頻発していた米軍機墜落

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「此の屋敷の供養塔」に絡んで福岡市中央区で起きた大事件・事故を調べる中で、1952年9月、現在の中央区地行の住宅に米軍ジェット機が墜落し、住民2人が即死、乗員1人も死亡したという事故に行き当たった。

 供養塔がある荒戸とは少し離れた場所なので、これも無関係だとは思うが、住宅地に米軍機が墜ち、しかも死者まで出ている。福岡市での米軍機墜落事故と言えば、1968年6月2日夜に起きたファントムの九大構内墜落事故が有名だが、図書館の新聞データベースで調べたところ、1950~1960年代、福岡県内だけでも相当数の墜落事故が起き、多数の犠牲者を出していたことがわかった。

 1940年代に起きた墜落事故は検索にかからなかったが、これはなかったからではなく、GHQ占領下にあり、しかも深刻な紙不足だったという時代背景を考えれば、新聞では報道されなかっただけという可能性は高い。福岡県内で起きた米軍機墜落事故一覧を下にまとめたが、実数はさらに多いのではないだろうか。

 なお、60年代に入ってからはF100スーパーセイバーが相次ぎ事故を起こしている。1954年から運用が始まったジェット戦闘機だが、初期には事故が目立ったといい、Wikipediaによると、計889機が事故で失われ、324人のパイロットが死亡したという。巻き添えになった民間人を加えると、犠牲者数はさらに跳ね上がるはずだ。写真は1961年5月13日に撮影された福岡空港(板付基地)の写真で、国土地理院の
「地図・空中写真閲覧サービス」からお借りした。拡大するとわかるが、F100らしき機体が多数写っている(写真は横3780ピクセルまで拡大可能)。

▽1951.05.10 午前8時頃、福岡市二又瀬の醤油醸造業男性(56)方にジェット戦闘機が墜落、男性と妻(50)、三女(22)と従業員5人、隣家の長女(17)、次女(15)の計10人が即死。パイロットも死亡。墜落機の機種は不明だが、当時の米軍主力戦闘機はF86。調べた限りでは、福岡県内で起きた米軍機墜落としてはこの事故が最悪の惨事。

▽1952.07.23 芦屋町の松林に芦屋航空基地所属の双発輸送機が墜落、飲食店従業員寮が全焼し、寮内にいた女性(23)ら3人が死亡。乗員は5人全員が即死。

▽1952.09.20 午前11時40分頃、福岡市地行西町の女性(56)方にジェット機が墜落、女性と下宿人と思われる男性(20)が死亡。乗員は1人が死亡、1人がパラシュートで脱出。

▽1953.02.13 門司市の山に大分から飛来したSA16飛行艇が激突、乗員7人が死亡。

▽1955.01.31 志賀町(現在の福岡市東区志賀島)沖の海にヘリコプターが墜落、乗員1人が死亡、2人が不明(続報が見つからず2人の生死は不明)。

▽1956.07.20 門司市沖の海上にC107輸送機が墜落、乗員4人が絶望。

▽1957.04.22 午後3時40分頃、八幡市の山中にC119輸送機が墜落し、乗員4人が死亡。さらにこの日は午後6時頃、八幡市の別の山中にヘリコプターが墜落し、乗員1人が死亡、2人が重傷。

▽1957.05.20 硫黄島から芦屋航空基地に飛来したC130輸送機が着陸を誤り、基地内の兵舎に激突、3人が死亡、14人が負傷。

▽1961.12.07 福岡市香椎の工員男性(27)方にF100戦闘機が墜落し計3棟の住宅が全焼。工員男性の妻(23)ら3人が焼死、後日さらに1人が亡くなる。パイロットは墜落直前に脱出。

▽1963.01.18 板付基地を離陸したF100戦闘機が直後に爆発炎上、パイロットが即死。

▽1965.02.18 板付基地を離陸した三沢基地所属のF100戦闘機が直後に山中に墜落。パイロットはパラシュートで脱出し無事。
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消え行くホークスタウン

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 福岡市中央区地行浜のヤフオクドーム横にあるホークスタウンモールを24日、のぞいてきた。5月8日で営業を終了するZepp福岡以外の施設は今月末での閉鎖が決まっており、残すところ1週間。もともと空き店舗が異様に多かったショッピングモールだが、閉鎖前に退店した店舗も少なくなく、もはや“明るい廃虚”状態だ。モールの信託受益権を持つ三菱地所は昨年暮れ、建て替えの方針を公表したが、具体的な計画案は未だ明らかにしていない。

