# 旧聞since2009

# カササギ

 福岡県筑後市の農村地帯で先日、カササギを目撃した。カメラを構える間もなく飛び去って行ったが、写真でしか見たことがなかったツートンカラーの印象的な姿を見ることができ、非常にうれしかった。もともと国内では佐賀平野とその周辺にしか生息していなかった鳥だが、佐賀県の調査では近年、佐賀平野では減っているものの生息域は周辺に拡大しているという。 福岡市にも生息しているようで、インターネット上にはかなりの目撃談が掲載されているが、残念ながら私自身はこの街では一度も見たことがない。ちょうど今は営巣時期らしいので、毎日のようにあちこちの電信柱を見上げているのだが。(イラストはフリー素材サイトPixabayからお借りした)

 カササギはカラスの仲間で、別名はカチガラス。文禄・慶長の役の際、武将が朝鮮半島から持ち帰り、佐賀平野に定着したとも言われるが、異説もある。この鳥について調べる中で、福岡市総合図書館の郷土資料室で興味深い文献を見つけたので、少し中身を紹介させていただきたい。1926年(大正15)発行の『福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書』にカササギの生態等に関する報告が掲載されているのだが、調査の苦労談が面白いのだ。

  調査を行ったのは川口孫治郎氏 (1873~1936)という研究者だが、野鳥の観察などという活動に対し、当時の一般人には 「金儲けにならぬことに彼程も時間と労力とを費やして遠方から観に来る筈がない」という偏見を持たれ、全く理解を得られなかったらしい。長期間観察を続けていたのに、最後の最後になって地元民たちにカササギの卵や雛を奪われ「幾週間積重の努力を一朝にして水泡に帰せしめられたること少からざりし事」と報告書には深い嘆きがつづられている。県が調査を行う際はこんな目に遭わないよう、調査に先立ち「町村一般の人々に向って、御調査の本旨を徹底せしめられ、小学児童にも篤と申聞かせ候はん事」と川口氏は訴えてもいる。

 この川口孫治郎という名前には、恐らく久留米方面では聞き覚えがある人が多いのではないかと思う。大正時代、旧制中学時代の明善校の校長を長く務め、教育者としても非常な尊敬を集めていた人で、この報告を行った時も校長在任中だった。鳥類研究者としても名高く、明治時代には絶滅したと思われていたトキを大正時代、佐渡島で再発見した人物こそが、この川口氏。彼がこの時に毛筆で著した『佐渡の鳥』には現代においても貴重な情報が数々記録されているといい、京都大で保管されていたこの資料を2012年、新潟大の朱鷺・自然再生学研究センターが復刻している程だ。

 川口氏がカササギについての調査を行ったのは、この当時、国内でのカササギの生態等について著した文献が全く見当たらなかったことも理由で、苦労談だけでなく当然ながら調査報告本文も面白い内容だ。中でも「此鳥は相応に人を識別する能力あるものの如く、人によりて之に警戒する程度を異にす」というところは愉快だった。高齢者や幼い子供にはほとんど無警戒なのに、害を加える意志を持った少年から壮年にかけての男性への警戒心は著しく、「彼等の眼は常に主として人々の眼に注がれつつあり」と、この鳥の賢さを川口氏は指摘している。

 また、カササギ保護のため、営巣場所となる大木は伐採するべきではなく、どうしても伐採する時は「相当の設備(例えば巣架けの為の柱状施設の如き)をなすの必要を見るに至るやも計られず」という提言には先見の明を感じた。都市化などで大木が減った現在、カササギが主な営巣場所としているのは、まさに“柱状の施設”である電柱で、佐賀県の調査によると、営巣場所の7割までが電柱だという。
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# 旧高宮貝島邸の現状

