吉武高木遺跡、史跡公園に

IMG_6576.jpg



IMG_6615.jpg

IMG_6602.jpg

 福岡市西区吉武の国史跡、吉武高木遺跡の史跡公園化整備が完了し、今月、「やよいの風公園」としてグランドオープンした。2012年4月にもこの遺跡の撮影に行ったことがあるが、まだ整備が始まる前で、休耕田同然の状態だった(「レンゲ畑の吉武高木遺跡」)。ここに「最古の王墓」や「早良王墓」と呼ばれる遺構が眠っているとは知っていても、想像力乏しい身には何の変哲もない田舎の景観にしか見えなかった。それから5年。4億2000万円の費用を掛け、休耕田は2.7㌶のきれいな公園に生まれ変わった。

 この遺跡は弥生時代中期(約2,200~2,000年前)のクニの跡で、「王墓」と騒がれた遺構は1985年の発掘調査で見つかった。木棺墓の一つから、三種の神器を思わせる豪華な副葬品(多紐細文鏡、銅剣、多数の勾玉・管玉など)が出土したのだ。一方で、近接する区画からは大量の甕棺墓が発掘されたが、この中には甕棺内に石剣の切っ先があり、体に刺さった状態で埋葬されていたのではないかと思われる例があった。恐らくは戦死者の墓だ。また、甕棺墓群からは鏡は1枚も見つからず、玉類の出土も極端に少なく、「王墓」とは明確な差があった。この遺跡は階級社会の出現を鮮明に示した、結構生々しい代物だったのだ。

 「クニの成立と展開を示した貴重な遺跡」として1993年には国史跡に指定され、福岡市は早くも99年には史跡公園整備計画を大々的に公表していたが、財政難のためか、あるいは度重なる市長交代のためか、計画は遅れに遅れて2012年に着工。ようやく今年、全面開園にこぎつけた。

 入口で出迎えてくれるのは、わらで出来たシカのオブジェだ。これは甕棺に刻まれていた2頭のシカの絵がモデルで、このシカは公園のシンボルマークともなっている。園内には「王墓」や甕棺墓群(甕棺ロードと名付けられている)、祭祀の場とも推定されている大型建物跡など重要な発掘地点ごとに説明パネルや復元した甕棺などが設置され、パネルを丹念に見て回れば、吉武高木遺跡の概要を学べる構成になっている。

 ただ、板付、金隈、野方遺跡、鴻臚館跡に併設されている資料館や発掘現場をそのまま保存した展示館などの施設はない。99年計画では大型建物跡の復元なども予定されていたが、今回の整備では見送られた。現在の財政事情ではこれが精いっぱいの整備ということなのだろう。4億2000万円という整備費は巨額だが、かと言って立派な資料館、展示館が建設できる程の金額でもない。福岡市にまた一つ、史跡公園が誕生したことは喜ぶべき話なので、箱物がないからと言って文句はないが、これからの季節を考えれば、園内にもう少し日陰は欲しいところだ。


スポンサーサイト
[Edit]

福岡市動植物園

DSCF1651.jpg

IMG_6557.jpg

 福岡市動植物園(中央区南公園)に20数年ぶりに行ってきた。緑の桜「御衣黄」、黄緑の桜「鬱金」が並んで咲いているという記事を読み、撮影に出かけたのだ。しかし、2本とも思っていた以上に高木で、まともな写真は1枚も撮れなかった。仕方がないので、代わりに(?)オランウータンの写真を撮ってきた。福岡市の動物園は近年、旭山動物園をお手本にリニューアルが続いており、動物たちの姿がよく観察できるようになっていた。ただ、個人的な感想を言えば、動物たちの展示スペースが広がった分(これは良いことだが)、人間側の観察路はさらに狭苦しくなったように思えた。

 この動植物園があるのは標高60㍍の丘陵地帯で、かつては大休山と呼ばれていた。江戸時代の地誌『筑前国続風土記』には、木こりたちがここで荷を下ろし、一休みしていたと地名の由来が書かれている。また、夜には鬼火が飛び回っていたともある。そんな鬼火の名所は、今では園の周囲をぐるっと閑静な住宅街が取り巻き、県外に住む私の親族は「おしゃれな店が並ぶ坂道(※浄水通りこと)の先に動物園があった」と立地に驚いていた。

