撮影可能になった福岡市博物館

IMG_4481.jpg

IMG_4477.jpg

 久しぶりの好天となった1月30日、散歩がてら福岡市博物館に立ち寄ったところ、企画展示室の前には長い行列ができていた。国宝の刀「圧切(へしきり)長谷部」が今月いっぱい展示中で、これを目当てに若い女性らが詰め掛けていると報道されていた。会期も残すところ2日間、しかも週末とあり、依然として多数の入館者が殺到しているようだった。

 「圧切長谷部」とは、織田信長が茶坊主を手打ちにしようとしたところ、棚の下に隠れたため、棚ごと圧し切ったという逸話を持つ禍々しい刀。なぜ、これが若者の人気を集めているかと言えば、刀を擬人化したゲームに登場する『へし切長谷部』という美形キャラがきっかけとも言われている。

 そう言えば、以前、太平洋戦争中の空母「隼鷹」について検索したところ、妙な髪形をした美少女キャラの画像が山ほど画面に出てきて混乱したことがある。この時、旧日本海軍の艦船をこれまた擬人化した『艦隊これくしょん』なるゲームがあることを知り、軍艦の擬人化という発想に驚いた。試しに「飛龍」「蒼龍」「翔鶴」「瑞鶴」といった艦名で検索をかけても同じような結果になった。「隼鷹」は三菱造船長崎で客船を改造して建造された空母で、マリアナ沖海戦などの激戦を生き延び、1947年に佐世保で解体された。このスクラップが横流しされた事件について調べていたのだが。

 ところで、博物館に寄ったのは、今年から企画展示室での写真撮影が可能になったと聞き、資料写真でも撮影しておこうと思ったためだ。だが、その企画展示室で「圧切長谷部」が展示中で、長い時間待たされそうだったので今回はあきらめた。「圧切長谷部」の鋭利な姿を写真に収めることが出来るのも“刀剣女子”の人気を呼んでいる一因らしい。

 福岡市博物館は全館写真撮影不可だと勝手に思い込んでいたが、常設展示室に限っては可能だったという。ただし、「撮影不可」のマークがある展示品が多数を占め、現実に撮影できるものはごく一部に限られる。下の写真が数少ない撮影可能な展示品の一部で、1枚目が碇石を使って復元された元寇船の木製碇、2枚目が福岡で明治から昭和初期にかけて正午の時報代わりに空砲を鳴らしていた大砲だ(『午砲』または『ドン』と呼ばれている)。空砲とは言え、お昼に「ドーン」と大砲をぶっ放していたなど何か楽しい。


IMG_4470.jpg

IMG_4474.jpg
スポンサーサイト
[Edit]

博多駅の待合室

DSCF1481.jpg

 まだ若かった頃、遠方に出掛ける際は、宿泊費や交通費を浮かせるため夜行列車(寝台列車ではない)をよく利用していた。目的地に着くのは早朝どころか、未明の時もあったが、そんな場合は駅の待合室で夜を明かした。本州のとある駅でうたた寝しながら朝を迎え、そのまま大学受験に向かったことさえある。一応合格はしたので、私にとっては数少ない武勇伝だが、この大学には入学しなかったため誰も信じてくれない。

 本題は駅の待合室についてだ。最近は改札口を抜けたコンコースやホームにあるだけで、誰もが利用できる待合室は少なくなった印象がある。地元のJR博多駅にも以前は筑紫口寄りの南側に広い待合室があり、列車を待ったり、人を出迎えたりする時に非常に重宝していたが、いつの間にか撤去され、2011年春に開業した新駅ビル・JR博多シティでも復活しなかった。駅ビル1階で一息つきたい時は飲食店に入るしかない。今さらだが、ホームレス排除のためなのだろう。

