西新商店街で建物倒壊

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 25日午後、福岡市早良区西新の上空を複数のヘリが騒々しく飛び回っていた。何事が起きたのだろうと思っていたら、外出していた家族から急報が入った。「西新商店街でビルが倒壊したらしい」と。これは一大事だと思い、現場に急いだところ、商店街の狭い路地には消防車が並び、騒然とした雰囲気だった。現場周辺は立ち入りが規制され、遠くからはさっぱり状況がわからなかったが、現場近くの商店の女性によると、解体中の建物が突然、大きな地響きとともに道路に崩れ落ちたという。幸いにもけが人は出なかったらしいが、普段からこの道を自転車で通っている家族は真剣に青ざめていた。

 倒壊したのは、以前は1階にブティック、2階に雀荘が入居していた建物。2階建ての建物をビルと呼んで良いものかわからないが、朝日新聞は「商店街でビル倒壊」と速報。この記事の写真はヤフーのトップページに掲載され、これまた「福岡でビル倒壊」の見出しが躍っていた。これらの見出しだけ読めば、博多駅前の大陥没に続き、また福岡で大事故が起きたと勘違いされ兼ねない。現実に「解体中のビル」と聞き、一昨年7月末で閉店したプラリバを思い浮かべた人もいたようだ。

 そのプラリバの解体工事がようやく本格化している。工事期間は2016年10月24日から18年5月15日までで、ほぼ2年がかり。大通りに面した建物だから、それこそ事故がないように慎重に進められるのだろうか。跡地には上層階にマンション、低層階に商業施設が入る30階建てのビルが建設されると西日本新聞などは報じているが、その完成はさらに2年後の2020年の予定だとか。周辺住民はずいぶん長く不便な生活を強いられることになる。


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義務的経費が膨らむ福岡市予算

 福岡市の2017年度一般会計予算案についての予測記事が先日、複数の新聞に掲載されていた。中身はほぼ共通しており、総額は8300~8400億円規模で、今年度の7845億円を大きく上回り、過去最大になる見通しだという。ずいぶん景気のいい書き出しだが、読み進めていくと非常に怪しくなる。主要財源の市税の増収はわずか20億円程度。一方で、義務的経費は今年度当初の3838億円から4450~4500億円まで増大するという。つまり予算規模が膨れ上がるのは、ただ単に経費が600億円以上も増えるからで、これは決して景気のいい話ではない。

 義務的経費が一気に16~17%も増えるなど尋常ではないと思うが、その理由や財源をどう賄うかなどについての説明はどの新聞にも一切なかった。仕方がないので自分で調べたところ、あっさりわかった。市立小中学校教職員の人件費がこの春から、道府県から政令市の負担へと切り替わり、これにより政令市の人件費が増大するためだ。人件費は道府県側が負担しているのに、人事権は政令市側にあるというねじれ現象が以前から問題視されており、制度見直しの議論が進められてきたという。私が無知なのは認めるが、万人に伝わっている話とも思えないので、「4月から市立小中学校教職員の人件費負担が県から市に移管するため…」という程度の説明はあっても良かった気がする。

 義務的経費は人件費のほかに、借金返済の公債費、生活保護や児童手当、保育所運営費等が含まれる扶助費からなり、福岡市の今年度当初予算の内訳は人件費が792億円、扶助費が2096億円、公債費が951億円となっている。この数年、人件費は約800億円、公債費は約1000億円でほぼ一定しているが、扶助費は毎年、増加の一途で、2015年度から16年度にかけても100億円近く増えている。このため17年度予算での義務的経費増大も、最初は扶助費が原因ではないかと疑ったのだが、これはやはり無理があった。

 では、具体的にどれだけの人件費が福岡県から福岡市に移管されるのだろうか。まず教職員数は、福岡市教委の『教育データブック』(2016年7月発行)によると、小学校4,029人、中学校2,229人、特別支援学校735人で、計6,993人。一方、県が公表している15年度のデータでは、平均給与は月額42万3133円で、これをもとにボーナス(年間4・1ヶ月)を含めた年収を計算すると約681万円になる。これらの数字が正しければ、約476億円が県から市の負担に切り替わることになる。これに伴い県から市へ財源の一部移譲や国からの交付税額の調整が行われるのだろう。ただ、476億円では、義務的経費の増大分とはまだ100億円以上の開きがあり、これ以外にも何らかの要因があると思われる。

