2017ホークス優勝パレード

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 福岡ソフトバンクホークス2年ぶりの日本一を祝うパレードが26日、福岡市のメインストリート明治通りで行われた。博多区の呉服町交差点から中央区の平和台までの2・3㌔を、5台のオープンカーと2台のバスに分乗した選手、監督、コーチらは約30分かけて行進、沿道に詰め掛けた大勢のファンの声援に応えていた。この日の人出は、一昨年をさらに1万人上回る36万人だったという。

 この5年間で3度目、ホークス福岡移転以降では6度目の日本一パレード。西鉄、太平洋クラブ、クラウンライターライオンズが平和台球場で苦闘を続けていた時代、さらにはそのライオンズが1978年に所沢に去り、福岡からプロ球団が失われていた時代を思えば、まさに夢のような話だと思う。中央区城内にあった平和台球場でライオンズに声援を送っていたあの頃、正直なところ「優勝」や「日本一」を想像するのは難しかった。それでも地元に球団があるだけで、どれだけ幸せだったことか、ライオンズを失って初めて思い知らされたが。

 昔話を続けると、ライオンズは所沢移転後、オーナーに就任した堤義明氏が福岡色一掃を図り、この一環として阪神・田渕幸一、古沢憲司と、竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴、竹田和史の大型トレードが行われ、3割打者・基満男も大洋に放出された。個性の強いライオンズ残党組が移籍したことで、このセ・リーグ2球団の人気は福岡で急上昇した印象がある。中でも阪神は竹之内、真弓、若菜の3選手が主力として活躍し、しかも一時期は中西太が監督まで務めていたのだから、他人とは思えない存在となった。

 ホークスの福岡移転までは、阪神側も長期ロード中には毎年、平和台でホームゲームを開催し、福岡での人気に応えていた。私も何度か行ったが、生まれて初めてセ・リーグの試合を生観戦しての印象は「セ・リーグはあか抜けている」だった。これは選手というより、観客のマナーに対する印象で、野次は飛び交っても一升瓶や空き缶は飛び交っていなかったのだ。当たり前だと言われるかもしれないが、ライオンズの福岡末期、平和台には一升瓶をあおりながら野次を飛ばし、その空き瓶をグランドに投げ込む人間が本当にいたのである。

 今となっては忘れられた歴史だが、ライオンズが去って以降、福岡では球団誘致運動が地味に繰り広げられていたが、関係者が目指していたのはセ・リーグ球団の誘致だった。
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紅葉の秋月

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 福岡県朝倉市の秋月に23日、紅葉見物に行ってきた。福岡藩の支藩、秋月5万石が治めていた静かな城下町で、秋月城址は県下有数の紅葉の名所だ。祝日とあり、城址一帯は大勢の行楽客で混雑し、秋月に通じる細い一本道は渋滞が続いていた。ただ、この日の秋月の賑わいぶりを伝えたNHKニュースによると、例年に比べ、人出は2割程減っているという。今年7月、同じ朝倉市の杷木地区を九州北部豪雨が襲い、秋月も被害を受けたと勘違いしている人がいるためらしい。

 肝心の紅葉だが、全体的にきれいに色付いてはいたが、紅葉前に枯れ始めている木々も目立った。10月下旬に台風21号が接近、沿岸部にある福岡市街地では海水混じりの強風により、葉が落ちたり、変色したりしたため、今年の紅葉は今一つだと言われている。山間部にある秋月も同様の状況なのだろうか。

 紅葉見物のついでに、秋月のたたずまいには似合わぬ“もめ事”の種となった二つの建物も見てきた。一つは城址の一角にある秋月中学校。風格ある木造校舎は歴史的景観と見事に調和している。朝倉市はこの中学校を秋月小学校の敷地に移転させたうえで、2020年4月に小中一貫校を開校する計画を打ち出し、地元住民からは反発が出ていた。上記のように九州北部豪雨が同市に甚大な被害をもたらし、市側は「復旧・復興を優先する」との理由で開校を21年度以降に先送りしたが、計画自体を撤回したわけではなく、この校舎の行く末はまだ、不透明だ。

 もう一つは秋月博物館。老朽化した秋月郷土館に代わり、10月21日に開館したばかりの真新しい施設で、1,000平方㍍弱のコンパクトな展示スペースには、島原の乱の戦いの様子が生々しく描かれた「島原陣図屏風」のほか、横山大観、ピカソ、シャガールら国内外の有名画家の作品が並んでいる。この博物館に絡むもめ事とは、市側が館長に予定していた人物に論文盗用問題が持ち上がり、市議会などから反対の声が上がったことだ。市側が人事案を取り下げ、落着したが、結局、誰が館長に就任したかの報道はなく、館の公式サイト等にも記載はない。館長は誰なのだろうか。

