# 旧聞since2009

# 義援金壺?

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 福岡市埋蔵文化財センター(博多区井相田2)で少し面白いものが見られるよと知人がメールで教えてくれたので、早速見に行ってきた。福岡市内の各公共施設には熊本地震災害義援金の募金箱が置かれているが、ここにあるのは「義援金壺」なのだ。レプリカではなく本物の弥生土器で、地下鉄建設に伴い1977年に行った西新町遺跡発掘調査で出土したもの。硬貨で傷がつかないように内部は保護してあるという。私も帰り際、本当にわずかな額を募金してきた。

 センターは市内の発掘調査で出土した遺物を収蔵・管理する施設で、1982年2月に開館した。収蔵品は100万点を超えているという。収蔵品のごく一部を紹介する展示室も三つあり、入場は無料。福岡市というのは面白いところで、
板付遺跡鴻臚館跡金隈遺跡などのメジャーな遺跡には小規模ながらも概ね展示施設が併設してあり、これがすべて入場無料なのだ。やはり魏志倭人伝の昔から栄えた土地だけあって、考古学に対しては妙に気合が入っているところがある。

 センターではいま、絵画などが描かれた縄文・弥生時代の土器などを展示した企画展「ひとのかたちと、こころをうつす―絵画と造形の考古学―」と、近年の発掘調査に伴う出土品を紹介する「新収蔵品展」が開催されている。下の写真は、藤崎遺跡第37次調査で見つかった土器だ。この調査はマンション建設に伴い2012年秋に行われたもので、このブログでも取り上げている(
「藤崎遺跡」、写真は当時の発掘風景)。

 ブログでは弥生時代の甕棺墓5基が見つかったと紹介していたが、最終的には20基が確認されたといい、中には人骨が残っていたものもあったという。義援金壺に使われている弥生土器が見つかった西新町遺跡とは弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡(
「古代は港町だった西新」)で、藤崎遺跡はその墓地だったとみられている。

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# ブレディ飛行場の航空写真

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 雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場)に滑走路が健在だった頃の航空写真を国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で見つけた。米軍に接収されていた1956年1月に撮影された写真で、撮影者も米軍。米軍はここをブレディ飛行場と呼び、主に朝鮮戦争(1950~53年)の際、輸送基地として使用していた。撮影前年の55年には事実上、使用を取り止めており、65年には滑走路自体を撤去している。よく見掛ける航空写真はこれ以降に撮影されたものだ。(滑走路の両端に記されている数字は方角を示したもので、詳しくはJALの解説ページへ)

 飛行場は1936年、600㍍の滑走路1本で開港し、後に800㍍2本に大拡張されたことになっている。しかし、福岡第一飛行場設置を告示する36年5月27日の官報には「滑走区域 東西最大約七百九十メートル 南北最大約八百メートル」と記されており、あらかじめ2本の滑走路が計画されていたことがわかる。1936年は暫定的な開港だったのだろう。

 2本の滑走路については1,700㍍、1,300㍍の長さだったという情報もある。例えば、国営海の中道海浜公園事務所(海浜公園はブレディ飛行場を含む米軍キャンプ・ハカタの跡地に建設されている)のサイトには「1,700mと1,300mの2本の滑走路を擁し、京城、大連、上海、台北へと飛んでいました」と紹介されている。『博多郷土史事典』(井上精三、葦書房、1987)にも同様の記載がある。後に滑走路の再拡張が行われたのかもしれないが、正直なところ信じ難い。

 写真や地図でもわかるように、雁ノ巣地区は玄界灘と博多湾に挟まれた非常に幅の狭い土地で、北側の玄界灘沿いには当時も今も鉄道(現在はJR香椎線)が走っている。鉄道を撤去し、海を埋め立てない限りは滑走路延長が可能だったとは思えないのだ。上の写真を参考に、グーグルマップで距離を測ったところ、1,700㍍の滑走路を建設するのは東西方向、南北方向とも不可能。1,300㍍ならば、ぎりぎり可能という結果だった。

 
「海の中道海浜公園」という記事の中で書いたが、ブレディ飛行場は1972年6月に返還され、跡地は現在、総合スポーツ公園・雁の巣レクリエーションセンターとなっている。返還は既定事実だったため、レクセンター建設工事は前年の71年から始まっていたらしい。米軍自体も滑走路撤去以降はここをゴルフ場として利用し、ブレディ・ゴルフ場と呼んでいたという。