 人通りのほとんどない一角に「約16年間、本当にありがとうございます。」と題したお別れのあいさつが掲示されていた。その中にも書かれていたが、モールの誕生は2000年4月。1988年の福岡移転以来、長く苦闘を続けてきたダイエーホークスがパリーグ初優勝、そして日本一に輝いた翌年のことだった。ダイエー側は最初、現在のヤフオクドームのほかに「ファンタジードーム」というドーム型商業施設を建設する計画を立て、施設運営を担当する子会社は「ツインドームシティ」を名乗っていた。景気の悪化もあってか、着工は遅れに遅れた挙げ句、現在の姿に落ち着いたが、わずか16年で歴史を閉じる。

 福岡市では、このほかにも今月末で消え去る施設が少なくない。最も惜しまれているのは中央区舞鶴2の那の津通り沿いにある少年科学文化会館のようだが、ここは来年10月、九大教養部跡地に出来る複合施設に「福岡市科学館」と名を変えて再オープンすることが決まっている。閉鎖を嘆き悲しむ人が本当に多いのは、東区蒲田5にある東部余熱利用センターではないだろうか。ごみ焼却施設の余熱を活用した大浴場と休憩室があり、利用料は無料。近隣住民や、立花山・三日月山の登山客など年間3万数千人の市民が立ち寄っていた。

 市が閉鎖を決めたのは、1978年4月完成の施設は老朽化が進み、改修や維持・管理に多額の費用が掛かる、というお役所お決まりの理由だ。高齢者からは「私たち、年配の者は風呂が楽しみで生きています。閉館しないでください」といった声が寄せられていたが、市側は地元には「代わりにシャワー施設を整備しますから」と理解を求めていたらしい。コストが掛かる話なので閉鎖の良し悪しは判断がつかないが、風呂でくつろぎ休憩室で談笑を楽しんでいた高齢者に対し「代わりにシャワーを」というのは全然違う気がする。

 中央区大名2にある青年センターも今月末で閉館する。市の目抜き通り、明治通り沿いにある鉄筋5階建ての建物で、1968年10月に開館した。開館当時は中卒で就職する若者も一定数おり、彼らを対象にした教養講座などがかつては多数開かれていたという。現在は自習やサークル活動の場となっていたが、交通の便が良いこともあってか今なお年間5万人近い利用者があった。決して「役割を終えた」わけではないと思うが、市側が隣接する旧・大名小学校跡地との一体活用を打ち出し、取り壊しが決まった。今週末に華々しくお別れイベントを開く少年科学文化会館とは対照的に、静かに消え去るようで、最終日の3月31日は臨時休館となっている。

 旧大名小跡地がどうなるかについては市が先頃、『旧大名小跡地まちづくり構想』なるものを発表した。私の理解力、想像力が劣っていることもあって、これを読んでもさっぱりわからないが、“新たなビジネスを支え、訪れる人たちへの情報提供やおもてなしを行い、人や企業の交流を促し、防災と暮らしを支える機能”などを持った街となるらしい。やはり、さっぱりわからない。跡地利用の完成を待とう。


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荒戸通町


 先日紹介した福岡市中央区荒戸3丁目の「此の屋敷の供養塔」の正体は今もってわからない。供養塔自体は比較的新しいものに見えるが、“屋敷”というぐらいだから、建立の原因となった出来事は意外と古い時代に起きた可能性もある。町の歴史を調べてみた。

 一帯は藩政時代、荒戸通町と呼ばれた唐津街道沿いの屋敷町で、『古地図の中の福岡・博多』(宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編、海鳥社、2005)によると、黒田藩上級家臣の大組10人、中級家臣の馬廻組21人が屋敷を構えていたという。同書で紹介されている1802~04年頃の古地図によると、供養塔が現在ある場所は当時、大川某の屋敷だったことがわかる。この大川家に何らかの凶事があったのならば、話は非常に簡単だ。

 凶事と言えば、福岡藩では幕末の慶応8年(1865年)に起きた「乙丑(いっちゅう)の獄」が思い浮かぶ。勤王派の大粛清事件で、家老の加藤司書ら7人が切腹を命じられ、月形洗蔵ら14人が処刑されている。乙丑の獄により数多の人材を失い、黒田藩は維新に乗り遅れたと言われる程の大事件だ。この犠牲者の中に「大川」の名前がないかと思ったが、空振りだった。