 調べてみると、先代の博多駅(写真)から待合室が撤去されたのは1990年10月。博多駅はJR九州とJR西日本が共同管理しているが、待合室があったのはJR西のテリトリーで、撤去後は旅行センターが開設された。表向きの理由は営業強化だったが、当時の新聞を読むと、ホームレス対策も目的の一つとJR西側も暗に認めていたようだ。待合室自体は駅2階の新幹線広場に移されたが、今度はここにホームレスが寝泊まりするようになり、夜間閉鎖によって排除を目論むJR側と、これに反発するホームレス支援団体との間で一時、激しい対立が続いた。

 JRの対応を「無慈悲」とみるか、待合室を占拠し続けるホームレスを不快に思い「弱腰の対応をするな」と考えるかは人それぞれだろうが、博多駅でホームレス対策が強化されだしたのは1979年3月に起きた女性殺害事件が遠因ではないかと思う。出勤途中だった若いOLが駅に隣接する交通センターのトイレで殺害されたという事件で、約3週間後、天神などを根城にしていた33歳のホームレスの男が逮捕された。金などが目当ての犯行だったという。

 警察は早い段階から博多駅や周辺で寝泊まりする者にターゲットを絞っていたらしく、実際にそんな男の一人が逮捕されたことで、この事件以降、福岡市民がホームレスを見る目は劇的に変化した気がする。その後の世の中の推移を見ると、ホームレスによる殺人などは稀有な例で、被害者になるケースの方が圧倒的に多いと思われるが、利用者から「怖い」と訴えられれば、施設管理者側は対処せざるを得なかっただろう。

 しかし、犯人の男が住んでいたアパートを引き払い、野宿生活を送るようになったのは実は犯行後のことで、厳密にはホームレスによる犯行ではなかったことになる。むしろ、男を怪しいとにらみ、再び目撃した際に通報するなど逮捕に協力したのが二人の女性ホームレスだったのだが、当時は“ホームレスによる凶悪犯罪”というイメージばかりが強調され、私もそう思い込んでいた。博多駅のホームレスにとっては、とんだとばっちりだったわけだ。

 話は少し脱線するが、以前、福岡県内のとある街で妙な光景を目撃した。街の中心部に屋根で覆われ、ベンチも置かれた石畳の広場が出来、住民たちの交流の場となった。しかし、間もなく数人のホームレスが住み着き、住民たちは敬遠するようになった。住み着いた者たちは夜間、酒盛りをして騒ぐこともあり、行政には苦情も寄せられていたらしいが、対処しているようには見えなかった。ところが、ある日突然、ホームレスは姿を消し、広場には再びベビーカーを押した母親らが集まってくるようになった。後から聞いた話では、監査があるため、行政サイドがしゃかりきになってホームレスを排除したという。事実かどうかは確かめていないが、さもありなんとは思った。
[Edit]

1977年以来の大寒波

DSCF1506.jpg

DSCF1526.jpg

 この冬一番の寒波が西日本を襲い、24日は福岡市も近年では珍しいぐらい雪が降り続く一日となった(とは言っても積雪は1㌢だったが…)。福岡市としては約40年ぶりに真冬日になるのではないかと予想されていたが、最高気温は0.6度と辛うじて氷点下を上回った。午前0時過ぎに記録したらしい。(※真冬日になったと誤った情報を書いていたので、タイトルとともに訂正した)

 約40年ぶりでは少しアバウトなので、福岡市が最後に真冬日となった日を気象庁の過去のデータで調べたところ、1977年2月16日のことだとわかった。この日は最高気温が氷点下1.3度、最低気温が同5.2度。私が高校生だった頃だが、そう言えば、高校生時代、昼休みに運動部のバカ連中で雪合戦に興じた時があった。目撃された数学の教師に「小学生なら元気が良いと誉めるところだが…」と嫌味を言われた記憶がある。あれが77年2月16日だったのだろうか。

 77年2月の寒波は、氷点下47度の大寒気団が強い季節風に乗って列島を襲ったためだ。きょうと同じく冷たい風が吹き荒れていたらしく、20㍍近い最大瞬間風速を観測している。しかも気温が氷点下だったのは16日だけのことでなく、前日15日の夕方に零度を下回って以降、17日の午前中まで40時間程“氷漬け”状態だったようだ。

