# 旧聞since2009

# 同姓同名

 来年1月29日投開票の佐賀県唐津市議選(定数30)に同姓同名の2人が出馬見通しで、選管が苦慮しているとの報道があった。漢字も読みも全く同じで、選管としては現職・新人の別や年齢等を投票用紙に補記してもらう方向で検討しているという。ただし、補記について周知徹底すると2人の名前だけを選管がPRすることにもなり、頭を悩ませているらしい。

 過去の地方選で同姓同名候補が立候補したケースを調べてみると、2000年3月に行われた福島県柳津町議選に2人の伊藤毅(つよし)さんが立候補している。この時の選管も苦慮したというが、「地域名+フルネーム」(他にも伊藤候補がいたため)という形での投票を有権者に呼び掛け、結果的に案分票はほとんど発生しなかったらしい。ちなみに伊藤毅候補はダブル当選を果たしている。

 市長選でも2人の同姓同名候補が出馬した例がある。現在では合併で消滅した茨城県の某市で1971年にあった話だが、地元では“黒歴史”として記憶されていると思うので、敢えて実名は避ける。リコールでワンマン市長が失職、出直し市長選にリコール運動の中心人物(以下、USさんと表記)が立候補したところ、彼の当選を阻止するため失職市長派がUSさんと同姓同名の人物を担ぎ出したのだ。

 これだけでも噴飯ものだが、この同姓同名氏は政治経験ゼロで、しかも入院中だったという。この時も選管は候補者名の前に地名を付記させるという方法で混乱を回避し、案分票はやはりほとんど出なかったという。選挙結果の方は、USさんが1万票あまりを獲得し圧勝、同姓同名氏の方はわずか42票だった。この二つの例を見ると、たとえ同姓同名候補がいたとしても、有権者側にまともな良識があれば、選管が苦慮する事態にはならないことがわかる。

 なお、茨城県某市で市長がリコールされたのは、職員組合と激しく対立したあげく、組合側を力で鎮圧しようと警備会社のガードマンを独断で臨時職員として雇ったことがきっかけだった。労使対立の原因は、市長が昇給やボーナスに成果主義、能力主義を導入しようとしたことで、これに組合側が猛反発し泥沼の争いとなったという。公務員の成果主義、能力主義など今となっては当然の話で、現在ならば市長の意向は問題なく実現し、反対する組合側が世論の袋だたきにあったと思うが。

 蛇足だが、私も小学生時代に同姓同名の人物に出会ったことがある。学年は私の方が一つ上だったが、奇しくも同じ日に転校してきて、担任となる2人の教員を混乱に陥れた。新しい学校に馴染んだ頃、1学年下に同姓同名君がいることが級友たちの間に知れ渡り、数人の物好きたちが彼の顔を見に行った。どういうわけか返却された彼のテストの点数まで目撃してきたらしく、彼の点数にちなみ、私はしばらくの間「10点君」(100点満点)と級友たちから呼ばれていた。それほど頭に来たわけではないが、考えてみれば、自分が10点をとったわけではないのだから、これほど理不尽な話はない。


 ※今年3月に取り上げた「此の屋敷の供養塔」の来歴についてはさっぱりわからず、途方に暮れていましたが、最近、コメントで耳寄りな情報をいただきました。興味のある方は「荒戸通町」のコメント欄をご覧ください。
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# 的臣は浮羽にいたのか

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 「山苞の道は古墳ロード」の中で、的臣(いくはのおみ)という名前をチラッと出した。古墳時代後期としては九州最大の前方後円墳「田主丸大塚古墳」(国史跡、久留米市田主丸町)の被葬者が的臣の首長ではないかという説を取り上げ、のんきに「“的臣の墓”であるよりも“謎に包まれた古墳”である方が個人的には魅力を感じる」と書いたのだ。しかし、考えてみれば、的臣が何者だったのか恥ずかしながら知らない。どんな氏族だったのだろうか。

 まず、田主丸大塚古墳が的臣の墓だという説があるのは、的臣が田主丸を含めた古代の浮羽(生葉、以久波とも表記)を治めていたと思われるためだが、これを記録した文献が残っているわけではないという。氏族名と地名の読みが近い、または一致することからの推測のようだ。

 もともとは畿内豪族だったらしく、『国史大辞典』(吉川弘文館、1979)には「いくはうじ 的氏 古代の有力氏族。臣(おみ)を姓(かばね)とする。『古事記』は、建内宿禰の子葛城長江曾都毘古(そつひこ)の子孫とする。『新撰姓氏録』河内・和泉・山城条にもみえる」とあった。さらに、氏族名は地名に由来すると思われること、宮城十二門の中に「的門」があり、軍事を職掌とした氏族と考えられること、欽明天皇の時代に任那に駐留したとされるなど朝鮮半島との関係が深いことが列挙されていた。一方で、浮羽と関連づける記載は一切ない。

