今年は今宮と武田

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 博多祇園山笠の飾り山笠公開が例年より1週間早く6月24日から始まった。福岡市では同日から28日まで、第99回ライオンズクラブ国際大会が開かれており、国内外から集まった38,000人の参加者を歓迎するため、お披露目を早めたという。参加者数は福岡市で開かれた国際会議としては過去最大で、地元紙の西日本新聞によると、市は112億円の経済効果を見込んでいるとか。どういう計算で112億円になるのかは報道されていないので胡散くさい数字に思えるが、事実ならば、景気のいい話だ。

 25日夜は福岡ヤフオク!ドームで谷村新司さんらが出演して歓迎のショーが開かれ、ドーム前の飾り山笠が参加者を出迎えていた。今年のモデルは工藤監督のほか、今宮、武田の両選手。武田はともかく、今宮の方は特徴的な細い眉と、何よりバントの構えをしているので彼だとすぐにわかる。バント姿の山笠人形など初めてではないだろうか。

 見送り(裏側)は「奇襲桶狭間決戦」。ライオンズクラブ国際大会の参加者は海外はじめ県外からが中心。当然ながら日本のプロ野球、ましてホークスには関心のない人が大半で、勇壮な武者人形が飾られた見送りの方が断然好評の様子だった。

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ヒルコ

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 先日、福岡市博多区麦野を通った際、「稚児恵比須神」という小さな神社を見掛け、写真に収めてきた。境内にあった「稚児えびす神の由来」に面白いことが書かれていた。「蛭児尊は恵比須神の前の御名で伊弉諾尊の第一の御子として、七福神の内の御一人であり、幼児の守護神として…」。神社に詳しい人にとっては常識なのだろうが、蛭児(ヒルコ。蛭子とも書く)が“えびすさん”と同一の存在として扱われていることを恥ずかしながら初めて知った。そう言えば、蛭子と書いて“えびす”とも読み、そんな苗字の漫画家兼タレントさんがいたなと思い出した。

 ヒルコは、イザナギ、イザナミの両神から生まれた神の一人だが、3年経っても足腰が立たなかったため、鳥之石楠船に乗せて流されたと『日本書紀』にある(次生蛭兒、此兒年滿三歲、脚尚不立。<中略>次生鳥磐櫲樟橡船、輙以此船載蛭兒、順流放棄)。この一文、素直に読めば、障害のある子供を捨てたとしか受け取れないが、様々な解釈があり、戦前に出版された『日本建国講話』(熊田葦城著、京文社、1937)には<日本統一に向かうイザナギが出発直前、ヒルコを安全な地に送った>という趣旨のことが書かれていた。

 私自身はと言えば、ヒルコを題材にした諸星大二郎さんの漫画『妖怪ハンター』第1作「黒い探求者」のインパクトが強すぎ、書紀の例の一文については“ヒルコという邪悪な怪物を異世界に封じた”という解釈で凝り固まってしまっている。いい年をしてマンガに影響を受けていることの是非は措いておいて、これが理由で邪悪な(と思い込んでいる)ヒルコが福々しい“えびすさん”と同一視されていることに少し驚いてしまった。

 両神が結びつけられた理由について、これまた戦前に出された『国民伝説類聚』(島津久基、大岡山書店、1933)には「海中に放たれたという点と、蛭子の字面の類似連想からか憐れなこの小神は、何時の間にか七福神の一たる恵比寿にまで進展して」とある。商売繁盛の神様というイメージが強い“えびすさん”だが、海神でもある。海を介して二つの神が結びつけられ、蛭子として流されたが、流れ着いたら“えびすさん”に変じていたということだろうか。

 稚児恵比須神の御神体は境内奥に安置されている石碑で、下部には「蛭児尊」と刻まれている。上部に刻まれた文字は注連縄で隠れ判読できなかったが、改めて写真を見ると、梵字のように見える。御神体にケチをつけるようで申し訳ないが、もともとは梵字板碑で、後に「蛭児尊」と彫り込んだ可能性はあると思った。
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捨てた娘を売った母親

 以前書いた記事の追跡調査で昭和40~50年代に起きた事件を調べていたところ、調査とは全く無関係だが、とんでもない事件に出くわし絶句してしまった。事件を報じた記事の見出しがすごい。<13年前に捨てた娘「金になる」 母親、引き取って売る>。1976年、九州某県で起きた。見出しだけでも事件の非道ぶりを理解してもられるのではないかと思うが、簡単にあらましを紹介したい。40年前ということは被害者らが存命の可能性が高いので、一部具体的地名は伏せさせていただく。