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 福岡市南区高宮に残る筑豊の炭鉱王一族の邸宅跡、旧高宮貝島邸周辺を歩いてきた。ちょうど2年前、邸宅跡は公園として整備され、2017年度中には一般公開される予定だと報道されていた。私もこのブログでそう紹介したが、邸宅入り口は今なおフェンスで囲われ、2014年秋(「旧高宮貝島邸」)、15年春(「続・旧高宮貝島邸」)に写真撮影に来た際と全く変わらない状態だった。周囲の木柵が倒壊するなど、かえって荒廃が進んだかもしれない。改めて市の事業計画案を調べてみると、整備スケジュールが変更され、開園予定は2018~19年度に先送りされていた。

 邸宅の来歴について改めて簡単に紹介すると、旧高宮貝島邸とは貝島炭砿の創業者、貝島太助を支えた全盲の弟・嘉蔵の屋敷跡で、1915年(大正4)に直方市に建てられ、1927年(昭和2)に現在地に移築されてきた。1.9㌶の広大な敷地の中には母屋、茶室、衣装蔵の3棟約600平方㍍が現存する。敷地は市が23億円あまりを投じて約20年がかりで買い取り、建物は貝島家から寄贈を受けた。市は自然と歴史を生かした公園として整備したうえで一般開放する方針だったが、用地買収が長期化したこともあり、取り掛かりが遅れていた。

 建物の現状はどうなっているのだろうか。母屋らしき建物は、外周の道路からわずかに確認できるが、木立に遮られ全貌はわからない。築100年を超える建物だから相当老朽化が進んでいるだろうと想像していたが、市の公表資料に掲載されている写真を見た限りでは、内外装とも予想外にきれいな状態だった。1960年代頃から80年代前半頃までは米国領事や福岡アメリカンセンター館長の公邸として使われていたといい、30年以上前のこととは言え、やはり人が住んでいたことが良い方向に働いたのだろう。

 なお、この邸宅は貝島嘉蔵自身が設計したと、彼の伝記『偉盲貝島嘉蔵翁』(吉村誠、1918)に書かれている。嘉蔵は1880年、24歳で両目を突如失明しているが、『偉盲貝島嘉蔵翁』では「此建築に対しては、自ら設計し且つ監督せしといふに至っては、寧ろ氏の心眼余りに明にして盲目たるを疑はしむるものあり」と称賛している。著者の吉村誠は、嘉蔵と親交の深かった現在で言うところの特殊教育学校の校長だという。

 話を貝島邸の整備計画に戻すと、2015年12月策定の市の事業計画案では、建物の修復、庭園整備のほか、飲食施設の建設なども盛り込まれており、実際の整備と管理運営は民間企業に委ねる方針だという。スケジュール通りに進んでいるのならば、今年度中に企業の選定と設計が終わり、新年度からいよいよ工事に入るはずだが、整備の具体的な中身はおろか、事業を担う企業名さえまだ明らかになっていないことが少々気がかりだ。炭鉱王一族の豪邸を目に出来る機会が、また遠のかなければ良いのだが。

 蛇足をひとつ。このブログを書くに際して、少し呆れたものを見つけた。「旧高宮貝島邸」の一文がほぼそっくりそのまま某業界広報誌に掲載されていることに気付いたのだ。昨年3月発行号の表紙の写真説明に丸パクリされ、私とは縁もゆかりもない人物の名が堂々とクレジットされていた。ネットならまだしも紙媒体でこんなことをやられるとは…。


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# 高宮浄水場廃止へ

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 福岡市南区大池にある高宮浄水場が廃止される。といっても廃止の時期は施設が耐用年数を迎える2024年頃の予定で、まだ7年も先の話だが、廃止を見据えて乙金浄水場の増強工事が今年度から本格化する。この乙金浄水場はれっきとした福岡市水道局の施設だが、場所はなぜか、大野城市の住宅街にある。だからといって、この浄水場の水が大野城市の家庭に送られているわけではない。市外に立地する浄水場は他にもある。多々良浄水場は粕屋町、瑞梅寺浄水場は糸島市。水源だけでなく、浄水場の建設場所についても福岡市は他の自治体の助けを借りている。

