西鉄ビッグバン

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 「あー、やっぱりね」という記事が7月30日の読売新聞朝刊に掲載されていた。福岡市が計画案を公募している大名小学校跡地(福岡市中央区大名2)再開発に、西鉄が名乗りを上げたというのだ。西鉄は跡地隣に西鉄グランドホテルを所有しており、同ホテルとの一体開発を提案しているという。大名小学校の廃校が決まって以降、西鉄に跡地を売り渡す方針らしいという噂があり、市議会でも問い質した議員がいたが、市側は一貫して否定してきた。現段階では西鉄案の採用が決まったわけではないが、公募というのは形だけで、実は市と西鉄の出来レースではないかという気がしてきた。

 大名小学校跡地には近代建築として評価の高い1929年完成の鉄筋コンクリート造りの校舎が残り、この春にまとまった跡地活用の指針『旧大名小学校跡地まちづくり構想』の中でも「意欲的なデザイン、アール・デコ様式は外部及び階段や廊下まわりの細部にも残っており、デザイン・構法等がすぐれている」などと称賛されている。

 西鉄がこの校舎をどうする考えなのか記事では触れられていないが、跡地に高級ホテルや商業施設を建設するという計画案から判断すると、恐らく取り壊されることになるのだろう。2013年2月に
「大名小校舎の報告書」という記事を書き、この中で校舎の先行きについて「特に評価の高い玄関部分だけをモニュメントして残し、残りは跡形もなく…」という無責任な予測を行ったが、案外的を射ていた可能性はある。

 『旧大名小学校跡地まちづくり構想』には最後に次のように記されている。

 跡地は、更新期を迎える天神・大名地区において貴重な空間であり、連鎖型まちづくりの視点も重要である。
 ※連鎖型まちづくりとは、跡地などの空間にビルやテナントを移転し、活動を継続させながらエリア全体の建て替えが順次展開していくようなまちづくりの手法

 まさに西鉄グランドホテルの建て替えを想定していたような書き方だ。構想の中で最も重要な点は、ひょっとしたらここだったのではないだろうか。

 それにしても西鉄がこれほどの経営体力を持っているとは予想外だった。福岡市は今、中心部・天神地区で「天神ビッグバン」というプロジェクトを進めている。極めて簡単に説明すれば、容積率の緩和により民間ビルの建て替えを促そうという、かつての土地バブルを思い起こさせる政策なのだが、西鉄はこの中で、土地交換で取得した毎日福岡会館(地図上のA地点)、所有する福岡ビル、天神コアなど(B地点)の再開発を進めることをすでに明らかにしている。これに大名小学校跡地(C地点)が加われば、西鉄は天神地区で三つの大プロジェクトを抱えることになる。「天神ビッグバン」というより「西鉄ビッグバン」である。
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九大近代建築物群の行方



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 九州大の伊都キャンパス(福岡市西区、糸島市)への統合移転が1年早まり2018年度中には完了する予定だ。箱崎キャンパス(東区)に残る近代建築物群の先行きが気になっていたが、箱崎キャンパス跡地利用協議会の話し合いの中で、どの建物を残し、どの建物を解体するか、大まかな方針がまとまったようだ。「九州大を象徴する極めて評価の高い建築物」(A評価)として保存・活用を前提としているのは、旧工学部本館(1930年建築)、本部第一庁舎(1925)、正門門衛所(1915)。一方、「構造的な劣化が著しく、利活用が困難」(C評価)として解体される見込みなのは保存図書館(1925)、旧応力研生産研本館(旧法文学部本館、1925)、旧応用物質化学機能教室(1927)など計8棟。 帝国大学時代の建物の多くはやはり消え行くことになりそうだ。

