸がなぜ、変化していないと考えられるのか」という素人にももっともと思える疑問だが、私が知る限り、元教授は反論することも、間違いだったと認めることもなく考古学の表舞台から消えた。

 この2例だけで元教授の業績すべてに疑問符をつけるわけにはいかないが、「一事が万事」という考え方もある。当時の新聞報道によると、元教授がトイレが男女別だったと考えた根拠は、やはり残存脂肪酸分析を行った結果、哺乳類の排泄物に含まれる脂肪の一種、コプロスタノール(コレステロールが分解してできる)を確認したためだ。コプロスタノールの値は男性が高く、女性は低い。3基のトイレ遺構の土壌中から検出されたコプロスタノールの値に違いがあったことから、2基を女性用、1基を男性用と判断したという。

 発掘調査報告書には、この点についてどのように書かれているかと思い、これまでに出版された鴻臚館跡の発掘調査概要報告21巻を図書館ですべてチェックしてみた。驚いたことに元教授の論考はもちろん、トイレが男女別だったなどの記載は一切見当たらなかった。1994年に出された発掘調査報告に別の研究者による土壌分析結果が掲載されているが、これは寄生虫の卵や植物の花粉、種などを調べる手法だ。

 分析結果によると、確認された寄生虫卵の種類はトイレによって違いがあり、大きな1基は野菜や野草、コイ科の淡水魚を食べている人たち、小さな2基は飼育されたブタやイノシシを常食している人たちのトイレだったと考えられるという。つまり、大きな1基は古代日本人、小さな2基は外来者用だった可能性が高いという見方だ。

 鴻臚館発掘20周年を記念して2007年、福岡市博物館で開催された「古代の博多―鴻臚館とその時代」展の目録にも「寄生虫卵の出土頻度が遺構ごとに異なることから、食生活の異なる人々がそれぞれ別のトイレを使用していた可能性がある」と記されている。男女別など影も形もない。これが市教委の最終見解なのだろう。

 1993年当時、市教委側もあれだけ派手に喧伝した男女別トイレの存在だが、発掘調査報告を読む限り、福岡市教委は意外に早い段階で軌道修正を図り、今ではなかったことにしているのではないかと想像される。鴻臚館跡展示館に掲示されているパネルはただ一つの痕跡だ。さっさと証拠隠滅した方が無難だと思える。

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 鴻臚館の建物(客館)は南北に2棟あったことがわかっている。南館の発掘が先行して行われ、遺跡を覆う形で展示館が建設された。内部には遺構が発掘当時の姿のまま残され、出土品の一部や説明パネルが展示されている。

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 北館の遺構は平和台球場の跡地にある。調査が終わった一部区域が芝生広場として整備され、開放されたが、雑草が生い茂り早くも荒れ果てた状態となっていることを8月に紹介した(「雑草で埋め尽くされた鴻臚館跡」)。あれから2ヶ月が経ったが、ほとんど同じ状態だった。
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2年ぶりの博多灯明ウォッチング

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 福岡市博多区で17日夜に開かれた博多灯明ウォッチングに2年ぶりに行ってきた。昨年も行くつもりだったのだが、開催日にホークス対日本ハムのパ・リーグCS第4戦がデーゲームで行われ、試合終了後(ホークスが5-2で勝利し、日本シリーズ進出に王手)には祝杯を挙げてしまい、出掛けるどころではなくなったのだ。

 今年もCSが17日までに決着がつかなければ、外出する気分にはならなかったと思うが、幸いにも16日の第3戦でホークスがけりをつけてくれたお陰で、心おきなく博多の町を巡ることができた。それにしてもペナントレース144試合戦ってリーグ優勝を勝ち取ったのに、無条件で日本シリーズに進出できないとは。CSは興行的にはメリットがあるのだろうが、優勝チームにとっては単なる罰ゲームだ。

 ところで、肝心の灯明ウォッチングだが、例年は櫛田神社、旧・冷泉小学校、博多小学校など大博通り西側の会場ばかり見て回っているので、今年は聖福寺、承天寺、東長寺などの大寺が並ぶ東側の街並みも巡ってきた。

 写真は、1枚目が櫛田神社の灯明地上絵で、「あっかんべぇをする風神」を描いている。2枚目は御供所小学校(博多高等学院)跡地。ここの地上絵は聖福寺山門がテーマで、非常に大掛かりできれいだったが、地上からしか見ることができないため、残念ながら何を描いているかはわからなかった。「ドローンでも飛ばさないと全貌を撮影するのは無理だな」と思っていたら、本当にドローンが上空を舞っていた。博多高等学院がここに間借りしていた時代は校舎から地上絵を眺めることができ、絶好のスポットだったが。