 教職員の人件費移管は2003年、当時の小泉内閣によって閣議決定された構造改革策の一つで、政令市の次は中核市、さらに最終的には市町村に移管していくことが国の方針のようである。これまで同じ県内では同一条件だった教職員の定数や賃金は今後、自治体間で大きな格差が生じる可能性がある。財政力だけでなく、自治体トップの教育に対する意識の差によっても大きく違ってくるはずで、選挙の際には大きな判断材料になるかも知れない。

 【追記】福岡市の予算案が2月14日発表され、総額は8328億円、教職員の人件費移管による義務的経費の増額は652億円と判明した。上の試算は、教職員数(7,266人)はじめ前提の数字を間違っていたので、訂正する。
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地行の由来

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 検索サイトに「地行 地名の由来」と入力すると、比較的上位にこのブログの過去記事
「地行にあるのに西新?」が表示される。このためにこのブログを訪問される方が散見され、以前から心苦しく思っていた。「地行にあるのに西新?」は、地行(じぎょう)に新築されているマンションが西新を名乗っていることを取り上げた話で、地名の由来についてはひと言も触れていないからだ。実際に由来を解説しているページ自体もネット上には見当たらないようなので、この機会に調べてみた。結論から言えば、新たな宅地開発を意味する言葉がそのまま地名となったというものだった。(地図で赤く囲った箇所が現在の地行)

 最初に、この町が生まれた経緯について紹介しておくと、1709年(宝永6)に完成した貝原益軒の地誌『筑前国続風土記』には次のように書かれている。

 「昔は荒戸の西より百道原の末、早良川の遠干潟の際迄、平沙邈々として広く、松林なくして不毛の地成しかば、長政公松を植て松原とすべしとて、(中略)福岡、博多、姪浜の町人に仰て、毎家一軒より、高さ四五尺許なる小松、各一本宛植させられける。(中略)又唐人町の北、今の士屋敷に成れる所、又其西地形と云所、金龍寺の辺迄も、皆此時植し松原なりしが、唐人町の北は、寛永二十年の比より諸士の宅となり、其西の松原は慶安の比、足軽の屋敷と成て地形と名付」。

 黒田長政が筑前に入国した当初、荒戸から室見川河口の辺りまでは不毛の砂地だったため、町人に命じて松を植えさせ、一帯は松原(防潮林)となった。このうち唐人町西側の松林は慶安年間(1648~51)、足軽の屋敷町となり、地形と名付けられた――という内容だ。17世紀中頃に開発された新しい町で、当初は“地形”と書いたことがわかる。

 続風土記に由来まで書かれていれば、話はそこで終わったのだが、残念ながら「足軽の屋敷と成て地形と名付」と非常に素っ気なく終わっている。そこで図書館に行き、地名辞典の類いをいくつかめくってみた。正直なところ、これで簡単に解決するだろうと甘く見ていたのだが、意外なことに地行の由来について触れたものはなかった。

 『角川日本地名大辞典 40 福岡県』(角川書店、1986)には 「江戸期にはこの一帯は地形と総称される下級武士の屋敷町であったが、…」、『福岡県の地名』(平凡社、2004)には「北流する菰川の西岸に位置し、北は博多湾に臨む。地形とも書く。福岡博多近隣古図では足軽屋敷が集中する下級武士の武家町で…」などとあるだけ。『筑前国福岡区地誌』(三原恕平編、文献出版、1980、原本編纂は明治時代)に至っては「昔ハ松原ナリシヲ慶安中歩卒ノ居地トセラレ地形ト名ツク」と、続風土記そのままの内容だった。

 この段階で非常に不可解な気分になった。複数の地誌、地名辞典がそろって特定の地名の由来にノータッチということがあるだろうかと。考えられるのは、わかりきった話なので、あえて説明しなかったというケースだ。ここで「足軽の屋敷と成て地形と名付」は、無理やりではあるが「足軽の屋敷町だから地形と名付けた」と解釈できないこともないと思いつき、大工町や職人町、鍛冶町などと同様、地形も居住者の属性を表した町名ではないかと推理した。そのうえで、福岡の地名に関する複数の資料を再度当たってみたのだが、これまた大半が空振り。唯一、福岡市都市計画局が35年前に出版した『福岡・博多の町名誌』(1982)に明確な記述があった。

