旧都井岬観光ホテル解体へ

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 3年前の夏、御崎馬の生息地として有名な都井岬(宮崎県串間市 )に遊びに行き、廃ホテルが並ぶ無残な光景に衝撃を受けたことがある(「廃ホテルが並ぶ都井岬」)。このうちの一つ、旧・都井岬観光ホテル(写真上)の解体が近く始まるとの記事が読売新聞のニュースサイトに掲載されていた。ホテル跡を所有する串間市は9月議会に解体工事の請負契約議案を提案予定で、可決されれば年度内にも解体を終える見通しだという。宮崎有数の観光地の景観整備がようやく始まるわけだが、都井岬にはこのほかにも廃虚化したホテル跡が並ぶ。中でも2000年に閉鎖された旧都井岬グランドホテル(写真下)の惨状はすさまじいばかりだが、こちらの解体はまだメドも立たない状況のようだ。

 都井岬観光ホテルの沿革を簡単に紹介すると、宮崎が新婚旅行ブームに沸いていた1964年、宮崎交通の子会社として開業した。客室数150室、最大収容人員は410人。都井岬にはピーク時の1974年、70万人近い観光客が詰めかけ、16もの宿泊施設があったといわれるが、その中でも最大だったのがこのホテル。しかし、観光客の激減で経営は悪化、累積赤字に耐えかねた宮崎交通が投げ出した後、経営権は転々。最後は大阪の不動産会社が運営していたが、宿泊客は伸びず、2010年3月、突如として閉館した。

 2012年12月、ホテルの土地・建物は競売にかけられ、堺市の不動産会社が落札した。この会社は土地を太陽光発電に活用する計画だったという。シンボル的観光地のこれ以上の環境悪化を嫌った串間市も競売に参加していたが、タッチの差で落札できず、その後、不動産会社と交渉を続けた末、昨年、不動産会社の落札価格をやや上回る約4,000万円で買い取ったという経緯がある。同市の今年度当初予算には解体に向けての調査費が計上され、解体は既定方針となっていた。

 もう一つの大型ホテルだった旧都井岬グランドホテルについては経営母体など詳しくはわからなかったが、客室数は65、最大収容人員は227人で、2000年1月に廃業している。こちらは道路沿いの非常に目立つ場所にあり、近年は廃虚マニアにとっても有名な存在だ。今年3月の串間市議会一般質問では、議員の一人が「あの廃虚があっては都井岬のイメージが未来永劫下がり続ける」とまで訴え、旧観光ホテルとともに解体するよう求めていた。

 これに対する野辺修光市長の答弁は「該当する物件が民間の所有物でありますことから、課題が多いと考えておりますが、国定公園においては、景観の保全や美化が重要であることも認識いたしておりますので、国の制度事業などの情報収集はもちろん、その他の手法の調査研究も行い、よりよい解決策を見つけてまいりたいと考えているところであります」というものだった。旧観光ホテルの土地・建物買収費が約4,000万円、さらに調査費を含めた解体工事費が約1億円。今年度一般会計予算の規模が218億円、人口に至っては2万人を割り込んだ串間市にとり、旧観光ホテルの解体だけでも大事業であり、旧グランドホテルも同時には無理ということだろう。都井岬からの廃虚一掃までには、なお時間が掛かりそうだ。

 都井岬を訪れる観光客は近年はかつての7分の1の10万人程度にまで落ち込んでいる。串間市観光協会のサイトによると、岬には現在、宿泊施設としては小規模な国民宿舎と民宿2軒があるだけで、収容人員は3施設合わせてもようやく100人を超える程度だ。旧観光ホテル跡地については、更地になった後、宮崎市の企業が新たな観光施設建設に乗り出すと伝えられているが、具体的なスケジュールはまだ未定らしい。
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大浜流灌頂2016



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  福岡市博多区大博町で開かれていた「大浜流灌頂」に最終日の26日行ってきた。台風10号の接近で終日風が強く、空模様も少し怪しかったため、残念ながら呼び物の武者絵大灯篭は会場の路地には飾られていなかった。代わって旧大浜公民館に屋内展示されていた。「博多最後の絵師」と呼ばれる海老崎雪溪の絵は迫力あったが、やはりこれは屋外で灯篭として見るものだと思った。

