無事だった朝倉の水車群

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 九州北部豪雨により大変な被害を受けた朝倉市に25日行き、農産物を買い込んできた。「何をのん気な」とお叱りを受けるかもしれないが、以前から足しげく通っていた農産物直売所がどこも営業再開していると聞き、「だったら地元のスーパーで買うよりは」と足を延ばして来た。豪雨から20日がたったが、依然として多くの場所が土砂や流木に埋まり、災害前、子供たちでにぎわっていた公園の芝生広場は土砂の仮置き場となり、風景が一変していた。

 不幸中の幸いというべきか、地域のシンボル的な存在である菱野の三連水車をはじめとする3基の水車群はほぼ無傷だったと聞いた。しかし、水車が水を汲み上げていた肝心の堀川用水が土砂で埋まり、全ての水車が動きを止めていた。20日から復旧作業が進められているが、まだ再稼働のめどは立たないらしい。被害を免れた水田は青々としていたが、田の表面は乾ききり、ひび割れが広がっている状態だった。

 朝倉の水車群は菱野の三連水車のほか、三島の二連水車、久重の二連水車からなり、堀川用水と合わせ1990年に国史跡に指定されている。筑後川の水を農業用水とするため堀川用水が掘られたのは1663年(寛文3)で、その約100年後、高い土地にあった山側の田に水を供給するため水車群が造られたとされる。1日の揚水能力は実に約2万㌧で、35㌶もの水田を潤していた。

 写真は上から菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車、土砂で埋まった堀川用水、豪雨の爪痕が残る三連水車近くの公園。下は三連水車が稼働していた時の映像で、2014年6月に撮影した。

 【8月2日追記】朝倉の水車群は8月2日、稼働を再開しました。


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シーサイドももちで花火大会

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 福岡市のシーサイドももち海浜公園で26日夜、17年ぶりに花火大会が開かれる。以前は観覧無料だったが、今回は海浜公園全体が有料エリアとなり、大人2,000~7,000円の料金が必要。打ち上げ花火などは河川敷や海岸に座り込み、ただで見るものだと思っていたが、最近では企業からの協賛金が集まりにくくなり、観覧を有料にして費用を賄うのが一般的らしい。

 海浜公園では観覧席の設置など準備が進む一方、周辺道路には花火大会当日は交通規制が行われることを知らせる看板が設置されている。写真2枚目は会場にも程近い「よかトピア通り」に架かる歩道橋にあった看板で、花火大会開催中の午後7時半から9時までは通行不可であることを告知している。花火大会と歩道橋と言えば、兵庫県明石市で2001年7月21日、花火大会に向かう見物客が歩道橋に殺到し、11人が死亡、183人が重軽傷を負う大変な事故があった。恐らくこの事故を踏まえての安全対策なのだろう。
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由布岳で見た倒木

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 大分県由布市と別府市の境にある由布岳(1,584㍍)に登り、登山口近くの樹林帯で印象的な光景に出会った。かなり以前に鉄砲水でもあったのだろう。谷筋に大量の木が倒れていたのだが、見たところほぼすべてがスギだったのだ。谷沿いには広葉樹も生えていたのだが、こちらは根がむき出し状態になりながらも持ちこたえており、対照的な姿だった。

 今回の九州北部豪雨災害では流木が被害を拡大したと指摘され、この流木は、根の張り方が浅いスギが山の表層ごと崩れ落ちて発生したという。由布岳の倒木を見てもスギの弱さは良くわかり、今回のような災害を防ぐには、河川改修を急ぐよりもむしろ、治山が大事なことは素人目にも理解できた。

 写真を撮ってくれば良かったのだが、正面だけを見据えて山を登っていた往路は気付かず、復路は岩だらけの登山道に疲れ果て、リュックからカメラやスマホを出す気力もなかった。由布岳で他に見かけたものは、タヌキ、樹林を駆け抜けていったシカ、ジョギング姿で山を駆け下りてきた男性。最後が一番驚いた。
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今年の飾り山は

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 博多祇園山笠は15日未明、「追い山」でフィナーレを飾る。このブログでは毎年、ヤフオクドーム前の飾り山を紹介してきたのだが、今年は完璧に失念していたので、今さらだが写真を掲載させていただきたい。表はホークス選手が主役の「若鷹快進撃」。例年、モデルの選手が誰かは明示されているのだが、私みたいに「似てない」と難癖を付ける人間が多いのに人形師がうんざりしたのか、今年は「打の若鷹」「投の若鷹」とモデル不明になった。一応、打者は左、投手は右のようである。

 見送りは「雄姿凛々剣洗川(ゆうしりんりんけんをあらうかわ) 」。南北朝時代の1359年、懐良親王、菊池武光が率いる南朝方4万、少弐頼尚らの北朝方6万が九州の覇権を懸けて筑後川の戦い(大保原の戦い)で激突。勝利した菊池武光が刀を川で洗ったところ、流れが真っ赤に染まったという故事にちなむ。九州最大の合戦と言われる筑後川の戦い、及びこの戦いで武名を轟かせた菊池武光は山笠の題材としても人気で、ヤフオクドーム前飾り山の見送りは3年前も同じテーマが選ばれていた。
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桜井神社と黒田忠之