 「新たに土地を開いて宅地を造成することを地形という。土地の形を整えるという意味である。地行はもとは地形とよばれていたが、他にも土地が開かれて地形とよばれたことから、その混同を防ぐためいつの間にか地行と改められた」。

 足軽の町だから地形だったのではなく、新たに町を造ったから地形だったのだ。益軒の時代にはわざわざ説明するまでもない話だったのだろう。現在でも建築土木用語では、地形を「ちけい」ではなく「じぎょう」と読んだ場合は地固めや基礎工事を意味するらしく、やや通じるところはある。ただ、『福岡・博多の町名誌』には他にも地形という地名があったと書かれているが、現在の福岡市には見当たらない。また、「地形=新たな宅地開発」が江戸時代の共通語だったのならば、全国に「地形」という地名があって良さそうなものだが、ネット検索した限りでは見つからない。福岡ローカルの言葉だったのだろうか。

 この町の明治以降の移り変わりを簡単に紹介しておくと、1872年(明治5)に地行東町、地行西町に再編され、この時に地形から地行に改称した。大正時代に出版された『現在の福岡市』(上野雅生、九州集報社、1916)によると、地行西町はこの頃、福博電車(西鉄の前身の一つ)によって貸し邸宅地として開発が進められ、豪邸が建ち並んでいたという。この名残りか、地行には今も西鉄所有の物件が多い。

 この後、昭和40年代の町界町名整理で、地行東町が地行1、4丁目、地行西町が2、3丁目に再編され、現在に至っている。表通りに面した場所にはマンションが増えたが、狭い路地沿いに寺や大きな屋敷が建ち並び、藩政時代の面影を残していると思われる場所もある。比較的近年までは福岡藩の下級武士の屋敷に付き物だった「ちんちく塀」(竹の生垣)も残っていたという。
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昭和の成人式

 タイミングを逸してしまったが、成人式の思い出話を。現在、福岡市では「成人の日」の式典は1会場(今年は博多区のマリンメッセ)だけで行われているが、私の時代は区単位で開催されていた。各区でどんな催しが行われるかを報じた当時の新聞記事を見つけたので、以下に紹介した。役所お仕着せではなく、新成人をまじえた実行委員会でプランを練ったらしいが、その割には(あるいはそのためか)どこも講演とコンサートばかりで、似たり寄ったりの内容だ。一部は講師までかぶっている。ただ、大規模ながらも非常に簡素な現在の式典と比較すれば、金はずいぶん掛かっていたと思われる。近年、“荒れた成人式”ばかりがクローズアップされ、式典不要論も勢いを増しているが、昭和の頃はまだ、若者が大事にされていた印象だ。

 ▽東区 テレビ朝日キャスター筑紫哲也さんの講演とフォークバンドのコンサート。成人の日に先立ち九州交響楽団のコンサートも。

 ▽博多区 式典前日の夜に43㌔を歩くナイトハイク。当日は斎藤文男・九大教授の講演とロックバンドコンサート。会場には体力測定やスピードガンコーナーも設置。

 ▽中央区 講演は西日本新聞の益田憲吉・解説委員長。他にフォークバンドのコンサートとチャップリンの『黄金狂時代』上映。

 ▽南区 福岡高校出身で、『高校大パニック』『狂い咲きサンダーロード』などで知られる映画監督、石井聡互さんの講演とロックバンド、リバーサイドのコンサート。

 ▽西区(現在の早良・西・城南区) 新成人の数が6,000人近いため、午前、午後の2回に分けて式典を開催。午前の部の講演はここも益田憲吉さん。午後はRKBの三善英毅キャスター。ここだけコンサートはなし。新成人には誕生日の新聞を配布、映画『アドベンチャーファミリー』(1977年の米映画)も上映。