 箱崎キャンパス跡地利用協議会は福岡市と九大、地元・箱崎の住民代表からなる組織で、2013年8月以来、跡地利用計画を話し合い、この中で近代建築物群の取り扱いについても検討してきた。保存が打ち出された三つの建造物はすべて正門付近にあり、協議会が昨年2月にまとめた計画案では、この一帯を「近代建築物活用ゾーン」と位置付け、教育・研究機関などの誘致を図っていくことになっている。移転完了後も保存活用する事業者が決まらない場合は、九大が暫定的に管理し、継続して事業者を探していくという。

 九大には先に名前を挙げたものも含め20棟以上の近代建築がある。本部第三庁舎(1925)、旧船舶海洋工学実験室(1921)、創立五十周年記念講堂(1967)など11棟に関しては「比較的評価の高い建築物で、運営主体による費用対効果を考慮して取り扱いを検討する」(B評価)となっている。要するに残すかどうかは土地を購入する事業者次第ということで、保存・活用の考えがない場合は記録保存の後、取り壊しということになる。ただ、本部第三庁舎だけは 「近代建築物活用ゾーン」にあることから、現地での保存活用を図っていく方針らしい。

 結局、確実に保存されそうな建物は旧工学部本館、本部第一&第三庁舎、正門門衛所だけで、これに正門を加えてもわずかに五つ。B評価の建築物群の結果次第でこの数字は変わってくるが、伊都キャンパスの土地取得に掛かった費用を箱崎キャンパス売却で賄いたい九大側の事情を考えれば、建築物の保存優先というわけにはいかないだろうと思う。

 旧法文学部本館などは個人的には少し思い出があり、解体は残念な気がするが、「寿命に達している」という診断が出されていたこともあり、保存は100%無理だろうとは予想はしていた。なぜ、こんな大昔の建物に思い出があるかと言えば、私の通っていた学部が一時期、この建物に間借りしていたのである。わずかな期間であり、それほど濃厚な記憶ではないのだが、玄関付近の造りは非常に重厚で、また、本来の学部の建物より部屋がずいぶん広く、使い勝手が良かった印象がある。間借り期間中に通った工学部の学食が決して安くはないが、意外にうまかったことは、もっと印象に残っている。

 写真は上から順に、旧工学部本館、本部第一庁舎、正門門衛所、旧法文学部本館。下は解体予定建築物の一つの旧応用物質化学機能教室。いつの間にかフェンスで囲われ、取り壊しを待つだけという雰囲気だった。数年前に見た時はまだ現役で、重厚な外観を保っていたが、使われなくなると建物の劣化は早い。


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牧ノ戸~久住山

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 くじゅう連山の主峰、久住山(大分県竹田市、1,786.5㍍)に登ってきた。ルートは牧ノ戸峠(1,300㍍)発着の“初心者コース”。高低差だけなら500㍍弱で、地元の油山(597㍍)にも劣るぐらいだが、こちらが正真正銘の超初心者なため、距離的には十分ハードなコースだった。中でも山頂に通じる最後の坂は大小の岩がゴロゴロしていて非常に歩きづらく、登り下りとも難儀した。それでも登山道自体は非常に変化に富み、眺めも抜群で、福岡市近郊の低山では経験できない山歩きを楽しめた。この山が九州の登山愛好者たちから広く愛されている理由をこの年になって理解できた。

 4月の熊本地震で、くじゅう連山の登山道も一部崩落するなど影響が出ていると聞いていたので、出発前には念のため大分県の公式サイトで確認したところ、牧ノ戸からの登山道には全く被害は出ていないようだった。しかし、実際に登ってみると、久住山山頂手前にある分岐点「久住分かれ」では、北千里浜を経由して法華院温泉や坊がつるに至るルートが通行止めになっていた。現地の注意書きには「土石流多発地帯につき通行をご遠慮下さい」とあり、熊本地震とは直接は関係ないのかもしれないが。

 少し気になったのは山中の所々にある標識の距離表示が相当いい加減に思えたことだ。牧ノ戸登山口から急傾斜の坂道を登り詰めると、沓掛山(1,503㍍)という岩だらけの峰に達するのだが、この手前にあった距離表示は「久住山3.1km 牧ノ戸0.7km」。ところが、沓掛山を越えた所にあった標識は、なぜか「久住山3.6km、牧ノ戸1.0km」。一山越えて近付いたはずの久住山が、逆に500㍍も遠くなっていた。