 主要な登場人物は2人だ。生活苦を理由に13年前に3歳の娘を捨てた母親(事件当時43歳)と、警察に保護された後、児童養護施設で育ち、私立高校に通っていた娘(同16歳)。母親は捨てた娘が施設にいるのをどういうわけか知り、引き取った。最初から娘でひと儲けすることを企んでいたのかはわからないが、すぐに高校を中退させ、芸者置屋に養女に出したというから、やはり金目当てだったのだろう。さらに夫(娘の父親なのかは不明)の入院中に愛人を作り、この愛人と共謀、置屋の女将を言いくるめて娘をいったん引き取り、今度はストリップ劇場に50万円で売り飛ばした。

 この事件で母親や愛人、ストリップ劇場の経営者が児童福祉法違反などの容疑で逮捕されているが、母親はこれ以前にも窃盗や強盗などで複数回の逮捕歴があり、パチンコ三昧の生活を送っていたという。施設側は面会に来た母親の人相風体を見て信用ならない人物だと見抜き、親元に戻すことには反対だったというが、娘の母親への憧れが勝ったらしい。事件が明るみに出たきっかけは、女子高校生が置屋にいるとの情報を警察が聞き込んだことだ。すでに置屋からはいなくなっていたが、行方を調べた結果、長崎県の温泉地にあったストリップ劇場に売られたことを突き止めた。

 そう言えば、以前は温泉地に行くと、繁華街の一角には必ずと言っていいほど小さなストリップ劇場(ストリップ小屋と言うのが正確かもしれない)があったものだが、娘が売られたのもこんな施設だったのだろうか。少なくとも九州ではすっかり見掛けなくなった。福岡市内にも以前は西鉄福岡駅近くの線路沿いに東洋ショーという劇場があったことを記憶しているが、中洲にも複数あったらしい。中学生ぐらいの頃は、国体道路沿いに設置されていた東洋ショーの大看板を見ては「大人になったら…」とこぶしを握り締めたものだが、東洋ショー自体がいつの間にか消えてしまった。

 最近読んだ朝日新聞記事によると、やはりストリップ劇場は絶滅寸前の状態らしい。一時は全国で300軒あったというが、現在ではその10分の1。1984年の風営法改正で営業時間が午前0時までに規制されたことが打撃となり、さらにインターネット普及で2次元の世界に走る人が増えたことも客足減に拍車をかけたという。インターネットで調べてみた限りでは、九州で今なお営業を続けているストリップ劇場は北九州市のJR小倉駅前に1軒あるだけだ。
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黒田52万石の不思議

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 “黒田52万石”という表現に以前から疑問を持ってきた。福岡藩の初代藩主・黒田長政は1600年の関ヶ原の戦いで武勲を挙げ、豊前中津12万石から筑前52万石に栄転したことになっている。しかし、長政以前に筑前を治めていた小早川秀秋の石高は30万石にしか過ぎないのである。藩主が代わっただけで、なぜ、一気に20万石も増えたのだろうか。

 仮に52万石という数字が正しいのならば、<1>小早川時代の30万石という数字がいい加減だった<2>戦国時代の争乱が落ち着き、小早川治世時代に生産量が急増していた――といった理由を思い付いたが、実際のところはどうなのか。『福岡県史 通史編 福岡藩(一)』(1998)などをめくって調べたことはあるが、こちらの理解力不足もあって、かえって混迷を深めるだけに終わっていた。

 なにしろ県史に紹介されていた20万石急増に関する解説には「慶長九年の物成(年貢)一六万四四一一石を参照して石高を逆算した」や、「幕府との政治的関係=軍役負担に応じて、福岡藩の領知高は確定された」というものまであったのだ。額面通りに受け取れば、少なくとも藩政初期の時点では“52万石”という数字に実態がなかったことになる。これに面食らったわけだが、県史も石高のカラクリについて考察しているのだから、私の疑問もまっとうなものではあったようだ。

 先日、図書館でたまたま手に取った『物語福岡藩史』(安川巌、文献出版、1985)に明快な答えが書かれていた。長政が幕府に届け出た50万余の石高は、実際に生産高を集積したわけではなく、当初から「五拾万石ヲ得ント欲」(郡方古実備忘録)して水増しした数字だというのだ。この理由について筆者の安川氏は「家格を小早川氏と同じくするために実際以上に石高を書きあげ、それによって将軍の判物を得て自分の地位と身分を高く位置づけしようとした考えがあったのではあるまいか」と推測している。

 安川氏という郷土史家の一推理に過ぎないのかもしれないが、20万石が水増しだと考えれば、享保の飢饉での福岡藩の惨状に納得がいく。6~7万人の領民が餓死したと推定され、他藩に逃散した農民たちも多かったと言われる。過酷な年貢取り立てで農民たちはゴムが伸びきった状態になっており、飢饉の追い打ちに持ちこたえられなかったのだろう(「享保の飢饉の餓死者数」)。福岡市内のあちこちには享保の飢饉での餓死者を弔う飢人地蔵や碑が建っているが、この多くは福岡・博多にたどり着いたものの、そこで力尽きた農民たちを供養したものだという(写真下)。