 本題の高宮浄水場は、福岡市中央区と南区との境にある鴻巣山(100㍍)山腹に1960年3月完成した。浄水能力は1日当たりで最大19万9000立方㍍。現存する福岡市水道局の5浄水場の中では最古にして最大の施設だ。廃止の理由は、完成から半世紀以上が経ち、老朽化が進んでいるためで、廃止に伴い乙金浄水場の浄水能力が現在の1日最大11万立方㍍から18万6000立方㍍に増強される。数字的にはマイナス分の方が大きいが、福岡市の浄水能力は現在、1日最大77万7000立方㍍(福岡地区水道企業団からの受水分も含む)なのに対し、使用水量は平均40万立方㍍、最大でも51万立方㍍。浄水能力にずいぶん余裕がある状況だ。(データは『福岡市水道事業統計年報(平成27年度版)』から)

 跡地はどうなるのか。1975年2月に廃止された平尾浄水場跡地は5年後、福岡市植物園に生まれ変わった。鴻巣山は市街地のど真ん中にある緑地帯で、山腹には浄水場のほか、平尾霊園があり、周囲は閑静な住宅街となっている。ひょっとしたら公園などが整備されるのだろうかと期待したが、跡地はそのまま水道用水の配水池となることが早くから決まっているという。市民への開放を求める意見も議会内にはあったようだが、「水道事業で整備したものであるので、水道事業の中で活用を検討していきたい」というのが市の方針だ。鴻巣山一帯が自然公園みたいなものだから、わざわざ跡地を公園にしなくても、という考えもあったのではないかとも思う。

 廃止に掛かる費用は総額562億円と見込まれている。内訳は、乙金浄水場の増強に250億円、浄水場廃止後の配水池整備に60億円、5浄水場体制から4浄水場体制に変更されることに伴う送水管再整備に210億円などで、これらは当然、水道料金で賄われることになる。浄水場一つ廃止するのにもこれだけ巨額の金がいるのだから、福岡市の水道料金がバカ高いのも当然だと思う。「日本人は水と安全はただだと思っている」などという警句らしきものがあるが、福岡市に住む身としては「水がただ」などと思ったことは一度たりともない。

 もっとも、政令市の中で比較すると、福岡市の水道料金は高い方ではあるが、一番高いわけでもない。福岡市議会事務局発行の『指定都市基本施策比較検討調』(平成26年度決算編)によると、月に20立方㍍の水を使用した場合の料金は、政令市で最も高いのが札幌市の3,585円で、次いで仙台市の3,488円。福岡市は2,788円で、高い方から6番目に当たる。ちなみに一番安いのは大阪市の2,073円。年間換算では、札幌市の水道料金は大阪市よりも18,000円以上も高いことになる。政令市の中でもこれだけでの差があることに少し驚いた。

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# 福岡市立霊園に合葬墓?


 福岡市が新年度から、市立霊園への合葬墓導入について検討を始める。先頃発表した予算案の中で明らかにした。少子高齢化で墓の維持が重荷となっている家庭が増える一方、都市部では近隣に墓地を確保するのが非常に困難になっている、と聞く。自分の墓をどうするか、私自身がちょうど思い悩み始めた時だったので、関心を覚えた。予算資料には「市立霊園内における合葬墓等の導入検討」とあるだけで、実現するかどうかもわからない段階だが、合葬墓に対するニーズは福岡でも恐らく大きいのではないかと思う。

 福岡市には平尾(南区平和。写真)、三日月山(東区香椎)、西部(西区羽根戸)と市立霊園が3か所あり、区画数は1万を超えている。しかし、相当な幸運に恵まれなければ、これらの霊園に墓を造ることは不可能だ。毎年、空きが出た区画の募集が行われてはいるが、市の公表資料によると、2011~15年の5年間で募集は計171区画だったのに対し、応募者は6,972人で、倍率は実に40倍。中でも市街地にある平尾霊園は60倍を超えている。市立だから使用料(初回のみ1平方㍍当たり172,000円~260,000円)、管理費(1平方㍍当たり年1,000円)が格安なうえ、自然に恵まれた場所にあることも魅力なのだろう。