 動植物園を合わせた敷地面積は約27㌶だが、1953年開園の動物園は10㌶と手狭。老朽化が進んでいたこともあり、バブルの時代、西区金武に移転する計画が浮上したことがある。450億円の巨費を投じ、50㌶の広大な自然動物公園を造るというものだったが、私はその成り行きを見届けないまま、転勤でこの街を離れた。10年近く後に戻ってくると、動物園は依然として南公園にあり、「?」と思っていたら、そのうちに財政難を理由に計画の白紙撤回が発表された。数年前、金武地区に農業公園がオープンしたが、これは移転計画に長らく振り回され、農地改良を見送ってきた地元に対する“おわび”みたいなものだという。(※植物園開園は1980年)

 一方、動物園は移転が立ち消えになって以降、徐々に改修が進められ、動物の飼育・展示方法に工夫が凝らされるとともに、エレベーターやスロープが整備され、バリアフリー化が進んだ。冒頭、「狭苦しくなった」といちゃもんをつけたが、一時は年間60万人程度まで落ち込んでいた入場者は、この改修が功を奏し、現在は約100万人にまでV字回復したという。

 23日の日曜日もベビーカーを押した親子や3世代ファミリーらでにぎわっていた。財政問題は別にして、動物園が現在地に残ったことは、市民や動物たちにとって良かったのか悪かったのか判断が付かないが、空港、動植物園、浄水場、海水浴場、霊園等々、普通は郊外にありそうな施設が福岡では市街地のど真ん中にある。コンパクトシティを売りにしているだけに、これはこれで福岡の特色なのかなと思う。

 本命の御衣黄と鬱金、2本の桜は盛りが過ぎ、花は少ししおれた感じだった。2種類の花の違いを確かめるのも目的だったが、私の節穴の眼では、鬱金の方が少し色が薄い気はしたものの、ほとんど区別がつかなかった。せっかくだから園内を散策し、温室では熱帯植物なども見てきた。大人600円の入園料で、動物も植物も楽しめるのだから、リーズナブルだ。これでも大人料金は昨年6月、200円値上げされたのだが、中学生以下の料金は依然として無料を貫いている。


IMG_6560.jpg
[Edit]

博多のど真ん中にあった前方後円墳

IMG_6531.jpg

IMG_6534.jpg

 6年前、「遊び場だった那珂八幡古墳」という駄文を書いた。小学生時代に遊んでいた神社が、実は前方後円墳だったことを中高年になって知ったという話なのだが、古墳とわかった経緯などをきちんと確認していなかったため、読み返してみると、相当いい加減な内容だった。そこで先日、記事の後半部分をほぼ全面的に書き直したのだが、その作業の中で、博多1号墳という別の前方後円墳の存在に興味を覚えた。この古墳があったのは福岡市博多区御供所町1-1。博多のど真ん中なのだ。

 古墳があった場所をもっと詳しく書くと、地下鉄祇園駅4番出口から地上に出た辺りで、現在は大博通りに面して12階建ての西鉄祇園ビルが建っている。当然ながら、古墳自体は跡形もない。西鉄祇園ビルの建設に先立ち、1985年5~8月に行われた発掘調査で古墳は見つかったのだが、当時から墳丘は現存していなかった。では、なぜ古墳とわかったかと言えば、基底部の葺石が断続的に見つかり、これをつなぎ合わせると、前方後円墳の姿が浮かび上がったという。博多1号墳と言いながら、別に2号墳や3号墳が近隣にあったわけではないようだ。

 古墳の規模や築造時期について、この調査の発掘報告書『博多Ⅶ―博多遺跡群第28次発掘調査報告』では全長56㍍以上、後円部の直径38~41㍍、出土した埴輪から4世紀末から5世紀初頭にかけての築造と推定している。しかし、1989年に出された老司古墳の報告書には「博多1号墳は全長約65~70㍍に推定され、出土埴輪から5世紀前半に位置付けられる」、1997年の博多遺跡群の報告書には「5世紀後半に築かれたとされる博多1号墳(前方後円墳、推定墳丘長60㍍)」と数字はバラバラで、築造時期に関しては100年も開きがある。出土した埴輪は全て破片だったというから、時期特定が難しいのだろうか。

