イオン西新店閉店

IMG_4611.jpg

 イオン九州が23日、西新店(福岡市早良区西新4)を5月いっぱいで閉店すると発表した。店内にもすでに閉店のお知らせが貼りだされている。建物は今年で築49年。老朽化が理由らしい。昨年9月1日、ダイエー西新店からイオン西新店に店名を変えて再出発した際、閉店を免れたことを喜び「イオン西新店、屋号の変遷」という記事を書いたが、イオン西新店としての歴史はわずか9か月で終わることになった。街のランドマークであり、商業の中心でもあったプラリバが昨年7月いっぱいで閉館したのに続き、恐れていたイオン西新店の閉店まで現実のものとなり、西新の街の先行きが心配だ。

 イオン西新店は地上5階建てで、1階が食品、2階が生活雑貨、3階が衣料品、4階が文房具や玩具、5階が100円ショップとなっている。こう書くと一見大規模店舗のようだが、店舗面積は計6,000平方㍍弱に過ぎず、非常に小ぢんまりした総合スーパーだ。品ぞろえに不満がなかったわけではないが、使い勝手は良い店だった。私が見た限りでの客足は、1階はライバル店だったプラリバのサニーが閉店したこともあり、特に夕方などは大賑わいしているが、2階より上のフロアーが混雑していた記憶はない。

 イオン九州が公表したニュースリリースによると、「今後は店舗の建て替えや業態変更を含め、関係各位と様々な検討を重ねてまいります」とあり、要するに跡地利用は未定だ。新聞報道によると、7月から建物の解体に取り掛かり、年度内には終える予定だという。イオン西新店、あるいはマックバリュ西新店として再建される可能性はゼロではないと思うが、イオン九州が西新地区の購買力をどうとらえるかだろう。建て替えを明言していないのだから、それほど有望な地域とは思っていない可能性はある。

 プラリバ閉館が決まった際、「いきなり買い物難民になることはないだろうが」とこのブログに書いたことがあるが(「プラリバ閉館へ」)、この時はまだ、老朽化は進んでいるもののイオン西新店(当時はダイエー西新店)があるという安心感があった。イオン西新店閉店後も商店街の半径1㌔以内には他にも複数のスーパーがあり、やはり買い物難民になることはないだろうが、商店街ですべての買い物は完結とはいかなくなると思う。自転車や徒歩で商店街に来ていた人たちが、今後は車で郊外型スーパーに行くケースも恐らく増えることだろう。車を運転しない高齢者らはしんどくなるに違いない。

 手元にちょうど40年前、1976年の西新地区を紹介する略地図がある。昔のタウン誌に載っていたような大雑把なものだが、それでも当時の賑わいは見て取れる。現在のオレンジ通りには映画館がまだ健在。三信衣料、喫茶店の山小屋、レコード店のエル、ケーキ店のメイゾンといった懐かしい名前が並び、ジャズ喫茶やライブ喫茶も点在している。イオン西新店は当時はユニード西新店、複合ビルのテングッドシティがある場所にはニチイがあった。

 一方で、意識して記されなかった可能性はあるが、この地図には今となっては商店街の最大勢力となったパチンコ店が見当たらない。「プラリバ閉館へ」でも書いたが、もう一度繰り返したい。イオン西新店の跡地が何になるにせよ、これ以上のパチンコタウン化だけは勘弁してほしい。
スポンサーサイト
[Edit]

風レンズ風車撤去へ

IMG_4597.jpg

 福岡市早良区のシーサイドももち海浜公園に設置されていた3基の風力発電用風車から羽根が取り外され、発電不能の状態になっている。東区のみなと100年公園にあった同型の風車が破損事故を起こし、再発を恐れた市が半年前の昨年8月に取り外したという。風車自体も近く撤去する方針らしい。

 この風車は九州大の研究グループが開発した「風レンズ風車」で、風レンズと呼ばれるカバーにより微風でも効率的に発電できるというのが売りだ。市も“福岡の誇るべき技術”として開発を後押しするため、シーサイドももち海浜公園、みなと100年公園の二か所で2009年12月から、続いて油山の市営牧場もーもーらんどで2010年1月から、それぞれ実証実験を行っていた。設置されていた風車数はシーサイドももち3基(出力3kW)、みなと100年1基(同)、もーもーらんど1基(5kW)。発電した電力は照明や携帯電話の充電、もーもーらんどでは冷蔵設備などに使われていた。