 しかし、冒頭で書いたように、墓地不足の一方で、少子高齢化で代々の墓を維持することが困難となった家庭が増え、この二つの問題の解決策として、首都圏や京阪神では合葬墓(永代供養墓)を設ける動きが1990年代から広がってきたという。自治体で最初に合葬墓を設置したのは1993年の横浜市で、自治体、霊園利用者の双方にとってコストが抑えられるというメリットもあり、その後、大阪、神戸、千葉市など多くの都市が続いている。

yokohama.jpg ところで、合葬墓とはどんな構造なのか? 墓園によって様々なようではあるが、地下に大型の納骨室を設けたうえで、地上には墓参のためのモニュメントなどを配置するのが一般的らしい。先駆者の横浜市・日野公園墓地(写真、横浜市資料からお借りした)にはこの形式とともに、庭園風に整備した一角の地下に直接骨壺を埋葬する樹木葬型合葬墓も設置されている。同市の資料によると、管理料は1区画1体当たりで年3~6万円と意外に高額だったが、樹木葬型は比較的高倍率となっている。

 福岡市は新年度から設置の検討を始めるというのだから、横浜市からは実に20年以上も遅れてやっとスタートラインに立つことになる。市立霊園は狭き門とは言え、墓地不足は首都圏ほど深刻ではないため、大きな危機感はなかったのだろう。

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# 途切れたエスカレーター改善へ

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 福岡市のJR博多駅には非常に残念な箇所がある。市営地下鉄のコンコースから博多駅筑紫口(新幹線駅側)に上がっていくと、エスカレーターが途切れ、階段を使うしかなくなるのだ。福岡人は“こんなもの”だと諦めているが、荷物を抱えて新幹線乗り場に急いでいる時など、やはり「エスカレーターぐらい最後まで造れ」と愚痴を言いたくもなる。県外の人には理解不能な構造だろう。政令市の玄関口にあるまじき、この残念な状態を解消する計画がようやく2019年度からスタートする。福岡市が14日公表した新年度予算案の中に、コンコースから筑紫口までをきちんと直結するエスカレーターの基本設計費2174万円が盛り込まれているのだ。着工は恐らく20年度以降になるだろうが、それでも朗報と言えるだろう。

 ご存じない方のために簡単に説明すると、地下1階の地下鉄コンコースから地上1階の筑紫口までには計49段の階段がある。階段31段分はエスカレーターが設置されているのだが、途中にある踊り場でエスカレーターは途切れ、残る18階分は階段だけとなる。1985年の地下鉄博多駅の本開業当時からこの状態で、2011年に博多駅が新ビルに建て替わった際も改善されなかった。

 なぜ、こんな残念な構造になっているのか? 理由は意外に単純明快で、階段31段分までが福岡市営地下鉄の領分、上の18階分はJR西日本(新幹線駅側はJR九州ではなく、西日本が管轄)の領分だからで、要するにエスカレーターは地下鉄管轄部分にしか整備されていないのだ。福岡市は以前からJR西日本に改善を働きかけてきたというが、バリアフリーに程遠い状態が結果として30年以上も続いてきた。あくまでも想像だが、JR西日本としては、他社(地下鉄)の利用客のために大金を掛ける気はなかったのだろう。利用客の一部は新幹線の利用客でもあったと思うのだが。

 新たなエレベーター整備について、新年度予算案の資料には「筑紫口において、お客様の利便性向上を図るため、地下鉄コンコースから地上へのエスカレーター設置に係る基本設計を実施するとともに、更なるバリアフリー経路の充実について検討する」と記されている。市が関連予算を計上したということは、一向に動かないJR西日本に業を煮やし、整備を肩代わりすることを決意したということだろうか。資料に書かれている情報だけではわからないことが多過ぎるので、迷惑だろうとは思いつつ、市交通局にエスカレーターの完成時期や、市とJR西日本の費用負担などについて尋ねてみた。交通局の応対は非常に丁寧だったが、質問に対しては全くのゼロ回答だった。