 帰宅後、グーグルマップで距離を測ってみたところ、例の距離表示は直線距離ではないかとの結論に達したが、役行者ではあるまいし、山中を一直線に踏破できる者はいないだろう。熟練者はそもそも山中の距離表示など参考にしてもいないのだろうが、冒頭紹介したように今回たどったのは初心者用と言われるルートだ。初心者にとっては「山頂へ○○km」という表示が励みにもなれば、体力的にしんどい際は「進むか戻るか」の判断材料にもなり得ると思う。出来れば、実態に即した距離表示をして欲しいと思うが、無理な要求なのだろうか。なお、比較的信頼している万歩計アプリによると、牧ノ戸~久住山の往復距離は優に12㌔を超えていた。

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 これが牧ノ戸を出発して最初に見掛けた距離表示。

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 次に見掛けた距離表示では久住山への距離が長くなっていた。出発地点からまだ間もなくの場所で、体力が残っている時だったので良かったが、疲れ切った道のりの後半でこんな目に遭うと大ショックだと思う。

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 沓掛山からの眺望。この辺りの登山道では見慣れぬセミが「ギーギー」と聞き慣れぬ鳴き方をしていた。キュウシュウエゾセミというらしいが、名前も妙である。

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 「久住分かれ」近くに広場があり、避難小屋とトイレ(利用料100円)があった。山中の大半の場所で携帯電話は“圏外”だったが、危急の際の通報用にアンテナが設置されていたのか、ここだけは電波が届いていた。
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旧こども病院解体始まる

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 福岡市中央区唐人町で、旧こども病院の解体工事が始まっている。病院がこの地から東区の人工島に移転してから、すでに2年近く。1980年完成の建物はもともと老朽化しており、空き家になった途端、急速に劣化が進んでいた。まだ、前庭の取り壊しが行われている段階で、病棟の方は手付かずの状態だが、廃虚じみた雰囲気を漂わせていた旧病院撤去がようやくにして始まった。

 解体工事の期間は来年3月15日までで、3社からなる共同企業体が約5億5,800万円で請け負っている。跡地の広さは約17,000平方㍍。更地にした後、どう利用するかについては市から正式発表はないが、高島市長は今年3月議会で「新病院の整備費用に充てるため、売却することを基本に今後検討する」と明言している。市が公共施設として利用する可能性は恐らくゼロに等しいだろう。市内部で利用希望を募ったところ、手を挙げる部局が全くなかったという話も聞く。

 跡地が面しているのは非常に狭い道路だが、市営地下鉄唐人町駅や、市の幹線道路とも言える明治通りから徒歩数分の距離で、唐人町商店街、さらにはヤフオクドームなども近くにある。個人的にはマンション用地として最適な立地だと思ってきたが、家族の意見は「病院跡地に建ったマンションに住みたがるだろうか」と懐疑的だった。

 私は霊感ゼロの人間なので、立地条件や設備がそこそこ良く、なおかつ分譲価格や家賃が安ければ、それでOKだが、土地の来歴を気にする人は案外多いのかもしれない。まして、跡地は藩政時代、枡木屋の獄舎があったとされる場所だ。あまり暗い歴史を掘り返して恨まれるのは嫌だが、幕末にはここで藩内の勤王派が多数処刑されたと伝えられている。住宅用地としては、かなりいわくつきの場所だとは言えるかもしれない。

 跡地周辺に広がるのは数多くの寺に囲まれた静かな住宅地で、藩政時代から寺町だった。この周辺環境を考えれば、集客施設の進出にはなかなか地元がウンとは言わないだろうと想像する。しかも、近隣には2年後の2018年度、新ホークスタウンモールという巨大施設が開業予定で、わざわざ強力ライバルがいる場所に進出を望む企業があるとも思えない(下の写真は旧モールの解体現場)。このほかでは保育園や専門学校、福祉施設、これまでと同じく病院といった跡地利用が思い浮かんだが、跡地売却に当たっては、市側も地元の意見を十分に吸い上げるだろうとは思う。