 大浜流灌頂は、宝暦5年(1755)の風水害犠牲者らを供養するため宝暦6年から続いていると伝わる祭りで、かつては「博多の夏祭の最後をかざる大祭」(『博多年中行事』 佐々木滋寛、九州土俗研究会、 1935)だったという。現在も博多の夏祭りを締めくくる存在であることには変わりはなく、露店が並ぶ会場は近隣住民と思われる人たちで大にぎわいしていたが、大祭と呼べる規模ではない。『福岡町名散歩』(井上精三、葦書房、1983)によると、近くにあった柳町遊郭が移転して以降、次第に寂れていったという(遊郭の移転完了は1911年)。

 『博多年中行事』には柳町遊郭があった頃の流灌頂について「この祭の夜は妓楼の軒には桜の造花をかざり、遊女の源氏名を書いた雪洞を吊して、祭礼気分が溢れていた」と書かれている。遊郭があった時代の流灌頂の風情を懐かしんでいるような文章だが、『博多年中行事』著者の佐々木滋寛(1899~1976)は、名前で想像できるように僧侶(博多区千代の松源寺住職)が本職だった。1899年生まれだから、子供時代に見た祭りの華やかさが目に焼き付いていたのだろう。

 現在の流灌頂の名物は、冒頭書いたように3基の武者絵大灯篭だが、『博多年中行事』にはこれについての記載はなく、代わって祭りの飾り物としては野外に造られた人形が紹介されている。この人形は「蚊帳で作った山を背景として鎧武者の奮戦の場を作った」ものが多かったという。製作に手間暇の掛かる武者人形に代わって武者絵大灯篭が飾られるようになったのではないかと想像したが、『博多年中行事』とほぼ同時期に出版された博多のガイド本『筑前博多』(福岡協和会編、1938)には人形、大灯篭の両方が紹介されており、併存していた時期があったことになる。

 大灯篭は1958年に県の有形民俗文化財に指定されている。貴重なものだから、大灯篭の登場は天候次第で、今夜のように目に出来ないこともままあるようだ。絵の作者の海老崎雪溪についての情報はあまりないが、旧大浜公民館でもらった『大浜流灌頂栞』によると、明治9年(1876)の生まれで、「幼少より画筆に秀で、長じて“雪溪”と号す。芥屋町、土居町、上対馬小路において画筆に没頭」とあった。昭和16年(1941)、急性肺炎により没したという。

 『博多年中行事』は『新修福岡市史 民俗編一』に再録されているほか、国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができる。
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8月24日に供養祭集中?

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 福岡市博多区中洲2にある「川端飢人地蔵尊」で23、24日、夏祭り(施餓鬼会)があり、地蔵尊は数々の盆提灯で飾り付けられ、地元の人によるあめ湯の接待なども行われていた。過去にも取り上げたことがあるが、飢人地蔵とは享保の飢饉(1732)での餓死者を供養するために建立されたものだ。少なくとも6~7万人の犠牲者を出したとされる旧・福岡藩領には数多くの飢人地蔵が建ち、飢饉の悲惨さを伝えている。(
「大休と飢人地蔵」「享保の飢饉の餓死者数」

 飢人地蔵について初めて知ったのは、中学校の歴史の授業でだった。江戸時代の飢饉について学んだ際、講師(正式な教員ではなかった)が福岡でも多数の人々が餓死し、その供養のための地蔵が市内各地に建っていると話してくれたのだ。教科書に載っていた内容よりも、こういった雑談めいた話の方が印象に残っているもので、この歴史講師はたまに脱線しては福岡の古い話を語っていた。教員というよりは郷土史家みたいな人物だった。