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# 青島の橘ホテル跡地

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 12日、宮崎にホークス春季キャンプ見物に行ったついでに青島方面を散策してきた。“幽霊ホテル”と呼ばれた旧橘ホテルの廃虚は7年前に姿を消し、広大な跡地と青島海水浴場との間は無粋な金属製のフェンスで仕切られていた。20年間も居座っていた幽霊ホテルがなくなり、すっきりはしたが、物寂しさを感じる景観でもあった。宮崎市と、跡地を所有する地元の財産区は4月から、事業者を公募して跡地開発を進める方針で、昨年、市が行った事前ヒアリングでは意欲を示した事業者が10社を超えたという。かつては宮崎を代表する観光地だっただけに、ポテンシャルを感じる企業も多いのだろう。

 橘ホテルは1967年開業。7階建て、客室数は330室に上る巨大ホテルで、最盛期は宮崎が新婚旅行ブームに沸いていた1970年代。この頃の宿泊客数は調べきれなかったが、ブームが去った後の80年代にも年間20万人以上の宿泊客を集めていたという。私も70年代、新婚旅行ではなく修学旅行でこのホテルに泊まったが、複数の学校が同宿していた記憶がある。大雑把に言えば、一晩に数百人の中高校生が橘ホテルに泊まっていたわけだ。ところが、昨年11月に発行された最新版の『宮崎市観光統計』によると、2015年1年間に宮崎市に宿泊した就学旅行客はわずか2,900人。あまりに少なくすぎ、間違いではないかと思ったが、事実ならば、観光宮崎の衰退は修学旅行客から敬遠されていることが大きな要因なのではないだろうか。

 話を橘ホテルの来歴に戻すと、不動産会社が1990年に買収し、同社は同年12月、建て替えのため一時休業した。しかし、バブル崩壊に伴う経営悪化により、建て替えも営業再開もできないという状態に陥り、結果として20年間も野ざらしの状態で放置されることになった。別のリゾート会社が2008年、跡地をコテージ群として再開発する計画に乗り出したが、この会社も翌年、建物の解体を終えたところで銀行から融資を断られ、撤退したという経緯がある。4月からの業者公募は三度目の正直ということになる。

 昨年のヒアリングでは、跡地活用策について業者からは「リゾートホテルとレストラン」「高級シニアハウスと介護付き老人ホーム」「産学官連携でのメディカルセンターとスポーツリハビリ施設」などのアイデアが出されたという。宮崎市はヒアリング結果の公表資料の中で「宿泊施設やレストラン等を有する観光拠点、パブリックなスペースとなる広場や周遊性を持たせる遊歩道などの提案があり、これは本市が示した整備の考え方と一致するものでした」と明言しているぐらいだから、やはり観光開発が本意なのだろう。

 青島海水浴場の写真を撮影した後、遊園地「こどものくに」付近まで足を延ばした。「南国」と呼ばれる宮崎だが、ちょうどプロ野球キャンプが行われる2月はかなり寒く、地元では「●●がキャンプに来る頃が一番寒い」(●●には地元でキャンプを張る球団名が入る)などと、プロ野球チームが寒波の使者みたいに言われている。まして12日はこの冬一番の寒波が去った直後だったので、海風はかなりの冷たさだった。「南国」も演出による部分も大きいのではないかと思う。例えば、南国ムードを漂わせている街路樹のワシントニアパームは北米原産で、実は結構寒さに強い樹種だということを比較的最近知った。そう言えば、冬には強烈な寒風が吹き荒れる、わが福岡の百道浜海岸にも植えられ、元気に育っている。

 ところで、「こどものくに」を遊園地と書いたが、そう表現できるのは12日が最後で、翌日の13日から遊具を全面撤去する改修工事に入った。大型連休には全面芝生張りの広場として生まれ変わるという。太平洋戦争開戦直前の1939年(昭和14)3月から歴史を刻んできた「こどものくに」が遊園地としての歴史に幕を閉じたわけで、これは地元では大きなニュースになっているのではないかと思ったが、宮崎で生まれ育った私の親族たちは意外に無関心で拍子抜けした。