 私が出席したのは南区の式典だが、高校卒業後に転居していたため、周りに友人・知人はゼロで、面白くもなんともなかった。現在は式典会場に自由に入れるらしいが、当時は事前に届いた招待状が必要で、嫌でも南区の会場に行かざるを得なかったのだ。だからと言うわけではないが、式典に関して辛うじて覚えていたのはバンドのライブがあったことぐらいで、このバンドがリバーサイドという名前だったことは記事を読むまで思い出せなかった。ちなみにアマチュアではなく、れっきとしたプロで、当時、大手時計メーカーのCMソングも歌っていた程だ。「♪君の時計になりたい 二人でチックタックしたいな」というフレーズが印象的な曲で、他にビートルズナンバー(『バック・イン・ザ・USSR』?)も披露してくれた記憶があるが、非常にあやふやなので、間違っているかもしれない。

 石井聡互さんの講演の方は、記事を読むまで石井さんの講演が行われていたこと自体を覚えていなかった。『高校大パニック』 の「数学できんが、なんで悪いとや!」という博多弁のセリフは高校時代に大流行し、当時の福岡では結構、注目されていた人物のはずだが、ここまで記憶ゼロというのは自分自身でも不思議だ。思い出話を書くつもりが、成人式の思い出などゼロに等しいことを自覚するという情けない結果になった。

 それにしてもこの時代はマスコミ関係者がもてはやされていたことに驚く。講師のうち、筑紫さん、益田さん、三善さんと3人を数え、斎藤・九大教授も地元マスコミのコメンテーターとして活躍された人なので、石井さん以外がマスコミ関係ということになる。ちなみに益田さんは“マスケン”の愛称と個性的な文章で福岡では知られていた人物。彼の書くコラム「マスケンのくるま座」というのが人気だった。
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福岡市通俗博物館

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 福岡市に戦前まで、『通俗博物館』なる施設があったと知り、「館内は俗な展示物で埋め尽くされていたに違いない」と勝手に想像してワクワクしてしまった。ところが、これは大正時代ぐらいから盛んに提唱され始めた“通俗教育”のための施設で、通俗教育は現在では社会教育という言葉に言い換えられている。通俗の意味が現在とは異なり、要するに普通の博物館だったわけで、少し落胆した。

 通俗博物館があったのは現在の福岡市中央区天神1丁目、中央警察署がある辺り。1917年(大正6)、大正天皇の即位を記念して市によって建てられ、記念館(講演会場)も併設されていた。収蔵品は3,000点にも上っていたというが、大半が1945年(昭和20)6月19日の福岡大空襲により疎開先で焼失。難を逃れた数少ない収蔵品の一つが、現在は福岡市博物館に展示されている「ドン」(写真)だという。正午の時報代わりに空砲をぶっ放していたという代物で、この大砲は自身のとんでもない歴史とともに、通俗博物館の生き証人でもあったわけだ。

 ほかにどんな物が収蔵されていたかは、『福岡市議会史 第2巻 大正編』(1991)に収録されている「福岡市通俗博物館規則」で何となく想像できる。「第三条 本館に陳列すべきものの種類左の如し」として、次のような物が列挙されている。
 <碩学鴻儒、忠信義士、孝子、節婦及産業に功労ある者の肖像、遺墨、遺物等><児童成績品、学用品、教師の考察研究に成る物品><経済的台所用品、教育玩具、古今風俗模型標本、其の他の参考品>……。

 まだまだ多数書かれているのだが、まったく通俗的ではない面白みのない物ばかりだ。似たような感想は大正時代の市議たちも持っていたらしく、先の『福岡市議会史』には開館からわずか6年後の1923年には廃館を訴える議員も現れたことが記されている。議員側の主張は「経費は毎年四千円以上のものを支出しているが博物館の内容は余りに貧弱である。同館にあるくらいのものは小学校にもあって…」というもので、かなり痛烈だ。
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 通俗博物館の建物は左右に尖塔を配した重厚なゴシック様式で、こちらの方は戦火を免れ、戦後も長く中央公民館として活用されていたという(写真右、福岡市総合図書館の資料から拝借した)。取り壊されたのは1979年(昭和54)だったという情報がある。天神には今も
県公会堂貴賓館旧日本生命九州支社(現・福岡市文学館)という重要文化財が残っているが、昭和の後半まではこのほかにも、通俗博物館や旧県庁舎、旧大同生命福岡支店など数多くの近代建築が密集していたことになる。当時の魅力的な街並みについて、あやふやな記憶しか残っていないのが残念だ。