 話を戻すと、博多区千代2にある「西門飢人地蔵堂」の供養祭も川端と同じ毎年8月23、24日に行われている。飢人地蔵ではないが、身代わりで刑死したと伝えられる浪人を祭った中央区唐人町1の「八兵衛地蔵尊」の祭りもやはり8月23、24日。少し毛色は異なるが、宝暦5年(1755)の大風雨による死者を供養する博多区大博町の「大浜流灌頂」が8月24~26日。ぱっと思い浮かんだのはこの程度だったが、市内では恐らくもっとたくさんの祭り、あるいは施餓鬼会がこの季節に行われていると思われる。なぜ、8月24日前後にこの種の供養祭が集中しているのだろう? 恐らく毎月24日が地蔵菩薩の縁日であり、なおかつ先祖を供養するお盆に近い時期だからだろうという結論に達したが、果たしてどうだろうか。

 京都をはじめとする関西では同じこの時期、「地蔵盆」という催しが盛んに行われているという。地蔵菩薩は子供の守り神的な存在であることから、こちらは子供の健やかな成長を祈る祭りとして伝わっており、お参りに来た子供たちにはお菓子が配られるという。地蔵盆も源流は、戦乱や自然災害、飢饉等の犠牲者を供養する祭りで、次第に子供の祭りに変容していったのではないかと、例によってアバウトな推理をしたのだが、インターネット上にあった研究論文(※)には「地蔵盆はそもそも最初から子供の安全を祈る行事であった」という趣旨の記述があった。福岡で続いている様々な供養祭とは開催時期が共通しているだけで、起源や意味合いは全く違う催しであるようだ。

 話は変わるが、飢人地蔵を世話している上川端商店街のアーケードには今、豪華な七夕飾りが吊り下げられ、まるで七夕まつりで有名な仙台みたいな雰囲気となっている。実はこの飾りは正真正銘、今年の仙台七夕まつり(8月6~8日)を彩っていたものだ。仙台の祭りが終わると上川端商店街が譲り受け、続いて博多のアーケードを飾るという交流が2005年から続いている。今年は27日まで飾られる予定だ。

 (※)
『京都の地蔵盆の宗教史的研究』 (清水邦彦、2011)

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おがわ作小屋村

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 先日、宮崎県西米良村の小川地区にある「おがわ作小屋村」という施設に行き、昼ご飯を食べてきた。いわゆる村おこしのための観光施設で、食事処兼土産品店のほか、民俗資料館、コテージなどがある。作小屋とは、農繁期に村民たちが暮らしていた一種の別宅。西米良ではかつて焼き畑農業を生業の一つとしていたが、畑は集落から離れた山中にあるため、自宅とは別の生活拠点が必要だったという。もともと資料館等があった小川城址公園の一角に木造茅葺きの作小屋が復元され、7年前の2009年10月「作小屋村」はオープンした。

 西米良村は、宮崎市から車で2時間。かつては焼き畑農業が行われていたことでもわかるように、米良三山(市房山、石堂山、天包山)などの1,000㍍級の深い山々に囲まれた、まさに秘境のような土地だ。西米良村に行くのは初めてで、予備知識も全くなかったため、そんな秘境に「城址」と呼ばれる場所があることに驚いた。現在では人口100人に満たない小川地区だが、藩政時代、ここには米良山十四か村(現在の西米良村と西都市、木城町の一部)を治めた豪族・米良氏の本拠があったという。

 帰宅後に調べたところ、米良氏とは、元寇や南北朝の争乱などで活躍した菊池氏の末裔と伝えられていることがわかった。戦いに敗れた菊池一族の一人がこの地に逃れて米良氏を名乗ったという。大正時代に出版された『肥後の菊池氏』(植田均、嵩山房、1918)には「初め菊池武運(たけゆき)が島原に落ち行く時、嫡子の重為と云うのは、未だ襁褓にあったが、一家臣は武運の寄託を受け、重為を扶けて密に日向の米良山中に落ち行き之を鞠養した。重為長じて米良を領し米良石見守重次と名乗った」とあった。

 菊池武運(1493―1504)とは室町時代の武将で、1501年、一度は内乱により本拠の隈府城を追われており、重為の米良落ちはこの時の話ということになる。武運は2年後に隈府城を奪回しているが、この時の戦傷がもとで間もなく死んでいる。先が見通せない状況の中で、重為は菊池に戻されることなく、米良にとどまることになったのだろうか。秘境には貴種流離譚が付きものだが、よくある平家の落人伝説とはかなり毛色は違う気がする。

