杵築の城下町、重伝建地区へ

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 大分県杵築市に残る城下町、北台、南台地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されることになった。谷間の通り沿いに広がる商人の町をはさみ、南北の高台(北台、南台)に武家町が広がるという特殊な構造で、武家町と谷町筋とは数々の美しい坂道で結ばれている。このブログでも2年前、「城下町杵築の坂道」と題して取り上げたことがあるが、あの魅力的な町並み、景観が、「その独特な歴史的風致は我が国にとって価値が高い」(文化庁発表資料)と国からも高い評価を受けた。

 ただ、少し引っ掛かるところがある。文化庁の発表資料によると、重伝建地区は16.1㌶もの広さだが、この範囲は北台、南台の武家町だけで、谷町筋は除外されているのだ。1枚目の写真は、志保屋(塩屋)の坂から見た酢屋の坂だが、中央に横断歩道が写っている。正確に言えば、谷町筋で保存地区に含まれるのは、二つの代表的な坂を結ぶ、この横断歩道部分だけなのだ。

 谷町筋では近年、街路整備事業により道路の拡幅・整備が行われたが、この時にも古い町家を曳家によって残すなど、地元では景観保存に務めたという。にもかかわらず、重伝建地区からは完全に締め出された。『大分県史近世篇Ⅱ』(1985)には「杵築城下町は、今もなお『武家屋敷、町家が城下全域にわたって、かつ関連した形で残されている』稀有な例だといわれている」と記されている。やはり北台、南台と谷町筋は一体として扱うべきではないかと思うが、地元側はどのように受け止めているのだろうか。

 杵築は、大友氏配下の木付氏、細川忠興などの支配を経て、1645年(正保2)に能見松平藩3万2000石の城下町となり、幕末まで同藩が治めた。地元で「サンドイッチ型城下町」と呼ばれている独特な町並みは、松平氏入封後の17世紀半ばに整ったとされる。海に面して丘陵地が広がるという地形がこの町並みを生んだのだろうが、『大分県史』には「町人居住地を武士居住地で取り囲み、しかも高みから見下ろすという階級意識を地形条件に上乗せするという形で計画されている」とあった。現代人には魅力的な景観も、藩政時代の被支配階級の人々にとっては、ひょっとしたらいまいましいものだったかもしれない。

 写真は2枚目が酢屋の坂、3枚目が勘定場の坂、4枚目が飴屋の坂。
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続・五郎山古墳の壁画

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 装飾古墳として有名な筑紫野市原田の五郎山古墳で21日、石室の一般公開が予定されている。せっかくの機会と思ったのだが、当日は残念ながら仕事だった。普段ならば一般公開の日以外でも5日前に予約すれば、見学可能で、別に落胆する程でもないのだが、今年は一般公開直後の11月1日から石室の保存改修工事が始まり、来年3月31日までは見学不可となる。改修工事完成後の一般公開を待つしかない。

 5年前に書いた「五郎山古墳の壁画」の中で紹介しているが、古墳の麓には2001年開館の五郎山古墳館があり、館内には石室の実物大模型が展示されている。この古墳が名高いのは、玄室奥壁に赤、黒、緑の3色を使い、人物や動物などが伸びやかなタッチで描かれていることで、石室模型には躍動感あふれる壁画も再現されている。残念ながら実物は劣化が激しい。石室の保存改修工事を知らせる筑紫野市公式サイトのページに、撮影年不明ながら、その写真が掲載されている(写真1枚目)が、古墳館のレプリカ(写真2枚目)と比べると、やはり全体的に色あせ、輪郭もぼやけてしまっており、辛うじて命脈を保っているという状態だ。

 この古墳は1947年に発見され、早くもその2年後には国史跡に指定されたのだが、保存管理は発見者であり、土地所有者でもあった男性に委ねられ、国からは捨て置かれたも同然だったことが『装飾古墳紀行』(玉利勲、新潮社、1984)に書かれている。石室入り口には鍵がかけられ、土地所有者の許可なしに立ち入りはできなかったのだが、現実には鍵を壊して不法侵入する者が相次ぎ、彼らが明かり代わりに使ったロウソクの煤で一部の壁画は真っ黒に汚れ、白カビの増殖も激しかったという。このため1978年、石室はいったんは完全に閉じられ、非公開となった。ガラス窓越しに壁画を見ることができる観察室が完成し、23年ぶりに公開されたのは、古墳館の開館と同じ2001年のことだ。