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 秋月中学校の校舎。校舎の居心地まではわからないが、これだけ見事な建物を無にするのは非常にもったいない気がする。

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 秋月博物館の館内。藩政時代の展示は充実しているが、それ以外の時代は質量とも物足りない。入館料は大人320円と良心的だが。

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 城址に通じる橋の上から見た紅葉。ここが一番きれいだった。

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 秋月の町の入口に架かる目鏡橋。野鳥川の増水の度に橋が落ちていたことから、8代藩主・長舒(ながのぶ)が長崎から石工を招いて1810年(文化7)に完成させた。長舒は、黒田以前に秋月を治めていた高鍋秋月家から養子に来た人物で、父は高鍋藩の中でも名君とされる秋月種茂、種茂の弟はあの上杉鷹山。二人の薫陶を受けた長舒は、この血筋に恥じない正真正銘の名君だったようで、藩校・稽古館の拡充強化や、養蚕、和紙・葛作りなどの産業育成を図り、秋月藩中興の祖とうたわれている。
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くじゅう連山初冠雪

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 19日、大分県のくじゅうに紅葉見物に行ったところ、くじゅう連山の山々は早くも雪をかぶっており、思ってもいなかった雪景色を見ることができた。登山口に当たる九重町の長者原に昼食がてら立ち寄り、寒さに震えながらタデ原湿原を散策してきたが、うっすら雪化粧した三俣山(1,745㍍)の姿は圧巻だった。帰宅後に見たニュースによると、この日が初冠雪で、例年より5日早かったという。

 ところで、長者原で昼食に食べたのは、長者原ヘルスセンターのとり天定食(900円)だ。とり天とは文字通り鶏肉の天ぷらで、大分を代表する郷土料理の一つ。にんにく醤油などで下味を付けたうえで揚げ、ポン酢や黒酢などのタレで食べるのが一般的だ。長者原ヘルスセンターのとり天は二度揚げしているのが特徴で、そのため天ぷらと言うよりは唐揚げみたいな食感だが、くじゅうに遊びに行く目的の一つになっているぐらい、ここのとり天を気に入っている。

 くじゅう、熊本県阿蘇を貫く観光道路「やまなみハイウェイ」沿いには、このほかにも手頃な料金でうまい昼食を食べさせてくれる店が少なくなく、この道を通るのは本当に楽しみなのだが、凍結した道や雪道での運転に慣れていない我が家は、冬にくじゅう・阿蘇方面に行くのは自重している。恐らく今回が今年最後のくじゅうドライブになることだろう。寒さ本番を迎えるのはこれからだが、もう春が待ち遠しい。
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江田船山古墳の石棺保存施設

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 先日、熊本県和水町のトンカラリンに行ったついでに、すぐ近くにある国史跡、江田船山古墳を見学してきた。75文字の漢字が刻まれた「銀象嵌銘太刀」など92点もの国宝が出土した5世紀後半頃の前方後円墳で、歴史的価値はトンカラリンの比ではない。本来ならば、「ついでに」見学するような史跡ではない。付近には塚坊主、虚空蔵塚という二つの古墳もあり、一帯は史跡公園としてきれいに整備され、桜並木もあった。見学した日は雨の平日だったこともあって、散策しているのは私たち以外にいなかったが、好天の週末、中でも桜の季節には多くの人でにぎわっていることだろう。

 古墳の墳丘上には鉄製の扉があり、「史跡江田船山古墳 石棺保存施設入口」と記されていた。恐らく事前予約しなければ、入れないのだろうと思ったが、ドアに記された注意書きを読んでみると、自由に見学できるようでもある。試しにドアレバーを引いてみると、難なく扉が開き、照明のスイッチを入れると、ガラス窓の向こうに大きな石棺が見えた。あいにく窓ガラスは石棺側が水滴で曇っていたが、驚いたことにワイパーまで付いており、お陰でガラス越しながら結構鮮明な写真を撮ることができた。組合式家型石棺というタイプのものらしい。それにしても石棺保存施設といい、史跡公園整備といい、江田船山古墳は本当に大事にされている。教科書に出てくる程の貴重な存在なのだから、当然かもしれないが。

 自由に石棺が見学できる古墳と言えば、地元・福岡市にも西区周船寺の
丸隈山古墳があり、こちらは鉄柵越しに横穴石室や内部に置かれた石棺を見ることができる。そう言えば、江田船山古墳と丸隈山古墳は石棺(石室)発見の経緯も共通している。一人の男が夢のお告げで掘り当てたのだ。発掘の時期は、丸隈山古墳が江戸時代の1629年、江田船山古墳が1873年(明治6)。前述のように江田船山古墳から多くの副葬品が出土し、国宝の数々は国立博物館が所蔵している。