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ジャピーが遭難した脊振山

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 せっかくの3連休にゴロゴロしているのも何だからと思い、海の日の18日、なぜか山に出かけることにした。行き先に選んだのは、福岡、佐賀県境にある脊振山(標高1,055㍍)。この山、山頂のすぐ下に駐車場がある。苦しい思いをせずに1,000㍍級の山に登り、眺めを楽しもうという甘い魂胆だったが、例によって情報不足だった。

 防衛庁による道路工事のため、なんと7月5日から9月22日までの79日間は山頂下駐車場への出入りや山頂への登山は禁止だったのだ。これには愕然としてしまったが、せっかく来たのだからとアンドレ・ジャピー遭難地点近くの道路脇に車を停め、周辺を散策することにした。山頂にも行くだけは行ってみようと登山道をたどったところ、幸いなことに祝日のため工事も休みで、山頂へ通じる石段を登ることができた。ただし、普段はやはり山頂へは登れそうにない様子だったので、念の為。

 なぜ、防衛庁が山頂などで道路工事を行っているかというと、脊振山頂一帯には航空自衛隊のレーダー基地があるためで、山頂では脊振神社上宮の鳥居の先に巨大なレーダードームが鎮座するという光景に出会える。工事の中身は基地進入路のアスファルト張り替えらしい。

 この脊振山頂には小学校6年生の時に遠足で登ったことがある。私が通っていた小学校は当時、6年生は4クラス。たまたまこの日は別の小学校(福岡市中心部にあった小規模校、ずばり名前を出せば大名小学校)も遠足で同じ場所に来ていた。山頂には200人を超える小学生がひしめき、弁当などを開いていたわけで、だから結構な広さだったと記憶していた。しかし、社会人になって初めて再訪した時、山頂は10~20人程で満員になるような狭い場所であることを確認し、自分の記憶のいい加減さに呆れたことがある。200人以上の小学生は山頂周辺一帯に散らばり、昼食を取っていたのだろう。

 ところで、アンドレ・ジャピー遭難地点とは何かと言うと、1936年11月19日、パリ~東京間を単独飛行中だったフランス人飛行家、アンドレ・ジャピー(1904~74)が山中に墜落、大腿骨骨折などの重傷を負いながらも、異変に気付いて駆けつけた脊振村(現在は神埼市の一部)の村人たちに助け出され、九死に一生を得た場所だ。

 経緯を簡潔にまとめた説明板が現地にあったので、その写真で説明に代えさせていただくが、1936年とは、日本初の国際空港、雁ノ巣飛行場が福岡に開港した年で、ジャピーは雁ノ巣を目指していたらしい。日本の航空黎明期の時代、恐らくは飛行機を見たことさえほとんどなかったであろう小さな山村の住民たちが事態を正確に把握し、迅速な救助活動を行ったことに感心する。80年前の昔話のようだが、これが縁で神埼市とジャピーの故郷、フランス・ボークール市は姉妹都市の縁組を結んでいる。一昨年にはジャピーの親族が遭難現場を訪れ、地元の大歓迎を受けるなど、ジャピー遭難に端を発した国際交流は今なお続いている。


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福岡城扇坂の発掘調査

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 福岡城二ノ丸で「扇坂」跡の発掘調査が続いている。梅園への登り口に当たる場所で、藩政時代、文字通り扇形をした階段があったらしく、城内に掲示されている古地図にもその姿が描かれている。それにしても、なぜ、今さら階段跡などの発掘調査を行っているのだろうか? 想像はついたが、調査地点近くに設置されていた看板に明記されていた。福岡城跡整備のためだ。この整備の中身を具体的に言えば、幕末期の福岡城復元を目指している。調査は8月末までの予定だという。