 写真は上から、青島海水浴場と青島、旧橘ホテル跡地、かつては土産品店が軒を連ねていた青島神社の参道。下がこどものくに、ホークスキャンプが行われている生目の杜運動公園。


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# 二つの請願

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 福岡市南区長住5にある長住中央公園再整備を巡り、地元自治会とソフトボール競技団体が対立、両者が市議会に請願を提出する事態になり、このほど市議会第4委員会で二つの請願が審査された。結果は自治会請願は不採択、ソフトボール側が採択。新聞各紙がこの対立を地方版で取り上げていたが、それによると、審査では競技団体に与する意見が圧倒的だったという。なぜ、これほど一方的な結果になったのだろうか。調べてみると、予想通りと言うか、県・市のソフトボール協会長には自民党関係者の名があり、市協会に至っては同党福岡市議団の幹部が役員に名を連ねていた。自治会側が審判団と思っていた市議会、中でも自民党は相手側のプレイヤーだったのだ。中東の笛どころの話ではなく、これではワンサイドゲームになるはずである。

 問題の発端は、完成から半世紀以上が経ち、老朽化した長住中央公園(約1万7000平方㍍)の再整備に当たり、市側が住民代表を交えて計画案を話し合ったことだ。この話し合いには公募に応じた48人が参加し、計4回の会合が持たれたという。この中で焦点となったのが、有料のソフトボール専用球技場(約6,300平方㍍、写真)の取り扱い。公園面積の3分の1以上を占めながら、 地元住民は自由に立ち入り出来ず、球音になどにも悩まされてきたという。このため話し合いでは専用球技場を廃止し、多目的広場に衣替えするという計画案がまとまったが、これに競技団体側が猛反発したというのが大雑把な経過だ。

 自治会側の請願は中央公園の速やかな再整備を求めるもの、競技団体側は球技場の存続を求めるもので、請願に付された番号から判断すると、自治会側の方が先に出されている。しかし、自治会のサイトには、競技団体側が話し合いのやり直しを求める請願提出の動きを始めたことから、これに対抗する形で急きょ出さざるを得なくなったと記されている。紹介議員に名を連ねたのは、自治会側が自民党3人、競技団体側が自民党13人を含む与野党の計23人で、この中には市ソフトボール協会副会長の市議らも含まれる。なお、自治会側の3人は請願審査前日の夜になって紹介議員を取り消した。自民党が“党議拘束”を掛けたためだという。

 各紙報道によると、委員会審査では、公園整備を巡る話し合いで競技団体の意見を十分に聴かなかったことばかりが問題視され、自治会側請願はあっさり葬られた。微妙な案件では白黒をつけたがらず、継続審査を乱発している議会が、ここまで一方の意見だけに味方するケースはかなり珍しいのではないかと思う。(
「葬り去られる請願80件」参照)

 よそ者の無責任な意見だが、自治会側はわざわざ同じ土俵に乗る必要があったのだろうかと思う。請願は住民が地方自治に参加するための重要な一手段だが、計画案を練り上げた市と住民代表による話し合いもまた、立派な住民自治のはずだ。市議らの横やりが入っても、きちんと手順を踏んでの結論ならば、胸を張っていれば良いことで、また市側は今後、この結論を守る努力をすべきだろう。それにしても一地域の公園整備を巡って党議拘束などという大げさな言葉が出てきたことにはビックリした。