 航空写真の右端を見ると、4棟の格納庫が並び、さらに少し離れた北側にさらに1棟の格納庫があったことがわかる。これらの廃虚は戦後長らく放置され、2002年まで残っていたことを以前紹介した(
「雁ノ巣飛行場の格納庫」)。下に再掲した3枚の写真は、近く取り壊しが始まると聞き、2000年11月、初めて買ったデジカメ、ニコンCOOLPIX800で撮影したものだ。211万画素のカメラだから、画質はずいぶん粗い。

 写真撮影のしばらく後、航空ファンらの間から上がった保存を求める声を受け、福岡市教委が専門家に委託して格納庫の学術調査を行った。専門家は「保存に値する歴史的価値がある」という結論をまとめたというが、報道機関が暴露するまで市教委がこれを公にすることはなかった。そもそも「解体ありき」であり、調査はポーズでしかなかったのだ。それなのに「保存すべきだ」という、恐らく予想外の結果がまとまり、市教委としては隠蔽する以外になかったのだろう。


雁ノ巣飛行場跡の格納庫2

雁ノ巣飛行場跡の格納庫1

雁ノ巣飛行場跡の格納庫3

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# 御鷹屋敷跡のシャクヤク

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 福岡城址・舞鶴公園の「牡丹芍薬園」でシャクヤク(芍薬)が見頃と“先週初め”ぐらいに聞いたのを思い出し、きょう21日になって出掛けてきた。先週初めまでは18種、1,400株が咲き誇っていたらしいが、それから1週間以上も経ったのだから大半の花は落ち、一部の品種が辛うじて咲いているだけだった。

 「牡丹芍薬園」があるのは福岡城の三の丸。藩政時代の初期には黒田如水の隠居所があったところで、園内にはそれを記念した石碑も建っている。だが、如水が慶長9年(1604)に死去した場所は京都伏見の藩邸で、この隠居所に住んでいたのは1~2年程度だったと言われている。後にこの場所には実態は不明ながら「御鷹屋敷」という建物があったらしく、一般的に御鷹屋敷跡と呼ばれている。

 屋敷跡はその後、戦前戦中には城内に駐屯していた陸軍の将校クラブなどとして使用され、戦後は福岡外事専門学校(福岡大の前身の一つ)の校舎が置かれていた。大学移転後、「牡丹芍薬園」として整備されたらしい。ボタンの方は22種400株が栽培されている。入園無料なのはうれしいが、開園時間が午前9時から午後5時までのため夕方に散策できないのが残念だ。日が長い季節には開園時間を延長してもらえないだろうか。

 シャクヤクは花が美しいだけでなく、根が漢方薬の材料になることでも知られている。これに目を付けた福岡市が2年前、耕作放棄地でシャクヤクなどの薬草栽培に乗り出すと報道されたことがあった。その後の進展ぶりを知りたいと思い、市議会の会議録で調べてみたところ、この事業は実行に移されることなく、検討段階で打ち切られていたことがわかった。

 昨年3月の市議会決算特別委員会の分科会で市側が経緯を説明しているが、それによると、大学教授や薬剤師、JA、民間企業のメンバーによる研究会で検討した結果、「薬草の値段は薬価基準があり、それ以上の原料取り引きはできないこと、また、日本薬局方という基準があり、薬品として扱うには一定の成分が必要といった意見を受け」、年度途中であっさり取り止めたという。

 傷が深くならないうちに中止して正解だったという考えはあるだろうが、そもそも薬価基準うんぬんというレベルの話は事業に乗り出す前に把握しておくべきだったのではないかと思う。この事業には500万円の予算が計上されていたが、いくら無駄金になったのだろうか。失敗は成功のもととは言うが、血税を使う役所が簡単に失敗するのは勘弁してほしい。

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# 雁の巣ヘリポート新設計画

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 福岡市東区奈多にヘリポートを新設する計画を国交省が進めている。福岡空港に常駐している警察、消防、報道機関等のヘリを移転させ、同空港の混雑緩和を図る狙い。建設予定地は具体的には、かつては雁ノ巣飛行場だった雁の巣レクリエーションセンター隣接地で、ここも飛行場敷地内だったと思われる。昨年秋頃から地元への説明が行われているが、やはり反対の声が多いと聞く。騒音や事故に対する不安が大きいのだろう。