 図書館に行き、新聞データベースで当時の記事を読んできたが、降った雪がなかなか融けず、各地で道路が凍結したため、西鉄バスのダイヤが大混乱、北九州では積み残された帰宅客が2万人も出たと書かれていた。当時は福岡市営地下鉄も北九州モノレールも開業しておらず、都市交通は西鉄バスが命綱のはずだったが、これがまた雪の日はほとんど走らず、まったく頼りにならない存在だった。

 図書館の帰り、恐る恐る街を歩き雪景色を写真に収めてきたが、福岡市博物館前庭の池が凍ったり、ヤフオクドームの屋根にうっすらと雪が積もったりと滅多にない光景が見られた。


DSCF1535.jpg

DSCF1565.jpg

IMG_4441.jpg

[Edit]

渋谷暴動

IMG_0906b.jpg

 1971年の渋谷暴動で警察官一人を殺害したとして指名手配されている中核派の活動家、大坂正明容疑者のアジトを警視庁が捜索したとの報道が先頃あった。と言ってもネットで記事を読んだだけで、福岡市内で配られている新聞には記事は見当たらなかった。45年前に東京で起きた事件。九州人の興味はひかないと思われたのだろうか。

 渋谷暴動とは1971年11月14日、沖縄返還協定の批准阻止を訴え街頭行動を行っていた過激派の一部が、警戒に当たっていた当時21歳の警察官を襲い、鉄パイプで乱打したうえ火炎瓶を投げつけて殺害したという事件だ。主犯格の男には無期懲役判決が下され、現在も徳島刑務所で服役中。彼は無実を訴え、再審を求め続けているという。

 45年前の事件でありながら大坂容疑者の時効が成立しなかったのは、共犯者一人の公判が精神疾患により止まり、彼の時効も停止していたためだ。そのうえ2010年の刑訴法改正で殺人の時効そのものが撤廃されてしまった。共犯者の精神疾患は大坂容疑者にとっては痛恨事だったことだろう。

 大坂容疑者は現在66歳だが、手配のポスターには20歳代初めの頃の顔写真が掲載されている。このシャープな顔立ちには見覚えがあると思ったら、2014年3月、JR山口駅の掲示板で横山ゆかりさん捜索への協力を呼び掛けるポスターを撮影した際、その横(向かって左側)に貼られていたのが大坂容疑者のポスターだった。しかし、仮に幼馴染であっても45年ぶりに出会ったら、顔を見てわかる自信が私にはない。ましてポスターに掲載された若者時代の顔を参考に、66歳の男を識別するなど普通の人には到底無理だろう。警察側も数年前、中高年となった大坂容疑者の想像図を作り、公開したようではあるが…。

 ちなみに右側は97年8月、山口組最高幹部の宅見組組長らを射殺したとして手配されていた財津晴敏容疑者(現在は受刑者)の手配ポスター。実は彼は2013年6月に逮捕されており、この写真を撮影したのはちょうど無期懲役の一審判決が下された頃だった(その後、無期懲役が確定)。はがし忘れだったのだろう。JR山口駅の掲示板にはこのほかにも多数の手配ポスターが貼られ、日本の未解決凶悪事件の見本市のようだった。福岡ではあんな掲示板は見たことがない。
[Edit]

恋の浦の現在

IMG_4417.jpg

 福岡県宗像市の直売所に行った帰り、福津市の「恋の浦」に立ち寄って来た。ここには以前、鹿児島市の城山観光が運営する「玄海彫刻の岬 恋の浦」という野外美術館を兼ねたレジャー施設があり、開放的な雰囲気を気に入り、かなり頻繁に通っていたことがある。入場客減少により2001年12月にいったん休園したが、その後、跡地を買い取った別会社が2008年7月、「恋の浦ガーデン」の名前で営業を再開したと聞いていた。しかし、門は閉じられ、「休園中」の看板が掲げられていた。

