親不孝通り復活?
福岡市中央区天神3で「親不孝通り」の名称を復活させようという動きがあるらしい。地元紙の西日本新聞が報じている。現在、この通りは読みは同じ“オヤフコウ”ながら「親富孝通り」を名乗っている。同紙によると、かつて九州各地の若者たちを吸い寄せた時代の活気を取り戻したいと、地元の商店主たちが名称復活を検討しているという。
西日本新聞がこの動きを初めて報じたのは10月30日朝刊だったと思うが、この記事では親不孝通りの名前の由来について「1970年代、近くの予備校に通う浪人生たちが勉強をよそに居酒屋に出入りする姿から『親不孝通り』と呼ばれた」と書かれていた。これは初耳だった。確かに予備校生が居酒屋で飲んだくれていたら、とんでもない親不孝者だと思うが、私が70年代後半ごろに聞き、現在でも一般的に語られている由来は、かなり違う。この通り(正式名は天神万町通り)がただ単に地元予備校・九州英数学舘、水城学園への通学路だったためだ。
つまり、飲んだくれていたからではなく、浪人の存在自体が親不孝者扱いされていたわけで、同時代に浪人生活を送った私の経験からしても“現役で地元国立大合格が一番親孝行”だった。また、親不孝通りという通称がついた後に、居酒屋などの飲食店が次第に増えていった記憶もあるが、非常におぼろげだったので、この機会に通りの歴史をざっと調べてみた。
参考にしたのは『親不孝通りの迷宮―勝手にしやがれ伝説』(東靖晋ほか編、海鳥社、1990)などで、「勝手にしやがれ」とは通りの草創期にあった居酒屋の名前。この本によると、親不孝通りと呼ばれ出したのは1978年頃。「勝手にしやがれ」の開店はその2年前の1976年(水城学園開校もこの年。九州英数学舘は74年に移転)だが、この頃の通りは「全く真っ暗」で、ぽつぽつと飲み屋があるぐらいだったという。ただ、居酒屋としてはほかに「晴れたり曇ったり」「ぶあいそ」「どん底」はあったとも書かれている。
親不孝通りの通称が誕生する前に通りには居酒屋が進出していたわけで、だとしたら西日本新聞が書いたように、居酒屋に出入りしていた予備校生が中にはいたかもしれない。昼食代にも事欠いていた我が身を振り返り、居酒屋で飲み食いできるほど裕福な予備校生が、通りの通称の由来になるほど多数いたとは信じたくはないが。
その後の歴史を追うと、1980年代には若者の街として九州でも有数のにぎわいを見せるようになったが、同時に犯罪も多発し、「不健全な呼び名が悪い」と考えた中央警察署が1997年5月、市に対し親不孝通りという名称の使用中止を要請した。署側はこの要請をすぐに撤回したが、犯罪多発の温床となっていることを重く見た市側は観光パンフレットから親不孝通りの名を排除し、行政レベルではいったん、この名前は消滅した。しかし、愛着を持つ地元商店主たちが2000年、今回と同じく復活に動き、論争の末、この時は親富孝通りで決着した経緯がある。
親富孝という名前には、平成の大合併で生まれた珍奇自治体名のような居心地の悪さを感じていたので、個人的には親不孝通り復活に大賛成ではある。
“親不孝通り発祥の地”を名乗る飲食店前にある石碑。この店のウェブサイトには「(先代オーナーが)予備校生達に『真面目に勉強せずに遊んでばかりで、親のすねかじりしている親不幸な奴ばかり歩いているから親不孝通りやな!』とジョークで言っていたのを予備校生達がいつの間にか使うようになったのが親不孝通りの始まりです」と由来が紹介されている。
1991年に完成し、一時期は通りの顔の一つだった「タイムスリップビル」。メタリックな外観だが、エジプトのスフィンクスやツタンカーメン王のマスクをイメージしたものだという。現在は空き家状態。通りの名前を変えたぐらいで活気が戻るわけがないことなど当事者は重々承知とは思うが、この建物の惨状を見ると、何かのきっかけが求められているのだろう。
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