 みなと100年公園で起きた事故は、暴風警報が発令され、最大風速20㍍の強風が吹き荒れる中、風車の羽根がビュンビュン回転した挙げ句に壊れ、破片の一部が車の窓ガラスを直撃したというものだ。風が強すぎる時にはブレーキが働くはずだったが、運悪くこれが故障していたという。幸いけが人は出なかったが、市が青ざめたのは間違いない。

 風レンズ風車が設置されていたのは全て不特定多数の市民が集まる場所。市側が風車撤去を決めたのは、実証実験開始から6年が経過し、「一定の成果が得られた」という理由だが、同時に安全性を考慮しての判断であることも明らかにしている。

 市側が挙げる一定の成果とは、実証実験で得られたデータが九大側の研究や設備改良に役立ったことや、小型風力発電設備に対する市民の認知度が高まったことだが、認知度が良い意味で上がったかは疑問だ。事故が起こり、再発を恐れてあっさり発電設備を撤去するわけだから、事情を知る市民が良い印象を持ったはずはない。風力発電が普及に値する自然エネルギーなのかはわからないが、このままあっさり実証実験から撤退したのでは、「風力発電は危険」というマイナスイメージしか残らない気がする。
[Edit]

サザエさん像また災難

IMG_4578[1]

 福岡市早良区のシーサイドももち海浜公園に設置されていたサザエさんファミリーのシルエット像がまたも被害に遭った。昨年7月にサザエさん像が壊されたのに続き、2月16日にはタラちゃん像まで折られてしまった。17日夜に現場付近を散歩したところ、残っていたはずのカツオ、ワカメ像までも撤去されており、物寂しい雰囲気になっていた。18日の西日本新聞によると、早良区役所が一時的に避難させたという。このシルエット像が設置されたのは昨年3月25日のことだから、1年もたたずに4体全てが姿を消したことになる。(設置当初の写真は一番下に)

 先に壊されたサザエさん像については募金で再建することになっており、昨年末までに目標の20万円を大きく上回る150万円近くが集まっていた。この浄財で3月にも再建の予定だったというが、今回の事件でご破算になった。幸い多くの募金が集まったことで、いずれシルエット像は元通りになるとは思うが、「めでたし、めでたし」で済ませては被害は今後も続くと思う。

 サザエさん像が被害に遭った際にも書いたが、こういった器物損壊事件で容疑者が逮捕されたケースはほとんど記憶がなく、現実にサザエさん像損壊犯も捕まっていない。刑事罰も損害賠償請求も受けないままだから、容疑者が反省することもない。だから愚行が繰り返される。タラちゃん事件も目撃者のいない未明の犯行であることから今回も捜査は難航するだろうと思うが、所轄の早良警察署には何とか容疑者を捕まえてもらい、愚行の連鎖を断ち切って欲しいものだ。

 過去にも繰り返し紹介してきたが、この街にサザエさん像があるのは2012年5月、日本で二番目の「サザエさん通り」ができたからだ。原作者の長谷川町子さんが戦中・戦後の一時期、現在の早良区西新付近に住んでいたことがあり、今は埋め立てられた海岸を散歩中にサザエさんらの登場人物を思い付いたと言われている。この歴史的経緯を踏まえ、長谷川町子美術館が名称使用を認めてくれた。

 早良区は「サザエさん通り」を街づくりに生かそうと「『サザエさん通り』構想」を策定しているが、この構想の中で今年2016年はかなり重要な年と位置付けられている。漫画『サザエさん』が夕刊フクニチ(福岡にあった夕刊紙)で連載が始まったのは1946年4月で、今年は誕生70周年。さらに通り沿いにあり、構想にも協力的な西南学院が創立100周年、同じく通り沿いにある福岡市総合図書館も開館20周年を迎える。構想で今年は“イベントイヤー”と位置付けられており、それぞれの記念日等に合わせ多種多様なイベントが予定されていることだろう。早良区はこれを弾みに、歩道改良などハード面の整備にも手を広げる段取りだったと思う。しかし、相次ぐ像損壊事件で、出ばなをくじかれたも同然だ。