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油山市民の森の吊り橋

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 福岡市の油山市民の森に赤く塗られた吊り橋が架かっている。長さ52㍍、地上からの高さは30㍍。2015年4月に書いた「遠足はいつも油山だった」の中で、「1969年、『市民の森』開設に当たり南区のご夫妻が寄贈し、78年に市が改修したと現地説明板にあった。吊り橋を寄贈するとは豪気だ」と紹介したことがあるが、実は市側が長く受け取りを拒否し、吊り橋はまさに宙ぶらりんの状態になっていたことを先頃、たまたま知った。詳しい経緯についてはまだ、調べ切れていない部分があるが、現在ではほとんど記憶(記録)されていない話ではないかと思うので、取りあえず書き留めておきたい。

 最初に、油山市民の森とは、油山(標高597㍍)の中腹に1969年開園した自然体験&レクリエーションの場で、キャンプ場やアスレチック施設、草スキー場、展望台などが備えられている。整備に当たったのは福岡市と、このために設立された民間団体「市民の森運動本部」。吊り橋は市内の社長夫妻が寄付した300万円で運動本部が建設した。完成した吊り橋は69年8月18日に渡り初めが行われて以降、市の新たな名所として大変な人気を呼んだが、皮肉にもこの人気が仇となった。

 吊り橋はもともと1日平均50人程度が利用するという想定で設計されていたというが、利用開始が夏休みと重なったこともあり、連日、小中学生を中心に2,000~3,000人が詰め掛け、この結果、橋は横揺れが激しくなるなど危険な状態となった。このため運動本部は渡り初めから、わずか1か月で通行禁止にし、社長夫妻から再度、多額の寄付を受けて補修工事を行った。しかし、吊り橋の安全検査を行える機関が福岡市にはなかったため、通行禁止措置はそのまま継続されることになった。

 その状況の中で、建設主体の運動本部はこの年の12月、市民の森開園で役割を終えたとして解散。一方、福岡市側は安全性に疑問ありとの理由で吊り橋受け取りを拒否し、吊り橋は入り口を閉鎖された状態のまま、長く放置されることになった。橋のたもとには「この橋は歩道橋ではなく観賞用です」と書かれた立て看板が市により設置されていたという。

 調べがつかなかったのは、吊り橋の通行禁止がいつ解除されたかだが、現地説明板にある記述を素直に受け取れば、78年に市が改修した後ということになる。だとしたら、実に9年間も“観賞用”の状態が続いたことになるが、いくら何でも長すぎる気はする。ただ、「遠足はいつも油山だった」で書いたが、油山には小学生時代、嫌になるほど登った割には吊り橋を渡った記憶はない。通行禁止が本当に9年も続いたかどうかは別にして、小学生の団体が安心して渡れる状態ではなかったのかもしれない。

 現在の吊り橋は、高所恐怖症の私でもまったくスリルを感じない安定した橋。年間を通じて多くの市民でにぎわっているが、中でも紅葉の時期には絶好の観賞スポットとして人気を集めている。再来年で50周年を迎える油山有数の名所が、こんな歴史を秘めていたとは意外だった。

 【追記と訂正】福岡市農林水産局発行の小冊子『油山市民の森40年の歩み』(2010)に吊り橋の沿革が詳しく書かれていた。現地説明板の記述に基づき、1978年に改修されたと紹介していたが、実質的には完全な架け替えで、現在の吊り橋は2代目であることがわかった。初代吊り橋は補修後、1970年6月に再オープンしたが、市側は通行を午前9時半から午後4時半までに限ったうえで、市側はこの時間帯には常時、係員を置き、多数の人が同時に渡らないように目配りしていたという。

 ただし、1971年5月13日の読売新聞地方版には、この時点で吊り橋入り口には常時カギがかけられ、市側は「地方自治法で補修しなければならないものは受け取れないことになっている」と受け取りを拒否していたと報じており、『40年の歩み』の記述とはかなり食い違いがある。リアルタイムの新聞報道と40年後にまとめられた記念誌、どちらが正しいのだろうか。
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