 この項目の執筆者は、古代史を専門とする歴史学者、直木孝次郎氏(大阪市立大名誉教授)だったので、同氏の『的氏に関する一考察』(1961)を論文検索システムの「CiNii」で探しだして読んでみた。内容的には『国史大辞典』の記述をさらに詳しくしたもので、大辞典の説明ではわかりにくかった宮城十二門のくだりについては、平城京の十二門は氏族の名前を冠しており、これらの氏族は宮城警護に当たっていた、すなわち軍事的氏族だったと考えられると説明されていた。

 氏族名の由来となった本拠地については、直木氏は筑紫八女県的邑、筑後国生葉郡をはじめ、山城、尾張、淡路の各地にある“イクハ”を挙げながらも、「これらの地名は、的臣と関係があるとはいえない」と一刀両断。代わって<1>文献資料に見られる的氏の分布地域は河内、山城、近江、播磨に限られ、中でも分布の中心は河内、山城<2>同族とされる氏族の大半が畿内か近国の地名を負っている――等の理由から畿内豪族だったとしたうえで、本拠地は軍事上の要地であり、水運の便に恵まれていた河内地方の大和川流域だったと提唱されている。ただし、肝心の“イクハ”地名はこの地では見つけることができず、附記には「イクハの地名が大和川流域の地に発見される望みは、将来に期さなければならぬ」と書かれていた。

 一方、地元・田主丸で旧町時代に編まれた『田主丸町誌―ムラとムラびと』(1996)は「豪族名と地名が一致すること、朝鮮半島にもたびたび出兵していること、初期の月の岡古墳がほかの古墳と違って、畿内的要素が強いことなどから、的臣がこの地方に定着したものと考えられる」と、的臣が畿内から浮羽に移り、在地豪族化したとの見方を提示している。豪族名と地名の一致以外は根拠が薄い気がするが、直木氏論文では、的臣は6世紀半ばから末にかけて朝鮮支配に関して栄えたと考えられるという。6世紀後半とされる田主丸大塚古墳の築造時期と一致する。町誌は大塚古墳の被葬者として言及しているわけではないが、巨大古墳の造営者として最盛期の的臣は不足のない存在だろう。

 ただ、的臣が少なくとも古墳時代後期には浮羽に定着していたとしたら、1世紀以上も後の平城京時代に宮城警護の任に当たることができたのか疑問が生まれる。また、氏族名と地名との関係にしても、領地にちなんでイクハを名乗ったのか、的氏の領地になったことで地名がイクハ(ウキハ)になったのか判然としない。町誌が唱える“的臣西遷説”は色々とモヤモヤした部分が残り、直木説のように的臣と浮羽とは最初から無関係と考えた方がスッキリする気はする。

 なお、田主丸町は2005年、合併によって現在は久留米市の一部となり、田主丸大塚古墳一帯は久留米市によって史跡公園として整備された。現地説明板には的臣はおろか、被葬者に関する記載は一切なかった。発掘調査報告書は複数出版されているようなので、機会があれば読んでみようと思う。

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# 8番目の姉妹都市

 福岡市とミャンマーの旧首都ヤンゴンとが姉妹都市の関係を結ぶことになり、福岡市で7日、調印式が開かれる。福岡市にとっては8番目の姉妹都市で、21世紀に入っての締結は2005年の米国・アトランタ、07年の韓国・釜山に次いで3例目となる。ただし、アトランタとは1993年からパートナーシップ都市、釜山とは89年から行政交流都市という形で交流を続けており、実質的には今回が21世紀になって初の縁組と言って良いだろう。日本とミャンマーとの姉妹都市締結も初めてだという。

 そのほかの福岡市の姉妹都市5都市は、米国・オークランド(1962年締結)、中国・広州(79年。中国相手の場合、名称は友好都市)、フランス・ボルドー(82年)、ニュージーランド・オークランド(86年)、マレーシア・イポー(89年)。

  福岡市が今年度、姉妹都市交流などの国際化推進費として計上している予算は4億7,300万円あまり。この全てが姉妹都市交流に使われるわけではないが、毎年、億単位の金が投じられてきたのは間違いないだろう。海外の都市と行政交流、あるいは市民レベルでの草の根交流を進めることは、「国際理解」あるいは「異文化交流」といった点では多分有意義なのだろうが、私のような一般市民にはどんな交流が行われているのが、それが何の役に立っているのか、非常に見えづらいところがある。