 3枚目は博多小学校で、テーマは博多ふ頭。校舎2階の渡り廊下が見学場所として開放されていたため、博多ポートタワーやクルーズ船が描かれているのがよくわかった。校舎と言えば、旧・冷泉小学校グランドにも毎年、大作が描かれ、校舎の窓から楽しむことができたが、残念ながら今年は不参加だった。地元の皆さんが手弁当で灯明を飾っていたというので、昨年の20回限りで区切りをつけたのだろうか。

 どの会場も例年同様、大勢の人でにぎわっていたが、隣国からの観光客らしき人々も多数交じっていることに気付いた。自撮り棒を使って記念撮影しているカップルは概ね外国語を話していた。今年で21回目を迎える灯明ウォッチングだが、私の周囲の福岡市民の中には「何それ?」という人がいるというのに、隣国人らの貪欲なまでの好奇心には感心する。
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ふくおか会館解体へ


 東京・半蔵門にある「ふくおか会館」の取り壊しが来年1月から始まるらしい。ふくおか会館と言っても、ある程度年齢のいった福岡県民以外は存在さえ知らないと思うが、福岡県東京事務所や、今年3月まではビジネスホテルが入居していた県有施設だ。かつては東京都心に数千円台で泊まれる貴重極まる存在だった。大学受験で利用した県民も多いと聞く。私自身はバブル時代、東京出張の際によくお世話になったが、県庁マンの利用が優先だったらしく、予約が取れないことも多かった。その場合は民間ホテルに泊まらざるを得なかったが、宿泊料金は軽く2倍で、貧乏サラリーマンには痛すぎる出費だった(バブル時代には、会社規定の出張旅費をおおむね実費が上回り、超過分は手出しだったのだ)。

 ふくおか会館があるのは正確には千代田区麹町1で、皇居の半蔵濠に面し、北隣には英国大使館がある。敷地の広さは約2,470平方㍍(750坪)。福岡県がなぜ、都内の一等地にこれだけの広さの土地を所有しているのか? 以前、不思議に思って来歴を調べたことがある。福岡藩の屋敷跡を譲られたのではないかと勝手に想像していたが、全くの見当違いで、終戦から間もない1950年3月、福岡県東京事務所の用地として約500万円で取得したものだという。

 会館の南隣にあるビル(TOKYO MXの本社が入居している)敷地が地価公示の対象となっており、今年発表された地価は1平方㍍当たり302万円。この数字をそのまま当てはめると、現在の土地価格は74億5,940万円にもなる。地価がさらに高かったバブル時代、この土地は「福岡県の埋蔵金」などと呼ばれていたという。1950年当時の福岡県には先見の明があったというほかない。

 会館の現建物完成は1979年3月で、築36年。取り壊しの理由は、老朽化により巨額の修繕費が必要なためだという。ホテルの運営はスカイコートホテルに委託されていたが、経営自体は順調だったらしい。民間の安価なパックツアーが出回り、かつてほどに宿泊料金の安さは魅力ではなくなったが、やはり霞ヶ関等にも近い地の利もあってか、客室(計84室)の稼働率は悪くなかったようだ。まるで価格競争に敗れたかのような報道があるが、どうも違う気がする。

 跡地は渡辺地所、住友不動産、西日本新聞の3社グループに貸し出され、3社は2018年6月完成を目指して地上7階、地下1階のオフィスビルを建設する。福岡県東京事務所はこのビルに入居することになるが、県が3社に支払う賃料が年間約4,500万円なのに対し、3社から受け取る土地代は年間3億4,000万円。差し引き2億9,500万円の黒字。やはりこの土地は「福岡県の埋蔵金」だ。

 なお、江戸時代に福岡藩邸が本当にあったのは、上屋敷が現在の外務省の辺りで、これは割に知られている。中屋敷は赤坂溜池、下屋敷は白金、渋谷にあったらしい。これまた現在では超一等地ばかりだ。ふくおか会館の写真を撮影した記憶があったのだが、見つからなかったので福岡県庁の公式サイトから拝借した。
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城下町杵築の坂道