 この日がたまたま休園日だったというわけではなく、2014年9月31日限りで一般営業を終了したとのお知らせが門の横にあった。「恋の浦ガーデン」としての歴史は6年程で終わっていたわけだ。現在はイベント利用に限って貸し出しているという。近くを通ったため、懐かしさもあって外観だけでも見ようと思ったのだが、それさえも叶わず、少し残念だった。

 「玄海彫刻の岬 恋の浦」は玄界灘に突き出た丘(岬)に造られた施設で、開園は1984年。100㌶以上の広大な敷地はカートで散策することができ、野外美術館のある岬の突端からは玄界灘の絶景が望めた。沿革を調べてみると、87年に屋外スケート場、91年に遊園地が新設され、この91年にピークとなる年間50万人が来場したという。私がよく通っていたのもこの時代で、施設入り口前の駐車場が満車のため、麓の駐車場からシャトルバスで運ばれることも度々だった。

 ところが、転勤でしばらく福岡県を離れた後、北九州勤務となった90年代後半に久しぶりに行ってみると、施設内の様相が変わっていた。スタッフが極端に少なく、遊園地では1~2人のスタッフが走り回って複数の遊具を動かしていたのだ。つまり、それで間に合う程度の入場者しかいなかったわけで、10年足らずの間にここまで凋落するのかと信じられない思いだった。もともと不便な場所にあるだけに、いったん飽きられると客足が遠のくのは早かったのだろう。休園前年の2000年、入場者はピーク時の4割程度まで落ち込んでいたという。

 城山観光が休園を決めた際は、温泉を新設するなど施設をリニューアルし、2年後に再オープンする計画だったというが、会社自体の経営再建を迫られ、果たせなかったようだ。城山観光は鹿児島市が本拠だが、以前は恋の浦のほか、ホテルや高級中華料理店などを福岡でも手広く経営しており、これに絡んでタクシーの運転手から面白い話を聞いたことがある。福岡空港で乗せた客が「城山ホテルまで」と言うので、中洲にあった城山ホテルに送ったところ、客はひと言「鹿児島の城山ホテルまで行って欲しいんだよ」。もちろんバブル時代の話で、鹿児島の城山ホテルで客が差し出したタクシーチケットには製薬会社の名前があったという落ちがつく。

 信憑性は「?」だが、あの時代ならば、あり得た話かもしれないとも思う。
[Edit]

1,300本に減った西公園の桜

IMG_4398.jpg

 福岡市中央区の西公園を散策中、ソメイヨシノの根元に「お酒をかけないで。桜が枯れます」と書かれた看板があるのを目にした。病害虫に弱いと言われるソメイヨシノだけに、酒をかけられ雑菌でも繁殖すれば、本当に枯死する恐れもあるのだろう。それにしても、いくら花見に酒は付きものと言っても、桜にまで飲ませることはないだろうに…。

 昨年5月に「影が薄い西公園」という記事を書いたが、ここは市内では有数の桜の名所で、毎年春には花見客で大にぎわいする。日本さくらの会が1990年に選定した「日本さくら名所100選」にも福岡県内からは唯一選ばれているほどだ。ただ、公式サイトで園内のソメイヨシノの数が約1,300本であることを知り、あまりの少なさに少し驚いた。以前は“3,000本の桜”を誇っていた記憶があったからだ。

 念のため図書館で新聞データベースを検索した結果、「福岡市中央区・西公園には二千八百六十本のソメイヨシノがあるが…」と書かれた記事(1992年3月13日の読売新聞夕刊)が見つかり、記憶に間違いがなかったことを確認した。この数字通りならば、桜の数はこの20数年で半分以下にまで激減したことになる。ソメイヨシノは一時は寿命60年説が広まるなど長生きさせるのが難しい樹種だと聞くが、半分以下に激減というのは穏やかではない。