 長谷川町子美術館側の反応も気になる。“サザエさんの生まれ故郷”だからと、せっかく構想にも協力してくれていたのに、故郷がこうも冷たい仕打ちばかりしていたのでは気分を害さないとも限らない。


IMG_2038.jpg
[Edit]

教室ストーブの思い出


 最高気温が13日には20度を超えていた福岡市だが、寒の戻りで15日には一気に5度前後まで下がり、凍える一日となった。福岡市は現在、全市立小中学校へのエアコン設置を段階的に進めているところだが、これほど寒くても暖房使用は認めていないという。あくまでも夏場の熱中症対策のため設置したエアコンであり、少々寒いのは我慢しろということらしい。せっかく教室にエアコンがあるのだから、校長らの判断で臨機応変に使えば良いのに、と思うが。

 ここで良き大人ならば「暑さ寒さに耐えるのも教育の一環」とのたまうべきだろうが、残念ながら私は根性なしなので、苦難を人に強いることなどできない。また、私が入学した筑紫野市の小学校には当時、冬は教室の後ろにストーブが置かれていたので偉そうなことは言えないのである。転校先の福岡都市圏の他の小学校ではストーブなど見たこともなく、なぜ、あの学校にだけ暖房があったのか今となっては謎だが。隙間風が入るような老朽木造校舎だったためだろうか。

 このストーブで給食時間にちょっとやらかし、担任の太った女性に大目玉を食らったことがある。コッペパンを温めたらうまそうだと思い、二つに割ってストーブの上にのっけたのだ。給食は好き嫌いなく何でも美味しく食べていた人間で、だから逆に特に好物というものはなかったのだが、『タカマーガリン』(こんな商品が給食で出ていた)を塗ったコッペパンのトーストは絶品だった。すっかり気に入り翌日もパンを焼こうとしたところ、初日は何も言わなかった級友たちが騒ぎ出し、担任は「火事になったらどうするの!」と激怒。こうして私のトースト天国はたった一日で空しく終わった。

 この担任には給食時間にもう一度睨まれている。どんな料理だったかは忘れたが、パンに入れて食べ始めたところ、今度もまた「先生、駄田君が変な食べ方をしています」とご注進に及ぶ輩が現れた。担任に「そんなことして美味しいね」と詰問された私は、震えながらも「うまいです」と答え、侮蔑のまなざしを浴びた。極貧の父子家庭の子供はやはり下品だと思われたようだ。現在の給食ではあらかじめパンに挟む前提でメニューが考えられていることもあるようだが、昭和時代、しかも田舎の学校でそんなしゃれたものはなく、私のやったことは相当異端だったのだろう。

 図らずも太った担任の嫌な思い出話ばかりになってしまったが、福岡市立小学校で3、4年生の時の担任だった“日教組のくせに●●差別をしていた中年女”(
「福教組教員の差別」)とは違い、太った担任への嫌悪感は今も全くない。運動会の前、玉入れ用の玉を紅白1個ずつ家庭で作って持って来ることになった時、「あんたのところは大変だろうから」と言って、あらかじめ作ってきた玉2個を私に手渡してくれるような人でもあった。赤玉の色が微妙に茶色だったが。

 写真は私が通った小学校の一つ。ここにはストーブはなかった。
[Edit]

電気カミソリ爆弾殺人

DSCF19731117.jpg

 現在の宗像市で1973年11月に起きた日の里団地ガス爆発事故について4年前に調べた際(「日の里団地のガス爆発」)、この1973年11月には異常なほど大事件や大事故が相次いだことを知り、驚いたことがある。『警察白書』の「昭和48年中の主なできごと」によると、この月に起きた主だった事件・事故だけでも次の通りだ。