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 大分県杵築市の町を初めて散策して来た。能見松平藩3万2,000石の城下町だった小都市。八坂川の河口に面した台地上には杵築城天守がそびえ、西側には落ち着いた町並みが広がる。3層の天守は、例によって城ブームの時代の1970年に造られた鉄筋コンクリート製の模擬天守だが、城下町は本物だ。しかも、谷間の通り沿いに位置する商人の町をはさみ、南北の高台に武家屋敷街が広がるという特殊な構造で、商人の町から高台へは「酢屋の坂」「志保屋の坂」などの数々の美しい坂道が通じている(写真は志保屋の坂から見た酢屋の坂)。

 今年8月に別府に泊まった際、宿に杵築の町並みを紹介するパンフレットが置かれていた。写真で見る城下町の坂道は非常に魅力的で、興味を覚えたが、予定が決まっていたこともあって翌日は阿蘇方面に向かった。それに「パンフレットの写真は出来過ぎで、実物はたいしたことないのだろう」という懐疑的な気持ちも少しあった。

 しかし、実物の杵築はパンフレット通りの魅力的な町で、なおかつ観光客に対するもてなしの心を感じたのは、町の各所に無料駐車場があり、そこには清掃の行き届いたトイレがあることだった。その割には土産物屋や食事処などは少なく、良い意味で商売っ気は感じられなかった。昔ながらの生活の場がそのまま観光地となったようなサラッとした雰囲気の町だった。例によって、ここにも中国人らしき観光客の一群が押し寄せていたが、彼らに杵築はどう映ったのだろうか。




 南と北の武家屋敷街(南台、北台)。杵築も全国に数々ある小京都の一つ。ミニ東京と呼ばれて喜ぶ人はいないのに、小京都はなぜか誉め言葉になる。小京都と一括りにすると、かえって町の個性が見えなくなる気がするが。

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 北台から杵築城方面に通じる「勘定場の坂」。杵築は2009年、京都のNPO法人が認定する“きものが似合う歴史的町並み”の第1号に選ばれた。着物レンタルの店もあり、和服姿で城下町を散策している女性が少なくない。

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 杵築城の模擬天守。各地の復元天守、模擬天守と同じく、郷土資料館兼展望台となっている。

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 模擬天守から見た城下町。垂直の崖の上にあるのが南台。特殊な地形の町であることが良くわかる。


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二丈岳城

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 この夏、福岡県糸島市の二丈岳(711㍍)に2度登った。最初はJR深江駅から東側の尾根をたどり(「二丈岳からの眺め」)、2度目はキャンプ場の真名子木の香ランドまで車で行き、西側から山頂を目指した。山頂からの眺めが素晴らしいことで人気の山だが、中世に二丈岳城(深江岳城、二條城など別名あり)という山城が築かれ、現在も山頂には石垣などの遺構が残ることでも知られている。

 この城に関しては、大友氏と大内氏が北部九州の覇権を争っていた室町時代の永享3年(1431年)、大友、少弐氏らが立て籠もる城を大内盛見が攻め、討ち死にしたと書かれた書籍がある。インターネット上にも同様の記述が多数あり、“二丈岳城攻めで大内盛見敗死”は史実として広く伝わっているようだが、『二丈町誌』(二丈町誌編纂委員会、2005)に意外なことが書かれていた。

 「このこと(※大内盛見が敗死した二丈岳の戦い)を記したいくつかの文書の中には城について記述したものはなく、このときに二丈岳城が存在していたかどうかは不明である」というのだ。町誌によると、城がいつ、誰によって築城されたかがそもそも不明。築城者については在地豪族の原田氏、「怡土松浦党」と称された中村弥次郎真、大友氏といった説があるが、「明確な根拠がなく結論を見出せない」という。城跡は今も明確に残るものの、成り立ちは謎に包まれた山城だったのだ。 

 もちろん、二丈岳の麓で大内VS大友の戦いが行われたのだから、「その時期から城が存在した可能性はある」(『福岡県の城郭―戦国城郭を行く』福岡県の城郭刊行会、銀山書房、2009)とする見方もある。大内が攻め寄せ、大友が迎え撃ったという戦いの構図は間違いないようなので、城があったと考える方がしっくりくる気はする。二丈岳の戦いで大内盛見を実際に討ったのは、大友・少弐勢に加わっていた菊池氏だという。元寇、鎌倉幕府討幕、南北朝の戦いと北部九州の戦乱では度々主役を演じてきた菊池氏らしいジャイアントキリングだが、この戦いから約70年後にはこの名族も滅ぶ。