 この古墳周辺からは1~2世紀後のものと思われる石室墓7基の遺構が同時に確認されたが、面白いのは古墳の石材を再利用して石室墓が築かれたと推定されていることだ。だとしたら、博多1号墳は築造から100~200年後には早くも破壊されていたことになる。御先祖様の墓を暴いて自分たちの墓を造ったとも思われないので、石室墓に埋葬されたのは別の集団なのだろうかと想像が広がる。

 博多1号墳は古代、福岡平野を治めた集団の首長墓とみられる七つの前方後円墳のうちの一つ。七つの古墳はすべて那珂川流域の直線距離にして約10㌔の範囲に集中しており、博多1号墳はその最も北に位置している。今ではアスファルトで固められたビル街だが、本来は砂丘だった場所だという。埋め立て地などを除き、どんな土地にも等しく古墳時代はあったのだから、博多のど真ん中に古墳の遺構があっても不思議はないのだろうが、砂丘上に築造された前方後円墳は珍しいらしい。


[Edit]

王塚古墳特別公開

IMG_6520.jpg

IMG_6510.jpg

oudukahekiga001.jpg

 福岡県桂川町の国特別史跡、王塚古墳で15日から始まった装飾壁画の特別公開に行ってきた。二つの石室(前室と玄室)の壁全体に様々な文様や騎馬の姿が5色で描かれ、「日本を代表する超一級の装飾古墳」と評価されている。上の写真はパンフレットに掲載されていた往時の姿だが、現実には壁画の劣化は激しいとも聞いていた。期待半分、不安半分で観察室のガラス窓から石室をのぞいたが、やはり情報通り全体的に色あせ、文様はほとんど判別できない状態だった。唯一、見分けることができたのは前室後壁の左側に描かれた黒い騎馬だけ。それでも名高い王塚古墳の壁画を初めて目にすることができ、満足はした。

 王塚古墳は6世紀中ごろに造られたとみられる前方後円墳で、復元された墳丘は全長86㍍、後円部の直径が56㍍。1934年(昭和9)、石炭採掘で陥没した田畑を復旧するために土を取っていたところ、偶然石室が見つかったと伝えられている。福岡県が1939年に発行した『福岡県史蹟名勝天然紀念物調査報告書・筑前王塚古墳』にその時の模様が記されているが、土砂採取業者は思わぬ石室の発見に工事をいったん中止し、再度石室をふさいで引き上げた。ところが、その夜のうちに地主が石扉を引き倒して石室内に侵入、副葬品を持ち出したという。調査報告書にはわざわざ地主の実名が敬称抜きで記されており、執筆者の怒りが読み取れる。

 1952年には国特別史跡に指定されたが、壁画や石室の劣化は徐々に進み、67年には石室崩壊防止のため鉄の支柱で補強する工事が行われる一方、いったんは見学厳禁となった。この時すでに壁画は“瀕死の状態”だったという。1993年に保存工事が完成し、これ以降、石室は外気とは遮断され、春秋の年2回、計4日間の特別公開時に観察室からの見学が許されるだけになった。観察室に入るにも分厚い金属製のドア二つを通り抜ける必要がある。

 特別公開とは文字通りの特別な機会で、私が現地に着いた時はすでに300人以上の考古学ファンが集まり、見学は1時間以上待ちの状況だった。時間をつぶすため、隣接地にある展示館「王塚装飾古墳館」(入館料は大人320円)に行き、原寸大の石室レプリカを見学してきた。発見当時の色鮮やかな壁画がここには再現されており、見学の機会が限られる王塚古墳に代わって、普段から人気を集めているという。(石室レプリカは下の写真参照。ここも写真撮影は禁止のため、パンフレットから複写した)