15日 日の里団地でガス爆発、2人死亡・13人重軽傷
17日 大分県九重町で電気カミソリ小包爆弾を使った殺人事件発生
19日 長野県上伊那郡の煙火工場で爆発、4人死亡・2人重傷
22日 北アルプス槍ヶ岳で京都大のパーティーが雪崩に遭い5人死亡
24日 東京・巣鴨の住宅街で化学工場が爆発、3人死亡・12人重軽傷
25日 ベイルートで日本人175人を含む279人が乗ったKLM機がハイジャック    
26日 那覇市のビル建設現場で大規模陥没事故。住宅8棟が全半壊
29日 熊本市の大洋デパートビルで火災。103人死亡の大惨事に

 4年前には気にもとめなかったのだが、17日に起きた電気カミソリ小包爆弾殺人とはかなり物騒な話で、過激派による爆弾テロを思わせる。どんな事件か調べてみたところ、ドロドロした不倫の末の殺人事件とわかり、拍子抜けした。殺害の手口が特異だったものの、事件の構図は何の変哲もないが、「ゲスの極みよりもゲスな」国会議員の不倫が騒がれている時でもあり、せっかくなので簡単に概要を紹介させていただきたい。

 事件が起きたのは1973年11月17日午後6時半頃。採石場に勤める男性(33)が自宅に送られて来た充電式の電気カミソリを居間のコンセントに差し込んだところ、突然大音響とともに爆発、破片が心臓に刺さり男性は即死した。居間には男性の妻(27)と長女(4)もおり、同じこたつに入っていたが、とっさに身を伏せ難を逃れたという。電気カミソリの差出人には女性の名前が書かれていたが、後に架空の人物だとわかった。爆発の凄まじさから、警察は電気カミソリの中に爆薬が仕込まれていた疑いが濃厚として即座に殺人事件として捜査を開始した。

 9日後の26日に逮捕されたのは妻の不倫相手のダンプカー運転手(35)で、こちらも妻子持ち。W不倫を男性に知られ、100万円を要求されたことが殺害の動機で、電気カミソリ爆弾は、自ら爆薬と雷管を仕掛けて作り上げたという。ダンプカーの運転手がなぜ、爆弾を自作するだけの知識、技術を持っていたのか疑問だが、砂利運搬のため採石場に出入するうちに覚えたことになっている。爆薬は知人からもらったという。男性の妻も再三取り調べを受けたが、無関係だったようだ。たまたま無事だったとは言え、事情を知っていたのならば、爆発の際、同じ部屋にいたはずがない。運転手には大分地裁中津支部で75年3月、懲役13年の判決が下っている。

 冒頭書いたように、大事件・大事故が続発していた時だったため、この事件に対する世間的な注目度は高くなかったようだ。当時のテレビ欄をチェックしたが、連日多数のワイドショーが放送されていた時代なのに、この事件を取り上げた番組は見当たらなかった。辛うじて見つかったのが上の『週刊新潮』の広告だ。不倫の末の殺人よりも、「国会議員にも育休を」などと喚いた衆院議員の不倫の方がニュースに違いない。
[Edit]

春の風物詩シロウオ漁

IMG_4568.jpg

DSCF1577.jpg

 福岡市西部を流れる室見川河口で、シロウオ漁のための仕掛け(やな)作りが行われている。今年の漁解禁は今月16日。透き通ったこの魚は福岡では春を告げる魚として珍重され、生きたままポン酢しょうゆで食べる「踊り食い」が特に好まれている。ツルッとしたのどごしが絶品らしい。長年福岡に住んでいながら、“らしい”と書くぐらいだから食べたことはない。シロウオ会席などは意外と値段の張る料理で、リーズナブルな食生活を送っている私には結構敷居が高いのである。

 このシロウオ漁、以前は福岡特有のものだと思っていたが、インターネットで各地のローカルニュースを読める時代になり、日本のあちこちで“早春の風物詩”として扱われていることに気付いた。今年もすでに熊本・天草や佐賀・唐津で漁が始まったとのニュースが届いている。ほかにも山口や愛媛、和歌山、石川、青森などの各県にもシロウオ料理を名物にしている土地があり、要するに日本全国の沿岸にシロウオは生息しているらしい。