 二丈岳山頂は東西に細長く、国見岩をはじめとする巨石が連なっている。巨石周辺からは古瓦の破片が多数採集されており、瓦屋根の建物があったと考えられている。この山頂に二丈岳城の主郭があったとする考えが一般的だが、『二丈町誌』は山頂を「城に付随する望楼的な機能を持った場」とし、城の中枢である主郭は山頂から北側斜面を下った尾根筋にあったと推定している。
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アカウキクサまた繁茂

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 福岡市中央区の舞鶴公園のお堀にアカウキクサが繁茂し、水面が赤茶色に染まっている。お堀のアカウキクサについては5年前にも取り上げたことがあるが(「お堀が地面のように」)、この時と違い今回繁茂しているのは一番西側の4、5号堀。ここがアカウキクサで埋め尽くされるのは、記憶する限りでは初めてだ。水鳥が運んできたのだろうか。

 アカウキクサは水生のシダ植物で、国内固有種のオオアカウキクサが絶滅危惧種に指定される一方、良く似た外来種が生息域を広げている。ネット上には両者の判別はかなり難しいとの情報があり、現実に福岡市はかつて、保護か除去かで右往左往したことがある。ただ、2011年発行の福岡県レッドデータブックで、オオアカウキクサは福岡県内ではすでに絶滅したと宣言されており、これに従えば、5号堀に繁茂しているのは外来種と考えるのが順当だろう。

 外来のアカウキクサは最初、アイガモの餌などとして国内に持ち込まれたという。アイガモ農法で稲を育てる際、雑草だけではアイガモの餌が足りず、それを補うために水田で栽培され、やがて水田外に生息域を広げていったらしい。突如としてダム湖の水面を埋めて気味悪がられたり、あるいは希少なオオアカウキクサが復活したと勘違いされて喜ばれたりと、時折各地でニュースになっている。

 「お堀が地面のように」でも書いたが、アカウキクサでびっしり埋まった水面はまるで赤土の地面のようで、過去には勘違いした小学生が堀に落ちたことがある。また、見た目もあまり良いものではなく、恐らく近いうちに除去される運命だろう。
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松中のホークス退団

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 福岡市内に「松中通り」と一部で呼ばれる道がある。公式な愛称ではない。プライバシーに関わるので詳しい住所は控えるが、この道沿いにホークス退団を表明した松中の豪邸があるため、誰言うともなく名が付いた。タクシーに乗っても「松中通りのスーパー前まで」で通じることも多い。ここ数年、一軍で満足な活躍はできなかったが、“最後の三冠王”はやはり福岡ではスーパースターだった。この豪邸から巨大な外車で球場に向かう姿は実に颯爽としており、憧れる野球少年は多かったことだろう。

 福岡ダイエーホークス時代の話になるが、ホークス選手による野球教室に家族の付き添いとして参加したことがある。新人だった寺原が大人気だった年だから、2002年の話だ。ドームでのオープン戦後、一軍選手全員が参加して開かれた何とも豪華な野球教室で、小学生の子供がいるとは到底思えない年齢のご婦人達も多数グランド内に乱入し、間近で選手を見て喜んでいた。その中の一人が、子供たちを指導中の松中に「松中さん、少しやせたんじゃないの」とぶしつけに話しかけ、これに松中が「わかります?」と嬉しそうに答えたのを覚えている。意外に気さくな姿に驚いたものだ。

 この教室では、今では“釣り人”になってしまった城島や、現在もコーチとしてホークスに在籍している鳥越らの話を子供たちに交じって聞いたが、彼らが熱心に訴えていたのは期せずして同じだった。
 「君たちが持っているグローブはお父さん、お母さんが一生懸命に働いて買ってくれたものだ。野球がうまくなるために一番大事なのは、お父さん、お母さんへの感謝を忘れず、道具を大切にすること。そうでないと絶対に上達しない」

 彼らのプレーに感動することは多々あるが、まさか野球教室で感動することになるとは思わなかった。大げさでなく、目頭を押さえて城島らの話に耳を傾けていたお母さんもいた。勝手な想像だが、子供にグローブを買い与えるため本当に一生懸命働いていた方なのだろう。この野球教室に参加した選手で、今季も現役選手としてホークスに在籍していたのは松中、寺原の2人だけ。来季は寺原だけになる。若手の有望株が次々出てくるホークスだが、それでも急に寂しくなった。(松中の写真は一昨年撮影)
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