 国交省大阪航空局が公表している資料によると、福岡空港には現在、警察、消防、報道機関等の民間を合わせ23機のヘリが常駐し、年間の発着回数は約7,000回に上っている。内訳で最も多いのは報道機関の約3,000回。一方で格安航空会社の参入などで福岡空港を離発着する旅客機も増加しており、ヘリと旅客機の運航が競合することも多く、双方の運航に支障が出ている。このため新たなヘリポートを建設し、常駐ヘリを移転させる計画が持ち上がったという。

 建設予定地は未利用の造成地(国有地)で、広さは約80,000平方㍍。近くには福岡航空交通管制部、女子少年院の筑紫少女苑などがある。最寄りの住宅地までの距離は約1㌔で、大阪航空局側は「騒音に係る重大な環境影響はない」とみている。さらに格納庫を住宅側に面した東側に配置して盾とすれば、より騒音を低減できると見込んでいるが、地元の懸念を払拭するには至っていない。また、地元住民と思われる人がSNSで発信している声を拾ってみると、「警察や消防はともかく、マスコミのヘリまでが来るのは…」という感情もあるようだ。

 実際に現地を歩いてみて感じたのは、道路の交通量がかなり多いうえ、上空を頻繁に旅客機が通り、そもそも日中はあまり静かな場所ではないという点だ。そこにヘリポートが新設されたら、どうなるのか。離発着の際は住宅地上空を飛行しないなどのルール作りが最低限必要だろう。ところで、市議会本会議で「新たなヘリポート建設はオスプレイの基地として使われる可能性があり」などと述べた議員がいたが、何らかの根拠があったのだろうか。


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# 博多の旧遊郭街・柳町

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 宮崎市・大淀川河口の中州「丸島」に遊郭があったという情報を先日取り上げた。地元・福岡市で遊郭街として知られるのは現在の中央区清川、以前は「新柳町」と呼ばれた町だ。例に漏れず最近はここもマンション街となりつつあるが、比較的近年まで色町らしい猥雑な雰囲気が残っていた。

 「新柳町」と言うぐらいだから、旧「柳町」もあり、こちらは現在の博多区下呉服町から大博町にかけての石堂川(御笠川)沿い。福岡藩の初代藩主・黒田長政の命で造られた遊郭街で、『福岡町名散歩』(井上精三、葦書房、1983)には「慶長のころ、那珂川の河口に散在していた娼婦を、堅町浜に集め集娼地区とした。町名の柳町はここの柳があったわけではない。京都の萬里小路に最初の集娼地帯をつくったとき柳町と名付けたので、福岡もこれにならったもの」とある。元禄時代に編まれた貝原益軒の『筑前国続風土記』には遊郭の数は19軒で、60~70人の遊女がいたと書かれており、江戸時代を通じて規模はこの程度だったらしい。

 柳町の遊郭街が新柳町に移転した理由は結構有名で、1903年(明治36年)、京都帝国大学福岡医科大が対岸の千代の松原に開校し、「遊郭の存在は授業の邪魔だ」と行政当局から移転を強制されたためだ。新柳町への移転が完了したのは1911年(明治44年)。医科大開学以降もしばらくは柳町の色町は残っていたわけで、出典は忘れたが、医科大教官の中には石堂川を泳いで遊郭に通い詰めた豪傑もいたという話を何かで読んだ。

 柳町の遊郭街跡地は後に大浜小学校(統廃合で廃校)となり、現在は特別支援学校・博多高等学園のモダンな校舎が建っている。『福岡町名散歩』によると、戦後の一時期、石堂川沿いはスラム街となっていたというが、現在は「大浜河畔通り」というきれいな通りに整備され、ここにもまたマンションが建ち並んでいる。

 遊郭街だった過去など普通は隠したがるものだろうが、博多高等学園前をはじめとして一帯の電柱には旧町名を紹介する看板が取り付けられ、それどころか、看板には遊郭があった時代の出来事さえ堂々と紹介されている。街全体を博物館に見立て、地域の歴史を伝えようという地元市民団体の取り組みだという。

 1960年代に行われた町界町名整理により、福岡市では由緒ある古い町名の多くが消滅した。半世紀以上を経た現在、どこも似たり寄ったりの色気のないマンション街ばかりとなり、古い町名の記憶さえ失われつつあるが、博多部(狭義の意味での博多)だけは先の取り組みのお陰で、旧町名を容易に知ることができ、しかも町の歴史にも触れることができる。