 冒頭で書いたように、本物の王塚古墳の壁画はもはや色鮮やかとは到底言えない状況だが、この古墳を紹介する記事では未だに「彩色豊かな壁画」などのフレーズを目にすることが多い。中には石室に入り、壁画を直に見たかのような記事さえ読んだことがある。これらの記事を書いた人たちがいったい何を見たのかは不明だが、現実には壁画は集中治療室の中で辛うじて命脈を保っているような状態だ。「装飾古墳の発見は劣化の始まり」とは観察室内で解説してくれた男性の弁だ。




oudukahekiga002.jpg
[Edit]

縄文の二重環濠跡は今…

IMG_6483.jpg

IMG_6489.jpg

IMG_6485.jpg

 福岡市博多区那珂のJR鹿児島線沿いの土地で1993年、縄文時代晩期(紀元前4世紀頃)の二重環濠跡の一部が確認され、「縄文の環濠集落発見」と新聞等で大騒ぎになったことがある。それまで環濠集落の出現は弥生時代はじめ(紀元前3世紀)と思われていたため、この遺跡の発見は「教科書の記述を書き換える」ものだった。以前、那珂八幡古墳の写真撮影に行った際、近隣にあるこの遺跡もついでに見に行ったが、それらしきものが見つからなかった。改めて調べたところ、遺跡がある場所には現在、青果会社の大きな倉庫が建っていることがわかった。再度、現地に行ってみたが、遺跡の存在を示すのは、道路沿いの壁に取り付けてあったタイル製の説明パネルだけだった。

 この遺跡が見つかったきっかけは、青果会社の倉庫建設で、だから遺跡の上に倉庫があるのは当然のことではある。「教科書を書き換える」程の遺跡が確認され、青果会社と市教委との間で保存についての話し合いは持たれたのだが、すでに倉庫の建設契約が結ばれており、建設計画破棄は困難だったという。このため二重環濠の遺構を極力壊さないよう、盛り土を高くし、建設場所を少しずらすなどの次善の策が取られ、市の史跡にも指定されている。発見時の大騒ぎを思えば、遺跡の現状は物足りないが、大半の遺跡は発掘調査後には取り壊されているとも聞くだけに、どんな形であれ残ったことが重要なのだろう。

 最近、北九州市でも城野遺跡(小倉南区)で2009年に見つかった方形周溝墓の保存が決まり、ニュースとなっていた。方形周溝墓とは文字通り、方形に溝を巡らした弥生時代の墓で、城野遺跡の周溝墓は弥生時代末期(3世紀)のものとみられている。23㍍×16㍍の規模は九州最大級とも言われるが、「九州最大級」などというアバウトな評価以上にこの遺構が貴重とされたのは、内部を水銀朱で真っ赤に塗られた幼児用の箱型石棺2基が見つかったためだ。城野遺跡からはほかに、勾玉の工房跡なども見つかり、保存を訴える地元市民団体も結成されていた。

 この城野遺跡とは城野医療刑務所の跡地(約1万6000平方㍍)で、即ち国有地。国の土地から貴重な遺構が確認されたのだから、即座に保存が決まっても不思議はないと思うのだが、ところが、話はその方向に進まなかった。国と北九州市との間で保存に関する協議は持たれたようだが、結果的に決裂。刑務所跡地は一般競争入札で売りに出され、大手住宅メーカーが落札した。落札価格は公表されていないが、最低価格は7億7200万円だったので、結構な金額が国庫に入ったのは間違いない。北九州市は石棺2基だけは埋蔵文化財センターに移築したものの、遺跡自体は取り壊しやむなしの考えだった。

 しかし、今年3月になって住宅メーカーが方形周溝墓の遺構一帯556平方㍍を市に無償譲渡することを決め、破壊を免れた。住宅メーカーの英断を評価する声が上がる一方、積極的に国有地購入に動かなかった北九州市は共産党市議らから悪者扱いされているようだが、本当に悪いのは市なのだろうか。