 また、処刑の場となったのは「枡木屋の獄舎」。現在の中央区唐人町、こども病院の跡地辺りにあったとされ、供養塔がある場所とは目と鼻の先だ。あるいは関係があるのではと思ったが、いくら近いと言っても別の場所に刑死者の供養塔を建てたと考えるのは、やはり無理がある。結局、乙丑の獄とは無関係なのだろう。

 荒戸通町は幕末以降、非常に寂れていったらしい。『福岡・博多の町名誌』(福岡市都市計画局、1982)には「幕末期になると、家臣の知行地への居住が許されるようになり、在郷へ転出する者が多く、廃藩後はさらに極端なさびれをみせた」とあり、町の景観は急激に変わり果てたという。「竹垣破レテ犬ノ往来自由ヲ得タリ」という程の惨状だったらしいが、だからと言って何か大事件が起きたという記録はないようだ。

 上の写真は、荒戸通町、現在の荒戸3丁目から唐人町商店街の入り口を写した。左側が問題の供養塔が建つ市営地下鉄唐人町駅の駐輪場、右側が古いたたずまいを残す黒門飴。かつてはこの前を黒門川が流れ、黒門橋が架かっていた。黒門橋のたもとにあったのが“黒門”で、「幕末期には佐幕派要人の暗殺事件が頻発し、その斬奸状が黒門に張り出され、勤王派のデモンストレーションの場ともなった」(『古地図の中の福岡・博多』)という。

 「此の屋敷の供養塔」の由来は依然として不明だが、供養塔のある一帯が維新の荒波にさらされた場所であることはよくわかった。
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ここはバス通りだった

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 福岡市早良区西新に城南線から明治通りに抜ける一方通行の路地がある。上の地図では城西1丁目の交差点と西新2丁目の交差点とを結ぶ通りで、道沿いにはラーメン屋などの飲食店が並んでいる。一方通行であるぐらいだから、かなり狭い道なのだが、先日ふと思い出した。「昔、ここはバス通りだった」と。

 「昔」というのは正確には、まだ西鉄の路面電車が城南線や明治通りを走っていた頃で、城南線というのは本来、路面電車の路線名だった。明治通りを走っていたのが貫線。両線が廃止されたのは1975年11月2日だが、これ以前の福岡の市内交通はバスではなく路面電車が中心で、例えば、中央区六本松方面から西新に向かう場合は電車に乗るのが普通だった。

 ところが、別府橋や鳥飼経由で六本松と西新を結ぶバスが1路線だけあり、このバスが先の路地を窮屈そうに通っていたのである。「6番 市内循環線」と呼ばれ、博多駅を起点にやや特殊なルートを通って市内を一周する路線だった。この頃、西新に用がある時は主に自転車で行っていたが、時折、公共交通機関を利用する時はなぜか、この「6番」を使っていた。誰かに「6番が意外に便利だぞ」とあまり正しくもない情報を教えられ、それを真に受けてしまったのだ。

 狭い道を通る分、通常より一回り小型のバスが「6番」には使われていたが、それでも城南線から右折して例の路地に入る際は、あの西鉄の運転手でもかなり慎重に運転していた記憶がある。なぜ、こんな道をバスが通っていたのか、今となっては記憶が定かではないが、旧・プラリバ前の交差点付近には電停があり、ここではバスの右折が難しかったためだろうか。

 路面電車が廃止され、代替バスが城南線や明治通りに投入されると、「6番」もいつの間にか例の路地から消えた。西鉄バスの評判は以前から芳しいものではなかったが、“陸の王者”などと呼ばれるようになったのは猛烈な数の代替バスが我が物顔で市内を走り回るようになってからではないかと思う。傍若無人の運転ぶりに、車で営業に回っていた私の親族はよく「チンチン電車の方がましやったバイ」と嘆いていた。

 実は「6番」は現在も走っており、ルートも以前とあまり変わっていないのだが、市内循環線ではなく博多駅と福岡タワー南口とを結ぶ路線になっている。

 西新絡みの話をもう一つ。昨年7月いっぱいで閉店したプラリバの建物が今なお残っている。以前にも書いたが、地下鉄西新駅のコンコースと地上とを結ぶ新設エレベーターが未完成のため、この建物のエレベーターを使う以外にないからだ。新エレベーター設置のための土木工事完成予定は6月30日。このお陰で建物取り壊しが1年も遅れたことになる。こんなことならプラリバ閉店も先延ばしして欲しかった。