 この壁画は何を意味しているのか。「五郎山古墳の壁画」の中で、壁画発見直後に調査した研究者が「知っている文様を適当に描いたのだろう」と述べたことを、「それではまるで落書きである」と批判的に取り上げたことがある。この研究者とは著名な考古学者で、五郎山古墳を世に広めた人物でもある京都大の小林行雄氏(1911~1989)だ。この機会に、『筑紫野市史』資料編(2001)に収録されている「五郎山古墳の装飾壁画」(筆者は小田富士雄・福大名誉教授)を読んだところ、意外にも小林氏の見方は主流だったらしく、「全体としては一連の物語りを表現するものではない、自由な生活描写的な画題と見る考え方が以後大勢的となっている」と記されていた。

 もちろん、他にも多様な説があり、「被葬者の生涯の中でも印象的な場面をいろいろ描き込んでいる」「被葬者の一代記というべき性格」という見方に、個人的には最も魅力を感じた。被葬者が生前、朝鮮半島に出兵し、勇敢に戦った一こまを描いたものではないか考える説もあるという。小田名誉教授は、こういった考え方に対し「古墳壁画の本質は死者の鎮魂儀礼にあることに思いいたすとき、このような史実のみで壁画を律してしまうのは、政治史的立場を重視するあまりの短絡的評価ではないかという指摘も不当ではない」と批判的だが、壁画に史実が込められているのならば、やがては被葬者を特定することも可能ではないかと夢が広がる。
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幻の福岡市歌

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 福岡市に「市歌」があったことを最近知った。歌詞は次の通りだ。

 元寇十万屠りしところ 歴史は千代の深みどり
 松原駆けたいさおしの ほまれぞかおる おお漲ろう
 西日本の力なる 福岡 福岡 とどろくわが市

 さくら咲き咲く荒津の丘ゆ ながめ豊けき筑紫野を
 埋ずめ尽くして文明の 姿ぞ映ゆる おおあまねしや
 西日本の光なる 福岡 福岡 輝くわが市

 気はほがらかにのぞみはあふれ 睦みたすけてしらぬ火の
 もゆるが如き向上の 心ぞつどふ おお称へよや
 西日本の誇なる 福岡 福岡 理想のわが市

 この歌の存在は、『ふてえがってえ―福岡意外史』(江頭光、西日本新聞社、1980)を読んで知ったのだが、同書によると、福岡市教育委員会によって市歌が制定されたのは1931年(昭和6)。歌詞は公募され、80数編の応募作の中から、選考委員の旧制五高教授・八波則吉が選んだのが上記の作品。応募者は福岡在住の文学青年だった。これに数々の童謡、流行歌を手掛けていた作曲家の中山晋平が曲を付けた。締めのフレーズは応募作では「わが市」ではなく「都(みやこ)」だったが、国から「都は東京だ」とクレームを受け、急きょ変更されたという。

 『ふてえがってえ』では、イラストレーターの西島伊三雄さんが兄弟3人で合唱したエピソードが紹介されており、戦前派の市民には愛唱されていたのだろう。しかし、戦後はほとんど歌われなくなり、その理由については「たぶん、冒頭の歌詞『元寇十万…』へのアレルギーからと思われるが」と書かれていた。

 市立図書館の郷土資料室で関係資料を漁ったところ、2冊あった戦前、戦中の市勢要覧(1938、1942年版)にはいずれも市歌の歌詞が記されていた。だが、戦後になった途端に消え、現在では公式サイトなどにも全く記載がない。恐らく『ふてえがってえ』の推測通り、「元寇十万屠りしところ」という勇ましすぎる歌詞が、戦後は平和国家に似つかわしくないと敬遠され、さらに時代を経るに従い市歌の必要性自体が薄れていったのだろう。福岡市に長年住んでいる中高年ながら、戦後生まれの私が知らなくても不思議ではなかったのかもしれない。