 江田船山古墳からほかに、石人(石製表飾)も出土し、史跡公園にはその巨大なレプリカが据えられ、笑顔で見学者を出迎えていた。
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トンカラリン再訪

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 熊本県和水町(旧・菊水町)に残る謎の遺構「トンカラリン」の資料を探していたところ、『熊本県大百科事典』(熊本日日新聞社、1982)のトンカラリンの項目に興味深い記述があった。排水路と考えられた時代の出版物であり、最初から「玉名郡菊水町瀬川字北原、長力にある水路遺構」と紹介されているのだが、これだけでなく以下の突っ込んだ記述があるのだ。

 「明治一六年(一八八三)生まれの古老の証言などで、施工者は地主だった斉木次三郎、石工は民田久八・牛馬親子、造成時期は明治二八年ごろで、宅地や耕地を水害から守るために造られた水路とわかった」

 3日更新の
「トンカラリンを再訪したい」でも書いたが、トンカラリンとは1974年に存在が公になった全長440㍍あまりのトンネル状遺構で、石組みのトンネルをはじめ、地割れでできた溝(地隙)、その溝に石蓋をかぶせた箇所などからなる。調査を行った熊本県教委は78年、いったんは「排水路」とする報告書をまとめたものの、その後、農業土木の専門家による再調査で排水路説は覆された。しかし、排水路説が定着していた時代、施工者の個人名や築造時期まで具体的に明示されていたとは意外だった。

 『熊本県大百科事典』で、トンカラリンの項目を執筆したのは地元・和水町の郷土史家。これだけ個別具体的な証言でありながら、排水路説が否定された今となっては誰一人気にかける様子はない。もちろん、長大なトンカラリンの全てを石工親子が築造したとは到底思えず、証言が全て真実だとは思えないが…。あれこれ考えても仕方がないので、取りあえず現地を見ておこうと思い、8日午後、急きょ思い立って20数年ぶりにトンカラリンに行ってきた。あいにくの悪天候で、地面はぬかるみ、しかも大半の場所が「危険」との理由で立ち入り禁止になっていたのは想定外だったが。昨年4月の熊本地震でトンカラリンは被災しなかったと聞いたが、和水町でも震度6弱の揺れが観測されており、トンネルの強度については不安が生じたのだろう。

 現地には、以前はなかった大きなパネルが設置され、排水路説が否定された経緯が詳しく説明されていた。図らずも悪天候の日に見学したため、排水路説が怪しいことは実際に遺構を見て納得がいった。地隙そのままの場所には所々水たまりができていたが、水が流れていく様子はまったくなかったのだ。ただ、耕作地の真下に当たる最上部の箇所には、斜面の下に石組みトンネルの小さな開口部があり、排水路の集水口にしか見えなかった(一番下の写真)。ここに限っては、水が流れていないことが逆に不思議だった。古老の証言が記憶違い、勘違いでないのならば、トンカラリンの遺構に手を加え、本当に排水路にしようという試みでもあったのではないかと想像を巡らした。

 排水路説が否定された現在、信仰遺跡だったのではないかという説が有力視され、トンネルをくぐる行為が「再生儀礼」を意味していると唱える研究者もいる。寺院などで行われている「胎内くぐり」の大掛かりなものという見立てだろう。胎内くぐりは経験したことがないため何とも言えないが、石組みトンネルや地隙に蓋をかせぶた箇所の見た目は、レジャー施設にある冒険コーナーによく似ていると思った。ここを自由にくぐることができれば、子供たちはきっと大喜びするだろう。帰路、住宅街の坂道を下りながら、トンカラリンの本質は、案外そんなところにあるのではないかとバカげたことを思った。
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博多千年煌夜

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 歴史ある博多の寺社をライトアップで彩る「博多千年煌夜」(博多ライトアップウォーク2017)に4日夜、行ってきた。日本シリーズ第6戦の行方をものすごく気にしながら。

 早くからライトアップウォークの前売り券を買い、楽しみにしていたのだが、11月1~5日の開催期間中、仕事等の都合で行ける日は4日しかなかった。日程が重なり気掛かりだった日本シリーズも、4日には決着がついているだろうと傲慢にも思っていたのだが、ベイスターズは想像以上に手強く、甘い目論見を簡単に打ち砕いてくれた。度胸も球威も制球力もある今永、濱口らの若手左腕たち、ロペス、筒香、宮崎らの長打力と勝負強さを兼ね備えた打撃陣…。正直なところ、9回裏、内川の起死回生の同点弾がなければ、ベイスターズの勢いに飲み込まれ、2年ぶりの日本一は危うかったのではないかと思う。