 プラリバ閉店以降、西新商店街の人出は2割程減ったと聞いた。それが原因かはわからないが、長年通っていたパン屋が先頃店を閉じ、ミスタードーナツもいつの間にかシャッターを下ろしていた。イオン西新店も5月で閉店する。どんどん街が寂れていく恐怖を感じる。「6番」があの路地を通っていた頃の西新は古びてはいたが、はるかに活気のある街だった。




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福岡の空撮写真

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 先日取り上げた福岡市中央区荒戸の「此の屋敷の供養塔」に絡み、一帯を撮影した古い写真でもないかと探していたところ、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で、黒門川がまだ地上を流れていた頃の空撮写真が見つかった。

 1981年12月4日撮影の写真で、供養塔が現在ある場所付近を拡大してみると、4棟程の建物があったことがわかる。建物のサイズや敷地等で判断する限り、“屋敷”と呼ばれる程の代物であったかは微妙だが、気になるのはこの一帯だけ黒門川に面した場所が妙に雑然としていることだ。恐らく植物が繁茂していたのではないだろうか。「此の屋敷の供養塔」の中で、1980年代前半の住宅地図では一帯にあった建物のうち3棟が空き家だったことを紹介したが、ひょっとしたらかなり以前から空き家状態で、建物の管理が行き届いていなかったのかもしれない。

 ところで、この写真を見ると、当時の黒門川の流路がよくわかる。昨年6月、
「黒門川の河口はどこ?」「菰川の怪」という記事を書いたが、現在の福浜地区(西公園下住宅)埋め立てで本来の河口を失った際、水路は西に延ばされ菰川に直結されていたのである。最初からこの写真を探し当てることができれば、マッチポンプみたいな記事を書くこともなかった。

 このほか、過去に書いた記事に関係する空撮写真をいろいろ探してみたところ、
「カネボウプール」がまだ健在だった頃の写真が見つかった。写真のやや左側、那珂川と博多川が分岐する辺りに見える水色の施設だ。その北側に見える空き地らしきものはゴルフ練習場だろう。鐘紡工場跡地に建てられたスポーツ施設群で、現在は大型商業施設キャナルシティ博多(福岡市博多区住吉1)となっている。1975年1月14日、つまり真冬に撮影された写真のためプールに人影はない。

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此の屋敷の供養塔

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 福岡市中央区荒戸3丁目の唐人町駅駐輪場の一角に「此の屋敷の供養塔」と刻まれた高さ50㌢程の小さな石碑がある。駐輪場以前にはここに屋敷があり、供養塔を建てなければならない程の不幸があったと想像され、以前から気になっていた。それにしても“屋敷の供養塔”とは…。来歴を調べたうえで紹介したいと思っていたのだが、一向にわからない。仕方がないので、謎のまま取り上げることにした。

 駐輪場の完成は1989年4月。その前年の88年、黒門川が暗渠化され、現在の黒門川通りが整備されるまでは川に面した土地だった。黒門川がまだ地上にあった1980年代前半の住宅地図で確認したところ、現在駐輪場があった場所には4棟の建物があり、一番北側の旧・黒門橋のたもとには飲食店らしき名前が記載されていた。だが、残る3棟は当時すでに空き家状態。供養塔建立の原因となった出来事は、この頃にはもう起きていたのではないかと思われる。

 そこで昭和時代に絞り、この界隈で大事件や事故が起きていないかを新聞記事データベースで調べてみたのだが、それらしきものは検索にかからなかった。もっと網を広げて調べてみる必要があるのかもしれない。

 福岡市中央区、博多区にある石碑やモニュメントの類いは『新修福岡市史 民俗編一 春夏秋冬・起居往来』(2012)に網羅されている。石碑の来歴などはこの本をめくれば、あらかた判明するのだが、困ったことに「此の屋敷の供養塔」だけは名前と住所と写真が掲載されているだけで、それ以上の情報は一切ない。市史の前文には「現時点で来歴の判然としないものは、それと分かる形容を案出しながら、モニュメントの存在だけを記載しています」とあり、さすがの市史執筆陣にも調べがつかない程の謎だったということだろうか。それとも、説明を憚るほどの闇が石碑の来歴にはあるのだろうか。


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