 1980年、広州市から友好都市締結1周年を記念して福岡市動物園に2頭のパンダが貸し出されたことがある。当時、国内では上野動物園にしかいなかったパンダを気軽に地元で見ることができ、これは有り難かったが、どうもこれ以外に交流の成果というべきものが思い出せない。

 その広州でも2012年の尖閣国有化の際は猛烈な反日デモ(実態は大暴動)が吹き荒れたと報道されている。広州の人口は1,000万人を超えると言われ、福岡も150万人。両市でどれだけの市民が交流を深めてきたのかは知らないが、総人口に占める割合は微々たるものだろう。あの国の根深い反日感情は、福岡市との交流程度で和らぐものではない。むしろ、国と国との関係がこじれれば、長年培ってきた都市間交流の実績など簡単に反故にされることが、特に中韓両国が相手の場合は顕著だ。「中国(韓国)との交流中止。子供たち落胆」といったニュースをどれ程耳にしてきたことだろうか。

 ただ、ヤンゴンとの姉妹都市交流に関しては、今までの7都市とは少し毛色が違う気がする。調印式で福岡を訪れるヤンゴン市の一行はかなりタイトな日程で市内各所を視察予定だが、その視察先とは水管理センターの配水調整システム、ゴミ焼却場、ゴミ埋め立て場、浄水場、汚水処理場等々。つまりこの交流によってヤンゴン市側が期待しているのは、上下水道やゴミ処理システムといった都市の基礎的インフラ整備に対する福岡市の技術協力で、福岡市側も地場企業のビジネスチャンスにつながると期待をかけている。経済的なメリット以上に、福岡市の支援によりヤンゴン市民の生活環境が劇的に改善されれば、彼らは福岡、日本に強い信頼を抱くことだろう。

 前述した中国の反日デモだが、大都市の中で唯一、大連だけはデモが起きなかったと言われる。大連は1979年から、北九州市と友好都市の関係にあり、深刻な公害を克服した経験を持つ北九州市は、これを生かして大連の環境改善を手助けしてきた。このお陰で、大連の大気・水質などの状況は中国大都市の中では比較的ましな部類に入るという。北九州市在住時代に聞いた話なので、自画自賛もあるかもしれないが、大連で反日デモが起きなかった理由の一つには、ひょっとしたら友好都市・北九州市の存在もあったのではないかと密かに思っている。

 【追記】福岡市と海外姉妹都市との交流実態について調べていて、かなり笑える話が見つかった。今年9月議会の一般質問で行われた議員と市長ら執行部とのやり取りだ。ニュージーランド・オークランド市との姉妹都市締結30周年を記念して今年9月、市と市議会が“別々の訪問団”を派遣したことに絡んでの話なのだが、やり取りを極めて大雑把に要約すると、議員「市長たちは立派な大型バスに乗っているのに、議員のバスは中古のおんぼろ。オークランド市長の夕食会にも呼ばれなかった。二度とこんな旅はごめんだ」、執行部「議会で主体的にやるからと独自の訪問団を出されたのでは。それに夕食会にはオークランド側も議員さんは出ていませんでしたよ」。血税を使って何をやっているのだか、この人たちは。
 興味のある方は、市議会公式サイトにある会議録速報版を。(※会議録検索システムに掲載後は速報版は削除されます)

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# 旧法文学部本館取り壊し

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 九州大箱崎キャンパスで旧法文学部本館の取り壊しが始まっている。旧帝国大学時代の校舎の一つで、1925年(大正14)完成。重厚な外観の建物だったが、大学側が設置した作業部会が2012年にまとめた調査報告では「老朽化が著しいため、寿命に達している」とまで断定され、解体は既定方針だった。だから何ら驚くことではないのだろうが、5日、たまたま近くを通り掛かって解体に気付き、90年以上の歴史を刻んできた建物の最期としては「余りにあっけない」と感じた。来年3月までにはこの場所も更地になる。(3枚目の写真が取り壊し前の旧法文学部本館。今年7月撮影)

 「九大近代建築物群の行方」でも取り上げたが、箱崎キャンパスには20棟以上の近代建築がある。九大や福岡市などからなる跡地利用協議会が保存を打ち出したのは、このうち旧工学部本館、本部第一・第三庁舎、門衛所の4棟と正門だけで、10棟は土地を購入する事業者の判断に委ね、旧法文学部本館など8棟は取り壊しの方針だった。近代建築の範疇に入らない校舎群はすでに次々と取り壊されており、箱崎キャンパスには更地が広がっている。