 米良山は藩政時代、人吉・相良藩の属領だったが、米良氏は幕府から旗本格として扱われ、事実上自治が認められていた。米良の山々が鷹狩り用の鷹を将軍家に献上する鷹巣山(または巣鷹山)として幕府の保護を受けていた関係らしい。なお、最後の米良山領主・米良則忠は明治維新後に菊池に改姓しており、小川城址には「菊池則忠公」として彼の座像があった。

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 ところで、作小屋村で食べたのは、地元の料理を16の小皿に並べた「おがわ四季御膳」だ。ご飯と汁物が付いて1,300円。メニューはおから天、椎茸南蛮、ゆずみそ、小川豆腐、シソ寒天などで、福岡の人間には少し味付けが甘めだったが、総じてどれも美味しく、中でもシソ寒天はピカイチだった。寒天など滅多に口にしないし、食べてもうまいと思ったことなど一度もなかったのだが。

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「盆花」ヒゴタイ

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 大分県九重町の長者原でヒゴタイが見頃を迎えている。瑠璃色の球形の花を咲かせるキク科の多年草で、くじゅう・阿蘇地域を代表する野の花だ。大陸と日本列島が地続きだった頃から生き延びてきたというが、今では絶滅寸前の状態。九州本土で自生しているのはこの地域ぐらいだが、宮崎の親族によると、半世紀ほど前までは宮崎県内の山間部でも見ることができたという。

 数年前、この親族らを連れて長者原・タデ原湿原を散策した際、くじゅうには初めて来たという親族が「こりゃ盆花じゃないか」と懐かしそうに声を上げた。話を聞いたところ、昔はお盆の時期、ヒゴタイを摘んできて墓前に供えていたので盆花と呼んでいたという。同様の風習はくじゅう・阿蘇地域にもあり、やはりヒゴタイの別名は盆花だったらしい。かつては九州に広く自生していたといわれるだけに、多くの山間の地域でヒゴタイは先祖を供養する花として重宝されていたのだろう。

 絶滅寸前の状態にまで追い込まれた原因は、開発により生息地域が狭められたことと乱獲だと言われている。地元民が大切に摘んできた花を、自生地の野山が観光地化されたことで観光客や業者らが大量に採取していくようになり、くじゅう・阿蘇地域では一時期、花を切り取られたヒゴタイの無残な姿が晩夏から初秋にかけての風物詩ともなっていたという。

 最近は長者原に行くたびにヒゴタイの数が年々増えているように思え、生息域を拡大しているのではないかと思っていたが、例によって浅はかな考えだった。地元の保護団体が種をまくなど懸命の保護活動を続けており、これによって辛うじて生息地が守られているというのが正解のようだ。環境省のレッドリストで絶滅危惧Ⅱ類(絶滅の危険が増大している種)に位置づけられている状況に変化はない。

 3年前、ヒゴタイの苗を長者原で買い求め、自宅ベランダのフラワーポットで育てたことがある。園芸サイトに酸性土壌や高温多湿を嫌うと書かれていたので、土には苦土石灰を混ぜ、水のやり過ぎには注意するなどかなり慎重に育てたつもりだったが、残念ながら枯らしてしまい瑠璃色の花を目にすることはできなかった。その後、フラワーポットから植物が芽を出し、ヒゴタイが復活したのではないかと喜んでいたが、正体は小さなスミレだった。苗の土に種が混入していたのだろう。正確な種類は特定できなかったが、花は薄い紫色だった。
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馬ヶ背とクルスの海

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 この盆休み、親族に連れられ宮崎県日向市の馬ヶ背に行ってきた。日向灘の荒波に削られて出来た柱状節理の断崖絶壁。現地の説明板によると、この柱状節理は1500万年前の火山活動によって生まれたという。具体的な火山名までは記されていなかったが、この辺りに広く存在する柱状節理は、尾鈴カルデラ(日向市の耳川河口一帯)を生んだ大噴火の産物だという。