 しかし、いくら歌詞が時代にそぐわないとは言え、存在を抹消したも同然の現在の扱いはいかがなものだろうか。『福岡市史』には、年表にさえ制定の事実は記録されてはいなかった。現在では市歌の座から下ろされているのかもしれないが、その経緯を含めた沿革ぐらいは、歌詞とともに公式サイトや市勢要覧などで紹介しても良いのではないだろうか。市歌については現在、市の公式資料ではほとんど何もわからず、個人の著書でしか知ることができない。
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どうなる日田彦山線

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 最近、福岡県田川地区にある道の駅をよく巡っている。1億円の豪華トイレで有名になった「おおとう桜街道」(大任町)や「歓遊舎ひこさん」(添田町)などだが、先日、歓遊舎ひこさんの敷地内をブラブラしていたら、敷地のすぐ横に本当の駅、つまり鉄道駅があるのに気付き驚いた。JR日田彦山線の無人駅で、駅名も歓遊舎ひこさん。家族は昨年初めて来た時から気付いていたらしく、呆れ気味だったが、何はともあれ、せっかくだから列車の写真でも撮ろうとしたところ、定刻を過ぎても一向にやって来ない。ここで再び自分のうかつさを思い知らされた。日田彦山線は7月の九州北部豪雨で大きな被害を受け、この駅がある添田~夜明(大分県日田市)間の約29㌔は不通状態で、復旧の見通しすら立っていないのだ。

 帰宅後に調べたところ、歓遊舎ひこさん駅は、道の駅への集客を図るため、添田町がJRに要望して2008年3月に開業した新しい駅だとわかった。鉄道駅が併設されている道の駅は全国的にも珍しいのではないかと思ったが、のと鉄道穴水駅と一体となった「あなみず」(石川県穴水町)など他にも類例はあった。なお、JR九州は1日の利用客が100人以上の駅を公表しているが、歓遊舎ひこさん駅の名前はなく、道の駅への集客効果は微妙なところだ。

 日田彦山線は北九州市小倉南区の城野と夜明とを結ぶ68.7㌔のローカル線(非電化、単線)で、実際には日豊線、久大線を経由して小倉~日田間で列車は運行されていた。歴史を遡れば、田川地区で産出する石炭や石灰石を、小倉から船で運び出すため敷設された路線だ。日田彦山線の前身の一つ、小倉鉄道(東小倉~上添田)の沿革を調べてみると、1893年(明治26)頃に創立された金辺鉄道によって敷設が計画されたが、日清戦争後の不況により資金が集まらず頓挫。この事業を小倉鉄道が引き継いだが、同社も資金調達に苦しみ、ようやく開通にこぎ着けたのは1915年(大正4)4月。金辺鉄道から数えれば、20年以上を要したことになる。

 筑豊炭田の最盛期には年間100万㌧以上の貨物を運び、経営は順調だったようだが、貨物輸送がなくなった今、日田彦山線はJR九州22路線の中で、ドル箱とは到底言えない路線の一つだ。同社が公表している同線の2016年の平均通過人員(輸送密度、1㌔当たりの1日平均利用者)は1,302で、これは肥薩線(八代~隼人)458、吉都線(吉松~都城)466、日南線(南宮崎~志布志)779に次いで低い数字だ。しかも不通区間が含まれる田川後藤寺~夜明間に限れば、その数字は299まで下がる。ちなみに主力路線の鹿児島線(門司港~鹿児島)は34,432、小倉~博多間に限れば、82,866。

 九州北部豪雨による被災個所(橋梁損傷やトンネルへの土砂流入など)は53か所にも上るといい、JR九州社長は「わが社単独での復旧は困難だ」と述べたと毎日新聞などが報じている。県や沿線自治体の支援がなければ、不通区間の廃線もあり得ることを示唆したと受け止めてよいだろう。

 2005年9月の台風で複数の橋梁が落ちた宮崎県の高千穂鉄道は、復旧費用を同社も自治体も負担できず、そのまま3年後には全線が廃止になった。1988年、地元の熱意により第三セクター化によって生き延びた鉄路のはずだったが、こんなにもあっさり廃線になるのかと少し驚いた記憶がある。福岡都市圏を走る鉄道でも、西鉄宮地岳線の新宮~津屋崎間が2007年、これまた大きな反対運動もなく廃線になった。もちろん、両線とも関係者にとっては苦悩の末の決断だったのだろうが、いくら苦心惨憺して出来上がった鉄道でも、沿線が見放せば、いとも簡単に消え去ってしまうことを痛感する。