 まさか、本当に酒で次々枯死しているわけではないだろうと思い、管理事務所に電話で尋ねてみたところ、「この11年間は1,300本という数で一定している」という回答をもらった。11年という期間が妙に中途半端だが、福岡県営の大濠公園、西公園の管理は2006年度以降、県に代わって西鉄のグループ企業が指定管理者として担当しており、「我々が管理するようになって以降は本数に変動はない」という意味だ。それ以前(つまり福岡県の直営時代)のソメイヨシノの数については正確な記録がなく、何本減ったなどの比較はできないというが、「以前はもっと多数の桜があったという話は聞いており、工事で撤去されたり、枯れたりして減った可能性はある」とのことだった。

 県側はどのように受け止めているのかと思い、県議会の会議録を調べたところ、昨年6月議会で小川洋知事が「現在、樹木の専門家による桜の調査を行っておりまして、今後、その結果を踏まえて桜の再生を計画的に行い、公園の魅力向上を図ってまいります」と発言しているのを見つけた。西公園の桜が往時の勢いを失っているという問題意識は県側にもあるわけで、桜の数が大幅に減ったのは間違いない事実だろう。

 蛇足だが、福岡市関係者の中には、市営の舞鶴公園ではなく、県営の西公園が「日本さくら名所100選」に選ばれたことを悔しがる声があったようだ。1990年代の市議会の会議録には「西公園の桜は舞鶴公園に比べて元気がない」「県はあまり世話をしていない」といったやりとりが残されていた。
[Edit]

大山祗神社跡公園

IMG_4390.jpg

IMG_4385.jpg

IMG_4384.jpg

 この正月、初詣を兼ねて福岡市西区の愛宕神社に登ってきた。標高約60㍍の山上に拝殿があり、急な石段や坂道はジョギングコースとしても人気だ。その坂道の途中に展望台らしき見慣れぬ建造物が出来ていた。近付いてみると「大山祗神社跡公園」と書かれたプレートが掲げられ、展望台下部にあった説明板には公園の由来が記されていた。

 大山祗神社は山の神であり、かつて愛宕山の北側に広がっていた早良炭鑛(姪濵炭鑛)の守り神であった。大正三年十二月、この地に姪濵鑛業(姪濵炭鑛)が葉室豊吉により設立された。西に佇んでいる石碑は葉室翁頌功碑で翁の功績を撰文している。姪濵鑛業・早良鑛業・サワライズと社名を替えながら、平成二十六年十二月で設立百周年を迎えた。記念事業の一環として葉室翁頌功碑の環境改善を行い、大山祗神社跡を整備し、公園として後世に残す。
平成二十七年十月        株式会社 サワライズ


 2013年に「愛宕神社からの眺め」で取り上げたことがあるが、愛宕神社の北側には1962年(昭和37年)まで姪浜炭鉱があった。その守り神だった大山祗神社がかつてこの地にあり、現在も社名を「サワライズ」と変えて存続している炭鉱会社が創立100周年を記念、跡地を公園として整備したというわけだ。大山祗神社と言えば、福岡県内では朝倉市の神社が奇祭「おしろい祭り」で有名だが、説明文中にあるように、以前は守り神として各地の炭鉱で祭られていたらしい。筑豊地区などには当然、多数存在したはずだと思うが、少なくとも道路地図では探し当てることはできなかった。この地と同じく、炭鉱閉山とともに消滅したケースが多いのだろうか。

 姪浜炭鉱はあらかじめ閉山に備えて病院や鋼材製造、自動車学校の経営に乗り出し、閉山から半世紀以上を経た今も健在。記念事業として小規模ながらも公園を整備するぐらいの体力があるのだから、飯塚の麻生グループなどと同じく、経営多角化がうまくいった例だろう。炭鉱会社の中には倒産状態で閉山し、深刻な鉱害を残していった企業もある。姪浜炭鉱に先見の明があったことは地元にとっても幸いだったのではないだろうか。展望台の眼下には、愛宕神社からとは微妙に違う風景が広がっていた。


IMG_4380.jpg
[Edit]