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# 大淀川・丸島に遊郭はあったのか



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 5月5日に書いた「丸島のサル」の中で、大淀川河口の中州・丸島にかつて遊郭があったという情報を紹介した。情報元は宮崎遺産の候補一覧だ。宮崎県が2009年に宮崎遺産を選定した際、広く県民に候補の推薦を呼び掛け、200件以上が集まった。この候補の中に丸島もあり、その推薦理由の中に「遊郭が建っていたと昔、父親から聞いた」という証言があったのだ。(結果的に丸島は落選)

 大淀川右岸(南岸)の城ヶ崎地区が交易で栄えた江戸~明治頃の話らしいが、頻繁に水に浸かりそうな丸島で人が暮らせるとは考えられない。信じがたい証言だと思い、『宮崎市史』などいくつかの資料を当たってみたが、「丸島に遊郭があった」という記述は探し当てられなかった。ただ、市史などのオフィシャルな資料に遊郭について書かれているはずもなく、インターネット上にあった資料によると、実際に遊郭があった場所は大淀川河口近くの両岸に集中していたことがわかった。丸島は、この遊郭地帯のど真ん中に位置していたことになる。

 まず、城ヶ崎の歴史を簡単に振り返ると、大淀川河口の赤江港は古代から海上交通の要衝として栄えていたが、対明貿易が盛んだった室町時代の天文20年(1551)、太田七郎左衛門という人物が河口の一角に城ヶ崎の町を開き、ここが交易の中心地となっていった。最盛期が飫肥・伊東藩領だった江戸時代で、上方との交易で城ヶ崎の町は大いに繁栄、“赤江千軒”など称され、町人文化も花開いた。しかし、明治になり、海上輸送の主役が帆船から蒸気船に切り替わると、蒸気船が入港できない赤江港の取扱量は急減。さらに1923年(大正12年)の日豊線開通がダメ押しなり、城ヶ崎は衰退していったという。(参考資料は『宮崎市史 続編(上)』1978、『宮崎県大百科事典』宮崎日日新聞社、1983など)

 では、城ヶ崎が栄えた時代、遊郭は具体的にどこにあったのか。関西学院大学リポジトリに収録されている宮崎バス『遊覧説明』(昭和7年)という資料に記載があった。これは名前でわかるように、遊覧バスガイド用のアンチョコで、城ヶ崎について以下のように紹介されている。

 町の一部に塩飽町(シワクマチ)と申す所が御座いますが、其の塩飽町の遊郭は、黄金の雨が降ると云った繁盛ぶりで…(略)
 北岸の蟹町にも同じ様に弦歌をさざめく色町が発達致して居りまして、相対して繁栄を競ったものだそふで御座います。

 つまり、遊郭が存在したのは城ヶ崎の一角(塩飽町)と対岸の蟹町で、蟹町とは大淀川左岸の河口付近の旧町名。丸島は城ヶ崎と蟹町のちょうど中間付近に位置することになる。さらに近代に遊郭街が形成された“吾妻新地”があったのは現在の大淀河畔のホテル街の一角で、城ヶ崎のちょうど対岸に当たる。丸島に遊郭があったとは依然として思えないが、これだけ周囲に遊郭が集中している以上、何らかの関係施設があったのかもしれないとも思い始めた。それが何かは全く想像がつかないが…。

 最近、頻繁に利用させてもらっている国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」に1948年4月に大淀川河口を撮影した航空写真があり、丸島に何らかの構造物の跡が写っている。恐らく近代のものだと思えるが、丸島に今まで全く構造物がなかったというわけではないようだ。写真は城ヶ崎の繁栄を伝える俳人墓碑。

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# 赤江の掩体壕再訪

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 宮崎市の赤江地区に残る掩体壕を3年ぶりに見てきた。掩体壕とは米軍空襲から飛行機を守るために造られたコンクリート製の構造物で、この地には戦時中、特攻基地ともなった旧海軍赤江飛行場があった。2013年8月に撮影した際は周囲の水田ではすでに稲の刈り入れが終わっていたが、今回は田植えの直後で、壕は青々とした苗に囲まれていた。