 ライトアップウォークについて書くはずが、つい日本シリーズの話になってしまったが、要するに見物を早々に切り上げ、自宅で一杯やりながらテレビにかじりついていたのだ。由緒ある寺社を巡っているのに、スマホで頻繁に試合経過をチェックしては、時折、悲鳴を上げる私に家族が呆れ、帰宅を早めてくれた。結局、13箇所の会場中、見学できたのは約半分の6箇所。一番のお目当てだった東長寺の赤い五重塔、承天寺の青く彩られた「洗濤庭(せんとうてい)」などはしっかり目に焼き付け、龍宮寺に伝わる「人魚の骨」も見学してきたが、見逃した所も多い。来年はもう少しきちんとスケジュール管理をしたうえで、夜の博多巡りを楽しもうと思う。

 せっかくだからライトアップウォークについても簡単に紹介しておくと、大陸への玄関口だった博多には、古い歴史を誇る大寺が意外に多く、これらが藩政時代、福岡・博多の防御ラインとして石堂川沿いに集められ、一帯は今なお歴史的景観を残している。これら博多の町並みの魅力を伝えようと、地元のまちづくり団体と行政とがタイアップして2006年に始めたのがこの催しだ。

 当初は東長寺や承天寺など御供所地区の一部の寺が参加していただけで、名称も「御供所ライトアップウォーク」だったと記憶しているが、回を重ねるに従って参加する寺社は冷泉、呉服町地区にも広がり、現在の名称となった。会期中の人出は10万人を超えるといい、特に人気が高い承天寺前には今年も長い行列が出来ていた。中央区のヤフオクドームではホークスが日本シリーズを戦い、夜の博多では古刹群が美しい照明で彩られる。秋の福岡はなかなか贅沢だ。
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トンカラリンを再訪したい

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 ずいぶん昔のことだが、熊本県和水町(当時は菊水町)にある謎の遺構トンカラリンを何かのついでに見学したことがある。当時は遺跡や遺構などにそれほど関心がなく、また、トンカラリンはこの頃、近世に造られた排水路跡だと考えられていたこともあり、ごく短時間、遺構の一部を眺めただけで、さっさと次の目的地に向かった。自宅からトンカラリンまでは九州自動車道を使えば、2時間あまり。さほど遠いわけではないが、その後は意外に再訪の機会がなく、あの時もう少し真面目に見学し、写真も撮影しておくべきだったと後悔している。(上の写真はウェブ素材集収録の資料写真)

 トンカラリンとは、全長440㍍あまりの巨大なトンネル状遺構。ただ、構造は一様ではなく、石組みのトンネルもあれば、地割れで出来た溝に石蓋をかぶせた箇所、溝のままの箇所もある。これだけの遺構の存在が公になったのは1974年のことで、この遺構がいったい何なのか、地元には文書記録はおろか、言い伝えさえ残されていなかった。唯一、伝わってきたのはトンカラリンという奇妙な名前だけだ。

 熊本県教委は1975年から77年にかけて緊急調査を行い、その結果は『菊池川流域文化財調査報告書』(1978)にまとめられているが、この中で、県文化財保護審議会委員の一人が近世の「谷の集・排水路」説を提唱し、これがいったんは県教委の公式見解ともなった。しかし、90年代に入って熊本県庁職員の一人が専門の農業土木の観点から個人的に調査を行ったところ、排水路と言いながら遺構の一部には水が流れた痕跡のないことなどが判明。排水路説は否定され、トンカラリンは再び謎の遺構に戻った、という経緯がある。

 ただ、前述の『菊池川流域文化財調査報告書』を読む限り、熊本県教委の調査担当者は排水路説に賛成していたわけでは全くない。当時有力だった信仰遺跡、排水路の2説について、調査結果をもとに今後、活発な議論が行われることを期待すると記しており、性急に結論を出す考えはなかったようだ。にもかかわらず、県文化財保護審議会委員の排水路説ばかりがクローズアップされたことは、「トンカラリンは、多くの歴史ファンに限りない夢と、歴史パズルの醍醐味を与えてくれた。そこにトンカラリン問題の本質があり」と評価していた調査担当者にとっては、むしろ残念な事態だったかもしれない。

 トンカラリンが公式確認された直後、謎の巨大遺構として考古学ファンの関心をかき立て、大ブームを呼んだが、排水路説が定着すると、このブームも一気に沈静化したと聞く。江戸時代の水路では大方の人にとっては面白みのない代物だったのだろう。排水路説が否定され、信仰遺跡説が有力となって以降、トンカラリンの人気は再燃しているという。私もようやく、この遺構について人並みに興味を持ち始め、築造者は何者なのだろうか、文献資料や言い伝えが全く残されていないことを考えれば、古代に築造されたものだろうか、などとあれこれ考えている。取りあえず現地を再訪し、今度はきちんと遺構を見たうえで、もう一度トンカラリンについて取り上げたいと思う。
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