 地元固有の食べ物と思い込んでいたなど恥ずかしい限りだが、一応釈明させてもらえれば、福岡市の公文書にも堂々と「春先のシロウオ漁は福岡ならではの風物詩であり食文化」などと書かれている。これも一種の“モンチ”精神なのだろうか。(モンチの意味については
「謎の言葉『モンチ』」参照)

 福岡に関しては少なくとも江戸時代からシロウオ漁が行われていたとされ、実際に貝原益軒の『筑前国続風土記』にも“麪條魚”という難しい漢字でシロウオは紹介されている。当時は室見川(続風土記では早良川と記載)だけでなく、遠賀川や宗像川(現在の釣川のことだろうか)にも遡上していたようで、漁獲量は「甚多し」と記されている。漁がいつ頃から室見川だけになったのかはわからないが、河川改修などが影響しているのだろう。室見川にしても一時は漁獲量が10㌔程にまで落ち込み、存続の危機に立たされたことがあったという。

 なお、室見川には内水面漁協がなく、潮干狩りなどの際には入漁料が不要だと以前に書いたことがあるが(
「漁業権がない室見川」)、シロウオ漁に関しては「室見川シロウオ組合」があり、この組合が稚魚を放流したり、産卵場を整備したりなどの活動も行っている。料亭で食べると高いからと言って、勝手に網ですくって持ち帰ったら“密漁”である。
[Edit]

岩木判官正氏の墓



IMG_4564.jpg

 江戸時代、早良郡庄村(現在の福岡市早良区室見一帯)の西端にあった竹林に、地元民が「岩木判官正氏墓」として畏れる石仏があったという。貝原益軒(1630~1714)が福岡藩の地誌『筑前国続風土記』の中で紹介している。岩木正氏とは『さんせう太夫』(森鴎外の小説では『山椒大夫』)の主役、安寿と厨子王姉弟の父親で、一般的には岩城正氏と書かれる。彼が帝の怒りを買い、筑紫に流されたことが姉弟の悲劇の幕開けだ。続風土記には墓について次のように書かれている。

 庄村の西の端に竹林有。其中に石仏有。村人是を岩木判官正氏が墓なりと云て甚恐る。此正氏は奥州の国主の由、児女の物語に云伝、世にもてはやし侍る事なれ共、慥ならざる事なれば、信ずるにたらず。

 『さんせう太夫』は架空の物語であり、博識な益軒は「信じるにたらず」と一刀両断しているが、続風土記にわざわざ取り上げたことを考えると、岩木正氏の墓は当時、近隣でかなり知られた存在だったのだろう。竹林の石仏がなぜ、正氏の墓だと信じられていたのか。続風土記の短い一文では想像しようもないが、「筑紫に流されたのだから、この地に墓があるはず」という考えがあったとは思う。筑紫は失脚した者や罪人が流されてくる土地だという認識が地元の人間にもあったのだろうか。

 そう言えば、高島宗一郎・福岡市長も1~2年前、自らがかじ取り役を務めるこの街を「左遷されて来る場所」と表現し、一部で物議を醸したことがある。市長の本意は「私がその認識を変えて見せる」という決意表明だったと思うが、菅原道真の例を見てもこの地が古来左遷の地だったのは紛れもない事実であり、『さんせう太夫』にもそれが反映されていたのだろう。

 なお、続風土記で「岩木判官正氏墓」の前の項目は「庄村天神社」で、この社の由来について益軒は「村翁の云伝には、菅丞相左遷の時、先此所に着給ひぬ。(中略)是によりて、後世菅公の御社を立たりと云」と書き記している。岩木正氏と菅原道真、庄村には流された2人にまつわる伝説があったわけだ。単なる偶然なのだろうか。

 かつて庄村と呼ばれた土地は現在、地下鉄沿線の住宅地となっている。西端は室見川の河畔公園として整備されており、先日、付近を散策してみたが、石仏はおろか、竹林さえも見当たらなかった。これは予想通りだったが、庄村天神社の方は、室見4丁目にある少童(わだつみ)神社(写真)のことではないかと思う。庄村天神と少童神社では名前が違いすぎるが、大正時代、別の場所にあった少童神社を天満宮(天神社)に合祀したという。
[Edit]