 福岡城復元については何度が取り上げたことがあるが、福岡市が2014年6月に公表した「国史跡福岡城跡整備基本計画」をもとに改めて簡単に紹介すると、当面の整備期間は2014~28年度の15年間。この期間を2014~18年度の短期、2019~28年度の中期に分け、建物や石垣、土塁などの復元・修復を、絵図や古写真、発掘調査の結果に基づき段階的に進めていくことになっている。

 つまり、今年は福岡城整備がスタートしてすでに3年目になるわけだが、一見、福岡城址に大きな変化はない。計画は本当に進んでいるのかと疑問を覚えてしまうが、基本計画によると、短期計画で復元工事、つまり新たな施設建設が予定されているのは潮見櫓(
「動き出した潮見櫓復元」参照)程度だ。ほかに計画案の中に盛り込まれているのは旧母里太兵衛邸長屋門の修復、現存する建造物・遺構への解説・案内板の設置、舞鶴中学校跡地の駐車場・ガイダンス施設としての暫定活用等で、これらはすでに実施済み。計画は徐々に前進してはいるわけだ。

 続く中期計画で復元が予定されているのは、福岡城最大の建造物だったと言われる武具櫓(
「福岡城の武具櫓」「福岡城武具櫓、2度目の説明会」)、福岡城の正門に当たる上之橋御門、本丸裏御門、太鼓櫓等で、扇坂の復元もここで予定されている。福岡城址が大きく装いを変えるのは2019年度以降ということになる。建造物等復元の基礎資料とするため、福岡城址では今後、間断なく発掘調査が続くことになるのだろう。

 短期・中期を合わせた整備費は約70億円と見積もられている。やや話が変わるが、今回の熊本地震で巨大な被害を受けた熊本城の復旧費は、石垣だけでも約350億円(熊本市が公表した文化庁試算)、建造物を含めればさらに膨大な金額に膨れ上がると言われる。復元から間もない熊本城の飯田丸五階櫓や戌亥櫓等は石垣が崩壊し、倒壊寸前の状態だ。この惨状を思えば、歴史的建造物の復元は単に史実に忠実というだけでなく、耐震面も重要になるだろう。福岡城整備の70億円という金額にこの点が考慮されているのか、ふと疑問に思った。下の写真は2015年4月撮影の戌亥櫓。


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能古島架橋は?

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 写真は山口県下関市豊北町の離島・角島と本土とを結ぶ角島大橋(2014年9月撮影)。コバルトブルーの海に架かる全長1,780㍍の長大な橋は『死ぬまでに行きたい!世界の絶景』で全国的にも有名になり、ミーハーな私も2度この橋を渡ったことがある。しかし、2度とも大渋滞に巻き込まれ、食事や観光はおろか、駐車場に車を停めることさえかなわず、ただ多大な時間をかけて島内を一周しただけに終わった。絶景は見るだけで十分だ。
 
 角島大橋が開通したのは2000年11月。それまで角島を訪れる観光客はわずかな釣り客だけだったが、橋の完成以降は激増し、年間50万人を超えた年もあったという。だからといって島に雇用が増えたわけではなく、以前は1,000人を超えていた人口は大台を割り、現在は800人台。橋が架かったことで島民が本当に喜んだのは「夜中に急患が出ても救急車が来てくれる」ことだと聞いた。

 離島が本土とつながると、かえって衰退が進むという話を確か藤原新也さんのルポで読んだ記憶があるが、そのルポは山口県内の別の島が舞台だった。これだけの絶景を持ち、現実に多数の観光客が押し寄せている角島ならば、雇用を生み出し、人口流出に歯止めをかけられるのではないかと部外者の私は無責任に思うが、現実には容易なことではないのだろう。