 実はこの現状に対しては学内外から疑問の声が出ており、昨年、産経新聞が「解体ありきではなく保存検討を」と記事で取り上げている。この記事によると、跡地再開発参入を検討している西鉄は近代的建築物の活用を視野に入れ、九大側に建物の解体延期を求める要望書を提出したという。また、学内の研究者からも「40㌶もの更地化を許せば『九大には歴史建築の重みを理解できる人間がいない』と笑いものになってしまう」と嘆く声が出ていたというが、九州ではほとんど部数の出ていない新聞のため、せっかくの問題提起もまったく顧みられなかったようだ。

 帝国大学時代の校舎群を設計したのは、建築課長だった倉田謙で、塔屋を中心に左右対称のデザインであることが共通している。一人の建築家が手掛けた建築物がこれだけ集中して残っている例は貴重らしい。倉田建築のうち、前述したように少なくとも旧工学部本館、本部第一・第三庁舎は保存される(門衛所は設計者不明)。古い建物を容赦なく取り壊してきた福岡の体質を思えば、全滅は免れたと喜ぶべきなのかもしれない。

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# 山苞の道は古墳ロード

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 福岡県久留米市田主丸町の耳納連山北麓に「山苞(やまづと)の道」 と名付けられた農道がある。景観的には何の変哲もない田舎道なのだが、沿道には観光農園や焼酎工場、ワイナリー、ギャラリー、カフェなどが集まり、ちょっとした観光道路となっている。11月30日、この道をドライブしていて、なぜか耳納連山東端の鷹取山に入り込んでしまい、Uターンしようとした公園で古墳の横穴式石室が多数密集しているのに出くわした。

 せっかくだから車から降り、付近を散策してきた。現地にあった説明板によると、森部平原古墳群という群集墳で、6世紀後半ごろの築造と推定されるという。短い時間歩き回っただけで10基程の石室を確認できたが、実際には約70基があり、県の史跡にも指定されている。石室の中には天井が抜けているものもあったが、全体的に保存状態は良好で、内部の構造などが良くわかった。

 帰宅後に見た田主丸町の観光サイトによると、古墳群がある平原公園は桜の名所で、桜の花びらが古墳を覆う風景は春の風物詩だという。雰囲気は一見、ほぼ同時期に造られた福岡市早良区の西油山古墳群(
「野芥の塚穴」)によく似ている気がしたが、ほぼ捨て置かれたも同然の西油山に比べ、さすがに県史跡の平原ははるかに大事にされている様子だった。

 再び「山苞の道」に戻ると、今度は「田主丸大塚古墳」という大規模な古墳に行き当たった。周囲は史跡公園としてきれいに整備されている。これまた車を停め見学してきたが、園内のあちこちに説明板が設置され、この古墳について様々な角度から学べる構成になっていた。

 記されていた情報を総合すると、森部平原古墳群と同じく古墳時代後期の6世紀後半に造られた前方後円墳で、その規模は全長103㍍、後円部の直径60㍍。同時期の古墳としては九州最大だという。従来は円墳だとみられていたが、1993年度に行われた調査で前方後円墳だったことが判明。2012~14年度に史跡公園として整備されたという。また、後円部には「造り出し」という付帯施設があったとみられ、説明版に取り付けられていた復元模型は、急須を上から見たような形をしていた。付近にある古墳ととともに「田主丸古墳群」として国史跡にもなっている。

 被葬者についての情報はなかったが、上記の観光サイトには「その規模にも関わらず、文献も地名にまつわる氏族の伝承もない謎につつまれた古墳です」と紹介されていた。研究者の間では浮羽地方を治めていたと思われる豪族、「的臣(いくはのおみ)」一族の首長墓ではないかという見方があるようだが、“的臣の墓”であるよりも“謎に包まれた古墳”である方が個人的には魅力を感じる。「山苞の道」は古墳ロードでもあった。

 ところで、この日、耳納山麓に行ったのは道の駅くるめでの買い物と、近くにある「柳坂曽根のハゼ並木」を散策するのが主目的で、ついでに周辺をぶらぶらしようと「山苞の道」を初めて通ってみた。柳坂曽根のハゼ並木は延長1.1㌔の道沿いに約200本が植えられ、この時期は紅葉の名所となっている。幕末、久留米藩がろうそくを特産にするため、ハゼの植林を奨励したのが始まりだという。ボランティアガイドをされていた地元の方によると、見頃は1週間前だったそうで、残念ながら真っ赤に染まった光景を見ることはできなかった。暖冬が続いているためか、近年は総じて色づきがあまり良くないという。

 「山苞の道」の道については、詳しくは田主丸町観光サイトにある
『山苞の道物語』へ。

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駄田泉

管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。