 黒田52万石が喧伝されることで、小早川秀秋は妙なことになっている。関ヶ原の戦いでの東軍勝利の功労者は、西軍から寝返った小早川秀秋と、寝返らせた黒田長政の2人とも言われ、小早川も筑前30万石から備前岡山50万石に大幅加増されている。しかし、小早川の後に筑前に入って来た黒田が52万石と誇ったものだから、小早川は石高を減らされたと勘違いされかねない状況だ。実際、私の好きな歴史マンガにも小早川秀秋が「関ヶ原の功労者はワシなのに、50万石に減らされ…」と徳川家康を恨んで狂死するシーンがあった。

 裏切り者、かつ暗愚な人物との評価が定着している秀秋だが、岡山藩主としては早世するまでの僅か2年の間に数々の治績を残し、岡山市は「悪評とその業績とは相容れない」と評している。過酷な年貢取り立てに加え、福岡城築城に7年間もの年月を費やし、苦役をも農民たちに強いた黒田長政などより、はるかにましな領主だったのだろう。


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水茶屋町

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 先日いただいたコメントの中で、福岡市水茶屋町に戦前あった券番についてお尋ねがあった。券番とは芸者さんの事務所みたいなもので、一般的には検番、または見番と書くのだが、福岡ではなぜか券番と表記している。券番があったということは花街だったわけで、水茶屋町とは現在の博多区千代2、3丁目に当たる。戦時中に焦土となった福岡市だが、この付近は戦災に遭わなかったため、昔ながらの路地がわずかながら残っている。あるいは水茶屋町時代の痕跡もあるのではないかと思い、一帯を“徘徊”してきた。

 結論から言うと、この辺りもご多分に漏れず、大通り沿いはマンションやオフィスビルが建ち並び、かつての花街時代の記憶を見つけることは出来なかった。千代2丁目では一歩中に入ると、古い住宅や商家が連なる路地があり、何となく懐かしさを感じたが、さすがに戦前から残る建物とまでは思えなかった(写真1枚目)。一方、千代3丁目では電柱に「水茶屋」と記したNTT西日本の標識(写真2枚目)が取り付けられていたほか、「水茶屋」という名の喫茶店もあった。かつてここが水茶屋町と呼ばれていたという歴史を伝えるものは、気付いた限りではこの二つだけだった。

 水茶屋町の歴史を簡単に紹介すると、江戸時代の元文5年(1740)、現在の濡衣塚(博多区千代3の石堂川沿いにある。写真下)付近に水茶屋が開業したのが町の始まり。明治に入り、水茶屋が遊女屋を兼業するようになると大いに繁栄したが、明治22年(1889)、遊女屋兼業が一転して禁止され、いったんは急速に寂れた。

 ところが、明治34年(1901)、相生券番(現在の博多区奈良屋町にあった)脱退組の芸妓たちが引っ越してきて新たに水茶屋券番を開業すると再び繁栄。昭和11年(1936)発行の『躍進の大福岡』(博多築港記念博覧会事務局)というガイド本には水茶屋券番について「芸と意気で売り、明治の末頃馬賊芸者と称する豪傑芸者があった。(中略)付近料亭も一流が多い。一方亭、常磐館、橋本、おきぬ、お園、中光等」と紹介されている。水茶屋券番は戦後、株式会社として再出発するが、1969年、他券番と合併して博多券番となり、水茶屋の名前は消滅した。

 『躍進の大福岡』に出てくる一方亭という料亭は東公園にあり、戦後は占領軍に接収され司令部として使われたことで有名だ。惜しいことに1946年4月、漏電により全焼した。一方、戦前まで水茶屋券番の事務所だった建物(千代2丁目にあった)は戦後、「共楽亭」という寄席となったが、人気は続かず、閉鎖後は共同住宅として使われていた。ここも火事で全焼したが、1984年12月のことで、昭和の後半までは健在だったことになる。水茶屋の歴史を伝える建物の焼失は地元ではニュースとなり、当時の新聞は<焼けた共同住宅の一部には、かつて「水茶屋券番」があり、映画「馬賊芸者」のロケが行われたこともある>と報じている。恐らくこの頃はまだ、水茶屋町の記憶は濃厚だったのだろう。

 水茶屋町の歴史については、『躍進の大福岡』のほかに、『博多郷土史事典』(井上精三、葦書房、1987)、『福岡市』(清原伊勢雄、福岡市編纂部、1916)を参考にした。(※「券番」を「巻番」と誤って書いていましたので、修正しました)


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