 断崖絶壁の海面からの高さは約70㍍。展望台から見下ろせば、足がすくむという程ではないが、結構なスリルだった。同じく柱状節理の断崖絶壁で、有名な福井の東尋坊に「勝るとも劣らないスケール」と地元ではPRしている。残念ながら東尋坊には行ったことがないので優劣はわからないが、これだけの景勝地が地元・九州にあることを今までうかつにも知らず、もったいないことをしたとは思った。

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 馬ヶ背のすぐ近くには「クルスの海」と呼ばれる景勝地もあり、日向市観光協会などは馬ヶ背とセットで観光客を呼び込もうとしている。こちらは岩礁が十字型に削り取られ、近くの展望台から眺めると、なるほどクルス(十字架)に見えなくもない。横の岩場を組み合わせると「叶」のという字にも見えるとも言われ、「願いが叶うクルスの海」という売り出し方もされているようだ。近くの展望台には鐘(「クルスの鐘」というらしい)が設置され、鐘の台座には“恋人の聖地”よろしく南京錠がじゃらじゃらぶら下がっていた。

 観光協会のサイトには「願いが叶うクルスの海には、訪れると願いが叶うという不思議な言い伝えがあります」という一文が書かれているが、妙に現代的で漫画チックな伝説が本当に地元にあったのだろうか? 不審に思い調べてみると、2000年頃、地元では長く「十文字」と呼ばれてきた地形が「叶」という字に見えなくもないことに観光関係者が気付き、それから「クルスの海」の売り出し作戦が始まっていることを確認した。たかだか十数年の言い伝えだったわけだ。

 地元の熱意に冷水を浴びせるようで申し訳ないが、せっかくの景勝地を、伝説をでっちあげてまで彩る必要があるのだろうか。現代人が好むのは安っぽい言い伝えなどではなく、混じりけの無い絶景の方だろう。
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連節バス試行運行始まる


 福岡市で今月8日から、連節バス2台の試行運行が始まった。福岡市は昨年、市中心部にバス高速輸送システム(BRT)なるものを導入する構想を突如として持ち出してきたが、その具体的な中身というのが連節バスを走らせることだ。「突如として持ち出してきた」というのは私の個人的な見解ではなく、予算案を審議した今年3月議会で与党議員の一人が「行政の一部と西鉄が勝手に決めた話で、オレたちには相談がなかった」と相当つむじを曲げていたぐらいだから、急浮上した計画であるのは間違いないだろう。

 上の写真が実際に市内を走っている連節バスで、運行ルートから外れた福岡市中央区黒門付近で回送中の車両を撮影した。連節の名の通り、先頭車両と後部車両との間に節があり、ずいぶん長い車だった。試行運行を担当する西鉄の発表資料によると、バスは全長18㍍で、133人乗り(運転手除く)。車体はオーストラリア、車台はスウェーデン製だという。価格については記載はなかったが、市議会のやり取りによると、1台1億円弱だという。

 当面の試行ルートは、天神―博多港・国際ターミナル(運賃190円)、博多駅―博多港・国際ターミナル(230円)だが、来月からは本命の循環ルートに移行予定。行く行くは市中心部の幹線道路に専用レーンを設け、連節バスを走らせることで定時性を確保した大量輸送を実現し、マイカー流入を防ごうという狙いらしい。博多駅とウォーターフロント地区とを結ぶ大博通りにはロープウェイはじめ“夢のある”交通機関の構想が様々あったようだが、福岡市としては、すでに他都市で実用化され、公共投資も抑えられる連節バスの方が現実的と判断したのだろう。

 しかし、上述のように議会サイドには反発があり、野党・共産党からは「西鉄を儲けさせるだけ」という声すら上がっている。確かに福岡市と西鉄の最近の密着ぶりは異常に感じられる程だが、私企業が儲かるのはけしからんという共産党の論理には「???」だ。また、与党サイドの反発の裏には、議会には事前に相談がなくプライドを傷つけられたということの他に、多大な公共投資が期待される“夢のある”構想が雲散霧消したことへの落胆もあるのではないかと想像している。(※写真は8月25日撮影のものに差し替えた)
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