 前回撮影の際は「放置される掩体壕」という記事を書き、宮崎市に保存の考えがないことを紹介した。3年たった現在も状況に変化はない。戦後70年の節目だった昨年、地元住民らが赤江飛行場の記録を収集・展示する資料館建設や掩体壕の保存・戦跡公園化などを強く要望したが、市側を動かすことはできなかったという。

 掩体壕が残る一帯を公園として整備するとなると、農地の買収とともに、道路新設など周辺整備も必要になってくる。巨額の費用が掛かるのは確実。宮崎市の財政事情は詳しく知らないが、今年4月から第7次の行財政改革に取り組んでいるぐらいだから、少なくとも予算が有り余っているわけではない。赤江飛行場跡では毎年、戦死者の慰霊祭が行われ、宮崎市も参加しているが、飛行場の歴史を後世に語り継いでいく上で、市としてはこれが精いっぱいの行動なのだろう。

 掩体壕は築造から70年以上がたった今も堂々たる姿をとどめているが、所々ひびも見える。昨年は、保存を図る最後の機会だったのではないだろうか。戦争を知る世代が少なくなっていく中で、恐らく次の節目の戦後80年には保存を求める声など上がらないと思えるからだ。かといって壕を取り壊すのも大仕事になるはずで、保存も解体もしないという中途半端な状況が今後も続くのは間違いない。コンクリートの耐用年数が続く限り、農地のど真ん中に異様な建造物が鎮座するという奇観は残ることだろう。


 掩体壕近くの畑には、同時期に造られたと思われる小型の壕2基も残っている。これまた妙な景観だ。

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 以前「ヒッピーとコンクリート船」という記事で紹介した通称タンポリこと津屋原沼一帯では土木工事が続いている。南海トラフ地震で想定される大津波から住宅街を守るための堤防工事らしく、2018年度完成の予定。この津屋原沼は、赤江飛行場建設のため土砂を採取された窪地に海水が流れ込んで出来た。これも戦時遺構の一つだ。

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# 丸島のサル



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 宮崎市の大淀川河口に、地元で「丸島」と呼ばれる中州がある。広さは4万平方㍍以上あるらしいが、無人。真上を一ツ葉有料道路という自動車専用道の橋が横切っている。1990年前後の話だったと思うが、この丸島にサルが生息しているという噂があった。木々が生い茂ってはいるが、サルが生きていける程の餌があるとは到底思えず、付近に生息地があるわけでもない。間違いなくデマだろうと当時は思っていた。

 この連休中、大淀河畔を散歩していてジャングルみたいな丸島の姿を目にし、サルの噂を思い出した。インターネットで調べたところ、意外なことに実際に目撃したという人の証言があった。さらに、この人は地元民放が丸島のサルを番組で取り上げ、放映したことも覚えているという。いつ頃の話かは書かれていなかったが、こんな話がそうそうあるとは思えないので、恐らく私が聞いた噂話のサルと同一なのだろう。山から下りてきて迷ってしまったのか、あるいは飼われていた個体が逃げ込んだのか。

 このサルがどうなったのか知りたいと思い、宮崎で生まれ育った親族・知人に尋ねてみた。中には大淀川河口近くに住んでいる人もいるのだが、誰一人サルの消息を知る人はおらず、そもそも丸島のサルの話自体を「初耳」と答えた人も少なくなかった。釣り人の中には丸島に渡る人もいるらしいが、大半の市民にとっては遠目に眺めるだけの存在だ。さらに、郊外に行けば、野生のサル自体が珍しくもない土地だけに、あまり関心を呼ぶ話ではなかったのかもしれない。

 丸島を覆っている木々はヤブニッケイ、タブノキの群落やホテイチクだと国土交通省の資料にあった。この森林にはコサギやゴイサギなどのコロニーがあり、丸島は野鳥たちの貴重な生息地、休憩地だという。

 丸島に関してさらに調べてみると、ここに遊郭が建っていたという情報があった。大淀川河口右岸の城ヶ崎は江戸から明治にかけて交易で栄えており、この時代に遊郭が存在したらしい。遊女の逃亡を防ぐため、中州に遊郭を建てたというのは理屈が通る話ではあるが、大淀川が増水すれば、沈みかねない場所で本当に人が暮らせるものだろうか。サルの生息以上に信じがたい気がする。機会があれば、真偽を確かめてみたい。



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管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。