 北九州市に住んでいた頃、田川方面に行くため何度も日田彦山線を利用したが、志井公園(北九州市小倉南区)を過ぎると、途端に100万都市(当時)らしからぬ田園風景が広がり、心和んだものだ。ローカル線はどこもそうだが、乗客は高校生が多数を占めていた。下の写真は日田彦山線の名物の一つ、福岡県東峰村のめがね橋を渡る列車で、2007年秋にたまたま撮影した。私は鉄道ファンではないが、周囲にはそれらしき人物が結構おり、彼らに言わせると、日田彦山線は絶対に失ってはならない貴重な鉄路の一つらしい。もっとも、失ってよい路線自体が一つもないらしいが。

 JR九州社長の言い分は、沿線自治体に対する恫喝のようにも思えるが、ローカル線存続の責任を鉄道会社だけに背負わせてよいわけでは恐らくないだろう。JR九州と沿線自治体の話し合いがどうなるのか、部外者ながら注視してゆきたいと思う。


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白昼暴れる幽霊

 福岡市西区北崎に伝わるという幽霊話を最近、『伝説の糸島』(鷹野斜風、糸島新聞社、1933)で読み、笑ってしまった。恨みをのんで死んだ老婆が凶悪な幽霊となり、住民らに復讐するという話。一見、笑える要素はないようだが、老婆の幽霊が出てくるのは、なぜか白昼で、しかも復讐と言っても誰かを取り殺すわけではなく、ひたすら大暴れするだけなのだ。博多の怪談に出てくる幽霊もドスドス歩いたり、博多弁を喋ったりして、いまいち怖さに欠けるらしいが、北崎の幽霊にも通じるところがある。

 老婆は生前、邪険な性格で家人にも嫌われ、病に倒れた時も親身には看病してもらえないまま息を引き取った(餓死させられたという説もあるらしく、この話ではここが一番怖い)。家人や近隣住民は悲しむどころか、かえって喜んだというが、成仏できなかった老婆は化けて出て、家人や住民を苦しめ始めた。『伝説の糸島』には、幽霊の暴れっぷりが以下のように記されている。

 此の婆は奇抜にも臨終其の儘少しも幽霊化せぬ物凄い形相で、少し日下りの白昼から「恨めしや」ともいはず、両手を下げずに現はれて、阿修羅王の荒るゝが如しと形容されるやうに乱暴を働き手当たり次第に投打をする、人を追捲くる、夫れは夫れは非常の狂態を演ずるので、家人が泣叫んで逃げ匿くれると、幽霊は家から飛出して近隣の家に乱入して狼藉を極むると云ふ一寸一風変わった幽霊であった。

 一寸一風どころか、相当変わった幽霊で、生きた人間の振るまいとしか思えない。困り果てた住民たちは大がかりな施餓鬼を行い、老婆に成仏してもらおうとしたが、幽霊は、多数の僧侶が読経している最中に「憤怒の形相」で乱入し、例によって大暴れ。僧侶たちは腰を抜かしてしまったという。話が面白いのはここまでで、消化不良の結末を迎える。住民たちは最後の策として某高僧に怨霊退散を依頼、この高僧が「或る法力」を持って老婆を八万地獄のどん底に落とし、さすがの老婆もその後は姿を現さなかったというのだ。高僧が何をしたかは具体的には何も書かれておらず、また、「一ツ愚衲(わし)が懲して遣ろう」と請け合ったり、悲惨な死に方をした老婆を成仏させるでもなく地獄に叩き落としたりと、あまり高僧らしからぬ振る舞いが印象的だ。

 この話がいつの時代のものかは不明だが、冒頭には「古老の話に依ると、餘り古い事ではないらしいが」とある。『伝説の糸島』の出版年(1933年)を考えれば、例えば、幕末や明治初期など、意外に新しい時代に生まれた可能性もあるのだろうか。
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