 福岡市の博多湾内にも能古島という離島がある(下の写真)。広さは角島とほぼ同じ4平方㌔弱で、人口はやや少ない700人台。約2㌔離れた対岸の西区姪浜とは市営渡船(フェリー)で結ばれており、15分ほどで行き来できる。基本的には漁業が生業の島だが、「のこのしまアイランドパーク」という行楽施設や海水浴場が島内にはあり、市民の憩いの場ともなっている。こうして比べてみると、角島と能古島には類似点が多い。今まで考えてみたこともなかったが、能古島ではこれまで、架橋を求める運動など起きなかったのだろうか。あっても不思議はない話だと思うが。

 福岡市議会サイトで公開されている1991年以降の会議録を当たってみたところ、能古島架橋に関しては昨年10月の決算特別委分科会で「能古島は住民の意識として、渡船ではなく橋をかけたほうがよいのでないかという議論も起きており」という発言があるだけだった。福岡市議会の会議録は本会議以外は発言者名が記録されていないので、誰の発言なのかもわからないが、この発言を信じれば、能古島民にも架橋待望論はあると思われる。

 しかし、根拠も何も示さない雑談レベルの発言であることを思えば、恐らく大きなうねりにはなっていないのだろう。フェリー2隻体制の市営渡船は1日23往復とかなりの充実ぶりで、海上タクシーも運航している。橋で本土とつながれば、車が増え、住環境が乱されると懸念し、アクセスは今のままで十分と考える島民も多いのかもしれない。

 話は少し変わるが、福岡市は先月8日から、能古島など市内8地区の市街化調整区域の規制を緩和し、レストランや宿泊施設、土産物店などの集客施設が立地できるようにした。3年前に150万人を突破し、今なお人口増加が続いている福岡市だが、これら8地区では人口減と高齢化が深刻。規制緩和により、地域の活性化を図ろうという狙いだ。道路など新たな公共施設の整備は伴わない、延べ面積は500平方㍍以下――といった条件があり、効果の程はわからないが、仮に成功の場合でも150万都市というバックグラウンドがあっての話であり、他の離島の特効薬にはならないだろうとは思う。


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福岡事件と死刑存廃


 先月17日は“福岡事件”の西武雄・元死刑囚の命日(死刑執行日)で、残念ながら見学はできなかったが、福岡市内では彼の遺品展が開かれていたようだ。毎年、多くの事件が起きている福岡だけに、福岡事件というだけではどの事件のことかわからないと指摘されそうだが、一般的には1947年、中国人ブローカーら2人が射殺され現金が奪われた事件を指している。事件発生から69年、西・元死刑囚の刑が執行された1975年から数えても41年。忘れ去られても不思議ではない事件だが、元死刑囚存命中から始まった再審請求運動は50年以上がたった今も続けられている。

 この事件に関する著作は当事者に近い人物らから数々出されており、今さら個人ブログがテーマとするには荷が重すぎるが、少し興味深い記事を見つけたので、この記事を参考に取り上げてみたい。

 まず福岡事件についてごく簡単に説明すると、1947年5月20日、現在の福岡市博多区で起きた強盗殺人事件だとされている。犯人らは軍服を販売すると偽っておびき出した中国人ブローカーらを拳銃で射殺し、現金10万円を奪ったというもので、首謀者とされたのが西・元死刑囚、そして実行犯が故・石井健治郎氏だった。2人には死刑判決が下され、56年4月、最高裁が上告を棄却し死刑が確定した。

 しかし、死刑囚教誨師として2人の訴えを聞いた僧侶・古川泰龍氏は、石井氏が2人を射殺したのはケンカ相手と勘違いしての誤殺で、西・元死刑囚は被害者らと軍服の取引を行っていただけで全くの無関係だと冤罪を主張。古川氏の支援で2人は数度の再審請求、さらに69年8月には時の法相の「戦後の混乱期に死刑判決が出されたケースでは恩赦を積極的に検討する」という方針を受け、恩赦を出願した。6年後の1975年6月17日、石井氏の恩赦は認められ無期懲役に減刑されたが、まさに同じ日、西・元死刑囚には「恩赦不相当」の決定が伝えられ、即日、刑が執行された。