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 墓参の帰り、以前から気になっていた桜井神社(福岡県糸島市)に参拝してきた。1632年(寛永9)の創建で、当時から残る重厚な楼門、本殿、拝殿などは県指定文化財ともなっている。木々に囲まれた境内は神秘的な雰囲気で、最近はパワースポットとしても人気を集めているらしい。この神社を建てたのは福岡藩2代藩主・黒田忠之(1602~1654)で、重臣と争って「黒田騒動」を引き起こし、名君不在の福岡藩歴代藩主の中でもとりわけ暗君扱いされている人物だ。一方で、寺社に対する崇敬は際立っていたとも評され、彼が創建・再興した寺社はこの桜井神社以外にも数多い。神仏頼みのバカ殿だったのだろうか。

 桜井神社創建の経緯は『筑前国続風土記』に詳しく記されているが、実は合理的な社会だったと言われる江戸時代にしては、かなり胡散くさい話だ。慶長15年(1610)、桜井地区を襲った豪雨により突然、岩戸の口が開いた。これを見物に行った地元・志摩郡の住人・浦新右衛門(新左衛門と記した資料もある)の妻(以下、浦姫)が神懸かり状態となり、人々の吉凶を占い始めた。さらに神託に従い5年間五穀を絶ったところ、浦姫の霊験はさらに高まり、遠方からも信奉者を集めるようになった。噂を聞き、自ら浦姫を訪ねた忠之は彼女の力を目の当たりにして深く信仰するようになり、ついには彼女を祭る社を建立し、社は人々から「與土姫大明神」とあがめられた。

  與土姫大明神=桜井神社という物的証拠が残っていなければ、できの悪い作り話としか思えないエピソードだが、この話の後半部分は少し様相が変わってくる。少し長くなるが、その部分を引用すると、
 「浦氏をば則社務職として、其子毎成(つねもり)をば京都に遣し、吉田流の神事を学しめ、唯一神道を守らせ、国中社職の惣司とし、諸社の神職の輩にも、志有者は浦氏に属し、仏氏の徒とならずして吉田流に帰せり。始は神社の側に、いかめしき仏閣多く、社僧も往して、仏事を取行ひけるに、此事京都の吉田より、心得ぬ執行也と沙汰有故、寛文十二年に祠官浦権太夫毎春、是を国君に申して、ことごとく仏閣をこぼちて、僧をしりぞけて、専に神道を執行せり」

 浦氏の一人を京都に派遣して吉田神道を学ばせたうえで、領内の神職のトップに据え、さらには仏教の影響下にあった神道(両部神道)を排除したという内容だ。桜井神社の草創期の歴史は一気に政治色の濃いものとなる。忠之による桜井神社創建は領内神社の一元的な統制につながる話だったわけで、『福岡県史』通史編・福岡藩文化(上)(1993)には「忠之時代の文化的な営みに特徴的なことは、忠之の寺社に対する崇敬・外護で、歴代福岡藩主中きわ立っている。それが同時にキリシタン禁教、寺社統制、及びそれをとおしての藩秩序の維持・強化を意味したことはいうまでもなく」と記されている。

 こうなると、忠之を「神仏頼みのバカ殿」と考えるのは不当な話で、ファンタジーじみた桜井神社創建の経緯にも、何らかの意図が隠されていたのではないかと思えてくる。浦姫の夫、新右衛門は、戦国大名・大友氏配下の武将の子孫。浦姫の霊験はともかくとして、その評判が藩主の耳にも届いた程だから、新右衛門、または浦氏のプロデュース能力の高さは相当なものだったと想像される。また、一族の毎成は藩命で京都に留学し、帰国後は「社職の惣司」となったのだから、忠之から実務者能力を高く買われていたのは間違いない。桜井神社創建による神社統制は、結果論ではなく、最初から練り上げられたものだったのだろうか。なお、浦姫は神社創建から4年後の寛永13年(1636)、68歳で死去している。

 暗君とばかり思っていた忠之だが、この機会にめくった『福岡県史』などには「藩主専制権力の伸長をドラスチックに強行した」人物として扱われていた。結果としてこれが初代藩主・長政以来の重臣との軋轢を生み、その一人・栗山大膳が幕府に対し「忠之に謀反の疑いがある」訴える事態となり、福岡藩は一時、存亡の危機に立たされた(黒田騒動)。無実を認められた忠之は騒動以降、大坂城再建の手伝いや長崎警備、島原の乱などで幕府への忠勤に励み、その結果、福岡藩の財政は忠之の晩年には早くも破綻状態だったという。福岡藩の2代藩主は暗君ではなかったかもしれないが、名君でもなかったのだろう。桜井神社には、忠之自身も島岡大明神として祭られている。
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