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# 人民共立小学校と筑前竹槍一揆

 明治時代初めに編纂された地誌『筑前国福岡区地誌』(三原恕平編。活字版は1980年、文献出版発行)を読んでいて、“人民共立小学校”という見慣れない言葉が度々出てくるのに戸惑った。例えば、橋口町(現在の福岡市中央区天神の昭和通り付近)、大乗寺前町(現在の博多区上川端の一部)の項目には、それぞれ以下のように記載されている。
 「人民共立小学校二所(町ノ東方水鏡神社境内ニアリ)生徒男百七十五人女七十五人総計二百五十人」
 「人民共立小学校一所 町ノ西南大乗寺境内ニアリ生徒二百三十八人(男百九十四人女四十四人)」

 どこかの人民共和国にでもありそうな名称だなと思いつつ、その正体を調べてみると、1872年(明治5)の学制公布に伴い設立された小学校を当時、人民共立小学校と呼んでいたことがわかった。

 明治新政府はこの学制公布で、小学校を設立せよと全国に大号令をかけたものの、財政難から設立・運営費用は「凡学校ヲ設立シ及之ヲ保護スルノ費用ハ、中学ハ中学区ニ於テシ、小学ハ小学区ニ於テ其責ヲ受クルヲ法トス」と地元に丸投げした。このため児童の家庭から結構高額な授業料が徴収されたが、これだけでは到底賄えず、篤志家からの寄付金、さらには地域の全世帯に負担金(賦課金)まで課され、財源に充てられた。地域住民全体で学校を支えていたことになる。だから官立でも市町村立でも私立でもなく、人民共立だったのだ。

 ただし、人民共立小学校という言葉は、この記事を書くに当たって参考にした『福岡県教育百年史 第五巻 通史編(Ⅰ)』 (福岡県教育委員会、1980)、文部科学省がサイト上で公開している『学制百年史』には一切出てこなかった。公式用語ではないのだろう。

 当時の庶民にとって授業料や賦課金の負担は非常に重かったといい、国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトには「負担に耐えかねた人々の中からは学制反対一揆が起こることもありました」と書かれている。この一揆で最大のものが、学制公布翌年の1873年6月、わが福岡県で起きた「筑前竹槍一揆」だったようである。

 一揆の発端は旱魃に苦しんだ農民たちの暴動だったというが、明治新政府への大きな不満を背景に、当時の福岡県人口(※)の約4分の1に当たる10万人が加わる大騒乱となった。一揆勢の一部は福岡城跡にあった県庁に押し入り、庁舎を打ち壊し、官舎を焼いたというが、彼らが要求していたのが「御年貢三ヶ年間徳政の事」「学校、徴兵、地券、御取止めの事」など5項目。廃止を要求する項目のトップに学校が挙げられ、また、多くの小学校が焼き討ちの対象になったというから、いかに学校が憎悪の対象となっていたかがわかる。(※当時の福岡県は旧筑前藩領だけで、現在の県域には他に小倉、三潴県があった)

 これは必ずしも教育への無理解というだけでなく、新たな小学校教育の内容が当時の庶民にはわかりにくく、「実用的ではなく、かえって古くからの寺子屋の方がましだとの感をいだかせた」(『福岡県教育百年史』)ことも大きかったという。

 一揆は発生から約2週間後、最終的に軍によって鎮圧されたが、70人が死傷し、打ち壊しや焼き討ちの被害に遭った家屋は4,590棟に上ったという。首謀者とされた4人が死刑となっている。さすがに明治新政府も教育制度については矢継ぎ早に手直しを繰り返し、1890年(明治23)公布の小学校令で、小学校の設置・運営は市町村の責任であることを明確にした。人民共立小学校の歴史はここで幕を下ろしたということになるだろう。

 途中でも書いたが、人民共立小学校という言葉はオフィシャルな教育史には見当たらず、学校創立が学制公布直後に遡る福岡市立小学校の沿革を調べても、この言葉が使われている例は見つからなかった。正式用語ではなかったにしても、これは不思議だ。明治時代初めに編纂された地誌に書かれているぐらいだから、当時、一般的な呼び方であったのは間違いなく、現にインターネット検索をすると、創立当時の学校名を「〇〇人民共立小学校」と明記している例が他県では複数見つかる。草創期の初等教育で、国や地方行政がいかに役立たずだったかを証明するような言葉だから、敢えて使いたくはないのかもしれないが。