 同じ事件で死刑判決を受けながら、一人は土壇場で死を免れ、一人は刑場に――この残酷とも言うべき仕打ちは論議を呼び、執行から2日後の6月19日、読売新聞は「死刑制度はどうしても必要か」と問いかける社説を掲載している。最近見つけた興味深い記事とはこの記事のことで、以下に一部を紹介する。

 死刑存続論の主な根拠は犯罪抑制の効果に対する期待と、被害者遺族の心情に対する配慮といってよいだろう。しかし、死刑廃止国のこれまでの調査によると、死刑廃止前後の犯罪率に大きな差はないとされている。また、被害者遺族に対して、国がまず果たすべき施策は、個人に代わって犯人に応報することではなく、むしろ、誠意ある補償制度を確立することではないだろうか。
 われわれは死刑制度に異議をとなえる背景の一つとして誤判の恐れを強調しないわけにはいかない。(中略)
 こんどの処刑は、死刑制度の矛盾を一層際立たせた。死刑制度は、人道上、あるいは刑事政策の上から容認されるべきものかどうか、改めて再検討することを政府や国会に期待したい。また、その結論が出るまで、刑の執行は、一時停止することを望みたい。

 死刑廃止を訴える人権団体が昨日発表した文章だと言っても違和感ない内容だが、あえて繰り返す、41年前の読売新聞の記事である。保守的な論調で知られる新聞であり、少なくとも現在では死刑廃止の側には立っていないと理解している。その読売新聞が死刑制度に異議を唱えるほど、西・元死刑囚の執行は理不尽なものと受け止められたわけだ。

 ただ、この時の議論は言うまでもなく死刑廃止には結びつかなかった。先の社説が図らずも書いていたが、1975年当時、福岡事件とは「半ば忘れられかけた事件」であり、多くの国民の関心を集めるまでには至らなかったのだろうか。

 西・元死刑囚の恩赦が認められなかったのは、冤罪を訴えていたため、司法側からは「反省が足りない」と判断されたためだとも言われる。石井氏恩赦の日にあえて執行した理由は不明だ。何らかの政治的意図があったのかもしれないが、次の再審請求が出される前のタイミングを狙っただけではないかとも思える。1981年に仮釈放された石井氏は熊本県玉名市の古川氏の寺に身を寄せ、2008年12月、91歳で死去した。

 事件の概要等は『冤罪・福岡事件 届かなかった死刑囚の無実の叫び』(内田博文編著、現代人文社、2012)などを参考にした。写真はイメージ。
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『坊がつる賛歌』の歌碑



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 猛暑となった7月6日、大分県九重町の長者原に行き、タデ原湿原を散策して来た。昨年7月以来、ちょうど1年ぶりで、湿原に通じる散策路入口に昨年はなかった石碑があるのに気付いた。ガイド犬「平治号」の銅像そばの場所だ。近付いてみると『坊がつる賛歌』の歌碑。いつ建てられたのだろうと思い、帰宅後に調べてみると、昨年8月11日に除幕されていたことがわかった。8月11日は今年から「山の日」という祝日。前祝いを兼ねての除幕式だったという。

 『坊がつる賛歌』は九州の岳人たちに古くから歌い継がれてきた曲で、偶然耳にしてほれ込んだ歌手の芹洋子さんが1978年に歌い大ヒットしたことで知られる。一昨年の2014年、阿蘇くじゅう国立公園指定80周年記念イベントの一つとして芹さんのコンサートが現地で開かれた際、地元関係者の間で歌碑建立計画が持ち上がり、寄付を募って1年がかりで完成にこぎ着けたという。

 歌碑は山の形に見立てた高さ約2㍍、幅約2.7㍍の立派なもので、『坊がつる賛歌』の歌詞が1番から4番まで刻まれている。念のため説明しておくと、坊がつるとは、くじゅう連山の標高約1,200㍍地点に広がる広さ53㌶の広大な湿地で、標高1,000㍍地点にあるタデ原湿原(広さ38㌶)とともにラムサール条約登録湿地となっている。歌碑が坊がつるではなく、タデ原湿原の入口に建てられたのは不思議だが、国立公園の制約等もあって山中には建立できなったのだろうか。