 国と北九州市との協議内容が詳しく公表されていないので、確かなことは言えないが、遺跡が見つかった国有地をあっさり民間企業に売却しているぐらいだから、国側はただ単に土地を高く売ることしか頭になかったのだろう。しかし、ゴミが埋まっているという理由で国有地を8億円も値引きした例があるのだ。この理屈で言えば、遺跡の保存経費分を大幅値引きして譲渡しても良かったぐらいで、恐らく8億円近い土地価格に二の足を踏んだ北九州市も価格次第では違った結論になったことだろう。後に大幅値引きが騒ぎになっても、このケースだったら国側は大威張りで「問題なし」と言えたに違いない。
[Edit]

金隈遺跡展示館、2年間休館へ

IMG_6438.jpg

IMG_6442.jpg

IMG_6447.jpg

 福岡市博多区にある国史跡、金隈遺跡に久しぶりに行ってきた。紀元前2世紀から約400年にわたって営まれた弥生時代の共同墓地跡で、一帯は史跡公園として整備されている。メイン施設の甕棺展示館は発掘現場の一部が保存され、出土した甕棺や人骨までもがむき出しの状態で展示されているユニークな施設だ。狭いながらも見応え十分なのだが、交通の便が悪いこともあり6年間ご無沙汰だった。改修のため5月から、まるまる2年間も休館になると聞き、今のうちに再度「墓参り」しておこうと足を延ばしてきた。

 この遺跡は1968年春に発見された。緊急調査の結果、多数の甕棺墓や良好な保存状態の人骨などが見つかり、1972年には国史跡に指定されている。その後数次にわたる発掘調査で、土坑墓119基、甕棺墓348基、石棺墓2基が確認され、136体分の人骨が出土した。この人骨から推定される金隈人たちの平均身長は男性が162.7㌢、女性151.3㌢だったことを以前、
「長身だった金隈の弥生人」のタイトルで取り上げたことがある。現代人から見ると、かなり小柄に思えるが、日本人の平均身長がこの数字を上回るのは実は戦後のことなのだ。

 北部九州の弥生時代遺跡から見つかる人骨は、武器の破片が骨に突き刺さっていたり、首がなかったりなど戦乱の激しさを物語るような例が多いが、金隈遺跡についてはそういった報告はない。この集団墓地に葬られた人々のムラは例外的に平和だったのだろうか。

 ところで、遺跡発見の経緯についてはなぜか、市の発掘調査報告書の中でも混乱がある。1985年発行の『史跡金隈遺跡―発掘調査及び遺跡整備報告書』には「金隈遺跡の発見は昭和43年の春、桃畑を開墾している時であった」と書かれている。恐らくこれをもとに金隈遺跡のパンフレットにも「桃畑の開墾作業中に発見されました」と紹介されており、これが一般的に流布している。私も 「長身だった金隈の弥生人」では「果樹園整備の際に発見された遺跡」と書いた。

 しかし、1970年発行の『金隈遺跡第一次調査概報』には「福岡市比恵で鉄工所を営むN氏は、福岡市大字金隈字日焼に器材倉庫、宅地用の土地を買入れ、昭和43年4月、用地への道路取り付け工事を行なった。工事中甕棺墓と人骨が発見され」と全く異なる経緯が記されている(N氏は原本では実名)。遺跡発見直後に行われた緊急調査の記録であり、記述自体も非常に具体的な『第一次調査概報』の方が真実を伝えているのではないかと思うのだが。

 甕棺展示館は1985年3月の開館。開館から四半世紀以上が過ぎ、遺構や遺物の劣化が進んだことが今回の改修の理由で、金隈遺跡とともに、西区にある弥生~古墳時代の集落遺跡、
野方遺跡(ここも国史跡)の展示館も休館となる。遺構・遺物のクリーニングと保存処理が行われるほか、展示物や説明パネル等も刷新されるという。

 福岡市にはこの金隈、野方遺跡のほかにも、板付遺跡や鴻臚館など史跡公園化されたり、小規模ながらも展示館が併設されたりしている遺跡が少なくなく、しかもすべてが無料開放されている。さらに1週間後の4月15日には、発見時には「早良王墓」として大変な注目を浴びた吉武高木遺跡(西区)が「やよいの風公園」として、いよいよグランドオープンする。近いうちに見学に行き、面白い話でもあれば報告したい。
[Edit]