 文中に明示している資料の他に、竹槍一揆については国会図書館のデジタルコレクションに収録されている『社会変革過程の諸問題』(石浜知行、天人社、1930)、志免町ホームページなどを参考にした。

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# 和布刈神事の思い出

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 関門海峡に臨む北九州市門司区の和布刈(めかり)神社で先月28日未明、航海の安全などを祈る和布刈神事が行われ、その模様がローカルニュースで報じられていた。烏帽子、狩衣姿の神職が真冬の海に入り、ワカメを刈り取るという厳かな儀式だが、北九州市に住んでいた20数年前、この神事を見物に行き、あまり厳かならぬ光景に出くわしたことがある。内情を暴露するのはよろしくないかも知れないが、あくまでも二昔前に私が体験した特殊事例だということで紹介したい。(上の写真は北九州市情報発信強化委員会の「北九写真ダウンロード集」からお借りした)

 冒頭に書いたように和布刈神社は関門海峡に面した場所にあり、神事は神社下の海岸の岩場で行われている。一般の見物客が海岸に下りるのは不可だったが、報道関係者だけは認められており、私が現地に着いた時、海岸にはすでに多数のテレビクルーやカメラマンらが陣取り、護岸の上からは岩場はよく見えない状況だった。

 「せっかく真冬の夜中に駆けつけてきたのに」と落胆していたところ、神職が意外なことを宣告した。これから神事を始めるが、同じ儀式を3回やるというのだ。1回目がテレビカメラ向け、2回目が新聞・雑誌社のカメラマン向け、そして3回目が岩場に下りることを認められていない見物客の撮影向けで、混乱なく誰もが神事を見ることができるようにという神社の配慮だったのだろう。

 厳かならぬ事態が起きたのは、1、2回目の儀式が滞りなく終わり、3回目が始まった時だ。「さあ、ようやく我々の番」とインスタントカメラを構えたところ、何と複数のテレビ局が平然と2度目の撮影を始め、視界を完全に遮ってしまったのだ。当然ながら、このルール破りに対して見物客から非難の声が上がったが、怒号渦巻くという事態にまではならなかった。恐らく伝統の行事を台無しにしてはならないという意識が見物客の側に働き、テレビ局側もこれにつけ込んだのだろう。このような傲慢な振る舞いは、インターネットが発達し、個人の情報発信力が強化された現在ではいくら何でも無理だろうと思う。

 この和布刈神事は、海峡対岸の住吉神社(山口県下関市)でも同日同時刻に行われ、こちらは非公開だが、和布刈神社でも大正時代初めまでは神職以外は誰も見たことがない神秘の儀式だったという。国会図書館のデジタルコレクションに収録されている『九州路の祭儀と民俗』(宮武省三、三元社、1943)という戦時中の出版物によると、地元では見ると目が潰れるという言い伝えがあり、神罰を被ってまで見物に行こうとする者は皆無だったとある。

 一般公開が始まったのは大正2、3年頃で、最初のうちは物珍しさで多数が詰めかけたというが、「何分冬空の寒い、しかも午前二時半頃から執行する極りとなっているので、物好きな者でない限り大抵の者は見たくても、行くを億劫がり、折角解禁となりながら其後毎年の神事は矢張浦淋しく、ひっそり行われているので在る」と筆者は書き記している。「見たくても、行くを億劫がり」とはまさに私の心情を言い当てた言葉で、北九州市には結構長く住んでいたのだが、意を決してこの神事に出掛けたのはたった一度だけだった。現在は毎年、多数の見物客を集めているようなので、念の為。

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駄田泉

管理人:駄田泉
福岡の中小企業に勤める定年間近の中年オヤジです。物忘れが激しくなったため、ボケ防止のためにブログを書いています。主に福岡の情報を紹介していますが、タイトル通り、新しい話は何もありません。Twitterではたまに、胡散くさい情報を発信。