 くじゅうをテーマにしたポップスは、他に『ロマンよ風になれ』という曲があり、個人的にはこちらの方が印象に残っている。吉川由美さんというアイドル歌手が1988年に出した曲だ。『坊がつる賛歌』のように多くの人に知られた曲ではないが、九州では発売当時、ドレス姿の吉川さんが九州交響楽団をバックにこの曲を歌うミニ番組がNHKで放送されており、記憶している九州在住者も多いのではないだろうか。以前からCDや音楽ダウンロードサイトでこの曲を探しているのだが、一向に見つからない。

 6日のタデ原湿原は、ノハナショウブやハンカイソウ、オカトラノオなどが咲き誇っていた。湿地周辺の乾いた場所に自生しているヒゴタイの見頃は間もなくの様子だった。湿原からくじゅう連山を見上げると、普段と違って硫黄山から白煙が上がっていなかった。ここには何度も来ているが、こんな風景を見るのは初めてだった。


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立花山のクス原生林

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 福岡市東区の立花山(標高367㍍)に登り、クスの巨木を見てきた。山頂付近の斜面には多数のクスが自生しており、その数は全山で数千本、樹齢300年と推定される巨木だけでも約600本を数え、1955年にはクス原生林の北限として国の特別天然記念物にも指定されている。一方で、原生林の割には若木がなく、一部の木は規則正しく並んでいるなどの理由から、福岡藩の植林によって生まれた森だという意見もある。

 自然林、人工林のどちらにしろ貴重な森であるのは間違いないと思うが、仮に人工林であった場合、どのような目的でつくられた森なのだろうか。クスで思い浮かぶのは防虫剤やセルロイドの原料などとなる樟脳で、江戸時代、南蛮貿易での主要輸出品の一つだったという。クスとは“金の成る木”だったわけで、「福岡藩が樟脳製造を目的にクスを植樹した」という筋書きを考えたが、残念ながら福岡藩で樟脳製造が盛んだったという話は出てこなかった。

 むしろ出てくるのは福岡藩がクス林を大切に保護していたという話で、「立花山の樟林は、全国稀に見る所にして、旧藩時代に保護を加えたる由れば、其生育殊に宜しく(中略)、林業家の嘆賞する所なり」(『福博誌』伊東尾四郎、森岡書店、1902)という一文を読めば 目先の利益ではなく、危急の際の資産としてクス林の保護を図っていたようにも思える。なお、南蛮貿易で輸出された樟脳のほとんどは薩摩産だったという。

 昭和初期の資料には「前城口の入口の谷間にクスの落葉を集め樟脳を製取する小屋あり」(『天然紀念物及名勝調査報告 植物之部 第8輯』史蹟名勝天然紀念物保存協会編、刀江書院、1928)とあり、立花山で一時期、樟脳製造が行われていたことは間違いないようだ。だが、チップではなく落ち葉で作ったというぐらいだから、非常に細々とした規模だったのだろう。

 立花山は、黒田家の筑前転封までは立花城という山城があったことで知られ、歴史にも彩られた山だ。城の本丸があった山頂からの眺めも良く、低山ながら登山客の人気は高い。ルートは色々あるが、私の場合、福岡市立三日月山霊園(福岡市東区香椎)の駐車場に車を停め、駐車場内にある三日月山(標高272㍍)登山口から隣の立花山まで縦走するルートを取ることが多い。私自身は利用したことはないが、立花山・三日月山の登山客の中には、東部余熱利用センター(東区蒲田5)の大浴場で汗を流して帰る人も多かったという。この施設が惜しまれながら3月末で閉鎖されたことを以前紹介した(「消え行くホークスタウン」)。




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